限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第384回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その227)』

2018-11-22 22:37:00 | 日記
前回

【326.憮然 】P.3709、AD417年

『憮然』とは「がっかりと失望するさま」である。辞海(1978年版)には「憮」は「失意貌」(失意の貌)と説明し、「憮然」は「猶帳然」(なお帳然のごとし)「茫然自失之貌」(茫然自失の貌)と説明する。私は「憮然」は「失望して肩を落とす」というような縮こまった態度というより、「ふてくされて不満げな表情をする」という、苛立ちと恨みを心の奥底に抱いている、そのようなニュアンスを「憮然」には感じる。

「憮然」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。全体で63回というのは、決して少なくない回数であるが、出現がほとんど宋以前に偏っている。清史稿での出現がゼロというのは、現代の中国では全く使われていないことを表している。



資治通鑑で「憮然」が使われている場面を見てみよう。五胡十六国時代、南には東晋が、北には後秦があったが、 417年に東晋の武将・劉裕(後に劉宋を建国した)が部下の王鎮悪と攻め込んできた。

 +++++++++++++++++++++++++++
王鎮悪は渭水を遡り、小さな軍艦に乗り込んだ。船の漕ぎ手は皆、船室に身を隠していたので、岸から見ていた後秦の人たちは、無人の船が勝手に動いているかのように思い、誰もが「神ではないか!」と驚いた。王鎮悪は渭橋にたどり着くと、兵士に食事が終われば皆、荷物を持って岸に上がるように命じ、遅れる者は斬るぞと脅した。兵士が全員船から上陸すると、渭水の急な流れに、船が全部流れ去ってしまい、たちどころに見えなくなってしまった。(さて、この時、後秦の姚泓の軍にはまだ数万人もの兵がいた。)王鎮悪が兵士に向かっていうには「我らの家は江南にあるが、ここは、長安の北門で、家から何万里も離れている。その上、船や衣服、食糧も全部、流れた。今や敵との戦いに勝てば功名ともに得ることができるが、敗ければ、ここに朽ち果て、骨も故郷にもどらない。勝つしか道はないのだ。皆のもの、奮闘せよ!」そういって、王鎮悪は先頭に立って進んだので、兵士たちも、われ先にと突進した。渭橋で姚丕の軍と戦い、大勝した。姚泓は兵を率いて姚丕を救いに来たが、姚丕の敗残兵たちに踏みつけられ、戦わずして総崩れとなった。王族の姚諶たちも皆、戦死したので姚泓はただひとり馬にのり王宮へ逃げ戻った。

王鎮悪は平朔門から城内に入った。姚泓は姚裕たち数百騎と共に馬に乗り石橋へと逃げた。東平公の姚讚は姚泓が敗れたと聞くや兵を率いて駆け付けたが、皆、壊滅してしまった。胡翼度は大尉の劉裕に降伏した。姚泓も降伏しようと考えた。当時、姚泓の息子の仏念は11歳であったが父に向かい「晋人は我が国を滅ぼそうとしています。たとえ降伏しても殺されるに決まっています。自決しましょう。」姚泓は憮然として返事をしなかった。仏念は宮殿の塀に登り、飛び降り自殺して果てた。

鎮悪泝渭而上、乗蒙衝小艦、行船者皆在艦内;秦人見艦進而無行船者、皆驚以為神。壬戌旦、鎮悪至渭橋、令軍士食畢、皆持仗登岸、後登者斬。衆既登、渭水迅急、艦皆随流、絛忽不知所在。時泓所将尚数万人。鎮悪諭士卒曰:「吾属並家在江南、此為長安北門、去家万里、舟楫、衣糧皆已随流。今進戦而勝、則功名倶顕;不勝、則骸骨不返、無他岐矣。卿等勉之!」乃身先士卒、衆騰踊争進、大破姚丕於渭橋。泓引兵救之、為丕敗卒所蹂践、不戦而潰;姚諶等皆死、泓単馬還宮。

王鎮悪入自平朔門、泓与姚裕等数百騎逃奔石橋。東平公讚聞泓敗、引兵赴之、衆皆潰去;胡翼度降於太尉裕。泓将出降、其子仏念、年十一、言於泓曰:「晋人将逞其欲、雖降必不免、不如引決。」泓憮然不応。仏念登宮牆自投而死。
 +++++++++++++++++++++++++++

最後の攻防戦で、全軍が壊滅したのに、後秦の王である姚泓は自決する勇気がなく、降伏してなんとか生き延びようと考えた。しかし、わずか11歳の息子の仏念はすでに後秦の命運が尽きたことを悟り、自殺の道を選んだ。

最近(2018年10月)出版した『資治通鑑に学ぶリーダー論』(河出書房新社、P.151)には「人の器量は危機の時にこそ」と題したエピソードを幾つか載せた。社会的に高い地位にいる人が必ずしもしっかりとした考え(哲学、人生観)を持っていない例には事欠かない。

続く。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする