日経DUALという日本の雑誌によるインタビュー取材が記事になりました。男女平等や女性の労動力率について、スウェーデンの過去50年間の経緯と現在の課題について答えました。似たようなインタビューはこれまでも何度か受けたことがありますが、今回は日本からストックホルムへ遥々来られた記者の方が「50年前はスウェーデンも女性労働力率が当時の日本と同じくらい低かった」という部分に着目し、それを出発点にして記事にまとめてくださりました。
残念ながら、続きは「有料記事」となっています。この日経DUAL(デュアル)という雑誌は、私も取材を受けるまで知りませんでしたが、共働き家庭を対象とした新しいネット雑誌だそうで、育児・家事と仕事の両立やワークライフバランスのための知恵など、興味深い記事がたくさん並んでいます。
記事への補足として、50年前はスウェーデンも女性労働力率が当時の日本と同じくらい低かったことを示すグラフをここで紹介したいと思う。下のグラフは、日本とスウェーデン両国の男性と女性の労動力率(20-64歳)の変遷。労働力率とはその年齢層の人口に対する労働力(就業者と失業・求職者の和)の割合のことだ。OECDのデータベースで入手できる統計データはスウェーデンが1963年から、日本が1968年からなので起点がずれているが、これを見れば分かるように1960年代の時点では、両国の女性の労働力率はほぼ同じ水準だった。しかし、70年代に国による政策や労働組合の積極的な関与によって、女性の労働力率が飛躍的に上昇した。この後押しをした主な政策は、所得課税の個人化、育児休暇保険の拡充、そして、公的保育サービスの整備だといえよう。
では、日本のような「M字型カーブ」もスウェーデンにかつて存在したのか? 下に示したのは、日本とスウェーデンの年齢階層別の男性・女性 労働力率を1960年代から2013年まで並べてみたものだ。
右下のグラフから分かるように、スウェーデンでも1960年代は女性全体の労働力率が低く、はっきりとした「M字型カーブ」とまでは言えないものの、25-29歳、30-34歳にかけて労働力率がさらに低くなる傾向があった。しかし、1970年代に大きな変遷を遂げ、労働力率が急上昇し、1980年には現在の蒲鉾型がほぼ出来上がっていることが分かる。
左下のグラフは日本の推移だ。晩婚化に伴い、凹みの部分が少しずつ右に動きながら、ゆっくりとしながらも「M字型カーブ」自体は解消される傾向にある。ただ、仕事と家庭・育児との両立はまだまだ難しい。それに、仕事を続けるために子供を持たない人が増えていることも「M字型カーブ」を解消に向かわせている理由かもしれないので、その点について詳しく調べてみないといけない。
また、雇用の中身も考える必要がある。育児休暇を終えて労働市場に戻っても、出産前と同じ職場ではなく、パートなど別の仕事であるケースが日本ではまだまだ多い。スウェーデンの場合は、育児休暇中も職場に籍を起き、そして、子どもが1歳~1歳半を迎え、保育所に通い始めるようになれば、それまでと同じ職場に戻るケースが殆んどである(男性の育児休暇も増えているため、夫が育児休暇を取る場合は女性の職場復帰がもっと早い)。一方、スウェーデンが抱える課題の一つは、女性が育児休暇を終えて同じ職場に戻っても、勤務時間短縮(パートタイム勤務)で働くケースが、同じく育児中の男性社員よりも多いことである。つまり、家庭での家事や育児の負担をまだ女性により重くのしかかっていることであり、それをどう解消していくかが政治やメディアなど、様々なところで議論されている。
それから、インタビューにおいて訴えたかった重要な点は、スウェーデンが70年代に女性の労働市場進出を強力に推し進めたそもそもの理由は何か?という問いに対する答えだ(この部分は無料で読める1ページ目にあります)。日本では、それは小国で労働力が足りなかったからだ、とか、経済を成長させるために女性の就労に期待が持たれた、という漠然とした印象が持たれているように感じるが、いや、スウェーデンが女性の社会進出を推し進めた一番の理由は、まさに「男女平等」が社会的な要求となっていたからである。そもそも、性別が違うという理由だけでどうして女性は差別に甘んじなければならないのか、どうして男性と同じように自分の能力を生かして、自分の望む人生を生きられないのか。スウェーデン社会を貫くリベラルな考え方、性別や年齢を問わず個人一人ひとりが社会の主役であるという強い観念が、当時の社会の状況を疑問視し、その解決に必要な政策を要求したのである。
アベノミクスを受けて、日本でも労働市場への女性の進出に関心が集まっているが、その主な動機は労働力不足の解消や経済成長の下支えとすることのようなので、私は正直、大きな違和感を感じている。平等や公正という意識からの女性の社会進出・男女共同参画は、労働不足や経済成長といった問題とは関係なく、推し進めていかなければならないものだと思う。確かに、「経済」を理由にすれば多くの人の心に訴えかけるし、社会を変革していくための一つの契機になるかもしれない。でも、そればかりを全面に押し出しすぎると、女性を経済成長のための道具としか捉えていないようにも聞こえかねない。
残念ながら、続きは「有料記事」となっています。この日経DUAL(デュアル)という雑誌は、私も取材を受けるまで知りませんでしたが、共働き家庭を対象とした新しいネット雑誌だそうで、育児・家事と仕事の両立やワークライフバランスのための知恵など、興味深い記事がたくさん並んでいます。
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記事への補足として、50年前はスウェーデンも女性労働力率が当時の日本と同じくらい低かったことを示すグラフをここで紹介したいと思う。下のグラフは、日本とスウェーデン両国の男性と女性の労動力率(20-64歳)の変遷。労働力率とはその年齢層の人口に対する労働力(就業者と失業・求職者の和)の割合のことだ。OECDのデータベースで入手できる統計データはスウェーデンが1963年から、日本が1968年からなので起点がずれているが、これを見れば分かるように1960年代の時点では、両国の女性の労働力率はほぼ同じ水準だった。しかし、70年代に国による政策や労働組合の積極的な関与によって、女性の労働力率が飛躍的に上昇した。この後押しをした主な政策は、所得課税の個人化、育児休暇保険の拡充、そして、公的保育サービスの整備だといえよう。
では、日本のような「M字型カーブ」もスウェーデンにかつて存在したのか? 下に示したのは、日本とスウェーデンの年齢階層別の男性・女性 労働力率を1960年代から2013年まで並べてみたものだ。
右下のグラフから分かるように、スウェーデンでも1960年代は女性全体の労働力率が低く、はっきりとした「M字型カーブ」とまでは言えないものの、25-29歳、30-34歳にかけて労働力率がさらに低くなる傾向があった。しかし、1970年代に大きな変遷を遂げ、労働力率が急上昇し、1980年には現在の蒲鉾型がほぼ出来上がっていることが分かる。
左下のグラフは日本の推移だ。晩婚化に伴い、凹みの部分が少しずつ右に動きながら、ゆっくりとしながらも「M字型カーブ」自体は解消される傾向にある。ただ、仕事と家庭・育児との両立はまだまだ難しい。それに、仕事を続けるために子供を持たない人が増えていることも「M字型カーブ」を解消に向かわせている理由かもしれないので、その点について詳しく調べてみないといけない。
また、雇用の中身も考える必要がある。育児休暇を終えて労働市場に戻っても、出産前と同じ職場ではなく、パートなど別の仕事であるケースが日本ではまだまだ多い。スウェーデンの場合は、育児休暇中も職場に籍を起き、そして、子どもが1歳~1歳半を迎え、保育所に通い始めるようになれば、それまでと同じ職場に戻るケースが殆んどである(男性の育児休暇も増えているため、夫が育児休暇を取る場合は女性の職場復帰がもっと早い)。一方、スウェーデンが抱える課題の一つは、女性が育児休暇を終えて同じ職場に戻っても、勤務時間短縮(パートタイム勤務)で働くケースが、同じく育児中の男性社員よりも多いことである。つまり、家庭での家事や育児の負担をまだ女性により重くのしかかっていることであり、それをどう解消していくかが政治やメディアなど、様々なところで議論されている。
それから、インタビューにおいて訴えたかった重要な点は、スウェーデンが70年代に女性の労働市場進出を強力に推し進めたそもそもの理由は何か?という問いに対する答えだ(この部分は無料で読める1ページ目にあります)。日本では、それは小国で労働力が足りなかったからだ、とか、経済を成長させるために女性の就労に期待が持たれた、という漠然とした印象が持たれているように感じるが、いや、スウェーデンが女性の社会進出を推し進めた一番の理由は、まさに「男女平等」が社会的な要求となっていたからである。そもそも、性別が違うという理由だけでどうして女性は差別に甘んじなければならないのか、どうして男性と同じように自分の能力を生かして、自分の望む人生を生きられないのか。スウェーデン社会を貫くリベラルな考え方、性別や年齢を問わず個人一人ひとりが社会の主役であるという強い観念が、当時の社会の状況を疑問視し、その解決に必要な政策を要求したのである。
アベノミクスを受けて、日本でも労働市場への女性の進出に関心が集まっているが、その主な動機は労働力不足の解消や経済成長の下支えとすることのようなので、私は正直、大きな違和感を感じている。平等や公正という意識からの女性の社会進出・男女共同参画は、労働不足や経済成長といった問題とは関係なく、推し進めていかなければならないものだと思う。確かに、「経済」を理由にすれば多くの人の心に訴えかけるし、社会を変革していくための一つの契機になるかもしれない。でも、そればかりを全面に押し出しすぎると、女性を経済成長のための道具としか捉えていないようにも聞こえかねない。