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川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

コンプラを変え,会社を変え,日本を変える!

感情を抑えるのは理性と品性の両方

2025年05月06日 | 人間心理・心理学
感情を押させるのは理性?品性は?

って思った。

感情を抑えるのは理性ですが、感情を抑えることができない人をみると「理性がない」と感じる以上に、「品性がない」と感じてしまいます。

感情を抑えるのは品性でもあるのでしょうか。

ってChatGPTに訊いた。YES的な回答をもらった。

「怒らない“生き方”の選択、美意識」として、品性が、感情を抑え込むから。

だそうです。

感情的になる人は、理性もなければ品性もない。

そう心得て良さそうである。

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決して人を侮辱しない

2025年05月06日 | 人間心理・心理学
渡部昇一は歴史に残るような論戦を昭和の御代にしていた。
でも決して人を侮辱しなかった。

と彼の息子さんが書いていて、実際はどうか知りませんが、とても感心している。

 
こういういいエピソードは、そういうものだと思ってしまうのがよい。

私も「人を侮辱しない」人格を身に着けたいから。

人を侮辱するのは、自分を貶める行為だと感じています。
なぜそう感じるのですか。

とChatGPTに聴いてみたら、いい答えが返ってたのでシェアします。

~~~以下引用~~~

✅ 1. 侮辱は「自分のレベル」をさらけ出す

侮辱の言葉は、相手ではなく自分の品性を映し出す鏡です。

どれだけ相手が不適切でも、攻撃的な言葉でしか応じられないとすれば、それは自分の思考や表現の限界を示してしまいます。

✅ 2. 侮辱は「感情に支配された状態」を表す

人を侮辱する場面では、多くの場合、怒り・嫉妬・軽蔑など否定的な感情に支配されています。

理性的なコントロールを失った状態では、自尊心も損なわれ、あとで自己嫌悪や後悔を生みやすくなります。

~~~引用終わり~~~

なかなか良い整理をしている。

このChatGPTの整理を前提に私が自分で言語化してみると、、、、

侮辱というのは、相手の主張するロジックのみならず、それを超えて相手の人格を貶めようとすること。

これは、自分の相手に対する攻撃性が、感情に支配されるほど大きくなっていること。

その「感情に支配された攻撃性」によって、自分が相手より優位に立とうとすること。

「自分が相手より優位に立とうとする」ということは、相手の土俵に立ってしまっていること。

つまり、相手にいわば嫉妬しているということ。なぜならば、本当に下種で雑魚な輩に対し、我々は嫉妬することはないから。

だから、侮辱というのは、

  1. 相手に対する自分の嫉妬
  2. 感情に支配された自分の攻撃性

の2つをさらけ出す、みっともない行為。

そう言えないだろうか。

渡部昇一がここまで考えて「人を侮辱しない」と決めていたわけはなかろうが、こう整理すると、さらに「人を侮辱すること」をやめよう、と思うようになります。
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被害者ぶるな

2025年05月04日 | 人間心理・心理学
被害者ぶるな。

被害者ぶるのは嫌い。

家庭連合関係でそういう人は多いけど、私はずっと昔、16年前からそう考えていた。

 被害者ぶるのは卑怯
 (2009年の拙稿3つ、汚い文章でお目汚しですみません)

____________

私が家庭連合案件を引き受けて、私の評判・売上がどうなったか。

たまに訊かれる。

私は決して言わない。

墓場に持っていく。

これを口にすると「被害者ぶる」ことになるから。

誰にも言っていないし、これからも誰にも言わない。絶対言わない。

墓場に持っていく。

これが私の、「被害者ぶらない」矜持です。

自分で覚悟して引き受けたんですから。

自分のせいなんです。

自分の責任なんです。

それを被害者ぶってペラペラ喋るのは、美しくない。

被害者ぶるのはみっともない。カッコ悪い。

被害者ぶらない。

決して被害者ぶらない。

死んでも被害者ぶらない。

そう思う人が増えると、世はもっと良くなると思われる。


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全ての批判は嫉妬から始まる

2025年05月04日 | 人間心理・心理学
全ての悩みは比較から始まる。
全ての批判は嫉妬から始まる。

中身のない印象批判をすると、「嫉妬しているのね」と思われるだけ。

それは自分を貶める行為なので、私は中身のない印象批判は決して口にしない&書かないようにしている。

ーーーーーー

私が書いたことが「中身のない印象批判」だと感じた方はご一報ください。
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臆病を示す勇気

2025年05月03日 | 人間心理・心理学
今日刺さった言葉:

 「臆病を示す勇気」
 「臆病者の常として頑固であった」

スタンダール『パルムの僧院』

臆病を示す勇気を示したい。
さもないと頑固になってしまう。

____________


 

以下で発掘。


 
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ガンディとバガヴァット・ギーターと勇気

2025年05月03日 | 人間心理・心理学
インドのガンディはバガヴァット・ギーターをかなり読んでいた。インド・ヒンズーの聖典。バイブルみたいなもの。紀元前5世紀ころだから論語と同じくらい。

アメリカのインド系の方(ハリス副大統領とか)が、公職に付く際に、バイブルに代わって、手を置いて宣誓するのが、このバガヴァット・ギーター。

このバガヴァット・ギーターには

  • 「行為の結果に執着してはいけない」
  • 「行為の結果を考えて行為してはいけない」
  • 「行為の結果を動機としてはいけない」
ということが書かれている。

最近の私のボキャブラリーだと、「結果の正しさ」よりも「行為の美しさ」を考えると、勇気が出る。

ガンディの勇気ある行為も、バガヴァット・ギーターに由来する。

結果に執着しない。
結果を動機として行動するのではない。
四の五の言わず、まず行動する。
小利口に結果のことを考えすぎない。

って考えて、ChatGPTに「ガンディの勇気はバガヴァット・ギーター由来だよね」って訊いたら、YESと言われた。

バガヴァット・ギーター第2章第47節

■ サンスクリット原文(2.47): 
 कर्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन।   
 मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि॥ 

■ 日本語訳: 
  あなたには行為をする権利がある。しかし、その結果に対する権利はない。 
   決して行為の結果を動機としてはならないし、行為しないという執着にもとらわれてはならない。

■ 英訳
"You have a right to perform your prescribed duties, but you are not entitled to the fruits of your actions.   
Never consider yourself the cause of the results of your activities, and never be attached to not doing your duty." 

■ 解説: 
この節はカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)に関する核心的な教えで、以下の3点が強調されています:

 1. 行為の遂行に責任を持て(義務はある)
 2. 結果に執着してはいけない(結果はコントロール外)
 3. 無為(何もしないこと)に逃げてはいけない(責任回避ではない)

ーーーーーー 

いいね。

ガンディがバガヴァット・ギーターを読んでいたのは知っていましたが、その内容まで初めて深堀りしました。

オツムで小利口に結果ばかりを考えると、勇気は出ない。
ココロで愚直に行為の美しさを考えると、勇気が出ます。

最近そんなことばかりを考えているんですが、なぁに、2500年くらい前のだいぶ昔から、バガヴァット・ギーターで言われていたんですね。

 
以下の本で知りました。


 
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勇気の出し方(総まとめ編)

2025年05月02日 | 人間心理・心理学
勇気の出し方(総まとめ編)

勇気の出し方について、今朝のランニング中に思考を整理できた。

今までポストしてきたのは:

2 「結果の正しさ」よりも「行為の美しさ」を考える(先回りしない)
 
の2つでした。

これら2つは要するに、美意識。

出世や保身よりも、美学や信念を優先して、不幸を引き受けるという美意識。覚悟。

将来の「結果の正しさ」よりも、眼前の「行為の美しさ」を優先する美意識。

____________

勇気の出し方の3つ目を書きそびれていました。US出張中に言語化できたのが、以下。

3 Or ではなくAnd

 勇気が出ないのは、A or Bで考えているから。A and B ではなく。
 
 例1
  会議で発言するか否か、、 迷うけど、言ったら恥かくかな、、叱られるかな、、 というのは、「言うか、言わないか」というAorBの選択肢。
  勇気ある人は、「言って、かつ信頼を勝ち取る」というA and Bの選択肢。

 例2 
  司法試験を受けようか、受けまいか、、、というのはA or B。挑戦か、安定か、という A or B。
  勇気ある人は、「司法試験を受けて、なおかつ安定した生活もGETしよう」というA and B。

 例3 
  惚れた異性に告白しようか、、、 勇気ない人は「告白するか、しないか」のA or B。
  勇気ある人は、「告白して、かつ、異性をGet」というA and B。
 
____________

私も、勇気を出せずに後悔したことがある。

10年前の独立直後、アフリカに行く機会があった。米倉誠一郎先生のツアーで。

でも、A or Bで考えて、諦めた。事務所のキャッシュフローと、入ったばかりの有望弁護士の教育を優先して、アフリカに行くことを諦めた。

アフリカに行くか、キャッシュフロー&有望新人の教育を取るか、というA or Bだった。
 
「アフリカに行って、かつ、キャッシュフローも新人教育も達成する」というA and Bを取らなかった。チキンだった。10年後にアフリカに行くまで、10年近く後悔した。

アコムから借金してでも、10年前にアフリカに行っておくべきだった。

私が一週間アフリカに行ったことにより有望弁護士への教育が疎かになったくらいで、その弁護士が私の事務所を去るのであれば、そもそもそんな弁護士とは縁がなかったということ。

A and Bを取るべきだった。でも10年前の私には実力不足だったということだろう。

____________

このA and Bは、どこから来るか。

自信から来る。

自分の実力なら、A and Bを達成できるという、自負。自信。気概。

じゃあこの自信はどこから来るか。

努力。

努力すれば、自信が付き、勇気も出る。

勇気も努力から。

____________

これが3つ目の、「勇気の出し方」。

以上まとめると、勇気は、

1️⃣ 美意識
2️⃣ 自信(努力)

から生まれる。

美意識があっても、自信がなければ、勇気は出ない。
美意識がなければ、自信があっても、勇気は出ない。

 ※ 美意識がなければ、そもそもA and Bという選択肢すら考えない

こう整理できました。いかがでしょうか。
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慾ハナク 決シテ瞋ラズ  イツモシヅカニワラッテヰル

2025年04月29日 | 人間心理・心理学
犠牲をすること、贈与をすることの精神的な意味を探っている。


ChatGPTと壁打ちしても、

贈与・寄付をすることは、誇り高く犠牲になることであり、それにより精神的に優位に立つ

的な回答が得られる。

あの映画の、あのシーンを思い出した。

みんな大好きな『ショーシャンクの空に』。

 
私が一番好きなのは、主人公アンディ・デュフレーンが、仲間の囚人と、麗らかな日に、刑務所の屋上を掃除?ペンキ塗り?していて、自分の善行によって、ビールをみんなに飲ませているときに、たしか刑務官からビールを勧められて、でも自分ではそのビールを飲まず、独り静かに微笑んで、ビールを飲む仲間・刑務官たちを、優しく見つめているシーン。

自己犠牲により精神的に優位に立っているシーン。

無実なのに、悪いことは何もしていないのに、冤罪で長く刑務所に入れられている。絶望のどん底にあるような状態でも、自己の尊厳を保ち、利他的な行為をして、でも決してそれを誇ることなく、独り静かに笑っている。

独り静かに笑っている。

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を思い出した。

慾ハナク 決シテ瞋ラズ 
イツモシヅカニワラッテヰル

欲はなく。
決して怒らず。
いつも静かに笑っている。

そういう人間に、私はなりたい。
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勇気の出し方2 -先回りしない

2025年04月28日 | 人間心理・心理学
【執筆原稿から抜粋】

1 勇気の出し方 ―先回りしない

「勇気の出し方」につき、第5章13で触れましたが、もう一つお伝えします。勇気を出すには、「先を考えすぎない」のがよいという考えです。

勇気の反対語は何でしょうか。臆病だと思いますよね。そうではなく、勇気の反対語を「せっかち」と考えるのです。ちょっと面食らいますが、ここで言う「せっかち」というのは先回りして将来のことを考えすぎるということです(尾崎、2023)。

 



例えば、社内の不正に対して物申す勇気が出ないのは、「これを言ったら、後ろ指を刺され、干され、出世できなくなり、家族を経済的に支えることが苦しくなるかも…」などの「先回り」です。

会議で発言する勇気が出ないのも、「発言したら、恥を掻いたり、叱られたりするかな…」という先回りです。

異性に告白する勇気が出ないのも、「振られるかも…」という先回りです。

この先回りは「悲観的な未来予測」です。

我々は、こういう悲観的な未来をせっかちに先回りして予測するから勇気が出ないのです。行動することそのものよりも、結果を考えすぎているのです。

2 結果の正しさよりも行動の美しさ

ネガティブな結果をアタマ・理屈で小利口に予測したら、勇気は出ません。頭でっかちのせっかちが勇気を挫きます。

ポジティブな行動をココロ・感性で愚直に行う場合に、勇気が出ます。

もちろん、後先を考えずに楽観的に猪突猛進すれば常によいわけではありません。ただ、勇気が出ないのは先回りしすぎるためというのはその通りでしょう。

この「先回りしない」ことを、武士道を実践する実業家・思想家の執行草舟氏は「体当たり」と表現します。

武士に勇気があったのも、いつでも死ぬ覚悟をするという「武士道は死ぬことと見つけたり」の精神に基づき、生死という結果を度外視し、体当たりする美学を重視したからです。

渋沢栄一も『論語と算盤』で「成敗を度外視せよ」と説いています。

「自ら省みて縮しくんば、千万人と雖も吾往かん」などの勇気を奮わせる古典の名句も、先回りせずに体当りせよ、結果を考えすぎずに行動せよ、結果の正しさよりも行動の美しさを思え、と鼓舞しているのです。

3 今、ここ

この「先回りしない」ことは、禅やマインドフルネスからも導かれます。

禅では、過去や未来を考えず「今、ここ」に集中します。過去のしがらみやぼんやりした未来に囚われず、眼の前に現存する課題だけを考えます。

『今を生きる』という名作映画も「今」に全力投球することを奨励しています。「今を生きる」は哲学者ホラティウスが言ったラテン語の“Carpe Diem”(その日を掴め、英語でSeize the day)に由来します。

禅に頼らずとも古代から「今、ここ」に集中するマインドフルネスはあったのですね。

「今、ここ」に集中することは、未来の結果の正しさをアタマで考えることではなく、今の行動の美しさをココロで感じるということです。禅やマインドフルネスも勇気や行動力に役立ちます。

禅に傾倒したスティーブ・ジョブズが“Stay foolish”と言ったのも、「利口」にならず「愚直」であれと説いたのです。ヨコの正しさではなくタテの美しさを目指せと説いたのです。先回りせず体当たりせよと説いたのです。
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なぜ勇気が出ないか

2025年04月28日 | 人間心理・心理学
【執筆原稿から抜粋】

なぜ勇気が出ないか

勇気の持ち方を考える前に、「なぜ勇気が出ないか」を考えましょう。

日本企業の消極的なカルチャーと勇気のなさの原因は、3つあります。

1 同調圧力

同質性の高い日本では同調圧力が高いです。高い同調圧力は自由に発言する勇気を挫きます。

女性や若手や外国人を登用して多様性を高めましょう。社会を変えるのはいつも「若者、よそ者、バカ者」です。

私が白いスーツを着ているのも、多様性を高めて日本の同調圧力を低くするためです。

2 戦後教育

敗戦の反動で、戦後は古典・道徳教育が疎かになりました。学生時代に美徳としての勇気を教わった戦後日本人はほとんどいません。100年前の知識人には常識だった論語を読む人は、今は100人に1人もいません。

しかし、徳(Virtue)は力(Virtus)であり、勇気は正義の3要素のうちの1つです(田中一弘教授『先義後利の経営』)。

高村光太郎は「義ならざるものは結局美ではない」「義にして美ならざるなし」と述べ、正義と美を同一視しました。

本書では「美しさ」を強調しました。犠牲を厭わぬ勇気ある正義に人は美しさ・気高さを感じます。

美、義、善、犠の漢字には「羊」が用いられます。これは天・神に捧げる生贄の羊に由来し、神聖さと崇高さを蔵するタテの概念です。

我々は、勇気のない卑怯さに醜さを感じますが、それと同じかそれ以上に、勇気のある義侠心に美しさを感じているのです。

3 高度経済成長

高度経済成長を支えた終身雇用の傘に守られ、「大過なく定年まで勤める」キャリアモデルが広がりました。

これが行動様式に染み込み、「自由に生きたら不幸になる。だから勇気より謙譲と従順が大事」という昭和日本人の生活感情になりました(島津、2025年)。そのため、学校のみならず家庭でも勇気を美徳として教えなくなりました。

しかし、日本の国際競争力も低下し、グローバル化したVUCAの時代、キャリアモデルも変わりました。

勇気より謙譲・従順を優先する昭和の生活感情は、令和の今には過去の遺物になりました。この時代の変化を感じ取り、「生活感情」つまり価値観自体を変革していかねばなりません。

消極的なカルチャーを生んだ勇気の軽視が日本の国際競争力を低下させ、かえって勇気の復活を必要とさせる状況を招いたのです。

この皮肉な事態を打開するため、勇気が古今東西変わらぬ美徳であると強く認識しましょう。

~~~引用終わり~~~

以上全部をChatGPTに入れて「批評してください」とコメントした。

そしたら丁寧な高評価をいただき、あまり修正の必要性を感じなかった。

こうやって、「原稿をChatGPTに校正してもらう」ってのも今の時代のAIの活用法ですね。
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鈴木エイトはなぜ本名をひた隠しにするのか

2025年04月27日 | 人間心理・心理学
心理学を学んでいるせいか、人が行う不思議な行動を、深堀りしたくなる。

人が行うことに対する「なぜ」を、放置しておけない。

アメリカからの帰国途中にちょっと深堀りしたのが、「鈴木エイトはなぜ本名をひた隠しにするのか」ということ。

ChatGPTでも本名とされる姓名は表示されるのに、なぜ懸命に隠そうとするのか。

家庭連合からの攻撃が怖い? 家族を守るため?

いやいや、エイト氏以上に影響力がある(ないしは年季が入っている)有田芳生氏は本名ですし、、、 

有田氏は最初は家庭連合ではなくオウム批判から始まった? (殺害が分かったのは有田氏登場後なので)結果論ですが、29人を殺害したオウムからの攻撃・報復の方が怖かったですね、、、

批評相手からの攻撃・報復が怖いから家族を守るために匿名にする(偽名を使う)ことが許されるなら、世界中のジャーナリストや批評家は偽名にしているだろう。

わかった。

後ろめたさがあるからだ。

単に「攻撃が怖い」だけではない。

「自分の活動が真に正義に基づいたものではない」という疚(やま)しさがある。

家庭連合信者を「ダニ」「ゴキブリ以下」と揶揄し続け、信者が「生産」されるとモノ扱いする自分の言論に、自分でも疚しさを感じている。「真のジャーナリズムではない」ってことが自分でも分かっている。

そういう心の疚しさ・負い目・引け目があるから、余計に、過度に、攻撃・報復を恐れ、より家族を守ろうとする気持ちが強い。

そういうことなんでしょう。

自分の活動が本当に正義に根ざしているという自信と自負があるなら、家族の安全・不安感を多少は犠牲にしてでも、実名を晒して正義を行おう、ってことになる。

「俯仰天地に恥じず」と胸を張ることができない。だから実名を晒せない。

解像度を上げると、

A 実名で行うという正義感 と B 家族の安全への不安 を天秤に掛ける。

B の家族の安全への不安 が強いから、実名で行うという正義感を犠牲にして、偽名で行って「逃げて」いる。

実名で行うというリスクを取っていない。リスクを取らない者には説得力がない(三田紀房)。

歴史上、事実を報じる使命を負うジャーナリストが常に実名であったのは、実名を晒すリスクを取ることに説得力と責任感が現れるから。

匿名ジャーナリストの信頼性は、これからも長く論じられるでしょう。
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犠牲や贈与の精神的な意味

2025年04月25日 | 人間心理・心理学
犠牲と贈与について、最近ボヤッと考えている以下を、ChatGPTと壁打ちした。

~~~以下私の入力を引用~~~
自己犠牲が流行らない時代ですが、漱石『坊っちゃん』の山嵐との間の氷代のやりとりに象徴されるように、犠牲になることは精神的に優位に立つことだと思います。

身銭を切る人を立てること(奢られたままであること)は、相手を優位に立たせるリスペクトです。

ですから犠牲の価値はなくならないと思います。

昨今は、贈与経済とかで、「贈与」がキーワードですが、贈与をすることも、太平洋の島(中山註:ポリネシアの「クラ交易」)で「相手より優位に立つため」という意味がありましたよね。

犠牲が贈与に変わって評価されているということでしょうか。
~~~引用終わり~~~

そしたらChatGPTから結構な高評価をいただいた。

その回答の中で、ChatGPTが

 贈与=他者との関係を築く“自発的な犠牲”

と書いていたのには学びがあった。

他に
 
現代では、「犠牲」は過度に感情的・搾取的なものと捉えられがちですが、「贈与」は自律性と尊厳を保ちながら、関係を深める手段として再評価されています。

ってのも。

非宗教化した世俗社会において、宗教への献金・寄付は、カルトじゃないの的に白眼視されている。

しかし。

献金・寄付は贈与。

贈与ってのは、自発的な犠牲であり、「これで自分は世の中の役に立っている」という精神的な優位に立つ営み。

人間の尊厳とか自尊心に関わる。

大げさに言えば、贈与というのは、「人間の尊厳を保つための自己犠牲」でしょうかね。

家庭連合さんとか他の宗教の方が「神に捧げる」として献金しているのは、私は信者じゃないのでどういう気持でやっているのかはわかりませんが、「人間の尊厳を保つための自己犠牲」ないしは「自己犠牲による自尊心の保持」的なニュアンスもあるのでは、、、

____________

とここまで考えて、さらにChatGPTに上記を入れて壁打ちしたら、ChatGPTから

宗教的献金にも、「自己を捧げることで神に近づく」という自尊の構造が潜んでいる。

とか  


 贈与とは、自己を差し出すことで、自己の尊厳を取り戻す“静かな誇りの行為”である。

とか教わった。

こういう、心理的な、哲学的というか、宗教的というか、社会学的な考察にも、ChatGPTは有用なんですね。

ChatGPTの「言語化能力」はたいしたものですね。勉強になりました。
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スイスチーズモデル

2025年04月22日 | 人間心理・心理学
某所からフリー素材でいただいた、スイスチーズモデルの図。

執筆中のインテグリティ第二弾『インテグリティが浸透するコンプライアンス・カルチャーの創り方』でも、拝借させていただきます。

ミスの原因は1つだけではない。

複数の原因が重なって、ミスを招く。

スイスチーズの穴が重なって、ミスをもたらすように。

____________

このスイスチーズモデルは、一つの主原因(Root cause)をとことん追及するトヨタのなぜなぜ分析とは、また違う分析方法。

部下のミスを責めている上司にも、1%くらいの責任があったのでは?

って自省するときに使えます。

原因は常に複数ある。いや、多くの場合、無数にある。

それなのに。

それなのに、自分を棚に上げて、人を他責していいんでしょうか。

まずは自責しましょう。

その「自責」の必要性と運用の仕方を、学ばせてくれるのが、このスイスチーズモデル。

単なる不祥事分析のみならず、他責せず幸せに生きる工夫にも、使えます。
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どうやったら感情的にならないか

2025年04月19日 | 人間心理・心理学
「どうやったら感情的にならないか」を訊かれた。

とっさに「自分との勝負」って答えた。

私自身が、「感情的にならない」ために、自分と勝負しているからだろう。

____________

この心理を深堀りすると、たぶん、私が学んだアドラー心理学の影響がある。

アドラー心理学では、「原因があるから結果がある」とはあまり考えない。

「目的のために行動している」と考える。

原因論ではなく、目的論。

ちなみに原因論はフロイト的。アドラーは目的論。反フロイト。

なぜ感情的になるのか?

アドラー心理学を知らないと、今の日本人(おそらく世界中の人)の99%は、「感情的になる原因があったからだ」と考える。

原因があるから結果が起こる。

あながち間違いではない。

しかし、これはフロイトに影響されすぎ。

なぜ感情的になるのか?

感情的になることで、何かの目的を達成しようと思っているから。

そう、コペルニクス的転回をする。

「感情的になる」という手段を選択することで、相手を屈服させる、自分の意見を通す、言うことを聞かせる、その場の空気を支配する、などの「目的」を達成しようとしている。

これは、無意識的に、そうなっている。
 
 ※ このアドラー目的論は、フランクルの「刺激と反応の間のスペース」にそっくり。二人の心理学は8割か9割重なる。

____________

そう考えると、「感情的になる」ってことが、恥ずかしくなる。

いい大人なのに、知的職業に就いているのに、弁護士なのに、「感情的になる」という手段で目的を達成しようとしていいのか。

それって小っ恥ずかしい、情けない、ダッサいことではないのか。

そう考えると(たぶんすぐには身につかない、数ヶ月か数年単位の修行が必要)、人は「感情的になる」ことがグッと減る。

まあだれしも聖人君子ではないので、完全にゼロになるかどうかはともかく。

私が最近、感情を抑えることができているのは、こういうアドラー心理学の影響が大きいと思う。

アドラー心理学によって、感情的になる前に、立ち止まることができる。

「オレは感情的になるというダッサい方法で目的を達成していいのだろうか」と。

____________

冒頭の「自分との勝負」に戻します。

感情的になりそうなとき。

「感情的になる」というダッサい方向に行かないで、理性的に理知的に冷静に紳士的に振る舞うという、辛い・難しい方向に行く。

我々には常にこの2つの選択肢が与えられている。

アドラー心理学を学ぶと、この選択肢・別れ道を意識できるようになる。

ラクな感情的な道ではなく、辛い冷静な道を選ぶという「勝負」をする。

そしてその勝負に勝つ。

やや精神論めいた結論ですが、これが私の「感情的にならない方法」です。
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誠実さとは強さ ーなぜ徳(Virtue)の語源が力(virtus)なのか

2025年04月19日 | 人間心理・心理学
誠実さとは強さ。
不誠実とは弱さ。

最近言語化できたことをシェアします。

不誠実って、弱さってこと。

不誠実な振る舞い、ってのを、誰でもしたことがあると思います。
私もしたことがある。特に若い頃。。

仕事のミス。不十分な仕事。うっかり間違えちゃった、とかのミスではなく、「もう少し頑張ればできたのに、やらなかった」ために叱られるような失敗。

これもある意味、不誠実な振る舞い。信頼関係を失う。

____________

こういう不誠実な言動って、分析すると、要するに「逃げ」からくる。

自分でも、心のなかで、1割くらい、「もう少しやろうと思えばできる」「もうちょっと調べた方がいい」「完璧にするにはあと少し頑張れる」ってのは分かっている。

でも、それをやるのは面倒くさい。その努力は意味ない可能性が高い。やらなくたって死にはしない。

とかいろいろ言い訳して、その1割くらいの、「もう少し頑張れるところ」をやらずに、無視して、諦めて、その仕事を終える。上司やクライアントに提出する。

それが、「逃げ」。

厳しい上司とか、レベルの高いクライアントに、バレる。分かる人には分かる。

そういう、「逃げ」が原因のミスって、すごく多い。

というか、世の失敗やミスのほとんどが、この「逃げ」からくる。

____________

じゃあこの「逃げ」って何なのか。

弱さです。心の弱さ。

悪の囁き。邪悪な誘惑。惰弱な怠け心。

自分の中にある、そういう、宗教的に言えばサタン的な、悪の囁き。それに負ける。ラクな方に行こうとする弱い心。ラクしようとする安直な心。

ラクして儲けよう、手を抜いて出し抜こう、っていうスケベ心。

そういう、「弱さ」があるから、「逃げる」。
「逃げる」から、不誠実になる。

世の不誠実は、こういう関係にある。

弱いから逃げて不誠実になる。

じゃあどうすればいいのか。

強くなる。

強くなればいい。

強ければ、逃げずに、誠実な行動ができる。

安直な、邪悪な、ラクしちゃえという心の囁きに、NOという強い心。

「そこそこ」やるんじゃなくて、「そこまで」やるんだという気概。勇気。勇猛心。

オレはそこまでやるんだというプライド。プロフェッショナリズム。

逃げない、っていうのは、強さなんです。

そういう、「強さ」が、誠実さを導く。

だから、誠実さとは、強さなんです。

そう考えると、徳(Virtue)の語源が、「力」(virtus)にあるということが、腑に落ちる。

力・強さがないと、徳のある振る舞いができない。

強くなりましょう。
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