限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第235回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その6)』

2018-11-25 16:06:21 | 日記
前回

漢書読了に勢いを得て、すぐさま同じく後漢書人名索引だけを頼りに標点本の後漢書に取り掛かった。私は、高校生の時、歴史は世界史、日本史とも苦手だったが、それでも、多少なりとも覚えていた後漢時代の「党錮の禁」のあたりの記述では、宦官に対する党人のしぶとい粘りや太学生のステューデント・パワーの生々しい実態を後漢書の記述から直接知ることができた。歴史の授業では、わずか数行程度の、それも乾いた説明で済まされていた事件が圧倒的な臨場感をもって迫ってきた。印象深い話は多いが、以前のブログに書いた范滂と母の会話もその一つだ。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第55回目)『范滂の母の一言と蘇軾の母』

後漢書は現在(2018年)でこそ、和訳が岩波書店(書き下し文)と汲古書院の両方から出版されているが、当時(1985年)は部分訳(平凡社)しかなかった。つまり、日本では、史記や三国志は有名であるが、後漢書は日本に関する記述のある《東夷伝》を除いては中国史学・文学を専攻している学者以外には全く無名の存在といっていいほどだった。(もっとも、三国志も三国志演義は和訳が山のようにあるが、正史の三国志ですら1991年にようやく筑摩世界古典文学全集(3冊セット)で発売されたに過ぎない。)

また、前漢には、劉邦、武帝、司馬遷、李陵、王莽などキャラの立った人物が多数登場するが、後漢には、光武帝を除いては一般的に知られている人物は極めて少ない。私の後漢に関する知識といえば、従ってゼロに近く、後漢書を読むというのはまるで未知の世界を探検しているようであった。本紀は飛ばして、列伝から読み始めたが、途端に、良く耳にする故事成句が目白押しであった。例えば:「千載一会(千載一遇のこと)」「柔能制剛」「疾風知勁草」「吾不食言」「糟糠之妻、不下堂」「遼東豕」などなど。このような文章の面白さにつられて、ずんずんと読み進むことができた。

後漢の時代と言えば、日本では弥生時代であるが、当時の遺跡(吉野ヶ里遺跡など)をみても分かるように、まだまだ文明化のレベルは低い。それに比べ、当時の中国ではすでに貴族たちが大規模で、豪華な土木建築や贅沢な食事を満喫していた。梁冀の贅沢な様子は、私の最初の本:
 『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(P.129)
に資治通鑑の文章を引用して説明した。しかし、資治通鑑の文章のソースである後漢書には、下に示すように非常に細かな部分まで描写されている。
(原文:中華書局の標本点と藝分印書館を示す。ちなみに、前回述べた都留先生の授業の時に配布された漢書や史記というのは、藝文印書館のような全くの白文であった。)

【中華書局の標本点】

【藝文印書館】

日本の学校教育では、歴史イコール「政治史」であり、ここで示したような生々しい(vivid)「生活史」は教科書にはほとんど出てこない。この点について、『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(P.11)で次のように述べたが、これは後漢書を読んでいる時に非常に強く感じた点である。
 「…歴史書と言えばたいてい政治的あるいは経済的な事柄の記述がメインである。従って、帝王の名前や系図、戦争の記述が大半を占める。それを読んでいると、あたかも人気(ひとけ)が全くない世界で、政治や戦争だけが一人歩きしている観を覚える。しかし、中国人は史書とは人間の体臭がぷんぷんとにおってくるものでなければならないと考えていた。古くは『春秋左氏伝』、『史記』、『漢書』、『後漢書』などがそうであったし、歴代の王朝が編纂した膨大な二十四史はすべて現代人の眼には歴史書というよりむしろ人物伝集成のように思われるであろう。」

さて、後漢書を半分程度読んだところで、急に仕事が忙しくなった。文字通り平日は「セブン―イレブン」で、休日も半分以上は、プログラムの設計やコード書きをしなければならず、とても漢文に時間が割く余裕がなくなった(下記ブログ参照)。その内に結婚、子供の誕生と家庭環境も変わった。また、留学から帰国以降、ずっとドイツ語をなおざりにしていたので、かなり錆びついていたことに危機感をもった。私は、ドイツ語には特別な思い入れがあり、ずっとハイレベルをキープしたかったので、再度ドイツ語に時間を割き、セネカ、プルタークなどを読みだした。このような事情で、後漢書を読むのは途中でストップし、1985年から10年間は、漢文に関しては当面、閉店状態となった。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第158回目)『IT時代の知的生産の方法(その6)』

この10年間、仕事をこなしている中で OSやプログラミング(主としてCとawk)に関する知識を大幅に向上させることができた。というのは、CMU(カーネギーメロン大学)の環境では UNIXを使い慣れていたが、私が担当したシステムのOS(RSX-11M、OS/2)は UNIXではなかったので、非常に不便に感じた。それで、部分的にUNIXのツールをC言語で書いて移植したが、こういったツールの制作はその後、私が漢文検索システムなどを作成するための、いわば準備体操となった。

CMUでは、工学系の大学院生はC言語ができることが必須であったので、私も頑張ってC言語をマスターしたが、それでもやはり、実際に仕事上で必要とされる技術水準にはとても足りなかった。しかし、ハードな仕事をこなすうちに徐々に技術レベルが向上した。例えば、自動倉庫やタイヤの自動仕分け装置などのリアルタイムのデータ管理システムでは高速のデータベースが必要となるが、当時(1985年から1990年)のミニコンやPCのハードディスクの性能は遅く、とても使い物にならなかった。それで、メモリー上で動く簡易データベースを私自身が設計し、コーディングした。データベースを設計してみるとそれまで単なる知識として覚えていた doubly-linked list(双方向リンク)や、ハッシュの使い方などが非常によく理解できた。

結局、10年間プログラマー兼プロジェクト・リーダーとして幾つかのリアルタイムシステムのプロジェクトを遂行する過程で、百万行近くのCソースコードを読み書きし、さらにUNIX流のツール制作と、オンメモリーのデータベース制作を経験して、私はようやくコンピュータシステムに関してはプロとして十分通用するレベルに到達したと感じた。このような経験があったからこそ、後日、漢文検索システムを難なく作成することができたのだと感じている。それ故、この10年間は、確かに漢文は殆ど読まなかったのだが、漢文上達の下準備期間だったといえる。

さて、このように10年ちかく漢文から離れていたが、再度、漢文に熱中するのは1995年からだったが、それはある事がきっかけで、その後の私の人生を大きく変える出来事であった。

続く。。。
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