3 あえて日本へ
1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。
学位は、学士(経済学)。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市南区に事務所を構えた。
1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。
そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。
1986年をもって社長職に復帰した。1990年をもって日本に帰化。
理想の起業家像
「最も好きな起業家」は本田宗一郎であるという。
藤田田を訪問
高校生時代、藤田田に会うために藤田の会社に行く。
最初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田についに社長室に通されたという。
そこで「今度渡米するのだが、アメリカで何をすべきか」と尋ね、コンピューター関連を学ぶように助言された。
その後成功した孫は藤田を食事に招待し、藤田はあの時尋ねてきた高校生が孫正義だったかと驚き、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したという。
人生の目標
19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
大学の検定
カリフォルニア州での大学の検定試験の際に、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。
試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。
そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという。
さらに、州知事との交渉において知事は「厳密な終了時間」を決めておらず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論が出されたことから、無期限の時間延長と孫は独自解釈して、最後までテストを受けて合格したという。
インベーダーゲーム
自動翻訳機の売込みで得た資金(1億円)を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大きな利益を得た。
成年後のエピソード
通名ではなく本名で起業
ソフトバンクの前身であるユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えたが、親・親戚には、在日が日常生活で差別されることはかなり減ったが、就職では間違いなく差別され、銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された。
それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺は人間としてのプライドを優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた。
一族からは「お前は青い」とも言われたが、父親は何も言わず黙って孫の話を聞いていたという。
孫の名前にこだわった理由はもう一つあり、それは渡米する際に心に決めた志と通名による起業が矛盾するということであった。
孫は佐野眞一に対して「何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。
でも在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。それを自分が事業で成功して、 証明しなきゃならないと思ったんです。これからの在日の若者に、それを背中で示さなきゃいけないのに、俺が 本名を隠してこそこそやったんじゃ、意味がなくなるじゃないか、アメリカに行った目的が達成できないじゃないか。 あとから、あの事業を興したのは、実は孫でしたと言ったって……」(NEWS ポストセブン 2012/1/4 孫正義氏「安本」ではなく「孫」を名乗った時親戚は反対したより引用)と述べている。
将来はヤフーを子会社化
孫は2005年に雑誌の取材で「近い将来アメリカのヤフー本社も買収して子会社化しようと思う」と話している。もっとも米国のYahoo!はかつてソフトバンクが筆頭株主だった。
孫正義の父親・三憲は「正義、泰蔵はハングル語は読めない」という。「韓国も大嫌い」であると。
孫氏の大邱の故郷の墓も枯草で覆われていて、誰も手を合わせない。
孫鍾慶(ソン・ジョンギョン・正義の祖父)一家が日本に戻るため漁船を調達し、あわや難破するという危機を体験したあと、密航で日本にこっそり上陸した。
「そのとき鍾慶一家が住んでいた家は、いまはもうありません。朝鮮戦争が始まると、今度は米軍が日本軍から接収した飛行場を拡張するために強制執行で取り壊されてしまったのです。田畑は日本軍に取られ、家は米軍に取られてしまったんです」
孫正義の祖父と父が一度戻った故郷から、そういう事情で再び日本に帰ってきたことは、ここまでまったく知らなかった。これはおそらく孫家三代目嫡流の正義でも知らなかったろう。
別の言い方をすれば、孫正義はこうした知られざる日韓の歴史に引き裂かれた谷間から生まれてきた男だった。
大邱は孫正義が帰るべき故郷ではなかった。故郷を失った男には、過去は歴史を紡ぎ出す源泉ではなく、単に過ぎ去った時間の推積でしかない。
孫はしばしば、日本の情報革命がアメリカに比べて決定的に遅れているのは、日本人が過去にとらわれすぎているからだ、日本人が新しいものを取り入れるのに抵抗があるのは、アメリカ人が持つ知恵との時差がありすぎるからだ、と語っている。
時差というのは、孫の経営手法を解くキーワードとなっている。日米間の経済ギャップとタイムラグ(時差)を利用すれば、必ず人より先んじられる。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 五十六~六十七ページ)
私は孫がどんな少年時代を送り、在日の悩みとどう格闘してきたかを取材するため、孫の小学校、中学校の担任教師や同級生たちを九州各地に訪ねた。
福岡県遠賀郡岡垣町在住の三上喬は、孫が北九州市立引野小学校五、六年のとき担任した元小学校教師である。アポイントもなく突然訪ねていったにもかかわらず、三上は快く家にあげてくれ、小学校時代の孫の思い出を語ってくれた。
「孫くんを担任していたのは、もう四十年以上も前のことです。その頃は安本くんと呼んでいましたがね。そんな遠い昔のことですが、なぜか彼のことはよく思い出すんです。
思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。
しかも、その目は澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でめったにありません。
彼は何を見ていたんでしょうかね。教師の私なのか。それとも黒板の文字なのか。あるいはもっと奥にある何か別のものなのか。あの澄み切った目の奥に、何が映っていたのか、いまでも知りたくなるときがあるんです」
三上は担任中、孫が韓国籍だとはまったく知らなかったという。
「彼自身、そんなことは一言も言いませんでした。ただし、彼が”差別”に敏感だったことは間違いありません」
三上はそういって、一冊のノートをテーブルに広げた。表紙には筆記体で「Masayoshi=Yasumoto」と書かれ、その下に通信ノートと記されている。日付は一九七〇年(昭和四十五年)二月四日とある。孫が十二歳のときである。
そこに「涙」という孫の自作の詩が書き込まれていた。
<君は、涙を流したことが
あるかい。
「あなたは。」
「おまえは。」
涙とは、どんなに、
たいせつかわかるかい。
それは、人間としての
感情を、
あらわすたいせつなものだ。
「涙。」
涙なんて、
流したらはずかしいかい。
でも、みんなは、涙をなが
したくてながしては、
いないよ。
「じゅん白の、しんじゅ。」
それは、人間として、
とうといものなのだ。
「とうとい物なん
だよ」
それでも、君は、はずかしい
のかい。
「苦しい時」
「かなしい時」
そして、
「くやしい時」
君の涙は、自然と、あふれ
出るものだろう。
それでも、君は、はづかしい
のかい。
中には、とんでもなくざんこくな、
涙もあるのだよ。
それは、
「原ばくにひげきの苦しみを、
あびせられた時の涙」
「黒人差別の、いかりの涙」
「ソンミ村の、大ぎゃくさつ」
世界中の、人々は、今も、そして、
未らいも、泣きつづけるだろう。
こんなひげきをうったえる
ためにも、涙はぜったいに欠
かせないものだ。
それでも君は、はづかしいの
かい。
「涙とは、とうといものだぞ。」>
小学六年生とは思えない大人びた詩である。この詩にある「ソンミ村の大虐殺」とは、ベトナム戦争当時、アメリカ軍がベトナムの非武装地帯のベトナム人を大量虐殺した事件のことであるという。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 六十八~七十二ページ)
詩だけを読んでいるとまるで宮澤賢治や相田みつおを彷彿とさせる。
しかも、一九七〇年というのは私が誕生した時代なのである。
緑川鷲羽が誕生したときには孫正義氏はすでに天才であったのだ。驚くしかない。
「孫くんの当時の感性がよくわかる詩だと思います。原爆の悲劇、黒人差別、ソンミ村の虐殺まで。小学生ならではの憤りが記されています。一九七〇年という時代の影響かもしれませんが、小学生でここまで考えられる子はそうはいなかったはずです」
三上は、孫は間違いなくクラスのリーダーであったという。
学級委員長という肩書だけでなく、リーダーとはたいがい敵をつくり天狗になるものだが、孫は敵もつくらず天狗にもならず、ちゃんと勉強ができない子にはみっちりと親切に勉強を教え、野球や遊びも仲間意識をつよく誰よりも盛り上げた。みんなが孫正義こと安本正義の大ファンであった。
三上は孫の資質や調整能力からして将来は教育者か政治家になるのではないかと思っていたという。
「ですから実業家になったのは意外でした。しかし、世の中を変えるのは、政治家だけの仕事じゃない。彼はビジネスを通して世の中を変えたいと思っているのかもしれません」
孫正義は北九州の引野小学校を卒業後、引野中学校に進学した。だが、同校に在籍したのは一学期の途中までであった。
孫は中学一年になって間もなく、母親の李玉子と福岡市城南区のマンションにわざわざ移り住んだ。これは、福岡県屈指の進学校といわれる福岡私立城南中学に転校するためであった。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 七十二~七十三ページ)
中学、高校時代の孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いが漂う朝鮮の貧民窟で育った極貧の少年とはうってかわって、完全に乳母日傘(おんばひがさ)の"おぼっちゃまくん"である。
城南中学三年生のとき、孫の担任をした河東俊瑞(現・博多女子高校校長)によると孫は転校手続きを自分一人で行ったという。転校当時は「引野中学では成績表はオール5」だったが転校先の城南中学校では2に下がったという。偏差値も六十くらいで真中…
孫が城南中学一年のときに担任した小野山美智子は、こう語る。
「四十年間も教師をやって、大勢の子を見送ってきましたが、孫くんは特別に印象の強い子でしたね。だって、初対面のときから衝撃的ですもの。あの子は確か一年生の二学期に、北九州の引野中学から転校してきたんです」
そのとき、孫は教員室にぽつんと一人で入ってきて、「今度転校してきました」と挨拶したあと、小野山とこんなやりとりをしたという。
「あら転校生なの」
「はい、お世話になります」
「ご両親は?」
「ひとりで来ました」
「えっ、ひとりで来たの?」
「はい。転校に必要な書類も持ってきました」
小野山が驚いて「えらいわね、ひとりで来て」と褒めると、孫は少しもじもじしたあと、「よろしくお願いします」と大きな声でいった。
「とても礼儀正しい子でしたね。転校当日ひとりで来るなんて驚きました」
孫が三年生のとき、小野山は孫の悩みを知ることになる。自分は韓国籍だから教師になれない、と手紙を。同級生たちにも韓国籍であることをカミングアウトしたという。
三年生(城南中学)で、河東をレストランに呼び出し「塾経営をしたいが、自分はまだ未成年だから(十五歳)、自分はオーナー職で、先生雇われ社長をやってはくれまいか?」と塾経営を発想して河東を驚かせたという。
テーブルに置いた用紙にこまかいカリキュラムが書かれていて……まだ進学塾チェーン等ない時代に起業しようとした訳だ。
「カリキュラムも事業計画もちゃんとしたものだったと記憶しています。でも、私が乗ってくれないから諦めたようです。でも、何故塾か?は理由があるんです」
河東は続ける。「彼の中学の成績が学年トップになったのは『森田塾』という進学塾に入塾したからで、福岡でも有名な塾で、誰でも入れる塾じゃない。成績が良くないと入れない……なら自分で塾を経営しようと……恐ろしい子供です(笑)」
ブルース・リーの映画で憧れ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で坂本竜馬に憧れて……
すごい子供だ、か、なんてこまっちゃくれたいやなガキだなあ、とで孫正義の評価はわかれる。ほとんどの孫正義伝記本や評伝はもちろん前者の文脈に沿って書かれてきた。私は孫を立志伝中の人物として書くつもりはない。
また、在日の劣等感の裏返しのコンプレックスが、孫の飽くなき上昇志向の原動力となっている、といった紋切り型の言説を繰り返すつもりもない。
しかし、だからといって「反孫正義伝」を書くような野暮も酔狂も持ち合わせていない。
何故孫はお金が欲しかったのか?それはこの時期、父親の安本(孫)三憲が吐血して入院したからである。
まさに家族の危機であった。
一歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らす母を支えて、家計を支えて、正義は「お金」がどうしても必要になった。
孫正義は在日の自分が出来る事を考え抜いた。そして、アメリカに留学して実業者になるしかないと覚悟を決めた。
親戚のおばさんや従弟や兄弟に「父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのときにひとりでアメリカに行くのか?!なんて冷たい奴なんだ!」と言われる。
でも、それしか孫正義には選択肢がなかったのだ。孫は漫画伝記本やいままでの綺麗事伝記のような「パソコン時代のシンデレラ・ボーイ」ではない。孫正義氏の頭脳なら東大法学部卒業や、大学教師、政治家、弁護士、何にでもなれただろう。
だが、韓国籍であるがゆえに政治家にも官僚にも学者にも、なれない。
学歴のない野口英世が「渡米」して、「ロックフェラー研究所」で医療研究で日本人に一泡吹かせたように、父が病気になった孫正義氏も「渡米」しかなかった。
三憲の病気の原因は長年の飲酒と過労による肝硬変と十二指腸潰瘍によるもので、洗面器いっぱいも大吐血した。
孫正義は鹿児島のラサール高校を志望していたが、病気の父親の手前そうもいかず、久留米大学付属高校に豪邸から通うこととなった。
で、中退して渡米するのである。
……卒業してからアメリカに留学してもいいんじゃない?そういわれても困る。
同級生たちは「若者たち」を石橋文化センターの送別会で合唱して渡米する孫正義を見送ったという。
石橋正二郎が地元に寄贈した文化センターだ。ブリヂストンの創業者の。ちなみに、孫の東京の豪邸はバブル崩壊後の大不況時代の一九九七年、総工費六十億円で建てられた。石橋正二郎の豪邸の近くである。
ソフトバンクの急成長がわかるエピソードだ。
一九七四年二月、渡米した孫正義は、英語学校で数か月、語学を学び、サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクールに二年生として編入入学した。
孫は一刻も早い大学在籍を希望して、大学入試検定試験を受け合格、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学、カルフォルニア大学バークレー校経済学部に編入で将来の伴侶となる大野優美(まさみ)と交際する。
孫正義のシンデレラ・ボーイ・ストーリーでは「大学生時代に翻訳機を発明して、帰国後シャープ社に買ってもらい一億円を得て、その資金でソフトバンクを立ち上げた」ことになっている。
アメリカ時代の孫が大学生活を謳歌できたのは、国籍も人種も気にしない自由なアメリカ生活だからではない。肝臓病から復帰した父親・三憲からの潤沢な仕送りがあったからである。
大学時代に孫が「自動翻訳機」のアイディアを提案したとされる宇宙物理学者のモーザー博士は、
「彼が大学三年生のとき、私のオフィスにやってきたんです。彼のアイディアは日本語をタイプしたら、英語に翻訳され、その発音もわかるというものでした。しかし、そのようなアイディアはごくありふれたものでした。ですが、彼が他の発明者と違うのは、発明を商品化するだけでなく、その商品をいかに売るか?まで考えていたことです。そこに彼の成功の発芽を見たのです」
さすがは世界的な宇宙物理学者だ。天才発明家、パソコン創世記時代の天才などといった世情におもねった俗説にはまったく踊らされないで、見るべきところはきちんと見ている。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 七十四~九十四ページ)
話は変わる。
昭和二年、松下電器は『電熱部』という部署をもうけ、電気コタツ、電気ストーブ、電気コンロなどのおなじみの製品に本腰をいれることになった。
発足と同時に若い人材が入ってきたが、それは関東大震災で焼け出され、泣く泣く大阪へきた中尾哲二郎という男だった。
「こいつは下請けのものやな」
幸之助は感付いた。
しかし、この中尾、なかなか旋盤の技術がすごい。剣豪は相手の剣さばきで腕がわかるというが、幸之助は相手の旋盤のつかいかたで腕がわかったという。
幸之助は感心して「こいつ、おれのとこにくれへんかな?」と思った。
さっそく中尾と話して、下請け工場の長とも話して、松下電器にきてもらうことになったのだという。この中尾はのちに大企業となる松下電器の副社長までなったもので、幸之助の審美眼もさすがだな、と思う。重役陣も技術畑の出身者だ。
英雄とは、ずばぬけた審美眼と体力、知恵をもっていなければならない。
幸之助にはそれがあった。
松下電器というのは徹底した人材主義で知られる。
幸之助は、
「物をつくるよりひとをつくるのが先である」
「人材は長い目でみて掘り出せ」
「人間の潜在能力を引き出す」
「人は短所より長所をみるようにする」
「ひたすら求めれば、人材はえられる」
といって人材やひとづくりの大切さを力説する。
のちに日本教育がおかしくなっていく中で、幸之助さんが国の教育、親のしつけを憂いたのもそうしたポリシーからだった。
昭和三年から四年にかけて、日本は深刻な不景気にみまわれた。
この不景気は深刻なもので、大学卒業の人間でも就職先がなかったほどだった。
「大学出たけど…」
というのが流行語にまでなった。
しかし、それでも松下電器はどんどんと伸びていった。気がつけば、従業員は三百人にもなっていた。妻たちとわずか三人で始めた会社が、百倍になったのだ。
この頃から、幸之助は、
「企業は社会的責任がある」
「企業で働くひとも、資本も、設備かて社会からの預かりものや。だから大事に育てていかにゃあかん。そこから生まれた利益も、社会のために役立たせなきゃあかんで」
という哲学をもつようになった。
経営者は企業のトップである前に、道徳のトップでなければならない。
幸之助は思いあがっていっている訳ではなかった。
ちゃんと商いしているなかで、そういう哲学を自然と身につけていったのである。
小卒しかも中退の幸之助だったが、どっかの大学生よりはよほど優れている。
幸之助は、
「ひとづくりやらにゃあかん」
と、現代でいう社員研修や見習い制度、企業内研修などをやっていった。
幸之助は自分の知識と経験で、研修をすすめた。
まるで吉田松陰のようだが、幸之助の信念に一寸の狂いもない。
その結果、のちに幹部や重役となる人材が育ってきたからだ。
昭和四年には不景気はますますひどくなって、世界大不況となった。
松下のライバル企業もバタバタと倒産していく。松下電器だって例外ではなく、売り上げが半分にまで落ち込んだ。
もはや企業努力だけではどうしようもない。
松下電器の倉庫には製品が山積みになってしまった。
「もうこれ以上入りまへん!」
倉庫係りが悲鳴をあげる始末だった。
悪いことは重なるもので、この年松下幸之助は病気になり、自宅療養ということになった。元々、体があまりじょうぶではない。そんなところに過労が重なった。
これは仕方がない。
しかし、寝ていてもそんな不景気だから、「あれをこうしろ」「これをああしろ」と寝床で指示を出す。
しかし、不景気で業績は伸びない。
とうとう幹部たちがやってきて、
「社長、もうあきまへん。従業員減らしましょう」という。
しかし、幸之助はリストラには首を縦には振らない。
「あかん。人を減らすのだけはやってはあかんで! それだけは絶対にすべきやない!」 従業員を辞めさせるということは、その人たちの生活を奪ってしまうことである。
今、リストラ、リストラ、と馬鹿のひとつ覚えのようにいっている経営者にきかせたい言葉だ。幸之助は昭和初期から、リストラの愚かさを見抜いていた。
「せやけど、社長、松下丸は浸水しています。いま荷をおろさんと…」
そんなことをいう幹部までいる。
幸之助は目の前のことにばかりとらわれている幹部を一喝して、
「たしかに松下丸は浸水してるかもしれへん。しかし、だからいうて社員が荷物などと思うたことはおれはない。手があればそれだけで船に入った水をかきだすことができるやないか?!」
……うちの社長はやはり眼のつけどころが違うな……
幹部たちは沈黙した。
幸之助は続ける。
「生産を半分にするんは仕方ないやろ。しかし従業員には半分働いてもらう。給与はそのままや」
「せやけど……それやったら会社の負担が重うなるんと違いまっか? 社長」
「たしかに一時はそうかも知れん。けどな、不景気が回復したらそんなもんすぐ取り返せるで。ええか、人材は命なんや。いままでせっかく育ててきた人材を手放すゆうんは損失のほうが多い。損失は人材損失や」
幸之助はにやりと笑った。
「せやけど、条件をだすで。社員は半分手があく。その分、倉庫にある商品を売って歩いてもらうんや」
なるほど、船にはいった水をかきだすとは、そうことか……
「わかりやした」
「全力をあげてやりやす」
幹部たちは、口々に答えた。
従業員もこうなるとハリキる。リストラされなければ、営業だってなんだってやる。
首になったらおわりだが、そうではないならやってやる!
従業員や幹部は頑張って、幸之助の言葉に励まされながら売り歩いた。
結果、二ケ月で山のようだった在庫もなくなった。
松下は不景気をのりきった。しかし、幸之助がリストラという消極的判断に走っていたら、従業員はしゃかりきに働き、営業までしただろうか?
なんでも成せばなるという精神が必要なのだ。
リストラして、コストダウンなんて考えはとんでもない。
辞めさせられたほうは、一生を棒に振ることになる。技術をもっていれば別だ。が、今の外国人犯罪をみていると『単純労働者』として不法に雇われ解雇され、それゆえ金ほしさに強盗や空き巣をしているようにしか見えない。
技術をもたない彼等は、手っ取り早く金になることをするしかないのだ。
これから少子高齢化で人口が減り、移民を考えなければならないなら単純労働はロボットにでもまかせて、あとは”技術のある外国人労働者”だけを移民としてつれてくるべぎだ。そうでなければ日本はアメリカやフィリピン並の犯罪大国になってしまう。
『松下二百五十年計画』
が発表されたのは昭和七年五月五日のことだった。
幸之助は大阪の電気クラブというところに全社員を集めて訓示をした。
「産業人としての使命とは何か!」
幸之助は饒舌に語り始める。
「人間は物質だけでは生きられるもんやないし、精神だけで生きられるもんでもない。このふたつが車の両輪のように重なり合ってなければあきまへん。われわれ産業人は、このふたつのうち、ゆたかな物質生活をひとびとにもたらし、その面から幸福を追求することを使命にするものであります。
われわれはまず二百五十年計画をたてて達成してゆかなあかん思う次第であります」
社員千二百人は、戸惑った顔をした。
……二百五十年計画かていわれても……
しかし、幸之助は従業員たちにビジョンを与え続ける。
「しかし、わては皆さんに次世代の踏み台になれとかそういうことをいうとんのとちゃいます。みなさんはみなさんで幸福に生きたらええ。ただ、それけだけでなく、次の世代のためによいものを残してほしんのです。一日一日努力してほしいんや。そうすりゃあ、使命感をもって諸君は働けるし、かならずよい結果をもたらせるでしょう」
壇上の幸之助は熱く語る。
話しが終わると割れんばかりの大拍手がおこった。
みんな、眼がきらきら輝いている。
やるぞ! という気迫がこもっている。
幸之助は松下社員にビジョンを与えた。
幸之助は忙しくなった。
「社長、これどうしましょう?」
「いや、それはまってくれ」
だんだんと会社が大きくかると、幸之助の『鶴の一声』だけで決まらないことが多くなっていった。松下電器は、電気コンロなどだけでなく、ラジオまでつくるようになっていた。家電はほとんどつくっていた。
そこで幸之助は事業部制を考えつく。
つまり、ラジオならラジオで担当部署をつくり、そこでラジオの設計企画から営業までやらせる、という組織つくりだった。
生産から販売まで一貫性をもたせようと昭和八年からはじめたものだ。
結果は大成功だった。
いい意味での競争意識が芽生え、他社のメーカーの真似も多くなったが、それでも「もうかりゃええんや」という幸之助の考えで松下電器は大きくなっていった。
松下電器が現在の門真市に移転したのは昭和八年のことだった。
当時、門真市は『鬼門』と呼ばれていて、縁起が悪い方角だといわれていた。
そんなもの迷信だ……といえればいいが、社員の中からは反対する意見も多い。
しかし、幸之助は、
「日本は『鬼門』だらけや。北海道も『鬼門』、九州も『鬼門』、なら土地の安い門真市に移転するのが一番ええ」
と本社工場を建てた。
幸之助はいう。
「日本は狭い。方角がどうのといっていたらきりがないやんか。迷信を信じるものにとっても、これはええ機会やで。もし迷信通り松下がだめになりゃ、それみたことか、いうて迷信を信じる者に意識を植え付けることになる。せやけど、そうならないように社員には頑張ってもらいたいもんや」
結果はどうか、松下電器は今も健在である。
幸之助は迷信打破までやってのけた。
あるとき、新聞記者が松下幸之助の取材をした。
………この松下幸之助という男はすごい人物になるだろう……
マスコミの勘がそう思わせた。
この頃、松下電器は新進気鋭の企業として注目を浴びていた。
「松下さん。今度モーターをつくるそうですが、心配はありませんか?」
「なんが心配なんでっか?」
と松下幸之助。
「でも、モーターは重電気(発電気・モーターなどの大型電気製品)でしょ? いままで松下電器は乾電池とか、懐中電灯とかソケットとか電熱器のようなものはつくってきたが、重電気ははじめてでしょう? しかも、重電気は東京の大手メーカーが独占している。
それを今、大阪で初めてだいじょうぶなのですか?」
その頃、モーターといえば電気発電工場のような大型のモーターがおもで、家庭用といえば扇風機程度の知識しかなかった。
それを家庭用のモーターをつくるという。
記者が不安になるのも無理はない。
幸之助はいう。
「モーターっていうんは、その国の先進性の象徴です」
「…はあ」
「家庭にモーターがいくつあるかで、豊かさがだいたいわかります」
「そんなものですか?」
「アメリカではすでに家庭にモーターが普及している。みなさんはインテリです。みなさんのご家庭にはどれくらいのモーターがありまっか?」
「……残念ながら家の家庭にはまだモーターらしきものはありません。扇風機ぐらいです」「ほらごらんなさい」
幸之助は続ける。
「あふ何十年後には日本の家庭にはモーターがあふれるでしょう。家電があふれるのです。私はそういう有望な仕事をやるんです。心配せんでもええですよ」
「なるほど」
記者たちは納得した。
幸之助は先をみていた。日本を『技術立国』とするために天よりつかわされた男は、そんな使命を知らない間に頭に刻んでいたのである。
モーターは成功した。
また、幸之助は大阪の東淀川区に「ナショナル電球株式会社」をつくり、電球も販売しだした。世間は、
「あんななれないことに手をつけてだいじょうぶやろか?」と思っていた。
市場はマツダランプ一色だった。シェアは七十パーセントも占めていて、松下電球は売れるのかどうかもわからなかった。
またライバル企業も数十社あった。
幸之助はそれを知っていた。
しかし、幸之助は、
「ナショナル・ランプは新しい横綱だ。横綱がふたりいてもいい。しかし、お客さんが買ってくれなきゃ話にならへん」と自信たっぷりだった。
「あんたは面白いひとですね」
北海道の問屋はそういって注文してくれた。
「一社だけの独占状態は危険や」
幸之助は訴えていく。
「競争こそ発展の道やで!」こうなるともう松下教である。
昭和十年頃から、松下はいっせいに正価販売運動も始めた。
電化製品はほとんど同じ価格でお客さんに買ってもらおうというのである。メーカーごとに価格が違うのではダメで、それでは品質に影響するという。
値引きしない電化製品……これがコンセプトだった。
時代はラジオ全盛のとき。
幸之助はラジオ出演した。
新進気鋭の天才経営者というふれこみだった。
幸之助はいう。
「ただいま紹介を受けました松下幸之助です。
私は十代のときに大阪にやってきて、商い一筋でした。そこには立身出世や儲けが要求されました。しかし、それだけでは商いはやっていけまへん。
企業人というものは社会に貢献してこその企業人なのです。
いまままで高価で貴重だった自転車は今や庶民のものとなり、電車も多く通るようになりました。ぜいたくだった一部のものが世間にあふれるような時代になりました。
われわれの会社でつくっているラジオもそうです。
こうした時代にあたり、われわれはいかに社会に貢献できるかを考えなければなりません。
この前、公園で浮浪者のようなものが万年筆をもってメモしているのをみて感動しました。万年筆は少し前まではとても高価なものだったのです。
ほんの一部の金持ちのものだったのです。
それが大量生産されて、安価になり、誰もが使えるようになりました。そういうことが文化なのではないでしょうか。
またそうしたまずしい者たちを少しでもなくしていくのもまた文化だと思います」