限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第58回目)『趙苞、母と妻子を見殺しにして忠義を全うする』

2010-11-09 00:23:01 | 日記
私が以前から漢文を読むべし、と勧めているが、その一つの理由が、特に中国の史書に多いのだが、 
『漢文の中の文章には、人としての生き方を教えてくれる貴重なものが多い』
ということは再三述べた。
 沂風詠録:(第44回目)『熱血の忠臣、顔杲卿と顔真卿』
 通鑑聚銘:(第27回目)『第五倫の私心のありなし』
 通鑑聚銘:(第38回目)『命を賭して上奏文を提出した朱寵』

ここでいう人としての生き方というのは、確かに儒教的な要素を多く含むのだが、そのような狭い教義に囚われない何か非常に大きな要素を感じる。その例が、ここに取り上げる趙苞だ。

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資治通鑑(中華書局):巻57・漢紀49(P.1844)

遼西太守・甘陵の趙苞が任地に着いて、落ち着いたので、使いを出して母と妻子を呼び寄せようとした。母の一行がもうすぐ到着するとき、途中の柳城で鮮卑が一万人もの大軍で進入してきたのに出くわし、趙苞の母と妻子が人質として捕まってしまった。鮮卑は人質を引き連れて辺りの郡を寇掠した。趙苞は二万人の騎兵を引き連れて鮮卑の軍と対峙した。賊の鮮卑は趙苞の母を引き出して、趙苞に見せた。趙苞は号泣しながら母に言った。『子としては、僅かの俸給でも母の世話ができるのが何よりの親孝行です。それにも拘わらず、親不孝な事態になってしまいました。昔は母の子であったが、今や王の臣下としては、私情を殺してでも公恩に報いなければいけません。君に不忠であれば、それは万死に当たり、その罪を逃れることはできません。』

遼西太守甘陵趙苞到官,遣使迎母及妻子,垂當到郡;道經柳城,値鮮卑萬餘人入塞寇鈔,苞母及妻子遂爲所劫質,載以撃郡。苞率騎二萬與賊對陳,賊出母以示苞,苞悲號,謂母曰:「爲子無状,欲以微祿奉養朝夕,不圖爲母作禍,昔爲母子,今爲王臣,義不得顧私恩,毀忠節,唯當萬死,無以塞罪。」

遼西太守・甘陵、趙苞、官に到り,使いを遣して母及び妻子を迎え,当に郡に到らんとす;道、柳城を経るに,鮮卑、万余人の塞に入り、寇鈔するにあたる。苞の母、及び妻子、遂に劫質するところと為る。載せて以って郡を撃つ。苞、騎二万を率い、賊と対陳す。賊、母を出し、以って苞に示す。苞、悲号し,母に謂いて曰く:「子たるに状なし,微禄をもって朝夕、奉養せんと欲す。図らず、母のために禍をなす。昔は母の子たりしも、今は王臣たり。義として、私恩を顧みるを得ず。忠節を毀つは、ただ万死に当たる。もって、罪を塞ぐなし。」
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私は、中国や朝鮮の歴史を読んでいて悲惨に思うのは、彼らの周りには地続きに雑多な異民族が住んでいて、不意に侵攻してくる。全くの他人であるだけに、その寇掠の狂暴さは筆舌に尽せない。そこでは、暴力だけの世界で、情は全く一顧だにされない。



遼西太守の趙苞は国境の地に赴任したが、運悪く母と妻子が敵の鮮卑の軍に捕まってしまった。中国人の親孝行の念は我々日本人は到底かなわないほど深い。母が捕らえられたことで、趙苞は忠義か孝行かの厳しい二者択一を迫られた。囚われの身の母が趙苞に呼びかけた。

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資治通鑑(中華書局):巻57・漢紀49(P.1844)

母が遠くから趙苞に言った:「威豪よ、人には天命があるのだから、私達のことは心配せず、忠義を尽くしなさい。」それを聞いた趙苞は進軍して敵を皆殺しにした。その間、趙苞の母と妻子は敵に殺されてしまった。趙苞は戦果を上申をした後で、母と妻子の葬式を行うため故郷に帰った。帝(霊帝)は弔問の使いを送って慰め、趙苞を諭侯(諭は本当はおおざと偏)に叙した。葬式を終えた後で、趙苞は村人に言った「俸給をもらいながら難題がふりかかったからといって逃げては不忠だ。母を見殺しにして義をまっとうしたからといって親には不孝だ。私はもはや生きているのが面目ない。」。趙苞はとうとう血を吐いて死んでしまった。

母遥謂曰:「威豪,人各有命,何得相顧以虧忠義,爾其勉之!」苞即時進戰,賊悉摧破,其母妻皆爲所害。苞自上歸葬,帝遣使弔慰,封諭侯。苞葬訖,謂郷人曰:「食祿而避難,非忠也;殺母以全義,非孝也。如是,有何面目立於天下!」遂歐血而死。

母、遥かに謂いて曰く:「威豪よ,人、おのおの命あり。何ぞあい顧りみて以って忠義を虧くを得んや、なんじ、それ勉めや!」苞、即時に進み戦う。賊、悉く摧破す。その母、妻、みな害するところとなる。苞、上より帰りて葬す。帝、使いを遣わし弔慰し,諭侯に封ず。苞、葬訖りて,郷人に謂いて曰く:「禄をはみて難を避けるは,忠にあらざる也;母を殺してもって義をまっとうするは,孝にあらざる也。かくの如くは、何の面目ありてか天下に立たんや!」遂に血をはいて死す。
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趙苞は、母と妻子が殺されることを覚悟で、敵を攻めて職務を全うした。しかし、親を見殺しにしたという負い目は彼に生きる力をなくした、というのが結末であった。(ところでこの節から判断するに、趙苞には母の存在はあっても妻子の存在はなかったのだろうか?)

現在の日本人には趙苞の生き方に賛同しない人が多いだろう。趙苞は侯、つまり大名に叙せられたのだから、後半生は優雅に暮らすことが保証されていた。長生きして、母や妻子の冥福を弔うことも可能であったのだが、そういう生き方は、考えられないというのが、この節で示される古代中国人の孝行の理念なのだ。

よく『日本には武士道がある』と誇らしげに言う人がいる。武士道に見られる自己犠牲の精神や、克己心は日本人特有の美点であるかのように吹聴している。私はこういった日本中心の狭い見方には反対である。この趙苞の話もそうだし、以前述べた顔杲卿の話もそうだが、熱烈な忠義心は中国人にも見られる。一方、西洋をみれば武士顔まけの烈女もいた。プルタークのブルータス伝によれば、シーザーを暗殺したブルータスの妻、ポルキアはブルータスの戦死を聞いて、生きる意義を喪失し、自殺しようとした。ところが、召使たちが鋏や刃物類を全て隠してしまったので、燃えさかる炭火を飲み込み壮絶な死を遂げたといわれている。(ただし、このプルタークの記述は史実ではないという指摘もある。)

私が言いたいのは日本の武士だけに、これらの美徳が見られると考えるのは、世界を知らない無知からきているということである。現在の国際社会を生きていくうえで日本中心の狭い了見は他国の人々の反感を買うだけだ。他国の歴史をもっと虚心に読み、それぞれの民族のもつ美風を客観的に評価すべきだと私は考える。
コメント
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