スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

Vatternrundan 2005 (3)

2005-06-24 22:32:41 | コラム
この大会では選手の結果を携帯メールで知らせてくれる、というサービスがある。ある特定のゼッケン番号をあらかじめ登録しておくと、その選手が途中の3つのチェック・ポイントを通過するたびに「この選手は~の町を通過」というメッセージを携帯に送ってくれるのだ。家族や知り合いの番号を登録しておけば、今どのあたりまで来たのか分かるのだ。

私の父は私よりも1時間半遅くスタートするものの、スピードは私よりも断然速いので、どこかで追い抜かれる。彼がどこまで来たか分かるように、彼のゼッケン番号をこのサービスに登録しておいた。しかし、彼が定刻通りスタートした、というメッセージは受け取ったもの、その後、一向に途中経過が入ってこない・・・。

変な予感を抱きながらも私はこぎ続ける。時速25km以上で快調に進んできたので、178km地点のHjoデポは通過。この先ものどかな田園地帯が続く。すぐに別の急行集団に追いついたので、これについていく。


参加者のつぶやき

210km地点のKarlsborgデポでは足を休めるために、少し休憩。この町Karlsborgは人口5万人ほどの小さな町だが、スウェーデンの戦時首都機能を備えている。つまり、冷戦中にソ連が東から攻め込んできたときには、第一波で首都ストックホルムが落とされるのが確実なので、その後はこの町に首都機能を移して、反撃を行う、という考えだ。だから、今でも大きな要塞と地下構造があるらしい。

それから、この町にはヨータ運河が流れている。ヨーテボリとストックホルムを結び、近代の産業化の時代に大きな役割を果たしたとか。

Karlsborgを出発して直後に、大きな自転車の行列ができていた。ヨータ運河にかかる橋が上がっていたからだ。個人ボートが5つほど通過。8分ほど待たされる。長い行列になったので、少しでも速く先に進みたい参加者は対向車線にまではみ出して、橋が上がるのを待つが、そこへすかさず白バイがやってきて、警告を発する。


Karlsborg。橋があがるなんで聞いてないぞー!

ここからは緩やかなアップ・ダウンが繰り返し続く。岩山を切り開いて造ったような山道だ。私はなぜか上り坂には強いのだ。坂の長さが分かっているときは、ゆっくりゆっくり時間をかけて登るよりは、一気にエネルギーを燃焼させて登りきってしまいたい。(たぶん筋力がどうのこうのより、性格的なものだろう)だから、登りでは集団よりもどうしても前に出がちだ。で、下りになると、レース用の自転車のほうが速くて、立て続けに抜かれる。私の自転車は摩擦のせいで抵抗が強いみたいで、下りで40kmほどしかスピードが出ない。(他の人は45km以上)でも、また登り坂になると私のほうが前に出て、下りになるとまた一気に越される。

そんな繰り返しで次の小さなデポに着くが、相変わらず父親の所在が不明なので、道端で観戦する人に、深夜から今朝にかけて大きな事故があったというニュースを聞いたか、と思わず尋ねてしまう。小規模の接触事故が数件あった程度、という。なぜ携帯メールで彼の途中経過の通知が来ないか解せないが、システムのトラブルであることを願いたい。父親に追い越されるときには、大声で「ガンバレ」と声をかけてやろうと、常に準備しながら、追い越す人のゼッケン番号をチェックしているが、一向に姿が見えない。もっとも、突然「ガンバレ」と叫んで、ビックリされるか、片手で手でも振り替えされて、落車でもされたら大変だが。


Boviken, Hammarsundsbro

ゴールまであと50kmのところまで来ると、がぜんやる気になる。50kmなんて今まで走ってきた距離に比べたら、ちっぽけなものと思えるからだ。でも、実際はそんなに甘くない。ここからが勝負だ。短いものの急な坂がこの先いくつも続くのだ。大きな坂を前にして、併走していたおじさんが「ここからが正念場」と話しかけてくる。「これが最後の坂だといいね。気楽にいこう」と返すものの、やっぱり上り坂は一気に登りきってしまいたいので、横に出て一気に前の人たちを追い抜いてしまう。言っている自分のほうが気楽ではない。おじさんをずいぶんと引き離してしまった。

左右に森が広がる細い坂道の一つに、二年前の大会で、5人が死傷という大事故が起きた現場がある。反対方向からやってきた乗用車が、自転車の一団に正面から突っ込んだのだ。しかも、この乗用車の運転手は自身もヴェッテルンルンダンに参加して、無事ゴールを果たし、直後に車に乗り、帰宅する途中だったのだ。ゴール直後だったので、疲労がピークに達し、居眠り運転をしたのだ。ゴール後は最低でも6時間は休憩してから運転することという“6時間ルール”があったにもかかわらず。


上り坂はいつでも辛いもの

モータラの手前、20kmからは細く曲がりくねった農道に入る。ラスト・スパートと意気込んで盛んに追い上げてくる人たちがたくさんいる。まだ20kmもあるので、そんなスピードで走っていたら、ゴールに着く直前にバテテしまうと思うものの、やはり廻りにつられて、私もスパートをかける。ゴール後にはビールが振舞われると聞いていたので、それを飲む姿を想像しながら、気力だけで走る。熱く焼けるアスファルトからの熱気とともに、目の前にはビールの蜃気楼が見えるかのようだ。

ゴールの10km手前からは道端に立つ観客の数もどんどん増えてくる。勝利まであとわずか。声援はとても嬉しく感じられる。こちらも手を振り返して、余裕の様子を見せようとするものの、内心は空っぽのタンクで車を運転しているようなもの。

そして、ついにゴール。
記録は、
スタート 00:23
Jönköping (109km) 05:37
Hjo (178km) 09:28
Medevi (282km) 14:12
ゴール (300km) 15:08
所要時間は14時間45分。休憩した時間を除くと13時間ピッタリだった。自転車のメーターによると平均時速23.02km、瞬間最高速度48kmと出てきた。どこで48kmも出したか覚えがない。二年前の記録13時間33分よりは大幅に遅れたものの、完走できただけでも満足と言いたいところだ。

MÅL!! (ゴール)


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心配していた父親のほうだが、実は1時間半近く前に無事ゴールしていた。私の携帯に何の通知も来なかったのは、単なるシステム不良のためらしい。無駄な心配をかけさせられたものだ。彼はスタート前にひざを負傷したため、昨年の個人記録11時間22分は塗り替えられなかったものの、それでも無事完走できてよかった。面白いことに、二人ともヨンショーピンの通過時間が一緒だった。いつの間にかすれ違ったことをお互い知らず、父親のほうも私にいつ追いつくかと、常に注意していたそうだ。

超特急集団を果敢に先導する父(大会関係者撮影)