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川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

コンプラを変え,会社を変え,日本を変える!

消極的なカルチャーにも古典が効く

2025年05月04日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

消極的なカルチャーにも古典が効く
 
①誤った正当化の他に、不祥事の原因が、②消極的で自己中心的なカルチャーでした。モノが言えない風土です。

このモノが言えない風土の原因は、勇気のなさです。この勇気も、美意識から導かれます。

勇気が出ないのは、美意識よりも保身を優先しているからです。

不正に対してモノを言うという勇気は、「このような不正を見逃してはいけない」という正義感であり、道徳、美学ないし美意識に基づきます。

勇気が出ないのは、美意識を感じなかったり、美意識を犠牲にしたりして、保身を図っているからです。

「これを言ったら干されて出世できなくなる…」という保身が勇気を挫きます。勇気とは世間的に後ろ指を差される覚悟であり、美学です。

このように、美意識に基づく勇気があれば、消極的なカルチャーも改善します。

美意識や道徳が、不正原因②の消極的なカルチャーへの対策となります。

そのヒントを古典から得るのが本書の役割です。
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古典から受け取る積極精神  -「そこまでやるかをどこまでやるか」

2025年05月03日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

道徳には2つある

道徳には2つあります。良いことをする積極的道徳と悪いことをしない消極的道徳です。

例えば、タバコの吸殻をポイ捨てしないのは消極的道徳で、巷に落ちているタバコの吸い殻を拾うのが積極的道徳です。

道徳は「公徳心」つまり公衆道徳を守る心と同じです。

人間には3種類いる
 
道徳を2つに分けると、人間には3種類いることが分かります。

1️⃣ 積極的道徳も消極的道徳もない人

 タバコの吸い殻を拾わず、ポイ捨てをする悪い人です。人口の1割程度はいそうです。

2️⃣ 積極的道徳はないが、消極的道徳はある人

 タバコの吸い殻を拾わないが、ポイ捨てはしない人です。人口の9割です。

3️⃣ 積極的道徳も消極的道徳もある人

 タバコの吸い殻を拾うし、ポイ捨てもしない人です。人口の1割弱でしょうか。

____________

私も、積極的道徳のある③の人間になりたいと思い、車のトランクにはゴミ拾い用のマイトングとゴミ袋を常備しています。

あまりゴミ拾いできていないので、修行を続けます。

____________

仕事でも、だいたい人間には3種類いいます。

1️⃣「そこしか」やらない人
2️⃣「そこそこ」やる人
3️⃣「そこまで」やる人

これは上記の3種類の人間にだいたい対応しています。

____________

2:6:2の法則

「2:6:2の法則」があります。10人いたら

1️⃣ 言われてもやらない「不燃性」の人:2割
2️⃣ 言われたらやる「可燃性」の人:6割
3️⃣ 言われなくてもやる「自然性」の人:2割

の3種に分かれるという考えです。

この3種も、ほぼ「そこまで」「そこそこ」「そこしか」に対応しています。

「そこまでやるか」をどこまでやるか

古典から学ぶことは、この3種類の人間の一番上等な3️⃣の人間になろうとすることです。

言われなくても「そこまで」やる、積極的道徳を身につけることです。

それが佐藤一斎が言う「古今第一等の人物」であり、西郷隆盛が言う「聖賢」です。

古今東西全人類1000億人の中の一番を目指せということです。志を高く持つというのはそういうことです。

論語では:

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり

がこの志の高さを表しています。

人の道を達成したら、もう死んでもいいという覚悟です。

死ぬまで、常に、謙虚に向上心を持って「人の道」を追求し続けるという求道的な姿勢です。

常に容赦なく(Relentless)完全を目指し続けるというトヨタのカイゼンのような姿勢です。

____________

渋沢栄一も、智・情・意(意志)を兼ね備えた「完(まった)き人」を目指せといいました。聖人ということです。

「そこまでやるかをどこまでやるか」という姿勢が、論語や渋沢栄一から受け取るスピリットです。
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キリスト教の方が儒教より積極的?

2025年05月03日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

博施済衆

渋沢栄一は、論語で一番好きな言葉が「博施済衆(はくしさいしゅう)」でした。

深谷の記念館に彼がこの4文字を大書した論語が陳列されています。

博く施し、衆を済(すく)う。

広く世のために人のために奉仕して、大衆を救う。

自利ではなく利他ということであり、自分が立派な人間になるだけの小乗的な考えにとどまらず、広く世の中を良くするという大乗的で積極的な考えです。

キリスト教より儒教が消極的?

この論語・儒教の積極性はあまり論じられません。

それどころか、クリスチャンから「儒教はキリスト教より消極的だ」と批判されることもあります。

これは論語と聖書の以下の比較からです。

 己の欲せざる所は人に施すことなかれ

この「~するな」という論語の訓戒が、聖書の

 己を愛するごとく汝の隣人を愛せ

という「~せよ」との積極的な訓戒より消極的だという批判です。

たしかに、これら引用句は、論語より聖書の方が積極的ですし、他に聖書の方が論語より積極的な部分は多いです。

キリスト教の方が儒教より世界に広く広まったのは、この積極性が評価されたからかもしれません。

しかし、渋沢栄一は儒教が消極的だとは捉えておらず、「博施済衆」の四文字に十分な積極性が宿っていると考えています。

我々も、博施済衆の四文字を拳拳服膺し、儒教の積極性・公益性を受け取るべきでしょう。 

なお、論語より聖書が積極的なのは、孔子が73歳で死に、イエスが33歳で死んだという40歳の年齢差も影響しています。

若きイエスは、十字架に架けられた最期の金曜日、エルサレムの教会のちゃぶ台をひっくり返すというやんちゃなことをしています(マタイ21:12)。

70代の孔子は「心の欲するところに従へども矩を越えず」と悟りに入っていましたから、儒教の消極性は、単に孔子が老成していただけとも考えられます。

論語の方が聖書より「現実的」と言われるのも、世故に長けて老熟した孔子が現実を熟知していたからです。

聖書の方が論語より「青臭い」だけに、新鮮味があり、広く広まったのかもしれません。
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成敗を気にするな  -『論語と算盤』のエッセンス

2025年05月03日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

成敗を気にするな

 『論語と算盤』で、最も興味深く、でも現代の我々に通じにくいのが、最後の10章「成敗と運命」です。

 事の成敗に超然たれ。
 成敗は身に残る糟粕(そうはく)・泡沫のごときもの

 要するに「成功か失敗かはどうでもいいんだ、気にするな、天が何とかしてくれる」という諦観です。

「人事を尽くして天命を待つ」に近く、いつ死ぬかも分からないという無常観に基づき、結果を顧みずにまず行動せよという積極的な考え方に昇華しています。

結果よりもプロセスでベストを目指せということです。

「結果の正しさ」よりも眼の前の「行動の美しさ」を優先しろということです。

利口になりすぎると「結果の正しさ」ばかりを理屈で考えてしまいます。

利口にならずに愚直になって、シンプルに「行動の美しさ」を求めよう、ということです。

カッコつけようとしないで、カッコいいことをしろ、ということです。

____________

この「成敗に超然とする」というのは、世俗的な価値を下に見る禅や陽明学の境地に近いです。

禅や陽明学については後ほど詳しく説明します。
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渋沢栄一に至る陽明学の流れ

2025年04月29日 | 古典・漢籍
渋沢栄一に至る陽明学の流れ。

こんなパワポを写真付きで作っちゃうのは世界で私だけかな、、

それだけ私は陽明学が好きなんだな、、、
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天爵と人爵

2025年04月08日 | 古典・漢籍
50歳になった。半年前ですが。50になると、天爵を考える。

孟子で教わった、天爵。たぶん、高校時代の漢文で教わった。

____________

孟子曰く、天爵なるもの有り、人爵なるもの有り。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、これ天爵なり。公卿大夫はこれ人爵なり。

いにしえの人はその天爵を修むれば、而して人爵これに従えり。
今の人はその天爵を修むれば、以て人爵を要(もと)む。

既に人爵を得てその天爵を棄つれば、すなわち惑いの甚だしきものなり。ついにまた必ず亡からんのみ。

____________

この、とてもいい、伊藤仁斎の注釈:

天爵無くして人爵至るは、義にあらざるなり。これを受くべからず。
天爵有りて人爵これに従うは、義なり。まさにこれを受けるべきなり。
天爵有りて人爵至らざるは、命なり。これに安んずるのみなり。
これ、義・命の弁なり。


____________

西郷隆盛の「人を相手にせず、天を相手にせよ」というのも、

 人爵を求めず、天爵を求めよ

ってこと。西郷もこの孟子の一節を愛吟していたはずだ。
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不易流行

2025年04月04日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

不易流行

 「不易流行」と言われます。「不易」は「易(か)わらず」と読み、古今東西変わらぬ真理のことです。普遍的な価値です。カントやプラトンに由来する真・善・美です。

 一方、 「流行」は、時代の流れに応じて柔軟に変わる価値観です。インターネットの時代、SNSの時代、VUCAの時代、生き残るためには変わることが必要です。最も強い人は最も変化に適応できる人です。

____________

 古典を学ぶことは、「不易」を学ぶことです。それにより、不易と流行のバランスを取ることです。

 特に、戦後にアメリカ的価値観が入り、グローバル化が進む現代において、東洋的な古典から「不易」を学ぶ姿勢は廃れています。代表的な東洋の古典である『論語』を読んだことがある日本人は100人に1人もいません。

 皆さんにとって「不易」とは何でしょうか。私にとっては陽明学です。西洋の古典でも宗教でもいいですが、胸を張って「不易」と言えるものを持つと、自信になります。

____________

 祖先を顧みない者は、子孫を思うこともない

と保守の総帥エドマンド・バークは言います。

 時代を超えた長い時間軸で考えるからこそ、自己中心的で刹那的にならず、世のため人のために利他的になることができます。
 
 1本の木を切る際も「7世代先のことを考える」アメリカのインディアンがいました。今流行りのサステイナブルも7世代先のことを考えるということです。それが不易です。

 時代の篩にかけられて来た古典を自家薬籠中のものとする。これは古今の先賢が行ってきたことです。まずは好きな名句を暗誦するのがいいでしょう。
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得意淡然 失意泰然

2025年04月04日 | 古典・漢籍
安岡正篤が有名にした、

得意淡然
失意泰然

子どもの頃から目にしておけば、行く行くはどこかで役立つだろう。

と思って短冊に書いて、自宅リビングに飾っておきます。
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古典を読む価値 ー悠々たる天壌と遼々たる古今

2025年04月02日 | 古典・漢籍
古典から学ぶ経営、みたいな本を書いている。

古典を学ぶことの価値を端的に言おうとしている。

真善美が学べる、特に美しさが、とか書こうとしている。

その中でひらめいたのが、無窮の叡智へのリスペクト。
無窮の宇宙の、悠々たる天壌の、偉大な精神へのリスペクト。

そこで思い出したフレーズが藤村操の「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今」。巌頭之感の冒頭。

悠々たる天壌と遼々たる古今に思いを致し、己の卑小さを知り、謙虚になる。
無窮の知の広がりを知り、さらに知的好奇心と向上心をたくましくする。

その「彼我の圧倒的な違い」、つまり過去の叡智と現在の自分との桁違いの違いを感じることに、古典の価値がある。
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『弟子』 中島敦

2025年04月01日 | 古典・漢籍
論語の本をたくさん読んでいると、引用回数がかなり多いのが、この中島敦『弟子』。

井上靖の力作『孔子』とかが引用されることはほとんどないけど。

『弟子』では、孔子と、その高弟・子路の交情を描く。

私が好きな「万鐘我において何をか加えん」(金銀財宝は私の価値を何ら高めない)も、この本から。

孔子とかの人間像を鮮やかに描いている、感動的な短編なので、論語の入門書として、実はとてもおすすめなのかも。

 
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古今ニ通ジテ謬ラズ、中外ニ施シテ悖ラズ

2025年03月25日 | 古典・漢籍
インテグリティ研究会の方に教わった。

教育勅語の「古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、中外ニ施シテ悖ラズ」がいい。

ウィキ訳:

この道は古今を貫いて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。

____________

これを見て思い出したのが、アンガーマネジメント協会で教わる怒り方。どうしても怒った方がいいときは、怒っていい。怒り方が問題。

いい怒り方は、「自分にとっても、相手にとっても、長期的に見て、健全(healthy)か」です。

永久に、長期的に、という視点。

短期的・地域限定的ではなく、永久に、長期的に、古今東西に通用する、ってのはいい基準かもですね。
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信頼は「しない」から生まれる

2025年03月24日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

信頼は「しない」から生まれる
 
やせ我慢というのは、欲望に自ら歯止めを効かせるということです。自制心を働かせるということです。人間の信頼は、この自制心から生まれます。孟子に

為さざるあるなり 而る後もって為すあるなり
 
という言葉があります。「まず『やらない』がある。その後に『やる』がある」が直訳です。

皆さんが一番頼りにする人をイメージしてください。なぜその人を信頼するのでしょうか。

その人がお金を稼ぐから、英語ができるから、仕事ができるから。そうではないと思います。人間の信頼は、「何かをできる」という「する」から生まれるのではありません。

我々が人を信じるのは、あの人ならこんなことはしない、ネコババはしない、ウソはつかない、という「しない」から生まれます。

人間の信頼は、「する」「できる」という能力・スキル・知性に対してではなく、「しない」「やらない」という品性に対して与えられます。

「何を言うかが知性、何を言わぬかが品性」です。品性とは自制心です。

自制心とはやせ我慢であり、自らに課す「しない力」です。

「私はそれをしない」というやせ我慢=品性が信頼を生みます。
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「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の武道的解釈

2025年03月23日 | 古典・漢籍
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。


この論語の文句がとてもインテグリティ的。これは先日書きました。

こちら(過去記事)

その続き。この句は、「武道的」ともいえる。

ちなみにこの句の訳が、五十沢二郎さんによれば

真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない。 

ってブッ飛んだ訳になる。

 

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」は、反対解釈して、「道」にはゴールはない、永遠に道は続く。だから絶対に満足してはいけない、って意味に解釈している。

だから「道」はとてもインテグリティ的。

____________

スポーツと武道との違いで考えるとわかりやすい。

スポーツでは勝ったら喜んでよろしい。
武道では勝っても喜んではならない。

柔剣道で、全国大会とかの決勝あたりで勝ってガッツポーズして、勝利を取り消された例とかある(2012年全日本剣道大会の準決勝?)。

私も空手の黒帯を締めて極真指導員の末席を怪我しているため、「勝敗を度外視する」呼吸は身につけているつもり。

空手の試合では、試合時間終了直後に、「判定!」の号令とともに、主審+四隅にいる副審が旗を上げる。

その際、私は正面のみを見つめ、主審や副審が上げる「旗(の色、自分か相手か)を見ない」ことを美学としている。

試合では、日々の稽古の成果が出ているにすぎない。この試合の勝敗は単なる私の空手修行の過程にすぎず、勝とうが負けようが私の空手修行はずっと死ぬまで続く。

なのに自分がたかが一試合でキョロキョロして旗の上げ下げを観るのはみっともない、という痩せ我慢からです。

私の空手道における「道」において、審判員が旗を上げるか上げないかは関係ない、という強がりからです。

空手道における修行において、「道を聞く」(道を知る、目標を達成する)ということはあり得ない。永遠に果てしない道を歩み続ける。それが武道であり空手道。

こういうふうに、私の空手道、武道修行と、インテグリティにはつながりがあります。

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食人之食者死人之事

2025年03月23日 | 古典・漢籍
食人之食者死人之事 
(人の食を食む者は、人の事に死す)

人の禄を食むものは、その人のために死す。
主君に忠誠を尽くすってこと。

榎本武揚が、戊辰戦争で非道に死んだ部下たちのために書いた碑。


以下の本で知りました。


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1,000億人で1番

2025年03月22日 | 古典・漢籍
最近、よく、「1,000億人で1番」を意識しています。

筋トレのときとか。

佐藤一斎が言志四録で「世間第一等なんか小さい、古今第一等を目指せ」って言っている。

世間第一等の人物とならんと欲するは、其の志小ならず。余は則ち以て猶お小なりと為す。(中略)
志ある者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし。

30年前からこの文句が好きで、古今第一等を目指してきた。全然届いてないけど。

「古今第一等」って、定性的で抽象的。定量的に考えると「1,000億人の中で1番」です。古今東西の人類(ホモ・サピエンス、最古は20万年前)って、累計で約1,000億人いるから。

だから最近私は、筋トレするときも、

  • この30秒で、1000億人で1番、筋トレの効果を上げてやる
  • この30秒、1000億人で1番、美しいランニングフォームで走る
  • この30秒の腹筋で、1000億人で1番、自分をいじめてやる

って思って筋トレしています。ちなみに、なんで30秒ばかりかというと、私のやっているHIITトレーニングが30秒インターバルなので。

今日も、仕事、家庭、交流、頑張った。1000億人で1番頑張ったと言えるかどうか。

明日も、1000億人で1番、充実した一日を送りたい。

 
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