限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第44回目)『熱血の忠臣、顔杲卿と顔真卿』

2010-03-04 10:25:03 | 日記
書の名人といえば王義之が筆頭であるのは、万人の認めるところである。しかしその次といえば、いろいろと意見があろう。顔真卿(がん・しんけい)は唐の人で、骨太の特徴的な字体を創り出した人で、王義之に次ぐと推す人も多い。私は昔、学生のころに彼の字を初めて見たとき、そのあまりにも『肉感的』な字体を好きになれなかった。その後中国(台湾、香港)に行き、看板などで顔真卿の字体がかなり多く使われているのを見て、中国人の好みが分かった。その後自分でも徐々にではあるが、顔真卿の書体のよさも理解できるようになった。



さて、顔真卿は書道界の寵児ではあるが、彼自身はそれよりも義士としての行き方で称揚されたいと思っているのに違いないと、私は思う。唐の玄宗皇帝の楊貴妃への寵愛が遠因となって惹き起こされた安史の乱(安禄山・史思明)では、太守(日本でいう知事相当の役職)が次々と賊軍に下って命拾いしていくなか、孤立しながらも敢然と賊軍に対峙した。顔真卿には、従兄に顔杲卿(がん・こうけい)という人がいる。史書(旧唐書と新唐書)にこの人たちの伝があるが、この内、新唐書の部分を抜き出してみよう。

まずは、顔真卿が玄宗皇帝を感激させた話。

玄宗皇帝が、河北に誰一人として忠臣は居ないのか!と嘆いたのに対して、李平が視察から帰ってきて、顔真卿が孤軍奮闘していると伝え、玄宗が『こんな素晴らしい忠臣がいたのに知らなかった!』と喜んだ。

安禄山反,河朔尽陥,独平原城守具備,使司兵参軍李平馳奏。玄宗始聞乱,歎曰:「河北二十四郡,無一忠臣邪?」及李平至,帝大喜,謂左右曰:「朕不識真卿何如人,所為乃若此!」

次は顔杲卿が賊軍・安禄山に攻め落とされ、寝返るかを聞かれ、断固拒否したがための悲劇的結末の場面。

安禄山が顔杲卿の城を攻め取り、末っ子の顔季明の首に刃をあて、降参しろと脅した。顔杲卿が脅しを無視したので、安禄山は顔盧逖もあわせて二人の子供を殺した。それでも屈しなかったので、関節を外され、肉をそがれながらも顔杲卿は声を限りに安禄山を罵り続けた。頭にきた安禄山は、ついには、その舌をペンチで引き出して切ってしまった。顔杲卿、悶絶死す。享年65歳。

取少子顔季明加刃頚上曰:「降我,当活而子。」顔杲卿不答。遂并盧逖殺之。杲卿至洛陽,禄山怒曰:「吾擢爾太守,何所負而反?」杲卿瞋目罵曰:「汝営州牧羊羯奴耳,窃荷恩寵,天子負汝何事,而乃反乎?我世唐臣,守忠義,恨不斬汝以謝上,乃従爾反耶?」禄山不勝忿,縛之天津橋柱,節解以肉喰之,詈不絶,賊鉤断其舌,曰:「復能罵否?」杲卿含胡而絶,年六十五。

こういう熱血漢を従兄に持つ顔真卿もまた熱き義士であったのだ。

私が以前から漢文を読むべし、と勧めているが、その一つの理由が、特に中国の史書に多いのだが、
 『漢文の中の文章には、人としての生き方を教えてくれる貴重なものが多い』
ということである。その実例をこの顔杲卿と顔真卿の従兄弟に見ることができる。
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