スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

『日経DUAL』のインタビュー記事の掲載

2015-01-30 03:23:51 | スウェーデン・その他の社会
日経DUALという日本の雑誌によるインタビュー取材が記事になりました。男女平等や女性の労動力率について、スウェーデンの過去50年間の経緯と現在の課題について答えました。似たようなインタビューはこれまでも何度か受けたことがありますが、今回は日本からストックホルムへ遥々来られた記者の方が「50年前はスウェーデンも女性労働力率が当時の日本と同じくらい低かった」という部分に着目し、それを出発点にして記事にまとめてくださりました。


残念ながら、続きは「有料記事」となっています。この日経DUAL(デュアル)という雑誌は、私も取材を受けるまで知りませんでしたが、共働き家庭を対象とした新しいネット雑誌だそうで、育児・家事と仕事の両立やワークライフバランスのための知恵など、興味深い記事がたくさん並んでいます。



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記事への補足として、50年前はスウェーデンも女性労働力率が当時の日本と同じくらい低かったことを示すグラフをここで紹介したいと思う。下のグラフは、日本スウェーデン両国の男性と女性の労動力率(20-64歳)の変遷。労働力率とはその年齢層の人口に対する労働力(就業者と失業・求職者の和)の割合のことだ。OECDのデータベースで入手できる統計データはスウェーデンが1963年から日本が1968年からなので起点がずれているが、これを見れば分かるように1960年代の時点では、両国の女性の労働力率はほぼ同じ水準だった。しかし、70年代に国による政策や労働組合の積極的な関与によって、女性の労働力率が飛躍的に上昇した。この後押しをした主な政策は、所得課税の個人化育児休暇保険の拡充、そして、公的保育サービスの整備だといえよう。


では、日本のような「M字型カーブ」もスウェーデンにかつて存在したのか? 下に示したのは、日本スウェーデン年齢階層別の男性・女性 労働力率を1960年代から2013年まで並べてみたものだ。




右下のグラフから分かるように、スウェーデンでも1960年代は女性全体の労働力率が低く、はっきりとした「M字型カーブ」とまでは言えないものの、25-29歳、30-34歳にかけて労働力率がさらに低くなる傾向があった。しかし、1970年代に大きな変遷を遂げ、労働力率が急上昇し、1980年には現在の蒲鉾型がほぼ出来上がっていることが分かる。

左下のグラフは日本の推移だ。晩婚化に伴い、凹みの部分が少しずつ右に動きながら、ゆっくりとしながらも「M字型カーブ」自体は解消される傾向にある。ただ、仕事と家庭・育児との両立はまだまだ難しい。それに、仕事を続けるために子供を持たない人が増えていることも「M字型カーブ」を解消に向かわせている理由かもしれないので、その点について詳しく調べてみないといけない。

また、雇用の中身も考える必要がある。育児休暇を終えて労働市場に戻っても、出産前と同じ職場ではなく、パートなど別の仕事であるケースが日本ではまだまだ多い。スウェーデンの場合は、育児休暇中も職場に籍を起き、そして、子どもが1歳~1歳半を迎え、保育所に通い始めるようになれば、それまでと同じ職場に戻るケースが殆んどである(男性の育児休暇も増えているため、夫が育児休暇を取る場合は女性の職場復帰がもっと早い)。一方、スウェーデンが抱える課題の一つは、女性が育児休暇を終えて同じ職場に戻っても、勤務時間短縮(パートタイム勤務)で働くケースが、同じく育児中の男性社員よりも多いことである。つまり、家庭での家事や育児の負担をまだ女性により重くのしかかっていることであり、それをどう解消していくかが政治やメディアなど、様々なところで議論されている。

それから、インタビューにおいて訴えたかった重要な点は、スウェーデンが70年代に女性の労働市場進出を強力に推し進めたそもそもの理由は何か?という問いに対する答えだ(この部分は無料で読める1ページ目にあります)。日本では、それは小国で労働力が足りなかったからだ、とか、経済を成長させるために女性の就労に期待が持たれた、という漠然とした印象が持たれているように感じるが、いや、スウェーデンが女性の社会進出を推し進めた一番の理由は、まさに「男女平等」が社会的な要求となっていたからである。そもそも、性別が違うという理由だけでどうして女性は差別に甘んじなければならないのかどうして男性と同じように自分の能力を生かして、自分の望む人生を生きられないのか。スウェーデン社会を貫くリベラルな考え方、性別や年齢を問わず個人一人ひとりが社会の主役であるという強い観念が、当時の社会の状況を疑問視し、その解決に必要な政策を要求したのである。

アベノミクスを受けて、日本でも労働市場への女性の進出に関心が集まっているが、その主な動機は労働力不足の解消経済成長の下支えとすることのようなので、私は正直、大きな違和感を感じている。平等や公正という意識からの女性の社会進出・男女共同参画は、労働不足や経済成長といった問題とは関係なく、推し進めていかなければならないものだと思う。確かに、「経済」を理由にすれば多くの人の心に訴えかけるし、社会を変革していくための一つの契機になるかもしれない。でも、そればかりを全面に押し出しすぎると、女性を経済成長のための道具としか捉えていないようにも聞こえかねない。

風刺画雑誌『Charlie Hebdo』に対する襲撃事件

2015-01-14 02:48:22 | スウェーデン・その他の社会
フランスで起きた風刺画雑誌『Charlie Hebdo』の編集部に対する襲撃事件については、ここで改めて書くまでもなく非常に悲惨な事件であるし、言論の自由も民主主義にとって非常に重要な原則の一つだ。

今回のような事件が起こると、それぞれの社会における文化の違いが注目されがちだ。確かに、社会的に許容される風刺の程度はそれぞれの社会で異なる。しかし、「言論の自由を標榜する西洋社会」 vs 「風刺に不寛容なイスラム社会」という二分化や「文明の衝突」といったキーワードで今回の事件を捉えるのは、疑問を感じる。

そのようなマクロの捉え方をしすぎると、その双方のカテゴリーの中に存在する多様性が見えなくなってしまう。それに、そのような見方をすることは、まさに今回のような過激派や、今回の事件を政治的に利用しようとするヨーロッパの極右勢力の思う壺だ。また、今回の事件後にパリをはじめ世界各地で行われたデモの参加者の中には、暴力やテロが絶対に許せない、という立場から参加しているけれど、問題となった風刺に対しては躊躇するという人も少なからずいたというし、そもそも『Charlie Hebdo』自体がこれまでもフランスで物議をかもし、賛否両論あった雑誌だ。

数日前のスウェーデン・ラジオのニュースは、中東でも政治や宗教を扱った風刺やジョークがたくさんあることを伝えていた。特に最近は「イスラム国」やそれに従う狂信的な兵士を扱った風刺が流行りだとか。一つの例として紹介されたのがレバノンのテレビで放送されたジョーク。車を運転するキリスト教徒の夫婦。運転しているうちに道の先に検問所が現れ、それがイスラム国のものだと分かる。「もう命はない」と叫ぶ妻。しかし、夫は平然を保ち、「自分もイスラム教徒だ」と検問所の兵士に伝える。そして、その証明としてコーランの一節を暗誦する。ヒゲ面のイスラム国の兵士は「合格だ」と告げて、この夫婦の車を通してやるのだが、後になって妻はその一節がコーランではなくて聖書の一節であることに気づいた。それに対して夫は「狂ったアイツらは無学で、コーランもまともに読んだことがなく、イスラム教が何かも分かっていないだろうから、聖書もコーランも一緒さ」と答える、というジョーク。

ただ、宗教の風刺やジョークといっても、聖人や宗教的な象徴そのものが対象になることはなく、狂信的な過激派他者に不寛容な信者などが対象だそうだ。まあ、日本でも社会風刺や政治ジョークはあるが皇室はタブーだ。それに対し、スウェーデンでは王室はコメディーや風刺の絶好の題材となっている。かと思えば、ヨーロッパの他の国での生活経験があるスウェーデン人の知人は、スウェーデンの風刺なんて全く大したことない、と言っている。同じヨーロッパでも、タブーがほとんどなく、何でも笑いの対象にしてしまう国もあれば、キリスト教を風刺の題材に使うことがタブーとされがちな国もある。だから「西洋社会」vs「イスラム社会」という二分化は現実社会をあまりに単純化しすぎている

二分化に関しては、日刊紙の社説が良かった。タイトルは「そうさ、俺たち vs 彼ら の戦いだ」というもの。しかし、それは右翼たちが使いたがる『俺たち=西洋』『彼ら=イスラム』との戦いではなく、「信念・信教の自由や表現の自由を尊重し、価値観の多様性を認める人々」「それに反対する人々」との戦いだと書いていた。




風刺画の是非については、ケース・バイ・ケースだと思う。無論、法律で規制するなどというのはもってのほかだし、権力や体制、人々が常識と思っている価値観や伝統に対する風刺には立派な意義があると思う。かと言って、描かなくても良いことまでを言論の自由を盾にして描いて、他人をわざと不快にさせたりする人には反感を感じるし、文句も言いたくなる。

スウェーデンでかつて話題になった風刺画に、ラーシュ・ヴィルクス(Lars Vilks)という(自称)芸術家が描いたムハンマド画がある。環状交差点の真ん中にムハンマドの顔をした犬がいる、という絵だが、手書きで適当に書いたような白黒の絵で「これが芸術作品?」というような粗末なものだった。彼のこの絵は(おそらく彼の意図どおり)一部の人々の反感を買った。そして、彼はこれまでに脅迫や殺人未遂、自宅放火などの目に遭ってきた。無論、そのような暴力は許されるものではない。一方で、そのような暴力事件があるたびに彼自身が「言論の自由のヒーロー」として振る舞ったり、周りが彼を持ち上げたりするのをみると、私は非常に嫌な思いにさせられる。確かに、誰にでも言論の自由はあるし、その自由を行使する権利はある。しかし、だからと言って私たちは心に思ったことを何から何まで口にする訳ではないし、その必要もない。誰でも多かれ少なかれ何かに対して差別的な感情を持つことはあるだろうが、多くの人はそれを口にしない。それが恥ずかしいことだということが分かっているからだ。しかし、件の芸術家の場合は、自身の中に存在するイスラム蔑視を「言論の自由」という盾を使いながら敢えてやっているように思える。これは彼のモラルの問題であり、彼の風刺画やモラルを批判することと、言論の自由を擁護することとは両立することだと思う。