GORBACHEV
GORBACHEV
ゴルバチョフの『真実』
ゴルバチョフ×ゴルバチョフ「世界を失った男、ゴルビー」
<旧ソ連・ロシア教科書的論>
total-produced& PRESENTED written by
NAGAO Kagetora
長尾 景虎
this novel is a dramatic interpretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
まえがき
80年代後半、ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフという政治家によって世界は大変革をとげた。永遠に続くかと思われた「冷戦」による米ソの軍事競争にピリオドがうたれ、大量殺戮の恐怖もさった。ベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアのチャウシェスクが倒れ、東西が対立していた欧州大陸はゴルバチョフのシナリオどおりに、世界平和に向けて突っ走るかに見えた。少なくとも、ヨーロッパには平和がもたらされると誰もが希望に胸を膨らませていた。ただしそれには、ゴルバチョフが失脚しないで、彼の意思を政策に反映できるかぎり、という前提があった。しかし、残念なことに、世界は「新秩序」とは逆方向に激変しつつある。新思考外交を担ってきたシェワルナゼ元外相が「我が国に独裁がやって来つつある」と拳を振り上げて叫び、辞任した。そして、世界を変えた男・ゴルバチョフも保守派、党、軍らの巧みな復権によって実権を奪われ、失脚させられてしまった。その理由が、健康上の理由というのだからおそれいる。保守派は経済改革をする気もないらしかった。ソ連の人々は歴史的にいって、自由だとか私有財産制というものを経験していなかった。ボルシェビキ革命以来、70年にも及ぶ悪政に苦しめられてきた。だから、経済を知らないのも仕方がなかった。だが、保守派が権力を掌握した状況にあって、嘘っぱちのペレストロイカ路線で西側に援助してもらうとするのは、完璧に間違いだった。ドブに捨てることにしかならないし、そんな金は西側には1ドルだってなかった。民族紛争、内戦、さまざまなことが。それによって西側に大量の難民が押し寄せることになるところだった。冷戦体制が崩壊し、ソ連は消滅した。政治家ゴルバチョフは徹底した現実即応型の合理主義者で、機能するものは追及し、機能しないものは放棄する。だから、民族の反乱と経済破綻から来る保守派の反撃をしのぐために彼は権力にしがみついていたのだ。彼の最悪な点は、改革が中途半端であったことだ。保守派がクーデターによって権力を握った。だが、保守派がいくらソ連を動かし、ブレジネフの時代まで逆戻りさせようとしても、民主化や自由化のダイナミックな動きは誰にも止められはしなかった。それらのソビエトの改革がこれからスタートしようとした矢先、改革の旗手であったゴルバチョフが追い落とされてしまった。これはソ連にとって、そして全世界の平和、秩序、ブッシュのいう「新世界秩序」にとっても非常に不幸なことだったといえる。私たちは、まず、ミハイル・ゴルバチョフの人間性、成長過程、心理などを理解しなければなるまい。そして、激動のソ連、ロシア、ゴルバチョフ政治・失脚のすべてをだ。
現在、ロシアはBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)の一翼として、経済発展著しい国となった。だが、クリミア問題、ウクライナ問題で糾弾されている。ウクライナ侵攻でウクライナとは戦争になった。プーチン大統領で、本当にいいのか?正しい政策を実施しているのか?歴史が判断するだろう。確かにプーチン大統領と部下のメドベージェフ首相が旧ソ連、現在のロシア共和国の経済を立て直した。ゴルバチョフは過去のひとで、昔のひとである。
だが、ゴルバチョフがいなければ冷戦終結もソ連の崩壊もなかった。
共産主義の失敗もおおきく、資本主義が勝ったにしては貧富の差、格差問題が深刻化しているが。だが、そこに至るプロセスを学ばないでソ連もロシアもわからない。この書は本当の意味での教科書である。
この物語を読むことによって、ぼんやりとしていたゴルバチョフ像が、読者の心に、はっきりと鮮明に刻まれることを期待してやまない。(ミハイル・ゴルバチョフソ連元大統領は2022年8月30日、モスクワの病院で死去した(享年91歳))
『ゴルバチョフ・ゴルバチョフ』 ストーリー紹介
ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは飢饉の最中、スタブロポリのある村に生まれた。スターリンによる「クーラック(富農)狩り」やナチス・ドイツによる侵略により、食料も底を尽きて、ある村では一歳から二歳までの幼児がすべて餓死してしまったという。 だが、そんな時代に育ったからこそ、あのサバイバル精本能と行動的・合理的なゴルバチョフが「世界の檜舞台」に現れる結果となった、ともいえる。
モスクワから汽車で丸一日かかるこのこぢんまりした村で、ミハイル・ゴルバチョフはたくましく生き、強い母親、やさしい父親などに包まれながら暮らしていた。少年時代のゴルバチョフは野心満々、癇癪持ちだが、人付き合いがよく、欲張りで勉強好きの野心家だが、どこか憎めないものを持っている。彼は努力の末、労働赤旗メダルをもらい、ソ連のエリート大学「モスクワ大学」に入学した。そして、そこで高峰の花、ライサと出会い、学生結婚をする。そこまではよかったが、スターリンの部下「ベリヤ」が処刑されたことを期に、彼は挫折。彼は傷ついた心のまま、スタブロポリの故郷に帰る。
だが、彼は持ち前の才能をいかして、みるみる頭角を現し出す。温泉地に訪れていたアンドロポフ(のちにソ連書記長となった)やイデオロギーの守護神といわれたソ連共産党No.2、スースロフなどに取り入り、やがてモスクワの共産党本部「クレムリン」に進出、アンドロポフ、チェルネンコの死後、ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは共産党書記長に就任。ペレストロイカを打ち出す。
「ペレストロイカを始めよう!」
ゴルバチョフは「悪の帝国」というイメージを取り払うため、積極的な外交を展開、サッチャーのすすめで、レーガンとINF条約で合意、冷戦終結、軍縮、ベルリンの壁崩壊、東欧解放、ドイツ統合、さまざまな魔法の力を使い、世界を変えていった。
しかし、民主化とはいったものの、ソ連国内は経済が破綻し、保守派が台頭、民族紛争激化と…どうしようもない状態になる。彼は生き残りのために、右旋回し、バルト「血の弾圧」などが起こる。彼は悩んだ。
「やはり我が国には、命令と脅しが必要なのだろうか……」
ゴルバチョフの人気は急降下し、民衆は「ゴルバチョフやめろ!ゴルバチョフやめろ!」と叫び、かわりに急進改革派エリツィンは大人気となる。そしてエリツィンは、ロシア共和国大統領(当時)にまでなる。(もはや故人・プーチンの師匠)
ゴルバチョフはロンドン・サミットに出席、資金援助は得られなかったものの、ブッシュ大統領(当時)に説得され、「改革に反対するものは共産党を出ていきなさい」と強気な姿勢を取り戻す。そしてSTART(戦略核削減交渉)に調印、各共和国の独立を認める『新連邦条約』の会議を八月二十日に開催することで、エリツィンと合意をとりつけた。このことに保守派は怒り狂い、保守派はゴルバチョフから権限を奪いとりマルクス・レーニン主義を取り戻すべく策略を練った。それはとても簡単なことに思えたのだが…。 1991年8月19日、保守派によるクーデター発生。ゴルバチョフはクリミアの別荘に監禁されてしまう。保守派の命令をうけた軍隊、戦車がモスクワ市内の報道機関などを占拠。その侵略者たちは改革派や自由を求めて集まったロシア共和国最高会議ビルに迫っていた。ソ連に、再び「全体主義」が敷かれようとしていた。
これに対し、モスクワ市民は抵抗、クーデターは失敗に終った。保守派は逮捕され、ゴルバチョフは「共産党解体」を宣言。ソ連全土のレーニン、マルクス像が撤去された。
七十年に及ぶ、ソ連共産党の独裁体制に、終止符が打たれたのだった。
この著書は、ゴルバチョフの人間的魅力、政治哲学、人生、世界情勢などがすべて凝縮された必読のものである。この物語によって、冷戦とは何だったのか?スターリンは、フルシチョフは、ケネディは、レーガンは、サッチャーは、ブッシュは、シェワルナゼは、そしてゴルバチョフとソビエトとは何だったのか…そうしたミステリーが理解できるだろう。著者としては、「ゴルバチョフ・ゴルバチョフ」の映画化を、ぜひ望むものである。
これほど波乱な人生を生きてきた男が、かつていただろうか。…ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフ。世界を変え、ソビエトを独裁から解放した男、ゴルバチョフ…。 この物語を読むことによって、歴史の謎やゴルバチョフ像が、はっきりと見えてくることを願う。ゴルバチョフ誕生、アメリカ・ソビエト、ペレストロイカ、新生ロシア革命、今世紀最大のミステリーに迫れ!
では、See you again.Happy reading.…
ロシア軍(プーチン)VS.ウクライナ侵攻『旧ソ連の歴史と弾圧・血の歴史』
ウクライナはロシア連邦のとなり(東ヨーロッパの一部/かつてのソ連邦の一部)人口4千159万人。面積は日本の約1・6倍(出典外務省)。
首都はキエフ(但し、キエフはロシア語読み。ウクライナ語では〝キーウ〟)ウクライナでは〝キーウ〟と呼んでほしいと。そのうち、〝キエフ〟が〝キーウ〟に名称がかわるかも知れません。ウクライナの国旗は上半分が水色(空)、下半分が黄色(小麦畑)。ウクライナは『豊かな農業国』。ウクライナ発祥の料理は『ボルシチ(ウクライナ伝統の煮込みスープ)』。元々、ロシアとウクライナは同じ国だった。ウクライナのキエフとモスクワ辺りは(8世紀末~13世紀)までキエフ公国といって、そこを基点にのちのロシア帝国(帝政ロシア)へと発展していった。
日本でいえば京都とか大和の国のような。
「ウクライナがNATOに加盟するのは許さない!」と、プーチン大統領。元々、百年くらい前はソ連だった。
ソ連は、ロシア+バルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)+ベラルーシ(白ロシア)+ウクライナ+モルドバ+ジョージア(グルジア)+アルメニア+アゼルバイジャン+カザフスタン+ウズベキスタン+トルクメニスタン+キルギス+タジキスタン。(ソ連15か国の巨大な連邦)。
ソ連の正式名称は『ソビエト社会主義共和国連邦』(1922年~1991年)
ざっくり説明すると、社会主義が「平等(悪平等)」、資本主義が「自由(格差の拡大)」。ソ連が世界で初めて社会主義を採用した。連邦は二つ以上の国や州が集まった国家(アメリカもそう)(日本の都道府県とは違う)。
ソ連邦は連邦は建前で、中心はソ連共産党のコントロール下。もちろん、15か国の中には、「ソ連に入りたくない」と抵抗した国もある。軍事力で抑えた国も。
レーニンは帝政ロシアと戦っていた。ウクライナも帝政ロシアと戦っていた。〝敵の敵は味方〟とレーニンは「ウクライナを国家と認めます」と仲間につけた。だから、ウクライナは帝政ロシアと戦った。だが、ロシア革命後、建国でレーニンは「いやいや、ウクライナはソ連邦の一部がいいよね?」と一部にした。武力で攻撃したという。
ウクライナにはソ連と戦ったひともいるし、帝政ロシアと戦ったひともいるし、親ロシア系のひともいる。ウクライナは「ソ連がいい(親ソ連・ロシア派)」という国の東側と、「西側に入りたい」とする「反ソ連・ロシア派」の西側に二分されている。
ベラルーシに関しては、〝ベラ〟が「白」、〝ルーシ〟が「ロシア」だから、親ソ連・ロシア派が多い。
このソ連とアメリカが戦後、激しく対立したことを『東西冷戦』という。
戦争というが、頭のおかしな人間が「どこで戦ったの?」ときくが、戦ったら「冷戦(冷たい戦争)」ではなく、「熱戦(熱い戦争)」である。
アメリカとソ連(現在のロシア)はどこででも戦ってなどいない。
ベトナムとかキューバとかアフガンとかで代理戦争はあったが。直接に戦わずに、睨みあっていたからこそ『東西冷戦』なのだ。
第二次世界大戦終了すぐの頃は、ソ連の技術力・軍事力・経済力も物凄く発展していた。西側より、発展していた。世界初の人工衛星「スプートニク」。世界初の有人宇宙旅行「ガガーリンショック」。当時、ソ連が西側に攻めてきたら大変だ、と軍事同盟が西側・西欧州や米国でつくられた。これが、NATO(北大西洋条約機構)である。1955年のことだ。
「日本はNATOの〝グローバルパートナー〟」といわれるが、日本が北大西洋条約機構に入っているわけでもなく、日本は憲法で戦争を禁止していますし。NATO自体がソ連・ロシアと西太平洋で戦闘状態になることを想定した軍事同盟で、日本は戦争はしないけれど情報は〝やり取り〟しましょう。ということですね。
ソ連はNATOに対抗するためにワルシャワ条約機構をつくった。(ポーランドのワルシャワでの発足だが、本拠地はモスクワ)(加盟国は東ドイツ・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・アルバニア(すぐに脱退))。
その巨大な旧ソ連(現在のロシア)は三十年前くらいに崩壊(社会主義がうまくいかなくなった。働いても働かなくても給料は同じなので誰もがさぼる。国営企業ばかりで競争原理もなく、経済が低迷・停滞。アメリカとの軍事競争で軍事費が膨大となり、東欧などの西側脱退などで)した。
きっかけは、ソ連の大統領・ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)。ソ連国民が「ソ連とは我が国はここまで酷いのか!」と目が覚め、のちに、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦も91年に崩壊し、東西冷戦も終結した。
バルト三国(現・NATO加盟)もソ連崩壊前に独立し、ソ連も国として独立を認めたのでプーチンやロシア軍がバルト三国に侵攻していない。
当時、ゴルバチョフの頃のソ連(現・ロシア)は経済がガタガタで、バルト三国の独立も認めざる得ないほど行動がとれなかった(ゴルバチョフがバルト三国や東欧に軍事侵攻しないと約束した)。現在のロシアは石油や天然ガスで豊かな経済になったので、プーチンがウクライナやジョージア(旧・グルジア)に軍事介入している。
ウクライナの親・ロシア派住人、ジョージア(旧・グルジア)にも勝手に南オセチアとかもうひとつの国を勝手にロシアがつくって、ロシア軍をそこに駐留させ、軍事介入している。言いたいことは「NATOに入るな!」ということ。
プーチンはソ連崩壊を『20世紀最大の地政学的悲劇』という。第二のソ連をプーチンは目指している。ソ連崩壊の時に、プーチンはKGBのスパイとして、東ドイツにいた。彼は三十代後半であった。
「西側にしてやられた」とプーチンのトラウマになった。
東欧やウクライナは「ソ連が嫌だから、西側について独立した」だけだが、プーチンにしたら、「西側にしてやられた!」と感じたわけだ。
ウクライナが「NATOに入りたい」と。それをプーチン大統領は「(ソ連を一緒につくった国が)西側NATOに入るのは許さない」と。
ロシア軍をウクライナに侵攻させ、ウクライナの東部のルガンスク州に「ルガンスク人民共和国」を、ドネツク州に「ドネツク人民共和国」を勝手に作り、ロシア側がこれを勝手に承認し、「親ロシア派住民を守る」という大義名分のもとに軍事侵攻した。
(頭のおかしな人間は「ウクライナ軍がその親ロシア派住民を大虐殺した」というがデマである)(そいつは馬鹿で、ググった付け焼刃情報(ウクライナの〝ホロドモール・飢餓のトラウマ〟)がなんたらと学者ぶるのが精一杯であるだけ。)
また、ロシア軍は2014年からクリミア半島に、「親ロシア派住民を守るため」という大義名分で駐留し、占領状態になっている。そこでのロシア軍とウクライナ軍の戦闘で一万八千人が戦死している。(ウクライナ軍からの大虐殺・ジェノサイドはデマだ)
2014年に親欧米派の大統領(ゼレンスキー氏)誕生により、ロシア軍が〝正体不明の軍隊〟(プーチンは「民兵だろう」と嘘)侵攻した。そのニュースはそれほど大きく扱われなかったが、今回は、大ニュースになっている。
その当時のウクライナ軍は全部で二万ほど。武器もほとんどなかった。
だが、それからウクライナ軍は二十万になり、欧米から最新式の武器も提供されている。
今回のウクライナへのロシア軍軍事侵攻で、ロシア軍がチェルノブイリ原発を占拠したり、ウクライナ最大の原発を占領したり………経済制裁にしても短期間で効く〝即効性〟はない。「輸出入禁止」「資産凍結」「航空機の受け入れ禁止」「銀行の取引からの排除」「SWIFT(世界的な金融決済ネットワーク)を凍結」……ロシアが妥協するか、ウクライナが妥協するのか? ……とにかく、戦争状態を脱するための世界の苦悩は続く。
ウクライナからの戦争難民も凄い人数になっている。
ロシア経済制裁は、日本にとっては「天に向かって唾を吐く」ようなもの。
ロシアVS.ウクライナ戦争。ロシア国家・軍と在日ロシア人は関係ない。差別やヘイトに騙されないで! 煽っているのは差別主義者! 絶対に、迎合しないで!
欧州連合(EU)などは先月26日、ロシアの銀行を各国の主要金融機関が参加する国際銀行間通信協会(SWIFT)から排除することで合意しました。
ロシア軍のウクライナ侵攻により被害が拡大していることを受け、足並みを揃えた。
ロシアに強い圧力をかける必要があると判断したのです。
ですが、ある銀行を米国は排除対象としているのに、同じ銀行を排除対象に含めない国もあるなど、足並みは揃っていません。
もしロシアをSWIFTから完璧に排除するとなれば、それは中国が得をすることにつながっていくだけです。
中国とロシアはお互いの通貨で交易が可能なので、天然ガスが売れなくなった場合は例えば中国に売ることになるからです。
ロシアも苦労はするでしょうが、何とかなってしまう可能性は高いと感じます。イランもSWIFTから排除されて長い間苦労していますが、耐えて生き残っていますし。
日本にとって決して他人事ではありません。
ロシアの原油問題が取り沙汰されていますが、それだけでなく、ロシアとウクライナは小麦、大豆、菜種油、トウモロコシなどの一大輸出国でもあるからです。
ロシアがSWIFTから排除されると、日本はモノを直接輸入することはできなくなり、(SWIFT以外の決済が可能な)インドや中国経由での輸入になります。
そうなると一気に値段が上がり、インフレを招く可能性もあります。
特に天然ガスでこのような現象が起こり、エネルギー価格も一気に上がることが懸念されます。
天に向かって唾を吐くような状況で、日本にとっても大損害になると理解しておくべきでしょう。
国際原油市場で代表指標となるWTI先物価格が一時1バレル100ドル台まで上昇しました。
100ドルを上回るのは2014年以来7年7ヶ月ぶり。ウクライナ侵攻でロシアからの原油供給に不安が広がったことが背景にあります。
今のLNG(天然ガス)の価格を見ていると、1バレル200ドルを超えてもおかしくない状況だ。
ロシアの原油に頼れなくなったからといって、米国のシェールガスには頼れません。
エネルギー供給国として米国は安定していないからです。
ロシア、ウクライナでビジネスを展開している日本企業は多い。
まさに、「天に唾を吐く」ことになりそうです。
IT関連企業で開発拠点としてウクライナに進出している企業もあります。
ウクライナそのものが戦場になってしまうとウクライナにおける操業がストップしてしまいますから、非常に深刻な状況になるでしょう。
また、最近、ヘイトスピーチなどでロシア人差別を助長するような差別的な発言が目立ちますが、絶対に、迎合するのはやめてください。ヘイトを煽っているのは差別主義者です。頭がおかしい人間です。まともに考えてください。ロシア国家・軍と、在日ロシア人・一般ロシア人(ロシア国内在住でも)はまったく関係がありません。ロシア人ヘイトを煽る行為は、いわれない差別やヘイト、憎悪、いじめを招きます。頭がおかしい彼らは、それがわかりません。
頭がおかしいので考えられないのです。絶対に、危険ですので、迎合しないでください!
そんな連中こそ憎み、正義のために叩き潰してください。
すこしでも世の中がよくなるように。まずは、ウクライナのために祈りましょう。
【経済制裁の特集】池上彰のニュースそうだったのか?経済制裁って具体的に何??簡単な説明でニュースで学ぶ。2021年4月16日(土)テレビ朝日放送分
ロシアのウクライナ侵攻。首都キーウ(キエフ)からはロシア軍は撤退したが、東部戦線で攻勢をかけるとの噂がある。では、〝経済制裁〟の具体的なやり方はどういうものなのか??
たとえばプロパガンダとはなにか? それは『大衆操作』『政治的な宣伝工作』つまり、〝ウソ宣伝〟である。「あいつらの報道はプロパガンダだ!」というのは「あいつらの報道は〝ウソ宣伝だ〟」……ということ。
では、経済制裁の目的は、①経済にダメージを与える②軍事行動の前段階③国際的なルールを守らせる。(戦争にならない程度に制裁を与えて、戦争侵略行為をやめさせる)
経済制裁で駄目なら、軍事介入もありうる。(だが、今回はNATO(北大西洋条約機構)軍がウクライナ戦争に本格的に軍事介入したら『第三次世界大戦』なのでそれはしない)
だが、国によって経済制裁の加減やルールは違う。そこは自主性で。例えば、ロシアへの経済制裁は、欧米が開始し、日本は自発的な参加にとどまっている。
経済制裁とは主に(①輸出入(小麦、石油、自動車など他)の禁止②資産凍結③銀行間取引(SWIFT・スウィフト)排除)
輸出入の禁止は、民間の企業間での取引だが、国が許可権を握っており、国が輸出入をストップさせることができる。(罰則は個人が最低五千万円以下・懲役最低五年間、企業では最低五億円以下の罰金)自分たちもダメージを受けるが、そもそも経済制裁とはそういうものだ。
(値上がりは)小麦(ロシアとウクライナで世界シェア4割→値上がり)
牛肉(牛乳)・豚肉・鶏肉などの値上がり(家畜のエサ(ウクライナのトウモロコシや小麦・世界シェア4位))そばの生産もロシア世界一→値上がり。そばは(そば粉)天ぷら(小麦)食料油(ひまわりからの食料油(菜種油)日本はひまわりからではないが菜種油を使っている(ウクライナ世界シェア一位))
マンションも値上がり。(木材はロシアが世界シェア三位)
〝ウッドショック〟(2021~2022年)
歯医者の銀歯(パラジウム)も値上がり(ロシアからの輸入・世界シェア四割)(診療報酬で保険適用だが、歯医者が値上げ分をかぶり、診療値上げに)
SWIFT(国際銀行間通信協会)からロシア排除………
(約200の国・地域1万1000以上が参加)
輸入できない。輸出できない。貿易できない。
(例えば、イランが〝核兵器開発〟?疑惑で2012年に経済制裁を受け、SWIFTから排除されて、経済的に困った。それで、2015年に核合意で〝核開発〟を中止にした)
(ロシアの場合は、SWIFTから排除されたが、まだ欧州(とくにドイツ)はロシアから天然ガスや石油などを買っているために、支払いのためにSWIFTの〝抜け穴〟がある状態だ)
資産凍結とは、海外の資産を凍結するもの。(やり方は〝国の手続き〟)
対象は、プーチン大統領、大物幹部、大金持ち(オリガルヒ)
オリガルヒは欧米に資産や高級クルーザーや別荘などを持っているから、経済的に困窮させ、プーチン大統領に「もうやめよう」といわせる目的。
プーチン大統領は2014年の『クリミア併合』のときのように、「経済制裁は受けるだろうが、SWIFT排除とかまではしないだろう?」と欧米の反応を甘く見た。
経済制裁でロシアはハイパーインフレ。経済危機。
いわばテレビ(情報)VS.冷蔵庫(生活・食糧)である。経済が深刻な悪化になれば、いくらプーチン大統領でも危ない。マスターカードやビザカードは国内ではまだ使えるが、今後は中国のユニオンペイになるかも。そうなればロシアは中国に頭があがらなくなる。
また、現在、ロシアのスマホのSNSが遅くなっているが、これは中国のように投稿をチェックして、自分たち(体制側)に不利な情報を削除しているからだ。
だが、プーチンの支持率は83%(国内・恐怖政治でホンネを言えず)。
また、経済制裁でキューバは六十年耐えてきたが、その反動で、経済が発展途上国以下の状態である。ナチスドイツが経済制裁を食らったときは、コーラが来なくなったので「ファンタ」が発明されたし、アウトバーン(高速道路)や庶民用自動車(ビーグル)も発明された。
経済制裁が悪い結果を生んだのが、帝国日本の、真珠湾攻撃とインドシナ侵攻(石油目的・当時の石油の輸入は中東はなくアメリカ。それを制裁でストップさせられて進退窮まった)。
経済制裁自体は紀元前432年にはあり、ペリクレス(経済制裁の父)が「女性が拉致された」として、貿易都市メガラに貿易禁止(経済制裁)を指示した、という。
ウクライナへの支援の募金も、「金を寄付しても戦争の〝人殺し〟のためにつかわれる」という懸念もわかるが。それは、寄付のやり方を工夫するべき。例えば、国境なき医師団とか赤十字や、ユニセフやUNHCR(国連難民高等弁務官)などである。
すべては知恵や戦略次第。考えて行動すれば「無力で何もできない」というようなことはない。
とりあえず、募金活動とか、国内SNSで〝ロシア人ヘイト〟をやっている輩を叩き潰す、とか。
まずは、ウクライナのために祈りましょう。平和のために祈りましょう。
臥竜 長尾景虎
19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加する。1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、1814年のウィーン会議後には神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。
次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。
国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。
しかし、聖地管理権をめぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、「南下政策」は頓挫する(東方問題)。
クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。
解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。
その一方対外政策で、清朝との間ではアイグン条約を1858年に、北京条約を1860年に締結、極東での南下政策を推進した。
さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。しかし、この運動は農民から広い支持を得られなかったことから、ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が暗殺されることになった。
アレクサンドル2世死去後、継承したアレクサンドル3世は無政府主義運動を徹底的に弾圧した。
その後、ニコライ2世の治世ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。
外交面では中央アジアを舞台にイギリスとグレート・ゲームを演じ、中央アジア進出が手詰まりに陥ると極東での「南下政策」を展開した。
極東方面では清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮半島への進出を企図したが、ロシアの南下を防止するべくイギリスと日英同盟を締結した日本と衝突する。
1904年に日露戦争が勃発した。
「血の日曜日事件」。
当初ロシア帝国は国力において圧倒的に優勢だったが、満州を舞台に行われた陸戦では奉天会戦の敗北で日本軍の奉天進出を許し、海上でも極東に派遣されたバルチック艦隊が日本海海戦で完全壊滅したため、制海権を握ることは出来なかった。
日露戦争さなかの1905年の1月22日の「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストが頻発し(ロシア第1革命)、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツァーリズム)」も著しく動揺した。
一方、日本側も経済的に戦争継続が困難になったため、両国が手詰まりに陥ったことを反映して翌1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約が締結され、満州の利権獲得を断念し、南樺太を日本に割譲することで戦争は終結した。
日露戦争の敗北により、事実上、極東での「南下政策」は失敗した。
日露戦争後、極東を諦めてバルカン半島に外交政策を転じたロシアはイギリス、フランスと三国協商を結び、ドイツ帝国と対立する。
汎スラヴ主義を掲げ、オーストリア・ハンガリー帝国と対峙するセルビアを支援することで、バルカン半島における影響力を維持しようとした。
第一次世界大戦とロシア革命
1914年にサラエヴォ事件が発生し第一次世界大戦が勃発すると、イギリス・フランスと共に三国協商を形成していたロシア帝国は連合国側に参戦した。
序盤にドイツへと侵攻するが、ロシア軍の動員力の遅さを見越したドイツ軍の智将ルーデンドルフにより仕掛けられたタンネンベルクの戦いで、ロシア軍は完敗した。
その後、1917年のブルシーロフ攻勢など局地的勝利を収めつつも、決定的勝利は得られず、いたずらに戦死者の数は増えるばかりであった。
皇帝ニコライ2世は前線を視察して、兵士の士気を維持しようと努めた。
が、宮廷では怪僧グレゴリー・ラスプーチンが治世を牛耳るなど政治の腐敗が続き、長引く戦争による疲弊によって、国民は政府に不満をつのらせていった。
2月革命
1917年の3月8日の「国際婦人デー」において、首都ペトログラードのヴィボルク地区の婦人たちが、「パンをよこせ」というデモを展開したことから、10日にはロシア全土でストライキが発生した。
「戦争反対」「専制君主制打倒」の声が高まりゼネストが起きた。
当局は11日には軍と警察による鎮圧を試み、流血をともないながらもひとまずは鎮圧にこぎつけた。
しかし、12日にはヴォイニ連隊からデモ隊鎮圧に反対する兵士の反乱が発生し、他の連隊にもその動きが波及し、6万人に及ぶ、離脱者が続出した。
彼らは労働者と合流し、3000人に政治犯の釈放を行った。首都ペトログラードは革命の渦中となり、メンシェヴィキのニコライ・チヘイゼが議長を務める「第1回ソビエト大会(執行委員は15人。うちボリシェヴィキは2人)」が開会された。
また国会でもこの混乱を受けて臨時会が開かれ、ゲオルギー・リヴォフ首相の就任が画策された。
13日には労働者と一層多くの兵士が革命側に合流したため、事実上ロシア政府軍は統制が取れなくなった。
一方、第一次世界大戦の陣頭指揮のためにペトログラード南西のプスコフにニコライ2世は首都での革命的騒擾に対して、軍を派遣し、事態の沈静を図った。
が、それが悉く失敗に終わり、回復が不可能であるとわかると、皇帝位を退くことを決定した。
皇嗣のアレクセイ皇太子は病弱で、皇弟ミハイル大公も即位を拒否。ここに304年続いたロマノフ朝は終焉した。
「皇帝退位」の報はすぐに、首都に伝えられ、新体制の建設がはじまった。
臨時政府がその日の内に成立。リヴォフが首相に就任し、ソビエト副議長で社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーが司法相に就任した。
10月革命
2月革命以後発足した体制は、臨時政府と労働者と兵士からなる「ソビエト」が並び立つ2重政府体制であった。
この年の4月にスウェーデンからペトログラードに戻ったウラジーミル・レーニンは「ソビエト権力の樹立」を目標とする「四月テーゼ」を発表した。
これがボリシェヴィキの方針となる。
しかし、多数派のメンシェヴィキと社会革命党は臨時政府との妥協と連立を目標とし、ボリシェヴィキを弾圧するようになった。
この年7月のデモでレフ・トロツキーは逮捕され、レーニンはフィンランドに亡命を余儀なくされた。
ところが、9月にはケレンスキーが最高司令官に任命したラーヴル・コルニーロフ将軍が反乱を起こしたことで、メンシェヴィキの求心力が低下し、ボリシェヴィキが勢力を盛り返してきた。
トロツキーは釈放後には早速ソヴィエト議長となり、10月25日には「軍事革命委員会」を設立した。
またレーニンも秘密裏に帰国し、23日には武装蜂起を高らかに主張したのであった。
このようなボリシェヴィキの動きに臨時政府は手をこまねいていたわけではなく、弾圧に乗り出した。
11月6日にはボリシェヴィキの印刷所を閉鎖した。
これにボリシェヴィキの「ソビエト軍事革命委員会」は憤激し、武装闘争によって政権獲得を決定した。
労働者を主体とする「赤衛隊」が首都の電話局や省庁などを占拠し、さらにクロンシュタットの水兵たちが、防護巡洋艦「アヴローラ」から臨時政府のある「冬宮」に対し、砲撃で威嚇した。
この日のうちに「第2回ソビエト大会」が開かれ、ソビエト政権の樹立が宣言された。翌日には冬宮は陥落し、ケレンスキーら閣僚の身柄が拘束された。
前日から続く「ソビエト大会」にもこの知らせはもたらされるが、レーニンは「平和に対する布告」「土地に対する布告」を上程し採択。盛会裏に大会は終了した。
世界初の社会主義国家「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」
1917年11月に憲法制定議会の選挙が行われたが、社会革命党など反対派が多数を占め、ボリシェヴィキは議席率で24.8%(得票率が24.0%)の少数派に留まったため、ボリシェヴィキは1918年1月の憲法制定議会開催の2日目に議会を武力で解散させ、以後、議会を開くことはなかった。
1918年1月23日から、「第3回労働者・兵士ソビエト大会」が同月31日まで開催された。この大会では勤労搾取人民の権利が宣言されるとともに、新国家が「社会主義の建設を目的とする労働者、兵士、農民のソビエト共和国である」ことが確認された。
また土地社会化基本法案が採択。さらに、ヨシフ・スターリンによってロシア共和国は「諸民族のソヴィエト共和国連邦である」ことが報告された。
開催から3日後の26日には農民ソビエト大会も合流し、参加者は1587名にのぼり、うち、ボリシェヴィキと社会革命党左派が大半を占めていた。
この大会によって世界初の社会主義国家ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の成立が宣言されたのである。
ロシア内戦
ボリシェヴィキ革命の成功に警戒した列強の各国により「チェコ兵の救出」を名目とした干渉戦争が行われ、それに連動する形で主に旧帝政軍を構成していた将校・貴族・自由主義者などを中心に組織された白軍との間で、ロシア内戦(1917年-1922年)が勃発した。
ボリシェヴィキ政府は赤衛隊を発展させた赤軍を創設し、白軍や干渉軍からソビエトの防衛を行った。
レフ・トロツキー、ミハイル・トハチェフスキーなど優秀な将校により軍の規律を維持させる一方、恐怖政治を敷き秘密警察チェーカーにより赤色テロを行い、白軍の一派と見なした帝政時代の貴族・地主・軍人・コサック兵を裁判なしで即座に大量に殺害した。
退位後、監禁されていたニコライ2世とその家族も、1918年7月17日に、レーニンの命令を受けたチェーカーの処刑隊により、裁判なしに全員銃殺された。
また、革命派の中のメンシェヴィキや社会革命党などの他派をソヴィエトから完全に追放・逮捕し、裁判なしに殺害するとともに、反対するペトログラードの労働者や、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人財産の所有権などを要求したクロンシュタットの水兵も容赦なく武力鎮圧して大量に銃殺した。
また、戦時共産主義を標榜したボリシェヴィキ政府は内戦時に、全ての企業の国有化を行い、企業家や地主の大部分を殺害・追放した。
農民も余剰をすべて徴発されたため、食糧を隠したり蜂起したりして抵抗したが、政府は彼らを「暴徒」とみなして弾圧し、女性と子供、老人を含む村民全員を銃殺することもあった。
これらの弾圧により、「労働者、兵士、農民の政府」が、帝政以上に暴力的に労働者や農民を抑圧する体制であることが明らかとなった。
さらに、ロシア正教に対しても弾圧を行い、教会破壊・教会財産没収だけでなく、ロシア正教聖職者数万人を殺害した。
極東では、日本軍がイルクーツクにまで進出し、日本軍を恐れたボリシェヴィキは緩衝国家として極東共和国を建国した。
シベリア出兵に続き、ヨーロッパでも1919年2月にイギリスやフランスの支援を受けた新生ポーランドとの間にポーランド・ソビエト戦争が勃発した。
相次ぐ革命への干渉に対し、ボリシェヴィキも外交攻勢をかけ、1919年3月には第三インターナショナル(コミンテルン)を結成して各国の共産党を糾合し、世界革命を目指し、3月中にはハンガリーにまで革命が波及し、ハンガリー・ソビエト共和国が建国された。
が、既に1月にはローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトらによるスパルタクス団の蜂起が失敗しており、持ち直すことなくボリシェヴィキが期待をかけていたドイツ革命が失敗に終わる。
と、革命ロシアの国際的孤立は解決されないまま緩衝戦争の和平が結ばれた。
この内戦に勝利することより、ボリシェヴィキはウクライナやカフカスの帝政派やアナーキストを平定し、同時に他派の存在を許さぬ、一党独裁体制を確立した。
内戦により残されたのは荒廃した国土と破綻した経済であった。
工業生産は大戦前の7分の1、穀物生産は5分の1へと激減した。1920年〜1921年には500万人が餓死しており、この死者はレーニンの計画的な飢餓による市場経済廃絶の犠牲者とする見方がある。(ロシア飢饉 (1921年-1922年))
ソビエト連邦
1922年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(1936年に解体)が合同し、ボリシェヴィキの一党独裁支配を国是とするソビエト社会主義共和国連邦が結成された。
ソビエト連邦は一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝からボリシェヴィキ(ソ連共産党)に代わっただけで、政治や言論の自由についてはロマノフ朝以上に抑圧された非民主的な一党独裁国家であった。
レーニンの後継者のスターリンは帝政時代とは比較にならない程の国民を粛清や虐殺し、飢餓に追いやり、さらに個人崇拝をすすめ、この恐怖の独裁政治は30年近く続いた。
スターリンを描いたプロパガンダ・ポスター。スターリンは農業集団化を徹底して大飢饉を発生させ、スターリン主義の下で「トロツキスト」や反対派の粛清を続けたが、一方でソビエト連邦の重工業化を達成した。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵レフ・トロツキーの国外追放を皮切りに、反対派を徹底的に排除して一国社会主義路線を確立した。
1928年には第1次五カ年計画(1928〜32)に着手し、重工業に重点をおく工業化と農業の集団化を推し進めた。
農業の分野では、集団化と機械化を急速に進め、コルホーズ(集団農場、土地・農具などを共有して共同経営を行い、農民は労働量に応じて利益の分配を受ける形態)やソフホーズ(国営農場、土地・農具などは国有で、ここで働く者は労働者として賃金が支給される形態)の建設が進められた。
ウクライナにおけるホロドモールの犠牲者。
農業の集団化では、クラーク(富農と訳されるが実態は自営農民の総称)を階級敵として絶滅の対象とし、クラークを処刑や強制収容所送りにして集団化を強行した。
この際の犠牲者数は100万人を超えるとも言われる。
また、無理な農業集団化の強行により、1932年〜1933年には大飢饉(ホロドモール)が起こり、500万とも2000万人ともいわれる餓死者が出た(ホロドモール)。
特にウクライナにおける飢餓は甚だしく、400万人から1450万人の餓死者が出た。2006年、ウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧のために意図してなされたものであるという説もある。
スターリンは1936年にソビエト社会主義共和国連邦憲法、いわゆるスターリン憲法を制定した。
この憲法はソ連型社会主義の原則を成文化したもので、生産手段の公有・生存権の保障・民族の平等・18歳以上の男女普通選挙などが規定された典型的な社会主義憲法であった。
が、候補者推薦制や共産党の一党独裁は変わらず、憲法の中の人権や民主主義などに関する民主的な内容は実際には全く無視された。
また、この時期に反対派のレッテルを貼られた人々の大量粛清が行われた。
スターリンは1936年から1938年をピークとする大粛清を行い、処刑や強制収容所(ラーゲリ)での過酷な労働などによって、数百万人以上の人が粛清された。
大粛清の犠牲者数には諸説があるが、裁判により処刑されたものは約100万人、強制収容所や農業集団化により死亡した人数は一般的には約2000万人と言われる。
ソビエト連邦の崩壊後の1997年の文書の公開により少なくとも約1260万人が殺害されたことを現在のロシア連邦政府が公式に認めた。
また、大粛清ではロシア内戦で大功があった赤軍の高級将校の大部分、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。
1930年代に世界恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高度な経済成長を達成した。
が、その実質は政治犯や思想犯を中心とした強制労働による事実上の奴隷制度に支えられたものであり、その富は共産党の上層部に集中して配分された(共産主義)。
第二次世界大戦
ソ連は第二次世界大戦においては枢軸国であるナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を、大日本帝国と日ソ中立条約を当初結んでいた。
が、ドイツが1941年に侵略を開始すると、一転連合国側について参戦することになった。
ドイツではアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭し、互いの利害によって締結された独ソ不可侵条約の秘密協定に沿って、1939年のドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分のガリツィアなどを占領した。
ポーランド占領時(1939年9月)、ソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)が捕虜にしたポーランドの軍人・将校・官僚など2万5千人をカチンの森や収容所にて、無裁判で銃殺したことが後に明らかにされている(カティンの森事件)。
またスターリンはモロトフ外相をして、ソ連邦内のバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答をまたずに三国に進駐した。
さらに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送還にして、ついにこれを併合した。
同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。
さらにレニングラード防衛を理由に隣国のフィンランドを侵略して冬戦争を引き起こし、カレリア地方を併合した。
しかし、1941年にはドイツがバルバロッサ作戦を発動してソ連に侵攻し、いわゆる独ソ戦(「大祖国戦争」)が開始されると、連合国側として第二次世界大戦に参戦することになった。
ソビエト軍は緒戦に大敗し、一時は首都モスクワにドイツ軍が進撃する場面もあった。
が、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のおかげもあり、レニングラード包囲戦やスターリングラード攻防戦に勝利し、ポーランドなどの東ヨーロッパのドイツ軍を追撃して、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ、戦勝国となった。
国土深くまで攻め入られたドイツとの戦争は苛烈なものとなり、ソビエト軍の軍人の死者は1000万を越え、民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡したとされる。
これは第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多い軍人・民間人の死傷者の総計と言われている。
ヤルタ会談に臨む連合国の指導者。
日ソ中立条約を結んでいた日本に対しては、ヤルタ会談における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告し、千島列島や南樺太、満州に侵攻した。
この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも拡大する目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続けた。満州・南樺太・朝鮮半島に在住する日本人女性は流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦された。
また、日本軍の約110万人を捕虜としてシベリアに抑留し、約34万人が死亡したとの推定もある(シベリア抑留)。
第二次世界大戦におけるソ連赤軍による民間人の女性の強姦は歴史史上最悪といわれるほどの被害者を出し、ドイツ、日本、ポーランド、ハンガリーなどの諸国を合計して200万人と推定されている。
1945年8月14日には中ソ友好同盟条約を締結する。
第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。
また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。
更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。
極東では日本の領土であった南樺太および千島列島を占領し、領有を宣言した。
さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
冷戦
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国との対立が激化し、ソ連は東ヨーロッパの各国(ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニア)にソ連に従属する各国の共産党(共産主義政党)が独裁支配する、社会主義国を建設し、これらを衛星国家とした。
抵抗の強かったチェコスロヴァキアでは非共産党系の政治家を暗殺、処刑するなどして、共産主義政党の一党独裁を確立した。
ポーランドも、ソ連の圧力によりロンドン亡命政府系の政治家は逮捕されたり、亡命に追いやられ、1948年にはポーランド統一労働者党(共産党)によるソ連式の一党独裁、ソ連型社会主義体制へ移行した。
1950年には中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。
さらに1955年にはワルシャワ条約機構を東欧の東側諸国と結成した。
1956年にはニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ったため、ソ連に抑圧されていた東欧諸国に動揺が走った。
が、ハンガリー動乱、ポーランド暴動などの自由主義運動を武力で鎮圧した。
ハンガリー動乱では、ソ連はハンガリーの民衆2万人をソ連軍を投入して殺害し、ナジ・イムレ首相などのハンガリー政府閣僚を含む約1200人を処刑した。
1968年のチェコスロバキアの自由主義運動「プラハの春」も、ソ連が率いるワルシャワ条約機構軍を投入して弾圧した。
1962年にはキューバ危機が起き、米ソ戦争の危機が高まった。
が、これを回避し、翌年にはケネディ大統領の間で、部分的核実験停止条約が結ばれた。フルシチョフ失脚後のコスイギン、ブレジネフの時代には中ソ紛争が勃発、さらにアフガニスタン侵攻などの事件が起きた。
米ソ関係は緊張状態にあり、1980年のモスクワオリンピックには西側諸国がボイコットとし、次の1984年のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国がボイコットした。
また、ロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と批判し、ソ連と軍拡競争を展開した。
ソ連はアメリカなどNATO加盟国との冷戦や計画経済の行き詰まりにより次第に疲弊し、東欧革命による東欧諸国の民主化やソ連からの離反も始まった。
ゴルバチョフの登場とペレストロイカ
こうした中、1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカ政策を進めアフガニスタンからの撤退を決定する。
マルタ会談においてジョージ・ブッシュ大統領との会談で冷戦の終結を宣言した。また、グラスノスチにより非公開とされていた政府文書の内部公開も始まり、それまで明かされなかったレーニン時代、スターリン時代の情報や共産貴族の生活、軍事面における機密などが公に知られることになった。
しかしこうした改革は、ソ連内部の統制の緩みを生み、ソ連邦を構成する各共和国では独立の気運が高まった。
更にチェルノブイリ原子力発電所事故における対応の遅れは、事故の被害により多くの批判を生んだ。
冷戦の終焉とソ連の崩壊
1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した。
このソビエト連邦の崩壊により前身のボリシェヴィキ時代を含めると1917年以来74年間続いた、ソ連共産党の一党独裁による社会主義体制が名実共に崩壊した。
独立国家共同体の成立
ロシア連邦
エリツィン政権
第二次戦略兵器削減条約(STARTII)に調印するボリス・エリツィンとジョージ・ブッシュ。
ボリス・エリツィンは、1990年にロシア共和国大統領になり、ソビエト連邦の崩壊後も引き続いてロシア連邦の大統領を務めた。
しかし、エリツィン時代は深刻な物不足と拙速な市場経済化による貧富の差の劇的な拡大、政治の腐敗など、多難な時代であった。
ストリートチルドレンの激増、ロシアン・マフィアの跋扈、薬物汚染など、それは、かつて世界を二分し、アメリカと互角に渡り合えると思われていた超大国の面影も感じさせない惨憺たるものであった。
1991年にソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が成立すると、エリツィンの方針に伴い社会主義から資本主義へと国家体制の移行が進められた。
その過程で莫大な富を手にしたオリガルヒと呼ばれる新興財閥が多数誕生した。
しかし、資本主義化はハイパーインフレーションを引き起こし、国民は貧困と物不足にあえいだ。
1993年の下院選挙では民族主義とロシア帝国復活を掲げる極右政党「ロシア自由民主党」が第一党に躍進した。
しかし、自由民主党はすぐに凋落し、共産主義の復活を掲げる「ロシア連邦共産党」に第一党の地位を奪われた。
1996年の大統領選挙でロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補はエリツィンに肉薄するものの一歩及ばず、エリツィンの再選を許した。
エリツィン再選にはオリガルヒ達の力によるものが大きかった。そして、エリツィン政権二期目では、オリガルヒの発言力が増し、政治腐敗が蔓延していった。1998年にはロシア財政危機が発生。国内は混乱した。
1999年末日、エリツィンは電撃的に大統領辞任を表明。
大統領代行にウラジーミル・プーチンが就任した。
ここに、ロシア連邦民にとっては多難であったエリツィン時代は幕を閉じた。
第一次プーチン政権
元KGBのウラジーミル・プーチンは、2000年3月の大統領選挙に勝利し、正式に大統領に就任した。
ロシアは、15の共和国に分離した後、チェチェン独立派武装勢力によるテロが起こるなど治安が悪化しチェチェン紛争や、他国との領土問題などが絶えない。
プーチンは、「強いロシア」を標榜し中央集権化及び法による独裁を強靱に進めた。また、国家資産を半ば私物化していたオリガルヒの制圧に乗り出し、ロシアの国益にかなう企業のみを国有化ないし政府の人間を企業の役員に加えることで国のコントロール下に置いた。
こうした手法は強権的と欧米から批判される一方でロシア国民からは広く支持された。また、プーチン時代、ロシアの持つ豊富な天然資源が功を奏し、年々高い経済成長を遂げ、エリツィン時代に比べ貧困も半減した。
一方、プーチン時代は反政府的なジャーナリストたちが不審な死を遂げるなど、政権の関与が疑われる事件も多数発生した。
しかしながら、プーチンの強力なリーダーシップを国民の多くは支持している。プーチンは登場当初はほとんど無名の存在であった。
が、時を経るにつれて国民の人気を獲得した。プーチンは2008年に任期満了で退任し、後継に側近のドミートリー・メドヴェージェフを指名した。
プーチン自身は引き続き首相として政界に止まり最高権力者の座を維持し、2012年の大統領選より大統領任期を6年とする憲法改正案も議会の賛成多数を得て承認され、自身の再登板の足がかりを得ている。
メドベージェフ政権
2008年3月の大統領選挙で大勝し、正式に大統領となったドミートリー・メドヴェージェフはプーチン路線の継承を表明。
また、メドヴェージェフ大統領はプーチンを首相に指名し、メドヴェージェフ大統領・プーチンを首相による双頭体制となった。
国家による経済の統制を引き続き行い、また、「強いロシア」の復活を目指し邁進するといったことである。
2008年8月にはかねてから対立関係にあったグルジアとの間で武力衝突が発生した(南オセチア紛争)。この紛争で、プーチン時代からかねてより悪化していたアメリカとの関係が更に悪化し、「新冷戦」と評するメディアも表れた。
メドヴェージェフ自身、「再び冷戦が始まっても何も怖いものは無い」とアメリカとの対決姿勢を表明している。
そして、南オセチア紛争から程無くして世界の景気が急速に悪化、ロシアの経済成長を支えていた外国資本が一気に去り、オリガルヒも没落するなど、ロシア経済は大きな打撃を受けた。
メドヴェージェフは「景気悪化はアメリカによる一極支配が原因」とアメリカを非難し、更にプーチン首相と連携して不況を乗り切る構えを見せた。
そのために、国家に有益なオリガルヒのみを救済、国のコントロール化に置く政策を実行した。
しかし、メドベージェフ政権末期からロシア国内で体制に対する反発が強まり始め、2011年の下院選で与党「統一ロシア」は大きく議席を減らす。2012年の大統領選ではプーチンの再登板にこぎつけるものの、多くの抗議運動にあう結果となった。
メドベージェフは2012年で大統領の座を再びプーチンに譲り、自身は首相になった。
第二次プーチン政権
プーチンは他候補に大差をつけて勝利し、再び大統領の座に就いた。
だが、国内では政治体制に対する反感がくすぶり、プーチンの人気に陰りが見えていた。「プーチンなきロシア」を叫ぶ抗議運動も頻繁におき始めていた。
しかし、プーチンは自身に対する反対デモなどには重罰を科す姿勢で臨んでいる(ボナパルティズム)。地方選挙などでは統一ロシアは苦戦が続き、2011年の下院選で実は第一党となっていたのはロシア連邦共産党であり、現体制は大規模な不正の上に成り立っているとのシンクタンクの調査報告もあった。
だが、政権側も賛否両論渦巻く中、国営メディアの再編(報道機関から事実上の宣伝機関化)、不祥事続きで評判が下落している「統一ロシア」に代わる支持母体「全ロシア人民戦線」の旗揚げなど、プーチン大統領の権力を強化する施策を矢継早に行い、また、反体制活動家を厳しく取り締まり続けた。
そして、プーチンは2014年3月に新たな策を打ち出した。
ウクライナの政変に伴いクリミア自治共和国に軍事介入し、同国を支配下に治めたのだ。この強硬姿勢によって、長期政権に飽きて低下気味だったロシア国内におけるプーチン大統領の支持率は上昇した。
しかし、一連の騒動により、プーチン政権に対する国内の支持上昇とは裏腹に、欧米諸国との関係がかつてないほどに悪化し、結果として欧米諸国による経済的制裁や、クリミア併合に伴う莫大なコスト負担などでロシアの不安要因となり、短期的にはいい効果を上げても、長い目で見れば逆にロシアの現体制の安泰には繋がらないという見方も出ている。
一方、プーチン政権は国内の野党勢力の懐柔を進めており、例えば、2014年11月には、ウクライナ内戦により誕生した「国家」であるノヴォロシア人民共和国連邦(国際的な承認はない)を支持する大規模な合同集会を、ロシア国会に議席を有する全ての政党の関係者を集めて行った。
ロシアは、ソビエト連邦の崩壊という大事件ののち、脆弱で腐敗した民主主義時代を経て、新たな大国へと変貌を遂げた。
2014年11月には、ドイツのベルリンで行われた「ベルリンの壁崩壊25周年記念式典」において、ソ連最後の最高指導者であったミハイル・ゴルバチョフが「世界は新冷戦の瀬戸際にある。既に新冷戦が始まっているという見方さえ出ている」と、悪化する欧米とロシアの関係に危機感をあらわにした。
ウクライナとの紛争以降、ロシアからの資本逃避が一気に進み、また、経済制裁の影響も受けて国内経済は厳しい状況になっている。
が、現政権は欧米との対抗心や愛国心を鼓舞し、貧困を乗り切ろうとしている。そのため、今でも欧米諸国との間で水面下で争いが続いている。
(ミハイル・ゴルバチョフソ連元大統領は2022年8月30日、モスクワの病院で死去した(享年91歳))
第一章 混沌・カオス
確かにそれは、いやな時代だった。
一九三一年の飢饉のさなか、ミハエル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは濁った川のそばの小さな家で生まれた。スタブロポリのステップ地帯の、うら錆びれた片田舎にだ。 飢饉は天災ではなく、スターリンのせいだった。
一九二四年のレーニンの死後、スターリン(鋼鉄の人)ことジェガシビリは着々と自らの独裁支配体制の基礎を築いていった。その地位は、三十年ころにはほぼ固まった。
が、それと同時ころに反スターリン派に対する抹殺が始まった。まずは反スターリン派の主、ブハーリン、ルイコフ、カーメネフらが餌食となる。
しかも、その抹殺の対象は、党や軍の上層部には限らなかった。
多くの知識人、芸術家、一般市民、兵士、農民までもが、犠牲となっていった。秘密警察は彼の私物となって猛威をふるい、密告が奨励され「人民の敵」の烙印が押されると、その家族や友人までもが厳しい追及をうけた。しかも、抹殺された2000万人に及ぶ人々は、ほとんど無実の罪だったという。
そんな鬼畜が、集団農業化政策に抵抗する農民を鎮圧しようとして起こした人為的な飢饉によって、一九三三年秋から一九三四春までにゴルバチョフの故郷の村は人口が三分の二に減ってしまったという。食料も完全に尽きて、キビの薄いスープが命の綱というありさまで、ある村では一歳から二歳の幼児がすべて一人残らずに餓死してしまった。
だが、そんな時代に育ったからこそ、あのサバイバル本能と行動的・合理的なゴルバチョフが「世界の檜舞台」に現れる結果となった、ともいえる。
ミーシャ(ミハイルの愛称)の強い生命力は家系のせいでもあったかも知れない。彼の先祖は、ウクライナのコサックだった。先祖は、地主のもとを逃れ、自由をもとめてウクライナから、コーカサスとして知られるスタプロポリ地域の南端の未開拓地に定着した。 広大なロシアのステップ地帯、大草原に蜃気楼がきらきらと揺らめき、鳥がひくく舞い飛び、夕方には雲がうっすらと赤く輝いて地平線の彼方へ沈んでゆく。
この土地に移住してきた人々は、いまのソ連ではめったに見れない、働くことが大好きでフロンティア精神が旺盛な人々であり、皆、豊かな生活をしたいという熱意にあふれていた。それはいわば、世界各地からアメリカに移住してきた活動的な人々と同じと言える。(ちなみに、コサックとはトルコからにげてきた自由な人々という意味で、彼らがやってきた天然鉱泉(つまり温泉)で有名なスタブロポリは、のちに特権階級が訪れる保養地となった)
ゴルバチョフの曽祖父がプリボリノエと名づけられた村に入植したのは、一八四O年代のことである。モスクワから汽車で丸一日かかるこのこぢんまりした村は、小さな農村のたたずまいが今も残っている。ゴルバチョフの母親が現在住む家は、一九六O年代に建てられたもので、息子がこの家に専用電話回線を引かせ、防犯設備を取り付けさせた。泥と藁を混ぜた小さな小さな生家は、イエゴルリク川という小川のそばにうずくまるように建っていたが、いまはもうない。
「息子とはもう三年以上もあってない」と母親は愚痴る(故人)。彼女の名は、マリア・パンテレイエブナ。聖母の名を持つ。
だけど、心は別に聖母でも何でもない。というより、ロシアの多く農婦にはめずらしく、なんでも自分でして、自分の意見をはっきり述べる、強い女性だ。教育レベルは低かったが、この強い母親がゴルバチョフにかなり大きな影響を与えた。この母親のイメージが、のちにモスクワ大学で出会うライサ・マクシモブナ・ティトレンコ(ゴルバチョフ夫人・故人)とオーバーラップしたのだ。ただ、母親との違いは、ライサにはモスクワ大学哲学科博士号をもつほど教養があり、とても美しかったことだった。そういったことでいえば、ゴルバチョフはマザー・コンプレックスであるといえる。
だが、それは全然恥ずかしいことではない。
かのウィストン・チャーチルも、リンカーンも、ロナルド・レーガンもそうだったからだ。それにしても、数十年前までは、かの偉大なる大人物たちよりも、ゴルバチョフのほうがかなり偉大にみえたものだ。現役をしりぞいたいまでは評価できないが、それまでは本当にすごかったと思う。
腐敗したブレジネフ時代を生き延び、権力の階段を登るためにひたすら自分を殺し、屈辱に耐え、オベッカを使った。これは並たいていの精神力では出来ないことだ。
そしていざ権力を握ると「ペレストロイカ」を打ちだし、外交で大業を成した。内政より外交にまず焦点をおいたところが、いままでのソ連の指導者との違いであり、彼の偉大なところであった。国内からの改革では何もならない、ということを知っていたのだろう。
それに、改革には金が必要だ。いままでのように軍備拡張を続け、NATOと対峙していれば金がかかる一方で、どうしようもない。だからこそ、軍拡ゲームに白旗を挙げて西側から援助をうけたのだ。彼が外交に力を入れたのは、国内改革を推進するためだった。
まぁ、理由はどうあれ、アメリカとの対峙をやめたことはとても大きな意味をもっていた。あのままだったら、確実に「世界の終り」が来ていたことだろう。その脅威から開放され、新しい秩序を求める道が開かれた。それが冷戦終結の意味だった。
独裁と血の弾圧
「私は生涯で最も短い、つらい演説を行います。私は、ふたつのことを申し上げたい。まず、昨日、何人かの議員が、ソ連軍の、ペルシャ湾派遣を禁止する宣言が必要だと提案なさいました。しかも、それは一回や二回ではありませんでした。これは我々の忍耐を越えるものです。私は国内国外で合わせて10回以上も、このことについての我が国の政策を説明しています。それは当然、十分考え抜かれたもので、文明国間の国際関係に適したものです。我が国はイラクと友好関係を持っています。しかし、イラクが行った守りの弱い国、クウェートへの侵略に対しては妥協するわけにはいきません。もし妥協すれば新思考外交を確立するため、ここ数年なされてきた我々の努力は帳消しになってしまいます。」
……続く。