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長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

プロローグ大前研一艸風伝(そうふうでん)連載文献のプロローグ緑川鷲羽より

2014年03月31日 17時02分30秒 | 日記





大前先生は「私がアメリカに留学していなければ、現在のような政権批判などしてなかったであろう。多分、大学の「名物教授」くらいにはなっていたろう。が、政府や官僚の批判などせず、ただただ頭を低くして行政機関から仕事や予算をもらうだけだったろう」
と回顧する。なるほどそうかも知れない。大学の教授にしろ、「なんとか総研」のチーフ・エコノミストにしろ、予算や仕事の受注のためには官僚や政治家の悪口や批判などしていたらおまんまの食い上げ、である。まあ、わかりやすく考えれば大前先生は日本という藩から「脱藩」したようなものだ。大前先生が平成の勝海舟なら留学したのは「勝海舟が咸臨丸で米国にいった」ようなものだ。私緑川鷲羽が平成の坂本竜馬なら、米沢NECのプログラマを辞めて、フリーランスのジャーナリストとして二十代で業界に飛び込んだ「脱藩」に似ている。社畜時代やノマド・ワーカーには絶対に理解できない心境である。
 大前研一氏は日立製作所でくすぶっていたとき、日本の行政・立法府・政府・外交・経済などに疑問をもったというがそれも「神のみえざる手」ではなかったのではなかろうか。
私緑川鷲羽は、神などいない、と思っている程度の『無神論者』だが、少なくとも「神の見えざる手」くらいの運命くらいはあるだろうとは思っている。
そして祖国・日本の問題点を悶々と考えるうちに天才が開花したのではないだろうか?
そんな気がする。
そしてそういう天才だからこそ、世界的な経済紙が「世界の影響のある100人」の中に、数少ない日本人としてリストアップされるに至るのである。
 ちなみに大前研一先生の人脈はほんとうに幅広い。故・松下幸之助氏、故・本田宗一郎氏、故・盛田昭夫氏、稲森和夫氏、石原慎太郎氏、橋下徹氏、孫正義氏、安倍晋三氏、小泉純一郎氏、マハティール・モハマド氏、リー・クアンユー氏、故・マーガレット・サッチャー氏………と驚くほど広い。しかも、松下政経塾のアイデアは大前先生による献策であったというからさすがである。マハティール時代のマレーシアの「国の経営コンサルタント」までこなし現在はBBTで後進の育成にあたられている。
 そこには人間としての一本の芯があるが如し、である。
<「目からうろこが落ちました」と言う人が多いが、何もやらない人が大半だと思う。うろこが落ちただけでは不十分だ。スケジュールを作り、アクションを起こし、その効果が出てきたかどうかを評価する。個人がコントロールできる唯一のものは時間配分だ。その時間配分を変えない限り、人生は変わらない。30代の頃、松下幸之助さんと同じだけ生きたとすると、あと何回夕飯が食べられるのかと計算したら、1万8000食という答えが出たんです。有限だと思い知ったその時から、いいかげんに夕飯を食べないようになりました。>(「日経ビジネスアソシエ」(2010年12月21日))
 ちなみにこの書『大前研一艸風伝』の艸とは「そう」と読み『草』の意味であり『艸風伝』と書いて「そうふうでん」と読む。つまり、大前研一氏の草原にふくおおきく影響力のある風の如くの伝記、な訳である。昔、大前研一氏をCIAのエージェント、スパイ、ユダヤ人の手先………等といって騒いでいた阿呆がいたがそんな輩と一緒にされたくない。
大前氏の言動は正しいし、間違っていない。私から見れば『正義のひと』である。
     <戦われなかった決闘
「みんなの期待に背けぬ」という張りつめた気分も手伝ってか、私は並みのアメリカ人学生より遥かに堅物だったと思う。あいにくルームメイトのアルバートは、万事が私とは対照的な人物だった。アルバートは平日、週末を問わずに近くの女子大生のガールフレンドを私たちの部屋に連れ込んでは、夕方から夜にかけて遊ぶのであった。椅子にかけて話し合うというのではない。第一、そんな上品なものではなかった。上半身丸裸。女とベットに寝そべって愉(たの)しそうに社会心理学の話に耽っている。私はどうしていいかわからないから、つい本とノートを持って図書館に出かける。憤懣(ふんまん)やるかたない思いで真夜中の零時ごろ、テクテク帰室する。内側からカギがかかる日もあった。(中略)ある日、思い切って詰問してみた。
「アル。きみがそのように部屋を使うのはいっこうに差し支えないが、それにしてもほどほどにしてくれないか」
「僕も彼女も、君がこの部屋にいたってちっとも気にしないよ。どうぞ自分の机で勉強してくれたまえ」
 アルは平然と言ったものだ。(中略)夜更けに帰室してみたが、まだドアが開かないのだ(数か月後のこと)。血が頭に一挙に駆け上がった。私はドアを乱打した。
「ジャスト・ア・モーメント………」
 ドア越しにバタバタ走り回る足音がした。さらに激しくノックした。
「アイ・セッド・ジャスト・ア・モーメント!」
 威嚇的なアルの声が怒鳴った。怒りが背筋を走り、頭のてっぺんを突き抜けた。私は拳を水平に突出し、厚さ一センチのドアを打ち砕いた。
 思えば長い間使っていなかった。中学時代から訓練を積んだおかげか、これくらいの板などわけもなかったのである。しかし、次に見た光景とその後に続く事件は、生涯忘れられない思い出になった。
 男はパンツに靴下ばき。女はシーツに身をくるみ、ベットで震えていた。アルは必死にドアの前に立ちはだかった。その目は瞋恚(しんい)の炎に燃えていた。(中略)
「決闘しよう!」
「オーケー、今すぐやろうぜ」
「いや、今は女がいるからまずい」
(しかし、アルは決闘場所に指定した時刻に来なかった)(中略)
事件の二日後、私は学生係のスピアー教授に呼び出された。アルバートが駆け込み訴えをやったのだ。
「図書館であまりに長いこと寝暮らしていたもので、ついカーッとなって………」
(中略)
「今回の件は、多分クラス(身分階層)の違いから起きたんじゃないかな」
「アメリカにクラスがないように、日本にだって今時そんなものは存在しませんよ」
(中略)
「日本人の持つつつましさというものがアメリカ人には欠けている。しかしなあ、ケン。きみもきみだよ。閉めだしを食ってよくもまあ我慢していたもんだ。なぜもっと早いうちに相手に不満をブチまけなかったのかね。もっとも、そんな態度が、日本人らしいのかも知れないがね。伝統あるきみの国の人間なら、喋らなくても通ずる何か(以心伝心)があるかもしれん。しかしだ、アルが育ったようなアメリカ人の階層では、それは通用せんのだよ」
「伝統?」
と、問いかけて私は口をつぐんでしまった。二百年と二千年との相違という、単純な年代数からではない。民族的異文化の異質面を、教授は指して言っているのだろう、と直感したからである。「郷に入れば郷に従え」という。もとより百も承知の上だった。(中略)日本人的な「以心伝心」は「仲間同士」や「身内のもの」との会話において顕著に表れる。また「言わずもがな」だの「一言多い」だのという場合もある。そんな「以心伝心」は日本人たちでしか通用しないのだと思い知った。>(『悪魔のサイクル』大前研一著作30~35ページ新潮文庫)
 また20年くらい前の話だそうだが、大前研一先生が松下電器産業(現・パナソニック)の松下幸之助さんと昵懇(じっこん)な仲であるとき、米国のハーバード大学に講演に行った。後で学生をつかまえて「松下幸之助さんを知っていますか?」と訊くが、答えられない。たまに「ええ、知っていますよ」という学生がいるがそのあとに「ソニーのひとでしょう?」という。これはいかん、と思って米国に日本学や日本の会社の学問所をつくり、松下政経塾も幸之助さんの私費で、(大前研一先生献策の元)創設されるのに至るので、ある。松下政経塾は幕末の吉田松陰の松下村塾みたいなものだ。大前氏のBBTもそうだが、これは松下村塾というよりは「幕府の海軍操練所」の類であろう。
「日本維新の会・大阪維新の会」は奇兵隊、橋下徹氏は高杉晋作というところか。



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いじめに負けるな!自殺する勇気があるなら学校等休め、いじめっ子達より社会的成功を!

2014年03月27日 12時26分49秒 | 日記









読者から●いじめに負けるな!(2014年3月26日毎日新聞朝刊くらしナビP16掲載)
山形県天童市で今年早々、中学生の女子生徒が、陰湿ないじめを苦にして山形新幹線に投身自殺した。報道では学校側も「いじめはわからなかった」というような説明をしていた。
 私も学生時代にいじめられた経験があるが、最近の「いじめ」はもっと悪質で陰湿になっているらしい。私のころは、ばい菌扱い、投石、罵倒……など。教科書やノートに「死ね」「学校に来るな!」と書かれたが、最近はインターネットやスマホがあるから「暴行シーンの動画アップ」や「数十万円の恐喝」などもあるという。
 大事なのはいじめられても死なないことだ。自殺したら、いじめっ子たちが万々歳するだけなのだ。死ぬ勇気があるなら学校なんか休んだっていいから、いじめっ子たちより社会的に成功して、歯ぎしりするほど悔しがらせてやれ!(山形県、緑川鷲羽、44歳)

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続発する「いじめ自殺」対応策を明確に打て!自殺は負け「生きて社会的な成功(復讐)を!」

2014年03月18日 16時50分06秒 | 日記




続発する「いじめ自殺」対応策を明確に打て!

 私が拠点としている我が上杉の城下町・米沢市からほど近い(同じ山形県内)天童市で、2014年新年そうそう天童市内に住んでいた当時中学生の女子生徒が、陰湿ないじめにあっていることを苦にして山形新幹線に、投身して、自殺した。
最初の報道ではやはり学校側も「いじめはわからなかった」、等と「またか」というような言動をしていた。
また学校も先生もPTAも学生も「何も知らない」と………。
私も学生時代にいじめられた経験があるが、最近の「いじめ」は私の頃の「いじめ」より内容はもっと悪質で陰湿になっているらしい。私が虐められていた頃は「黴菌扱い」「投石」「罵倒」「嘲笑」「こづかれる」「所持品を捨てられる」「教科書やノートに「死ね」「バカ」「学校に来るな!」「くさい」等の悪罵や破損」等だが、最近はインターネットやスマホがあるからと、「暴行シーンの動画アップ」や「数十万円恐喝」等さらに酷くなっているという。
大事なのはいじめられても死なないことだ。いじめを苦に自殺したら、いじめっ子たちが、「あいつ死んだー!やったー!」と万々歳するだけなのだ。宗教的な事もあるので「神などいない」とはいわない。が、ホラー映画みたいな怨念だの呪いだのあるわけがない。呪い殺せない。死んだらいじめっ子らに復讐もできない。「確実な負け」なのだ。
 死ぬ勇気があるなら学校なんか休んだっていいから、社会的に成功して「復讐」するんだ!いじめっ子達より社会的に成功して歯ぎしりするほど悔しがらしてやれ!孫正義はそれをやったぞ!小室哲哉はそれをやったぞ!
 いじめ自殺=負け、だ。自殺したら死んでしまったら後は何もできない。君が自殺し、遺族になった両親が、そのいじめっ子に復讐できることも、ない。少年少女である以上最大でも「少年院に何年かぶち込む」程度で、しかない。死刑はない。死ぬんじゃない!社会的に(いじめっ子達より)成功を修め復讐するのだ。死ぬの等いつでもできる。死なないで生きるんだ。世の中は悪い人ばかりじゃないよ。両親に相談できないのは理解できる。私もそうだった。だが、死ぬな。死んだら負けでしかない。生きるんだ。
 今後も「いじめ自殺」は続発するだろう。文科相も親もPTAも「いじめ自殺」を防ぐ対応策を是非全国の学校で実施して欲しい。それが「美しい国」じゃないか?安倍首相。


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集団的自衛権の誤解 3年経っても全然復興が進まない理由「東北人・東京人必読!」

2014年03月12日 16時30分01秒 | 日記




「集団的自衛権どこに行って何をするのか明確にせよ・「戦争ごっこ」「右派ごっこ」がしたいだけなら百害あって一利なし。<SAPIO’S EYE>」SAPIO誌小学館4月号本誌編集部著作。ある中年男性は言った。
「今や中国や韓国の好戦的な態度を見ていると日本の安全保障は危うい。万が一にも彼らが日本に攻めてきた場合に万全の対応をするために集団的自衛権は必要だ」
大いに真面目な態度だった安倍首相に申し訳ないが、全く的外れの論である。なぜなら、中韓に限らず、どんな国が日本に攻めてきた場合にも、現行法と従来の法解釈・法体系に基づいて軍事行動が取れるからだ。日本が標的になっている限り、それに反撃するのは個別的自衛権の行使である。さらに日米安保条約によって米軍の参戦も可能だ。
国連憲章でも、日本をはじめ世界のすべての国に個別的自衛権と集団的自衛権があることを明確に認めている。安倍首相だけでなく、多くの日本人は現状の「専守防衛」という基本理念は安全保障のうえで“ひよわい”というイメージを抱いている。しかし、領土・領海はもちろん、それに連なる排他的経済水域(EEZ)、さらには公海・公空も含めて、日本の国土や国益、国民に被害が及んでいる、もしくは及ぶ可能性がある場合には、日本はそれを防ぐために幅広い軍事行動を取れることになっている。この点では世界の国々と変わらない。では、集団的自衛権が認められれば日本に何が出来るのだろう。日本が攻撃対象または在日米軍が標的でも軍事行動は現行法でできる。想定はイラクに自衛隊がいって戦うというケースだ。実際にそんなことが日本の自衛隊にあり得るのだろうか。そもそも自衛隊には空母も爆撃機も長距離ミサイルもない(それらは自衛権の行使に必要ない戦力とみなされるからである)。本当に日本から遠く離れた戦場に出動して戦いたいなら、まず装備や配置を見直すのが先だろう。自民党の一部には、集団的自衛権が使えないとグアムの米軍基地を狙った北朝鮮のミサイルも撃ち落とせないという話があったが、無知も甚だしい。日本にはテポドン2号のような大陸間弾道ミサイルを撃ち落とせる装備はもともとない。(PAC3というのはノドンミサイル等短距離通常ミサイル用)安倍首相は自衛隊をアメリカ軍のように世界中の戦場に出動して戦わせるつもりなのだろうか?なら装備を考えて空母や大陸間弾道ミサイル、核兵器を持つ必要もある。交戦権や軍隊を否定した憲法9条の改正は不可欠だし、それに基づいて自衛隊の装備・配置も敵地戦に対応したものにしなければならない。言葉遊びで戦争はできないのである。

「<問題提起>25兆円の血税は一体どこへ消えたのか このままでは東北は復興しない」
小学館SAPIO誌4月号「東日本大震災からの復興利権にむらがる官僚と族議員や役人」
総額8500億円、無人島にまで20億円投入のデタラメ。防潮堤利権に群がるゼネコン(大手建設会社)とマリコン(海洋土木建設会社、三井住友建設、青木あすなろ建設、若築建設、東亜建設工業、不動テトラ、等日建連理事企業……)。総延長400kmの防潮堤は国民の命ではなく、政治家と役人の利権を守る「バカの壁」だ。
リーダーたちに覚悟なし。これは人災だ。完成した「災害公営住宅」はわずか2%。進まぬ宅地再建で今も人生を再建する家がない。*1用地確保が難航、東北のリアス式海岸は海のそばまで山が迫っており、防災集団移転促進事業を進めようにも住民がまとまって移転できる平地がそもそも少ない。*2資材・人件費の高騰、25兆円もの復興予算が短期間に一気に投入されたため、資材、建設労働者が不足し、公共事業が入札不調に終わる例が頻発している。そこへ国土強靭化や東京五輪が追い討ちを掛けている。*3実態にそぐわない制度、土地の嵩上(かさあ)げは土地区画整理事業とセットだ。本来、津波の被害を軽減することが目的ならば、区画整理より嵩上げに特化していいはずだが国は原則を変えていない。結果的に、道路の拡張によって土地が減歩(げんぶ)される地権者が反発し、まとまらなくなっている。*4難航する住民の合意形成、元の場所に街を再建するか、高台や内陸に移転するかで住民の意見が割れるケースは多くの地域で見られる。自力で家を再建したり、他人に土地を売却したり……住民がバラバラになれば再建計画をまとめることはますます困難になる。*5「戻りたくない」のに進む閖上(ゆりあげ)の宅地“再建”、宮城県名取市閖上の人口は2400人とするという。元・住民のほとんどは「戻りたくない」というのに「復興利権」だから海水につかった田んぼや誰も住んでいない元・住宅地を守るバカみたいな防潮堤や区画整理や建設が始まっている。安倍晋三は毎月被災地に視察にくるが、SPに守られながら利権地元役人に話をきき更地の土地を眺めるだけ。意味がない。また、福島の被災者に(福島以外の土地に避難した母子は月に7万円)、これまた考えもせず、1人につき月10万円(つまり4人家族であれば年収480万円)払っているため、「競艇」「競馬」「競輪」「パチンコ」そして「風俗」「アルコールにタバコ」と放蕩や豪遊する心無いひともいるとか。そのことで、原発避難民に「早く帰れ」の罵声も……。いわき、仙台……美談だけでは語れない被災者の今はこうなのだ。*5 IAEAが不要と断じた「1ミリシーベルト以下」除染で5兆円利権がゼネコンと自民党を潤している。「誰にでもできる作業」で日当は1万5000円。大前氏は「1ミリシーベルト以下」にすることに何の科学的根拠もないという。人類への放射能被害は広島・長崎での原爆やチェルノブイリ、スリーマイル原発事故がある。そのデータから言えることは「100ミリシーベルトを超えると健康被害が出てくる」ということだ。逆に言えば、それより低線量でリスクを評価するのは困難とされている。もちろんどんなに小さな放射線でもDNAが破損するリスクはゼロではない。だが、1ミリシーベルト以下とはCTスキャン2回分であり、何ら健康に害はないと言える。それを前提に福島第一原発の周辺地域をどうすべきか。政府は「原発から5km圏内は永久に住めない」と宣言し、それ以外の地域は帰還を進めよ。政府は原発汚染地域を①帰還困難区域(約9200世帯・2万4700人)②帰還困難制限区域(約8500世帯・2万3300人)③避難指示解除準備区域(約1万1200世帯・3万2900人)の3つにわけている。諸説あるだろうが30ミリシーベルト以内を除染の基準として、原発から5km以上離れた地域はその値で帰還を促す。ホットスポットや30ミリシーベルト以上の放射線量のところだけ除染する。新たにホットスポットが発見されれば除染する体制で、とにかく「過剰反応」させず、許さず、クールな態度で臨むべきなのだ。*6漁民の戻らない漁港を再建し、既得権だけが生き残る「ただの復旧では「衰退の道」にもどるだけ 漁業復興には聖域に手を入れる覚悟を持て」東北の沿岸漁業者の平均年収は251万円。だが、ノルウェーの漁業者の年収は580万~1000万円である。何故なら、漁船ごとに漁獲量を割り当てる「漁船別漁獲割り当て方式」「株式会社化」がノルウェーではあるため、日本のような早い者勝ちの「オリンピック方式」ではない。だから、ノルウェーでは若い漁業関係者も多い。日本でこれをやろうとするとまず漁業者の団体(農協みたいなもの)が反対する。つまり岩盤規制なのだ。*7放射能被ばくによる健康被害は認められない。「奇形児」等産まれていないし、がん患者もゼロ、急性白血病にも福島原発が影響でなったひとはいない。何故にそこまで被曝を恐れるのか?私には理解できない。*8「2400kmの林道」に「タニシ駆除」「ゆるキャラ」までシロアリ官僚の復興予算ドロボーは止まらない。流用予算は1兆円などという恐ろしいことになっています。その利権を漁り浮かれる政治家や役人や官僚をしり目に、被災地を忘れない1000日間の民間ボランティア支援活動もあります。頭が下がりますよねえ。立派な志のひとたちもいるんですよ。



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小学館SAPIO誌2014年3月号より「個人的質問するな」恫喝安倍ポチNHK記者&小林氏

2014年03月06日 14時35分08秒 | 日記



本誌(小学館社SAPIO誌2014年3月号より)は特定秘密保護法案に一貫して反対してきた。権力者にとって都合の悪い情報が「秘密」に指定され、永久に隠される懸念があるからだ。軍事ジャーナリストの清谷信一氏は安全保障上の理由から一定の秘密保護は必要としつつも、防衛大臣の記者会見で「秘密に関する取り扱い」について懸念を指摘した。するとどうだろう。国民の知る権利を守らなければならないはずのNHK記者に「質問するな」と妨害されたのである。
軍事ジャーナリスト清谷信一著作小学館SAPIO誌3月号27~28ページ記事参照。*私は具体例として、拙著『防衛破綻』(中公新書ラクレ)について陸上幕僚監部装備部がかつて作成した「正誤表」を取り上げた。それは著者に、つまり私(清谷氏)の著書に誤りがあると指摘したものだが、私はその一部を入手し、指摘されていた「誤り」のほとんどは実際は正しく、「誤正表」になっていた。しかも個人的な意見やウィキペディアから参照したと思われる記述も見られた。
私はそのことを陸幕装備にその点を質したところ「正誤表」の記述のほとんどが誤りだと認めた。だが、開示は、機密なので無理だ、という。ウィキペディアをもとに書かれた文章が機密であろうはずがない。出鱈目な文章を作成しても、「どうせ外部に開示されることはない」と高をくくっているのだ。
防衛大臣は「あとで報道官の方から対応させていただきたいと思います」と回答した。そして会見後、廊下で防衛記者クラブの所属記者と思われる人物から「記者会見で個人的な質問をするな」という言葉を投げかけられた。私がその真意を質すると、彼は「独り事だ」と言った。さらに所属と氏名を尋ねると背を向けて走り去ったのだった。私はこのことをブログに書き、走り去る男の写真も撮影し掲載した。すると、本人から私に連絡があった。その人物はNHK政治部の記者、S氏だった。
「この番号で非通知でも大丈夫ですかね?」と事務所に電話をかけて、事務員に「「清谷先生」とは知らなかったんです」といったという。私は多忙だし、会っても益はないと面会を断った。
しかし、日本の記者クラブは外国と比べて基本的に記者クラブに加盟している新聞や雑誌、フリーランスの記者は参加できない。私はこの道20年のキャリアがあるから「個人的な質問をするな」と恫喝されても委縮しないが、若手の記者は委縮して立派な記者として、育たないだろう。私は海外のプレスにも参加することが多いが「質問するな」等といわれたことは一度もない。国民の知る権利の為にジャーナリストは為政者や権力者と闘わなければならない。取材相手が嫌がる質問も正しい情報や質問ならしつこくぶつけなければならない。NHKは何を考えているのか?
(SAPIO誌の問い合わせにNHKは、電話にて「清谷氏には誠意を持って対応しました。理解を得られず残念です」とコメントした)(小野寺防衛大臣は質問に対し、「何か隠しているという様な懸念を持たれないように努力をいたしますし、また、できるだけもし文章で返せる物がありましたら文章等で返していけるように指示していきたいと思います」と回答。)
*「特定秘密保護法案」にジャーナリズムが反対するのは当たり前のことだ。朝日新聞や東京新聞が「扇情的」だとは全然思わない。民主主義の基本は政府と国民の間にマスコミ・ジャーナリズムが介在しなければ成り立たない。*石破茂氏がいう「国家があってこその言論の自由がある」という論法も間違っている。北朝鮮という国家、中国という国家、韓国という国家には、言論の自由がない。たったこれだけで論破できる。*公務員は権力の僕(しもべ)ではない。公の僕である。いわゆるパブリック・サーバントである。
*公務員を政府・権力の僕にしようというのが「特定秘密保護法」である。(官僚が民を僕にする訳だ。官僚の官僚による官僚の為の国家・霞が関幕府国家だ。)*安倍首相の言う「国家の秘密は衛星写真が99%。国民の生活に影響しない」それなら現行法で対処しなさい。「秘密保護法」を読んだら、政府の恣意的な秘密指定と拡大解釈を避けられないと分かる。(*ここまで小林よしのり氏記事参照・緑川鷲羽加筆2014年3月号小学館SAPIO誌より)


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「公職選挙法」米国では18歳の市長も誕生、老人選挙利権を守る総務省と老人議員

2014年03月05日 14時11分12秒 | 日記




「公職選挙法」海外(アメリカ)では18歳の市長も誕生……なぜ地方の自主性に任せられないのか「若者の政治参加を邪魔する総務省と議員はシルバーデモクラシーの既得権を守りたいだけ」(「大反響!おバカ規制の責任者出てこい!条文の裏の裏シリーズ」小学館SAPIO誌2013年12月号 政策工房社長 原英史著作)少子高齢化を食い止めるためにも、出産・子育てに関わる若者の政治参加は欠かせない。しかし、若者の政治参加を促すための施策が、役所の規制によって実現しない。「シルバーデモクラシー」を守るおバカ規制を暴く。
 政府ワーキンググループのメンバーとして議論に関わった。残念ながら法案化にならなかったが、重要かつ面白い提案として「被選挙権年齢引き下げ」がある。提案の概略はこうだ。*若者の政治参加が足りないとしばしば指摘されるが、特に顕著なのが地方議員の構成。町村議会の場合、60歳以上が67%、40才未満はわずか2%。*若者がもっと地方議会に入ることで、地方政治は活性化されるはず。*その方策として、現行法では「25歳以上」に設定されている被選挙権年齢を、特区内では独自にひきさげられるようにしてはどうか(たとえば「20歳以上」とするなど)。
 *被選挙権年齢の引き下げと合わせて、通信制の大学の公共政策学部や大学院を開設し、学生議員の道を開くことにより、若者たちが地方政治の場に入っていけるようになるのではないか。
 実は日本は諸外国と比べるとこの年齢制限(衆議院議員、市長、地方議員は25歳以上。参議院議員、知事は30歳以上)はかなり高い。OECD諸国34カ国を見れば、約半分(18カ国)は18歳まで、8割は21歳までに被選挙権を与えている。諸外国の18歳は十分大人だが、日本の24歳はまだひよっこ扱い、ということなのだろうか。
 まあ、同じ日本人でも個人差はある。20歳で十分見識が備わった人物もいれば、30歳でも国連の常任理事国がいえない「憂う」「師匠」「臥竜」が読めないオーストラリアの首都がいえないダメダメな人物もいる。もちろん、こうした個人差は度外視して一定のラインを引かざる得ない場合がある。だが、いちいちチェックして「成人」にふさわしいかどうか判別していたらきりがない。
 また、自民党は大企業優遇の政策ばかりとる。法人税の納付がゼロ円なのに3兆円も還付!経団連が消費税を大歓迎するのは「輸出戻し税」のカラクリがあるのだ。輸出で損した分は国が赤字補填してくれる。だから経団連は「税率19%」などと言い出したのだ。


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3か国比較「データで一目瞭然中国人韓国人は日本人よりプア」アベノミクスの正体

2014年03月04日 15時48分12秒 | 日記




「3カ国比較「データで一目瞭然!中国人、韓国人は今でも日本人よりずっと貧しかった」小学館SAPIO誌編集部著作2014年3月号。過去50年間の日本、中国、韓国の一人当たりのGDP(国内総生産)の推移である。「中国が世界2位の経済大国になった」「韓国が軌跡の経済成長を遂げた」と喧伝され、不況に喘ぐ日本経済が一気に抜かれたかのような印象を持ちがちだが、データで検証すれば実態は全く違う。
 中国の国家総計局は1月、2013年度のGDPを56兆8845億元(約9兆4000億ドル)と発表。新聞には「日本の2倍」という見出しが躍った。日中のGDPが逆転したのが2010年のことだから、わずか3年で大きな差を付けられたことになる。しかし、それは国の豊かさとイコールではない。「一人当たりのGDP」で見れば日本の4万6736ドルに対し、中国は7000ドルにも届かない。これは南アフリカ(7507ドル)よりも低く、まだまだ途上国の水準にある。韓国にしても2万3113ドルで日本の半分に過ぎない(中国以外の数字は12年のもの)。信州大学経済学部の真壁昭夫教授が解説する。
 「GDPは国内で生み出された付加価値の総計です。一人当たりのGDPは国民の生活水準をそのまま示すもの。中国の統計は各省の出したGDPと整合性が取れていないなど信憑性に疑問があるが、それでも日本とは埋めがたい差がある。企業の儲けと個人の収入を合わせた『国民所得』や、労働者に支払われた報酬の合計である『雇用者報酬』を見ても同様です。」
 日本の一人当たりの国民所得は中国の約6倍、韓国の約2倍となる。国民所得から企業の取り分を除いた雇用者報酬に至っては、総額で見ても人口が10倍(13億~18億人)以上ある中国より日本のほうが多い。とはいえ日本は成熟国であり中韓はまだまだ成長途上という解説もされる。確かにGDP成長率の数字で見れば日本は中韓に劣る。しかし、それが即ち近い将来の豊かさの逆転を意味するわけではない。前出・真壁教授は続ける。
 「モノやサービスを生み出す生産年齢人口(15~64歳)の増加が経済成長を支える根幹です。日本では92年をピークに減少に転じて低成長の要因となったが、中国も一人っ子政策の影響で2011年にはピークアウトしてますし、韓国も急速に少子化が2016年にはピークを迎えると予想されています。特に韓国は人口も少なく、工業機械や産業基盤が中国と同じで「日本の部品輸入頼り」で「日本抜きでのビジネスモデル」ではなりたたない状態です。対日貿易赤字は255億ドルで7倍以上の経済規模の中国(262億ドル)に匹敵する数字だ。それでいて日本の悪口を言いふらすのだから、やはり理解に苦しむ。
 家計最終消費支出の内訳を示した円グラフを作成すると、まず何よりも「円の大きさ」が大きく違う。一人当たりの額ではやはり韓国は日本の半分程度、中国は8分の1の水準に留まる。中国の年間消費支出でさえ平均3万元(約51万円)程度に過ぎない。中国のシンクタンクでは1000万元(約1億7000万円)以上の資産を有する富裕層が100万人を超えたと発表しているが、事実であっても人口の0.01%未満だ。日本の老人や富裕層は1600兆円保有し、大企業の内部留保も270兆円以上ある。中国の最貧困層は一日130円で生活し、その人口は6億人である。また強姦ほか犯罪率で韓国が日本を圧倒している。
 乳幼児死亡率が高い中国、結核罹患率の高い韓国。平均寿命は日本が83歳で世界一であるのにたいして、中国が76歳、韓国は81歳……また中国は偽ブランドと違法コピー大国だ。世界の偽ブランドの67%を生産(08~10年、国連薬物犯罪事務所調べ)。パソコンソフトの違法コピー(インストールされたソフトのうち、違法コピー品が占める割合)も中国が77%で群を抜く。
 日本に執拗に噛みつく中韓と経済的に埋めがたい差があることは今後両国との関係を築いていく上で知っておいたほうがよい。
 「アベノミクスが息切れしてきた「デフレ脱却」「円安パラダイス」は嘘だった「徹底検証」小学館SAPIO誌2014年3月号」。「危機的状況にあった日本経済は『3本の矢』によってV字回復した」(安倍晋三・首相、2014年1月19日の自民党大会で)、「15年ぶりにデフレを脱却する状況を作ることができた」(菅義偉・官房長官、2014年1月7日の年頭訓示で)。政府高官が「デフレ脱却」を笑顔で掲げる中、総務相が1月に全国消費者物価指数(12月分)では生鮮食品を除いた物価(コアCPI)が前年比で1.3%上昇。7か月連続で前年を上回ったと報じられた。
 デフレは「物価が持続的に下落する状況」と定義される。デフレは物価が下がり、賃金が抑制され、会社や雇用状態が悪くなりまた賃金がさがり失業し……というのがデフレ・スパイラルとされる。物価上昇=インフレには「良いインフレ」と「悪いインフレ」がある。
 「目指すべきデフレ脱却(=良いインフレ)とは『商品やサービスの需要が増加する→供給能力を増強するために企業が投資し、雇用を増やす→人材確保の為に賃金が上がる→需要が増える』という好循環をつくり出すことです。これをデマンド・プル型のインフレと呼びます。一方、輸入価格や原材料費が高騰したことで物価が上がっただけの状態がコスト・プッシュ型と呼ばれる「悪いインフレ」です。賃金が上がらないのに物価だけが上がったのが現在の日本(悪いインフレ状態)なのに安倍政権よりの大本営新聞は報道しません」(井村氏談)
 輸入物価指数が17.6%上昇という「脅威」。消費者物価指数を細かくみていくと、物価上昇の原因が円安による輸入価格の高騰=コスト・プッシュにあることがわかる。去年の所定内給与は28都道府県で低下。良いインフレではないから、給料もあがらない。安倍氏が強調するような日本経済が立ち直り始めたかどうかは極めて怪しい。消費税増税は2014年4月から8%、2015年10月から10%増税されるが、つまり物価も上昇するのだ。賃金も上がらず悪いインフレで増税で不景気になるのは明らか。その頃になって安倍政権の嘘に気づいても遅いのだ。円安でも輸出は増えず貿易赤字が拡大している。五十年前の成功体験にしがみつく安倍政権は大失敗している。円安でかえって産業空洞化が進む。日本の大企業の工場はもうほとんど日本国内にはない。二度と戻っては来ないのだ。だから円安とは輸入価格の高騰(=悪いインフレ=コストプッシュ)でしかない。安倍政権はわかってない。
 日本経済の生き残り策は2つ。ひとつは、米英型の金融投資大国、もうひとつがアジア共同体で「EUの中のドイツ」と同じように基軸国化することだ。また日本のゼネコンは安倍自民から5億円たかり、また2020年には東京オリンピックという特需で9兆円公共事業で笑いが止まらない状態であるという。勿論官僚や族議員も利権で「甘い汁」を舐めてる訳だ。マスコミは安倍晋三のポチと化して、何でも「アベノミクスのおかげ」と煽る。消費税増税で7・5兆円の経済減少はさけられない。暴走アベノミクスが景気の腰折れの元凶になる。そうなれば国民が怒って解散総選挙となり、自民党はボロ負け、安倍チルドレンは落選、カオス状態になるだけの話でしかない。

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「カリスマ」と孫正義伝と ソフトバンク天才経営者孫正義の戦略と生き方!ブログ連載3

2014年03月02日 05時57分21秒 | 日記
         3 あえて日本へ




1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。
学位は、学士(経済学)。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市南区に事務所を構えた。
1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。
そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。
1986年をもって社長職に復帰した。1990年をもって日本に帰化。
理想の起業家像
「最も好きな起業家」は本田宗一郎であるという。
藤田田を訪問
高校生時代、藤田田に会うために藤田の会社に行く。
最初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田についに社長室に通されたという。
そこで「今度渡米するのだが、アメリカで何をすべきか」と尋ね、コンピューター関連を学ぶように助言された。
その後成功した孫は藤田を食事に招待し、藤田はあの時尋ねてきた高校生が孫正義だったかと驚き、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したという。
人生の目標
19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
大学の検定
カリフォルニア州での大学の検定試験の際に、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。
試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。
そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという。
さらに、州知事との交渉において知事は「厳密な終了時間」を決めておらず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論が出されたことから、無期限の時間延長と孫は独自解釈して、最後までテストを受けて合格したという。
インベーダーゲーム
自動翻訳機の売込みで得た資金(1億円)を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大きな利益を得た。
成年後のエピソード
通名ではなく本名で起業
ソフトバンクの前身であるユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えたが、親・親戚には、在日が日常生活で差別されることはかなり減ったが、就職では間違いなく差別され、銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された。
それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺は人間としてのプライドを優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた。
一族からは「お前は青い」とも言われたが、父親は何も言わず黙って孫の話を聞いていたという。
孫の名前にこだわった理由はもう一つあり、それは渡米する際に心に決めた志と通名による起業が矛盾するということであった。
孫は佐野眞一に対して「何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。
でも在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。それを自分が事業で成功して、 証明しなきゃならないと思ったんです。これからの在日の若者に、それを背中で示さなきゃいけないのに、俺が 本名を隠してこそこそやったんじゃ、意味がなくなるじゃないか、アメリカに行った目的が達成できないじゃないか。 あとから、あの事業を興したのは、実は孫でしたと言ったって……」(NEWS ポストセブン 2012/1/4 孫正義氏「安本」ではなく「孫」を名乗った時親戚は反対したより引用)と述べている。
将来はヤフーを子会社化
孫は2005年に雑誌の取材で「近い将来アメリカのヤフー本社も買収して子会社化しようと思う」と話している。もっとも米国のYahoo!はかつてソフトバンクが筆頭株主だった。

 孫正義の父親・三憲は「正義、泰蔵はハングル語は読めない」という。「韓国も大嫌い」であると。
 孫氏の大邱の故郷の墓も枯草で覆われていて、誰も手を合わせない。
 孫鍾慶(ソン・ジョンギョン・正義の祖父)一家が日本に戻るため漁船を調達し、あわや難破するという危機を体験したあと、密航で日本にこっそり上陸した。
「そのとき鍾慶一家が住んでいた家は、いまはもうありません。朝鮮戦争が始まると、今度は米軍が日本軍から接収した飛行場を拡張するために強制執行で取り壊されてしまったのです。田畑は日本軍に取られ、家は米軍に取られてしまったんです」
 孫正義の祖父と父が一度戻った故郷から、そういう事情で再び日本に帰ってきたことは、ここまでまったく知らなかった。これはおそらく孫家三代目嫡流の正義でも知らなかったろう。
 別の言い方をすれば、孫正義はこうした知られざる日韓の歴史に引き裂かれた谷間から生まれてきた男だった。
大邱は孫正義が帰るべき故郷ではなかった。故郷を失った男には、過去は歴史を紡ぎ出す源泉ではなく、単に過ぎ去った時間の推積でしかない。
 孫はしばしば、日本の情報革命がアメリカに比べて決定的に遅れているのは、日本人が過去にとらわれすぎているからだ、日本人が新しいものを取り入れるのに抵抗があるのは、アメリカ人が持つ知恵との時差がありすぎるからだ、と語っている。
 時差というのは、孫の経営手法を解くキーワードとなっている。日米間の経済ギャップとタイムラグ(時差)を利用すれば、必ず人より先んじられる。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 五十六~六十七ページ)

 私は孫がどんな少年時代を送り、在日の悩みとどう格闘してきたかを取材するため、孫の小学校、中学校の担任教師や同級生たちを九州各地に訪ねた。
 福岡県遠賀郡岡垣町在住の三上喬は、孫が北九州市立引野小学校五、六年のとき担任した元小学校教師である。アポイントもなく突然訪ねていったにもかかわらず、三上は快く家にあげてくれ、小学校時代の孫の思い出を語ってくれた。
「孫くんを担任していたのは、もう四十年以上も前のことです。その頃は安本くんと呼んでいましたがね。そんな遠い昔のことですが、なぜか彼のことはよく思い出すんです。
 思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。
 しかも、その目は澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でめったにありません。
 彼は何を見ていたんでしょうかね。教師の私なのか。それとも黒板の文字なのか。あるいはもっと奥にある何か別のものなのか。あの澄み切った目の奥に、何が映っていたのか、いまでも知りたくなるときがあるんです」
 三上は担任中、孫が韓国籍だとはまったく知らなかったという。
「彼自身、そんなことは一言も言いませんでした。ただし、彼が”差別”に敏感だったことは間違いありません」
 三上はそういって、一冊のノートをテーブルに広げた。表紙には筆記体で「Masayoshi=Yasumoto」と書かれ、その下に通信ノートと記されている。日付は一九七〇年(昭和四十五年)二月四日とある。孫が十二歳のときである。
 そこに「涙」という孫の自作の詩が書き込まれていた。

<君は、涙を流したことが
 あるかい。
「あなたは。」
「おまえは。」
 涙とは、どんなに、
 たいせつかわかるかい。
 それは、人間としての
 感情を、
 あらわすたいせつなものだ。
「涙。」
 涙なんて、
 流したらはずかしいかい。
 でも、みんなは、涙をなが
 したくてながしては、
 いないよ。
「じゅん白の、しんじゅ。」
 それは、人間として、
 とうといものなのだ。
「とうとい物なん
 だよ」
 それでも、君は、はずかしい
 のかい。
「苦しい時」
「かなしい時」
 そして、
「くやしい時」
 君の涙は、自然と、あふれ
 出るものだろう。
 それでも、君は、はづかしい
 のかい。
 中には、とんでもなくざんこくな、
 涙もあるのだよ。
 それは、
「原ばくにひげきの苦しみを、
 あびせられた時の涙」
「黒人差別の、いかりの涙」
「ソンミ村の、大ぎゃくさつ」
 世界中の、人々は、今も、そして、
 未らいも、泣きつづけるだろう。
 こんなひげきをうったえる
 ためにも、涙はぜったいに欠
 かせないものだ。
 それでも君は、はづかしいの
 かい。
「涙とは、とうといものだぞ。」>

 小学六年生とは思えない大人びた詩である。この詩にある「ソンミ村の大虐殺」とは、ベトナム戦争当時、アメリカ軍がベトナムの非武装地帯のベトナム人を大量虐殺した事件のことであるという。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 六十八~七十二ページ)
 詩だけを読んでいるとまるで宮澤賢治や相田みつおを彷彿とさせる。
 しかも、一九七〇年というのは私が誕生した時代なのである。
 緑川鷲羽が誕生したときには孫正義氏はすでに天才であったのだ。驚くしかない。

「孫くんの当時の感性がよくわかる詩だと思います。原爆の悲劇、黒人差別、ソンミ村の虐殺まで。小学生ならではの憤りが記されています。一九七〇年という時代の影響かもしれませんが、小学生でここまで考えられる子はそうはいなかったはずです」
 三上は、孫は間違いなくクラスのリーダーであったという。
 学級委員長という肩書だけでなく、リーダーとはたいがい敵をつくり天狗になるものだが、孫は敵もつくらず天狗にもならず、ちゃんと勉強ができない子にはみっちりと親切に勉強を教え、野球や遊びも仲間意識をつよく誰よりも盛り上げた。みんなが孫正義こと安本正義の大ファンであった。
 三上は孫の資質や調整能力からして将来は教育者か政治家になるのではないかと思っていたという。
「ですから実業家になったのは意外でした。しかし、世の中を変えるのは、政治家だけの仕事じゃない。彼はビジネスを通して世の中を変えたいと思っているのかもしれません」
 孫正義は北九州の引野小学校を卒業後、引野中学校に進学した。だが、同校に在籍したのは一学期の途中までであった。
 孫は中学一年になって間もなく、母親の李玉子と福岡市城南区のマンションにわざわざ移り住んだ。これは、福岡県屈指の進学校といわれる福岡私立城南中学に転校するためであった。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 七十二~七十三ページ)

 中学、高校時代の孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いが漂う朝鮮の貧民窟で育った極貧の少年とはうってかわって、完全に乳母日傘(おんばひがさ)の"おぼっちゃまくん"である。
 城南中学三年生のとき、孫の担任をした河東俊瑞(現・博多女子高校校長)によると孫は転校手続きを自分一人で行ったという。転校当時は「引野中学では成績表はオール5」だったが転校先の城南中学校では2に下がったという。偏差値も六十くらいで真中…
 孫が城南中学一年のときに担任した小野山美智子は、こう語る。
「四十年間も教師をやって、大勢の子を見送ってきましたが、孫くんは特別に印象の強い子でしたね。だって、初対面のときから衝撃的ですもの。あの子は確か一年生の二学期に、北九州の引野中学から転校してきたんです」
 そのとき、孫は教員室にぽつんと一人で入ってきて、「今度転校してきました」と挨拶したあと、小野山とこんなやりとりをしたという。
「あら転校生なの」
「はい、お世話になります」
「ご両親は?」
「ひとりで来ました」
「えっ、ひとりで来たの?」
「はい。転校に必要な書類も持ってきました」
 小野山が驚いて「えらいわね、ひとりで来て」と褒めると、孫は少しもじもじしたあと、「よろしくお願いします」と大きな声でいった。
「とても礼儀正しい子でしたね。転校当日ひとりで来るなんて驚きました」
 孫が三年生のとき、小野山は孫の悩みを知ることになる。自分は韓国籍だから教師になれない、と手紙を。同級生たちにも韓国籍であることをカミングアウトしたという。
 三年生(城南中学)で、河東をレストランに呼び出し「塾経営をしたいが、自分はまだ未成年だから(十五歳)、自分はオーナー職で、先生雇われ社長をやってはくれまいか?」と塾経営を発想して河東を驚かせたという。
 テーブルに置いた用紙にこまかいカリキュラムが書かれていて……まだ進学塾チェーン等ない時代に起業しようとした訳だ。
「カリキュラムも事業計画もちゃんとしたものだったと記憶しています。でも、私が乗ってくれないから諦めたようです。でも、何故塾か?は理由があるんです」
 河東は続ける。「彼の中学の成績が学年トップになったのは『森田塾』という進学塾に入塾したからで、福岡でも有名な塾で、誰でも入れる塾じゃない。成績が良くないと入れない……なら自分で塾を経営しようと……恐ろしい子供です(笑)」
 ブルース・リーの映画で憧れ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で坂本竜馬に憧れて……
 すごい子供だ、か、なんてこまっちゃくれたいやなガキだなあ、とで孫正義の評価はわかれる。ほとんどの孫正義伝記本や評伝はもちろん前者の文脈に沿って書かれてきた。私は孫を立志伝中の人物として書くつもりはない。
 また、在日の劣等感の裏返しのコンプレックスが、孫の飽くなき上昇志向の原動力となっている、といった紋切り型の言説を繰り返すつもりもない。
 しかし、だからといって「反孫正義伝」を書くような野暮も酔狂も持ち合わせていない。
 何故孫はお金が欲しかったのか?それはこの時期、父親の安本(孫)三憲が吐血して入院したからである。
 まさに家族の危機であった。
 一歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らす母を支えて、家計を支えて、正義は「お金」がどうしても必要になった。
 孫正義は在日の自分が出来る事を考え抜いた。そして、アメリカに留学して実業者になるしかないと覚悟を決めた。
 親戚のおばさんや従弟や兄弟に「父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのときにひとりでアメリカに行くのか?!なんて冷たい奴なんだ!」と言われる。
 でも、それしか孫正義には選択肢がなかったのだ。孫は漫画伝記本やいままでの綺麗事伝記のような「パソコン時代のシンデレラ・ボーイ」ではない。孫正義氏の頭脳なら東大法学部卒業や、大学教師、政治家、弁護士、何にでもなれただろう。
 だが、韓国籍であるがゆえに政治家にも官僚にも学者にも、なれない。
 学歴のない野口英世が「渡米」して、「ロックフェラー研究所」で医療研究で日本人に一泡吹かせたように、父が病気になった孫正義氏も「渡米」しかなかった。
 三憲の病気の原因は長年の飲酒と過労による肝硬変と十二指腸潰瘍によるもので、洗面器いっぱいも大吐血した。
 孫正義は鹿児島のラサール高校を志望していたが、病気の父親の手前そうもいかず、久留米大学付属高校に豪邸から通うこととなった。
 で、中退して渡米するのである。
 ……卒業してからアメリカに留学してもいいんじゃない?そういわれても困る。
 同級生たちは「若者たち」を石橋文化センターの送別会で合唱して渡米する孫正義を見送ったという。
 石橋正二郎が地元に寄贈した文化センターだ。ブリヂストンの創業者の。ちなみに、孫の東京の豪邸はバブル崩壊後の大不況時代の一九九七年、総工費六十億円で建てられた。石橋正二郎の豪邸の近くである。
 ソフトバンクの急成長がわかるエピソードだ。
 一九七四年二月、渡米した孫正義は、英語学校で数か月、語学を学び、サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクールに二年生として編入入学した。
 孫は一刻も早い大学在籍を希望して、大学入試検定試験を受け合格、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学、カルフォルニア大学バークレー校経済学部に編入で将来の伴侶となる大野優美(まさみ)と交際する。
 孫正義のシンデレラ・ボーイ・ストーリーでは「大学生時代に翻訳機を発明して、帰国後シャープ社に買ってもらい一億円を得て、その資金でソフトバンクを立ち上げた」ことになっている。
 アメリカ時代の孫が大学生活を謳歌できたのは、国籍も人種も気にしない自由なアメリカ生活だからではない。肝臓病から復帰した父親・三憲からの潤沢な仕送りがあったからである。
 大学時代に孫が「自動翻訳機」のアイディアを提案したとされる宇宙物理学者のモーザー博士は、
「彼が大学三年生のとき、私のオフィスにやってきたんです。彼のアイディアは日本語をタイプしたら、英語に翻訳され、その発音もわかるというものでした。しかし、そのようなアイディアはごくありふれたものでした。ですが、彼が他の発明者と違うのは、発明を商品化するだけでなく、その商品をいかに売るか?まで考えていたことです。そこに彼の成功の発芽を見たのです」
 さすがは世界的な宇宙物理学者だ。天才発明家、パソコン創世記時代の天才などといった世情におもねった俗説にはまったく踊らされないで、見るべきところはきちんと見ている。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 七十四~九十四ページ)  
 



話は変わる。
  昭和二年、松下電器は『電熱部』という部署をもうけ、電気コタツ、電気ストーブ、電気コンロなどのおなじみの製品に本腰をいれることになった。
 発足と同時に若い人材が入ってきたが、それは関東大震災で焼け出され、泣く泣く大阪へきた中尾哲二郎という男だった。
「こいつは下請けのものやな」
 幸之助は感付いた。
 しかし、この中尾、なかなか旋盤の技術がすごい。剣豪は相手の剣さばきで腕がわかるというが、幸之助は相手の旋盤のつかいかたで腕がわかったという。
 幸之助は感心して「こいつ、おれのとこにくれへんかな?」と思った。
 さっそく中尾と話して、下請け工場の長とも話して、松下電器にきてもらうことになったのだという。この中尾はのちに大企業となる松下電器の副社長までなったもので、幸之助の審美眼もさすがだな、と思う。重役陣も技術畑の出身者だ。
 英雄とは、ずばぬけた審美眼と体力、知恵をもっていなければならない。
 幸之助にはそれがあった。
  松下電器というのは徹底した人材主義で知られる。
 幸之助は、
「物をつくるよりひとをつくるのが先である」
「人材は長い目でみて掘り出せ」
「人間の潜在能力を引き出す」
「人は短所より長所をみるようにする」
「ひたすら求めれば、人材はえられる」
 といって人材やひとづくりの大切さを力説する。
 のちに日本教育がおかしくなっていく中で、幸之助さんが国の教育、親のしつけを憂いたのもそうしたポリシーからだった。
  昭和三年から四年にかけて、日本は深刻な不景気にみまわれた。
 この不景気は深刻なもので、大学卒業の人間でも就職先がなかったほどだった。
「大学出たけど…」
 というのが流行語にまでなった。
 しかし、それでも松下電器はどんどんと伸びていった。気がつけば、従業員は三百人にもなっていた。妻たちとわずか三人で始めた会社が、百倍になったのだ。
 この頃から、幸之助は、
「企業は社会的責任がある」
「企業で働くひとも、資本も、設備かて社会からの預かりものや。だから大事に育てていかにゃあかん。そこから生まれた利益も、社会のために役立たせなきゃあかんで」
 という哲学をもつようになった。
 経営者は企業のトップである前に、道徳のトップでなければならない。
 幸之助は思いあがっていっている訳ではなかった。
 ちゃんと商いしているなかで、そういう哲学を自然と身につけていったのである。
 小卒しかも中退の幸之助だったが、どっかの大学生よりはよほど優れている。
 幸之助は、
「ひとづくりやらにゃあかん」
 と、現代でいう社員研修や見習い制度、企業内研修などをやっていった。
 幸之助は自分の知識と経験で、研修をすすめた。
 まるで吉田松陰のようだが、幸之助の信念に一寸の狂いもない。
 その結果、のちに幹部や重役となる人材が育ってきたからだ。
  昭和四年には不景気はますますひどくなって、世界大不況となった。
 松下のライバル企業もバタバタと倒産していく。松下電器だって例外ではなく、売り上げが半分にまで落ち込んだ。
 もはや企業努力だけではどうしようもない。
 松下電器の倉庫には製品が山積みになってしまった。
「もうこれ以上入りまへん!」
 倉庫係りが悲鳴をあげる始末だった。
 悪いことは重なるもので、この年松下幸之助は病気になり、自宅療養ということになった。元々、体があまりじょうぶではない。そんなところに過労が重なった。
 これは仕方がない。
 しかし、寝ていてもそんな不景気だから、「あれをこうしろ」「これをああしろ」と寝床で指示を出す。
 しかし、不景気で業績は伸びない。
 とうとう幹部たちがやってきて、
「社長、もうあきまへん。従業員減らしましょう」という。
 しかし、幸之助はリストラには首を縦には振らない。
「あかん。人を減らすのだけはやってはあかんで! それだけは絶対にすべきやない!」 従業員を辞めさせるということは、その人たちの生活を奪ってしまうことである。
 今、リストラ、リストラ、と馬鹿のひとつ覚えのようにいっている経営者にきかせたい言葉だ。幸之助は昭和初期から、リストラの愚かさを見抜いていた。
「せやけど、社長、松下丸は浸水しています。いま荷をおろさんと…」
 そんなことをいう幹部までいる。
 幸之助は目の前のことにばかりとらわれている幹部を一喝して、
「たしかに松下丸は浸水してるかもしれへん。しかし、だからいうて社員が荷物などと思うたことはおれはない。手があればそれだけで船に入った水をかきだすことができるやないか?!」
 ……うちの社長はやはり眼のつけどころが違うな……
 幹部たちは沈黙した。
 幸之助は続ける。
「生産を半分にするんは仕方ないやろ。しかし従業員には半分働いてもらう。給与はそのままや」
「せやけど……それやったら会社の負担が重うなるんと違いまっか? 社長」
「たしかに一時はそうかも知れん。けどな、不景気が回復したらそんなもんすぐ取り返せるで。ええか、人材は命なんや。いままでせっかく育ててきた人材を手放すゆうんは損失のほうが多い。損失は人材損失や」
 幸之助はにやりと笑った。
「せやけど、条件をだすで。社員は半分手があく。その分、倉庫にある商品を売って歩いてもらうんや」
 なるほど、船にはいった水をかきだすとは、そうことか……
「わかりやした」
「全力をあげてやりやす」
 幹部たちは、口々に答えた。
 従業員もこうなるとハリキる。リストラされなければ、営業だってなんだってやる。
 首になったらおわりだが、そうではないならやってやる!
 従業員や幹部は頑張って、幸之助の言葉に励まされながら売り歩いた。
 結果、二ケ月で山のようだった在庫もなくなった。
 松下は不景気をのりきった。しかし、幸之助がリストラという消極的判断に走っていたら、従業員はしゃかりきに働き、営業までしただろうか?
 なんでも成せばなるという精神が必要なのだ。
 リストラして、コストダウンなんて考えはとんでもない。
 辞めさせられたほうは、一生を棒に振ることになる。技術をもっていれば別だ。が、今の外国人犯罪をみていると『単純労働者』として不法に雇われ解雇され、それゆえ金ほしさに強盗や空き巣をしているようにしか見えない。
 技術をもたない彼等は、手っ取り早く金になることをするしかないのだ。
 これから少子高齢化で人口が減り、移民を考えなければならないなら単純労働はロボットにでもまかせて、あとは”技術のある外国人労働者”だけを移民としてつれてくるべぎだ。そうでなければ日本はアメリカやフィリピン並の犯罪大国になってしまう。

『松下二百五十年計画』
 が発表されたのは昭和七年五月五日のことだった。
 幸之助は大阪の電気クラブというところに全社員を集めて訓示をした。
「産業人としての使命とは何か!」
 幸之助は饒舌に語り始める。
「人間は物質だけでは生きられるもんやないし、精神だけで生きられるもんでもない。このふたつが車の両輪のように重なり合ってなければあきまへん。われわれ産業人は、このふたつのうち、ゆたかな物質生活をひとびとにもたらし、その面から幸福を追求することを使命にするものであります。
 われわれはまず二百五十年計画をたてて達成してゆかなあかん思う次第であります」
 社員千二百人は、戸惑った顔をした。
 ……二百五十年計画かていわれても……
 しかし、幸之助は従業員たちにビジョンを与え続ける。
「しかし、わては皆さんに次世代の踏み台になれとかそういうことをいうとんのとちゃいます。みなさんはみなさんで幸福に生きたらええ。ただ、それけだけでなく、次の世代のためによいものを残してほしんのです。一日一日努力してほしいんや。そうすりゃあ、使命感をもって諸君は働けるし、かならずよい結果をもたらせるでしょう」
 壇上の幸之助は熱く語る。
 話しが終わると割れんばかりの大拍手がおこった。
 みんな、眼がきらきら輝いている。
 やるぞ! という気迫がこもっている。
 幸之助は松下社員にビジョンを与えた。

  幸之助は忙しくなった。
「社長、これどうしましょう?」
「いや、それはまってくれ」
 だんだんと会社が大きくかると、幸之助の『鶴の一声』だけで決まらないことが多くなっていった。松下電器は、電気コンロなどだけでなく、ラジオまでつくるようになっていた。家電はほとんどつくっていた。
 そこで幸之助は事業部制を考えつく。
 つまり、ラジオならラジオで担当部署をつくり、そこでラジオの設計企画から営業までやらせる、という組織つくりだった。
 生産から販売まで一貫性をもたせようと昭和八年からはじめたものだ。
 結果は大成功だった。
 いい意味での競争意識が芽生え、他社のメーカーの真似も多くなったが、それでも「もうかりゃええんや」という幸之助の考えで松下電器は大きくなっていった。

  松下電器が現在の門真市に移転したのは昭和八年のことだった。
 当時、門真市は『鬼門』と呼ばれていて、縁起が悪い方角だといわれていた。
 そんなもの迷信だ……といえればいいが、社員の中からは反対する意見も多い。
 しかし、幸之助は、
「日本は『鬼門』だらけや。北海道も『鬼門』、九州も『鬼門』、なら土地の安い門真市に移転するのが一番ええ」
 と本社工場を建てた。
 幸之助はいう。
「日本は狭い。方角がどうのといっていたらきりがないやんか。迷信を信じるものにとっても、これはええ機会やで。もし迷信通り松下がだめになりゃ、それみたことか、いうて迷信を信じる者に意識を植え付けることになる。せやけど、そうならないように社員には頑張ってもらいたいもんや」
 結果はどうか、松下電器は今も健在である。
 幸之助は迷信打破までやってのけた。

  あるとき、新聞記者が松下幸之助の取材をした。
 ………この松下幸之助という男はすごい人物になるだろう……
 マスコミの勘がそう思わせた。
 この頃、松下電器は新進気鋭の企業として注目を浴びていた。
「松下さん。今度モーターをつくるそうですが、心配はありませんか?」
「なんが心配なんでっか?」
 と松下幸之助。
「でも、モーターは重電気(発電気・モーターなどの大型電気製品)でしょ? いままで松下電器は乾電池とか、懐中電灯とかソケットとか電熱器のようなものはつくってきたが、重電気ははじめてでしょう? しかも、重電気は東京の大手メーカーが独占している。
 それを今、大阪で初めてだいじょうぶなのですか?」
 その頃、モーターといえば電気発電工場のような大型のモーターがおもで、家庭用といえば扇風機程度の知識しかなかった。
 それを家庭用のモーターをつくるという。
 記者が不安になるのも無理はない。
 幸之助はいう。
「モーターっていうんは、その国の先進性の象徴です」
「…はあ」
「家庭にモーターがいくつあるかで、豊かさがだいたいわかります」
「そんなものですか?」
「アメリカではすでに家庭にモーターが普及している。みなさんはインテリです。みなさんのご家庭にはどれくらいのモーターがありまっか?」
「……残念ながら家の家庭にはまだモーターらしきものはありません。扇風機ぐらいです」「ほらごらんなさい」
 幸之助は続ける。
「あふ何十年後には日本の家庭にはモーターがあふれるでしょう。家電があふれるのです。私はそういう有望な仕事をやるんです。心配せんでもええですよ」
「なるほど」
 記者たちは納得した。
 幸之助は先をみていた。日本を『技術立国』とするために天よりつかわされた男は、そんな使命を知らない間に頭に刻んでいたのである。
  モーターは成功した。
 また、幸之助は大阪の東淀川区に「ナショナル電球株式会社」をつくり、電球も販売しだした。世間は、
「あんななれないことに手をつけてだいじょうぶやろか?」と思っていた。
 市場はマツダランプ一色だった。シェアは七十パーセントも占めていて、松下電球は売れるのかどうかもわからなかった。
 またライバル企業も数十社あった。
 幸之助はそれを知っていた。
 しかし、幸之助は、
「ナショナル・ランプは新しい横綱だ。横綱がふたりいてもいい。しかし、お客さんが買ってくれなきゃ話にならへん」と自信たっぷりだった。
「あんたは面白いひとですね」
 北海道の問屋はそういって注文してくれた。
「一社だけの独占状態は危険や」
 幸之助は訴えていく。
「競争こそ発展の道やで!」こうなるともう松下教である。

  昭和十年頃から、松下はいっせいに正価販売運動も始めた。
 電化製品はほとんど同じ価格でお客さんに買ってもらおうというのである。メーカーごとに価格が違うのではダメで、それでは品質に影響するという。
 値引きしない電化製品……これがコンセプトだった。
 時代はラジオ全盛のとき。
 幸之助はラジオ出演した。
 新進気鋭の天才経営者というふれこみだった。
 幸之助はいう。
「ただいま紹介を受けました松下幸之助です。
 私は十代のときに大阪にやってきて、商い一筋でした。そこには立身出世や儲けが要求されました。しかし、それだけでは商いはやっていけまへん。
 企業人というものは社会に貢献してこその企業人なのです。
 いまままで高価で貴重だった自転車は今や庶民のものとなり、電車も多く通るようになりました。ぜいたくだった一部のものが世間にあふれるような時代になりました。
 われわれの会社でつくっているラジオもそうです。
 こうした時代にあたり、われわれはいかに社会に貢献できるかを考えなければなりません。
 この前、公園で浮浪者のようなものが万年筆をもってメモしているのをみて感動しました。万年筆は少し前まではとても高価なものだったのです。
 ほんの一部の金持ちのものだったのです。
 それが大量生産されて、安価になり、誰もが使えるようになりました。そういうことが文化なのではないでしょうか。
 またそうしたまずしい者たちを少しでもなくしていくのもまた文化だと思います」



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