スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

国民背番号による社会統計データベースの作成

2005-06-30 08:39:03 | コラム
スウェーデンの大学教育庁が2003年と2004年に発表した報告書「大学卒業者の労働市場でのその後」を先週読んだ。

スウェーデンでは1993年に大規模な大学制度改革を行い、バブル崩壊後の大不況の真っ只中にもかかわらず、主要6大学の拡大、および地方大学の新設や拡充がなされた。来るべき“知識社会”の到来に備えるために、国富の新たな要(かなめ)である人的資本に大規模な投資を行う時機がきた、というわけである。その結果として、その後から現在に至るまでに大学の定員は増え続けてきた。大学生の数で見れば、なんと1990年比で2倍にも膨れ上がった。

知識社会の到来に備えて、という目的は、いかにももっともらしく聞こえるが、果たしてそれが社会や経済全体にとって、さらには学生として学んだ個人にとって、プラスの効果が現れているか?ということが私は以前から気になっていた。例えば、大学の容量ばかりを増やしたはいいものの、卒業しても職がないのでは何の意味もないし、就職を無事果たしたとしても、大学で学んだ技能が生かされないような職しかないのでも意味がない。または、高卒でもできる仕事を大卒が奪ってしまったのでは、高卒にとってもかわいそうだし、せっかく国費をつぎ込んで行った大学教育も無駄に終わってしまう。(以前にも少し書いたように、スウェーデンの95%の大学が国立で、残りは財団立。いずれの大学に通うにしろ、授業料はタダで、しかも親の所得にかかわらず、学生の生活費として補助金と低利ローンが国から支給される。)

私がこう思ったのは、一つには日本の大学教育からの連想があるからだと思う。つまり日本では、特に人文系で大学学部教育が有名無実化し、卒業証書だけのために4年間多額のお金を個人も社会もつぎ込んでいる気がする(浪費といっては言いすぎか・・・?)。各都道府県に国立大学があり、さらには無数の私立大学が全国にあるが、そこで行われている教育の中身自体が個人の将来に、そして社会の生産性にどこまで生かされているのか、私は常に疑問に思っている。だから、スウェーデンもこの二の舞になっているのでは、という気がしていた。

二つ目には、現在の世界的な産業構造転換の流れ中で、生産性が比較的低く、熟練技能を必要としない職が途上国に移っていく一方で、スウェーデンが比較優位を持てそうな高付加価値を生み出す産業がなかなか生まれてきているようには見えないことだ。

これまでスウェーデンで生活してきた中で、そして様々な文献にあたってきた中で分かったことは、第一点目に関してはスウェーデンは私の杞憂に過ぎない、ということだ。そもそも、スウェーデンの大学教育制度と労働市場との結びつきには、日本には見られない面白い特徴があり、これはまた別の機会にここで紹介したい。

先週読んだこの報告書によると、95年から02年に学位を取得した者のそれぞれ一年から一年半後を追跡調査したところ、その時々の景気状況によるものの平均して70%から85%のものが、職に就き、ある一定水準以上の所得を得ている、ということだ。しかも、大学で学んだことに関連する職や学位を必要する職についているものが大部分であるらしい。もちろん、これは“平均”の話であって、技術系・医療福祉系の卒業生の就職率と職務内容のマッチ率が高い反面、人文・芸術系などの一般教養的要素の強い学部の出身者はこの率が低くなる傾向がある。(このような労働供給と需要のミスマッチに関しては、大学教育庁が各大学に指針を示し、該当学部の定員の是正をするように促している)これらから数年にわたって1940年代ベビーブーマーが定年退職を迎えるにあたって、熟練労働者に対する労働需要が高まり、就職率とマッチ率がさらに高まるであろうことも考え合わせれば、大雑把に言ってスウェーデンの人的資本投資計画は、いい方向に進んでいるようだ。

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ところで、この報告書の調査の仕方が面白い。卒業生に対して、どうやって追跡調査をしたかというと、サンプル抽出によるアンケート調査ではなく、実は毎年30000人を超える卒業生の全数調査。もちろん、人口が日本の7.5%しかないような小さな国だから、ということも言えるが、むしろ国民背番号が大きな役割を果たしている、と言えそうだ。

大学の学生の所属や学位取得などの情報は各大学が大学教育庁のデータベースに登録する。住民票登録は税務署が一括管理している。各個人の所得内容も税務署が税金計算のために把握している。職の有無は、この所得情報からも分かるが、これとは別に労働市場庁が、失業者(=雇用保険受給者)を正確に把握しているのでここからも分かる。生活保護受給者の情報は、社会保険庁が把握。これら、それぞれのデータは国民背番号によって管理されている。そして、これらの断片的な情報を国民背番号によってすべてリンクすることによって、大規模なデータベースが完成する。だから「X年にY学部の学位を取得した~さんが、1年後には失業中で、Z年後からAクローナの労働収入を得はじめたけれど、B年後には再び失業状態になり、C年後からは生活保護の給付を受ける」となんていう一連の詳細情報が完成するのだ。これをすべての調査対象(つまりこの場合は、ある特定年の卒業生)について行うのだ。しかも、それぞれ行政機関が把握する断片的な情報は、ぞれぞれの別の目的で収集され蓄積されたものであるから、今回の大学教育庁の追跡調査のために特別な費用をかけて収集されたものではない。つまり、コストが安い。

個人情報がこんなに簡単に集約されるとプライバシーの問題があるのでは、と思われるかもしれないが、大規模なデータベースの作成においてはスウェーデンでは次のような注意がなされているようだ。つまり、断片的な統計を集約するのは、中央統計局の少数の人間が行う。彼らが、各行政機関から送られてくる統計を国民背番号をもとに連結していくが、彼らには重度の守秘義務が課せられる。つまり、外部への持ち出し一切禁止など。すべての統計の連結が終わり、大きなデータベースを完成させた後に、そのデータベースから個人札(国民背番号)の部分を切り離し、すべての個人データ(observation)を無名化(anonymous)する。つまり、どのデータが誰のものか特定できなくする。そうした上で、晴れて研究者の手に渡るのである。

こうすれば、サンプルに対するアンケート調査よりも比較的安上がりで、大きな社会調査が可能になる。この点だけを見れば国民背番号はこういう役の立ち方もしている。

Vatternrundan 2005 (終)

2005-06-25 06:45:59 | コラム
これまで、3回にわたって書いてきた自転車大会の体験談だけれど、長くなってもしょうがないので、この締めくくりをもってひとまず終わりにしますね。
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今年は実は40周年記念だった。年を重ねるごとに参加者が増えていき、今では応募者が17500人を超えるとと参加受付をもう打ち切ってしまう。今年は早くも1月終わりには打ち切られた。

15000以上の参加者が300kmという長さを一般道を使って走る、という規模から、この大会は世界的に知られているようで、外国からの参加も多い。ドイツ人が957人、デンマーク人が746人、ノルウェー人が611人、フィンランド人が286人と、やはり隣国からの参加者が多いが、人数は少ないものの、アメリカ(18人)を始めとして、カナダ、南米、オーストラリアなど遥々この大会のためにスウェーデンへやってくる人もいるので、スウェーデンを含めて28カ国からの参加者が集まる。

(ちなみに、参加申し込みの時の住所で、国別に分類されるから、厳密な国籍別の参加人数ではない。例えば、今年は私の父のほかに、東京から一人参加があったが、実は東京在住のスウェーデン人だったり、シンガポールから応募した人も実は、現地勤務のスウェーデン人だったりする。私は、といえば、登録した住所からスウェーデン人として数えられてしまっている。)

二年前に父と二人で参加したときには、日本からの初めての参加者ということで、ちょっとした注目を集めた。地元の新聞が第1面に写真つきでわれわれのことを取り上げたし、全国的な主要タブロイド紙も「今年はスタートラインに日本人が登場!」と一言書いてくれた。出発前には、公共テレビの地元のニュースに現場でインタビュー。走っている最中に、道端で観戦していた家族に「あっ、テレビに出てた人だ」と瞬間的に声をかけられたのは、悪い気がしなかった。(ちなみに、その年は、もう一人日本人がいた。この自転車の大会だけでなく“スウェーデン4大クラシック”と呼ばれる、クロスカントリー(スキー)、マラソン、水泳の大会もすべて制覇するという強者だった。)


二年前のヨンショーピン新聞

参加登録をした17580人の男女比は、約15000人と2600人。このうち、5800人、つまり3分の1が初めての参加者らしい。初めての参加者がいれば、その一方ではベテランもいるわけで、なんと11人が過去40回の大会をすべて制覇したらしい。(第1回大会であった1966年には370人が参加。第3回大会からは、左側から右側通行になった。1988年から、参加者が15000人を超えるようになった。)


過去40回の大会にすべて参加したベテラン11人。第40回を記念して作られたモニュメント

大会の直前に都合が悪くなったりする人もいるため、実際に会場にやってきてスタートを切るのは15108人。そのうち14121人が完走。987人が途中リタイヤ。300kmの途上に9つもサービスステーション(デポ)があることは既に書いたが、その他にもしっかりとしたサポート体制ができていて、レース中は常にサポート車をコース上に走らせて、接触事故などの事態に備えたり、負傷者の運搬、それから、トラブルを起こした自転車や脱落者を次のデポまで運んだりする。987人もリタイヤということは、彼らをバスで無事モータラまで送り届けるための、輸送力も用意されている。受付や各デポの要員は地元のスポーツ・クラブのボランティアによってなされている。国防軍は野戦病院のテントを提供し、そこで応急処置やマッサージなどが行われる。

速い人でどのくらいの時間がかかるのかというと、1977年にイタリア人のプロが6時間23分(平均時速46km)。しかし、この記録は伴走車や様々なサポートのおかげで、しかも大会とは別に走って達成されたものなので、公式記録には数えられていない。公式には、スウェーデン人男性の6時間42分。今年は、大会に先駆けて、ノルウェー人の一団が記録更新に挑戦。結果は6時間41分45秒、とわずかだが新記録を達成した。それにしても、すごいものだ。

最初のグループのスタートが金曜日20時、最後のグループがスタートするのが土曜日5:10。そして、朝の6時になると、一人目がゴールするのだそうだ。その後、少しずつ人々がゴールをしていき、午後にピークに達する。そして、夜中24時にゴールが締め切られる。だから、ゆっくりでもいいから完走だけでもしたいという人は、金曜日20時にスタートを切れば、次の日の24時まで28時間かけて走ることも可能なのだ。

多くの人がレース用のロード・レーサーで参加する一方で、カゴつき荷台つきのママチャリでの参加もある。タンデム(二人でこぐ自転車)もたまに見かける。タンデムは上り坂で抜群の威力を見せる。寝そべって乗る自転車は去年から禁止。

ウケ狙いの参加者もいて、例えば、かつてスウェーデン軍で使われた歩兵用の自転車に、迷彩服で参加した若者二人がいた。歩兵用の自転車は切替なしで、ブレーキもバックブレーキ(ペダルを逆回転させるとタイヤに両側から抵抗がかかり減速するタイプ)なので、大変そうだった。スターウォーズのダースベーダに扮装した人もいた。炎天下の中の黒装束はとても暑そう。併走したときに、横を見たら、彼が黒いマスクの下から、ニヤッと笑った笑い顔が不気味だった。

こうやって、プロの人とアマチュアの人が一緒くたになって走るので、誤解が起きたりや事故になることもある。たとえば、ルールを知らないアマチュアが、後方確認もせずに急停車して、後続の自転車が猛スピードで追突することもある。大会の公式ホームページに今年の大会のあとに書き込まれたメッセージにこんなのがあった。「ヴェッテルンルンダンはもうこりごりだ。ゴールまであとわずかのところで、ルールを知らない参加者がフラフラっと横から出てきて、スピードを出していた私に側面から突っ込んできた。おかげで、あばら骨が折れ、歯が二本欠けて、散々だった」 だから、こういうことがあってもおかしくないと、覚悟して参加する心構えも必要だ。私も、前を走っていた人がたまたま友達を見つけて急減速したので、あわや追突するところだった。

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何はともあれ、今年も完走できたのがとても嬉しい。未だ興奮が冷めず、来年もぜひとも出たいと、すでに気がはやる。

Vatternrundan 2005 (3)

2005-06-24 22:32:41 | コラム
この大会では選手の結果を携帯メールで知らせてくれる、というサービスがある。ある特定のゼッケン番号をあらかじめ登録しておくと、その選手が途中の3つのチェック・ポイントを通過するたびに「この選手は~の町を通過」というメッセージを携帯に送ってくれるのだ。家族や知り合いの番号を登録しておけば、今どのあたりまで来たのか分かるのだ。

私の父は私よりも1時間半遅くスタートするものの、スピードは私よりも断然速いので、どこかで追い抜かれる。彼がどこまで来たか分かるように、彼のゼッケン番号をこのサービスに登録しておいた。しかし、彼が定刻通りスタートした、というメッセージは受け取ったもの、その後、一向に途中経過が入ってこない・・・。

変な予感を抱きながらも私はこぎ続ける。時速25km以上で快調に進んできたので、178km地点のHjoデポは通過。この先ものどかな田園地帯が続く。すぐに別の急行集団に追いついたので、これについていく。


参加者のつぶやき

210km地点のKarlsborgデポでは足を休めるために、少し休憩。この町Karlsborgは人口5万人ほどの小さな町だが、スウェーデンの戦時首都機能を備えている。つまり、冷戦中にソ連が東から攻め込んできたときには、第一波で首都ストックホルムが落とされるのが確実なので、その後はこの町に首都機能を移して、反撃を行う、という考えだ。だから、今でも大きな要塞と地下構造があるらしい。

それから、この町にはヨータ運河が流れている。ヨーテボリとストックホルムを結び、近代の産業化の時代に大きな役割を果たしたとか。

Karlsborgを出発して直後に、大きな自転車の行列ができていた。ヨータ運河にかかる橋が上がっていたからだ。個人ボートが5つほど通過。8分ほど待たされる。長い行列になったので、少しでも速く先に進みたい参加者は対向車線にまではみ出して、橋が上がるのを待つが、そこへすかさず白バイがやってきて、警告を発する。


Karlsborg。橋があがるなんで聞いてないぞー!

ここからは緩やかなアップ・ダウンが繰り返し続く。岩山を切り開いて造ったような山道だ。私はなぜか上り坂には強いのだ。坂の長さが分かっているときは、ゆっくりゆっくり時間をかけて登るよりは、一気にエネルギーを燃焼させて登りきってしまいたい。(たぶん筋力がどうのこうのより、性格的なものだろう)だから、登りでは集団よりもどうしても前に出がちだ。で、下りになると、レース用の自転車のほうが速くて、立て続けに抜かれる。私の自転車は摩擦のせいで抵抗が強いみたいで、下りで40kmほどしかスピードが出ない。(他の人は45km以上)でも、また登り坂になると私のほうが前に出て、下りになるとまた一気に越される。

そんな繰り返しで次の小さなデポに着くが、相変わらず父親の所在が不明なので、道端で観戦する人に、深夜から今朝にかけて大きな事故があったというニュースを聞いたか、と思わず尋ねてしまう。小規模の接触事故が数件あった程度、という。なぜ携帯メールで彼の途中経過の通知が来ないか解せないが、システムのトラブルであることを願いたい。父親に追い越されるときには、大声で「ガンバレ」と声をかけてやろうと、常に準備しながら、追い越す人のゼッケン番号をチェックしているが、一向に姿が見えない。もっとも、突然「ガンバレ」と叫んで、ビックリされるか、片手で手でも振り替えされて、落車でもされたら大変だが。


Boviken, Hammarsundsbro

ゴールまであと50kmのところまで来ると、がぜんやる気になる。50kmなんて今まで走ってきた距離に比べたら、ちっぽけなものと思えるからだ。でも、実際はそんなに甘くない。ここからが勝負だ。短いものの急な坂がこの先いくつも続くのだ。大きな坂を前にして、併走していたおじさんが「ここからが正念場」と話しかけてくる。「これが最後の坂だといいね。気楽にいこう」と返すものの、やっぱり上り坂は一気に登りきってしまいたいので、横に出て一気に前の人たちを追い抜いてしまう。言っている自分のほうが気楽ではない。おじさんをずいぶんと引き離してしまった。

左右に森が広がる細い坂道の一つに、二年前の大会で、5人が死傷という大事故が起きた現場がある。反対方向からやってきた乗用車が、自転車の一団に正面から突っ込んだのだ。しかも、この乗用車の運転手は自身もヴェッテルンルンダンに参加して、無事ゴールを果たし、直後に車に乗り、帰宅する途中だったのだ。ゴール直後だったので、疲労がピークに達し、居眠り運転をしたのだ。ゴール後は最低でも6時間は休憩してから運転することという“6時間ルール”があったにもかかわらず。


上り坂はいつでも辛いもの

モータラの手前、20kmからは細く曲がりくねった農道に入る。ラスト・スパートと意気込んで盛んに追い上げてくる人たちがたくさんいる。まだ20kmもあるので、そんなスピードで走っていたら、ゴールに着く直前にバテテしまうと思うものの、やはり廻りにつられて、私もスパートをかける。ゴール後にはビールが振舞われると聞いていたので、それを飲む姿を想像しながら、気力だけで走る。熱く焼けるアスファルトからの熱気とともに、目の前にはビールの蜃気楼が見えるかのようだ。

ゴールの10km手前からは道端に立つ観客の数もどんどん増えてくる。勝利まであとわずか。声援はとても嬉しく感じられる。こちらも手を振り返して、余裕の様子を見せようとするものの、内心は空っぽのタンクで車を運転しているようなもの。

そして、ついにゴール。
記録は、
スタート 00:23
Jönköping (109km) 05:37
Hjo (178km) 09:28
Medevi (282km) 14:12
ゴール (300km) 15:08
所要時間は14時間45分。休憩した時間を除くと13時間ピッタリだった。自転車のメーターによると平均時速23.02km、瞬間最高速度48kmと出てきた。どこで48kmも出したか覚えがない。二年前の記録13時間33分よりは大幅に遅れたものの、完走できただけでも満足と言いたいところだ。

MÅL!! (ゴール)


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心配していた父親のほうだが、実は1時間半近く前に無事ゴールしていた。私の携帯に何の通知も来なかったのは、単なるシステム不良のためらしい。無駄な心配をかけさせられたものだ。彼はスタート前にひざを負傷したため、昨年の個人記録11時間22分は塗り替えられなかったものの、それでも無事完走できてよかった。面白いことに、二人ともヨンショーピンの通過時間が一緒だった。いつの間にかすれ違ったことをお互い知らず、父親のほうも私にいつ追いつくかと、常に注意していたそうだ。

超特急集団を果敢に先導する父(大会関係者撮影)

Vatternrundan 2005 (2)

2005-06-22 15:58:07 | コラム
この大会の参加費は1000kr(約15000円)だが、その分サポートがしっかりしている。300kmの途上に9つもサービス・ステーション(depoデポ)を設け、飲み物や食べ物の調達や、応急手当、自転車の修理、さらにはマッサージまでができるようになっている。(前回の最初に掲載した行程地図を参照)食べ物や飲み物は自分でいくらか携行できるとしても、だいたい30kmごとにデポのおかげで、その他のことで何かあったとき、とても助かる。

スタートしてから43km地点に最初のデポがある。しかし、ここまで何の問題もなく快調に前進してきたので、ここで立ち止まってペースを落としてしまうのが、もったいなく思われた。で、このデポに入り込む道には曲がらず、そのまま直進することにした。とたんに人が周りから消えたから、どうやらそれまで一緒に走っていた人はデポで休憩したようだ。

50km地点に差し掛かったところで、自転車のメーターを見ると平均時速25km、ちょうど2時間が経過していたから、自分としてはいい出来だ。しかし、同じ体勢でサドルに座ってきたため、ちょうどその頃から、尻が痛み出す。と同時に、足が回らなくなる。先ほどのデポで休憩をとった人たちに次々と追い抜かれる。時間を節約しようとしてずっと走り続けるよりも、少しでも足を休めて、それから再び自転車に乗ったほうが賢い選択であったのかもしれない。

時計が3時を回ると、空が白んでくる。ライトが無くても他の自転車の位置がはっきりと分かるようになる。湖の対岸に町の明かりが見えたので、とっさに「見よ、あれがヨンショーピンの灯だ」と思ったけれど、実はヴェッテルン湖に浮かぶ小さな島だった。ヨンショーピンまではまだ遥か先。

気力のみで前に進む。快速グループについて行くのもやっと。全行程の6分の1が終わった段階でこんな調子だから、先が思いやられる。グレンナ(Gränna)という町の後に2つ目のデポがあるのだが、ここまでは急な上り坂だ。これを上りきればデポで休憩だ、と思って最後の力を振り絞って坂を上りきるものの、2年前にあったところにデポが無い。今回は1kmほどデポがずらしてあった。

ほうほうのていで第2デポに到着。自転車を芝生の上に寝かせるなり、パンと酢漬けキュウリをもらいに走る。酢漬けキュウリは塩分補給にもってこいだ。


Grännaのデポ。4時ごろ。

自転車のもとに戻ると・・・。なんと、後輪の空気が抜けているではないか! それまで、何の問題もなかったのに、急に! とっさに、疑念が頭をよぎる。誰かのイタズラ? でも、こんな人がたくさんいる中で、何が目的・・・? ともかく、再出発の心構えが既にできていたので、携帯ポンプで空気を注入して、その場しのぎをし、出発することにする。

グレンナ(Gränna)からヨンショーピン(Jönköping)までは、練習で何度も走ったことがあるので問題はない。普段の練習では長く感じられるこの30kmの道のりも、こうして大勢の仲間と走ると、何だか短く感じられる。空気がいつ完全に抜けてもおかしくないので、気持ちが焦る。相変わらず気力だけで走っている。

森の中を駆け抜ける国道の道端にダンボールが立て掛けてあって、メッセージが書いてあった。「頑張れ、私たちのパパ、Henrik。バナナ食べてね。」で、上にバナナが二つぶら下げてあったので、笑ってしまった。

5時を大きく回る頃、ヨンショーピンのデポに到着。タイヤの空気はもった。ここでは、朝食としてマッシュポテトとソーセージが食べられる。少し休憩して、足を休め、気分を入れ替える。しっかりトレーニングを積んでいた二年前とは大違いで、今年は全然体力がない。このまま、ちょっと自分のアパートに立ち寄って、朝刊に目を通して、それから仮眠でも取ろう、などというアホな考えが浮かんだが、鍵はモータラに置いてきた。

Jönköpingのデポ。5時半を回る。

気を取り直して、ヨンショーピンを出発。すると、こんな早朝にもかかわらず、二人の子供を連れた家族が道端を歩いている。もしや、と思って、振り返ってみると、ヨンショーピン在住の“双子の母”さん一家だった! 実は、前日に電話を頂いていた。この大会を見てみたいとおっしゃるので、私自身は4時半頃にヨンショーピン通過だけれど、それ以降もお昼時までは数千台の自転車が立て続けに見られますよ、と答えていた。でも、まさかこんな早くに観覧に来られているとは思ってもいなかった。私の通過が4時半頃と聞いて、その頃から私を探していらっしゃったという。早くから起こしてしまって申し訳ありません。

ヨンショーピンを出て、2kmほど走ったところで、私の後ろを走っていたドイツ人が大声で私に叫びかける。空気がどうの、という。後輪を見ると、ほとんど空気がなくなっていた。やはり、パンクか!? 仕方なく、道端の駐車スペースで停車し、予備のチューブに付け替える。所要時間7分。この間に200人ほどに越されただろうか。この予備チューブも、実は3度パンクした跡があるやつだから、心もとない。

ヨンショーピンの直後にある大きな上り坂を越えてからは、しばらく平坦な国道が続くが、これから先、次のデポFagerhultまで、あまり記憶がない。夜間の戦いが終わり、今度は早朝の戦いとなる中で、眠気とともに感覚が鈍ってくる。スピードは鈍行と快速のあたりを維持。ヨンショーピンのデポで眠気覚ましにコーヒーを飲んでいたけれど、それでも足りない。時速20km以上で走っている最中。周りには時速30kmで追い越していく人もいるから、自転車の上でうたた寝など、もってのほか。突然倒れたりすれば、後続が追突して大事故になりかねない。夜中走ってきた他の参加者は眠気対策にどういうことをしているのだろう。

朝になれど、闘いは続く。


140km地点である、Fagerhultのデポに到着。ここで、パンと酢漬けキュウリとコーヒーを補給。そもそも、運動の最中にコーヒーを飲むのはいいことなのだろうか。カフェインには脱水作用がある、というような話を小耳に挟んだことがあるような気がするが・・・。トイレはどのデポでも大行列。だから、男性は道端の草むらやデポ裏の畑で済ませている。

Fagerhultを出発するも、眠気がひどくなってきて危ないので、150km地点で空き地を見つけ、アスファルトの上で、ヘルメットをかぶったまま仮眠を取ることにする。私のほかに、5人ほどそこで横になっていた。意識と夢との間をさまよいながら10分、15分くらいが経っただろうか。ふと目を覚ますと、頭がシャキッとしていた。

不思議なことにたったの10分、15分の仮眠でも、見違えるほど気分がよくなっているのだ。しかも、足にはエネルギーがみなぎっている。しばらく走り出すと、急行集団が通り過ぎたので、この集団に混じって付いていくことにした。時速は25~30km。足が自然とついて来る。全然しんどくない。絶好調。

この集団は最終的にかなり大きくなって、おそらく30人くらいの集団になった。3列縦隊で整然と走っていく。のこのこと進む鈍行の人や、快速組をよけながら、怖いものなしで突っ走っていく。と思ったら、後ろからシャカシャカと音が聞こえてきて、特急集団や超特急集団が一列縦隊で中央分離線すれすれで軽やかに追い抜いていく。彼らとの相対速度は5~10kmなので、ゆっくりと追い越されるが、自分自身も実は30km近くで走っていることをふと実感したりした。

この大会では、自転車は普段の道路交通ルールが適用される。一般の車に対する規制もない。大会だからといって自転車に何か特別な特権が与えられるわけではないのだけれど、既成の事実として、参加者は道路の片側半分を我がもの顔で走っている。たまに後ろから車がやってくるが、車のほうが徐行して、対向車線を走ってよけてくれる。多くの住民がこの大会のことを知っており、この日はなるべくこの道を選ばないようにしているのか、交通量は少ないが、たまに、前からも後ろからも車がやってくることがあると、車のほうが立ち往生してしまう。自転車は少しはよけながらも、やはり我がもの顔で走っていく。よく事故にならないものだと、不思議に思う。超特急集団の人によっては、追い越しのときに対向車線に大きくはみ出している人もいる。

(連載続く)

Vatternrundan 2005 (1)

2005-06-20 20:33:12 | コラム

ヴェッテルン(Vättern)湖のまわり300kmを走る自転車の大会 ヴェッテルンルンダン(Vätternrundan)の二度目の体験記。私は専門的な知識も経験もない、アマチュアとしての体験談ですので、いい加減なところもありますが悪しからず。

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大会の前日、木曜日にスタート地点であるモータラに入る。電車での移動だが、自転車の持ち運びが大変だ。自転車そのままを列車に持ち込むことはできないから、分解して専用の袋に収納する。列車の車内の荷物置き場は限られているから、邪魔にならない所にちゃんと置けるかということも問題だ。さらには、モータラまで乗換えが二回だから、その度に大きな自転車袋を持って、ホームを行ったりきたりしなければならない。

そんなこんなでも、何とかモータラにたどり着く。この町では、私の父が昨年、間借りをさせてもらった家族の家で、今年も泊まらせてもらう。郊外に建つ二階建ての一軒家で、夫婦と二人の息子が生活しているのだが、このヴェッテルンルンダンの前後は子供の部屋や使われていない部屋、さらには庭においてあるキャンピングカーを総動員して、大会参加者の宿にしている。私たちが間借りしたのは19歳になる長男の部屋。私たちのほかには、7人のスウェーデン人参加者がこの家族のもとで宿をとった。レースに先駆けて、他の参加者と世間話や情報交換ができるのはとてもよい。さらに、ここの家の家族もスタートに向けていろいろと世話をしてくれる。ガレージを空けてもらって、そこで宿泊者はレースに備えて自転車の整備をする。

他の7人の参加者というのは、10回目出場の62歳の男性、初出場の父親と娘のペア、30代の男性(出場回数不明)、初出場の20代女の子三人組。ちなみに、私は今回2回目、私の父は3回目。

大会前日は自転車を調整したり、ゼッケンをもらいに行ったりとのんびり過ごす。ゼッケンのほかICチップが配布され、これを各自が左足に巻きつけてレースに参加するのだ。このチップのおかげで、それぞれの参加者がいつスタートして、途中のポイントをいつ通過し、最終的にいつゴールに到達したかが記録される。こうして、15000人を超える参加者の結果がコンピューターに自動的に記録されるのだ。

次の日は、いよいよ大会当日。といっても、私のスタート時間は深夜0時24分、私の父は1時46分なので、この日はまる一日時間がある。夜中走ることになるので、それに備えて、よく寝ておきたいもの。日中はのんびりした後、夕方から仮眠をとろうと思うものの、結局ほとんど眠れずじまい。横になって時計を見ていると、時計が20時を指す。外はまだまだ明るい。スタート地点ではちょうどこの時最初のグループがスタートしている。それ以降、2分間隔で60人ずつの参加者がスタートを切っていくのだ。


20時に最初の60人がスタート。あいにくの雨。ヒヨコ姿のおじさん!?
(写真は大会関係者撮影)


それまで曇っていたものの、この頃から雨まで降り出す始末。天気予報によれば、深夜にかけて雨がやみ、快方に向かうというので、それが当たることを祈るばかりだ。23時15分、セットしておいた目覚まし時計が鳴り、起き上がる。必要なものが全部そろっているか確認。自転車メーター、予備チューブ、工具、カメラ、携帯電話、サングラス・・・。水のボトルは自転車のフレームに固定し、食べ物は背中のポケットに入れる。左足にはICチップを巻きつける。

父親のスタートは私よりも1時間半遅いので、まず私が先に家を発つ。出かけに父親だけでなく、ホスト・ファミリーのおじさんSonnyがビールを片手に激励してくれる。今年は練習不足だった、果たしてゴールまでたどり着けるのか、という弱気が頭をよぎる。

スタート地点にたどり着いた頃には、スタートまであと15分ほどしか時間がない。スタート地点には柵で囲まれた区域が6箇所、平行に並んでおり、スタート・グループごとに次々と柵の中に入って行く。2分ごとに左の柵から右の柵へと順番にスタートが切られていくプロセスが、20時以降ずっと続いていたのだ。



緊迫のスタート地点の様子。スタート・グループごとに
60人ずつ枠の中に入って出発の合図を待つ。ついに来た。


0時24分、7962人目(ゼッケンの番号)としてスタートを切る。

この時にはもう暗くなっていて、北西の空に夕焼けの残りがかすかに残る程度。最初の1kmはバイクに先導されて、同じグループの60人がゆっくりとウォーミング・アップで走っていく。小さな入り江に面するモータラの岸沿いの細い道を走りながら、入り江の中でライトアップされた大きな噴水が見えるのが、なんとも幻想的。そして、国道に出ると、ここからレースが始まるのだ!

みな、ウォーミング・アップを続けながら、自分のペースを探っていく。それと同時に、集団形成が少しずつ始まっていく。一人単独で走ると、風の抵抗をもろに受けることになるので、誰かの後ろについて、みな風よけにしたいと考える。だから、自分とペースが合いそうな人を見つけて、後ろに連なって便乗しようとするのだ。

例えば、ある一群に追い越されたとき、着いていけそうなら自分も連なっていく。または、ある一群の中で走っているとき、先頭のペースが落ちてくると、後ろの人たちは誰か先に飛び出してくれないかなと、顔色を窺い始める。そして、待ちきれずに集団から飛び出して、先に行こうとする人に、みんなが一気に連なっていくのだ。私もあるとき自分から集団を抜け出して、自分のペースで走っていたことがあったが、しばらくして後ろを見たら10人ほどが一列に私の後ろに引っ付いていてビックリした。先導する立場から見たら、これはまさに金魚のフン!?

こうして集団がどんどん形成されていき、それが次々と変化していく。都会の通勤電車にたとえるならば、こんな感じ:
鈍行
ゆっくり走るアマチュア参加者。たいてい普通の自転車。いかに速く走るかが目的ではなく、24時間かけてでも完走することが目的。彼らの集団形成はあまりない。
快速:時速20km前後
鈍行よりも少し速く走る人のグループ。
急行:時速22~27km
アマチュアでもある程度、練習を重ねてきた人たちの集団。
特急:時速27~32km
10~11時間くらいで完走を目指すグループ。もちろん、みなレース用の自転車。
超特急:時速32km以上
10時間の壁を突破したいグループ。もちろん、このグループの中にもさらに速い集団もいる。例えば、9時間の壁を越えたい人たちは35km以上で走るだろう。でも、私にとっては猛スピードで追い抜いていくという点で、根本的には違いがない。

これだけスピードが違う集団が、国道の片側で追い越し合戦を繰り広げるのだ。私は急行グループ!と言いたいところだけれど、スタミナが切れて快速グループに付いたり、孤独に鈍行で走ったりもする。急行グループに属して走りながら、今はかなり調子がいいなと思っても、後ろから轟音が近づいてきて、10kmも速いスピードで走るグループが一列で軽やかに追い抜いて行くのは、いつ見ても信じがたい。自転車が十数台も連なって走るときの轟音というのは凄まじい。後ろからてっきり車が近づいてきたのかと思うほどだ。

サマータイム制のために、空が一番暗くなるのは夜中の1時。普段ならば、1時でも空がほんのり明るいのだけれど、今回は雲のおかげでかなり暗い。雨は幸い私がスタートする前に止んでいる。時たま半月が顔を出し、時たま見える湖を淡く照らしている。各参加者が付ける自転車後部の赤いライトが国道に沿って果てしなく連なっている。まるで赤い蛍か、火の粉のようだ。


これは二年前の大会の写真。満月


うまく写真に撮れないのだけれど、赤い光が道に沿って延々と続いているのだ

(連載続く)

私のサイクリング日記

2005-06-14 05:31:28 | コラム
大きな湖、Vättern湖の周り300kmを一周する自転車の大会Vätternrundan(ヴェッテルンルンダン)まであと一週間を切ったものの、トレーニングのほうがあまりうまくいっていない。

ヨンショーピン周辺の練習コースは以下の通り。
Jönköping – Gränna
Jönköping – Aneby
Jönköping – Hjo – Karlsborg
Jönköping – Habo – Mullsjö
Jönköping – Skövde
Jönköping – Vaggeryd



このうちKarlsborgまでの往復は2年前に一度試したことがあるが、これはかなりきつい。

スウェーデンをサイクリングの絶好の場として日本に紹介してはどうかと思うことがある。なぜ絶好かというと、まず大きな山がほとんど無いこと。坂道もそれほど多くないし、従ってトンネルもほとんど無い(この点は隣国ノルウェーとは大違い)。それから、交通量が日本に比べたら格段に少なく、自転車で走りやすい。さらに、多くの国道には路肩にわりと広めのスペースがとられている。道端にはそれほどゴミが散乱していない(定期的な清掃車のおかげか?)。一般国道の制限速度というのはなんと時速90kmだが、私の父に言わせれば、スウェーデンのドライバーはサイクリストを見つけると減速し、親切に大きく迂回してくれるがとても印象的なのだそうだ。

問題は大きなトレーラー。2両編成になっているやつで、後ろから轟音とともに近づいてくるときは、普通のトラックか長いトレーラーか分からない。通り過ぎる瞬間に強い横風によって外側に押されるので、バランスを崩さないようにしっかりと自転車を支える。で、やっと通り過ぎたと思っても、2両目がさらに通過する。で、2両目も通過した後は、今度は風が進行方向に流れて内側に思いっきり吸い込まれるので、今度は反対側に力を入れて自転車を支える。こんな駆け引きは今でも気が抜けない。

今日日曜日もやっぱり朝から雨が続くものの、この日を逃したらもう練習する日がなくなってしまう。この日はまだ試したことがない、南方面、つまりヨンショーピンからヴァッゲリュード(Vaggeryd)を制覇してみることにする。武器は詳細な自動車道路地図。これで、どのルートにするか決めるのだ。高速道路や国道のほかに小さな道がたくさんあり、ここを走れば、のどかな農村地帯を心地よく駆け抜けることができる。ただ、入り組んでおり、標識を見逃して道に迷う危険性も高くなる。

この日は出だしから雨がパラついていたが、途中から土砂降りになる。でも、幸い、スポーツ用品店で勧められて買った上着を着ていると、いくら表面はびしょ濡れになっても内側までしみることはない。そして、雨が上がって乾いた風が1時間も吹きつければ、瞬く間に乾いてしまうという優れもの。Högförsというスウェーデンのメーカーだ。

スウェーデンにはテントや寝袋などのキャンピング用品や登山用品を昔から作っている企業がいくつかあり、機能的でその質が高いことは世界的にも知られているようだ。自然の中でのアクティビティに大きな関心があり、国内での需要が相対的に高いためか、国防軍ご用達の軍事産業として国に保護されてきたためか、原因は定かではない。

Vaggerydからの帰路は、高速道路と並行する国道を走る。この道は高速道路ができる前はおそらく幹線道路だったのだろうけれど、今では3分に1台ぐらいしか車に出会わない。それでも、旧幹線道路だけあって幅広くてとても走りやすいのだ。近い将来、自分で「スウェーデン自転車道路マップ」なるものを発行するとすれば、“5つ星”をつけたいほどの絶好のサイクリング・ロードだ。

以前にカールスタード(Karlstad)の北で走った道は、廃線になった鉄道を自転車専用道路に改装した道だったけれど、それまでは電車が走っていた道とあって、かつてのローマの街道を思わせるような一直線で起伏の無い道が30kmも続いていた。これはとてもいい有効利用だと思った。

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大会は今週の金曜日から土曜日にかけて。大会を間近に控えた今では、平日でも仕事が終わった後から、外が暗くなる22時ごろまでサイクリングをしている人を見かける。

春と夏が同時にやってきた!

2005-06-11 23:27:26 | コラム
今週で試験が終了。その前にあった計量経済学IIの試験は予想外によい出来で、High Pass(良)まで0.5点でした。最後のマクロ経済学IIを受けた感触はあまりよくなかったものの、これでおそらく博士課程第一年目をクリアできたかな、というところです。それにしても、この9ヶ月はかなり過酷でした。その反動で、今週は試験以降、ストレス発散。クラスメイトとヨーテボリで朝まで飲んで、帰りの電車で泥酔。それにしても、この季節、4時頃からすごく明るい。

金曜日には静岡大学からヨーテボリ大学へ来られているA教授のご自宅でご馳走になりました。たくさん食べたおかげで次の日はヨーグルトしか口にしませんでした。

今週半ばはとてもよい天気で、真っ青な青空が広がり、太陽がさんさんと輝いている。今年のスウェーデンは曇り空と雨ばかりで、春らしい春が結局来ずじまい。今になって、春と夏が同時に突然やってきた感じ。新聞によると、寒くて雨の多い春のあとは、たいてい暑い夏が来るという。暑くてもいいから、雨の少ない夏になってほしいものだ。

スウェーデン料理と新しい変化

2005-06-09 18:56:55 | コラム
デザインのためにスウェーデンに来る人はあっても、グルメのためにスウェーデンに来る人はあまりいないだろう。肉料理だけでなくて、サーモンなどの魚料理が食べられるのはよいとしても、それから、発酵した魚の缶詰Surströmmingが食べられるのはよいとしても、全般としてはあまりバラエティーにほとんど富んでいないし、味付けも塩味ばかりで、コクがない!

ミートボールköttbullarなどはおいしいけれど、日本人にとっては別に珍しいものではないと思う。(珍しいと言えば、こちらではミートボールに甘酸っぱいジャムを添えて食べるのだ!)ウプサラに住むある日本人夫婦が行っていたのだが、スウェーデンに来る前に東京・六本木のスウェーデン料理のレストランで食べた、オードブルのほうが、本場で食べたスウェーデン料理よりもおいしかったって話していた。六本木のレストランでは日本人向けの味付けをしているということだろう。

ちなみに、日本で「オードブル」とか「バイキング」というけれど、これは英語じゃない。英語ではbuffet-styleという。じゃあ、スウェーデン語かというとそうでもない。スウェーデン語では「Smörgåsbord」。smörgåsというのは、バターをつけたパンのこと。bordは机(食卓)。つまり、長机の端にパンとバターが置いてあり、その後に、サラダや肉料理、魚料理、デザートが様々な皿に並べてあり、それを自分の取り皿に順々にとっていき、自分の席でパンをつまみながら食べるというスタイル。典型的なスウェーデン料理のようだ。時はさかのぼってバイキングの時代にも、祝い事をするとき(例えば、他の国を荒らしまわって勝ったとき?)に人々がいろいろな料理を持ち寄って(一説には、征服した土地の名物を持ち寄らせて)、それを各自が少しずつとって食べた、というから、その辺りの連想から日本人が「バイキング」スタイルと名づけたのだろうか? それとも、もう単純に「スウェーデン」=「バイキング」という連想だろうか?

英語の辞書を見てみたら、smorgasbordという言葉は英語にもなっていた。さらには、日本語の国語辞典にも「スモーガスボード」という項目を見つけて驚いた。ちなみに、スウェーデン語の発音は“スメゥルゴスボード”に近い。(多分これ、カタカナをそのまま読んだら南スウェーデンの方言に聞こえると思いますが)


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そんな“味気のない”スウェーデンの食文化も70年、80年ごろから、スウェーデンに移り住んできた移民によって変わってきたようだ。イタリア料理、ギリシャ料理、トルコ料理の食文化が入ってきたり、今ではどこの街角にもピザ屋・ケバブ屋があって、スウェーデンではファースト・フードになっていたりする。(ケバブはトルコ系(?)の羊肉料理。でも、ここでは安い豚肉を使っているようだ。)

最近では、アジア系のレストランもある。寿司を代表とする日本料理も少し入ってきていて、テイクアウトの寿司パックとか寿司ランチ見たいのもあるけれど、日本人の本職さんが営む日本料理店を除いては、日本料理とは名ばかりで、アジアの他の料理をごちゃ混ぜにした“アジア風料理”店だったりする。

そんな中、先週、レバノン料理を食べた。続きは明日。

ノルウェー国境の町 Stromstad

2005-06-04 06:46:40 | コラム
計量経済学IIの試験は無事終わったものの、前回は即日発表だった結果が今回は長引いている。多分大丈夫だと思うものの、早く結果を知りたい。何週間も結果を待つ宝クジよりも、その週のうちに結果がわかる宝クジのほうが好きだ。

それにしても、Panel dataのrandom effect modelとか、複数等式にfeasible general least squareを適用したり、連立方程式に3-stage least squareを使って推計するモデルを、手計算で解かせるのはやめてほしい。もちろん、電卓持込なのだけど、時間が膨大にかかるし、途中で一つでも計算ミスをすれば、すべてが狂ってくる。なので、たとえ計算ミスをしても、本質をちゃんと理解していることを示すために、行列の式計算を途中途中に示しておいた。

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試験は午前中に終わり、そのまま帰宅して来週にあるマクロIIの試験に備えようと思ったものの、気持ちを切り替えるために、ふとフラっと遠出をしてみたくなった。現在使っている鉄道の定期はヨーテボリ県全域で乗り放題なので、ヨーテボリから西海岸に沿ってノルウェー国境近くのStrömstadに足を運んでみることにした。こうやって、ほんの思いつきで今まで行ったところのない所へ行くというのは、いくら同じスウェーデン国内でどこもあまり変わらないと分かっていても、未だにワクワクする。



ストックホルム沖合いの諸島群と同じように、ヨーテボリ北方の西海岸にも小さな島があちこちに散在していて、とても風光明媚だ。でも、この日はあいにく曇り。電車で3時間ほどで西海岸線の終点Strömstadに着く。小さな港町で、漁業のための漁港というよりも、レジャー用ボートの船着場がたくさんある。ここから、ノルウェー国境まではほんの数キロだ。

なので、ノルウェーとの結びつきも強い。ここの町にあるSystembolaget(国営の酒屋)は町の大きさの割りにドカンとでかい。隣国のノルウェー人がお酒を買出しにスウェーデンにやってくるためだ。スウェーデンも物価は高いほうだけれど、ノルウェーはさらに高い。(好調な石油輸出のおかげで通貨が強いためだと思う) お酒だけではなく、食料品、例えば肉類もスウェーデンのほうが安いらしく、ノルウェー人相手の商売も盛んだ。

この町で働くノルウェー人もいる。昼ごはんを軽く食べたレストランのおやじはノルウェー語を話していた。「持ち帰りか、ここで食べるか?」と聞いてくるのだけれど、「食べる」という動詞、スウェーデン語はätaだけど、ノルウェー語はspisa。これは、スウェーデン語だと「台所のコンロ」(spis)という意味になる。知っていれば問題ないけど、なんか可笑しくていつも笑ってしまう。

ちなみに、今年はノルウェー独立の100周年記念だ。それ以前は、スウェーデンに併合されていた。


町の中心部に隣接する港
遠く続く、小さな島々

レストラン禁煙・オランダ国民投票

2005-06-02 06:53:20 | コラム
6月1日から、スウェーデン国内すべてのレストランで禁煙が義務付けられた。

同じく6月1日に行われたオランダの国民投票では、EU新基本法が地すべり的な展開の末、否決された。これで、他の国もドミノ倒し的に否決する危険性が高まってきた。

明日は、計量経済学IIの試験。6時間。おやつと飲み物には何を持って行こうかな。大学入試の頃と比べて、暗記するのがずいぶん苦手になっていることに気づく。危ないかも。

バーシェベック原発・原子炉の閉鎖

2005-06-01 09:28:29 | コラム
先日、5月31日の真夜中をもって、スウェーデン南部のバーシェベック原発2号機の原子炉が活動を停止した。

1980年に行われた国民投票の結果、原子力発電の放棄が国民によって選ばれた。それから段階的な原発閉鎖を模索するものの、産業界との折衝や、代替エネルギーの確保に時間がかかり、1999年になってやっと、一つ目の原発、バーシェベック原発1号機が寿命がまだあるにもかかわらず閉鎖された。そして、今回が2機目の原発。

70年代は原子力発電の潜在的な危険性が、環境問題の大テーマだった。しかし、それから時代も変わった今、脅威といえば、むしろ化石燃料の使用によるCO2の排出と、それに伴う地球温暖化。この観点からすれば、二酸化炭素を出さない原子力発電は、一つの大きな解決策という見方もある。

国民投票ののち20年以上もかけて、やっと原発削減を実行に移しつつあるスウェーデンの課題は、代替エネルギーをいかに確保するか、ということ。原発でもなく、化石燃料でもない電力源。様々な試みがなされるものの、明るい見通しは立っていない。(ちなみに、一見無理そうな大きな目標を打ち立てて、それを自らに課しながら、解決策を探っていくというやり方は、それはそれでよいことだと思う。京都議定書作成の過程でEUが打ち出した温暖化ガス15%減という目標が、典型的な例だろう。)

今回の原子炉閉鎖の最終的な決定は昨年の10月に与党・社民党と閣外協力の左党(旧共産党)、環境党、それから野党の中央党の合意でなされた。その場の雰囲気というのは、原発廃絶にむけて一歩前進!という斬新たるものではなく、20年以上前に決定された方針への盲目的追従、という惰性的雰囲気が漂っていた。社民党内でも、まだまだ稼動できる原発の閉鎖には疑問の声が上がっていたし、かつて原発廃絶を党是として推し進めた中央党でも、地球温暖化が現代社会に対するより大きな脅威となる中、昔の党の方針を考え直す時期に来ている、と言い出す党員が増えてきていた。にもかかわらず、最終決定の席では、社民党も中央党も(確か、左党も)、党内に荒波を立てかねないこの原発問題を素通りしたく、もう既に決まったことという責任逃れの姿勢で、決断を下してしまった。しかも、今回の閉鎖の背景は今後の電力需要減が見込まれるから、という根拠があるではない。2つの原子炉閉鎖のために減る発電量は、他の原発の原子炉に余分に課すことで解決を図る。

スウェーデンは季節的な電力不足の際には、隣国のデンマークやフィンランドから電力を輸入する。逆にこれらの国は、東欧やロシアから安い電力を輸入している。ということは・・・。そう、ソ連時代のチェルノブイル原発と同型の原発がこれらの地域にはまだ存在するから、そこで作られた電力が北欧に流れ込んでいるということになる。スウェーデンが原発を段階に減らしていくことで、足りなくなった電力がそんな原発から流れ込んでくるようになると、これまた本末転倒というもの。この危険性を唱える者も数多くいる。

何はともあれ、前回に引き続き、今回の原発閉鎖を一番喜んだのは、デンマーク人だろう。というのも、このバーシェベック原発というのはスウェーデンの南部に位置し(ヘルシンボリとルンドの間)、デンマークの首都からは目と鼻の先。実際、デンマークの岸辺から対岸のバーシェベック原発が見えるのだそうだ。それにしても、なんでまたスウェーデンはこんな嫌がらせっぽいところに、原発を作ったのだろう。


ほんと、隣国の首都コペンハーゲンまで目と鼻の先。嫌がらせもいいところ?