親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん吉田松陰
____________
「今日のおとづれ」だから、処刑当日とか、処刑前日に書かれた『留魂録』に書いてあるかと思ったら、違う。
処刑の一週間前の11月20日に、父親に宛てた手紙にあるそうです。
親不孝な私をお許しください、父上、、、 という松陰の申し訳なさが伝わる。
子がいなかった松陰ですが、「親思う心にまさる親心」をしっかり分かっている。
共感力が高かったんでしょうね、松陰は。
遠藤周作『生き上手 死に上手』からいい歌をば取り急ぎ。
・誰が家に名月清風なからん 『碧巌録』
…どんな人の心にも美しいところはある。
・心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり 一遍
・死に支度いたせいたせと桜かな 一茶
・いざさらば死にげいこせん花の雨 一茶
返らじと かねて思へば 梓弓亡き数に入る 名をぞとどむる
楠木正行
幕末に激流行りした句。
正行は楠木正成の息子。
6万の敵に、3千の寡兵で、立ち向かった。
死ぬ覚悟で。
死ぬ直前に、如意輪寺の壁に、鏃(やじり、矢の先)で掘った。
その現物がまだ残っている。
いつか見てみたい。
以下の本で知りました。
北影さんの本は何冊か読んできたけど、この本はアカデミックで、いい。
小島祐馬は京大の東洋学教授。人格識見ともに秀で、吉田茂から戦後に文部大臣になることを招聘された。老父の介護と畑作をすることを理由に断った。
同僚の河上肇(マルクス経済学者、共産党、のち転向)と、思想は違えども、友情を結んでいた。
小島祐馬が大学を退任して老父が待つ実家土佐に帰る時、河上が読んだ漢詩がいい。
丈夫苟志学 指心誓蒼穹惟要一無愧 何必問窮通丈夫苟しくも学に志さば 心を指して蒼穹に誓わん惟だ要(もと)む一つも愧ずること無きを 何ぞ必ずしも窮通を問わん
※ 窮通は、栄枯盛衰。困窮と栄達。
____________
いいね。今の私の心境にピッタリ。
自分の心を見て、「一つも、俯仰天地に愧じない」。
そう思うのが大事であり、人生はそれ以上でもそれ以下でもない。
いざさらば死に稽古せん花の雨
小林一茶
〜〜〜
いいね、死に稽古。死に支度、を詠んだ歌も一茶にある。
生きることは死に稽古。死に支度。
いつでも死ねるように、一瞬一瞬、誠実に生きねば。
かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂
吉田松陰が、下田でアメリカの黒船に乗ろうと思って失敗して、捕縛されて、江戸に護送される途中で、泉岳寺の赤穂浪士墓の前で、詠んだ歌。
檻に入れられて護送されながら、「あ、ここが泉岳寺だ」って分かったんだろうか。
それはともかく、この歌、「結果の正しさ」よりも、「行為の美しさ」に振り切った松陰の精神を表している。
黒船に乗ろうとする暴挙は、暴挙であって、失敗すれば自分の首が飛ぶであろうことは、知りながら、、、
それでも、松陰の好奇心は、「アメリカを見たい」というやむにやまれぬ大和魂は、消えなかった。
「結果の正しさ」よりも「行為の美しさ」を優先すると、勇気が出ます。
この松陰の下田の黒船乗りの挑戦は、その勇気が空回りして、蛮勇になっちゃった、悪い例。
____________
結果の正しさを考えずに、行為の美しさを考えた勇気ある行動をして、それが結果的には成功した例、というのは、ガンディの「塩の行進」がありますね。
茨木のり子の有名な「自分の感受性くらい」を私なりにコンパクトにしたのが以下です:
ぱさぱさ乾きゆく心を 人のせいにするな
水やりを怠ったのは私
気難しくなりしを 友のせいにするな
しなやかならざりしは私
苛立つのを 親のせいにするな
下手くそだったのは私
初心忘るるを 暮しのせいにするな
そもそもがひ弱な志
ダメなこと一切を 時代のせいにするな
それは光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい 自分で守れ
ばかものよ
____________
他責するな、自責せよ、という詩です。
汝の道を歩め、そして人々をして語るに任せよ
ダンテ
____________
斎藤茂吉の
かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
を思い出した。
____________
勝海舟の
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張
とも同じですね。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にある、
イツモシヅカニワラッテイル
が奥深い。
いつも静かに笑っている。
単に「笑っている」だけではない。
「いつも」笑っている。
何があっても、笑っている。雨の日も、雪の日も、疲れていても、辛いときも、悲惨なときも、笑っている。
そして、単に笑っているのではない。
いつも、「静かに」笑っている。
大口を開けて豪快に笑うのではなく。
はにかんで照れくさそうに笑うのではなく。
下品にウヒャヒャと笑うのではなく。
皮肉ぶって上から目線で嗤うのではなく。
水に落ちた犬を嘲笑うのではなく。
ギャハハと享楽的に嘲笑うのではなく。
いつも、静かに、笑っている。
すごい。
普通、できない。
いつも、静かに、笑っている ーーーこれは、すっごく、難しい。
よほどの精神修練がないと、
いつも、静かに、笑っている
ことはできない。
よほど、哀しみを胸中に湛えていないと、
いつも、静かに、笑っている
ことはできない。
よほど、運命を受け入れる、たくましさを備えていないと、
いつも、静かに、笑っている
ことはできない。
よほど、自分の生き方に自信がないと、
いつも、静かに、笑っている
ことはできない。
よほど、達観した、度量の大きさがないと、
いつも、静かに、笑っている
ことはできない。
____________
いつも、静かに、笑っている。
そういう男に、私はなりたい。
後記:
Rejoyce always! (1 Thessalonians 5:16)
宮沢賢治は、自分を「修羅」と認めていた。
自分の中に蠢く「修羅」があることを強く自覚していた。
強い煩悩、我欲、功名心、放縦に逃げたい心。
社会への怒り。自分への腹立ち。他人への憤り
そんな様々な修羅と、絶えず、格闘していた。
そんな「春と修羅」って詩があります。
春と修羅
(mental sketch modified)
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素エーテルを吸ひ
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
(気層いよいよすみわたり
ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
____________
聖人君子みたいな、安全牌の男性のような、童貞で死んだと言われる宮沢賢治に、
ひとりの修羅
が、牙を向いて潜んでいた。
屹立する奔馬が、熱(いき)り立っていた。
どんな人間にも修羅がある。
その修羅をどう飼い馴らすか。
それが人生なのかもしれぬ。
みずのたたえのふかければ
おもてにさわぐなみもなし
ひともなげきのふかければ
いよよ、おもてぞしずかなる
高橋元吉
____________
素晴らしい詩ですね。
今まで見たことあったかもですが、これが高橋元吉のものとは明確に認識できていなかったかも。
____________
この高橋元吉の詩が、吉川英治『宮本武蔵』の最後の、以下に影響していそう。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。
ChatGPTに訊いても両者の影響関係は不明。
____________
ひともなげきのふかければ
いよよ、おもてぞしずかなる
いよよ、おもてぞしずかなる
は、白隠禅師(良寛もしばし引用)の
君看よ 双眸の色語らざれば愁いなきに似たり
にそっくりですね。
____________
大原幽学を研究していたら高橋元吉に出会って、取り急ぎ。
見る人の 心々に まかせおきて
高根にすめる 秋の夜の月
新渡戸稲造が平生、愛吟していた。
いま私が読んでいる『修養』に出てきた。
私が新渡戸の本とかを読んでいたから親しんでいて、なんだかよく聞いたことあると思っていたけど、読み人知らず?
ググっても有名な作者のことは書かれていない。
見る人の 心々に 任せおき
高嶺に澄める 秋の夜の月
って覚えたらいいかも。
福沢諭吉に「痩我慢の説」をぶつけられて「行蔵は我に存す」と受け流した勝海舟のよう。
私が愛吟する
白鶴高く飛びて群れを追わず
に似ている。ググったら、この句はホンダの経営者・藤沢武夫の愛唱句らしい。
新渡戸の『修養』は、以下の本で激賞されていたので、15年ぶりに再読している。