ウリパパの日記

自由気ままに・・・

鹿島神宮参拝(2) 2020.6.24

2020-06-30 19:47:15 | 茨城県

ほぼ一週間前の古新聞になってしまいますが、初めて訪れた鹿島神宮の続きを紹介します。拝殿、本殿、仮殿、高房社の見学を終わり奥宮へ向けてスタートです。

 

現在地の紹介。ここから先、鹿島神宮の森を貫く奥参道を進み、鹿園、奥宮、要石を見学します。

 

境内の案内です。

 

鹿島七不思議が紹介されていました。要石はこれから見に行きます。海の音は、浪の響が聞こえてくる方角で天気を知ることができるそうです。鹿島灘までの距離は3km程度。静寂に包まれれば浪の音が聞こえてくるのでしょう。

 

これから進む奥参道です。鬱蒼とした巨木に覆われています。5月1日にはここで流鏑馬神事が執り行われるそうです。

 

入口左手にある石燈篭。元和5年(1619年)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納したものです。江戸時代初期ですね。茨城県指定文化財となっています。

 

台座には蓮弁が彫られています。

 

鹿島神宮の樹叢は茨城県指定の天然記念物。広大な森にはスギ、ヒノキ、スダジイ、タブ、サカキ、モミなどの巨樹が生い茂り、その種類は600種以上にも及びます。生育南限と北限の植物が混ざっているのも大きな特徴です。 

 

しばらく奥参道を進むと、左手に鹿園が見えてきます。神鹿の説明です。古くから鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神))のお使いであると言われています。これは国譲り神話で天照大御神のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、鹿の神霊とされている天迦久神であったことによります。 鹿島の神鹿は長い間大切に保護されていて、一時途絶えた時期もありましたが、昭和32年に奈良と神田神社から神鹿を迎え現在の鹿園が開園されました。

 

鹿園の神鹿です。

 

このような注意書きもありました。犬の連れ込みは厳禁です。

 

鹿園の近くには、さざれ石。

 

由緒ある神社には祀られていますね。

 

再び、鬱蒼とした樹叢の中を歩きます。

 

末社の熱田社が右手にありました。素盞鳴尊をお祀りしています。明治以前は七夕社と呼ばれていました。

 

奥参道突き当りの右側に奥宮があります。奥宮の構造は、三間社流造、向拝一間、檜皮葺。まずは参拝します。

 

御祭神は武甕槌大神荒魂。現在の社殿は、慶長10年(1605) に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものです。 従って境内では最も古い社殿となります。国重要文化財に指定されています。

 

歴史を感じますね。

 

現在の本殿に比べると装飾の派手さはありません。

 

裏側から見上げます。 

 

奥宮の裏手を案内に従い進みます。地元学生が自転車で利用する道を横切り、さらに歩くと、鹿島七不思議で紹介されていた要石に到着。

 

要石の説明です。鹿島神宮のHPに詳しい説明が記載されているので引用しておきます。

地中深くまで埋まる要石が、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています。水戸の徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた、という話が黄門仁徳録に記されています。(引用終わり)

 

 

鳥居をくぐり中をのぞいてみると、予想外に小さいのでびっくり。大きさ30cm程度の石が地上に露出しています。凹みには1円玉。誰かが手で置いたとしか考えられません。

要石を見てから奥宮へ引き返します。奥宮から鹿島七不思議で紹介されていた藤棚や御手洗公園まで下ることができますが、時間がないため戻ることにしました。

 

楼門の傍に芭蕉句碑がありました。ほとんど読めませんが 

   名月や 鶴脛高き 遠干潟

と刻まれています。

 

楼門と大鳥居の間に、末社 稲荷社が祀られていました。御祭神は保食神。

 

大鳥居を出て駐車場へ向かう途中、靇神社というお社がありました。

 

靇神社の説明です。おまつりしているのは高靇神、闇靇神という龍神。鹿島神宮の水を守り火を防ぐ神です。御手洗池に二社、楼門の前後に四社、参道の両側に二社の八龍神と伝えられていますが参道の二社が合祀されてこの靇神社一社となり、明治以降は当町(大町区)の鎮守の社となっています。

 

第2駐車場のすぐ近くに、鹿島アントラーズの「栄光の碑」がありました。碑には茨城県の橋本昌知事の顕彰文、「栄光の軌跡」と題し2001年のJリーグ2連覇までの記録が刻まれています。 

 

石製のサッカーボールです。蛇足ですが、鹿島から国道51号で友部に戻る途中、鹿島スタジアムの横を通りました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿島神宮参拝(1) 2020.6.24

2020-06-28 12:09:55 | 茨城県

茨城県での単身赴任生活を始めて6年近くになります。しかし鹿島神宮を訪れたことは一度もありませんでした。銚子からの帰り道、初めて鹿島神宮を参拝しました。鹿島神宮は日本最古とされる神宮の一つであります。

 

無料の第2駐車場に車を停めて参道を鹿島神宮へ向かいます。途中で見かけた、布袋尊と虎?の石像。

 

鹿島神宮の大鳥居に到着。昔の大鳥居は笠間市稲田産の御影石製で、国産花崗岩の鳥居としては日本一を誇っていました。しかし東日本大震災の余震で倒壊してしまい、その後、境内に自生する杉の巨木を用いた同一サイズの鳥居が平成26年6月1日に再建されました。 

 

鹿島神宮の御由緒です。鹿島神宮は、日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする紀元前660年(皇紀元年)創建の由緒ある神社です。

 

境内の案内図です。

 

参道の先に楼門が見えてきました。

 

まずは手水舎で心身を清めます。新型コロナウイルス対策のため、柄杓は使えませんでした。

 

日本三大楼門の一つに数えられる楼門は高さ約13m。国重要文化財に指定されています。

 

寛永11年(1634)、水戸徳川初代藩主の徳川頼房公により奉納されました。頼房公は水戸黄門光圀公の父君にあたるそうです。

 

左右の随身像です。向かって左側。

 

向かって右側。いずれも弓を携えています。

 

門の両脇には、献酒の樽がずらっと並んでいます。

 

楼門を渡り、振り返ります。左右に木の切り株が掲げられています。

 

向かって右側をズーム。切り株に描かれているのは稲妻。雷神の象徴でしょうか?切り株の左側にある丸い印は何でしょうか。写真ではわかりにくいですが、拡大すると赤いマーク?が表面についています。

 

向かって左側です。同じく切り株に稲妻が描かれ、その右側には金色の丸いマークが付けられています。

楼門から先に進みます。

 

正面には輪くぐりの準備が整っていました。6月30日に、水無月(六月) 大祓茅の輪くぐりが行われます。手順が記載されていたので、説明に従い身を清めました。

 

水無月(六月)大祓茅の輪くぐりの説明です。罪けがれを祓清める古儀です。

 

こちらは大助人形です。地元では約50年前まであったという風習。新型コロナウイルス感染症の早期終息を願い、神宮が公の祭事として初めて採用したそうです。 

 

「大助」は、わらを編んだ高さ1メートルほどの武者人形で、腰には篠竹(ささたけ)の刀を帯びます。地域で差異はあるものの、鹿島神宮の「大神」が東北の地を平定した際に加勢した兵の化身と伝えられています。 

 

大助人形(お鹿島さま)の説明です。大助人形を集落の境に立てることにより、疫病や災厄禍の侵入を防ぎ退散させると伝承されています。

鹿嶋市内では昭和40年代まで、「鹿島さま」の悪魔払いとしてこの風習が続いたが、廃れて今は常陸太田市など県北の一部に残るだけのようです。 

 

茅の輪の右前方には拝殿が控えています。

 

拝殿の奥に本殿。本殿の裏手にはご神木の杉の木。鹿島神宮の森で最も古く、最も大きい木がこのご神木のようです。高さ43メートル、樹齢は約1300年を数えるとか。

 

拝殿にお参りします。

 

右側へまわってみます。拝殿と本殿。

 

拝殿を横から見上げます。

 

斜め後方の本殿。

 

霊杉木です。雷による火災と承応3年(1654年)の大風で倒れましたが、株根は今尚生存しているので不思議とされています。

 

拝殿の前には大豊御竹が奉納されていました。大豊竹は3月9日に行われる祭頭祭の中で五穀豊穣を願うシンボルとなっています。当番になった大字が注連をかけ一年間大切に育ててきた竹です。

 

拝殿の左側にまわってみます。

 

本殿をズーム。ここには御祭神の武甕槌大神がお祀りされています。極彩色と朱漆塗りが鮮やかです。

 

横から見ると豪華絢爛な装飾。まるで日光東照宮のようです。

 

巴紋が目立ちます。

 

こちらは拝殿の反対側にある入母屋造の仮殿。同じく国重要文化財に指定されています。元和4年(1618)、社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納しました。まずこの仮殿に神様をお遷ししてから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営したそうです。江戸時代は楼門を入った真正面にあり、その後2回の移動で現在の場所となっていました。

 

仮殿の説明。

 

質素なつくりですが、カラフルな彫刻が目を引きます。

 

仮殿の横にある摂社高房社。鹿島神宮のHPによると、武甕槌大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した建葉槌神が御祭神です。古くから、まずここをを参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。 

拝殿・本殿、仮殿、そして高房社を見学したので、奥宮へ向けて奥参道を歩いてみることにしました(続く)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬吠埼周辺を散策 2020.6.24

2020-06-27 19:58:46 | 千葉県

昭和の名残を留める銚子電鉄で銚子駅から外川駅まで往復した後、銚子駅から車で犬吠駅まで向かい、銚子電鉄直売店でお土産を購入しました。時間は13時近くになってしまったので、売店近くの食堂(島武)で、銚子港で水揚げされた新鮮な地魚を使ったお寿司を食べてから近くの犬吠埼灯台へ向かいます。駐車場から犬吠テラスハウスの中を抜けると犬吠埼灯台はすぐ目の前です。 

 

明治7年(1874年)にイギリス人技師ブラントンの設計でつくられた高さ約32メートルの日本製レンガづくりの西洋式灯台です。文明開化の先駆けとして明治7年11月15日に完成し、高さは地上から塔台頂部まで31.3m、水面から52.3m。灯台の周囲には銚子ジオパークの遊歩道があり地層や植物を観察できます。

 

入口の前には「幸せを呼ぶポスト」。白い丸型ポストです。2012年3月14日に銚子海上保安部と銚子郵便局が協力して茨城県で保管していた丸型ポストを白い犬吠埼灯台にちなんで白く塗ったもので、 ホワイトデーに設置されたので「恋愛が成就するポスト」、「幸せを呼ぶポスト」、「願いが叶うポスト」とも言われているそうです。

 

まずは入場料を払って敷地の中に入ります。灯台入口の上には「明治七年甲戌十一月十五日初點」の文字が刻まれています。その上には ILLUMINATED 15TH NOVR 1874と英語の表記も。この犬吠埼灯台は、近代化産業遺産と国の登録有形文化財にも登録されています。灯台の上まで登ることができるので、早速登ってみることにします。内部の見学は、新型コロナウイルスの感染拡大防止策として暫く休止してましたが、6月19日から再開されたそうです。99段のらせん状階段と10段近いはしごを登り展望台に到着。雄大な景色が広がります。

 

三方を海に囲まれているため、海を中心とした景色が広がります。展望台はようやく人がすれ違うことができる程度の狭さ。しかも方角によっては強風が吹き付けるため、荷物が飛ばされないよう配慮が必要でソーシャルディスタンシングを意識するどころではありません。幸い先客は誰もいませんでした。眼下には岩礁に荒波が打ち寄せます。思ったほど海は荒れていません。

 

北西は銚子方面。銚子ポートタワーがちょこっと見えます。

 

さらに西には風車が見えます(ズーム)。神栖市波崎の風力発電所でしょう。

 

南西側です。屛風ヶ浦方面を見渡すためにはもう少し高さが必要ですが、これでも海面約50mの高さにあるため海を航行する船舶にとっては十分です。風が強く吹き付けるのと、4名ほどお客さんがやってきたため、5分ほど眺望を楽しんでから、らせん階段を下ることにしました。階段はすれ違いが困難な狭さ。展望台以上にすれ違い時の配慮が必須です。幸い、上り下り共に一人にも出会いませんでした。

 

続いて隣接する犬吠埼灯台資料展示館を見学。内部には犬吠埼灯台の紹介がありました。建材中最も多量に必要とした煉瓦はイギリス製品を勧めるプランとン技師の提案に対し、 日本人中沢技師は国産品使用を叫び、県内に良質の土を発見し、国産煉瓦の完成に腐心した結果、 外国製品に比べて遜色のない優良な煉瓦を完成。灯台・付属舎・宿舎に19万3千枚の煉瓦を使用して灯台を完成させました。レンガ造りの建築物としては日本一の尻屋埼灯台につぐ高さを誇ります。

 

資料館の中には犬吠埼で使われているものと同じ一等レンズが展示されていました。犬吠埼灯台は、日本に5つしかない1等レンズ(1等4面フレネル式閃光レンズ)を使用した第1等灯台。電球は400ワットのメタルハライド電球を使用。110万カンデラの光を放ち 光達距離は19.5海里となっています。展示されているのは1等レンズの第1号として沖ノ島灯台(福岡県宗像市)において大正11年から平成19年まで100年間使用されていたものです。レンズ本体の高さ2.53m、直径3.03m、高さ5.14m、総重量は13トンもあるそうです。回転装置と一体になった展示を見ることができるのは日本ではここだけです。左奥に見える3等レンズと比較するとその大きさに驚きます。

もともと犬吠埼灯台に使用されたレンズは、当時フランス製の1等8面閃光レンズでした。横浜に行幸された明治天皇が犬吠埼に送る前の試運転をご覧になっているそうです。これが太平洋戦争で一部破壊され、現在は灯台局レンズ工場で製造された1等4面閃光レンズが使用されています。レンズは、高さ約2.6m、直径約1.9mもある大きなもので、このレンズを水銀が入った器のようなものに浮かべ、浮かんでいるレンズをモーターで回転させて点灯していているそうです。

 

 

こちらは3等レンズ。東京湾入口の東京灯標で1969年から廃止される2010年まで40年間使われていたものです。

 

日本でのぼれる灯台の一覧が紹介されていました。全部で16基あります。千葉県では野島崎灯台にものぼることができます。昔、子供たちを連れて行った記憶があります。

 

資料館の横には、日本最初の霧信号として尻屋埼灯台(青森県)で使用された霧鐘が展示されています。明治10年11月20日に尻屋埼灯台に取付けられ、明治12年12月20日に新式の蒸気霧笛にその役目をゆずるまで、スコットランド製の時計仕掛けの打鳴器によって、1分間に1回、霧や雨など視程の悪い時に打鐘していました。その後、明治25年4月15日に葛登支岬灯台に移設転用され、昭和12年に故障で業務休止するまで使用されていました。

 

灯台に隣接して犬吠埼霧信号所霧笛舎があります。千葉県のHPから引用します。

旧犬吠埼霧信号所霧笛舎は、濃霧などの視界不良時に音で通信所の位置を船舶に知らせる施設として明治43年(1910)に建設された。霧笛のラッパが突きだしたカマボコ形の屋根(ヴォールト屋根)が特徴的な建造物で、壁から天井に至るまですべて鉄製という明治後期における日本の灯台付属施設の特徴をよく示している。霧笛舎は平成20年(2008)3月に運用を終了したが、現在も建設当時の姿をよく残しており、鉄造霧笛舎として現存する唯一の施設である。
また、この鉄造建築に使用された鋼板は、官営八幡製鉄所の製品を使用したとみられることから、我が国の近代産業発展の一面を示す施設としても価値が高い。(引用終わり)

 

こちらの建物も、国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

 

ヴォールト屋根の霧笛舎の中に入ります。中には霧笛音響装置が展示されています。圧縮空気によりエアサイレンを吹鳴するエアサイレン方式を使用していました。

 

霧で視界が悪いとき「ヴォ―、ヴォ―、ヴォー」という音で船に犬吠埼の位置を知らせていました。鳴り方の周期が霧信号所により異なるため、船舶はその周期からどこの霧信号所から発せられているかを識別しました。旧犬吠埼霧信号所の霧笛は5秒吹鳴、30秒隔てて5秒吹鳴という35秒周期でした。実際に霧笛を聞くことができますが、実際の30秒間隔で5秒警笛サイクルが、2秒間隔に短縮されていました。

 

霧笛舎の中に、フランス製の初代レンズが復元展示されています。戦後しばらくして現在の国産4面閃光レンズに交換されて以降、愛知県犬山市の博物館明治村に展示されていましたが、平成14年の犬吠埼灯台資料展示室の開館を機に里帰りが実現し、個々に展示されることになりました。

犬吠埼灯台資料展示館と霧信号所霧笛舎の見学を終わってから、灯台周囲の散策路を歩いてみました。海岸崖地にたくさんの花が咲いていました。いくつかを紹介します。

 

 

ノアザミ(海岸型)

 

ハマノイブキボウフウ

 

スカシユリ(ハマユリ)

 

ハマタカトウダイ。山に咲くタカトウダイに似ています。

 

ハマボッス。花が終わり果実ができ始めています。

 

これはハマナデシコ?

 

こちらはピンクのハマナデシコ? 自信ありません。

 

遊歩道一帯で観察できる白亜紀浅海堆積物は国指定天然記念物にもなっています。千葉県のHPから紹介します。

房総半島の地表面の大部分は約6,500万年前より新しい第三紀という、新しくて柔らかい地層でできているが、銚子には古く堅い地層が露出している。銚子半島の先端にある犬吠埼灯台下の海岸には、白亜紀に海底で堆積した地層が顔を出している。これが、国指定天然記念物「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」である。白亜紀というと恐竜が生きていた時代で、白亜紀の地層は関東から西に分布するが、そのような古い地層を地表で見ることができる場所は、関東地方ではここだけである。
犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は、浅い海の海底で作られた堆積物である。浅海特有の堆積構造として、海底の砂の表面につけられたさざ波の痕跡が観察できる。この波の痕跡は、波長4~7cm、波高3~6mmで、ほぼ平行に規則正しく並んでおり、このような痕跡を漣痕(れんこん)と呼ぶ。
指定地域とその周辺には、銚子層群犬吠砂岩層が分布しており、砂岩と頁岩の互層をなしている。漣痕はその砂岩層の表面に観察できる。これは、砂の表面にできたさざ波の跡の上に、頁岩層の元になる泥が静かに堆積したまま地層中に保存されたものである。この地層は化石も豊富で、付近ではアンモナイトの化石が発見されたこともある。
指定地域は地表で白亜紀の地層と漣痕が観察できる、全国的にも数少ない貴重な場所である。(引用終わり)

 

 

国指定天然記念物「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」。白亜紀に海底で堆積した地層が顔を出しています。

 

ここで観察できる地層が紹介されていました。

 

砂岩泥岩互層です。

 

帰りに屛風ヶ浦を間近に見ることができる千葉科学大学近くの公園を訪れ、屛風ヶ浦を遠望しました。

 

屛風ヶ浦は長さ10km、高さ20~60mの海岸食。300万年前の地層です。屛風ヶ浦について再び千葉県のHPから引用します。

屏風ケ浦は下総台地を削る海食崖で、千葉県銚子市犬岩から旭市刑部岬まで、新第三紀鮮新世以降の地層から成る露岩の崖が約10kmにわたって分布する。一億年以上前の硬い岩石を基盤として約300万年前~40万年前の海洋性の環境で堆積した犬吠層群と、その上に不整合面で接する内湾的な環境で堆積した香取層や関東ローム層から成る。切り立った落差約60mの崖は、比較的柔らかい火山灰層などから構成されており、波浪の影響で崖面から剥離・落下した土砂が沿岸流により常に運び去られることにより形成されてきた。その侵食速度は年間50cm~100cmと急激であった。 屏風ケ浦の地形は、地質学上、また観賞上の価値が高く、重要である。(引用終わり)

 

足元で咲いていた黄色い花。タイトゴメでしょうか。

 

駐車場近くで見かけた世界一ちっちゃな水族館。残念ながら閉館中でした。

もう少し海岸の散策を続けたかったところですが、鹿島神宮を参拝する時間が無くなってしまいます。夕方にはアパートに戻りたいので、銚子散策はここで終了としました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銚子電鉄の小さな旅 2020.6.24

2020-06-24 22:39:25 | 電車

今日は今月最後の休業日でした。梅雨前線が南下しているため磐梯山へ山登りに行く予定にしていたところ、オホーツク海高気圧からの北東風と上空の寒気の影響が残り、午前中は天気が良くなさそうです。急遽行先を変更し、千葉県最東端の銚子と、鹿島神宮をめぐってくることにしました。なぜ銚子かというと、先日テレビで放映された銚子電鉄に乗ってみたくなったからです。銚子電鉄は関東最東端のローカル線。銚子から外川まで6.4kmを結んでいます。

友部のアパートを8時に出発。銚子まではちょうど100km。高速道路を使わずに2時間20分で到着しました。銚子付近では午前中は霧雨の予報。予報通り、神栖あたりから雨が降り出し、銚子大橋を渡る頃には本降りとなってしまいました。

 

銚子駅近くの駐車場に車を止めて銚子駅へ向かいます。銚子駅前のモニュメントです。

 

銚子電鉄の駅はJRのホームの中にあります。ホームに入ると1番線に大きな醤油の樽。銚子は醤油の町でしたね。

 

雨は予想より早くやみました。2番線ホームの先頭で11時15分発の外川行き電車を待ちます。

 

「絶対にあきらめない銚子」。これが噂の、ネーミングライツによる駅名愛称です。次は「パールショップともえ」仲ノ町です。

 

3000形がゆっくりと入線してきました。元京王5000系ですね。懐かしい。京王線から伊予鉄道へ譲渡され700系として活躍し、平成27年末に2両が銚子電鉄に入線し3000形としてデビューしました。カラーは「澪つくし号」のブルーのイメージカラーになっています。

 

澪つくし号の表示。ブルー一色です。京王線の時代は、赤幕に白字で特急と表示されていました。

 

初海あおいのヘッドマーク

 

車内に入るとこのような中吊りがありました。京王初代5000系コラボ乗車券発売の案内。京王初代5000系はさまざまなローカル鉄道で活躍しているようです。これはさすがに売り切れでしょう。

 

売るものが無くなってきたので音を売り始めたようです。テレビ放送では線路の石を販売してましたが、すぐに売り切れました。

 

車内の様子。この後、多くのお客さんが乗車してきました。

 

沿線の案内図。銚子電鉄は銚子から外川まで6.4kmの区間に10個の駅があります。それぞれに愛称がついています。

 

11時15分に銚子駅を出発。3つ先は本銚子駅。愛称は「上り調子本調子 京葉東和薬品」です。車内案内放送も可愛らしい女性の声で、思わず吹き出しそうになりました。

 

本調子ではなく本銚子駅に到着。次は「かさがみくろはえ」。いや、楽しいですね。車内でも多くの観光客が盛り上がっていました。

 

髪毛黒生に到着。もともとは、笠上黒生いう駅名でした。この駅でタブレット交換を行っていました。いつもはここで列車がすれ違うようです。今日は間引き運転のためすれ違いはありません。

 

6つ目の駅は海鹿島(あしかじま)。ここは関東最東端の駅です。

 

9個目の駅は犬吠駅。OTS犬吠埼温泉駅です。次は終着駅外川。「ありがとう とがわ」と表示されています。

 

外川駅に到着する前、後部の運転台をのぞいてみました。

 

 

終着駅となる外川駅に到着。駅にはデハ800系が展示されています。今は現役を引退して休車となっています。手前にはレトロな郵便ポストとスクーター。昭和の雰囲気ですね。

 

駅の外に出ると、NHK連続テレビ小説「澪つくし」のロケ地の説明

 

このモニュメントはひまわり? 笑顔の塔と呼ばれているみたいです。

 

レトロな駅舎

 

出発を待つ3000形

 

弧廻手形と呼ばれる一日乗車券を購入したので何回でも乗り降り可能ですが、新型コロナウイルスの影響で電車が間引いて運行されているので不便です。

 

帰りは銚子駅の一つ手前の仲ノ町駅で下車。

 

駅では様々なグッズが販売されています。デキ3とデハ1000形の写真が掲示されています。本来であれば仲ノ町車庫を見学できるのですが、新型コロナウイルスの影響で今はクローズとなっています。

 

駅の外からのぞいてみました。左側のデキ3は日本の鉄道で最も小さい機関車で全長4.4m。あと数年で100周年を迎えるそうです。右側は元営団地下鉄丸の内線の1000形。

 

こちらは2502形。これも元京王の5000系です。オール千葉でおもてなしのヘッドマーク。

 

銚子駅側から車庫を眺めます。2002形と2001形が並んでいます。いずれも元京王2010系です。これも懐かしい。京王時代はグリーン車でした。2002形は元西武カラー。2001系は青電色です。正規のダイヤで運行されれば、これらの電車も実際に運用されていることでしょう。

 

2002形のヘッドマークをズーム。2001形に掲出しているマークとは若干異なります。

 

2001形の行先表示板。

 

少し銚子駅側へ進むとようやく1000形が見えてきました。どうやら1000形は1両しか保存されていないようです。

 

 

銚子駅と仲ノ町駅の間の踏切から銚子駅を眺めると、成田線と特急列車の間に銚子電鉄3000形が停車中でした。

 

さて銚子駅で車に乗り、犬吠駅へ向かいます。ここには銚子電鉄の売店があります。まずは、まずえもん神社にお参り。銚子電鉄の救世主「まずえもん」です。黒いマスクを着けていました。

 

まずえもん神社の御守りが販売されていたので、笑売繁盛の御守を購入。もちろん、ぬれ煎餅(お得なわけあり品)もゲットです。「まずい棒」は次回にしましょう。

 

犬吠埼灯台を見学後に屏風ヶ浦へ向かう途中、ちょうど犬吠駅に3000形が到着したところでした。

見どころいっぱいの銚子電鉄の旅でした。悪天候にもかかわらず、多くの観光客が訪れていました。コロナが収まった頃にもう一度訪れてみたいですね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筑西市の中館観音寺を見学 2020.6.18

2020-06-21 21:55:50 | 茨城県

筑西市の内外大神宮から車で10分ほどのところに中館観音寺があります。ここは春になると桜が綺麗なお寺で、茨城百景にも指定されています。本尊は鎌倉時代に作られた延命観世音菩薩で、国の重要文化財となっています。日没まで時間があるので、帰りに立ち寄ってみました。社号標には国宝と刻まれていますが、文化保護法施行前(昭和25年以前) は重要文化財という分類が無かったので、全て国宝に位置付けられた時代の名残でしょう。

 

 

珍しい太鼓橋を渡り石畳を歩くと、正面に観音堂本堂があります。中館観音堂は施無畏山延命院観音寺と号す天台宗の寺院。用明年間(585~587年)法倫独守が開山したのが始まりと伝えられています。

 

説明があるのですが、かすれてほとんど読めません。以下のように書かれているようです。

  国指定重要文化財 観音菩薩座像
  県指定文化財    史跡 伊佐城跡
               工芸 螺細硯箱
               絵画 八景の図 狩野探幽筆
 

本堂は彫刻が見事です。筑西市のHPから引用します。

観音寺本堂は方形造(ほうぎょうづくり)木造平屋瓦葺、主に欅材を用い、桁行五間、梁間五間、前面二間を外陣、奥三間を内陣としますが結界には建具を入れません。ほかに10m2の収蔵庫をつけ、重要文化財の木造観世音菩薩立像を納めています。江戸中期の建造で同時代の特徴をよくあらわし、台輪上の小壁に花鳥や人物の薄肉彫をはめ込み、組物を三手先とし、二重尾垂木尻を龍頭としています。向拝の頭貫を二重の龍の丸彫とし、手挾を4枚入れます。宝暦4年(1754)6月28日補修を記すクサビがあり、また唐戸に寛政7年乙卯(1795)11月の寄進名があります。(引用終わり)

 

江戸時代の作品のようです。扁額には施無畏と書かれています。

 

かなり薄暗くなってきたので、見る角度によっては本堂内の照明が目立つようになりました。仏像に照明が当たっている様子です。

 

階段下まで近寄り、思いっきりズーム。仏様がライトアップされています。重要文化財の木造観世音菩薩立像かもしれません。

 

本堂の裏側にまわってみました。筑西市の指定文化財である伊達行朝公塔がありました。

 

これが伊達行朝の墓です。観音寺との関係が分からないので筑西市の解説を以下に紹介します。

 

一族の旧地である伊佐城の地に建立された供養塔のようです。

 

近くに石仏が並んでいました。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筑西市の内外大神宮を見学 2020.6.18

2020-06-20 18:29:01 | 茨城県

今週は金曜日が休業日でした。あいにく天気が悪いため、在宅勤務の木曜日に高尾の自宅へ戻ることにしました。木曜日は朝7時から勤務を始めたので、夕方仕事を早めに入り上げてアパートを出発します。夏至も近く日が長いため、筑西市の内外大神宮に寄ってみました。ここには国重要文化財(建造物)があるので機会があったら訪れてみたいと思っていました。筑西市といっても栃木県の真岡市に近く、アパートから国道50号と県道216号を利用して50分近くかかります。

 

参道入口。内外大神宮は「ないげだいじんぐう」と読むそうです。文字通り、内宮と下宮の本殿が並んでいます。

 

 

この鳥居は比較的新しそうです。ネット情報では東日本大震災で3つの鳥居が倒壊。この一の鳥居のみが再建されたようです。

 

参道の階段を上ると右手に手水舎

 

正面に拝殿。狛犬がいません。質素なつくりです。

 

拝殿の向かって左側には神楽殿。毎年、春と秋の神社の例大祭で神楽舞が奉納されるそうです。

 

小栗内外大神宮太々神楽は県指定無形民俗文化財となっています。

寛延4年(1751)山城国愛宕郡三嶋神宮宮司らにより内外大神宮宮司に伝授されました。その後、伊勢神楽師の指導を受け、小栗三喜が舞に工夫を凝らすなどして12神楽36座を成立させたといわれています。12神楽とは12の場面のことで、36座とはこの12の場面に登場する36柱の神々のことであり、番外に八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)の無言劇があります。
勇壮な舞と融和的な舞とで構成され、内容は神々の功績をたたえ、平穏な自然と作物の豊穣を祈り、悪を払い幸福を祈願する神楽です。
毎年、春4月21日、秋11月10日(ともに直前の日曜日)の神社の例大祭に境内の神楽殿において神楽舞が奉納されます。(以上筑西市HPより引用)

 

神楽殿を見学後、拝殿にお参りします。

 

拝殿の右手前にある末社

 

そして御遷殿です。遷宮(うつしのみや)とも呼ばれ、神社の神事に重要な役目を担って きました。御遷殿は重要文化財に指定されています。天正2年(1574年)の建立。室町時代の建築物です。現在は覆屋で保護されています。

 

御遷殿の説明です。

 

続いて、拝殿奥の一段高いところに鎮座する内外大神宮へ向かいます。まずは解説の紹介。内外大神宮は大同年間(806~810)に創建され、内宮に天照大神、外宮に豊受大神が祀られています。本殿は応永年間(1394~1427)に火災により炎上したが、延宝七年(1679)十月に再建。両本殿は向って右が内宮、左の外宮は内宮に比べ規模はやや縮小されているが、様式手法は同一の三間社神明造茅葺型銅版葺の建物です。

筑西市教育委員会のHPから引用しておきます。

内外大神宮は茨城県筑西市北郊の丘陵地に所在する神社で、中世には伊勢神宮領の小栗御厨であった地域に鎮座しています。境内は南面し、拝殿後方の玉垣内に内宮と外宮の両本殿が並立し、各々の正面に御門があります。また拝殿東側に御遷殿、南西側に神楽殿が建っています。両宮本殿は、建立当初は現在の拝殿の辺りに建てられ、宝暦3年(1753)頃に、後方の現在地に移されました。
 内宮本殿は、板戸金具刻銘および内部壁板墨書により、延宝7年(1679)に地元の大工によって建立されたことがわかり、祭神は天照大神です。
 外宮本殿は、内宮本殿と同年の建立でほぼ同形式ですが、規模が若干小さくなっています。
 内外大神宮の両本殿は、本格的な神明造三間社本殿で、内宮、外宮の本殿二棟を並立させる社殿形式の古例として重要です。また、天正2年建立の御遷殿や、両本殿の御門も保存されており、伊勢神宮御厨に勧請された神明社の、近世における社頭構成を伝える点においても価値が高いものです。(引用終わり)

 

内宮の御門です。

 

隙間からのぞいてみます。向かって右側が内宮、左側が下宮。いずれも延宝七年(1679)十月に再建されたものです。外宮は内宮に比べ規模はやや縮小されているようですが、見た目ではわかりません。

 

右側の内宮

 

左側の下宮

 

裏手にまわると、そこには神楽師一同によって奉納された末社。二十八社と石碑に彫られていました(28個以上ありました)。

 

再び、下宮側から内外大神宮を眺めます。それぞれに御門があります。

 

拝殿の左手にある末社

 

再び拝殿前に戻ってきました。

規模の小さな神社ですが、とても見ごたえありました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲田神社を訪れる 2020.6.18

2020-06-20 09:14:51 | 茨城県

稲田禅房西念寺に続き、歩いて10分程度のところにある稲田神社を訪れました。縣社稻田神社と刻まれた社号標の先にある大きな鳥居をくぐり、100mほど参道を歩くと階段があります。

 

階段を上ります。

 

階段脇には稲田神社の説明板。御祭神は奇稲田姫之命です。ご由緒については茨城県神社庁のHPから引用します。

百枝の椎の木の下に泉がありました。清らかな良い水が涌きでるので「好井」とよんで人々は水を汲みにきました。その処に稲田姫が現れ「我今降りて此処に居らんとす宜しく我父母の祠と我夫妻の宮を営み好井の水と三田の禾を以て酒飯を作り我に奉ぜよ」とおおせられたので,社殿を造り神霊を鎮斎しました。のちに字宮山に社殿を建てて遷宮しました。その後,火災により焼失し,嘉永元年(1848)に再建されたのが今の稲田神社です。
延喜式内名神大社に列します。(引用終わり)

 

階段の途中に小さな天満宮があります。

 

階段を上ると右手に手水舎。

 

正面の拝殿にお参りします。この社殿は1848年の再建です。

 

拝殿の奥に本殿。周囲を回ってみます。

 

本殿です。

 

ご神木は拝殿の前の左右に2本ありました。拝殿脇から見上げます。

 

拝殿左手のご神木の手前には境内社である脚摩乳神社

 

本殿右手には八雲神社。境内社の中では一番大きな祠です。

 

本殿左手には稲荷神社

 

その手前には秋葉神社

 

拝殿右手のご神木の手前には手摩乳神社。最初に紹介した拝殿左手の脚摩乳神社と対になっています。

こじんまりとした神社ですが、たくさんの祠がありました。

 

稲田神社の周囲は環境保全地域に指定され、緑地が保護されています。ツルアリドオシという花が見られるようです(夏に咲きます)。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲田禅房西念寺を訪れる 2020.6.18

2020-06-19 20:08:56 | 茨城県

今週は昨日木曜日が茨城県での在宅勤務日でした。雲が多いながらもまずまずの天気であったので、昼食休憩時間を利用して稲田禅房西念寺を訪れました。

友部のアパートから車で約20分。笠間の中心部から3kmほど東に向かった国道50号線沿いに佇んでいます。西念寺について笠間観光協会のHPから引用します。

「稲田御坊」の名前で親しまれている稲田禅房西念寺は、浄土真宗発祥の地です。ここには、親鸞聖人がご家族とともに約20年お住まいになり、『教行信証』のご執筆と関東布教を進められた「稲田(の)草庵」がありました。この地に聖人を招き入信した稲田頼重は、厚く仏教に帰依した初代笠間城主の笠間時朝の叔父に当たる人物で、宇都宮氏の一門です。茅葺きの山門は室町初期頃の建立で、境内には御頂骨堂・太子堂・太鼓堂・見返り橋など多くの見所があります。本尊の阿弥陀如来像は宇都宮氏断絶(1597)の際に城内より搬出し寄贈されたもので、『唐本一切経』は県指定文化財です。

 

親鸞聖人がこの地に20年間住んでいたのですね。駐車場の近くに吉川栄治作の親鸞(下巻)からの抜粋が紹介されていました。

 

茅葺きの山門です。鎌倉~室町期の建立とされているそうです。山門の左には、冒頭の写真にあるように「浄土真宗別格本山」の刻まれた大きな石碑が建っています。浄土真宗の中で別格の本山???

 

山門の右手には北条時頼公の歌碑があります。

 いやたかき鷲の峯間に説く法を 
 昔ながらにここに移して

 

山門をくぐります。

右手に大きな石碑、正面に本堂、左手に大きなイチョウの木が現れます。

 

唐本一切経と、お葉付イチョウの紹介がありました。

 

 

唐本一切経はこの宝物庫に保管されています。

 

本堂左のお葉付イチョウ。樹高35m、目通り幹囲7.5mの巨樹です。

 

山門入り左手にある太鼓楼。堂内にある直径2尺8寸(約84cm)の太鼓は、法要の開催などを近在の人々へ伝える際に使用されたそうです。

 

弁円回心の桜。笠間の城主が記念に植樹した桜ですが、明治6年に強風で損木したそうです。

 

本堂です。

 

現在の御本堂は平成7年に再建されたものです。 

 

本堂左手の御杖杉。建保2年に植えられ大木になりましたが、明治4年の本堂焼失時に類焼となりました。

 

隣には神原の井(いど)。鹿島大明神が寄進したとされる由緒ある井戸のようです。

 

 

再びお葉つきイチョウ。茨城県の指定文化財となっています。

 

親鸞聖人がお手植えになったと伝えられています。明治4年の大火の際に類焼したものの、見事に復活したそうです。

 

本堂前から見上げます。

 

早くも銀杏の実が成っていました。お葉つきらしい姿は見られませんでした。樹上ではわかりませんね。黄葉の時期に、葉の上に実を結んだ落ち葉を見てみたいものです。

 

本堂裏手の山へ向かいます。途中に鐘楼がありました。

 

階段を上ります。

 

途中、六角堂ご夢想の山の説明。親鸞聖人が稲田に逗留中の20年間、吾国山を仰ぎ見ていたそうです。今日との比叡山を彷彿とさせると記載されています。

 

これが吾国山の姿。

 

その北側には加波山。

 

太子堂にやってきました。親鸞聖人が尊敬された聖徳太子を祭ったお堂です。天正年間、笠間城主時廣の建立。現在のお堂は延享4(1747)年に再建されたものです。

 

龍の彫刻が見事です。

 

そして一番奥まったところにあるのが親鸞聖人の御頂骨堂です。階段上の門の奥にあるので、ほとんど見えません。現在のお堂は、大正14(1925)年に立教開宗七百年を記念して再建されたものです。

 

由緒記を掲載しておきます。聖人が往生した際、当山第2世の法典房教念が上洛して恵信尼公(聖人のご内室)の深い思し召しをご息女の覚信尼公(末姫)に伝え、聖人の御尊骨を稲田にひそかに分与頂いたそうです。

 

(おまけ)石畳の参道沿いに林照寺が隣接していました。林照寺は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されました。聖人の教えを伝承しているお寺です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨入り後最初の散策は十二社神社 2020.6.14

2020-06-14 22:01:00 | 自然

この週末は梅雨末期のような気圧配置で、日本列島上で梅雨前線が活発になっているため雨が降り続きました。今日の夕方には梅雨前線が日本海に北上したため雨がやみ、少し蒸し暑くなってきました。昨日の歩数は6000歩弱、今日も実家に2回車で往復したこともあって16時まで3000歩と大幅に目標未達となってしまいました。そのため、実家から戻った夕方、雨が小止みになったので近くの神社を散策してきました。

 

興福寺の駐車場北斜面のアジサイです。いつの間にか青く色づいていました。

 

十二社神社に到着。階段を上ります。

 

階段沿いにはホタルブクロが咲いています。

 

イチヤクソウも開花

 

 

本殿へ向かいます。

ヤマユリの蕾

 

稲荷神社の裏手ではシャクジョウソウがたくさん咲いていました。こんなに群生して咲く姿を見るのは初めてです。

 

こちらは開花間もない花

 

片倉城跡公園まで行かなくても、自宅のすぐそばで見られるとは。。。やや暗く湿気のある林床であれば、見つけることができるのかもしれません。

 

帰りに稲荷大明神にお参り

 

稲荷神社のすぐ横に、日吉山大権現(右)と牛頭天王(左)の祠がありました。

結局本日の歩数は9000歩。2日連続で目標未達となりました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨入り前にビオトープ天神の里を訪れる 2020.6.10

2020-06-14 15:41:04 | 茨城県

関東地方は6月11日に梅雨入りしました。今年は太平洋高気圧の勢力が強く陽性の梅雨になりそうです。関東地方では早くも梅雨末期のような激しい雨が降り、今後も集中豪雨に要注意です。

梅雨入りの前日(10日) の早朝、梅雨入り前の青空が広がっていたので、友部のビオトープ天神の里を見学してから出社することにしました。

 

アパ―トから天神の里へ向かう途中、色づいた小麦畑が広がっていました。まもなく収穫の時期をむかえます。

 

反対側には水田が広がります。田植えから数週間経過して青々としてきました。水田の先の森がビオトープ天神の里です。

 

アパートから20分で天神の里に到着。6時を少し過ぎた時間なので他に訪れる人はいません。

 

カキツバタが終わり、木道沿いには目だった花は咲いていません。

 

雑木林を散策します。

 

目的のイチヤクソウを見つけました。

 

全部で10株以上は見かけたでしょうか。

 

月曜日に訪れたひたち海浜公園ほどの大株はありませんが、あちらこちらで可憐な花が見頃を迎えていました。

 

6月1日早朝に訪れた際にも紹介したクモキリソウ。まだ咲き残っていてくれました。

 

駅へ戻る途中に見かけた田んぼの脇の休憩所?

 

栗の花が一斉に開花。梅雨入り間近の朝の早朝散策でした。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快晴の安達太良山登山(4) 安達太良山頂から勢至平経由で下山 2020.6.9

2020-06-12 22:46:28 | 山登り

沼ノ平の爆裂火口跡を見てから、もう一度安達太良山に戻ろうかと考えていましたが、山頂はかなり密な状況になっているようです。ロープウエイを利用した登山客が押し寄せているのでしょう。そこで、矢筈森から直接峰の辻へ向かい、くろがね小屋を経由せずに篭山の東側を直進して勢至平を目指すことにします。

 

もう一度、荘厳な沼ノ平の絶景を目に焼き付けてから下山開始。

 

矢筈森の斜面はイワカガミの群生地です。

 

山側の岩場に咲き乱れています。

 

反対の谷側には、まだ雪渓が残っていました。

 

峰ノ辻からは、背の低い五葉松の中を下ります。蔵王連山や福島の街並みを見下ろす気持ちの良いルートです。

 

ところどころ、ムラサキヤシオツツジが咲いています。

 

くろがね小屋からの林道に合流すると、レンゲツツジが咲き始めていました。

 

林道にはアサギマダラが飛び交っています。花数がまだ少ないため、なかなか止まってくれません。レンゲツツジには興味がないようです。蜜が少ないのでしょうか。

 

白い花はイソツツジ。

 

勢至平に寄り道。レンゲツツジが見頃を迎えていました。

 

周囲を朱色に彩っています。

 

安達太良山をバックに1枚

 

こちらはイソツツジかな?

 

勢至平ではウラジオヨウラクが開花してました。

勢至平から奥岳山麓へ向けてジープ道を下ります。本当にジープが1台上っていったのにはビックリ。途中から林道をショートカットする旧道(登山道)が整備されているので、そちらをを利用します。かなり滑りやすいので、雨上がりの時は使わないほうが無難です。

 

足元にはマイヅルソウ

 

タニギキョウ

途中から、あだたら渓谷自然遊歩道を経由して戻ることにします。木道の遊歩道が渓谷沿いに整備されています。

 

巨大な白い花。何かと思ったらギンリョウソウでした。

 

ツクバネウツギ

 

早くもコバイケイソウが咲いていました。

 

魚止滝を見上げます。

12時30分に奥岳山麓に到着。さっそく営業中の「あだたら山 奥岳の湯」で休憩しました。標高950mにある露天風呂からは新緑の山々を一望します。内湯は源泉かけ流しで全国的にも珍しいpH2.5の酸性泉。筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われている温泉です。先客は3名、密にならずにのんびり休憩できました(終わり)。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快晴の安達太良山登山(3) 安達太良山頂からの眺望と沼の平の絶景 2020.6.9

2020-06-11 20:34:31 | 山登り

今回の登山は、ひたち海浜公園の休園日が火曜日であることがわかった今週月曜日の夜に突然思いつきました。そして、今まで安達太良山を4回訪れた中で一番眺望に恵まれた山登りとなりました。昼を過ぎてもほぼ快晴状態が続いたことから、高原山に登った5月29日以上の登山日和だったのかもしれません。単なる山の写真の羅列で、遠望オタク以外には興味ないかもしれませんが、山頂からの眺望を紹介していきます。

 

まずは、登ってきた尾根の南東の方角です。逆光で霞む中、標高1000m前後の阿武隈山地の山並みが連なります。中央は大滝根山(1192m) でしょう。この方面は特徴ある山容の山が無いため、山座同定は非常に難しいです(笑)。右手前は和尚山へ続く尾根。その先は八溝山や筑波山の方角ですが、さすがに霞んで見えません。

 

南南東には那須連山を遠望します。

 

安達太良山から見ると一番左に茶臼岳(1915m)、その右に三本槍岳(1917m)、右手前に旭岳(1835m)のピーク、その後ろには流石山(1813m)、三倉山(1854m)が東西に連なります。その右の猪苗代湖の先は日光連山の方角となりますが、ほとんど見えませんでした。

南西には尾瀬から新潟県方面の山を遠望できますが霞の中。ちょっと期待していましたが、この方面の山々は冬場でないと厳しいですかね。

 

西側の磐梯山から飯豊山方面の山々は綺麗に見えました。

 

磐梯山(1816m)までの距離はわずか20km。今月下旬にはバンダイクワガタが開花します。今年も訪れてみたいですが、天気次第です。

 

磐梯山頂をズーム。南斜面なので雪はほとんど残っていません。

 

雄大な飯豊山。残雪が青空に映え綺麗です。大日岳(2128m)から飯豊山(2105m)までがひときわ高く、右端の飯森山(1595m)も白く輝いています。

 

安達太良山から続く尾根の先には吾妻連山。西大嶺から一切経山まで連なります。

 

西大嶺から東大嶺をズーム。西大嶺(1982m)、西吾妻山(2035m)、中吾妻山(1931m)の3つのピーク、東吾妻山(1975m) の稜線の先にちょこっと東大嶺(1928m)が見えています。

 

2000mを超える西吾妻山には、まだ雪が残っていました。

 

東吾妻山の右には前大嶺(1911m)と一切経山(1949m)の峰々。一切経山からは手前に高山(1805m)、箕輪山(1828m)、鉄山(1709m)と安達太良山へ向けて南北に峰が続きます。一切経山の東側にある吾妻小富士は箕輪山に隠れて見えません。

 

箕輪山(1828m)の先、北から北東にかけては蔵王から宮城県の山々、眼下には福島市街地が広がります。

 

蔵王連山までの距離は60km足らず。意外と近いのですね。

 

熊野岳(1941m)、苅田岳(1758m)、屏風岳(1825m)、不忘山(1705m)と南北に連なる山を斜めから眺めます。

 

蔵王の右には前の記事でも紹介した北泉ヶ岳(1253m)と泉ヶ岳(1175m)。仙台の北西の方角にあたり、安達太良山からは90km以上離れています。右手前には双耳峰の青麻山(799m)。昔は大刈田山と呼ばれ、蔵王の刈田嶺の噴火を沈めるために遥拝した山といわれています。

 

蔵王の西側、鉄山の稜線の先に気になる山があります。薬師岳から見た気になる山よりかなり東側となります。地図で調べると、月山の東10kmのところにそびえる葉山(1462m)に辿り着きました。100km先の山です。

薬師岳からもう一つ気になっていた石巻湾の先に見える金華山方面はすっかり霞んでしまい、目を凝らしてもほとんど認識できませんでした。

 

眼下に広がる福島市街地と信夫山をズーム。

 

山頂からの眺望を満喫したので、沼ノ平を見下ろす牛の背を北上してみました。爆裂火口跡を見下ろし、磐梯山と飯豊山を遠望します。

 

深さ150m、直径1km近くある荒涼とした爆裂火口跡。まるで月のクレーターのようです。火山性ガスの危険性があり立ち入りが禁止されています。

 

遠くには秋元湖と桧原湖を見下ろします。

沼ノ平の絶景を楽しんでいると、安達太良山頂では霞んで見えなかった南西の方角に雪を抱いた山々がうっすらと姿を現しました。近くの矢筈森に登ってみることにします。

 

まずは手前の磐梯山をズーム。

 

続いて南西の方角を遠望します。写真では分かりにくいですが、左側は会津駒ケ岳、右側は越後駒ケ岳方面でしょうか。

 

会津駒ケ岳をズーム。うっすら雪を抱いた山が連なっています。

 

矢筈森の山頂付近はイワカガミの大群生地帯です。とても綺麗でした。

山頂からの遠望、そして沼ノ平の絶景を満喫できたので、もう一つの楽しみである勢至平へ向かって山を下ることにします(続く)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快晴の安達太良山登山(2) 薬師岳から安達太良山頂へ 2020.6.9

2020-06-10 21:26:42 | 山登り

10時40分に薬師岳を出発します。ちょうどロープウエイの始発が到着したところで、数名の登山客が先を急いでいきました。のんびりと高山植物や周囲の景色を楽しみながら登山道を山頂へ目指します。樹林帯ではハルゼミの大合唱でした。薬師岳から上では小鳥たちのさえずりが聞こえてきます。ホトトギスやカッコウの鳴き声が目立ちます。青空のもと蝶々が飛びかっていました。しかし、何よりも驚いたのは虫の大発生。気温が上がった影響でしょう。刺すことはないので、あまり気になりません。

 

足元にはイワカガミが咲き乱れています。

 

ちょうど、ムラサキヤシオツツジが見頃を迎えています。

 

そして気になる山は、前の記事で紹介したはるか彼方にうっすらと見える金華山。帰って地図で確認するまでは牡鹿半島のあたりかなという漠然とした認識でしたが、高度が上がるにつれて全貌が見えてくるのが楽しみです。しかし時間の経過と共に霞がかかり、肉眼でも識別しにくくなってきました。

 

写真に加工を加えてコントラストをつけてみました。石巻湾の先に浮かぶ金華山と牡鹿半島の山々。晩秋から冬にかけてはもっと鮮明に見えることでしょう。

 

ムラサキヤシオツツジ咲く登山道を山頂へ向かいます。緩やかな登りが続き高度を上げていきます。

 

五葉松平の最上部。

 

白い花はオオカメノキでしょうか。ムラサキヤシオツツジと紅白のコラボです。

 

木々の背が低くなり見晴らしの良い山登りが続きます。薬師岳から見上げた雪渓の横を通ります。正面には蔵王連山と福島の街並み。

 

福島市と信夫山を見下ろします。

 

標高が上がると一面の白い花。ミネズオウの花です。これもツツジの仲間です。

 

山頂が見えてきました。その先には今まで見えなかった吾妻連山が姿を現しました。

 

最後の崖登りで見かけた小さな可憐な花。コメバツガザクラです。これもツツジの仲間です。

 

9時40分。標高1700mの安達太良山山頂に到着。山頂からは磐梯山や飯豊山、吾妻連山などの展望が広がっていました。山頂からの展望については次の記事で紹介します(続く)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快晴の安達太良山登山(1) 奥岳登山口から薬師岳へ 2020.6.9

2020-06-09 20:18:56 | 山登り

茨城県では昨日新型コロナウイルス対策が最低レベルのステージ1に引き下げられ、外出自粛要請や休業要請が全て解除されました。そして今日は会社がお休みです。絶好の登山日和となったので、早起きして安達太良山を登ってきました。快晴の空のもと、素晴らしい眺望に恵まれました。ただし、高山植物にはちょっと早かった印象です。4回に分けて紹介していきます。

5時10分に友部を出発。水戸ICから常磐自動車道、磐越自動車道、東北自動車道を利用し二本松ICで降り、7時30分に、あだたら高原スキー場の駐車場に到着。先着の車は20台程度でした。距離はちょうど200kmです。

 

奥岳登山口から登山開始。雲一つない青空が広がっています。ロープウエイが動き始めるまで1時間待つのも時間が惜しいので、まずは薬師岳まで歩いて登ることにしました。

 

振り返ると、逆光の中、福島の山々が明瞭に見えています。正面は霊山です。

 

途中までは樹林帯を歩きます。ギンリョウソウが咲いていました。

 

勢至平方面へ向かう林道から分かれ、スキー場に沿って薬師岳へ向かいます。後方には阿武隈の山々を遠望できます。正面右は大滝根山方面です。

 

登山道で見かけたツクバネウツギ

 

ムラサキヤシオツツジ。薬師岳から下はほとんど終わっていました。

 

足元にはツマトリソウ。

登山口から40分ほど登ると、樹林帯を抜けて五葉松平に出ます。このあたりからイワカガミが咲き始めていました。

 

ウラジオヨウラクはまだ蕾。唯一咲き始めた木を見つけでパチリ(ボケボケでした)。

 

五葉松平に出ると見事な眺望が広がります。北側には蔵王連山。

 

蔵王の不忘山のすそ野の先には泉ヶ岳と北泉ヶ岳が見えています。

 

8時15分に標高1322mの薬師岳に到着。五葉松平の先には安達太良山が見えています。

 

祠にお参り。大きな賽銭箱です。近くに鐘があったので鳴らしてみました。

 

薬師岳で遅い朝食休憩としました。蔵王連山の右手前は福島の街並み。信夫山が明確にわかります。

 

鉄山と箕輪山、その先には吾妻小富士を遠望します。

 

再び蔵王連山。熊野岳、苅田岳、屏風岳、不忘山と連なります。今まで安達太良山に何度か登っていますが、いずれも天気には恵まれず、今日のように蔵王連山が見えたのは初めてです。

 

蔵王の右奥に遠望する北泉ヶ岳と泉ヶ岳。

 

蔵王連山の左手前に栗子山のピークがあり、その左奥にうっすら山が見えています。地図で調べると100km以上も先の月山に行きつくのですが、月山はまだ冠雪しているはず。どこの山だろう・・・

 

もう少しズームします。

 

福島の町の先には福島、宮城県境の山々が連なります。太平洋が見えないか目を凝らすと、霞の先に浮かぶ山々を発見。

 

逆光なので写真には微かにしか写っていませんが、はるかかなたに山の姿が見えました。地図で調べたところ、130km先の牡鹿半島の山々です。一番右は金華山、その左は牡鹿半島の駒ヶ峰、光山。

 

金華山をズーム。石巻湾の先に金華山が見えるとは驚きでした。山頂に着く頃には霞の中に消えてしまうでしょう。

 

(6月10日追記)

参考に、モノトーンで思いっきりコントラストつけてみました。(追記以上)

 

20分ほど遠望を楽しみながら休憩していると、始発のロープウエイが到着する時間になってしまいました。今までは一人にも会いませんでしたが、ここから先は人気の登山コース。密にならないような配慮が必要です。

 

おなじみの場所でパチリ。

 

残雪と安達太良山山頂。山頂目指してスタートです(続く)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オオウメガサソウとハナハタザオが見頃のひたち海浜公園 2020.6.8

2020-06-08 20:31:20 | 茨城県

6月8日は関東地方の梅雨入り平年日です。今週前半は大陸から移動してくる高気圧に覆われ梅雨前線が南海上に離れるため全国的に青空が広がる予想で、関東地方の梅雨入りは今週後半になりそうです。今日は午後から青空が広がり、笠間で27.9℃、涼しい海風が入った水戸でも25.7℃まで気温が上がっています。

東京から戻ったため今日は友部のアパートで在宅勤務、そして明日は休業日、水曜日から会社の事務所に出社を予定しています。晴天予報の明日は、6月1日に開園したひたち海浜公園をのんびり散策する予定にしていたところ、なんと火曜日が休園日であることがわかりショック。急遽、今日の午後休暇を取得して、ひたち海浜公園に行ってきました(笑)。仕事のほうは、5月、6月と一息ついている状態なので、水曜日からの3日間で何とかやりくりできそう・・・

 

昨年12月以来、ほぼ半年ぶりのひたち海浜公園です。まず向かったのは砂丘エリア。目的はハナハタザオの花です。昨年7月上旬に訪れた時はほぼ終わっていたので、咲き始めに見てみたいと思っていました。

 

砂丘エリアを歩くと、薄紫色の清楚な花が点々と咲いていました。

 

砂丘エリアに咲く花の紹介です。

 

保護エリアでは沢山の花が咲き始めていました。

 

ひたち海浜公園のHPによると、ハナハタザオはアブラナ科ハナハタザオ属。絶滅が危惧される貴重な植物で、環境省の第4次レッドリスト(2012年)では絶滅危惧ⅠA類に指定されています。

 

続いて草原エリアを横断し、観覧車の方面へ向かいます。姫金魚草(リナリア)が満開です。

 

名前の通り、小さな金魚のしっぽのような可愛らしい花です。

 

一方、シャレーポピーは終盤を迎えていました。

 

続いて、常陸ローズガーデンへ向かいます。純白のバラが咲いていました。アイ・スバークという名前のドイツのバラです。

 

常陸ローズガーデンの説明です。HPによると、バラは形・色・香り、そのすべてが美しくエレガントな様から「花の女王」として世界中多くの人に愛され、茨城県の県花となっています。

 

ハマナスの花です。現在、バラの園芸品種は3万種以上と言われていますが、その基をたどると、概ね8種の原種バラにたどり着きます。 原種のひとつである「ハマナス」は茨城県が太平洋側の自生地の南限で、ひたち海浜公園では約1600株を植栽しています。ハマナスが自生する南限地は鹿島にあり、5月27日にその南限地を訪れ本ブログで紹介しました。

 

ひたち海浜公園では沢山のハマナスが咲いていました。

 

砂丘エリアでも見かけたこの白いバラは砂地に這って咲いています。同じく原種の1つであるテリハノイバラでしょうか・・・

続いて、今日のもう一つの目的である樹林エリアへ向かいます。

 

早くもイチヤクソウが満開です。

 

昨年見かけたピンク色のイチヤクソウを探しましたが、昨年ほど色の濃い花は見つけられませんでした。

 

ウメガサソウも群生して咲いています。

 

昨年6月13日に訪れた時よりも開花のペースが早い印象です。

 

目的のオオウメガサソウが見られるエリアにやってきました。今年はガイドツアーは中止となり特別保護区に立ち入ることはできませんが、一般者が散策できるルート沿いでも見ることができます。

 

うつむくように可憐に咲くその姿から「森の妖精」とも呼ばれているそうです。

 

 

オオウメガサソウについてひたち海浜公園のHPから引用します。

オオウメガサソウとは、ツツジ科(旧イチヤクソウ科)の草状小低木(常緑)で、北半球の温帯から亜寒帯を中心に分布し、日本では北海道・青森県・岩手県と国営ひたち海浜公園などごく限られた場所に自生しています。茨城県レッドデータブックでは絶滅危惧ⅠA類に、環境省レッドデータブックでも準絶滅危惧に指定されており、本公園は日本の自生南限地とされています。主に日当たりのよいアカマツ林の林床で生育し、貧栄養な砂質壌土に地下茎を伸ばして、高さ10㎝程の茎の先に淡いピンク色をした直径1㎝程の花を咲かせます。梅の花によく似た花を咲かせるため「ウメガサ」の名がつき、よく似たウメガサソウより大きいことからオオウメガサソウと名付けられました。

砂丘に咲くハナハタザオ、樹林帯に咲くオオウメガサソウ、そしてハマナスの花。イチヤクソウやウメガサソウの群生も見ごたえありました。ひたち海浜公園はネモフィラやコキアで知られていますが、ひっそりと咲く花たちもおススメです。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする