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川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

コンプラを変え,会社を変え,日本を変える!

清く正しく美しく

2025年06月13日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

「正しいだけでは足りない。美しくあれ」

と私が思うのは、東西哲学を学んだからです。

西洋では、プラトンが美を善への入り口とし、アリストテレスやカントが徳の中に美を認めたように、道徳は単なる規範ではなく、人間の美的な完成のためのものです。

東洋でも、孔子の「礼」は社会に調和と敬意をもたらす美的な秩序です。孟子の「義」は利害を超えた高潔さであり、陽明学の「知行合一」を活かすと内なる真実が行動に美しく現れます。

「正しさ」は組織や制度の中での「やり方(How to do)」ですが、「美しさ」は人としての「あり方(How to be)」です。

ハイデガーが言うように、どう「やるべきか」は、どう「あるべきか」に従属します。

「こうありたい」という深層心理・人間像に従って、我々は「こうやりたい」と考えています。

清く正しく美しく。

これは小林一三が定めた宝塚歌劇団のモットーですが、不祥事対策にも大いに役立ちそうです。
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当今の毀誉、後世の毀誉

2025年06月10日 | 古典・漢籍
匿名の毀誉は懼(おそ)るるに足らず、
実名の毀誉は懼るべし。

当今の毀誉は懼(おそ)るるに足らず。 
後世の毀誉は懼るべし。

 後半は佐藤一斎


 
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今日の置き手紙

2025年05月28日 | 古典・漢籍
王陽明の

山中の賊は破りやすく、
心中の賊は破りがたし

を書きました。
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洛陽の紙価を高めん

2025年05月20日 | 古典・漢籍
昨日に脱稿した、私の8冊目の単著『シン・論語と算盤(題名まだ決まっていない)』は、

 洛陽の紙価を高めん

との気概で書きました。

売れまくって紙が足りなくなって紙の値段が上がった、というエピソードから。

今の時代、「紙が足りなくなる」ってことはありえないんですが。

____________

古典の価値を、鷲掴みにして、わかりやすく、解説したもの。

古典の価値 ーー端的には

  1. 長期的視点
  2. 積極性

の2つにまとめました。

1 長期的視点

近視眼的にならない。覇道ではなく王道。力より徳。暴力より誠実。その辺が古典が教えていることだろう。

2 積極性

歴史には勇気ある義人がたくさんいる。かっこいい英雄がたくさんいる。利他的に犠牲になった美しい人間がたくさんいる。その彼女彼らから学ぶのは、端的には積極性。

こんな骨太の、鷲掴みした感じで、古典の価値をザクッと書いた本です。

願わくば洛陽の紙価を高らしめん。
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『葉隠』のゼロイチ

2025年05月18日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

『葉隠』のゼロイチ

『葉隠』で私が好きな言葉は 

   大難大変に遭うて動転せぬというはまだしきなり。
   大変に遭うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり

です。

大変な災難に遭って、動転しないのではまだ甘い。大災難に遭ったら、欣喜雀躍して勇猛邁進せよ、という底抜けの根性論です。

 他に『葉隠』には、

  不仕合せのときに草臥(くたび)るる者は益(やく)に立たざるなり

つまり「不幸の時にくたびれているようでは役立たずだ」という厳しい文句もあります。

元気は出るものではなく出すもの。

ゼロからイチを絞り出す「ゼロイチ」の根性を『葉隠』から学べます。
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名作『塩狩峠』  -49年連続で「新潮文庫の100冊」

2025年05月18日 | 古典・漢籍
『塩狩峠』は美しい。

執筆原稿でも以下のように言及しています。

~~~以下引用~~~
ラクして儲けるのは世俗的には「正しい」。でもそれは精神的には美しくない。

一方、犠牲になる辛い道は、世俗的には正しくなくても、精神的には「美しい」。

「世俗的には間違いなことが美しい」と言うと違和感を感じるかもしれませんが、他者の犠牲になって死んだ三浦綾子の小説『塩狩峠』の主人公に美しさを感じる人は、今後も絶えないでしょう。
~~~引用終わり~~~

以下はChatGPTで調べました。

____________

『塩狩峠』は、1976年に始まった新潮文庫の「100冊」に、開始から毎年選ばれ続けている作品の一つです。

したがって、2025年現在まで、49年連続で選ばれていることになります。

他の開始時から毎年選ばれている日本人の作品としては、

  • 夏目漱石『こころ』
  • 太宰治『人間失格』
  • 井伏鱒二『黒い雨』
  • 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
があります。


 
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正しさは美しさに奉仕する

2025年05月18日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

正しさは美しさに奉仕する ──東西哲学が示す倫理の構造

「正しいだけでは足りない。美しくあれ
(Being right is not enough. Be righteous)」

 --この言葉は単なる感覚的比喩ではなく、東西の哲学が共有する倫理の本質です。
 
西洋では、プラトンが美を善への入り口とし、アリストテレスが徳の中に美を認め、カントが「美は道徳の象徴」と言ったように、善と美は深く結びついてきました。道徳は単なる規範ではなく、人間の美的・倫理的な完成のためのものです。

東洋でも、孔子の「礼」は単なる形式でなく、社会に調和と敬意をもたらす美的秩序です。孟子の「義」は利害を超えた高潔さであり、陽明学の「知行合一」を活かすと内なる真実が行動に美しく現れます。

「正しさ」は組織や制度の中での「やり方」ですが、「美しさ」は人としての「あり方」です。

ハイデガーの実存哲学が言うように、どう「やるべきか(How to do)」は、どう「あるべきか(How to be)」に従属します。

正しさは美しさに奉仕する ── ──これは人類の倫理の深層なのです。
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『永遠の武士道』 多久善郎

2025年05月16日 | 古典・漢籍
かつて読みましたが、渋沢栄一『論語と算盤』関連の執筆にあたり、再読。

■ 一分の間をゆるがせにすれば、つひに一日に至り、おわりには一生の懈怠ともなれり。

 山鹿語類巻第21『士道』(山鹿素行) 

 …徒然草188段の

 一時の懈怠、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

 にそっくり

■ 何事を言ひ付けられたる時も、そのまゝ畏まるべし。惣じて武士の前疑ひは臆病の本と知るべし。
 『葉隠』

物事を頼まれた時、すぐに「解りました。やりましょう」と言える人間と、「難しいですね」と、弱気な言葉しか発することのできない人間とでは、気力に於いて天と地程の落差がある。

■ 勝ちといふは、味方に勝つ事なり。
味方に勝つといふは、我に勝つ事なり。
我に勝つといふは、気を以て体に勝つ事なり。
  『葉隠』

■ 道は則ち高し、美し。約なり、近なり。
 吉田松陰『講孟餘話』

■ 一誠兆人を感ぜしむ
吉田松陰

以上、取り急ぎメモ。
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無常観は諸刃の剣

2025年05月11日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

無常観は諸刃の剣

この(過去記事)ように、世が儚いという無常観を前向きな積極性につなげるのが東洋的諦観です。

ただ、無常観は下手すると「どうせ死ぬんだから遊びまくろう」という厭世的・刹那的・退廃的・享楽的な価値観にもつながり得ます。

ですから諸刃の剣です。

____________

では、積極的な良い無常観と退廃的な悪い無常観を分けるものは何でしょうか。

私は、①向上心や②美意識だと思います。

ただ、向上心を持つのも美意識のうちでしょうから、要は美意識です。

その美意識を養う最も効果的な手段が、論語等の古典なのです。
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古典・漢籍から学ぶ「東洋的諦観」とは?

2025年05月11日 | 古典・漢籍
私が、30年くらい古典・漢籍を読んで学んだのは、東洋的諦観。

その「東洋的諦観」を、執筆しながら、ようやくうまく言語化できたかな、、、

読者諸賢の玉斧を乞う。

【執筆原稿から抜粋】

結果を度外視

渋沢栄一は、『論語と算盤』で、「事の成敗に超然たれ 成敗は身に残る糟粕・泡沫のごときもの」と語りました。

「成功や失敗は何か行動したら残る滓にすぎない。そんな結果は度外視して行動せよ。」という考えです。

これは玉砕精神とまでは言えませんが、行動の美しさを重視する点でとても陽明学的です。

この後で渋沢は、「誠実に努力していれば、天が必ず運命を開拓してくれる」と説いています。長い目で見れば天が味方すると考えるのは、儒教でよく出てくる考えで、宗教的信念に近いです。

このように、短期的・世俗的な成功・不成功に拘泥せず、長期的に考えて精神的価値を重視するという人生観・哲学は、陽明学・儒教のみならず、キリスト教などの古今東西の古典に共通します。

世俗的・ヨコ的な価値観から見た結果の「正しさ」より、精神的・タテ的な価値観から見た行為の「美しさ」を重視しているのです。

これは個人の「信念」であり、「信仰」として信じる人が宗教者となります。

無常観

 このような古典的な「天任せ」の人生観や運命論は、論語にもあります。  
 
 死生命有り 富貴天に在り

生死は天命で決まっており、長生きしようと思ってもいつ死ぬか分からないという無常観です。

だから、いつ死んでもいいように一瞬一瞬を燃焼させ、眼の前のやるべきことをしっかりやるという積極的な生き方につながります。 

また「富貴、天に在り」とは、富や地位は天命や運で決まっており、個人の努力では如何ともしがたい部分があるという意味です。

そこから、あくせく銭カネを追い求めるのはやめようというタテ的・精神的な考えに繋がります。

このような、「天命に従う」という諦観を、結果・将来の正しさに拘泥するのではなく、現在の行為の美しさを追求せよという行動哲学に昇華するのが東洋哲学です。

人生の不可測性を受け入れるからこそ、今この瞬間に全力を尽くす行動力が湧くのです。

東洋の禅が西洋人に人気があり、マインドフルネスとして世界に広がっているのも、このような無常観・東洋的諦観が勇気を生むからです。

実際、「死生有命、富貴在天」とほぼ同じ言葉をデビッド・ベッカムは左脇腹の入れ墨にしています。

人間蛆虫論

この無常観をよく表すのが福沢諭吉の「人間蛆虫論」です。

人生は見る影もなき蛆虫に等しく、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのことなれば、我一身を始め万事万物を軽く視て熱心に過ぐることあるべからず。生まるるは即ち死するの約束にして、死も亦驚くに足らず。況んや浮世の貧富苦楽に於てをや。

こういう「人生なんて宇宙的観点から見たら蛆虫みたいなもんだ、だから浮世の貧富苦楽なんぞ驚くに足らない」という無常観が、ヨコ・世俗的価値観よりタテ・精神的価値観を重視することにつながります。

積極的なニヒリズム

ニーチェはこのような「人生が須臾で儚いものだからこそ意義あるものにする」という姿勢を「積極的ニヒリズム」と呼びました。

人生に意味はない。しかし、意味がないからこそ、自らの価値を創り出し、生に形を与える 

――このニーチェの積極性は、心理学者フランクルが生み出した、いつ何時でも我々が示す態度に人生の価値があるという「態度価値」に影響しました。

ニーチェの積極的ニヒリズムからは、人生に過度に期待せず地道に信じる道を歩むという愚直な美しさが読み取れます。

楠木建教授はこれを「絶対悲観主義」と名付けていますが[i]、私は「健康的なペシミズム」と呼んでいます。執着・しがらみから自由になり、無意味の中に意義を見いだす力強い態度です。

  [i] 『絶対悲観主義』楠木建、講談社(2022年)

日本の庶民文化にも、こうした健康的な無常観を表す教訓が残されています。

裸にて生まれて来たに何不足

起きて半畳 寝て一畳 天下取っても二合半

という道歌は、人間の欲望の限界と生の本質的な簡素さ・儚さを軽快・飄逸に表現しつつ、「たとえ失敗しても、そもそも多くを求めすぎるな」「期待に縛られずに、自由に挑戦せよ」という、前向きな生き方を促します。

このように、福澤の蛆虫論や道歌から「無常を引き受けて、それでもなお歩む」という積極的態度が受け取れます。

限りある生を軽やかに、しかし前向きに生きる

――これが、我々が古典・漢籍から学ぶ東洋的な積極的無常観であり、「失敗しても大したことない、期待せず挑戦しよう」という勇気とエネルギーにつながるのです。

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荀子は礼は義の和と言ったのか

2025年05月11日 | 古典・漢籍
ChatGPTの回答を取り急ぎメモ:

『荀子』(王制篇)
「義者,利之和也;禮者,義之和也。」
(義は利の調和であり、礼は義の調和である)

____________

荀子が、「義は利の和、礼は義の和」と言った?

ネット検索では裏取れず、、、

言ったとしたら、義と利と礼の関係に関する、とてもいい整理なのですが、、、

自宅蔵書の『荀子』から調べる前の取り急ぎメモ

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義とは利の反対

2025年05月11日 | 古典・漢籍
渋沢栄一関連の本を書いています。

渋沢栄一といえば「先義後利」。

正義とか「義」って何ですかね。

案外、「正義」をきちんと定義できる人はいない。

「正しい」と「正義」はどう違う?

そう考えると、「義」ってのは、端的には「利」の反対って考えればいいと知りました。

論語に曰く:

 君子は義に喩(さと)り
 小人は利に喩る

このように、東洋哲学では伝統的に「義」と「利」を反対概念として扱ってきた。

田中一弘教授は、「義」の3要素を

  1. 公への奉仕
  2. 誠実さ
  3. 勇気

とします。素晴らしい。

「利」ってのも、この3つの真反対で、

  1. 私(自分)のため
  2. 不誠実
  3. 臆病・卑怯
と考えればいいです。


 
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陽明学とは

2025年05月10日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

朱子学と陽明学

 儒教は朱子学と陽明学に分かれます。渋沢栄一は陽明学を学びました。

 朱子学は、南宋時代の朱子が整理した考えで、理知的に考えることを重視し、その後に行動するという「先知後行」が特徴です。

 行動の美しさよりも結果の正しさを重視します。分かりやすく言えば、目上の人を立てて規律と秩序を維持せよという考えであるため、江戸時代の幕藩体制維持に都合よく利用されました。

 一方、陽明学は、1500年頃に明の官僚・軍人の王陽明により始められ、心即理つまり自分の心がすなわち道理だと考えます。

 「知行合一」つまり知ることと行うことは一つであり、四の五の考えずに思ったことは行動に移せというややエキセントリックでやんちゃな哲学です。結果の正しさよりも行動の美しさを重視します。

 渋沢栄一を含む幕末の志士の多くは陽明学の影響を受け、これが明治維新をもたらしました。

 佐藤一斎、佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、河井継之助、みな陽明学徒だったといってよいでしょう。私も陽明学徒になるべく大学を中退しようと思ったことがあります。

陽明学

渋沢栄一が学んだ陽明学は、思ったことを迷わず行動に移せという積極的なか考えで、幕末の志士に大きな影響を与えました。

陽明学のみならず修養一般に役立つ言葉ですが、王陽明の有名な言葉として
 
 山中の賊を破るは易く 
 心中の賊を破るは難し

があります。山賊を打ち負かすよりも自分の怠け心や弱い心に打ち克つことが難しいという意味です。
 
陽明学的な考えを最も代表する言葉は、孔子の弟子筋の孟子(イエスに対するパウロのような位置づけです)の

 自ら反(かえり)みて縮(ただし)くんば、千万人といえども吾往かん
 
です。

自分が正しいとの信念があれば、相手が千万人といえども突き進めという勇猛果敢な精神を表す言葉です。

吉田松陰はこの孟子が大好きで、獄中で囚人仲間に孟子を講義し、講義録『講孟箚記』を残しました。

他に、江戸時代後期に大阪で一揆を起こした大塩平八郎も陽明学の信奉者でした。

 身の死するを恐れず 
 心の死するを恐るる

 と言いました。身体の死を恐れず、心が死ぬこと、つまり周りに忖度してやるべきことを行う勇気を失うことを戒めました。

肉体的な死を恐れず精神的な完成を求め、結果の正しさよりも行為の美しさを求めた点は、宗教的といえます。世俗から離れる禅の考えと陽明学はとても近いです。

陽明学に興味ある方は、司馬遼太郎の歴史小説『峠』がお勧めです。長岡藩家老・河井継之助の息吹を通じて、陽明学のエッセンスを受け取ることができます。

 
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聖人を目指せ -志を高く

2025年05月10日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

聖人を目指せ

渋沢栄一『論語と算盤』6章では「聖人に近づけ」という内容があります。

これは儒教の教えです。

儒教では、キリスト教(カトリック)において聖者を目指すのと同様、聖人を目指すのが究極の目標です。これを修養といいます。

聖人とは、すべてにおいて完全な人間です。渋沢は、知・情・意(意思)の点でバランスが取れて完成した人物を「完(まった)き人」と表現していました。

聖人のイメージを抱くのに適切なのが、幕末の儒者・佐藤一斎が『言志四録』で謳った

 志有る者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし

です。「世間」第一等ではなく「古今」第一等を目指すのです。古今第一等とは、今の時代で一番ではなく、古今東西の延べ1000億人の全人類で一番になれという意味です。1000億人中の1番が聖人です。

 私も毎日筋トレをしながら「1000億人の中で一番トレーニングの効果を上げる!」とイメージしています。

西郷隆盛も、
 
 聖賢に成らんと欲する志なく、古人の事跡を見、とても企て及ばぬと云ふようなる心ならば、戰に臨みて逃るよりなほ卑怯なり。
 
と述べ、「聖人・大人物になろうとせず、自分にはとても及ばないとハナから諦めている意気地なしは、戦から逃げるより卑怯だ」と言っています。

吉田松陰も、14歳の従弟に書き与えた「士規七則」で

 聖賢を師とせざれば則ち鄙夫なるのみ

つまり「聖人を手本としないのは卑しい人間だ」と強い言葉で奮起を促しています。

____________

志を高く

 このように、1000億人中の1番の聖人になろうとするのが、古典から学ぶ志です。大きな気概です。この気概は「その他大勢のワンオブゼムになってたまるか、こんちくしょう、負けてたまるか」と発憤する負けん気です。『言志四録』には

 憤の一字は、これ進学の機関なり。
 舜何人ぞ、予(われ)何人ぞとはまさにこれ憤なり

という言葉もあり、「舜という聖人も自分も同じじゃないか、負けてたまるか」と発憤することが一番大事だと言っています。

似たような気概は、江戸末期、吉田松陰の大先輩にあたる長州の村田清風が、江戸に行く際に富士山を見て歌った

 来てみればさほどでもなし富士の山
 釈迦や孔子もかくやありなむ

に現れています。「なんだ、富士もそんなに高くないんだな、釈迦や孔子も自分とそんなに変わらないだろう」という昂然とした自負が微笑ましいです。

志と気概の大きさについては、武士道の真髄を説いた『葉隠』でも、

 同じ人間が、誰に劣り申すべきや

とか

 大高慢にならねば奉公はできず

と説いており、大風呂敷を広げろと発破をかけてきます。

こういう気概や志が人物になるためにはとても大事です。越前福井藩の橋本左内は14歳で『啓発録』を書き、

 志なき者は、魂なき虫に同じ

と断言しました。福井では今でも橋本左内に倣って14歳で「立志式」を行っています。

要するに、古典は、「負け犬になるな」と我々を叱咤しているのです。
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昨日書いた短冊②

2025年05月10日 | 古典・漢籍
吉田松陰

一己の労を軽んずるにあらざるよりは
いずくんぞ兆民の安きを致すを得ん

「松陰詩稿」に収められた「丙辰秋冬稿」(安政三年(一八五四)秋冬)の「松下村塾聯」の前半部分、松陰二十七歳の時の言葉。

自分がやるべきことに努力を惜しむようでは、世の中の役に立つ人になることはできない。

という意味です。

松陰の学問態度を簡潔に表したこの句は、松陰自ら筆をとり、久保五郎左衛門が彫って、聯(れん:左右の柱に対句を分けてかける柱かけ)にして松下村塾に掲げられていた。





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