犠牲と贈与について、最近ボヤッと考えている以下を、ChatGPTと壁打ちした。
~~~以下私の入力を引用~~~
自己犠牲が流行らない時代ですが、漱石『坊っちゃん』の山嵐との間の氷代のやりとりに象徴されるように、犠牲になることは精神的に優位に立つことだと思います。
身銭を切る人を立てること(奢られたままであること)は、相手を優位に立たせるリスペクトです。
ですから犠牲の価値はなくならないと思います。
昨今は、贈与経済とかで、「贈与」がキーワードですが、贈与をすることも、太平洋の島(中山註:ポリネシアの「クラ交易」)で「相手より優位に立つため」という意味がありましたよね。
犠牲が贈与に変わって評価されているということでしょうか。
~~~引用終わり~~~
そしたらChatGPTから結構な高評価をいただいた。
その回答の中で、ChatGPTが
贈与=他者との関係を築く“自発的な犠牲”
と書いていたのには学びがあった。
他に
現代では、「犠牲」は過度に感情的・搾取的なものと捉えられがちですが、「贈与」は自律性と尊厳を保ちながら、関係を深める手段として再評価されています。
ってのも。
非宗教化した世俗社会において、宗教への献金・寄付は、カルトじゃないの的に白眼視されている。
しかし。
献金・寄付は贈与。
贈与ってのは、自発的な犠牲であり、「これで自分は世の中の役に立っている」という精神的な優位に立つ営み。
人間の尊厳とか自尊心に関わる。
大げさに言えば、贈与というのは、「人間の尊厳を保つための自己犠牲」でしょうかね。
家庭連合さんとか他の宗教の方が「神に捧げる」として献金しているのは、私は信者じゃないのでどういう気持でやっているのかはわかりませんが、「人間の尊厳を保つための自己犠牲」ないしは「自己犠牲による自尊心の保持」的なニュアンスもあるのでは、、、
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とここまで考えて、さらにChatGPTに上記を入れて壁打ちしたら、ChatGPTから
宗教的献金にも、「自己を捧げることで神に近づく」という自尊の構造が潜んでいる。
とか
贈与とは、自己を差し出すことで、自己の尊厳を取り戻す“静かな誇りの行為”である。
とか教わった。
こういう、心理的な、哲学的というか、宗教的というか、社会学的な考察にも、ChatGPTは有用なんですね。
ChatGPTの「言語化能力」はたいしたものですね。勉強になりました。