長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

『宮崎吾朗氏(宮崎駿先生・長男)には才能がないのか?』結論=才能は無い訳ではない。親父が大天才過ぎるのが吾朗さんの不幸。もっと酷いのはザラにいる。駿氏と比べるほうがおかしい、の説

2021年12月31日 19時51分57秒 | 日記









『宮崎吾朗氏(宮崎駿先生・長男)には才能がないのか?』結論=才能は無い訳ではない。親父が大天才過ぎるのが吾朗さんの不幸。もっと酷いのはザラにいる。駿氏と比べるほうがおかしい、の説がヤバイ!!


 2021年が終わり、2022年が始まろうとしている。
そこで、〝不運のひと〟宮崎吾朗氏(アニメ監督・宮崎駿先生の息子さん・長男。次男は版画家)について、触れてみたい。まずは、『宮崎吾朗氏に才能がないのか?』ということについて。
正直、そんなに大天才というほどではないが、才能はある方だと思う。
もっと酷いのはザラにいる。大酷評の『ゲオ戦記』でさえ、あれでもつくれない輩などザラにいる。しかも、監督もアニメの経験も無いのに、あれだけ出来たのはむしろ奇跡だ。
正直いって、つまらないアニメ映画だ。
だが、例えば、我々が急に「週刊少年ジャンプに明日から連載漫画を描いて!」と言われて、描けるものだろうか?? きっと酷い作品しか生みだせないに違いない。
大天才の宮崎駿先生と比べるから、落ちるのであり、誰だって駿さんと比べられたら見劣りがするのは当然だ。だが、吾朗さんが美空ひばりの息子みたいに本当になるだろうか?
宮崎駿氏、鈴木プロデューサー亡き後、それはわかるが。
吾朗さんは美空ひばりの息子さんというより、武田信玄の息子の勝頼か、上杉謙信の(義理の)息子の景勝ではないのか?? どちらも二代目で、苦労人だ。
武田は滅び、上杉は残った。だが、それも運によるところが大きい。
吾朗氏のことに戻ると、映画『ゲオ戦記』は確かに、酷かったし、映画『コクリコ坂から』もつまらなかった。『山賊の娘ローニャ』(NHKで放送された連続アニメ番組)もつまらなかった。
『アーヤと魔女』もイマイチ。
しかし、それも宮崎駿と比べるからで。あの大天才と比べたら、そりゃあ、誰だって見劣りがするにきまっている。宮崎駿や押井守や庵野秀明と、宮崎吾朗さんを比べても〝生産性〟〝意味〟がない。親父と息子は別人格である。比べるな!
だが、世の中には吾朗氏の作品でさえも作れない凡才がもっともっと大勢いる。
吾朗さんが美空ひばりの息子みたいになったら残念だが。多分、彼はならない。
というより、宮崎吾朗氏は中国に行くのではないか?? 『逆・出稼ぎ』というか。
宮崎駿の息子だからと、比べられ、本当にかわいそうというか。それなりに才能もある方なのに。比べるのがそもそもの間違いであって。駿氏が大天才過ぎるだけで、吾朗さんが無能なのではないのだから。
親父が偉大すぎる苦労はそのひとにしかわからないだろう。
わたしの父親は凡才だから、なんともないが。自分の親父が駿氏だったら……。地獄ですよね。
だからこそ、宮崎吾朗氏には頑張ってもらいたいですね。
プレッシャーや妬みやひがみ、憎悪、誹謗中傷、そういうものに負けないで!
そういって去りゆく2021年ともさよならをしよう。


    長尾景虎  2021

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『池上彰 今どきの常識アップデート(年末3時間スペシャル)』池上彰のニュースそうだったのか?!(2021年12月25日放送分)参照引用。©テレビ朝日

2021年12月29日 13時04分39秒 | 日記







『池上彰 今どきの常識アップデート(年末3時間スペシャル)』池上彰のニュースそうだったのか?!(2021年12月25日放送分)参照引用。©テレビ朝日(まとめ長尾景虎)より

*10代20代の世代は○世代→Z(ゼット)世代。(アメリカの学者が80~90年代をX世代、90~2000年代をY世代としたから。ちなみに、Z世代の次はα(アルファ)世代)
*『若者』って何歳まで?→(18歳?20歳?25歳?30歳?40歳?)→39歳まで若者。
*今どきの若者の就職で一番の人気の職業は?→公務員(不況だと公務員が人気*他 声優・漫画家・パティシエ・youtuber・eスポーツ選手(ゲーム)・ボカロPなど)
*新入社員は会社に何年いるつもり?→3年間
*初任給やお年玉の使い道は?→貯蓄(貯金)
*給料が二倍になったら何に使う?→投資
*夫婦の財布 今どきはどうしている?→共働きが多いので〝別別の財布〟
*今の世代で支出がもっとも多いのは?(通信費?食費?税金や社会保障費?)→税金や社会保障費(食費が多いなら国が貧しいということ)
*もっとも多く納める税金は?(所得税?法人税?消費税?)→消費税(景気に左右されない安定的な税金)
*暗号資産(仮想通貨)のメリットは?→ビットコインなどの仮想通貨はパソコン上で利用され、ネット上で二十四時間安全に使える。為替や景気に左右されない。(仮想通貨といわなくなったのは〝通貨〟(法定通貨)じゃないよね?ということ)
*スマホでのニュースは〝Yahoo!ニュース〟〝ラインニュース〟〝Twitterのニュースやドキュメント〟→スマホで声で聴く。「今日の天気は?」(検索せず声で聴く)(テレビを見ないの訳)(地震速報もスマホ。テレビではない)(天気予報177 時報117)
(新聞購買率(約6割)60歳(71.6%)70代以上(84.0%)お年寄りが新聞を読んでいる。だが、ネットだと自分の好きな分野の薄い文章ニュースだけ。新聞はあらゆる範囲で高情報)
*時給七百円?(安い)→今は時給千百円(少子高齢化社会での人手不足)
*結婚や出会い(昔(60~70年代)合ハイ(合同ハイキング・50年前)(80~90年代)合コン(合同コンパ)(2000~2021年代)今はマッチングアプリ(SNS))
*「団塊の世代」(1997~1949年)「しらけ世代」(1950~1964年)「バブル世代」(1965~1969年)「氷河期世代」(1970~1986年)「ゆとり世代」(1987~2004)「Z世代」(2005~2010年)「α世代」(2010~)
*昔の定年は55歳。今は75歳定年。→定年なくなる?元気ならいつまでも働いて!
*年金(60年代「胴上げ型」2020年「騎馬戦型」2050年「肩車型」)

****会社のマナー違反*****(今どきありえない!)
✖休日の仕事の連絡  ✖尊敬する人物(思想や宗教の侵害) ✖仕事以外で部下に連絡
✖「ああ~、今日の朝まで残業だった~。あ~疲れた~」(強要になる)
✖テレワークでは残業代なし(残業代は出さないと駄目)✖履歴書の顔写真と性別(LGBTQ)

*登校時減っていること、理由も。→名札(個人情報)+スクールカウンセラー
*出席(男列読んで、次に女列→男女平等に反する)
*二宮金次郎像撤去、何故?→「児童労働」「ながら作業」
*小学生が一番使っている鉛筆の濃さ?→2B(筆圧が減圧した。体力が落ちた)
*10代が一番に選ぶ部活No.1は?→ダンス部(学校でダンス必修に)
*来年度から小学校で必修な教科は?→プログラミング教育
*小中高のテストでかわったことは?→記述式。考え方や式を書かせ、理解度を図る。
*来年度から高校の必修科目は?→金融・投資・株式
*高校で世界史と日本史が合本、何故?→世界史しかわからず、日本の歴史に無知な者多くて。
*英語で自己紹介をしてください。(マイネームイズ…✖)I am IKEGAMI AKIRA。
*体積の単位・リットル(ℓ)✖→L
*英語の筆記体は今の学校では習わない。(必修は1995年まで)
*「自分の頭で考える」→(答えのない問題)AI自動運転で、前に小学生男子、右にハンドルだと高齢女性、左にハンドルだと電柱……さてどうする????

*SDGsの意味→(持続可能な開発目標)
*SDGs日本の課題(ジェンダー平等とか魚や森の保全とか)*90年代より日本のODAは年間一兆円から五千億円に減少した。
*カーボンニュートラル(Co2(二酸化炭素)を実質ゼロにする(温暖化効果ガスの削減))
 (日本のプラスチック15%地中に埋める。85%は火力発電で燃やす。実質排出削減量22%)
*世界で砂不足の原因(コンクリートやスマホの原料*砂漠の砂は粒子が細かすぎて使えない)
*世界一石油が採れる国(アメリカ・シェールオイル)
*日本は何番目にお金持ち?(世界第三位。二○一○年に中国に抜かれた。今度インドに抜かれそう)
*日本国が観光に力を入れる理由(国内消費が減り続けるから)
*日本がいちばん輸出入する国は?(中国。二位がアメリカ)
*家電世界一の国は?「中国」(世界貿易の18%)安かろう悪かろうから、日本の企業を吸収合併して、技術者をヘッドハンティングして高品質に、も。
*Co2のいちばんは牛のゲップ。捕れなくて、サンマが高級魚に。

                    続く。
いかがでしょうか。あなたは時代の最先端に情報をアップデートできてましたか??
では。また。つづく。


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『マーガレット・サッチャー』池上彰「世界を変えた10人の女性 お茶の水女子大学特別講義」(文春文庫)『第五章 マーガレット・サッチャー 元・英国首相1925年~2013年』より参照引用

2021年12月23日 16時15分00秒 | 日記















『マーガレット・サッチャー』池上彰「世界を変えた10人の女性 お茶の水女子大学特別講義」(文春文庫)『第五章 マーガレット・サッチャーMargaret Thatcher 元・英国首相1925年10月18日~2013年4月8日イギリス生まれ』より参照引用。
 みなさんにとって、サッチャーは、やはり、歴史上の人物ですか? 私には「同世代」の政治家のイメージですが。サッチャーのイメージってなんでしょうか?
 学生「『鉄の女』と言われて、強くて冷たいイメージです」
 強くて冷たい。なるほど。
 学生②「この前、映画化されました」
 観ました?
 学生②「いや、観てはいないんですけど、映画を紹介するニュースを見て、イギリスを立て直したと言っている人もいれば、破壊したと言っている人もいて……」
 はい。その通りなんだよね。サッチャーを高く評価する人もいれば、まったく評価しない人もいる。非常に評価が分かれています。
 ただし、首相を退いて、時が経てば経つほど評価をする人が増えています。歴史的には高い評価がかなり出てきています。
 これからサッチャーがどんなふうに世界を変えたのか? 語りますが、「鉄の女」ってどういう感じで「鉄の女」なのか? 知らない人の方が多いんじゃないかな。後、サッチャーのイメージって他には?
 学生③「新自由主義の代表のようなイメージです」
 なるほど。日本では小泉純一郎政権(二○○一年~二〇〇六年)のような新自由主義経済ね。サッチャーは新自由主義を推し進め、「小さな政府」「競争経済」の新自由主義経済を徹底した。その闘いに不退転で挑んだ強い女、それがサッチャーでした。
 
   経済を停滞させた英国病

 サッチャーが首相になる前、イギリスは社会主義そのもののような国でした。社会主義国というと、旧ソ連や東ドイツやポーランドのような、旧・東ヨーロッパの共産党が支配しているようなイメージがあります。
 イギリスは、共産党が支配しているわけではない。資本主義国家でもある。だけれども、労働組合が強く、労働者の権利が非常に守られていました。
「ゆりかごから墓場まで」という言葉をみなさんお聞きになったことがあるのではないでしょうか。生まれたときから死ぬまで手厚い社会保障があって、社会福祉を充実させた国としてイギリスは模範的な国でした。
 ところが、社会保障制度の高さがかえって勤労意欲の低下を招き、経済を停滞させているのではないか。これは「英国病」とか「イギリス病」と呼ばれました。
 労働組合の力がどれだけ強大であったかの例を述べます。
 イギリスで蒸気機関車から電気機関車に切り替わったときです。このとき、蒸気機関車の釜に石炭をくべるひとがいらなくなりました。それまでは、運転する人と、石炭を釜に放り込む人と二人必要でしたが、外部電力で動く機関車になればそういう人は不要になります。
 しかし、労働組合の力で、そういう人たちの職が守られます。石炭の釜焚きとして雇われたのだからその職は守らなければならない。というわけで、配置転換もなければ、リストラもされない。彼らは電気機関車になっても、釜焚き係としてずっと乗務していました。もちろんやることはありません。運転手の横にただ座っているだけ。これで給料が保障されました。
 サッチャー以前のイギリスとはそういう国でした。
 イギリスは大変な階級社会です。労働者の家庭に生まれたら、労働党を応援します。お金持ちの家に生まれれば、保守党を支持するのが通例でした。それなのに、なぜ庶民階級に生まれたサッチャーが保守党支持者になったのか。一生懸命働くことに価値を見出す彼女は、国家が国民の面倒をみるという発想が嫌いだったようです。彼女は大の社会主義嫌いでした。
 最終学歴のとき、その組織の会長に選出されます。庶民のサッチャーが保守党の学生のトップになるのです。一九四八年でした。オックスフォード大学もケンブリッジ大学もまだまだ男社会。それでも、女性で、当時、トップに立つ。相当に優れていたわけです。
 最初の出馬では、落選するのですが。保守党の野外フェスティバルで占い師に、身につけた真珠のネックレスをみせてほしい、といわれ。その後、占い師に「あなたはチャーチルくらい偉くなる」といわれて嬉しくなった。それで、彼女は大事な時にはその真珠のネックレスを身に着けるようになった。勝負服、ならぬ、勝負ネックレスなわけです。
 結婚して二年後に、男の子と女の子の双子を出産しました。早産で、帝王切開で生まれたそうです。彼女は、出産を終えた一週間後には、法律の勉強を始めています。
 弁護士として永く勤務し、その後、政治家に転身。四十四歳で教育科学省(日本でいえば文部科学大臣)の大臣になる。
 教育予算の削減をしなければならなかったので、それまで無料だった博物館や美術館の入場料を有料にします。学校の給食費も値上げをします。また、給食に配給されていた牛乳を廃止します。それまでは無料で配給されていました。
 なので、サッチャーは「ミルク・スナッチャー(牛乳泥棒)」とも呼ばれました。
 サッチャーの言い分はこうです。国にはカネがないのだから施しをすることはできない。ミルクを飲みたかったら自分で買うようにしなさい。ここらで「鉄の女」の片鱗が…。
 ですが、保守党の評判は悪くなり、選挙で労働党に負けてしまいました。
 それまで、保守党の党首が失言をくりかえして評判が悪かったために、四十七歳のサッチャーが保守党の党首になりました。野党の党首ですが、英国は二大政党制ですから選挙で勝てば次の首相、なわけです。
 彼女が優秀だったから選ばれたのですが。もちろん、「政権を取り戻すためには、人気取りが必要。党首が女性だから、党の評判が上がるだろう」という考えの人も確かに、いたのですが。
 彼女が党首になった一九七○年半ば、ソビエト(現ロシア)の機関紙が彼女を、「共産主義に断固として反対する女性」として記事を書き、タイトルに『鉄の女』と題します。
 まあ、悪口で、「こんなひどい女がいるよ」という。
 ですが、彼女はそのニックネームを気に入り、以来、サッチャーは「鉄の女」と呼ばれることになるのです。共産党の機関紙が名付けたのであり、国民でも自称でもない。意外でしょう?
 選挙に勝利した保守党の党首・サッチャーは、五十三歳で、イギリス初の女性首相にまでなる。さあ、マーガレット・サッチャーの出番です。
 彼女は、国営企業を次々と民営化していきます。英国石油の「BP」、電信電話公社の「ブリティッシュテレコム」、英国航空の「ブリティッシュエア」、その他に、ガス、電気、水道会社など国有企業を民営化してとにかく『小さな政府』を目指しました。
 国有企業でないなら赤字の時、税金が投入されず潰れてしまう。だから、それらの会社は企業努力と競争原理で、経営をしていく訳ですね。
 こうして、英国の企業のサービスの質は上がり、『英国病』もなくなっていきました。
 日本なら、中曽根内閣の国鉄(JR)、電電公社(NTT)、日本たばこ(JT)の民営化のようなものです。「民間でできることは民間で」まさに、新自由主義経済でした。
 もちろん、競争原理ですから、最初は大勢の失業者が出ます。
 血を流す経済変革とは、いつの時代もそんなものです。
 ですが、大量の失業者が出れば、当然、失業したひとたちから恨みを買います。
 必要な、リストラとしても「クビになったひと」にとっては恨みでしょう。
 だから、〝改革の父・レーガン〟も〝改革の母・サッチャー〟も、大統領や首相の座を追われたのです。ポール・タックス(人頭税)ではなく、コミュニティ・チャージ……
 英国企業が競争に負けて、金融市場はウィンブルドン状態(外国企業ばかり)……
 「鉄の女」を世界に知らしめたのが、『フォークランド紛争』でした。
 アルゼンチンはそこを『マルビナス諸島』と呼んでいて、英国領でしたが、武力をつかって占領をしたのでした。(南米というとポルトガルやスペインのイメージだが、植民地の大航海時代に遅れたフランスとイギリスも少しだが、領土の諸島がある。一番遅れたドイツには領土なし)
アルゼンチンの蛮行に怒ったサッチャーは、ただちに領土を奪還せよ、とイギリス軍に出撃を命じます。「あんな遠いところに出撃して、失敗したらどうするんだ?」ビビる閣僚に対して、サッチャーは、「この中に男はいないのか!」と、一喝します。
〝男〟は、サッチャー一人だったということですね。
 サッチャーは亡くなりましたが、評価はわかれていて、自由主義経済で英国を蘇らせた、というひとと、貧富の差を拡大させた、というひとがいます。
 日本でも、中曽根さんや小泉純一郎さんなどを悪く言う人もいますし。それはある程度、しょうがないのかなあ、とは思いますけどね。
 小泉さんはどうあれ、中曽根さんの三公社民営化は正しかった(リストラされた人は生涯恨むでしょうが)と思うし、サッチャー元・首相の英断がなければ世界はどうなっていたのか? ただ、くさすだけではなく、理論的に考えてみてください。
 ただ、馬鹿にしたり、文句を言う、悪口を言うだけなら幼稚園児でも出来ます。
 なにが正しく、なにが間違っていたのか? 理論的に考えられないならどうしようもないですね。ビジネスパーソンとして、よくない生き方だと、思うのです。
 よく、よく、考えて歴史を、人物を、判断しましょうね。

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『アウンサンスーチー』池上彰「世界を変えた10人の女性」(文春文庫)『第一章 アウンサンスーチー Aung San Suu kyi 政治家1945年6月19日~』より参照引用。

2021年12月22日 19時01分32秒 | 日記













『アウンサンスーチー』池上彰「世界を変えた10人の女性 お茶の水女子大学特別講義」(文春文庫)『第一章 アウンサンスーチー Aung San Suu kyi 政治家1945年6月19日~ ミャンマー生まれ』より参照引用。
二○一二年のはじめ、私はミャンマーでスーチーさんに独占インタビューできるはずでした。しかし、二日前にドタキャンになり、結局会えないまま戻ってきました。
(その後、スーチー女史はロヒンギャ問題で味噌がつき、2021年のミャンマー軍事クーデターで逮捕され、懲役刑が軍事裁判で言い渡された。ミャンマーは軍事政権下で、民主化勢力は一掃され、また暗い軍事政治が復活した)
 そのとき、スーチーさんに会ったことがある日本人に「スーチーさんってどんな人?」と聞いてみました。すると多くの男性が異口同音にこう言いました。「あれは田中真紀子だよ」と。
 田中真紀子さん、有名ですよね。伝説の政治家・田中角栄さん(故人)の長女です。
 政治家になった頃は大変な人気で、特に小泉内閣で外務大臣をクビになったときは、小泉内閣の支持率がガクンと落ちたほどです。そのくらい国民的な人気でした。
 ところが、田中真紀子さんを知っている人に、彼女を褒める人はあまりいません。有名な話をすれば、小泉内閣で外務大臣に就任したばかりのとき、指輪がなくなったと言って秘書を責めに責めたあげく、同じものを買いに銀座まで走らせたことがあります。結局、自宅に帰ると指輪があって…。買って帰ってくるまでアポイントのあった外国の賓客を待たせた、というのも、霞が関の官僚たちの間では誰でも知っている有名な話です。
「田中真紀子ドーナッツ論」というのがあります。彼女に近づけば近づくほど、好感を持つ人が減る。その様子を、真ん中が空洞のドーナッツに喩えているわけです。
 アウンサンスーチーさんも日本で見ていると、素晴らしい人に見えます。ミャンマーの国民に敬愛されている。NLD(国民民主連合 National League of Democracy)の党員や若者たちにとっては崇拝の対象でした。広く愛されていたのは事実だったのですが、直接会ったことのある人に言わせると、お嬢様として育てられたせいか、周りにいる者をみんな、自分の家来か手下、お手伝いさんのように扱う。頑固な性格で、自分の主張を絶対曲げない。そういった点が、田中真紀子さんを彷彿させるというのです。
 私はまだ会ったことがないので判断を控えます。人間には美点もあれば欠点もあります。素晴らしい人だ、と思っていた人には驚きかも知れませんが。
 ところで、アウンサンスーチーさんは「アウン・サン・スー・チー」とか、「アウンサン・スー・チー」とか、「アウンサン・スーチー」とか統一されていませんでした。
 ですが、すべて姓でもなく名前で、「アウンサンスーチー」と、区切らないで発音し、表記するのが正しいのです。
 自分の人生を祖国に捧げた女性、あるいは国際情勢に翻弄された女性。そんな悲運のイメージがあり、彼女の人生はドラマティックです。むろん、ロヒンギャ問題でのやり方や態度は最悪であったし、軍事クーデターで逮捕され、懲役刑が言い渡されてもあまり同情の声が国際世論で起きないのも、ひどかった、からで。
 2021年の軍事クーデターで、軍事政権が民主化を求める民衆や政治家たちを武力で弾圧するのは、何としてでもやめさせなければならない。が、それはスーチーさんの救出、では決してない。もう正体がバレてしまった。
 ちなみに、ビルマ語の意味は、「アウン」は鮮やかな、「サン」は勝利、「スー」は奇跡で、「チー」は集合体とか集まりの意味。つなげると「鮮やかな勝利の奇跡的な集まり」。
 ロヒンギャ問題のあの失態を見たあとでは、これも虚しい、というか。
 最近まで、歴史的な人物で、評価が高かっただけに、この状況は……。まあ、軍事政権が彼女の立場を貶めようと、工作した可能性もあるでしょうけれども。
 ロヒンギャ問題のスーチーさんが、「イスラム教徒なんかに…」なんたらかんたら。という発言や態度は事実だし、そうやってスーチーさんや民主化勢力の力が弱まったからこそ軍事クーデターで、軍事政権が出来たのも事実で。まあ、裏に中国がいるわけですが。
 なぜ、彼女が人気があったのか? それは『ビルマ建国の父』アウンサン将軍の娘だからです。第二次世界大戦中、スパイの情報を受けた日本軍は厦門で、アウンサン将軍を逮捕します。そこで、「日本のために戦えば、祖国ビルマをイギリスの植民地支配から独立させてやる」と、日本軍は嘘の約束をする。信じたアウンサン将軍ら三十人は、日本軍支配地の海南島で軍事訓練を受けます。いわゆる『ビルマ三○人の志士』ですよね。
 真珠湾攻撃、シンガポール攻略、そして、ビルマ占領……しかし、ビルマはイギリスの支配から日本の支配になっただけ。そこで、こんどは英国と組んで、日本軍とアウンサン将軍らは戦うのです。最初は三○人でも、あれよあれよと数万の兵に。
 こうして、ビルマ軍は日本軍をやぶり、独立するわけです。
 その独立の日に、アウンサン将軍らは暗殺されてしまう。歴史の悲運ですが、暗殺されなければどうなったでしょうか? 政治家としても優秀であったのか? それとも経済政策とかで失敗したかも。わかりませんが。ですが、若くして暗殺されたために、写真に写る軍服の『ビルマ建国の父』としての英雄像があるわけですね。
 ちなみに、ビルマというのは国名で、ミャンマーという国名は軍事政権がいいだしたこと。まあ、「日本=ジャパン」、「ビルマ=ミャンマー」のようなものです。
 スーチーさんはずっと海外暮らしでした。結婚相手もチベット仏教研究者のイギリス人男性(故人)。お子さんも息子さんが二人。軍事政権が嫌で、ずっと海外暮らしでした。
 ですが、ビルマの母親が脳梗塞で倒れ、介護のために単身、ビルマに戻ります。
 そこで、母親は病死するわけですが、その間に、〝民主化のシンボル〟に祭り上げられていったのです。こうして、〝ビルマ民主化のシンボル・アウンサンスーチー〟が誕生しました。そこで、民主化への活動と演説、長期間の自宅軟禁、ノーベル平和賞……ミャンマーの民主化、となるのです。
 痛恨のロヒンギャ問題での失態、2021年の軍事クーデターで民主化否定の軍事政権誕生。
 さて、これから、ミャンマー国民は再び、民主化を勝ち取ることができるのだろうか?
 まさに、ミャンマーの民主化の未来が試されています。
 このまま軍事政権の世が続き、民主化勢力は弾圧されたままなのか? 試練は続きます。
                        

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池上彰「これが日本の正体! 池上彰への42の質問」大和書房より参照引用

2021年12月21日 16時25分58秒 | 日記










   池上彰「これが日本の正体! 池上彰への42の質問」大和書房より参照引用

第一章 政治  
  Q1日本は国会議員の数が多い? *議員数は、決して多くない*政治を身近に感じにくい*国会議員の数を減らすのは危険
                  (少数の意見が反映されなくなる)
  Q2日本の首相は、なぜ直接選挙でえらばれない?
                  *日本の国家元首は誰か?(天皇陛下)
                  *直接選ばれる国家元首(大統領)
                  *日本で首相公選制の時代がくるか?
  Q3国会での虚偽答弁がなぜ許される? *民主主義の根幹をゆるがす問題
                  (森友・加計・桜)
                  *答弁を作成するのは官僚*忖度
                  *政治主導と官僚主導
  Q4公文書の破棄や改ざんは、日本だけ? *公文書が大量に消えた
                  *公文書管理と公開の先進国・米国
  Q5マスコミは政権の顔色をうかがっている? *報道は自由……だが
                  *圧力か自主規制か
                  *「報道するな」ではなく「誤解があるようなので説明を求める」を何百回と繰り返し、圧力。
  Q6世襲議員が多いのは日本だけ? *日本の異常な世襲率
  Q7共産党アレルギーは日本だけ? *共産主義は駄目。党名「社会党」は?
  Q8政治の話はダサい?      *直接政治の話が出来ない日本人
                  *家庭に説明に来る米国政党政治家
   第二章 制度
  Q9日本の年金は維持できる?  *年金の崩壊は国の崩壊*払えば払っただけ支給
                *加入しなくても税金は取られる
  Q10マイナンバー制度の目的は? *脱税防止*資産課税*デジタル化の為
  Q11税金が給与から天引きされるのは、日本だけ?
                *ドイツにならった天引き*ほとんどの国は確定申告
                *減税と景気対策
  Q12夫婦別姓はなぜ認められない? *法案提出にさえならない*古い家・家族意識
  Q13同性婚はなぜ認められない?  *「両性」とは男女*古い戸籍・家庭意識
  Q14介護保険はどう役立つ? *「介護」という負担*掛け捨ての保険だが半分税金
  Q15日本の医療保険は健全? *米国には病院のための保険*優れた日本医療保険制
  Q16なぜホームドクター制度が浸透しない?*紹介状制度*医薬分業*薬は儲かる
  Q17日本はなぜ新型コロナウイルスの侵入を阻止できなかった?
             *対応の遅れは遠慮*ウイルスは変異する*何でも想定外
  Q18日本製のワクチンはできない?*ワクチンとリスク*時間とお金膨大な開発
    第三章教育
  Q19部活動は日本だけ?*部活は教育*世界では先生は授業だけする
  Q20子供の学力は低下している?*ゆとりのせい?*学力差はない*低下していない
  Q21子供の幸福度ランキング、日本が低いのはなぜ?
             *いじめ世界一*「頑張れ」と言わない海外の親。大人は?
  Q22新学期が四月なのはなぜ?*日本も九月はじまりだった*中曽根内閣で議論
  Q23日本の大学の数は多い?*大学の栄枯盛衰*大学は国の将来の根幹である
  Q24日本の基礎研究が危ない?*基礎研究をないがしろにしてはいけない
  Q25日本の英語教育は大丈夫?*すり替えられる問題*日本語教育を減らすのは駄目
    第四章女性
  Q26日本の専業主婦は多い?*サラリーマンと共に増えた? *女性の高学歴化
               *地方では共働きが当たり前
  Q27女性の国会議員はなぜ少ない?*圧倒的に低い女性議員の割合*クオーター制を。
                   *女性議員を増やさないと政党助成金を減額に。
  Q28出産が保険適用外なのはなぜ?*病気ではない*痛みに耐えてこその愛情?
  Q29日本は母親の負担がおおきい?*三歳児神話*三年休めます、といわれても……
    第五章働く
  Q30一斉就活は日本だけ?*「あなたの職業は?」*就職と就社*インターンシップ
  Q31日本人は長時間労働?*残業許容の三六協定*あってもなくても困るのが残業
              *時間は関係ないホワイトカラーエグゼンプション
  Q32日本の非正規雇用は多い?*失業率は下がり、平均給与も下がる*格差解消は?
  Q33テレワークは増えていく?*テレワークで本社移転も*テレワークのデメリット
          (団結力・チームワーク・想像力・会議力・討論能力の低下)
  第六章経済
 Q34アベノミクスは成功した?*「三本の矢」*規制緩和を阻む既得権益
 Q35日本の消費税10%でいいの?*安定のための直接税*現状維持20~27%
          *安心して暮らすための消費税*教育費・病院費無料?
 Q36日本の食料自給率は、このままで大丈夫?
          *何故、カロリーベース?*進まない農業改革
 Q37日本ではなぜデモが少ない?*成功体験のない日本人*デモで変革!
  第七章グローバル
 Q38輸入牛肉は安全?*六割は輸入牛肉*解明されない肥育ホルモン剤の影響
            *アメリカに抵抗できない
 Q39なぜ日本は移民を受け入れない?*低い移民率*収容の問題
 Q40技能実習生は人身売買?*体のいい奴隷労働*改善されない労働環境
 Q41日本政府はなぜ、海外の人権侵害に意見を述べない?*中国ウイグル人強制収容
              *ミャンマー デモの武力制圧*米国アジア系への暴力
 Q42日本はなぜ「核兵器禁止条約」に批准しない?*北朝鮮・中国問題?
             *パックスアメリカーナ(アメリカの核兵器の傘下の平和)?
             *意識の低い日本政府
             *抑止力? 本当に短期間で原発から核兵器がつくれる?
                              おわり



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『上皇陛下と上皇后・美智子さま篇』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『第十回 上皇陛下と上皇后・美智子さま 象徴天皇としての試行錯誤』(文藝春秋社)より参照引用。

2021年12月19日 12時08分54秒 | 日記











『上皇陛下と上皇后・美智子さま篇』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『第十回 上皇陛下と上皇后・美智子さま 象徴天皇としての試行錯誤』(文藝春秋社)より参照引用。
 (二○一九年になされた譲位は、崩御にともなわないため明るく、新元号ともども大歓迎されました。しかし、被災地を熱心に訪問されたお二人は、「国民に慕われていた」と今でこそ振り返られますが、かつては様々なマスコミからひどいバッシングを受けていたのです。)
 (明仁上皇・あきひとじょうこう・一九三三年、東京府生まれ。五九年に正田美智子さんと結婚し、六○年に第一子の徳仁親王を儲ける。八九年、父親の崩御により代一二五代天皇に即位。以後、被災地などを精力的に訪問。二○一六年に生前譲位の意向を示され、一九年に退位した)
 (美智子上皇后・みちこじょうこうごう・一九三四年、東京府生まれ。明治以降初の民間出身の皇后であり、結婚時には「ミッチーブーム」が巻き起こった。週刊誌等によるバッシングは散発的に起き、九○年代には失語症になった。呼称「上皇后」は日本史上初めて使われるもの)

 目の当たりにした焼野原

 お二人がどんな幼少期を過ごされたのかを見ておきましょう。
 上皇陛下は皇太子時代、空襲を避けて日光のあたりに疎開されています。実際に東京に戻ってくるのは終戦から三か月ほどたった十一月。目にしたものは、一面焼け野原と化した東京の光景でした。戦争に踏み切ると、あるいは戦争に負けてしまうと、こういう結果を招くのかーーこれが当時十一歳の上皇にとっての戦争体験でした。
 美智子さまの場合も似たようなものです。疎開先の軽井沢から戻って東京の惨状を目の当たりにしておられます。
 終戦の翌年から四年間、皇太子の家庭教師としてアメリカ人女性のヴァイニング夫人が就きます。右派の論客からは「GHQが皇太子を洗脳するために押し付けたんだ」という声も上がりましたが、実際は、父親の昭和天皇が要望したからで、けっしてGHQの押し付けではなかったのです。
 夫人は学習院で英語を教えると同時に、当時は中等科に学んでいた皇太子の家庭教師として、アメリカの文化についても教えています。
 夫人は、皇太子が両親と一緒に住んでいないと知って、仰天したそうです(邦訳『皇太子の窓』文藝春秋刊)。
 週に一度だけ、両親に会いに行く。寂しかったことでしょう。ですから、美智子さまとご結婚されたときに、「わたしは結婚してはじめて家庭という温かさを知った」と述べられるのです。それともうひとつ。皇太子は何でも、「どうぞお好きなように」と、自分では考えずに、家臣・部下に任せる癖がありました。皇太子であり、皇族だからでしょうが。
 そこで、夫人は「これならどうする?」「どうしますか?」と、自分で考えさせる習慣をつけさせたそうです。
 問題となったのは、教え子たちに、英語のニックネームをつけたこと(日本語の名前は発音しづらいから)。皇太子は「ジミー」でした。ここで、国民は「皇太子さまに「ジミー」とは何事か!」と激怒したとか。
 昭和天皇が帝王学として欧州訪問をなさったのを習って、皇太子さまは一九五三年、学習院大学を休学して半年間、欧州訪問をなさります。ですが、そこは戦後の時代、半年も留守にしたため学位がとれず、皇太子さまの最終学歴は〝大学中退〟となりました。
 ですが、天皇・上皇に、果たして学歴は必要でしょうか?
 皇太子が結婚相手に選んだのは、平民・粉屋(日清製粉)の娘の正田美智子さんでした。
 馬車でのパレード(五九年四月十日ご成婚)で、〝ミッチーブーム〟は最高潮に達します。ですが、その後に、平民出身者の美智子さまに何度もバッシングが襲い掛かります。
 六○年に徳仁親王さまが生まれます。従来であれば、皇族の皇子は乳母や臣下が育てますが、美智子さまは御自分で育てることになります。その子育てのルールを決めたものが、のちに『ナルちゃん憲法』となり、本にまでなります。美智子さま流の子育て術です。
 浩宮(徳仁=今上天皇)、礼宮(文仁=秋篠宮)、紀宮(黒田清子)と三人のお子様を育てられました。
 被災地や旧戦地にご訪問になられて、慰霊や激励の癒しの旅をなされて。
 でも、そこで、陛下や美智子さまが膝を屈して民に話しかけておられて。
 それを見た国民の多くから、「何で天皇陛下にあんなことをさせたんだ!」と苦情の電話が殺到したのだとか。国民に寄り添う天皇(上皇陛下)と皇后(上皇后)さま。
 尊い、ですよね。
 現在、皇族の減少と、皇務問題や女系天皇問題や万世一系……とか、難題が山積していますね。今上天皇さまと秋篠宮さまはいいとしても、その次は悠仁さまただひとり……。
 果たして、悠仁さまに嫁ぐ女性が、将来、現れるか? そうとうの重圧ですよね。
 だからか、国民は皇室問題にはあまり触れない。〝女系天皇〟〝万世一系〟……わたしだってそんな難しい問題に触れたくないです。
 ですが、そうもいっていられない。
 頭の痛い問題ですが、もう今からでも決めておかないといけない。
 これは、皇室問題は、国民の問題なのですから。


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『堀江貴文・村上世彰篇』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『第七回 村上世彰と堀江貴文 金儲け至上主義と国策捜査』(文藝春秋社)より参照引用

2021年12月18日 11時38分48秒 | 日記









『堀江貴文・村上世彰篇』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『第七回 村上世彰と堀江貴文 金儲け至上主義と国策捜査』(文藝春秋社)より参照引用
 (九○年代末に到来した〝ITバブル〟。そこで急成長したライブドアがテレビ局という旧メディアを買収しようとしたときに起きたことはなんだったのか?時代の寵児と呼ばれた二人が実刑判決を受けた理由を考えます)
 (村上世彰・むらかみよしあき・投資家。一九五九年、大阪府生まれ。東大法学部から通商産業省に入省。四十歳前に退職しファンドを立ち上げる。「もの言う株主」として活躍するも、二〇〇六年にニッポン放送株式のインサイダー取引で逮捕され、有罪判決を受ける。現在シンガポール在住)
 (堀江貴文・ほりえたかふみ・元ライブドアCEO。一九七二年、福岡県生まれ。東大在学中にホームページ制作会社を設立。同社を短期間で急成長させるも、二〇〇六年に証券取引法違反で上場廃止に。堀江も翌年に二年六か月の実刑判決を受ける。現在、宇宙ロケット開発に精力を傾ける)

 堀江貴文さんが二〇〇六年一月に「ライブドア事件」で逮捕され、一審で有罪判決を受けて服役後、彼はまず、インターネットテレビでいろんな情報を発信することから活動を再開します。新宿の居酒屋で対談して、私はこう質問しました。
「あなたはフジテレビを手に入れたくて、その踏み台としてニッポン放送を買収したわけだけど、踏み台にされたニッポン放送の社員の気持ちは考えたことがありますか?」彼は驚いた表情で、「考えたこともなかった」。
 村上世彰さんとの接点は、彼の娘さんがぼくの本を読んで、「池上さんがこういっている」と務所の彼に伝えたことでした。
 村上世彰さんは、事件の時、記者会見で、「僕は確かに、むちゃくちゃ儲けましたよ。でも、金を儲けるのの何が悪いんですか?」「ええ。お金を沢山、儲けました。金儲けがいけないことですか?」。確かに、お金儲けは悪いことではない。自分の汗と努力と頭脳で儲けたなら非難されることではない。
 ただし、日本には『けしからん罪』というのがあって、誰かが「あいつ、けしからん!」というと、同調して、その人物を社会的に抹殺しようという動きが出る。これが『けしからん罪』です。堀江も村上さんも儲け過ぎた。だから、けしからん。と、妬みやひがみが出た。
 村上世彰さんは小学校の時に、父親から百万円を渡されて、以後はお前におこずかいはやらない。その代わり百万円をやるからその金を運用してみろ。といわれた。それでサッポロの株を買った。父親がビールを飲んでいたからです。そうして投資家の道を究めた。
 一方堀江さんはというと、「小説を読んだことがない」というのに、東大の文学部に進んだ。小説など読まないのだから、当然、授業は全く面白くない。駒場の寮にこもって、麻雀ばかりしていたのだとか。
 そのうちに、九十五年の〝ITバブル〟がきて、堀江さんは〝オン・ザ・エッジ〟という会社を起業する。そこで、倒産した会社・ライブドアを買収し、ライブドア社にするわけです。有名な会社だったので、広告料の節約のためでした。
 そこで、株を一株百円くらいに細分化して、個人株主を増大させ、度重なるM&Aで、のし上がっていくのです。
 ニッポン放送の買収も、ぶらさがっているフジテレビの支配のためでした。
 ですが、ニッポン放送の社員は反発します。当たり前ですよね。踏み台にされるのですから。それを説明して、ホリエモンは「なるほど」と理解した。
 後で、「池上彰に説教された」とぼやいたそうですが。
 村上さんはファンドを設立して、最初は「もの言う株主」として、その会社をいい会社にしようとした。ですが、次第に、金儲けのためのハゲタカファンドみたいになっていった。大金に心を奪われたのです。金儲け至上主義に毒された。
 そして、村上さんと堀江さんはフジテレビ支配のために、大株主のニッポン放送を買収し出す。ねじれ経営で、資本力のないニッポン放送が、大企業のフジテレビの親会社だった。だから、ホリエモンはニッポン放送を買収すれば、フジテレビもすぐに〝ついてくる〟と思ったわけです。ですが、戦略が甘いというか。野球球団設立のヒアリングでも、楽天の三木谷社長は立派な背広にネクタイ。なのに、堀江さんはTシャツにズボン。これをみてわたしは勝負あり、と思いましたね。
「ねじれを利用すれば、ニッポン放送を買収すればフジテレビを支配できるよ」
 ホリエモンは村上世彰さんに耳打ちされ、買収工作をする。その際に、違法行為もしていた。つまり、犯罪です。と、同時に、先ほど言った『けしからん罪』で、堀江さん(「粉飾決済」罪)も村上さん(「インサイダー取引」罪)も、東京地検に逮捕された。フジテレビは助かり、ホリエモンたちは刑務所送りになった。
 実は、「ライブドア事件」の後に、もっと犯罪額が大きい粉飾決算の事件があったんですが。その事件では、東京地検はまったく動かなかった。
 「けしからん」じゃないから? ともかく、ホリエモンも村上世彰も逮捕され、刑務所に入った。だが、今、その「ライブドア事件」を見てみると、「あの時代の雰囲気で、逮捕されてしまったんだな」と日本人は考えているように見える。
 でなければ、刑務所にまで行った犯罪者が、務所から出て、自己啓発本や成功ノウハウ本や成功体験本や、宇宙ロケット事業……株式投資の本やお金の本、などを出しても誰も買わない筈である。本気で、あいつら許せない、とかだったら、犯罪者があんなに注目を浴びるだろうか。
 犯罪者ではないが、ただ不倫をしただけのタレントのベッキーとかいう女性の方がよほど嫌われていて、テレビに出ることさえ嫌われている。それに比べれば、ホリエモンや村上世彰は、犯罪者でも許容されている。ホリエモンの厚かましい態度とか、口調や服装はそのままなのにも関わらずにです。
 だが、村上世彰さんの「金儲けして儲けて何が悪い」とか、ホリエモンのTシャツや態度とか、これはいわゆるコミュニケーション障害(コミュ障)だと思うんですね。
 自分では社会の最先端をいっているつもりでも、相手がどう思うか? とか考えられない時点で、立派なコミュ障、ですよね。
 でも、ホリエモンは「成功者への嫉妬。wwww」というだけでしょうけれど。
  


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『小泉純一郎』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『小泉純一郎篇』(文藝春秋社)「第三回 小泉純一郎 断言する〝変人〟政治家」より参照引用

2021年12月17日 15時34分57秒 | 日記












 『小泉純一郎』池上彰「日本の戦後を知るための12人」『小泉純一郎篇』(文藝春秋社)「第三回 小泉純一郎 断言する〝変人〟政治家」より参照引用
  (「自民党をぶっ壊す!」「私に反対するのは全て抵抗勢力」キャッチ―なワンフレーズで大衆の支持を掴んで離さなかった小泉純一郎という〝変人〟政治家。様々な改革を成し遂げましたが、現在、多くの人を苦しめる状況を生んだこともまた確かです。)
   小泉純一郎・こいずみじゅんいちろう・政治家。一九四二年、神奈川県生まれ。祖父の代から政治家の家系。慶応大学卒業後、英国留学を経て福田赳夫の秘書に。七二年に初当選し、大蔵族の道を歩む。七八年に結婚するが四年後に離婚(政治家の進次郎は次男)。二○○一年に首相就任。官邸主導の政治を牽引し、郵政民営化などを実現。○六年に首相を退任、○八年に政界を引退後は反原発を訴える。

 小泉純一郎という人が挑んだ戦後って何だろうか?
 彼は、郵政改革のように、戦後にかたち作られ、それが当然と思われていたものに対して異議を申し立て、それに反対する者は抵抗勢力だとして斬り捨ててきました。そうした手法は毀誉褒貶もありますが、やはり「戦後に挑んだ」と言えるのではないか。
 彼は高い支持率を得ました。演説が非常に巧みだとも言われました。あるいはポピュリズム政治家なんていう言い方もされました。その高い支持率によって、いわゆる官邸主導の政治を実現したのです。安倍さんが同じようなことをやりましたが、首相が強い力を持ったがため、官僚たちが「忖度」する場面が多々見られるようにもなったりしました。

 ワンフレーズの源泉は?

 実は先日、小泉さんご本人と対談をいたしました。会ってみて、この人は語彙――ボキャブラリィの少ない人だなと思いました。彼はよく一言で物事を表現しますね。難しい言い回しはせずに印象的なワンフレーズで片付けたり、主語と述語だけだったり。例の大相撲を観戦したときに発した「感動した」の一言もそうでした。
「ワンフレーズ・ポリティックス」といいますが。しかし、小泉さんの場合は、語彙力が少ない故なのかな、と思いました。
「父親が結婚式から帰るたびに『今日の主賓の演説は長かった』ときき……短くても印象に残る名演説を勉強した」とか。父親というのは小泉純也さん。防衛庁長官などを務めた政治家ですね。
 現在の純一郎さんは悠々自適の生活で、五時前には必ず目が覚めてしまう、とか。それから二度寝をするとか。午前中は仕事を入れないそうです。普段は、月に四回ほど反原発集会に呼ばれて反原発論をぶってくる以外は、映画に行ったりオペラや歌舞伎を見たり、本当に悠々自適な生活を送られています。秘書のようなひともいない。
 これはかっこいいなと思いました。

  小泉旋風の正体

 小泉旋風とは何だったのか? 彼の仕事をひとつひとつ検証していきましょう。
 二〇〇一年に森喜朗首相の退陣を受けて行われた総裁選での彼のワンフレーズ。皆さん覚えていらっしゃいますよね。「自民党をぶっ壊す」――自民党議員なのに、自民党をぶっ壊す、ってどういうこと? 今ではそういう疑問が出ますが、このワンフレーズで彼の破壊力に期待した人も多かったのではないでしょうか。
 実は、あの言葉の前後の文脈を見てみると、こうです。
《もし改革を断行しようとする小泉を自民党がつぶそうとするならば、その前にこの小泉が自民党をぶっ壊します》
 お分かりですか? その後段だけが切り取られて独り歩きしたのであって、自分をつぶそうとするならそれに反撃するぞ、と言ったにすぎません。ところがこの誤解が小泉さんは破壊力がある、となったわけです。

 首相就任の決め手となった田中真紀子劇場

 小泉純一郎という〝変人〟政治家が内閣総理大臣まで上り詰める原動力となったのは、角栄さんの長女・田中真紀子さんの演説力が大きかったのです。
 当時の自民党総裁選挙の小渕恵三氏を〝凡人〟、梶山清六氏を〝軍人〟、小泉純一郎氏を〝変人〟……この言葉で、政治が面白くなった。
 この真紀子さんの演説力で、小泉さんは総理大臣まで成り上がったんです。
 その論功行賞で、小泉さんは真紀子さんを外務大臣に指名します。
 だが、真紀子さんは様々な問題を引き起こします。
 外務大臣室で、「(自分の)指輪がなくなった」と大騒ぎし、外務官僚たちを〝泥棒〟呼ばわり。そして、「指輪がないなら銀座まで行って、同じものを買ってこい。外務省には機密費があるだろう」と命令。だが、帰宅すると指輪は自宅にあった……。
 アメリカ同時多発テロ9・11のときも、米国政府が再テロに備えて臨時にホワイトハウスの場所を移したのをその場所をポロっと言ってしまった。これじゃあ、使えない大臣ですよね。
 たまりかねて小泉首相(当時)が田中真紀子大臣を更迭すると、支持率ががくんと下がった。
 でも、また支持率は回復する。そこで、小泉純一郎さんは念願だった郵政民営化に着手するわけですね。彼は、大学卒業後、英国に留学しています。が、本人も言う通り留学ではなく、遊学。ひたすらミュージカルを見続けて遊んでいた。そこに、父親の純也氏が急死して、帰ってこい、と。地盤を継いで、立候補しますが落選(全国の落選議員の中での最多得票数)します。そのとき、当時は中選挙区ですから、彼があてにした郵便局の団体は、彼のライバルを支援した。で、落選した。だから、そのときの恨みも、純一郎さんにはあるわけで。その恨みが郵政民営化につながる、という。
 小泉さんを知る人は、彼はそんな小さな人物ではない、というひともいます。
 政治家には珍しく裏表がない。逆に言えば薄っぺらいともいえるのですが、とにかく裏表がない。そのままのひとです。彼は政治を牛耳るのは予算・お金だ、とわかっていました。だから、大蔵族となり、予算の勉強をするのです。
 世の中を変えるための大蔵委員会でした。
 それから、彼の強みは政治献金を一切受けとらなかったことです。祖父が、小泉又次郎氏で戦前の逓信大臣で、父親は娘婿の純也氏。これだけの家系なら、地盤・看板・カバンのすべてが生まれた時からあり、お金の苦労はない。
 汚い金を受け取って、利益誘導、論功行賞……とは無縁だった訳です。
 その逆が、田中角栄さんで、お金がないと人は動かないから、犯罪まで犯してでも、大金を集めて、金脈をつくり、錬金術で、お金を集めてバラまいた。
 小泉・竹中の政権で格差が拡大したではないか!
 ということを言うひとがいます。確かに、それも一理そうなんです。が、格差はすでに橋本龍太郎政権の〝金融ビックバン〟政策頃には広がっていました。
 また、ジニ係数というのがあって、八十年代から格差は広がる一方です。
 小泉政権の格差社会を象徴したのが、二〇〇八年のリーマンショック後に出現した日比谷公園の「年越し派遣村」でしょう。また、プログラマやSEなどに限られていた派遣労働を製造業などにも認めたため、「派遣切り」による失業者があふれました。
 これは小泉(+竹中)政権の「負の遺産」といえると思います。
 官邸主導の政治は、「経済財政諮問会議」と「官僚人事」で行っていました。
 ハンセン病のときの裁判で、国の控訴断念を決断したのは立派でした。このことで、我々は「首相が決断すれば物事は動くんだ」と学習しました。
「郵政民営化で二十四万人の国家公務員が減る」と主張した郵政選挙ですが。確かに、郵便局員は国家公務員でしたが、税金で養われている訳でも何でもなく、郵便事業の収益から給料が出ていた。だから、「国の財政負担が減る」とは言わない。嘘ですから。だから、「国家公務員の数が減る」と主張したわけです。
 郵政選挙で、抵抗勢力に〝刺客〟………それも話題にはなりましたが。実際にその後、どうなったのか。「郵便局がコンビニのように便利になる」とか、なっていませんよね。
 北朝鮮外交は、最初だけ五人の拉致被害者が帰国したが。それっきり、うまくいかない。どうも、戦後補償で、大金を……みたいな話だったらしいのですが。
 金丸は最低一兆円、とかいっていて。じゃあ、北はそれ以上、もらえる、と踏んで五人をかえしたのか? だが、独裁政権に大金は与えず、で取りあえずは正しい。それでは交渉は動かないけどね。イラクへの自衛隊派遣も、「自衛隊が行くところが非武装地帯だ」みたいな、非論理的な屁理屈を通した。ああいうのを許したがゆえに、今も、国会で非論理的な答弁が続いていることになる。
 また、小泉元首相の「脱原発論」ですが、何故、そこに至るプロセスなどを示さないのか? ただ、反対のための反対のように「脱原発」「とにかく、首相が決断したら脱原発になるんだ」というだけでは、誰も動かない。
 脱原発に至るまでのプロセス、代替エネルギー論、様々な論説が必要だ。ただ、無邪気に「脱原発」というだけでは、悪口だけのグレタ・トゥーンベリ小娘と同じでしかない。
 「脱原発」に関しては、誰か別のひとが動かす必要があるだろう。
純一郎さんの息子の進次郎さんは、進次郎=グレタ=人寄せパンダ、みたいに言われるが、まだ実力がついていないのは事実だと思う。まだまだ進次郎さんはこれからだ。
 勉強が足りない。先の総裁選で、河野太郎氏を支持し、軍師気取りで石破氏とともに『小石河連合』……とか言われたが、小泉元首相の息子(しかも四世)だから注目をされるのであって、勘違いはしないことだ。タレントの女性と結婚するとか。
 そんな枝葉末節ではなく、もっと大局観をもってほしい。でないと、首相などまだまだ数十年先だ。親父の有名税で、天狗になっている場合ではない。
 しっかりしろ、進次郎くん! こういっておわりにしたい。

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池上彰「日本の戦後を知るための12人」(文藝春秋社)参照引用『第一回 田中角栄 今、見直される理由』

2021年12月16日 15時32分24秒 | 日記









 池上彰「日本の戦後を知るための12人」(文藝春秋社)参照引用
『第一回 田中角栄 今、見直される理由』
 かつては、「首相の犯罪」によって糾弾され、政界を追われたはずの田中角栄が今、「不世出の政治家」「天才」と見直されています。恵まれない境遇からのし上がり、ずば抜けた人心掌握術を身につけた彼が成した「功」と「罪」を今こそ振り返ってみましょう。
 (田中角栄・たなかかくえい・政治家。一九一八年~一九九三年没。新潟県生まれ。貧しい農家の七人きょうだい中ただ一人の男児(兄は夭折)として育つ。最終学歴は二田高等小学校。田中土建工業を経営していたが、同社顧問の政治家に乞われ、四七年に衆議院議員に当選。以後、閣僚や自民党幹部を歴任し七二年には首相となる。日中国交回復などの成果も挙げたが「田中金脈問題」を契機に七四年退陣)

 きょうは田中角栄というひとを取り上げます。今、なぜ田中角栄なのか?
 二○一八は生誕百年ということもあって、折に触れて角栄待望論が唱えられました。総理大臣になった時には「今太閤」ともてはやされ、金脈問題が出ると大変なバッシングを受け、総理大臣を引退した後も、田中軍団の陰の黒幕として政治を牛耳った田中角栄。亡くなった後も、彼が『日本列島改造論』で提起した各種のプロジェクトが現在まで続いています。
 考えてみれば、戦後のかたちを作ってきたのは、実は田中角栄ではないか、ということで、今ますます人物が高く評価されるようになってきているわけです。
 田中角栄という人は、その時々によって評価が異なるんですね。その毀誉褒貶をこれからお伝えしようと思います。

  金にまみれた総裁選

 まず、田中さんの人心掌握術がいかに優れていたかを示すエピソードをひとつ。一九六二年、第二次池田隼人内閣の大蔵大臣に就任して居並ぶ大蔵官僚を前にあいさつをした。そのあいさつ文が記録に残っています。
「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。
 皆さんは全国から集まった天才の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」
 これを聞いた大蔵官僚たちは、一発で参ってしまいました。君たちは自由にやれ、責任は私が取る、といわれて心酔しない部下はいないでしょう。さあ、今の政治家に、こう言い切れる人はいるだろうかと、つい考えてしまいます。
 一九六五年、証券不況の中で山一證券が経営不振に陥りました。その救済のため、日銀特融、日銀による特別融資が行われました。それを断行したのが大蔵大臣の田中さんでした。官僚であれば、過去に例のないことはやりたがらないものです。それを田中さんは「いいからやれ。責任は俺が取る」と言って救済させました。先のあいさつはハッタリでも何でもなかったことになります。
 田中角栄は「コンピューター付きブルドーザー」の異名を取り、数字の暗記や強引までの実行力が称えられました。総理大臣に就任したのは一九七二年の二月。当時五十四歳で、のちに安倍総理が誕生するまでは戦後最年少の総理大臣でした。

  隠れ田中派は野党にも

 このときの自民党の総裁選はすごかった。一回目の投票で田中角栄一五六票、福田赳夫一五○票、大平正芳一○一票、三木武夫六九票。田中さんと二位の福田さんとの票差はたったの六票。この開票結果を知った田中さんは椅子からポンと跳びあがって驚いたとか。「(あれほど大勢に金を配ったのに)こんなに少ないはずはない」というわけです。
 田中さんと福田さんは共に佐藤内閣を支えてきた両輪です。佐藤栄作はいずれ福田を後継に、と考えていたふしがあるのですが、政権の末期にもなると田中がメキメキと力をつけていましたから、後継者を指名することもできません。田中は佐藤派の三分の二を率いて分離独立します。そして総裁選に突入。それは、ともに負けられない二人が争う、まさに「角福戦争」の様相を呈していました。
 結局、一位と二位の決選投票では田中が勝ち、総裁に選ばれます。最終版になって中曾根康弘が出馬を取りやめて田中支持を表明。このとき中曽根は田中に七億円で派閥の票を売ったとの噂が流れて、中曽根さんが週刊誌の追及に弁明する一幕もありました。
当時の自民党の総裁選は、今では考えられないほど札束が乱れ飛びました。
(中訳)田中さんのすごいところは一回目の投票で、盟友の大平さんに票を回していたということ。総裁選に出るくらいだから、ライバルでもあるのに、盟友が恥をかかないよう、本来なら自分に回るはずの票を回していたというのです。常人ならぶっちぎりで自分がトップ当選するのを望むはず。でも、義理を通す。当然、二回目では大平さんの百数票が田中さんに入ったことは容易に想像できます。
田中さんはそれ以外にも綿密な計算を働かせます。「今回は福田さんに票を入れるしかない」と、義理を通して田中さんに報告に来た議員を、裏切り者呼ばわりすることもなく、「あんたは福田さんにいれればいいよ」と、許容する。こうなればイチコロですよね。
こうして、総裁選の後は田中さんに尽くそう、と考える議員が派閥の外にもいた。いや、野党の社会党にもいたのです。
田中さんほど「生きた金の使い方」をした人はいません。
これは総理になってからですが、福田派の議員が病気になって入院した。そこに田中さんが直々に見舞いに来る。なにか封筒を置いていく。田中さんくらいだからお見舞いの五十万くらいかな、と思ってみると五百万だった。畏れ多い。それを、四回、計二千万円続ける。こういうやり方は人間心理を熟知していないとできることではない。
普通の政治家とはスケールが違うのでしょう。
田中角栄のすごいところは、大陸の中華人民共和国と国交を正常化したところ。まあ、アメリカのニクソン大統領の訪中を真似したわけですが。国交正常化をすれば、命が危ないといわれた時代に、まさに命がけで訪中して日中国交正常化に成し遂げる。
『日本列島改造論』も今の日本につながる大事業計画であり、高速道路や高速新幹線や、整備新幹線など、我々は田中角栄の見ていた未来予想図の世界を堪能している、ということになります。ただ、地方から大都市へのスポイル状態とか、原発誘致とか、失敗もあるわけです。それで、田中角栄待望論なんですが。我々は、金にも女にもだらしがないけれど有能な政治家か、清廉潔白で無能な政治家の、どちらを選ぶのか? ということだと思う。
田中角栄は金脈問題やロッキード事件でトドメを刺された。だが、角栄さんは一審、二審ともに有罪となりました。彼は当初から身の潔白を主張しつづけていて、最高裁判所にも上告。しかし、最高裁の判決は待てど暮らせど出ません。裁判の途中で田中さんは脳梗塞で倒れて寝たきりになってしまい、一九九三年十二月に七十五歳で亡くなってしまいます。病の原因は、田中さんに可愛がられた竹下登さんが創政会をつくって田中派を離れたこと。怒り狂ってウィスキーのオールド・パーを大量に飲んだせいだといわれました。
それにしても最高裁の引き延ばしは異常でした。逮捕から十七年。元・総理の犯罪に有罪判決を出すのは忍びなかったのか。田中さんの命が尽きるまでまっていたとしか思えない。
政治家や官僚は、その時代の同世代には、小粒にどうしても見えてしまう。でも、考えてもみれば時間がたってから「ああ、あのときの政治家(や官僚)の判断や政策があるからこそこの世界があるんだな」と感じるものだ。
その意味で、政治家も官僚も、後世に評価される事業をやっていくしかない。
では、今の時代に田中角栄は必要か? というと、多分、必要ではないのであろう、ということ。この財政難に、日本列島を改造して大公共事業……など誰も賛成する訳がない。
その時代に合った政治家を育てていく。それが我々国民の仕事なんだろうと思うのです。


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『あの戦争は何だったのか?日米開戦と東条英機』Part2+『日本のいちばん長い日』太平洋戦争から戦後76年、最後の真実!!長尾景虎

2021年12月13日 19時55分11秒 | 日記












「この局面を打開するにはこの作戦しかない」
 日本軍軍幹部は、暗い部屋で薄明りの中いった。皆、軍儀で黒い軍服姿である。
 いったのはそのうちの幹部の老人だった。日本軍の暗号はとっくの昔に解読されていた。「ハワイの真珠湾攻撃! これしかない」
「しかし…」           
 軍儀に同席していた軍服の、山本五十六総裁は何かいいかけた。
 五十六は米国に留学した経験があり、米国の軍事力、兵力、技術力を熟知していた。その結論が、日本の力では米国軍には勝てない……
 というものだった。
 しかし、軍儀ではみな集団ヒステリーのようになっている。天皇(昭和天皇・裕仁)でさえ戦争反対ともいえない状態にあった。
 五十六はためらった。
 自分の力では戦争を止める力はない。天皇陛下が「戦争回避」といってくれればいいが、天皇は何ひとつ発しない。現人神だから、自分の、人間としての言葉を発しないのは当たり前なのだ。五十六は……”短期決戦なら勝てるかも知れない”と甘くよんだ。
 長期戦となれば、圧倒的に軍事力が違うから勝つ見込みはほとんどない。
 山本五十六は意を決した。
「わしも真珠湾攻撃は賛成いたす。ただし、奇襲ではいかん」
「……もちろんだとも」
「まず、米国外務省に電報で”攻撃”を知らせてそれから開戦だ!」
 五十六はいった。
 ……日本軍は確実に米国に”攻撃通知”を打電した。しかし、米国の外交官がそれを見るのを忘れ、結果として「日本軍はパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃した」などと事実を歪曲されてしまう。これはあきらかに米国役人のミスなのだ。
「総統、わが日本は勝てるでしょうか?」
 あるとき、部下がきいてきた。
「日本と米国の差は歴然……短期決戦なら勝てるかも知れない」
「しかし」
 部下は訝しがった。「わが日本帝国は清国(中国)にも、露国(ロシア)にも勝ちまし               
た。わが国は尚武の国です。まける訳がないじゃないですか?」
 五十六は何もいわなかった。
 ……負けなきゃわからぬのだ。この国の人間は…

  日本が太平洋戦争に踏み切ったこと自体、考えれば、国家戦略などなかったことを物語っている。ちゃんとした戦略があったなら、あの時点で、アメリカと戦うなど考えられなかったからだ。
 当時の日本はアメリカと比較すると生産力は十分の一でしかなく、領土は二十四分の一、人口は半分、島国のうえ原料はほとんど輸入に頼っており、補給路を絶たれたらそれでおわりである。
 これではちゃんとした戦略などたてられる訳がない。
 少なくても生産力がアメリカの二分の一、原料、とくに石油の自給率が七十パーセントくらいならまだ勝てるチャンスがあったかも知れない。
「この絶対的不利である日本国をすくうために開戦するのだ!」
 軍部の老人はいきまいた。
「ABCDラインからの自衛の戦争である!」
 老人たちはいう。
 確かに、彼等のごく狭い視野からみればそうであったかも知れない。
 ちなみに『ABCDライン』とは、米国・英国・中国・オランダによる対日包囲網のことである。
 ABCDラインで外交的にシャットアウトをくらい、日本はいきずまっていた。
 原料確保のためにはなんとか行動をおこさなければならない。
 そこで南方進出を決定する。
 ブルネイやインドネシアには石油がある。フィリピンには天然ガスが……
(当時、日本は満州国を保有していたが、石炭しかでなかった。また侵略していた中国では長期戦に引き摺りこまれていた)。
「この戦争はなんとしても勝たなければならない!」
 日本軍部はいきまいた。
「この国は、皇国帝国日本は必ず米英に勝てる!上官の命令は即ち天皇陛下のご命令である!少し負けても最期には皇国日本国に神風がふく!日清日露戦争にも勝った!日本軍の一個師団は米英の三個師団に匹敵する!神の国帝国日本は最後には神風が吹いて確実に勝てる!」
何を根拠に言っているのかよくわからないが、当時の日本軍人たちは必ずそう狂信的に発言していたという。文句があれば鉄拳制裁、つまり、殴られ蹴られ、暴力を受ける。
雄弁でも強くもない庶民や一兵卒は黙るしかない。
確かに戦争終結を希望した軍人や庶民もいたに違いない。(小説『少年H』妹尾河童著作みたいな大嘘じゃなく(笑))
だが、主張すれば『鉄拳制裁(暴力)』だ。確かに「天皇陛下万歳!」と言って死んでいった軍人や特攻隊員も大勢いたのだろう。
だが、昭和天皇も政治家も一部の軍事官僚も馬鹿じゃない。硫黄島やサイパン島、ダガルガナル島、ルソン島まで陥落して、東京や名古屋、大阪、福岡、仙台、兵庫など大空襲を受けて、沖縄もやられていよいよ本土決戦!となれば「もう(おわりで)いいのではないか?」という声だっておおきくなる。日本国内中焼野原である。
しかし、ポツダム宣言受諾にしても、『国体護持確約(つまり、天皇制度維持の確約)』がなければ日本国として丸呑みする訳にもいかない。
 この物語の元ネタは作家半藤一利氏原作の映画『日本のいちばん長い日』、小林よしのり氏著作漫画『昭和天皇』、NHKプレミアムドラマ『玉音放送を作った男たち』で、ある。
が、この物語では映画『日本のいちばん長い日』ではあまり活躍のなかった鈴木内閣の情報局総裁下村海南(かいなん・号、本名・下村宏)も主演級で物語の中にいれてみたい。
1945年(昭和20年)は屈辱的な敗北が続いている最中で、ある。
昭和天皇はさすがに眉間に深い皺をよせていた。
痩身なお体に軍服、近眼の為に丸い縁なし眼鏡をかけていて、猫背で背が低い。口髭。
軍部のプロパガンダ(大衆操作)の道具になっていたラジオや新聞は『大本営放送』を続けていた。まさに“勝った、勝った”の嘘八百の大号令である。
だが、庶民も天皇も馬鹿じゃない。そんな大嘘でごまかしきれる訳はない。
昭和天皇は「もうじゅうぶん国民は苦しんだのではないか?」とおっしゃった。
しかし、誤解があると困るから書くが当時の昭和天皇は、陸海空軍を統べる国家元帥、ではあったが、所詮は立憲君主制度である。
いわば“帽子飾り”であり、“自らの決定権”もなかった。
いわゆる“統制権”は陸海軍にあって、天皇がどうこう言える立場ではなかった。
当時の憲法では、現在のように“元帥(象徴)”ではあるが、何でも“軍部(特に陸軍・関東陸軍)が統制権を握って”いた。
天皇陛下は思っただろう。クソッタレ、と。
このままでは軍部の狂人たちの言うように『本土決戦』『一億総玉砕』、である。
だが、昭和天皇の偉大なところはあくまで国民側のお立場にお立ちになったことだろう。
政治経験がまったくない鈴木貫太郎を懇願して内閣総理大臣として、しかも軍部トップの陸軍大臣にはなじみの阿南惟幾をもってくる。随分な策士ではないか。
私の記憶にある昭和天皇は「あ、そう。」を繰り返す眼鏡の白髪のご老人であるが、それは晩年であり、私が19歳の誕生日の次の日(つまり1989年1月7日)崩御(ほうぎょ・天皇が死ぬこと)なされたので正直、あまり馴染みがない人物ではあった。
だが、現在、歴史を勉強してみれば以外にも『偉大な人物』であったことがわかる。
昭和天皇なし、で、昭和も終戦も語れない、のだ。
昭和天皇は当時、まだ丸焼けになる前の皇居執務室で、ひとり、椅子に座り、考え込んだ。
深いため息が出た。
「………朕は無力ぞ」
言葉にするといっそう“自分の無力さ”がわかった。
陸海空軍を統べる元帥、総司令官、現人神(あらひとがみ)としての自分…。
拳をぎゅっと握って、震えた。
「…朕は……無力ぞ。」
そういってひとり泣きした。ハンカチで涙をぬぐった。
そして、かっと目を見開いた。「国民はもうじゅうぶん苦しんだ。泣いている場合じゃない!朕にも何か出来るかも…知れぬ」
そうか!朕が…!そして昭和天皇は自分の“歴史的存在価値”を確信した。
……朕が………この国の戸締りをする…!
昭和天皇は椅子から立ち上がった。やっとわかった!そういうことか!
「宮内省大臣を呼べ!」
昭和天皇は声を発した。粋な発音の言葉であった。
昭和天皇は考えたのである。自分と腹を割って話せる側近たちで「終戦工作をする」…要するに昭和天皇はそう考えたのである。
「なんでござりましょうか?陛下」
「鈴木貫太郎を呼べ!今の小磯国昭首相の後任の首相としてお願いしたい」
「…な?……天皇陛下?鈴木さんはもうよぼよぼの老人で政治家でもないですし…」
「とにかく鈴木貫太郎じゃ!急げ!」
昭和天皇は激しく言った。
「ははっ!」部下は平伏した。
やがて、鈴木貫太郎が皇居に呼ばれた。第二十四代内閣総理大臣、鈴木貫太郎内閣が発足するのは1945年(昭和20年)4月7日である。
鈴木は昭和天皇(裕仁)に、首相就任を懇願されるとは夢にも思っていない。
もうよぼよぼの老人である。禿ではないが白髪に白い口髭、天子さまへの拝謁とあって燕尾服を着てきた。
「鬼貫(おにかん)」の愛称で知られた海軍大将。日清・日露戦争で武勲をあげ、海軍トップの軍令部長まで登りつめた。退役後は侍従長を8年間務め、天皇の信任は厚い。また、侍従長時代、2・26事件で青年将校に襲撃され、四発もの銃弾を受けるが奇跡的に九死に一生を得た。信条は「軍人は政治に干与せざるべき」(阿南、鈴木人物説明小林氏本参考)
「天皇陛下におかれましてはご機嫌うるわしゅうことと…」
「挨拶はよい」昭和天皇は遮った。「それよりものう鈴木、頼みがあるのだ」
「なんでございましょうか?」
実は鈴木貫太郎の嫁は元・裕仁の乳母である。父親のような感覚がある。
ゆえに終戦工作を隠密にすすめる大役は彼しかいなかった。
「鈴木よ、今度現内閣の小磯国昭内閣が総辞職する。代りの総理大臣(第二十四代内閣総理大臣)に、次の首相に就任してはくれまいか?」
「えっ?」
鈴木貫太郎は驚いた。そして「いやいや、陛下。わたくしはもうヨボヨボの老人で、耳も遠くなり、政治などやったこともありません。無理です!」
「鈴木よ!まあ、聴け!」
「はっ!」
「じつはそのほうには、この国の“戸締り”をお願いしたいのだ」
「えっ?戸締り?」
「そうだ。隠密に終戦工作をしてほしいのだ。お前なら出来る。頼む!」
「しかし…」鈴木はためらった。「統制権は完全に帝国日本陸軍が握っております。軍部がどんな横槍をいれてくるか…確実につぶされます!断言してもいいです!」
昭和天皇は鈴木貫太郎の言葉を受けて、遠い目をした。考えた。
「鈴木よ、ならば本土決戦、一億総玉砕、でよいとおもうのか?」
「いいえ、それは。そのような惨事では日本は復興さえできません」
「…だから!だから、貴様に頼むのだ!もう国民はじゅうぶんに苦しんだ」
「しかし…軍部が…」
天皇は頷いた。「わかっておる。だから、軍部を統べる陸軍大臣には阿南(アナン、本当はあなみだが昭和天皇はよくあなみをアナンと呼び間違えたという)をあてることにする」
「阿南閣下をですか?しかし、阿南惟幾閣下といえばごりごりの交戦派で口を開けば“本土決戦!”“一億総玉砕”と叫ぶほどでして…」
「阿南なら、わかってくれる。あの朕が知るあの阿南なら…」
昭和天皇はゆっくり言った。「もはや、戦争継続は無理である。朕には最後に神風が吹き勝つとはとても思えん。降伏か?本土決戦か?一億総玉砕か?阿南ならわかるであろう」
「なにとぞ、この一事だけは拝辞(はいじ)のお許しを願い奉ります」
「そう申すと思っていた。その心境は、よくわかる。しかし、この重大な時に当たってもうほかにひとはいない。ほかにひとはいない」
「………」
「頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」
「わ…わかりました!」鈴木貫太郎は深々と平伏した。
何故だか涙がでてきた。
当然ながら阿南惟幾は陸軍大臣になるのを固辞し続けた。
阿南は、しばらく考えさせてほしい、と桜の木々の間の山道をたったひとりで散策しながら考え込んだ。
山から帝都の町並みをみて、俯瞰して、感慨ふかげにため息をもらした。
この帝都もいずれは火の海になり、国民は焼け出される。
自分が隠密に終戦工作を…?
頭をふった。
馬鹿な! しかし、陛下のおっしゃられることもごもっともである。
阿南は東京大空襲後に同じく山道から焦土と化した帝都を見て唖然となった、という。
阿南惟幾は小磯国昭内閣総辞職後の鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。
600万人の陸軍軍人を統べる陸軍大臣である。
その当時は戦争末期の状態で、大本営放送のウソの“大勝利情報”とはうらはらに日本軍は負け続けた。日本軍は『神風特攻隊』『回天特攻隊』などと称して、戦闘機や潜水艦に爆弾を積んで米軍艦隊に体当たりで攻撃する“自爆テロ”のようなことをしていた。
大勢が「天皇陛下ばんざーい! 万歳!」といって体当たりして死んでいった。
国会内で、鈴木おじいさん内閣が発足すると前首相・小磯国昭(こいそくにあき・のちにA級戦犯)が嫌味をいった。鈴木貫太郎は飄々としている、そして「は?」と耳を傾けた。
「なに? わしは爺じゃで、耳が遠くて聞こえんかった。何て?」
無論、わざとである。小磯は顔を真っ赤にして怒り、「なんでもない!」と怒号を発して、去った。まさに鈴木おじいさんの策士ぶり老獪ぶり、がわかる。まさに家康(笑)
阿南惟幾のほうには『戦争継続・本土決戦』を叫ぶ畑中健二少佐たち青年将校が集合して阿南にお伺いをたてる。頭を下げて平伏して、「阿南閣下!戦争継続ですよね?閣下!?」等と問う。まさに狂信的な青年帝国軍人たちである。負ける、敗北する、? まだ数百万の兵士が残っておる! 沖縄の次は本土決戦である! 天皇陛下万歳! 陛下の為にも戦争継続!
鈴木内閣の情報局総裁は下村宏(号・海南)で、ある。
首相が懇願して就任してもらったのだ。下村宏は当時、有名人、であった。
鈴木貫太郎の孫で、現在(2015年)映画評論家として活躍する鈴木道子さんは、鈴木貫太郎の嘆願で、秋田県に疎開したという。「祖父の“決死の覚悟”が語らずともわかった」という。また、阿南惟幾が覚悟を決めた日の朝、出勤する阿南惟幾のただならぬ“決死の覚悟”を感じた妻が小さな子供達を必死に連れ出し、“無言の今生の別れ”、をさせた。
その阿南邸の玄関先での場面は、映画『日本のいちばん長い日』でも描かれたが、号泣確実の名シーンである。まさに満身創痍の阿南惟幾と日本国………
下村宏は明治8年から昭和32年までの人生である。逓信省から朝日新聞に入社、妻は文という。文の親戚は佐々木信綱という有名な詩人であるから、下村海南(雅号・本名 下村宏)はよく漢詩や詩をつくったという。仲のいい夫婦、である。
「この詩をどう思う?」
「そんな、親戚のおじさんに訊いてください。わたしが詩人ではありませんから」
妻は思わず笑った。
「それもそうか?」宏は笑った。
「その沢山のファンレター、旦那様はもう有名人ですねえ(笑)」
下村宏はラジオで番組を受けもって有名人になる。テレビもないパソコンもない携帯やスマートフォンもない時代だから、ラジオは最先端のマスメディアであった。
下村は政府に不利な情報が“検閲”されている、と耳の痛いことも言ったがラジオの放送はそれをいわせなかった。途中でラジオの音源を遮断して、言論統制をする有様であった。
「“正確な正しい情報”こそ“武器”なのに“英語を話す事を禁止”したり、大本営は間違っている!」下村はそういう男である。
妻の文は「それでも相手の気持ちも考えて発言することも大事なのですよ」と、当たり前のように言う。これは釈迦に説法か? と思うが違った。
「それもそうじゃのう」
確かにその通りである。そういう下村だからこそ、情報の重要さがわかっているからこそ、鈴木貫太郎は下村海南(宏)を情報局総裁に任命したのである。就任時は朝日新聞の専務役員であった。誰よりも情報戦略、外交戦略、等戦略に長けていた。
下村海南は早くから『天皇陛下の肉声』つまり、『玉音放送』に着眼する稀有な人物でもあった。だが、下村は早すぎたジャーナリストでもあった。
『玉音放送構想』は木戸幸一やらに「無理だ」「現実的じゃない」と拒絶されたし、空襲の情報を正しく伝える事も拒絶される有様であったという。
下村は“天皇陛下のお写真”を“庶民が陛下に親近感を抱く為に朝日グラフ等に掲載”していた。が、庶民からは「不敬だ!不敬罪だ!」と反発されていた。
まだ、天皇陛下が象徴でも人間でもなく、現人神の陸海空軍を統べる大元帥、の時代、である。天皇陛下の写真は『ご神体』と呼ばれていた。
下村宏(雅号・海南)おじさんは“早すぎる改革者”であった。
「下村さん、どうか鈴木内閣で終戦工作に与力してはくれまいか?」
鈴木首相は渋る下村海南に嘆願し、頭をさげた。
「わかりました!」下村は涙声で、言った。
参謀の内閣情報次長の久富辰夫氏(毎日新聞記者の若者)、内閣情報局秘書官の川本信正(朝日新聞記者の若者、オリンピックを「五輪」と最初に訳したひと)らである。
「玉音放送ですか?」
久富さんは下村に聞きかえした。「天皇陛下の御肉声を?」
川本は「無理じゃないですか?この前だって軍衆によびかける陛下の声を遠くのマイクが拾ってしまい大問題になりましたばかりでしょう。陛下のお言葉は確かに強大だとは思いますが軍部がだまってないでしょう」
「だからこそ、だ。」下村は強く言った。「今こそ陛下のお言葉でこの地獄のような国民の凄惨なありようを伝えて、終戦に導かねばならん。それが国の為道の為だ」
「しかし…」
「しかしも屁ったくれもない。今こそ玉音放送なんだ!」
下村たちが出会ったのがのちの『玉音放送担当アナウンサー』の和田信賢(わだ・しんけん)さんである。和田氏は安芸ノ海VS双葉山のラジオ中継をやって「双葉山敗れる」と
実況して有名になった。戦後は日本初のクイズ番組の司会で有名になった。
「私は只のトーキングマシーン(話す機械)ではなく、声優とまで呼ばれるくらいのアナウンサーになりたい」下村の前で和田さんはそう夢を語ったという。
当時のアナウンサーの悩みは空襲警報の情報検閲であったという。“軍事情報は漏らさず”等の綺麗ごとで空襲警報の正確な情報がラジオで流れない。よってその被害者は莫大なものとなり、いつしか少国民らはアナウンサーや大本営を憎むような心情になっていたという。下村宏(雅号・海南)はその情報検閲を規制して、徐々に正確な情報がラジオや新聞で伝えられるようになっていく。まさに情報改革、であった。
空襲が激しくなり陛下の身を案じた君臣たちが、東京の宮城(皇居)の壕から、長野松代に建設していた地下壕に大本営の移転を強く願いあげたが、陛下は、
「わたくしは、国民とともに、この東京で苦悩を分かちたい。わたくしは行かない!」
と強く申されたという。皇太后さまも同じ意見であった。
(小林よしのり氏著作より引用)
1945年(昭和20年)4月12日、米国のルーズベルト大統領死去
1945年(昭和20年)4月30日、ヒトラー自殺
1945年(昭和20年)5月8日、ナチスドイツ、連合軍に無条件降伏
1945年(昭和20年)5月25日、東京大空襲(宮城(皇居)も焼失・天皇ら皇居近くの防空壕基地に移動)
「空襲警報をすぐに出させてください!」
軍人は「いや、まて!検閲が先だ!」等という。
和田信賢さんは怒鳴るように「何を考えているんですか?!国民の命がかかっているのですよ?!検閲は国民の命より大事なんですか??」と我鳴った。
鈴木貫太郎はもう悟っていた。
「もうこの戦争に勝ち目はない。軍部がいじになっている」
下村は「国内が焦土と化し、本土決戦、一億総玉砕………となったら新しく根ぶくこともない」とため息を漏らした。ひどく疲れていた。
「下村さん、なんかアイディアがないかい?」
「総理、それはわたしより総理の方がアイディアがあるんじゃありませんか?」
うながした。
「……天皇陛下の御聖断か?」
「御明察。今こそ玉音放送、陛下のお言葉です。軍部でも政治家でもなく天皇陛下のお言葉だからこそ国民は敗戦でも受け止められるでしょうな」
「それしか…ない……な。」鈴木首相は深く頷いた。
御聖断をあおぐ。それが“最後の道”である、な。
1945年(昭和20年)7月27日に米英中3国が、ポツダム宣言で日本国に無条件降伏をせまってきた。しかし、『国体護持』つまり天皇制の維持の約束がまるでない『ポツダム宣言受諾』に反対する者も多かった。阿南も軍部も文句たらたらである。
だが、8月6日午前7時17分に広島市に原爆が投下されると日本国は「もう駄目だ」という意見が大半になった。アメリカ人が学校で教わる詭弁『広島・長崎の原爆投下で戦争が早期終結した。原爆は必要だった』等とは私(著者)はけっして思わない。詭弁であり、大嘘である。原爆の人体実験がしたかっただけだ。庶民が住む非軍事施設への原爆投下や空襲は明らかな『戦争犯罪』である。
広島・長崎で何十万人も犠牲になったのだ。しかも、軍人でもない庶民が、である。
あの当時、日本国中が焼野原であり、確かに一部の狂信的な軍人は竹やりででも戦ったであろうが、象に立ち向かう蟻、である。『戦争終結を早める為に原爆投下は必要だった』等とふざけるな!とアメリカ人には言いたい。そして、アメリカ人は広島や長崎にきてちゃんと歴史を学んでほしい。話はそれからだ。
当時は核爆弾を投下された、という認識はまだなく、「何やら新しい新型爆弾を米軍がつかったようだ」という認識だった。が、専門家らは「あれは原水爆だよ」という意見もあった。要は『人体実験』の『原爆投下』であり、黄色い日本人等どうなろうが知ったことではない、という“アメリカ人(WASP)の主張の塊”のような“新型爆弾”であった。
広島や長崎の被爆者は爆弾を『ピカドン』と呼んだが、正式名称を知らなかったからで、『原爆投下』は後付けの歴史観である。
日本放送協会会長の下村海南は、君民一体となる為に、天皇陛下のお声を一億国民に向けて放送すべきと考えていたが聞き入れられなかった。その下村は、終戦時の鈴木貫太郎内閣に情報局総裁として入閣していた。昭和20年(1945年)8月8日、下村は天皇に拝謁する。君民の間はあまりにも隔離されていた。この重大時局にあたり、玉音放送などとんでもないことと堅く阻止されている。しかしいまや日本帝国存亡の秋(とき)に直面した。さような窮屈なことなどいっていられる時ではない。下村はそのような内容の奏上(そうじょう)を熱心に行い、拝謁は二時間にも及んだ。そしてその帰りの車中、下村は涙を目にため、震えた声で言った。
「陛下は承知してくださった。わたしが陛下に「マイクの前にお立ちください」と申し上げると、陛下は「必要とあらばいつでもマイクの前に立つ」とおっしゃったんだよ。」
(小林よしのり氏著作より引用)
1945年(昭和20年)8月8日にソ連軍が、日本国に宣戦布告して満州や樺太・クリル列島や北方領土を蹂躙、『シベリア抑留』という悲劇がうまれた事は歴史に刻まれている。
もはや、ここまでか!御前会議で鈴木首相は、突如、天皇陛下の御聖断をあおいだ。
「陛下!天皇陛下、どうかご聖断を!天皇陛下の御心をおききしたい!」
鈴木首相は伝家の宝刀を抜いた。
『最高戦争指導者会議』1945年(昭和20年)8月9日午前11時30分。宮中で開かれたその会議のメンバーは、総理大臣・鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)、外務大臣・東郷茂徳(とうごう・しげのり)、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみ・これちか)、海軍大臣・米内光政(よない・みつまさ)、参謀総長(陸軍最高指揮官)梅津美治郎(うめづ・よしじろう)、軍司令総長(海軍最高指揮官)豊田副武(とよた・そえむ)
鈴木貫太郎首相の書記官長の迫水久常氏は「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、今度は長崎に新型爆弾がおとされて大勢が死んだそうです(広島原爆投下(ウラニウム型水爆 長崎の原爆はプルトニウム型水爆)1945年(昭和20年)8月6日午前7時15分)。…最後の一兵まで戦うしか…ないのでしょうか?」という。
最高戦争指導会議では決戦派と和平派とが紛糾して議論がまとまらない。
だからこその、鈴木首相の、突如の、ご聖断の懇願である。
「広島長崎の原爆といいソ連の参戦といいこれ以上の戦争継続は不可能であります。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかない。ついては天皇陛下のお言葉をたまわりたく願います」
昭和天皇は「国民はもうじゅうぶんに苦しんだ。もう戦争はよろしかろうと思う」と述べた。御聖断である。つまり、戦争終結、ポツダム宣言受諾、である。一同は号泣した。まさに満身創痍の御聖断で、あった。嗚咽だけが静かに聞こえる。おわった……。
しかし、軍部や国民が納得するのか?それが最大の問題であった。
(小林よしのり氏著作より引用)
陸軍大臣の阿南惟幾に「戦争終結という噂はデマですよね?日本はまさに神の国で天皇陛下がおられる限り負けはしません!一億総玉砕、本土決戦で戦争継続を!どうか軍部の総意をお守りください!」等と若手将校らがせまる。
阿南は戦争継続など、無謀で、もうおわり、とわかっていたが「貴様たちの総意はわかっておる!まだ、本土決戦、一億総玉砕、の道は残っておる!まだ望みを捨てるな!」
と一喝した。嘘だった。御聖断を有効にするための大嘘であり、詭弁だった。
「日本に天皇陛下がおられる限り皇国日本は亡びない!」
「はっ!天皇陛下万歳!」
畑中少佐らはにやりとなった。
だが、御聖断はくだったのである。
ファナスティック(狂人的)な軍人は机を叩いて「国体護持」を叫ぶ!古賀少佐と畑中少佐は阿南邸宅で阿南と酒をくみかわした。
「阿南閣下は呑まれないのですか?」
「ううん。息子が戦死してから断酒してねえ。これも七生報國だよ。」
この頃、軍部の青年将校の間では『ポツダム宣言』の「サブジェクト トゥ…」が問題となっていた。「おい!この“サブジェクト トゥ”は隷属(れいぞく)するって訳せるぞ!」
「何?!アメ公め、ふざけやがって!」
「阿南閣下はどうしますか?!!本土決戦、一億総玉砕がなければ皇国日本が滅びますよ!」「………天皇陛下次第だろう…」
こうして日本政府は『(降伏要求の)ポツダム宣言』を“黙殺”……広島、長崎に原爆が落とされ、不可侵条約を結んでいたソ連が参戦してきた。
阿南惟幾陸軍大臣が「御聖断はくだったのである。もし、まだ戦いたいのならこの阿南を斬ってからにせよ!この阿南の屍(しかばね)を越えていけ!」と喝破する。
すると畑中少佐は机をばんばん叩き「……まだ戦えますよ、閣下あ!一億総玉砕!後、二千万人の特攻をだせば勝てます!」
部下や同僚は荒れる畑中少佐をはがいじめにして下がらせた。
鈴木貫太郎内閣は『ポツダム宣言』の閣議をしていた。自体は一刻の猶予もなかった。
鈴木はいう。「一日遅れればソ連は樺太、満州、北方領土どころか北海道まで侵攻し、北海道がドイツのように分断される。敵がアメリカのうちにやらねば……ここは天皇陛下の御聖断を仰ぐしかない。まことに異例のことだがなあ」
天皇は言う。「わたしは一億総玉砕に反対である。わたしの命はどうなってもかまわないから和平をすすめてほしい。わたしのことばが必要ならいくらでもマイクの前に立つよ」

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『あの戦争は何だったのか?日米開戦と東条英機』TBSテレビドラマ引用参照(小説まとめ)まとめ 長尾景虎

2021年12月13日 18時12分59秒 | 日記
















  『あの戦争は何だったのか?日米開戦と東条英機』TBSテレビドラマ引用参照
   ⒸTBS  原作・保阪正康氏 脚本・池端俊策氏 まとめ長尾景虎
 あの戦争は何だったのか? 何のために始まったのか? 誰の手で始まったのか?
 止めることは出来なかったのか?
 昭和二十三年(1948)――――蒸気機関車に揺られ、軍服に足にゲートルの記者・吉原正一は、東京の下町の徳富蘇峰氏の邸宅に向かっていた。人混みで埃まみれだ。
 徳富蘇峰とはジャーナリスト兼作家兼言論人であり、戦前・戦中と、テレビのない時代にラジオや新聞記事や雑誌や書籍、それに映画ニュース映像などで〝開戦〟を煽った人物である。勝海舟や伊藤博文、乃木希典に山縣有朋、中曾根康弘などと人脈があった。
 徳富蘇峰の邸宅は『晩晴草堂(ばんせいそうどう)』という。
 記者の吉原は、畑で作業する蘇峰に頭を下げた。丸い体躯に、仙人のような白い髭に髪の老人のよう見えた。茶系の着物姿である。
「いやあいやあ。巣鴨プリズン(収容所)の友に、野菜でも送ろうと思ってな」
「〝友〟……?」
「東条英機くんだよ。ははは」
 東条英機らは、戦後、A級戦犯として収容所暮らしになったが、徳富蘇峰は高齢のために戦犯指定を免れていた。昭和天皇も戦犯にならなかった。
「どうも。徳富さんはジャーナリストで、新聞社を経営して、記事をかいていたこともあったので、僕らの先輩でもあります。そこで、お聞きしたいのですが、徳富先生は新聞やラジオで〝開戦〟を煽られた。それについては? あなたが戦争を煽ったのでは?
 世の中にはあなたが日本の〝戦争〟を始めた張本人という意見もありますが」
「いやいや。戦争を始めたのは軍人だよ。戦争をするのは軍人だからねえ」
「でも、我々もですが。我々やあなたは〝開戦〟を煽った」
「確かに」蘇峰は認めた。ふたりはごみごみした蘇峰の書斎で話していた。
「わしは確かに、戦争を煽った。いまや、日本はアメリカと闘わなければ活路が開けん、とな。日中戦争では四年の泥沼……米国からの石油輸入も断たれた。ABCD包囲網……〝ハル・ノート〟……わしを裁く、戦犯にするというなら逃げも隠れもしない。いつでも受けて立つ!」
「ですが、〝大東亜共栄圏構想〟自体が、ペテンじゃないですか。アジア諸国を白人の〝植民地支配〟から解放する、とか。結局、イギリスやフランス、オランダから日本人に支配権が移っただけ。石油を止められたから、南方のアジア諸国の油田やガス田を侵略して奪取しただけ。満州だって、中国の一部ですよ?」
「満州は日本の希望であった。台湾も、樺太も、だ。卑怯なのはアメリカではないかね?」
「戦争でのことでしょう? 真珠湾攻撃やアジア侵略のしっぺ返しが、大空襲や広島長崎の原爆ですよね? 軍人が戦争なんか始めるからですよ」
「……なにを言う。確かに我々が煽ったが。国民は〝戦争・開戦〟に熱狂しただろう!」
 昭和四年(『世界大恐慌』の始まり)……昭和十六年一月(『満州事変』『日中戦争』)…
蘇峰は思い出していた。
 日米開戦の数か月前、近衛文麿が総理大臣のときに、一九四一年―――近衛の別邸『荻外荘(てきがいそう)』にて、東条英機らを招いて文麿の誕生会をしたことを。
 陸軍大臣・中将 東条英機(満州で陸軍参謀)(陸軍の顔)、海軍大臣・大将 及川古志郎、財務大臣(予備役)海軍大将 豊田貞次郎、企画院総裁・(予備役)陸軍中将 鈴木貞一らで、ワイングラスで乾杯した。まだ、午後すぐの時刻だ。
 近衛は、しきりに、日米の兵力差を気にした。
「僕のところには日米の国力差は十対一とか。石炭十倍、鉄鋼十二倍、石油五百三十倍、総合力で八十倍……という数字があってねえ」
「それはそうですね。資源が足りない」貞一は頷く。
「もう、満州からの北進(陸軍)も、南方(海軍・仏印・ベトナムや東南アジアの石油などの資源狙いの侵略)もしちゃっているし。支那(中国)事変から四年も戦闘状態……米英は支那からの日本軍の撤退を要求している。どうかね? 東条くん」
「私の認識では国力差は四対一……だが、アメリカ人はジュースを飲みながらダンスをするだけの歴史の浅い軟弱人種。それにひきかえ日本人は、二千六百年の歴史と大和魂がある。負けるわけがない。日本こそ天子様の治める神の国。大和魂の尚武の民!」
「……南方や支那からの軍の撤退は?」
「それが一番駄目。不可! 支那(中国)との戦争は四年もかけ、二十万人の日本兵が犠牲になった。それで、撤退では……死んでいった英霊たちに申し訳が立たない。石油や鉄鋼を断たれた帝国日本は、資源が、油が必要。今、東南アジア諸国から引けば、日本は四等国になり、日本が滅びます。それは断固不可! 不可であります」
 東条は断固、〝開戦〟を主張する。
「だけども、陸軍が支那から完全撤退でなければ、外交はならない。撤退しないで石油だけよこせ、という外交ではアメリカが納得しないよ?」
「撤退は不可、不可! 何のためにドイツとイタリアと三国同盟を結んだのか……撤退は不可! 近衛首相、弱気ではダメ。不可であります! 撤退となれば若い青年将校が暴発して、テロをやるやも。ですから、撤退は断固、不可!」
 近衛らはしらけた。
 近衛文麿はもうこの時期、首相の職の無力さに、ほとほと嫌気を感じていた。
 文麿は、首相を辞める気でいた。いわゆる、〝投げ出し〟内閣総辞職、である。
「僕はもう疲れた。首相などお飾りなだけ。実質の権力は〝統帥権〟の陸海軍……天子様がお気の毒である」
 一同が帰った後、次の日のゴルフ場で、内大臣・侍従・天皇の側近の木戸幸一(桂小五郎・木戸孝允の孫)が鼻で嗤った。
「東条の奴。軍を撤退したら青年将校らがテロを起こすとか脅してきて……それを食い止めるのがお前さんの仕事だろう、が」
「〝テロ〟になら、僕はあった。邸宅から車に乗った瞬間、若い男が銃で撃ってきた。幸い、弾は当たらず。テロリストは憲兵が捕らえたがね」
「まったく。〝開戦反対〟の姿勢が見えただけで、それですからな。どちらがテロリストなんだか。国民は米英との戦いに本気で勝てると思っている」
「日本は、日清日露の戦争で勝ったから」
「日清日露? ふん。血だらけで……最後は必死に外交で、勝ったことにしただけじゃないかね」
「僕はもう疲れたよ。首相を辞める。どうせ、お飾り、だ。今の日本の首相には何の力もない。疲れた疲れた。もう、金輪際、やっていられないね」
「……近衛さん?」
 こうして、近衛文麿は首相を辞任、近衛内閣は総辞職と、なった。
 
 ――――昭和十六年十月十七日、陸軍省。
 戦争を止めようという人たちも少ないがいた。陸軍省へ出向の石井秋穂(軍務局参謀課 高級議員・中将)氏。軍服を着た、軍人官僚である。
 軍務局参謀課・執務室。丸刈りの軍服の石井氏は出勤した。
「近衛首相が辞任して内閣総辞職?」
 軍務局長・中将の武藤章が牙をむく。
「石井」
「……はっ」
「どうも、陸軍が近衛さんに無理難題をふっかけて、近衛首相が嫌気がさして辞任したみたいなことになっとる。それは違う、というレポートをかけ」
「ははっ。了解しました」
「それとな、石井」
 軍務課長・少将の佐藤賢了が、口をはさんだ。
「支那から陸軍は断固撤退しない、とお上に上奏しろ」
「ははっ。承知しました」
 首相秘書官・大佐の赤松貞雄がやってきた。
「宮内省から東条大臣に参内の命がきました」
「なに、東条大臣に?」ときいたのは武藤だ。
「はっ。御上直々の御呼びである、とか」
「なんだ? ……また陸軍へのお叱りか?」
「かもしれませんなあ。但し、東条大臣は真面目な努力のお方。御上に叱られるのも嬉しいというひとで……」
 武藤と佐藤賢了は苦笑した。
 やがて、東条英機が陸軍省へやってきた。
 軍服に、部下に勲章をつけさせて大臣椅子に座りながら、石井のレポートを見ていた。
「早くしろ。御上をお待たせするのは畏れ多い」
「それと」東条はにやりとした。
「石井。このレポートはいいね。努力のあとが見受けられる書面だ。人間に優劣などない。その人間が目標に向けて努力をいかにするか、だけで人間の人生はまったくかわる。努力しない人間は駄目。不可! 努力こそ人間の力だよ」
「ははっ。ありがとうございます」
「それと、御上は〝戦争反対〟とおっしゃるかも知れぬ」
 東条が何となくいうと、佐藤賢了は反発した。
「それは不可であります!」
「佐藤。御上……天子様のお考えであるぞ」
「そうですが。アメリカ人などは歴史の浅い国の人種で、チューインガムを噛みながらダンスを踊るだけの軟弱人種であります。そんな国と戦争しても負けるわけがありません」
「……バカヤロウ。お前は馬鹿だ!」
「ははっ。しかし、そう自分を育てたのも閣下であります!」
「……」
 東条は言葉を呑んだ。複雑な顔をする。
 東条は秘書の赤松とともに、車で、宮城(皇居)の宮内省に向かった。
 後部座席で、揺られた。
「天子様は明治帝が日清戦争のときに読まれた御製を口になされたとか。大臣?」
「〝よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ〟……であろう? これは明治帝が日露戦争の時に、人類は四方ノ海でつながっておる兄弟で、世界平和までみすえた平和の御製……御上はやはり本気であろう、と」
「御上が……戦争回避、ということでしょうか。大臣?」
「う~ん。君臨すれども統治せず。天子様はただお聞きしているだけであろう?」
「そうでしょうか?」
 緊張でかちかちの石のような体になって、天皇陛下の御前に赴くと、東条は仰天した。
 なんと、天皇陛下(のちの昭和天皇)からのお召は、首相への〝大命降下〟であった。
 だが、その大命に陸軍省は大喜びした。部下たちが万歳三唱をする。
 東条は明治神宮に参拝してから、陸軍省へ戻った。
 万歳、万歳、と歓喜の海だ。これで陸軍主導の内閣になる。開戦だ!
 だが、東条たちも馬鹿ではない。これは、戦争を回避させるための内閣であることなど、わかりきっていた。この時代を、暗黒の時代、というひとが多い。
 何故、アメリカと戦争をしてしまったんだ? と。国力差が八十倍……勝てる訳がない。
 無論、軍部も官僚も政治家もわかっていた。だから、東条も戦争をしたくなかった。
 戦争を望んでいたのは軍部でもないし、内閣でもない。
 〝開戦〟のプロパガンダ(大衆操作)に熱せられた国民が、戦争を望んだのだ。
 陸軍に戻る前に、御前で、昭和天皇が、
「〝よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ〟……どうか?
  東条……どうか?」と聞いてきた。
「………」
 むろん、東条英機は何も答えられない。
 ただ、沈黙して、動揺するしかない。
 東条が帰ってから、天皇は木戸内大臣に漏らす。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず……だね?」
「ははっ!」木戸は頭を下げる。
 とにかく、無謀な戦争開始を回避するしかない!
「御上は御立派だ。我々などいくら努力したところで人格でしかない。が、御上は神格であらせられる。さすがは天子様である」
………東条は、首相の座に就くと、〝国策再考〟の指令を密かに出した。
 
 昭和十二年日中戦争開戦。戦火は中国全土に拡大。戦争で二十万人の日本兵が犠牲になった。泥沼の戦争は今年で四年目……。
「まだやるか?」武藤は渋る。
「アメリカとの戦争は太平洋での戦争。つまり、海軍の戦い」
 とは、石井秋穂。
「なら、海軍が折れれば、戦争にならないのか?」
「それは何とも」
「外相の松岡洋右の〝三国同盟〟がなあ。……特に、ナチスドイツのヒトラー総統はなあ。日本はあの男に、どうも振り回されているよなあ」
 武藤は臍を噛むしかない。
 〝国策再検討〟……というのは〝開戦回避〟の思惑である。
 だが、その間も、同盟国のナチスドイツは、パリ入城(昭和十五年六月十四日)、ロンドン爆撃開始(昭和十五年九月七日)、米英(ルーズベルト大統領×チャーチル首相)首脳大西洋上会談(昭和十六年八月十四日)、独ソ戦開始(昭和十六年六月二十二日)……
 と、戦況は悪化していく。
 〝国策再検討〟会議は踊るに、踊る。
 陸軍参謀総長・大将の杉山元は、陸軍として支那(中国)からの撤退もしないし、仏印(東南アジア諸国)からの軍の撤退もしない、と意気がる。
「撤退もしない。石油だけよこせ…それでは外交にならない」と、外相の東郷茂徳が反発。
「それをうまくやるのが外交じゃないのかね?」杉山が鼻で嗤う。
「資金もだいぶ足りない」と、大蔵大臣の賀屋興宣はいう。
「じゃあ、撤退はいいだろう。ただし、百年後!」
「杉山さん。あんた、何言っているんですか? 外交条件ならせいぜい五年か十年」
「なら五十年後に撤退を考える」杉山はにやつく。
「なんですかそりゃあ?」
「じゃあ、間をとって二十五年……にしても資源も物資も足りません」
 企画院の鈴木貞一は困り顔だ。
「支那戦争も南方戦争も、全部、陸軍の〝勇み足〟じゃないかね?」
 軍令参謀長・海軍大将の永野修身は不満を漏らす。
 海軍は〝火事場泥棒〟のようなものだった。会議に恰好つけて、陸軍から鉄の補給量をぶんどった。海軍首脳はにやにやする。
 会議は何も決まらない。誰かが、「戦争回避」をいってくれないか? となすり合いが始まった。どこからも撤退しない、だの、「これでは外交にならない」
 と、怒りで失望した外相の東郷茂徳が辞任をちらつかせたところで、〝休憩〟になった。
 今と違って、昔は、当時は、内閣から辞任する閣僚が出れば、『内閣不一致』で総辞職しなければならない仕組みであった。ちなみに、開戦後の、東条内閣を総辞職に追い込んだのは、岸信介商工大臣で、岸による辞任でのことだ。
 杉山陸軍参謀総長は天皇陛下(昭和天皇)に怒られた。
「アメリカとの開戦は六か月でかたがつく」と、適当な上奏をしたからだ。
「杉山! お主は支那との戦いのときも一か月でかたが付くと申した。だが、あれから四年もかかってもまだおわらぬ」
「それは……支那は奥地が広いので……」
「支那が奥地が広い、というなら、太平洋はもっと奥地が広いぞよ。馬鹿者!」
「……ははっ」
 日本の中枢にいる首脳たちは、誰も責任を取らず、すべて先送りにした。
 全員、戦争に勝てないとわかっていたが、言えば殺される。そんな情勢だった。
 責任のなすり合い。軍の撤退は二十五年後……
 やがて、時間切れ。十何時間も会議で話し合って、撤退の時期の〝譲歩案〟さえも削除される。こんな条件で、外交などやれるわけもない。
 会議では、第一案・戦争を回避し臥薪嘗胆。第二案・即時、開戦。第三案・戦争をする覚悟で、作戦と外交を継続……。という三案で、落としどころを探った。
 だが、日本の運命は決まった。開戦、である。
 東条英機は号泣しながら、天皇陛下の御前で、開戦の詔を読み上げた、という。
 こうして、日本人だけで三百十万人もの死者を出した戦争が、始まった。
 泥沼の、誰もが勝てぬとわかっていた戦争に。真珠湾攻撃の第一報で、国民は万歳。
 しかるに、日本が戦況を優位にしていたのはその時だけ。昭和十九年には本土空襲がはじまり、神風特攻、昭和二十年八月六日に広島への原爆投下、三日後に、長崎への原爆投下、十数万人が死ぬ。八月十五年に終戦、というか敗戦。
 こうして、悪夢のような戦争はおわった。
 あの戦争は何だったのか? 誰のための、誰による戦争であったのか?
 もはや、それは言っても仕方がない。だが、問う。あの戦争は何だったのか?




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