小説
吉田松陰
よしだしょういん ~the last samurai ~ ~開国せよ! 桂、久坂、高杉の師・松陰の「日本再生論」。 「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
Washu Midorikawa
緑川 鷲羽
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ
黒船来航…
幕末、吉田松陰は長州藩(山口県)で塾を開いていた。有名な松下村塾である。優秀な人材を輩出した。桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文…。松陰は米国にいきたかった。先進国にいって知識を獲たいと思った。彼にとって当時の日本はいびつにみえた。 彼は幕府を批判していく。だが彼は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
彼の前に立ちはだかったのは幕府の井伊直弼大老である。安政の大獄ということをやらかし、長州藩の開国派・吉田松陰は処刑…。が、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
吉田松陰の意思を継いだものたちが新政府の”知恵袋”となり一生を終えた。おわり
「やあ! 桂くん! 桂くん!」
ある昼頃、のちの木戸考充・桂小五郎が長州藩(山口県)の萩城下町を歩いていると、 「やぁ! 桂くん!」と声をかける男がいた。吉田松陰だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。もう中年だが、ひとあたりのよさそうな素朴な男だった。
「先生!」桂は続けた。「どこへいかれるのです? 先生」
「……それはぼくがきいておる」と吉田は胸を張った。
(吉田松陰は自分のことを「ぼく」といったという。「下僕の学問生」という意味である)
「そうですね。私は城にいって殿様にあうのです」
「殿様?」と吉田。
桂は無視して「それより、先生……本当に異国へいかれるおつもりですか?」
「異国? もちろんだとも! 異国の船にのせてもらってだな……異文化交流?」
「異文化交流ですか? どうやって?」
「船だな。外人船」
吉田はいかにも誇らしげにいった。「世界をみてみるのだ!」
「世界? しかし幕府の井伊大老らは壤夷とか鎖国とか申しおいでで危険です」
「桂くんは世界をみたくはないのかね?」
「いえ。当然みてみたいです」桂は頷いた。是非、みてみたかった。
松陰は「よし! 今からぼくがみせるからついてきなされ」といった。
「それより、久坂くんや高杉くんたちを連れてきたまえよ」
桂たちは松下村塾屋敷で、師匠に教えられていた。松陰は痩せた体で、立派な服をきたキツネ目の男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
なかなかの知識人で、外国人の船に乗りアメリカを視察しようと試みてみるつもりだという。それにはまず江戸にいかねばならない。
松陰は長州よりさらに東の奥州まで旅したことがあり、日本の現状をよく理解していた。 そんな松陰には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」馬面の高杉は彼に茶を煎じて出した。
高杉たちは緊張して座ったままだった。
そんなふたりを和ませようとしたのか、松陰は「このひと(坂本龍馬のこと)ぼくを殺そうと押しかけたくせに……ぼくに感化されたのです」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは坂本龍馬ですきに」
龍馬は下手に出た。「一度、長州をみたががったがです」
「そうですか」松陰は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」ときいてきた。
「……なるようになると思いますきに」龍馬はいつもそれだった。
「なるように?」松陰は笑った。「ぼくにいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国です。軍艦も足りない、銃も大砲もたりない……このままでは外国に負けて植民地です」
高杉は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」松陰は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃない。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」龍馬や桂は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことだ」松陰は強くいった。
龍馬は「徳川家康みたいにきにですか?」と問うた。
松陰は笑って「まぁ。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンですな」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳きにか?」
松陰の飄々さに腹が立ってきた龍馬が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」松陰はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃない。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれです」
「そうだ。メリケンすごいだろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
今まで黙っていた久坂が強くいった。
龍馬は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらんきにか?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいない。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしい」吉田松陰はいった。
そして、「これ、なんだかわかる?」と地球儀をもって龍馬にやりと尋ねた。
龍馬の目は点になった。
「これが世界。ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうか? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるのだ」
彼に呼応するように高杉や桂もいった。「今は世界だ! 日本は世界に出るんぜ!」
吉田松陰は満足した顔で、お茶を呑んだ。
「……高杉くんは上海にいった帰りでね。どうだい? 例の…」
高杉晋作は笑って、
「先生はどどいつを知らない」といい歌いだした。
♪三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい~
龍馬はにやにや笑って、「それはいいきに! いいきに! 世界ぜよ! 船ぜよ!」と笑った。
1 立志
吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。
松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたい!」
と母親につげた。
すると母親は「馬鹿らしい」と笑った。
松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
星がきれいだった。
……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
松陰は参禅を二十三、四歳までをやっていた。
もともと彼が蘭学を学んだのは師匠の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であったという。
客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。 松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
吉田松陰は「外国にいきたい!」
という欲望をおさえきれなくなった。
そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「吉田松陰」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
それこそ「木を見て森を見ず論」である。
「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
吉田松陰
よしだしょういん ~the last samurai ~ ~開国せよ! 桂、久坂、高杉の師・松陰の「日本再生論」。 「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
Washu Midorikawa
緑川 鷲羽
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ
黒船来航…
幕末、吉田松陰は長州藩(山口県)で塾を開いていた。有名な松下村塾である。優秀な人材を輩出した。桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文…。松陰は米国にいきたかった。先進国にいって知識を獲たいと思った。彼にとって当時の日本はいびつにみえた。 彼は幕府を批判していく。だが彼は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
彼の前に立ちはだかったのは幕府の井伊直弼大老である。安政の大獄ということをやらかし、長州藩の開国派・吉田松陰は処刑…。が、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
吉田松陰の意思を継いだものたちが新政府の”知恵袋”となり一生を終えた。おわり
「やあ! 桂くん! 桂くん!」
ある昼頃、のちの木戸考充・桂小五郎が長州藩(山口県)の萩城下町を歩いていると、 「やぁ! 桂くん!」と声をかける男がいた。吉田松陰だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。もう中年だが、ひとあたりのよさそうな素朴な男だった。
「先生!」桂は続けた。「どこへいかれるのです? 先生」
「……それはぼくがきいておる」と吉田は胸を張った。
(吉田松陰は自分のことを「ぼく」といったという。「下僕の学問生」という意味である)
「そうですね。私は城にいって殿様にあうのです」
「殿様?」と吉田。
桂は無視して「それより、先生……本当に異国へいかれるおつもりですか?」
「異国? もちろんだとも! 異国の船にのせてもらってだな……異文化交流?」
「異文化交流ですか? どうやって?」
「船だな。外人船」
吉田はいかにも誇らしげにいった。「世界をみてみるのだ!」
「世界? しかし幕府の井伊大老らは壤夷とか鎖国とか申しおいでで危険です」
「桂くんは世界をみたくはないのかね?」
「いえ。当然みてみたいです」桂は頷いた。是非、みてみたかった。
松陰は「よし! 今からぼくがみせるからついてきなされ」といった。
「それより、久坂くんや高杉くんたちを連れてきたまえよ」
桂たちは松下村塾屋敷で、師匠に教えられていた。松陰は痩せた体で、立派な服をきたキツネ目の男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
なかなかの知識人で、外国人の船に乗りアメリカを視察しようと試みてみるつもりだという。それにはまず江戸にいかねばならない。
松陰は長州よりさらに東の奥州まで旅したことがあり、日本の現状をよく理解していた。 そんな松陰には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」馬面の高杉は彼に茶を煎じて出した。
高杉たちは緊張して座ったままだった。
そんなふたりを和ませようとしたのか、松陰は「このひと(坂本龍馬のこと)ぼくを殺そうと押しかけたくせに……ぼくに感化されたのです」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは坂本龍馬ですきに」
龍馬は下手に出た。「一度、長州をみたががったがです」
「そうですか」松陰は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」ときいてきた。
「……なるようになると思いますきに」龍馬はいつもそれだった。
「なるように?」松陰は笑った。「ぼくにいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国です。軍艦も足りない、銃も大砲もたりない……このままでは外国に負けて植民地です」
高杉は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」松陰は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃない。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」龍馬や桂は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことだ」松陰は強くいった。
龍馬は「徳川家康みたいにきにですか?」と問うた。
松陰は笑って「まぁ。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンですな」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳きにか?」
松陰の飄々さに腹が立ってきた龍馬が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」松陰はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃない。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれです」
「そうだ。メリケンすごいだろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
今まで黙っていた久坂が強くいった。
龍馬は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらんきにか?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいない。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしい」吉田松陰はいった。
そして、「これ、なんだかわかる?」と地球儀をもって龍馬にやりと尋ねた。
龍馬の目は点になった。
「これが世界。ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうか? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるのだ」
彼に呼応するように高杉や桂もいった。「今は世界だ! 日本は世界に出るんぜ!」
吉田松陰は満足した顔で、お茶を呑んだ。
「……高杉くんは上海にいった帰りでね。どうだい? 例の…」
高杉晋作は笑って、
「先生はどどいつを知らない」といい歌いだした。
♪三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい~
龍馬はにやにや笑って、「それはいいきに! いいきに! 世界ぜよ! 船ぜよ!」と笑った。
1 立志
吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。
松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたい!」
と母親につげた。
すると母親は「馬鹿らしい」と笑った。
松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
星がきれいだった。
……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
松陰は参禅を二十三、四歳までをやっていた。
もともと彼が蘭学を学んだのは師匠の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であったという。
客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。 松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
吉田松陰は「外国にいきたい!」
という欲望をおさえきれなくなった。
そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「吉田松陰」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
それこそ「木を見て森を見ず論」である。
「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。