限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第28回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図』

2011-03-27 21:51:12 | 日記
昨年(2010年)亡くなった梅棹忠夫氏が日本人について次のようなことを言っていた。
『アジアの大陸的古典国家は、人間のあらゆる悪 -- 悪ということばは悪いですが -- どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところなのです。日本人のようなおぼこい民族が手をだしてうまくいくものと違うのです。わたしはアジアをずいぶん歩いていますので、そのことを痛感しています。』(『文明の生態史観はいま』梅棹忠夫・編、中公叢書、P.220)


この好適なサンプルとして史記の世家・第16の『田敬仲完世家』に載せられている次の文章を見てみよう。

中国の戦国時代の斉の国で、成侯と言われていた騶忌と田忌は犬猿の仲であった。それを知った公孫閲はある方策を騶忌に授けた。『公は斉王に魏に戦争を仕掛けることを勧めてはいかがでしょうか?当然、田忌が将軍となり戦争に出かけるでしょう。もし、田忌が戦功を建てればそれは、戦争を提言した公の功績となりましょう。もし田忌が敗北すれば、戦死するか、逃げ帰ってきても敗戦の責任を取らせて殺してしまうことができます。いずれにしても公に有利でしょう。』
【原文】公孫閲謂成侯忌(騶忌)曰:「公何不謀伐魏,田忌必将.戦勝有功,則公之謀中也;戦不勝,非前死則後北,而命在公矣.」


公孫閲の提言は、元来、魏に対しては戦争をしかける大義名分は全くないが、単に田忌に対する私怨を晴らすために、魏と斉の両国何十万人もの命を犠牲にすることを何とも思わない中国人の冷酷な一面をまざまざと見せつけてくれる。これは、毛沢東が劉少奇など数名の政敵を抹殺するために、文化大革命なる運動を起こし、数千万人もの罪のない人々を巻き添えにしたのと全く同じ趣旨である。

梅棹氏がこれらのことを念頭においたかは定かでないが、冒頭でのべた指摘は流石に鋭いところを衝いていると感心する。

さて、私がこの公孫閲の言論で指摘したいのは実はこのような中国人の陰湿な策略ではなく、レトリックの点である。物事の前提Aがあったとする。そのAが成立する時には、Xが成り立ち、 Aが成立しないときには、Yが成り立つという論理は、前提条件が尽くされている。つまり、世の中には、Aが成り立つ時か、成り立たない時の2つの場合しかないので、この両方に対して、結果が記述されているということは、場合が網羅的にカバーされていることになる。この観点から言うと、公孫閲のレトリックの凄い点は、このどちらの条件が成立しても、必ず騶忌が有利になることである。

このような『悪魔のレトリック』をすんなりと考えだすことができるのが、中国人であり、そうすることができないのが『おぼこい』日本人である、と梅棹氏が指摘したのだと私には思える。

これまでを前ふりとして、いよいよ私の言いたいことを述べようと思う。

高校の日本史の授業などでは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬申・丁酉の倭乱)の目的は秀吉が明を征服することだったと教えられる。日本人全体に関する統計的なデータは知らないが、大抵の日本人はこの説を信じている(あるいは信じさせられている)ように思える。私もずっとそのように思っていたが、ある時からこの考えは間違っているのではないかと考えるようになった。それは、当時の秀吉の立場に立って考えてみて初めて分かったことであった。

豊臣秀吉という人間は、人格的にはいろいろと非難はあることは私も承知している。しかし、人格と知能とは別物である。私は、秀吉はかなり知能的に優れていたと思っている。確かに秀吉は、信長の天下統一の事業をうまく引き継いでいくことで、権力の頂点に立つことができたのは事実であるが、その全国統一のやり方を見ても決してバカではなかった。秀吉の知的判断から考えると、とても誇大妄想にかられて明の征服を真剣に考えたとは思えない。結果的に朝鮮出兵をしたのは事実ではあるが、これはもっと別の理由があったに違いないと私は考える。

結論を述べると、朝鮮出兵とは、危険な軍人(侍)の削減という極めて難しい課題の解決のための口実であったということだ。

全国統一された後には、各戦国大名同士の闘争の削減と自分へ刃向かう勢力の一掃が秀吉を悩ませていたに違いない。しかし、罪なしに抹殺したり弾圧したりすれば、相手が武士だけに、却って自分の方が危ない、と秀吉には分かっていたはずだ。これら危険分子の危ない牙はどうすれば抜けるか?この設問に対する自問自答の答えが『朝鮮出兵』であった。出兵した兵士が彼の地で死ねば、全く本来の目的が達成されたことになる。反対に連戦連勝で、朝鮮を横断して明まで攻め入り、遠征軍が中国を征服したとすれば、朝鮮なり中国を領土としてこれらの侍に与えればよい。いづれにせよ日本から侍が減る訳で、これまた本来の目的が達成できることになる。これは冒頭で述べたレトリックと同様、朝鮮へ出兵した兵士が勝っても負けても、秀吉に不利なことは考えられない。つまり、秀吉の朝鮮出兵は、全国統一で不要となった日本の侍を捨てるために、日本、朝鮮、明の三国の民や兵、数百万を巻き込んだ壮大な悲劇であった、と私は考える。

この不要となった武士を死地に送る、という策略は明治になってからも提言され、実行された。征韓論、しかり、征台の役、しかり。これら事件の当事者は、そんなことはない、と言い張るに違いないが、論理的に考えると、そうとしか私には考えられない。

【参照ブログ】
 惑鴻醸危:(第53回目)『定説への挑戦:豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図(補遺)』
コメント (1)
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