花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

ドイツの旅(6)

2011年10月19日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ドレスデン≫
3日目の午後、バスはニュルンベルクの北東320kmの所にあるドレスデンを目指してハイウエーをひた走った。
途中、コーヒーショップを兼ねた店でトイレを借りた。
ドイツのトイレは、ホテルや食事を摂ったレストラン以外は有料で、入り口にいるおばさんかおじさんに0.3~0.5ユーロ(日本円で30~50円)渡して使わせてもらうのだ。たまに誰もいない時もあった。
ところが、人はいなくて使用料のチケットを機械で買う店が数箇所あった。大抵、0.7ユーロ払うと0.5ユーロの金券が出て来て、それを店で買い物に使えるのだ。勿論1ユーロコインを入れると釣りも出て来た。
しかし、そんなトイレの店を良く観察すると商品価格が高めに設定されていた。しかし3~4枚溜まったのでそれに現金を足してチョコレートを買ったりした。そんなトイレの入り口は1人ずつしか入れないようになっていた。写真のトイレはチューリンゲン駅のトイレだ。コインを入れるとガラスの戸が短時間開く仕掛けだった。(居合わせた女性の了解を得て、写真を写した)
また、日本のような洗浄便座には、1度もお目にかからなかったし、トイレットペーパーはどこのもかなり厚く固めで、節約するように作ってあると感じた。

          

道路沿いの農地には、菜の花が咲いていたり、まだ大きくなっていない甜菜の畑があった。収穫前の枯れたトウモロコシもまだ沢山植えられていた。トウモロコシは多分家畜の飼料用だろう。長い杭が沢山残っている畑は、ビールの製造原料にするホップを植えてあったらしかった。芋などの取り入れが終わったせいか、多様な作物は植えられていなかった。
広大な牧草地も沢山あって、牛が放牧されていた。ヨーロッパでは放牧地と畑地を1年おきに使うと聞いた事がある。

  

ドレスデンに着いたら、すでに夕刻だった。
この町は1945年に爆撃されて町の90%が壊滅したらしいが、第二次大戦後、芸術とバロックの町として復興を遂げたという。
エルベ川を挟んで旧市街と新市街に分かれていて、私たちは旧市街の中心・「劇場広場」でバスから降りた。
広大な劇場広場を囲むように壮大な建造物のザクセン王国時代の「ツヴィンガー宮殿」「レジデンツ城」「ブリューリュのテラス」「ゼンパー・オペラハウス」があった。(一度に多くの建物を見たので記憶が定かでなく、写真の説明に一部間違いがあるかも知れない。もしも気づいた方は指摘をお願いしたい)
「ツヴィンガー宮殿」は、1710~32年にザクセン・ポーランド王のアウグスト大王が建てたバロック式宮城である。噴水のある広大な中庭も印象的だった。中庭に向けて設置されている時計の左右には、マイセンの陶器で作ったカリヨンがあった。

  

「レジデンツ城」は、13世紀に建てられたザクセン王の居城である。
また「ブリューリュのテラス」は「劇場広場」の隅の小高い場所に作られた遊歩道がある庭園で、そこに登ると広場とエルベ川、遠くに対岸の新市街を見渡せた。

  

「ゼンパー・オペラハウス」は1841年に建てられたヨーロッパ屈指のオペラ座で、ワーグナーの「タンホイザー」などが初演された所だと言う。

ひとしきり広場を見た後、少し離れた「聖母教会」に向かう途中にザクセン王の「君主の行列」をマイセン陶器のタイルで描いた101mもの壁画があった。王は自分の強い権威を後世にまで残したかったのだろう。この建物は、現在は交通博物館として使われているそうだ。

 

「聖母(フラウエン)教会」は、11世紀からあるプロテスタント教会のシンボル的教会だ。
1945年2月、英米同盟軍の爆撃で崩壊したが、戦後、崩れた壁の破片はボランティアの市民の手によって番号が振られ保管されていた。1989年ドイツが再統一されると、一気に再建活動が強まり、12500万ユーロという再建費用の大半は市民、諸団体、旅行者の寄付などによって賄われ、ついに2005年、修復再建された。写真をよく見ると、古い石と修復に用いられた新しい石の色が違うのが分かる。廃墟を再建へと導いた市民の熱意と長い間の努力は感動的だ。その前庭には巨大なマルチン・ルターの銅像が立っているが、今回、見学時間を取ってもらえず、内部を見て来られなかったのが本当に残念でならない。

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする