私が、30年くらい古典・漢籍を読んで学んだのは、東洋的諦観。
その「東洋的諦観」を、執筆しながら、ようやくうまく言語化できたかな、、、
読者諸賢の玉斧を乞う。
【執筆原稿から抜粋】
結果を度外視
渋沢栄一は、『論語と算盤』で、「事の成敗に超然たれ 成敗は身に残る糟粕・泡沫のごときもの」と語りました。
「成功や失敗は何か行動したら残る滓にすぎない。そんな結果は度外視して行動せよ。」という考えです。
これは玉砕精神とまでは言えませんが、行動の美しさを重視する点でとても陽明学的です。
この後で渋沢は、「誠実に努力していれば、天が必ず運命を開拓してくれる」と説いています。長い目で見れば天が味方すると考えるのは、儒教でよく出てくる考えで、宗教的信念に近いです。
このように、短期的・世俗的な成功・不成功に拘泥せず、長期的に考えて精神的価値を重視するという人生観・哲学は、陽明学・儒教のみならず、キリスト教などの古今東西の古典に共通します。
世俗的・ヨコ的な価値観から見た結果の「正しさ」より、精神的・タテ的な価値観から見た行為の「美しさ」を重視しているのです。
これは個人の「信念」であり、「信仰」として信じる人が宗教者となります。
無常観
このような古典的な「天任せ」の人生観や運命論は、論語にもあります。
死生命有り 富貴天に在り
生死は天命で決まっており、長生きしようと思ってもいつ死ぬか分からないという無常観です。
だから、いつ死んでもいいように一瞬一瞬を燃焼させ、眼の前のやるべきことをしっかりやるという積極的な生き方につながります。
また「富貴、天に在り」とは、富や地位は天命や運で決まっており、個人の努力では如何ともしがたい部分があるという意味です。
そこから、あくせく銭カネを追い求めるのはやめようというタテ的・精神的な考えに繋がります。
このような、「天命に従う」という諦観を、結果・将来の正しさに拘泥するのではなく、現在の行為の美しさを追求せよという行動哲学に昇華するのが東洋哲学です。
人生の不可測性を受け入れるからこそ、今この瞬間に全力を尽くす行動力が湧くのです。
東洋の禅が西洋人に人気があり、マインドフルネスとして世界に広がっているのも、このような無常観・東洋的諦観が勇気を生むからです。
実際、「死生有命、富貴在天」とほぼ同じ言葉をデビッド・ベッカムは左脇腹の入れ墨にしています。
人間蛆虫論
この無常観をよく表すのが福沢諭吉の「人間蛆虫論」です。
人生は見る影もなき蛆虫に等しく、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのことなれば、我一身を始め万事万物を軽く視て熱心に過ぐることあるべからず。生まるるは即ち死するの約束にして、死も亦驚くに足らず。況んや浮世の貧富苦楽に於てをや。
こういう「人生なんて宇宙的観点から見たら蛆虫みたいなもんだ、だから浮世の貧富苦楽なんぞ驚くに足らない」という無常観が、ヨコ・世俗的価値観よりタテ・精神的価値観を重視することにつながります。
積極的なニヒリズム
ニーチェはこのような「人生が須臾で儚いものだからこそ意義あるものにする」という姿勢を「積極的ニヒリズム」と呼びました。
人生に意味はない。しかし、意味がないからこそ、自らの価値を創り出し、生に形を与える
――このニーチェの積極性は、心理学者フランクルが生み出した、いつ何時でも我々が示す態度に人生の価値があるという「態度価値」に影響しました。
ニーチェの積極的ニヒリズムからは、人生に過度に期待せず地道に信じる道を歩むという愚直な美しさが読み取れます。
楠木建教授はこれを「絶対悲観主義」と名付けていますが[i]、私は「健康的なペシミズム」と呼んでいます。執着・しがらみから自由になり、無意味の中に意義を見いだす力強い態度です。
[i] 『絶対悲観主義』楠木建、講談社(2022年)
日本の庶民文化にも、こうした健康的な無常観を表す教訓が残されています。
裸にて生まれて来たに何不足
起きて半畳 寝て一畳 天下取っても二合半
という道歌は、人間の欲望の限界と生の本質的な簡素さ・儚さを軽快・飄逸に表現しつつ、「たとえ失敗しても、そもそも多くを求めすぎるな」「期待に縛られずに、自由に挑戦せよ」という、前向きな生き方を促します。
このように、福澤の蛆虫論や道歌から「無常を引き受けて、それでもなお歩む」という積極的態度が受け取れます。
限りある生を軽やかに、しかし前向きに生きる
――これが、我々が古典・漢籍から学ぶ東洋的な積極的無常観であり、「失敗しても大したことない、期待せず挑戦しよう」という勇気とエネルギーにつながるのです。