ニュー・ヴィジョン
きらめくような天気だった。太陽がきらきら光り、うっすらと雲が流れる。JFKはある大学の演壇に立ち、淡くしんと光るような大学を見上げた。そして、さわやかな空気を吸って、心臓が二回打ってから、JFKは新しいヴィジョンを語った。
「ジョン・メイスフィールド氏の言葉に”この地上において大学ほど美しいものはない”ということばがある。
彼の言葉は今日でも真実である。しかし、彼は建物やキャンパスの緑、蔦でおおわれた塀などの美しさを語っていたのではない。彼が大学の美をほめたたえたのは、彼も語っているように、大学とは”無知を憎む人間が知識を得るために努力し、真実を見たものがそれを他に知らしめようと努力する場所”だからだ。
故に私はこの場と時を借りて往々にして無知が支配し、真実が押し潰されているある事柄について語りたい。それはこの地上で最も重要な事柄ー世界平和である。
どのような平和を私は言っているのか?どのような平和をわれわれは探求しているのか? それはアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナではない。
そして、墓場の平和でもなければ、奴隷の安全性でもない。私がいっているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせるような平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立てさせ得る平和である。
それはアメリカ人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、われわれの時代だけでなくすべての時代の平和である。
今日、何千億ドルという金が軍事費に使われ、それによって平和が維持されている。しかし、核兵器の無駄な蓄積、破壊するだけで何ものも創造しない核兵器の蓄積だけが平和を保障する唯一の、しかも最も効果的な方法なのだろうか。決してそうではないはずだ。 平和とは理性的な人間の理性的なゴールであらねばならない。平和の追求は戦争の遂行ほど劇的なものではなく、往々にして無関心という壁にぶち当たる。しかし、これほど重要かつ緊急を要する事柄はない。
ある人々は言う。ソ連邦の指導者たちがより啓蒙された考え方を持たぬ限り、世界平和や軍縮について語るのは無駄なことである、と。ソ連の指導者たちが啓蒙されることを私は望んでいる。そのための手助けをわれわれはできるし、せねばならない。しかし、同時に、国家としてまた個人として、われわれもまたわれわれ自身の態度について改めて考えねばならない。ソ連側の態度と同じようにわが方の態度もまた重要だからだ。
まず第一に平和に対するわれわれの態度を見てみよう。あまりにも多くの人々が平和は不可能かつ非現実的と考えている。しかし、それは危険な敗北者的思考と言わねばなるまい。なぜならそれは人間の力の無力さを表し、人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられており、戦争は避けられず、結局は滅亡するという結論に導くからだ。 この見方を受け入れる必要はまったくない。われわれの問題はわれわれ人間がつくりだしたものなのだ。それ故に人間が解決でき得るものなのだ。人間は限りなく大きくなれるものである。人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。これまでにも人間の理性と精神力は一見不可能と思える数々の問題を解き明かしてきた。ここで再びできないという理由はない。
私は一部の幻想家や狂信者の夢みる絶対かつ無限の観念を含んだ平和について語っているのではない。希望や夢を私は否定しない。しかし、それらを基に平和を構築しようとすれば、待っているのは落胆と懐疑でしかない。
より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。真の平和とは、多くの国々による具体的な活動によってもたらされるものである。それはダイナミックで、決して停止せず、あらゆる時代の挑戦に耐え得るよう常に変化しなければならない。なぜなら平和とは諸々の問題を解くプロセスであるからだ。
そのような平和がきても、互いの利益の対立や紛争は絶えることはないかもしれない。 世界平和は地域社会の平和同様、人々にその隣人を愛するよう要求はしない。しかし、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きることを要求する。国家間の敵愾心は個人間のそれと同じように永遠に続かないことを歴史は教えている。
平和は決して非現実的なものではないし、戦争は決して必然的なものでもない。
第二にソ連邦に対するわれわれの態度を見直そうではないか。かの国の指導者たちが、彼らの宣伝機関によって書かれていることを頭から信じているのは悲しむべきことである。アメリカが戦争を仕掛ける準備をしているとか、アメリカ帝国主義が侵略戦争によってヨーロッパや他の資本主義国家を経済的、政治的に属国化しようとしているなど根も葉もないことを彼らは信じている。
昔の諺にあるように”悪者は誰も追いかけてもいないのに逃げる”のだ。しかし、彼らのプロパガンダを読んでわれわれと彼らの間にある溝の深さを知ると悲しみさえ感じる。これは我々アメリカ人にとっての警告である。われわれはソ連と同じワナにはまってはならない。
アメリカ人としてわれわれは個人の自由と尊厳を奪う共産主義に対して深い嫌悪感を抱いている。
しかし、ロシア国民がこれまでに成し遂げた事柄、科学や宇宙、経済的成長、文化や数々の勇気ある行為に対しては心から賞賛の拍手を送る。
そして忘れてはならないのは、アメリカ人とロシア人のどちらが共に戦争を忌み嫌い、両国ともこれまで一度も戦ったことがない、という事実である。
互いに相違点が存在することは認めよう。しかし、同時に互いの共通の利益にも目をむけ、相違点の解決にも努力しよう。
そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくとも多様性を認めるような世界を作る努力は成せる。なぜなら、最終的にはわれわれの最も基礎的な共通点は、皆この小さな惑星に住み、皆同じ空気を吸い、皆子供たちの未来を大切に思っている。そして、皆死んでいく身ということであるからだ」
アメリカン大学でのスピーチから約一か月後の一九六三年七月二五日、核実験禁止条約が米ソ英の三国で結ばれた。それは大気圏内、海中、宇宙での核実験で地下は含まれてなかった。(CTBTで現在は地下も禁止。ブッシュ政権で米国は脱退)
それでも重要には違いなかった。
JFKはテレビで国民に語りかけた。
「今、初めて平和への道が開かれたかもしれないのだ。未来が何をもたらすのかは誰も知る故もない。闘争努力を柔らげる時がきたのかどうかは、誰も確信をもって語れない。しかし、もしわれわれが今、希望をもって行動に移すあらゆる努力を払わなければ、歴史とわれわれの良心はわれわれをきびしく裁くであろう。今が始める時だ。中国の古い諺によれば、
”一〇〇〇マイルの旅も一歩から始まる。”
わが同胞アメリカ国民よ、その第一歩を踏み出そうではないか。戦争の影から一歩後退し、平和の道を探求しようではないか。そして、その旅が一〇〇〇マイルかそれ以上になろうとも、われわれが今この地でこの時に第一歩を踏み出したと歴史に記さしめようではないか」
テレビを見ていた多くのアメリカ市民から、喚声と拍手が沸き上がった。アメリカ人の心を揺り動かしたのである。
この頃、JFKの父・ジョゼフは体調が悪くなり、ひとり苦しんだ。また、JFKの方は先天的な病気(アディソン氏病)のため、ひどく咳込み、頭痛や腰痛、微熱、不眠に苦しんだという。しかし、JFKも父親も、病気のことを家族や国民に隠し通した。それは、彼らの意思、であった。
キング牧師とケネデイ ー人種問題ー
ケネデイはタヴーにも挑戦せねばならなかった。それは何か?人種問題である。はっきり言えば、黒人問題だ。彼ら黒人は、奴隷としてアフリカなどからつれてこられた黒人の子孫である。そして、白人からは毒虫のように忌み嫌われていた。まるでバイ菌扱いだ。 南部では、黒人の家を焼き払ったり集団リンチをしたり、黒人が客としてレストランにきただけで”ショット・ガン”をもって追っ払う、ということが平気で行われていた。アメリカの北部や東部などでも南部ほどではないが、人種差別はあった。黒人を白い目でみて、客としてきてもオーダーもとらずに無視する、ということが平気で行われていた。
黒人からの不満は高まり、ひとりのリーダーを生む。マーティン・ルーサー・キング牧師である。
ケネデイはテレビで再び語りかける。
「われわれは基本的に道徳的問題に直面している。古くは聖書で語られ、アメリカ憲法でも明らかにされている。
問題の核心はあらゆるアメリカ人が平等の権利と平等の機会を与えられるかということだ。もしアメリカ人が皮膚の色が黒いということだけで公共学校に入ることができないとしたら、彼を代表する人間を選挙で投票できないとしたら、要するに皮膚の色が黒いというだけでわれわれ皆が欲している自由で意義深い生活が送れないとしたら、われわれの中で誰が皮膚の色を変えてあえて彼の立場に身を置きそれに甘んじるという者がいようか。 リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに一〇〇年が過ぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫だちはまだ完全に自由ではない。彼らはまた不正義の鎖から自由になっていない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になっていない。そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない」
一九六三年六月二八日、首都ワシントンでかつてないスケールで黒人によるデモが行われた。テレビで中継されたが、驚くほど平穏でケガ人などひとりも出なかった。行進が終わってデモ隊は、リンカーン記念塔の前の広場に集まった。そして群衆に向かって、銅像をバックにキング牧師は語り始めた。
「リンカーンという偉大な人物が黒人を解放してから一〇〇年たつが、未だ黒人は”物質的繁栄という海のど真ん中にある孤独な貧困の島に住んでいる”。
公民権活動家に対して質問するひとがいる。
”あなたがたは一体いつになったら満足するのか”
われわれは黒人が警察の暴力の犠牲者であるかぎり満足できない。
われわれはホテルやモーテルで疲れた体を癒すための一夜の休息を得られない限り満足できない。
われわれは黒人の移動性が小さなスラムから大きなスラムに移るだけという状況が続く限り満足できない。
私は夢見ている。四人の小さな私の子供達が、彼らの皮膚の色ではなく、その性格から判断される国に住める日がくることを。
私は夢見ている。
これがわれわれの希望である。この信念をもって私は南部へ帰る。この信念をもって、われわれは絶望という山から希望の石を取り出すことができるのだ。この信念をもってわれわれは、あつれきの不調和音を美しい兄弟愛のシンフォニーにかえることができるのだ。 この信念をもついつか自由になれる日がくるのを信じてわれわれは、共に働き、共に祈り、共に戦い抜き、共に拘留所に入り、共に自由のために立ち上がろう。そして自由が得られた日、われわれすべての神の子は新しい意味を持って”“わが祖国、甘い自由の地、汝のために歌わん。父たちが死んだ地、移民たちの誇りの地、すべての山腹から自由のベルを鳴らそう”と歌えるのだ。
そしてもしアメリカが真に偉大な国となるならこれは現実とならなければならない。
だから巨大なニューハンプシャーの丘の上から自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの山々から自由の鐘を鳴らそう。ペンシルバニアのアレゲニー山脈から自由の鐘を鳴らそう。 雪に覆われたコロラドのロッキーから自由の鐘を鳴らそう。カルフォルニアの美しい峰から自由の鐘を鳴らそう。しかし、それだけでなく、ジョージアのストーン・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。テネシーのルックアウト・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。
ミシシッピーのあらゆる丘、あらゆるもぐら塚からも自由の鐘を鳴らそう。
あらゆる山頂から自由の鐘を鳴らそう。
われわれが自由の鐘を鳴らす時、あらゆる村、あらゆる集落、あらゆる州、あらゆる市で自由の鐘を鳴らす時、われわれはすべての神の子たちが、黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも手を取り合って共にあの古い黒人霊歌を歌える日がくることを早めることができるのだ。『やっと自由になった!やっと自由になった!神に感謝す、やっとわれわれは自由になれた!』と」
ものすごい喚声と拍手が沸きあがった。スピーチを全米のお茶の間は好意的にうけとった。しかし、南部の白人たちは別だった。
「ニガーめ!くだらんことを言いやがって」
「あの野郎はアメリカ人に毒を流す、アジテーターだ」
「いつか殺してやる!」
南部の白人たちは舌打ちした。
50年代の終りころから活発化していた差別反対運動は、この年大きなうねりをむかえていた。この夏には、全米で200件を越える人種暴動が発生していた。この8月、過去最高の人種差別撤退集会「ワシントン大行進」には人種差別撤廃をもとめる白人を含め、約30万人が参加した。そのリーダーが、キング牧師だったのだ。
集会を終えてキング牧師など黒人指導者らはホワイトハウスに招かれた。キングの手を握りながらジョン・ケネデイは”私も夢みている”と話しかけたという。
JFKはセックス病で、いつもいつも女を抱いた。そのため、正妻のジャクリーンは激怒し、ホワイト・ハウスへ戻ったJFKに、「あなた! いい加減にして。またモンローを抱いたの?! それともリズ?!」と詰め寄った。それは暗く抑圧のある声だった。JFKは、「そんな話はマスコミのデマだ。君はそんなことを信じているのかい?」としらばっくれた。しかし、妻は夫の情事の現場を調べさせていた。だから、証拠写真をジョン・ケネデイに叩きつけて、「あなたは嘘つきよ!」と嫉妬した。
そして、長女のキャロラインと長男のジョン・ジュニアの手を引き、「もうあなたの嘘は沢山よ!実家に帰らせて頂きます」といって官邸を出ていった。
ひとりになったJFKは途方に暮れ、執務室のソファーに座り、膝を抱えて何時間も茫然とした。そして、もうひとつの不幸が訪れる。父、ジョゼフの入院である。
JFKらの父・ジョゼフ・ケネデイは自宅でTVを見ているときに発病し、倒れたという。長くわずらっていた彼の病名は”結核”である。彼は救急車に運ばれるストレッチャーの上でも喀血した。そして、妻・ローズに付き添われて病院に運ばれた。
ジョンとボビーとエドワードはすぐに病院に駆けつけた。
医師は、もう永くないでしょう、といった。三人の息子は父親の病室にいったが、ジョゼフは昏睡状態で、話しが出来なかった。
”政治家になることだけ、大統領になることだけが成功だ。父さんを見よ……”ジョゼフのことだまが、心の耳に、津波のように響いた。
……父さん、必ずぼくはアメリカを蘇らせるよ…ジョンは涙を流していた。
ヴェトナム戦争
多くの人は「ケネデイがヴェトナム戦争を始めた」と言う。しかし、それは間違いだ。アメリカのヴェトナム介入は一九五四年にさかのぼる。フランスがベトミン軍によってディエンビェンフーで決定的な敗北を喫した頃だ。ヴェトナムはその頃、ソ連に後押しされたホー・チ・ミンの北と、アメリカが後押ししたゴ・ディン・ディエム首相の南に別れていた。
間もなくホー・チ・ミンはゲリラ部隊を南に送り込みディエム政権に揺さぶりをかける。これに対して、CIAは武器などやアドヴァイザーをディエムに送り込む。
アメリカのフルコミットメントは、いわばアイゼンハウワー政権ですでに決定的だったのだ。
一九六一年当時、南ベトナムにはグリーン・ベレーを中心として八〇〇〇人の米軍が駐留していた。一九六三年、ケネデイはベトナム現地調査のため副大統領(ケネデイの死後、第36代大統領になった)ジョンソンを送った。帰国したジョンソンは、ディエム政権が危ないのでサポートするように、と主張した。
ジョンソンはCIAに騙されていた。ゴ・ディン・ディエムを完全なパペット(操り人形)に祭り上げたのはエドワード・ランズデール米国大佐だったが、シナリオを書いたのはCIAだったのだ。
ケネデイはテレビインタビューで語った。
「ヴェトナムやラオスが問題ですね?」
インタビュアーに対してケネデイは、
「その通り、あそこが問題だ」と答えた。そして続けて、「しかし最終的には、あの戦争は彼らヴェトナム人の戦争であり、ヴェトナム人たちが自分自身でなんとかしなければならない問題だ。われわれは南ベトナムをサポートできる。しかし、あくまでもサポートであって、フルコミットメントであってはならない。ベトナムはベルリンとは違う」
と冷静に言った。
ケネデイはこの時、はっきりとヴェトナムからの撤退を考えていたのだ。
(1964年8月2日、米国政府は北ヴィトナム東方トンキン湾の公海上で米駆逐艦マドックスが北ヴィトナム魚雷船から攻撃をうけたと発表した。7日、米上下両院はトンキン湾決議を行った。ジヨンソン大統領は「共産勢力」の侵略から南ヴィトナムを守るためにあらゆる必要な措置を取る権利を認められた。米国はヴィトナム戦争へのかかわりを一気に深めた。戦いは米国と北ヴィトナムとの全面戦争になり、多くの人命が失われた。71年6月、ニューヨーク・タイムズ紙がマクナマラ国防長官の内部文書で、トンキン湾事件は「でっち上げ」だとわかる。事件は大規模な軍事作戦のための口実つくりだった。)
いつものJFKに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。心臓がばくばくした。モンローとふたりっきりになって愛をかわしているときはモンローはしばしばそうだと断言することができた。彼は優しく、激しく、唇と腰をからめてくる。そのセックスはJFKの不安を忘れることのできる唯一のものだった。
「私は嘘つきピエロか?!」ある日、妻子もいず途方に暮れたままのJFKは、弟のボビーにやつ当たりした。ボビーはききかえした。「…嘘つきピエロとは?」
「私のことだ!妻が……ジャッキーがいったんだ。あなたは女遊びや放蕩をやめない。嘘つきだ!って」は空虚な、落ち込んだ気分だった。しかも悪いことには孤独でもある。
「……兄さん」ボビーは、暗く落ち込む兄の肩を、そっと抱いた。兄さんは嘘つきなんかじゃない。弟は兄の肩にそっと触れた。その感触こそ、JFKの支えであった。
一方、実家に戻っていたジャクリーンは、子供のジョン・Jrを公園で遊ばせていた。ジュニアはブランコに乗りながら、「…パパのことを許してあげて。パパは寂しいんだよ。だから女のひとと……それにアメリカの人々のために戦ってる。…ね?許してあげて」と母親のジャクリーンにいった。息子の言葉で、ジャクリーンはハッと言葉を呑んだ。彼女は、強烈なフラッシュの光りを眉間に食らった気がした。全身が震え、心臓に杭が打たれたように立ち尽くした。そして……JFKの元に戻った。
ジョンとジャクリーンは熱いキスを交わした。
「ごめんなさい、あなた。…あなたの苦労もしらないで…」
「いいんだ」JFKはいい、抱き合い、ふたりは笑顔になった。
「ひとつだけ約束して、あなた」ジャクリーンはいった。「ずっと私と一緒にいて。そして、私より先に死なないで!」ふたりは微笑み、抱き合い、抱擁と熱いキスを何度も交わした。
ある夜、秘密の会議で、政府の閣僚がボヤいた。
「マクナマラ(国防長官)をヴェトナムに送るのをやめさせろ。マクナマラの報告をきくたびにケネデイの顔が蒼白になっていく」
「あの馬鹿の若造、わしにこういいやがった。”近くのキューバには進軍しないのに、なぜ遠くのヴェトナムには行くんだ?”」
「ナメやがって!」
「このままではCIAの立場がない。大統領の周辺はCIA要員で固めてある。副元帥、軍も協力してくれるでしょうな?」
「もちろんです。我々もこれ以上軍縮だの、ヴェトナム撤退だのといわれては困るのです。ところでFBIは?」
「FBIなら大丈夫。”ボビー坊や”は我々の手で固めてありますから、情報は漏れません」
「だいじょうぶか?」
「これは極秘に進めなければな。文章などの証拠は一切残すなよ」
「いよいよ、ストップする時がきたか」
「そうだ。ストップするのだ!」しばらくして、「ニュー・フロンティアに乾杯」と誰かがいい、一同は大笑いした。
JFKは匿名の人物に呼ばれ、ホワイト・ハウスに近い公園で人物を待った。SPらは公園の入り口などに残して、本当の意味での極秘密会だった。
匿名の人物は、女ではなく初老の男だった。
「閣下」そういう声がしてJFKが振り向くと、そこには初老の紳士のような男がいた。「あなたが…電話をくれた?」
「そうです。名前は知られたくありません。x大佐とでも呼んでください」
JFKは「で?要件は?」ときいた。
「まず、歩きながら話しましょう。閣下」
ふたりは誰もいない緑の公園を歩きはじめた。
しんと静かで、蝉の声が岩に染み渡るかのようだった。ジョンは頬にそよ風が当たるのを感じ、ぐんぐん迫ってくるような雲を見上げた。思ったほど公園は暑くなかった。
「閣下はヴェトナム戦争をどう見ますかな?」xはいった。
「ヴェトナムは基本的にはヴェトナム人による戦争であり、アメリカはフル・コミットメントするべきではない。ベトナムはベルリンとは違う」
「…その通り。しかし…撤退を軍部が反対している」
「そうだ」JFKは苦くいった。「このままではアメリカの威信が地に落ちる…といっている。馬鹿げたことだ」
「閣下、あなたは狙われてます。政府機関に」
「まさか」
「いえ…事実です。ヴェトナムは軍産複合体のエサなのです。複合体は15年に一度、ホット・ウォーがなければ生きてはいけません。第二次世界大戦…朝鮮戦争…そして、ヴェトナム…。いずれはソ連との戦争…」
「馬鹿な!」JFKは首をふった。「アメリカ人自身が戦争を欲している?馬鹿な!」
「いえ、大統領……問題はもっと深く…そして”醜い”のです。東南アジアの戦死者はアメリカ人五万八〇〇〇人、アジア人二〇〇万人、戦費二二〇〇億ドル、民間機による投下兵力一〇〇〇万人、損失ヘリ数五〇〇〇機以上、投下爆弾六五〇万トン…」
JFKはもどかしさで唇を噛み、押し黙った。
「これはビジネスなのです。戦争という名のビジネスです。ヴェトナム前に倒産寸前だったヘリ・メーカー「ベル」は生き返った。軍需産業もです。これはビジネスなのです」
「私は…」JFKは狼狽してから「私は…米軍をヴェトナムから撤退させたいと思う」
といった。x大佐は「それがいいでしょうが……その前に軍産複合体が閣下をストップするでしょう。殺されるか…病院送りになるか…」
「……真実は醜い…あなたはよくご存じだ。…私の改革に協力してくれませんか?」
「いえ」x大佐は続けた。「協力する前に、私は殺されるか……病院送りか…。とにかく閣下、あなたの決断にかかっています。すべてを変えるのです。そうすれば連中だって、手も足も出せません!あなたが世界を変えるのです!」
あなたが世界を変えるのです!JFKはその言葉に勇気づけられ、決意を固めた。「自分が、世界をかえるのだ」ジョンは、ひとりになってから呟いた。
最終章ケネデイ・
ジェネレーション
きらめくような天気だった。太陽がきらきら光り、うっすらと雲が流れる。JFKはある大学の演壇に立ち、淡くしんと光るような大学を見上げた。そして、さわやかな空気を吸って、心臓が二回打ってから、JFKは新しいヴィジョンを語った。
「ジョン・メイスフィールド氏の言葉に”この地上において大学ほど美しいものはない”ということばがある。
彼の言葉は今日でも真実である。しかし、彼は建物やキャンパスの緑、蔦でおおわれた塀などの美しさを語っていたのではない。彼が大学の美をほめたたえたのは、彼も語っているように、大学とは”無知を憎む人間が知識を得るために努力し、真実を見たものがそれを他に知らしめようと努力する場所”だからだ。
故に私はこの場と時を借りて往々にして無知が支配し、真実が押し潰されているある事柄について語りたい。それはこの地上で最も重要な事柄ー世界平和である。
どのような平和を私は言っているのか?どのような平和をわれわれは探求しているのか? それはアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナではない。
そして、墓場の平和でもなければ、奴隷の安全性でもない。私がいっているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせるような平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立てさせ得る平和である。
それはアメリカ人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、われわれの時代だけでなくすべての時代の平和である。
今日、何千億ドルという金が軍事費に使われ、それによって平和が維持されている。しかし、核兵器の無駄な蓄積、破壊するだけで何ものも創造しない核兵器の蓄積だけが平和を保障する唯一の、しかも最も効果的な方法なのだろうか。決してそうではないはずだ。 平和とは理性的な人間の理性的なゴールであらねばならない。平和の追求は戦争の遂行ほど劇的なものではなく、往々にして無関心という壁にぶち当たる。しかし、これほど重要かつ緊急を要する事柄はない。
ある人々は言う。ソ連邦の指導者たちがより啓蒙された考え方を持たぬ限り、世界平和や軍縮について語るのは無駄なことである、と。ソ連の指導者たちが啓蒙されることを私は望んでいる。そのための手助けをわれわれはできるし、せねばならない。しかし、同時に、国家としてまた個人として、われわれもまたわれわれ自身の態度について改めて考えねばならない。ソ連側の態度と同じようにわが方の態度もまた重要だからだ。
まず第一に平和に対するわれわれの態度を見てみよう。あまりにも多くの人々が平和は不可能かつ非現実的と考えている。しかし、それは危険な敗北者的思考と言わねばなるまい。なぜならそれは人間の力の無力さを表し、人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられており、戦争は避けられず、結局は滅亡するという結論に導くからだ。 この見方を受け入れる必要はまったくない。われわれの問題はわれわれ人間がつくりだしたものなのだ。それ故に人間が解決でき得るものなのだ。人間は限りなく大きくなれるものである。人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。これまでにも人間の理性と精神力は一見不可能と思える数々の問題を解き明かしてきた。ここで再びできないという理由はない。
私は一部の幻想家や狂信者の夢みる絶対かつ無限の観念を含んだ平和について語っているのではない。希望や夢を私は否定しない。しかし、それらを基に平和を構築しようとすれば、待っているのは落胆と懐疑でしかない。
より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。真の平和とは、多くの国々による具体的な活動によってもたらされるものである。それはダイナミックで、決して停止せず、あらゆる時代の挑戦に耐え得るよう常に変化しなければならない。なぜなら平和とは諸々の問題を解くプロセスであるからだ。
そのような平和がきても、互いの利益の対立や紛争は絶えることはないかもしれない。 世界平和は地域社会の平和同様、人々にその隣人を愛するよう要求はしない。しかし、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きることを要求する。国家間の敵愾心は個人間のそれと同じように永遠に続かないことを歴史は教えている。
平和は決して非現実的なものではないし、戦争は決して必然的なものでもない。
第二にソ連邦に対するわれわれの態度を見直そうではないか。かの国の指導者たちが、彼らの宣伝機関によって書かれていることを頭から信じているのは悲しむべきことである。アメリカが戦争を仕掛ける準備をしているとか、アメリカ帝国主義が侵略戦争によってヨーロッパや他の資本主義国家を経済的、政治的に属国化しようとしているなど根も葉もないことを彼らは信じている。
昔の諺にあるように”悪者は誰も追いかけてもいないのに逃げる”のだ。しかし、彼らのプロパガンダを読んでわれわれと彼らの間にある溝の深さを知ると悲しみさえ感じる。これは我々アメリカ人にとっての警告である。われわれはソ連と同じワナにはまってはならない。
アメリカ人としてわれわれは個人の自由と尊厳を奪う共産主義に対して深い嫌悪感を抱いている。
しかし、ロシア国民がこれまでに成し遂げた事柄、科学や宇宙、経済的成長、文化や数々の勇気ある行為に対しては心から賞賛の拍手を送る。
そして忘れてはならないのは、アメリカ人とロシア人のどちらが共に戦争を忌み嫌い、両国ともこれまで一度も戦ったことがない、という事実である。
互いに相違点が存在することは認めよう。しかし、同時に互いの共通の利益にも目をむけ、相違点の解決にも努力しよう。
そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくとも多様性を認めるような世界を作る努力は成せる。なぜなら、最終的にはわれわれの最も基礎的な共通点は、皆この小さな惑星に住み、皆同じ空気を吸い、皆子供たちの未来を大切に思っている。そして、皆死んでいく身ということであるからだ」
アメリカン大学でのスピーチから約一か月後の一九六三年七月二五日、核実験禁止条約が米ソ英の三国で結ばれた。それは大気圏内、海中、宇宙での核実験で地下は含まれてなかった。(CTBTで現在は地下も禁止。ブッシュ政権で米国は脱退)
それでも重要には違いなかった。
JFKはテレビで国民に語りかけた。
「今、初めて平和への道が開かれたかもしれないのだ。未来が何をもたらすのかは誰も知る故もない。闘争努力を柔らげる時がきたのかどうかは、誰も確信をもって語れない。しかし、もしわれわれが今、希望をもって行動に移すあらゆる努力を払わなければ、歴史とわれわれの良心はわれわれをきびしく裁くであろう。今が始める時だ。中国の古い諺によれば、
”一〇〇〇マイルの旅も一歩から始まる。”
わが同胞アメリカ国民よ、その第一歩を踏み出そうではないか。戦争の影から一歩後退し、平和の道を探求しようではないか。そして、その旅が一〇〇〇マイルかそれ以上になろうとも、われわれが今この地でこの時に第一歩を踏み出したと歴史に記さしめようではないか」
テレビを見ていた多くのアメリカ市民から、喚声と拍手が沸き上がった。アメリカ人の心を揺り動かしたのである。
この頃、JFKの父・ジョゼフは体調が悪くなり、ひとり苦しんだ。また、JFKの方は先天的な病気(アディソン氏病)のため、ひどく咳込み、頭痛や腰痛、微熱、不眠に苦しんだという。しかし、JFKも父親も、病気のことを家族や国民に隠し通した。それは、彼らの意思、であった。
キング牧師とケネデイ ー人種問題ー
ケネデイはタヴーにも挑戦せねばならなかった。それは何か?人種問題である。はっきり言えば、黒人問題だ。彼ら黒人は、奴隷としてアフリカなどからつれてこられた黒人の子孫である。そして、白人からは毒虫のように忌み嫌われていた。まるでバイ菌扱いだ。 南部では、黒人の家を焼き払ったり集団リンチをしたり、黒人が客としてレストランにきただけで”ショット・ガン”をもって追っ払う、ということが平気で行われていた。アメリカの北部や東部などでも南部ほどではないが、人種差別はあった。黒人を白い目でみて、客としてきてもオーダーもとらずに無視する、ということが平気で行われていた。
黒人からの不満は高まり、ひとりのリーダーを生む。マーティン・ルーサー・キング牧師である。
ケネデイはテレビで再び語りかける。
「われわれは基本的に道徳的問題に直面している。古くは聖書で語られ、アメリカ憲法でも明らかにされている。
問題の核心はあらゆるアメリカ人が平等の権利と平等の機会を与えられるかということだ。もしアメリカ人が皮膚の色が黒いということだけで公共学校に入ることができないとしたら、彼を代表する人間を選挙で投票できないとしたら、要するに皮膚の色が黒いというだけでわれわれ皆が欲している自由で意義深い生活が送れないとしたら、われわれの中で誰が皮膚の色を変えてあえて彼の立場に身を置きそれに甘んじるという者がいようか。 リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに一〇〇年が過ぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫だちはまだ完全に自由ではない。彼らはまた不正義の鎖から自由になっていない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になっていない。そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない」
一九六三年六月二八日、首都ワシントンでかつてないスケールで黒人によるデモが行われた。テレビで中継されたが、驚くほど平穏でケガ人などひとりも出なかった。行進が終わってデモ隊は、リンカーン記念塔の前の広場に集まった。そして群衆に向かって、銅像をバックにキング牧師は語り始めた。
「リンカーンという偉大な人物が黒人を解放してから一〇〇年たつが、未だ黒人は”物質的繁栄という海のど真ん中にある孤独な貧困の島に住んでいる”。
公民権活動家に対して質問するひとがいる。
”あなたがたは一体いつになったら満足するのか”
われわれは黒人が警察の暴力の犠牲者であるかぎり満足できない。
われわれはホテルやモーテルで疲れた体を癒すための一夜の休息を得られない限り満足できない。
われわれは黒人の移動性が小さなスラムから大きなスラムに移るだけという状況が続く限り満足できない。
私は夢見ている。四人の小さな私の子供達が、彼らの皮膚の色ではなく、その性格から判断される国に住める日がくることを。
私は夢見ている。
これがわれわれの希望である。この信念をもって私は南部へ帰る。この信念をもって、われわれは絶望という山から希望の石を取り出すことができるのだ。この信念をもってわれわれは、あつれきの不調和音を美しい兄弟愛のシンフォニーにかえることができるのだ。 この信念をもついつか自由になれる日がくるのを信じてわれわれは、共に働き、共に祈り、共に戦い抜き、共に拘留所に入り、共に自由のために立ち上がろう。そして自由が得られた日、われわれすべての神の子は新しい意味を持って”“わが祖国、甘い自由の地、汝のために歌わん。父たちが死んだ地、移民たちの誇りの地、すべての山腹から自由のベルを鳴らそう”と歌えるのだ。
そしてもしアメリカが真に偉大な国となるならこれは現実とならなければならない。
だから巨大なニューハンプシャーの丘の上から自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの山々から自由の鐘を鳴らそう。ペンシルバニアのアレゲニー山脈から自由の鐘を鳴らそう。 雪に覆われたコロラドのロッキーから自由の鐘を鳴らそう。カルフォルニアの美しい峰から自由の鐘を鳴らそう。しかし、それだけでなく、ジョージアのストーン・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。テネシーのルックアウト・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。
ミシシッピーのあらゆる丘、あらゆるもぐら塚からも自由の鐘を鳴らそう。
あらゆる山頂から自由の鐘を鳴らそう。
われわれが自由の鐘を鳴らす時、あらゆる村、あらゆる集落、あらゆる州、あらゆる市で自由の鐘を鳴らす時、われわれはすべての神の子たちが、黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも手を取り合って共にあの古い黒人霊歌を歌える日がくることを早めることができるのだ。『やっと自由になった!やっと自由になった!神に感謝す、やっとわれわれは自由になれた!』と」
ものすごい喚声と拍手が沸きあがった。スピーチを全米のお茶の間は好意的にうけとった。しかし、南部の白人たちは別だった。
「ニガーめ!くだらんことを言いやがって」
「あの野郎はアメリカ人に毒を流す、アジテーターだ」
「いつか殺してやる!」
南部の白人たちは舌打ちした。
50年代の終りころから活発化していた差別反対運動は、この年大きなうねりをむかえていた。この夏には、全米で200件を越える人種暴動が発生していた。この8月、過去最高の人種差別撤退集会「ワシントン大行進」には人種差別撤廃をもとめる白人を含め、約30万人が参加した。そのリーダーが、キング牧師だったのだ。
集会を終えてキング牧師など黒人指導者らはホワイトハウスに招かれた。キングの手を握りながらジョン・ケネデイは”私も夢みている”と話しかけたという。
JFKはセックス病で、いつもいつも女を抱いた。そのため、正妻のジャクリーンは激怒し、ホワイト・ハウスへ戻ったJFKに、「あなた! いい加減にして。またモンローを抱いたの?! それともリズ?!」と詰め寄った。それは暗く抑圧のある声だった。JFKは、「そんな話はマスコミのデマだ。君はそんなことを信じているのかい?」としらばっくれた。しかし、妻は夫の情事の現場を調べさせていた。だから、証拠写真をジョン・ケネデイに叩きつけて、「あなたは嘘つきよ!」と嫉妬した。
そして、長女のキャロラインと長男のジョン・ジュニアの手を引き、「もうあなたの嘘は沢山よ!実家に帰らせて頂きます」といって官邸を出ていった。
ひとりになったJFKは途方に暮れ、執務室のソファーに座り、膝を抱えて何時間も茫然とした。そして、もうひとつの不幸が訪れる。父、ジョゼフの入院である。
JFKらの父・ジョゼフ・ケネデイは自宅でTVを見ているときに発病し、倒れたという。長くわずらっていた彼の病名は”結核”である。彼は救急車に運ばれるストレッチャーの上でも喀血した。そして、妻・ローズに付き添われて病院に運ばれた。
ジョンとボビーとエドワードはすぐに病院に駆けつけた。
医師は、もう永くないでしょう、といった。三人の息子は父親の病室にいったが、ジョゼフは昏睡状態で、話しが出来なかった。
”政治家になることだけ、大統領になることだけが成功だ。父さんを見よ……”ジョゼフのことだまが、心の耳に、津波のように響いた。
……父さん、必ずぼくはアメリカを蘇らせるよ…ジョンは涙を流していた。
ヴェトナム戦争
多くの人は「ケネデイがヴェトナム戦争を始めた」と言う。しかし、それは間違いだ。アメリカのヴェトナム介入は一九五四年にさかのぼる。フランスがベトミン軍によってディエンビェンフーで決定的な敗北を喫した頃だ。ヴェトナムはその頃、ソ連に後押しされたホー・チ・ミンの北と、アメリカが後押ししたゴ・ディン・ディエム首相の南に別れていた。
間もなくホー・チ・ミンはゲリラ部隊を南に送り込みディエム政権に揺さぶりをかける。これに対して、CIAは武器などやアドヴァイザーをディエムに送り込む。
アメリカのフルコミットメントは、いわばアイゼンハウワー政権ですでに決定的だったのだ。
一九六一年当時、南ベトナムにはグリーン・ベレーを中心として八〇〇〇人の米軍が駐留していた。一九六三年、ケネデイはベトナム現地調査のため副大統領(ケネデイの死後、第36代大統領になった)ジョンソンを送った。帰国したジョンソンは、ディエム政権が危ないのでサポートするように、と主張した。
ジョンソンはCIAに騙されていた。ゴ・ディン・ディエムを完全なパペット(操り人形)に祭り上げたのはエドワード・ランズデール米国大佐だったが、シナリオを書いたのはCIAだったのだ。
ケネデイはテレビインタビューで語った。
「ヴェトナムやラオスが問題ですね?」
インタビュアーに対してケネデイは、
「その通り、あそこが問題だ」と答えた。そして続けて、「しかし最終的には、あの戦争は彼らヴェトナム人の戦争であり、ヴェトナム人たちが自分自身でなんとかしなければならない問題だ。われわれは南ベトナムをサポートできる。しかし、あくまでもサポートであって、フルコミットメントであってはならない。ベトナムはベルリンとは違う」
と冷静に言った。
ケネデイはこの時、はっきりとヴェトナムからの撤退を考えていたのだ。
(1964年8月2日、米国政府は北ヴィトナム東方トンキン湾の公海上で米駆逐艦マドックスが北ヴィトナム魚雷船から攻撃をうけたと発表した。7日、米上下両院はトンキン湾決議を行った。ジヨンソン大統領は「共産勢力」の侵略から南ヴィトナムを守るためにあらゆる必要な措置を取る権利を認められた。米国はヴィトナム戦争へのかかわりを一気に深めた。戦いは米国と北ヴィトナムとの全面戦争になり、多くの人命が失われた。71年6月、ニューヨーク・タイムズ紙がマクナマラ国防長官の内部文書で、トンキン湾事件は「でっち上げ」だとわかる。事件は大規模な軍事作戦のための口実つくりだった。)
いつものJFKに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。心臓がばくばくした。モンローとふたりっきりになって愛をかわしているときはモンローはしばしばそうだと断言することができた。彼は優しく、激しく、唇と腰をからめてくる。そのセックスはJFKの不安を忘れることのできる唯一のものだった。
「私は嘘つきピエロか?!」ある日、妻子もいず途方に暮れたままのJFKは、弟のボビーにやつ当たりした。ボビーはききかえした。「…嘘つきピエロとは?」
「私のことだ!妻が……ジャッキーがいったんだ。あなたは女遊びや放蕩をやめない。嘘つきだ!って」は空虚な、落ち込んだ気分だった。しかも悪いことには孤独でもある。
「……兄さん」ボビーは、暗く落ち込む兄の肩を、そっと抱いた。兄さんは嘘つきなんかじゃない。弟は兄の肩にそっと触れた。その感触こそ、JFKの支えであった。
一方、実家に戻っていたジャクリーンは、子供のジョン・Jrを公園で遊ばせていた。ジュニアはブランコに乗りながら、「…パパのことを許してあげて。パパは寂しいんだよ。だから女のひとと……それにアメリカの人々のために戦ってる。…ね?許してあげて」と母親のジャクリーンにいった。息子の言葉で、ジャクリーンはハッと言葉を呑んだ。彼女は、強烈なフラッシュの光りを眉間に食らった気がした。全身が震え、心臓に杭が打たれたように立ち尽くした。そして……JFKの元に戻った。
ジョンとジャクリーンは熱いキスを交わした。
「ごめんなさい、あなた。…あなたの苦労もしらないで…」
「いいんだ」JFKはいい、抱き合い、ふたりは笑顔になった。
「ひとつだけ約束して、あなた」ジャクリーンはいった。「ずっと私と一緒にいて。そして、私より先に死なないで!」ふたりは微笑み、抱き合い、抱擁と熱いキスを何度も交わした。
ある夜、秘密の会議で、政府の閣僚がボヤいた。
「マクナマラ(国防長官)をヴェトナムに送るのをやめさせろ。マクナマラの報告をきくたびにケネデイの顔が蒼白になっていく」
「あの馬鹿の若造、わしにこういいやがった。”近くのキューバには進軍しないのに、なぜ遠くのヴェトナムには行くんだ?”」
「ナメやがって!」
「このままではCIAの立場がない。大統領の周辺はCIA要員で固めてある。副元帥、軍も協力してくれるでしょうな?」
「もちろんです。我々もこれ以上軍縮だの、ヴェトナム撤退だのといわれては困るのです。ところでFBIは?」
「FBIなら大丈夫。”ボビー坊や”は我々の手で固めてありますから、情報は漏れません」
「だいじょうぶか?」
「これは極秘に進めなければな。文章などの証拠は一切残すなよ」
「いよいよ、ストップする時がきたか」
「そうだ。ストップするのだ!」しばらくして、「ニュー・フロンティアに乾杯」と誰かがいい、一同は大笑いした。
JFKは匿名の人物に呼ばれ、ホワイト・ハウスに近い公園で人物を待った。SPらは公園の入り口などに残して、本当の意味での極秘密会だった。
匿名の人物は、女ではなく初老の男だった。
「閣下」そういう声がしてJFKが振り向くと、そこには初老の紳士のような男がいた。「あなたが…電話をくれた?」
「そうです。名前は知られたくありません。x大佐とでも呼んでください」
JFKは「で?要件は?」ときいた。
「まず、歩きながら話しましょう。閣下」
ふたりは誰もいない緑の公園を歩きはじめた。
しんと静かで、蝉の声が岩に染み渡るかのようだった。ジョンは頬にそよ風が当たるのを感じ、ぐんぐん迫ってくるような雲を見上げた。思ったほど公園は暑くなかった。
「閣下はヴェトナム戦争をどう見ますかな?」xはいった。
「ヴェトナムは基本的にはヴェトナム人による戦争であり、アメリカはフル・コミットメントするべきではない。ベトナムはベルリンとは違う」
「…その通り。しかし…撤退を軍部が反対している」
「そうだ」JFKは苦くいった。「このままではアメリカの威信が地に落ちる…といっている。馬鹿げたことだ」
「閣下、あなたは狙われてます。政府機関に」
「まさか」
「いえ…事実です。ヴェトナムは軍産複合体のエサなのです。複合体は15年に一度、ホット・ウォーがなければ生きてはいけません。第二次世界大戦…朝鮮戦争…そして、ヴェトナム…。いずれはソ連との戦争…」
「馬鹿な!」JFKは首をふった。「アメリカ人自身が戦争を欲している?馬鹿な!」
「いえ、大統領……問題はもっと深く…そして”醜い”のです。東南アジアの戦死者はアメリカ人五万八〇〇〇人、アジア人二〇〇万人、戦費二二〇〇億ドル、民間機による投下兵力一〇〇〇万人、損失ヘリ数五〇〇〇機以上、投下爆弾六五〇万トン…」
JFKはもどかしさで唇を噛み、押し黙った。
「これはビジネスなのです。戦争という名のビジネスです。ヴェトナム前に倒産寸前だったヘリ・メーカー「ベル」は生き返った。軍需産業もです。これはビジネスなのです」
「私は…」JFKは狼狽してから「私は…米軍をヴェトナムから撤退させたいと思う」
といった。x大佐は「それがいいでしょうが……その前に軍産複合体が閣下をストップするでしょう。殺されるか…病院送りになるか…」
「……真実は醜い…あなたはよくご存じだ。…私の改革に協力してくれませんか?」
「いえ」x大佐は続けた。「協力する前に、私は殺されるか……病院送りか…。とにかく閣下、あなたの決断にかかっています。すべてを変えるのです。そうすれば連中だって、手も足も出せません!あなたが世界を変えるのです!」
あなたが世界を変えるのです!JFKはその言葉に勇気づけられ、決意を固めた。「自分が、世界をかえるのだ」ジョンは、ひとりになってから呟いた。
最終章ケネデイ・
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