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長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2018年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編1

2015年01月30日 07時42分46秒 | 日記








葵のジャンヌダルク井伊直虎と直政

~傑物の義理息子・井伊直政を育てた女大名 井伊直虎とその時代~

             
               
               
               
               
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



        あらすじ

井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代の女性領主。遠江井伊谷(静岡県浜松市(旧・引佐郡)引佐町)の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。


時代 戦国時代- 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年8月26日(1582年9月12日)
改名 祐圓尼、直虎
別名 次郎法師、女地頭(渾名)
戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
主君 今川氏真→徳川家康
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直盛、母:友椿尼
子 養子:直政
女性で出家後に井伊家の跡をまかされ、義理の息子・井伊直政を育て、徳川家康に仕えさせたその井伊直虎の生涯はまさに「大河ドラマ」である。
                                おわり

         1 関ヶ原


井伊家伝記の有名な言葉“女こそあれ井伊家惣領(そうりょう)に生まれ候”(父親の殿さまのただひとりの子供が女子という意味)男子が生まれなかったらしい。惣領=跡継ぎ。この文献で直虎が女性だった、とわかる。
井伊直虎は美貌の少女であった。生年月日は不明、没年は義理の息子の武功『主君・徳川家康の伊賀越え』を成功させた年のわずか数か月後の天正十年(1582年)八月二十六日(九月十二日)没している。幼名・不明、改名・祐團尼、直虎、別名・次郎法師、女地頭(綽名)、戒名・妙雲院殿月泉祐團大姉、主君・今川氏真→徳川家康、氏族・井伊氏、父・井伊直盛、母・友椿尼。養子が井伊直政である。
「直政、お主がわしの鷹狩での草原で、烏帽子直垂でわしらと遭遇したとき、となりに若き尼がいたが、それがお前の義理の母ごぜか?」
「いかにも!徳川さまに仕官する案も義母ごぜのものでした」
「太閤殿下の前では女謙信とまで申したの?」
「あれは本当にございます。なれど心は優しい艸風(そうふう)の如き義母でありました」
「なるほどな。惜しい人を亡くしたのう」
「御意にござる」直政は両目に涙を浮かべた。

石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」尼姿の次郎法師(井伊直虎)はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
(*注・実際には井伊直虎こと次郎法師は天正十年(1582)年八月二十六日に享年四十八歳で没しているので、三成の関ヶ原の役では生きてはいないが「特別出演」(笑)で出演させたことは理解して欲しい。直虎の幽霊と話す設定がちょうどよい(笑))
「お前は誰じゃ?」
「井伊直政の義母・次郎法師こと井伊直虎じゃ!」
三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と直虎の霊をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川家康さまや(義理)息子・井伊直政が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、直虎、いや次郎法師!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」直虎は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも家康さまや(義理の)息子・井伊直政からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 直虎は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。淀殿や秀頼殿を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」直虎は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「直虎殿、いや直政殿の義母ごぜ」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君さまが危ないのだぞ!」
  直虎は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 直虎の霊は拍子抜けして去った。諌める気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。



“上手に人をおさめる女性とは上手に人を愛せる女性”ナイチンゲール
ナイチンゲールやジャンヌダルクのように、戦国時代の日本にも『葵のジャンヌダルク、井伊直虎』がいた。直虎というが実は女性。映像参考文献NHK番組『歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」』井伊直虎こそあの徳川四天王のひとり、井伊直政の義理の母親で、あった。
<徳川家康の四天王>とは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)、そして本多忠勝(ほんた・ただかつ)の4人の家康の重臣たちのことだ。猛将の忠次、がんこ者の康政、人格者の直政、剛力の忠勝は、家康を助けた。彼らがいなければ、家康も天下を取れなかったかも知れない。4人の子孫は、みな幕府の重臣となっている。<「戦国武将大百科」げいぶん社 47ページ>

  関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ!」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。


「無様な、まるで亀ですな」
そう、天下の徳川家康に向かって不遜に言い放った者がいる。
男の名を、井伊兵部少輔直政(いい・ひょうぶしょうゆう・なおまさ)という。後に、譜代大名として七人もの大老を輩出した名門、井伊家の当主であり、徳川四天王の筆頭と謳われた男である。
「おう、万千代、来たのか」
家康は、ぎょろっとした団栗眼(どんぐりまなこ)の声の主へと向けて言った。
天正十四年(一五八六)の晩春、まだ三岳山から颪(おろし)が土を起こす百姓どもの息を白くさせる三月のことである。家康は一昨年の秋、小牧・長久手において、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り勢いに乗る羽柴秀吉との戦いを終え、遠州の自分の領地に戻っていた。
名だたる湖の国、浜松がいまの家康の居城だ。かつては武田の遠州(現在の静岡県西部)進攻に備えるために、本拠地を岡崎から浜松――かつての引馬(ひくま)へ移した。浜松湖も近く街道も整備され、今川へのにらみもきく遠州の拠点である。
「来たのか、ではございませぬ。某が岡崎に詰めている間になんともつまらぬ病を得られたとか」
「そうなのだ。あいすまぬな」
息子ほども歳が離れた家臣に向かって、あっさりと家康は謝った。綿入れを何重にもかぶせた脇息に腹からそのもたれた姿は、狸が座布団にしがみついているようで情けない。
実はここ数か月間、家康は背中に大きな廱(よう)が出来て仰向けに寝られずにいた。
「敵を過小評価しすぎましたな。廱といえども侮ってはこうなりまする。ましてや貝をつかってつぶそうとするなぞ」
「…わかっておる」
いまでこそ廱は傷口から入ったブドウ糖菌が原因であり、悪化させると救血病になって命に関わることがわかっている。しかし家康はたかが背中のおできと侮り、家臣がどれほどなだめても医者に診せようとしなかった。家康は医者が大嫌いだったのである。
「いくら殿が薬学に長け、和剤局方をお読みになるとはいえ、千日の勤学より一時の名匠と申します」
「わかっておる」
「殿も病をご自分でなんとかなさろうとせず、名医に頼りなされませ」
「わかっておる。わかっておるというに…」
直政は、尊敬する主君に対してもまったく遠慮がなかった。口調は静かだが、嫌みも山椒のようにぴりっと効いている。
「儂がこんなに痛い思いをしているのに、井伊の赤鬼は口が悪いわ」
「はて、もう赤鬼などといわれましておりまするか」
直政は笑った。
井伊直政は三河譜代の家臣ではない。井伊家はこの遠州の名門であり、家康が人質として長く過ごした今川の家臣だった。
幼い頃にお家再興という果てしない重責を担って、直政はここ浜松へやってきた。文字通り、身一つで。
そこからが、鯉もかくあらんという、後世に伝わる出世物語のはじまりである。
あれよあれよという間に、直政は家禄を増やした。召し抱えられてすぐに万千代という名と三百石を与えられ、次の年には家康の寝所に忍びこもうとした武田の暗殺者を討ちとって、十倍の三千石に加増された。十九の時にはもはや二万石の大名となり、本能寺の変の際には家康の「神君伊賀越え」に同行し、見事な孔雀の陣羽織を賜っている。
戦となれば苛烈な気性そのままに先陣をつとめ、生来の負けず嫌い。外交官としての才能もあったため、北条との戦の際には講和の使者となり大任を果たした。
部下のいなかった直政は、二十二歳で元服すると、武田家の滅亡により解体された武田の赤揃えをそっくりそのまま家康より貰い受けた。直政はこれを喜び、自分の部隊の具足をすべて朱色にそろえた。
これが、高名な井伊の赤揃えの誕生である。
「そちこそ、戦で得た傷はよいのか」
自分の背中のおできを棚に上げて、家康は直政を案じる言葉をかけた。直政は出陣すればするだけ、体に傷を負って帰ってくるからである。
「なんのこれしきの傷、大した傷ではありませぬ。具足が赤いのは良し、辰砂(しんしゃ)の赤でこそあれ」
つまり、具足や甲冑が赤いのは怪我して血に染まった色ではない、というのだ。池田恒興(いけだ・つねおき)と相対した時、彼の槍がかすったという肘を見せるように直政は言った。一笑に付した。
「士(さむらい)大将ともあろうものが、そうむやみに先陣に立つのはどうであろう。ほとんど陣中におらなんだそうではないか」
「指揮は清三郎(せいざぶろう・家老の木俣守勝・きまたもりかつ)に任せてあります。それに、陣などにひっこんでおっては手柄がたてられませぬ」
「………そういう問題ではないのだが」
傷がたいしたことがないならいい、と家康は引き下がった。この情けない亀のような恰好では、どのような説教もまったく説得力がない。
「以前より不思議に思っておったのだが、万千代は戦のたびに負傷するが、あっという間に快癒する。それもそなたがもってきたあの井伊の秘薬があったればこそか」
「秘薬などではございませぬ。ただの土にございます」
土といっても粘土質の塗り薬のことで、明から伝わった高価な抗生物質である。これを直政は故郷である井伊谷の領地から取り寄せた。すると家康の熱は徐々に引き、背中のおできも小さくなった。
「是非とも薬の調合の仕方を知りたいものだ。どのような名医が作ったのじゃ?」
「それは義母でござる」
「そなたの義母殿?あのそちと出会ったとき、側にいたあの尼御前か」
「名医とはその義母でござる。すでに示寂(じじゃく)いたしましたが」
「ほう、もう示寂されたか。おしいのう」
珍しく家康は目を細めた。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版参考文献文章引用 序章五~九ページ)

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前で、である。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「剣と紅」高殿円著作(文藝春秋)、「井伊直政」羽生道英(光文社)、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」」「ザ・プロファイラー」「天地人」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。裁判とかは勘弁してください。


現在の静岡県浜松市(浜名湖)の遠江(とおとおみ)は今川領、三河の松平(のちの川家康)のとなりである。井伊直虎は井伊谷(いいのや・湖の北側)という領地をおさめるおんな国人領主だった。義理の息子は<徳川四天王>のひとり、井伊直政である、このどんぐり眼の青年こそ、直虎の策で徳川家家臣となり、譜代の家臣よりも誰よりも大出世して「人格者の井伊直政」として、幕末には大老・井伊直弼を輩出するのである。直政の武功と言えば織田信長が『本能寺の変』で暗殺されたとき、近くに宿泊していた徳川家康を京から所領地の三河までの逃亡のいわゆる『伊賀越え』を成功させたことだ。
生涯[編集](ウィキペディアから井伊直虎の生涯を引用します)
遠江井伊谷の国人・井伊直盛の娘として誕生。
父・直盛に男子がいなかったため、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)と名付けられ、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。ところが、天文13年(1544年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は失意のまま出家する。直親はのちの弘治元年(1555年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。
その後、井伊氏には不運が続き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は永禄5年(1562年)に小野道好(道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところを母・友椿尼の兄で叔父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年(1563年)、曽祖父の井伊直平が天野氏の犬居城攻めの最中に急死(『井伊直平公一代記』には引間(曳馬)城(後の浜松城)主・飯尾連竜の妻・お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡したとされる(遠州惣劇))、永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。そのため、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
以上のような経緯を経て、永禄8年(1565年)、次郎法師は直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。
小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。以降は徳川氏に従い、徳川家康が井伊氏に仇をなしてきた飯尾氏の籠る引間城を落城させ、元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め道好を処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月にようやく撤退した。
その間、直虎は許嫁の直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、天正3年(1575年)、300石で徳川氏に出仕させる。
天正10年(1582年)8月26日、死去。享年48。家督は直政が継いだ。墓は井伊家の菩提寺である龍潭寺に許嫁の直親の隣にある。



「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は井伊直政(いい・なおまさ、幼名は虎松・仕官後の家康に万千代となづけられた)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 徳川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた徳川家康(とくがわ・いえやす、北条征伐を企てる豊臣秀吉の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、忠勝!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」本多忠勝は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 このとき突如として家康の『鷹狩り』の原野に、烏帽子直垂姿で尼姿の井伊直虎(義母・次郎法師)といて、平伏して見事な口上を述べ、徳川家康に仕官したのが井伊直政である。当然、徳川家には譜代の重臣たちがいたが、直政は仕官すると誰よりも大出世した。頭がいいのと武勇でしられ、どんぐり眼の色男である。のちに傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で家康の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、万千代にやらせましょう」
 直政ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの赤鬼!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
直政は、自分の軍団の甲冑の色を最近滅んだ甲斐・信濃の武田軍団にあやかって朱色・赤色に揃えていた。よって、家康は井伊直政を「赤鬼」と尊敬をこめて呼んだという。
「悪魔?」直政は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!万千代、信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 直政は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり井伊直政は凄い男だ。
 秀吉軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る直政である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が、赤鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋七郎兵衛と申す!貴殿、名は?!」
「井伊直政!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに直政は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 直政は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、三河の徳川家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・徳川家康四天王のひとり、井伊直政がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。三河の雄・徳川家康は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて徳川家康に茶を差し出した。
「で…家康殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」家康は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 徳川家康、かつて小牧・長久手の戦で秀吉軍をやぶった知恵の武将であったが、今は、秀吉の軍門にくだり、三河の大大名、竹千代は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの家臣の井伊直政とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 家康は絶句した。
 あの傾奇者・直政が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せればさすがの自分の家禄も危うい。もうすぐ北条攻めが始まり、天下はおさまる。秀吉が家康をおそれ、豊臣の未来の為に家康を殺しておきたいという感情くらい、家康には手に取るようにわかっていた。
 そして古狸とよばれた家康は権謀術数の四天王の中でのちに「人格者の井伊直政」と後に呼ばれる前の直政の傾奇者の風体をひそかに案じていた。
 秀吉はもはや天下人。邪魔ものの家康の瑕疵をみつけて、葬る算段をしているのを家康は知っていた。だが、家康は直政を評価して「天下の傾奇者」と評して、今後、直政が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 井伊直政もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。


 時代は、室町幕府の力がおとろえて全国の戦国大名が群雄闊歩の争いを続けていた戦国時代、である。天文四年(1534年)、井伊直虎(幼名は不明・ちなみに本書では麗姫と名付ける)は「井伊谷」一帯を治める領主の家に生まれた(実際には生年月日は不明。『剣と紅』高殿円著作・文藝春秋出版、からの情報である。ちなみに高殿氏の小説の直虎の幼名は香・かぐ、であるようだ)。一人娘なので可愛らしい名で、大切に育てられたのだろう。
麗姫は、菩薩のような美貌であったが、一方で「物事の先を見通す」ような、妖力のようなものも持っていた。麗姫は数刻後の「驟雨」「暴風雨」「台風」を予見できた。
それによって、領民は麗姫に手を合わせて、神仏のように「ありがたや、麗姫さま。次郎法師さま」とご利益を祈るのであった。「わらわは神仏ではないというに」直虎は苦笑するしかない。麗は風のように馬を走らせ、駆ける。さながら戦国のジャンヌダルクの如し、であった。
この頃、地方に根ざして領土をもつ武士武家を国人領主(こくじんりょうしゅ)と呼んだ。井伊家は十五ほどの集落を治める国人領主だった。質素だが、平城もかまえていた。標高115mの小高い山に井伊谷城(今はなく城跡があるだけ)があった。


天正三年、土を肥やす蓮華草が田の中に彩りを添える二月の二十五日、家康は久方ぶりに鷹狩りをしようと浜松に向かっていた。
その途中、彼は奇妙な邂逅(かいこう・不思議な出会い)を得た。家康は道のすみで伏して自分を待ちかまえている者たちを認めた。よく見ると、尼一人に十四、五歳の元服前の子供である。
近習の縁の者ということで話を聞くと、これが驚いたことに家康の過去に深い因縁を持つ者たちであった。
「いまでもよう覚えとる。そなたは朱鷺(とき)色の直垂(ひたたれ)姿で尼御前に付き添われて、道の脇にじっと伏しておった。鳥のように黒い、おおきな目をしての」
『東照宮御実紀』にはこうある。「三年(一五七五)二月頃御鷹がりの道にて姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる」――猛将として知られる直政だが、意外なことにその容貌についての記述も多い。『太閤記』には、秀吉の母大政所や正室おねを岡崎で接待した際、直政のあまりの男ぶりに侍女たちまで熱狂した、とある。それほどまでの美男であった。
「まだ子供の顔だったが、付き添いの尼御前より背は高かった。見たところ義母どのは童女のように若かったが、ではもう…」
直政の義母について、家康は歳までは知らなかったが、記憶にある限りは、そばにいた尼はまるで彼の姉のように若かったように思う。
「某の父のめいで父とは兄妹同然であられた方です。八つまで、あのお方のもとで育ちました。確かに童女のように小さいお方でしたが、恐ろしいほどに先の見えるお方でした」
意味深なものいいを、直政はした。
「ほう、先を……?」
直政の義母の名は井伊次郎法師直虎という。もちろんこれは男名なので、彼女が井伊谷の領主を継いだときにつけたのだろう。
「井伊直盛(なおもり)どのの娘ごだな」
「御意にござりまする」
「そなたの父とは、許婚同士であったとか」
「祖父直盛には義母一人しか子がなかったため、叔父の子直親(なおちか)と婚約させて、家督を継がせようとしました。直親は某の父にございます」
「うむ」
家康は知っていた。直政の父親と義母次郎法師が、生まれながらの婚約者であったにもかかわらず、夫婦になっていないことも。直政が義母以外の女の腹から生まれたことも。
「して、先が見えるとは、いかなる意味か? 女の身で領主を継いだのだろう。物事の先を読むのに長けているという意味か」
「……というより、本当に二日三日先が見えておられたようです」
思いもかけぬ返答に、家康は喉がつまった。慌てて目の前の膳からみそ汁をとりあげ、汁をすする。家康はいつも一日一汁二菜の粗食だった。
「それは面妖な」
「義母は幼い頃、かの名僧黙宗瑞淵(もくそうずいえん)に、この娘はこの世を動かすだろうと予言されたと聞いておりまする。某が生まれるずっと前、まだ井伊家が祖父直盛のもとで安泰であったころは、井伊の総領姫は“”じゃと言われておったとか」
「…」
とはいわゆる“座敷童(ざしきわらし)”のことである。三河出身の家康にも聞き覚えがある言葉であった。
「義母どのは川の堤がいつ壊れるから直させよとか、三河から疫病が流れてくるので用心してあまり街道に近づくなとか、不思議なことをよく口にしていたそうです」
「なんと。義母どのはまるで戦の軍師のようではないか」
家康はあの小さな尼に、童女のような直虎に、そのような力があるとは考えられなかった。
彼女は直親の死後、幼なかった直政の代わりに急遽家督を継いだ。直虎は神仏のような能力があった?天下を動かすほどの能力を?もっていた?
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 序章九~十二ページ)
話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、前田利家の甥の前田慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。


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源義経<異形の将 翔けよ、義経>外伝「義経の兄・頼朝と尼将軍北条政子」我らは朝廷の犬にあらず!

2015年01月24日 20時30分45秒 | 日記








 なお、ここで少し、尼将軍・北条政子のことを熱く語りたい。
 静岡県伊豆の国。承久の乱(一二二一年)鎌倉幕府対朝廷………この戦でおおいなる働きをしたのが、源頼朝と結婚したとされる北条政子である。尼将軍とも呼ばれ、親の反対を押し切って頼朝と結婚した。
 雨の中の山中を二十キロメートルも駆け抜けて、頼朝の元に走り、政子と頼朝は結婚した。鎌倉武士ら彼らを決意させた名演説…。北条政子(一一五七~一二二五)
 源頼朝は伊豆山神社にいた。僧兵八百対北条時政二十~三十人の兵。結婚は、源頼朝三十一歳、北条政子二十一歳だった。
 文治元年(一一八五年)平家を滅ぼし、源頼朝が鎌倉幕府をつくる。ちなみに昔に学校で習った鎌倉幕府誕生年号の語呂覚えは一一九二年…”いいくにつくろう鎌倉幕府”だったが、最近の研究で一一八五年…”いいはこつくろう鎌倉幕府”にかわった。
 平家は朝廷に近づき過ぎて滅んだ。義経は朝廷から官位を。源頼朝は弟・義経追討令を出した。
 義経の妻だった静御前を、源頼朝は呼び寄せて舞わせた。静は「よし野山 みねのしら雪ふみ分て いりにし人そ こひしき」と舞った。つまり静御前は源頼朝の前で「義経のことを愛おしい」と。源頼朝は激怒した。
「きさま、なんのつもりだ!斬り捨てるぞ!」
 しかし、北条政子が止めた。
「私が流民であるあなたさまのもとへ雨の中山中を歩き回ってあなたさまにたどりついた。そのことを思えば、そのころの私も今の静と同じ気持ちです。義経殿の間のことを思い愛しいとおもわない訳はありません」
 その言葉で我にかえった源頼朝は静御前に褒美を与えた。
 建久三年(一一九二年)、源頼朝は征夷大将軍に任じられる(日本の武士の頭領)。
 建久九年(一一九八年)、北条政子が四十過ぎのとき、源頼朝は十二月二十八日上洛したのちに死亡する。北条政子は剃髪して尼となった。
 伊豆山神社に『曼荼羅絵図(まんだら・えず)』が残されている。図の中央に阿の文字(北条政子の髪の毛で縫われている)。
 源頼朝亡きあと、十五年間北条政子は御家人たち(武士たち)の信用を得て、幕府を尼将軍として運営していく。
 将軍となった息子ふたりも死んだ。二代将軍源頼家(よりいえ・長男)は蹴鞠(けまり)にうつつをぬかし、御家人の土地を守ることをおこたった。やがて、坂東の荒武者たちの信用を失い、暗殺された。三代将軍源実朝(さねとも・次男)は和歌に通じて時の天皇後鳥羽上皇とも親しくなる程の文化人。やがて右大臣に。
 だが、朝廷に近づき過ぎた。御家人の心は離れ、建保七年(一二一九年)実朝は暗殺されてしまう。襲ったのは頼家の子で公暁(くぎょう)だった。
 次期将軍をどうするか?北条政子は尼将軍として慕われるようになる。
 尼将軍北条政子は後鳥羽上皇の皇子の中から将軍を、と。上皇は「摂津の国の地頭を廃止せよ!」と無理難題をいう。北条政子らは拒否した。
 承久三年(一二二一年)、頭にきた上皇は西の元・平家筋の軍勢を集め、幕府の京都御所を襲撃させた。
 そして「北条義時(よしとき・幕府執政)を討て!」と全国の武士に命令した。
 後鳥羽上皇の元に巨大な軍勢が集まる。朝廷軍巨大軍がせまる。朝廷に弓引いて勝てるのか?義時をさしだせば………幕府はつぶれる。義時はともに育った北条政子の弟であった。
 後鳥羽上皇朝廷軍対鎌倉幕府軍(うらぎり者がでてこない内に鎌倉軍で朝廷に京へ出撃するしかない!)待っていると負け。恭順すれば後々に命令をうけて滅んでいく。
 そして、北条政子は決断する。
 承久三年(一二二一年)五月十九日(吾妻鏡より)「皆心をひとつにして承るように。これが私の最後の言葉である。亡き頼朝公が朝敵をせいばいし、幕府をそうそうして今、官位といい俸禄といいその恩は山より高く、海よりも深い。恩にむくいる心が浅い訳はなかろう?
 今、逆臣のざんげんによって道理にそむいた綸旨(りんじ)が下された。
 名をおしむものはすみやかに京にのぼり裏切り者を討ち取り、三代に渡る将軍の載積(さいせき)を守るように!ただし、上皇につきたいものはただちに申し切れ!
 侍たちよ、昔は三年間の御所警備係を一生の大事として京に上りましたね。でも帰って来るときには力尽きて、みのかさを首にかけ、裸足という風体でした。
 亡くなられた頼朝公はそれを哀れと思われ、三年の役を六か月に縮め、みなが助かるように計らって下さったのです。これほど情け深い頼朝公の御恩を忘れはて京方へつくものはそうするがよい」
 つまり、武士は鎌倉では重要視されるけれども、京都などにいけば貴族から足蹴にされているという。恨みを晴らせ!これで対朝廷軍としての鎌倉幕府軍の士気は上がった。
 京へ進撃する。最初は十九騎でしかなかったが、京に近づくにつれ何万騎に増えた。こうして鎌倉幕府軍は圧勝!六五〇年の武士の時代となったので、ある。
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 尼将軍北条政子の決断』より参考文献引用

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「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」2017年度NHK大河ドラマ原作<上杉鷹山公の改革物語>「為せば成る」5

2015年01月24日 08時08分57秒 | 日記








治憲はいよいよ国元の米沢へ行くとき、尊師・細井平洲先生から「はなむけの言葉」を送られた。国元には彼が片腕と頼む家老の竹俣当綱がいる。彼からの頼りによれば、大半の重臣たちが新しい藩主治憲の『質素倹約・一汁一菜・着物は木綿等』の指令に対して反発の色を濃くしているという。まずこれを説明しなければならない。
出発の前夜、細井平洲が暇乞(いとまご)いの挨拶に訪れた。これまで四年半にわたって続けられてきた教育もひとまず終わることになる。
治憲は姿勢を正して礼を述べた。
「まだまだ教えを賜りとうございましたが、江戸と米沢と隔たりますと、それもままならぬのが心残りでございます」
「またの機会もございましょう。今日はお国へ赴かれるのをお送り申し上げる言葉をしたためてまいりました」
平洲は書面を取り出した。最初にはこう書いてある。
「これまで御屋形様は聖賢の道を学んでこられましたが、それはまさに今日のためでございます」
治憲は深く頷いた。そうなのだ、わたしはこの日のために学んできたのだ。その学問の実践するべき、あいがたい、そして輝かしい第一歩を踏み出そうとしているのだ。
そして、少しあとにはこんな文面もあった。
「今、必要なのは勇気です。勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずんば何をもってか行われん」文字が躍っている。平洲先生がもろ手をあげて祝福してくださる。わたしは勇気をもって難関に改革に挑むのだ。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用46~47ページ>





         入国




  明和六年初期、
 十九才になった治憲(のちの鷹山)は、はじめて領国米沢へと向かった。
 江戸を出発する数か月前、永く胸を患っていた藁科松伯が死んだ。
 鉄砲隊を先頭に千人以上をひきつれて街道筋をねり歩き、『米沢藩の行進』といわれた米沢藩の大名行列は改革のため100人あまりに減らされた。米沢藩にとって最初の宿泊地は『板谷』である。


「なんということだ……」
 米沢藩家臣の水沢七兵衛は藩主・上杉治憲を出迎えるために板谷にはいって、愕然としてしまった。なんということだ。板谷の宿場には誰の姿もなく、宿場はボロボロに壊れ、みるも無残な状況だった。まさに宿場はゴーストタウンと化していた。
「……もっと……はやく…」水沢七兵衛はやっとのことで喘いだ。「もっとはやく板谷にくるべきだった…」
「水沢さま!」
 部下のひとりが水沢七兵衛の元に駆け寄った。
「おお、榊。どうだ…?!」
「駄目です! 誰も宿場に残っておりません。御屋形さまが泊まれるような宿は一軒も…」「くそう」水沢七兵衛は愕然としたまま、ほぞを噛んだ。「……もっと早くきていれば……」
「しかし……出迎えを命じられたのは二日前です!」
「…なぜ板谷がこんなことに…」
「……皆、年貢が高くて生活が苦しいために出ていったのでしょう。しかも…逃亡する農民たちの通り道であるためそれらの連中が金や物を盗み……結果、このような廃墟となったかと…」
「くそっ」
「どうなさいます?! 水沢さま」
「………ありのままでお迎えするしかない。…後は……わしが腹を切れば済む…」
 水沢七兵衛は愕然としたまま喘ぐように言った。水沢は暗澹たる思いだった。これで自分の人生も終りだ。もうすべておわりだ。いや、自分はいい。しかし、残された家族は…? そして何より藩主に申し訳がたたない。自分はなんとした失敗をしでかしたのだろう。「……わしが……腹を切れば……」
 水沢七兵衛はもう一度、愕然としたまま喘ぐように言った。


  漆黒の夜だった。
 蒼白い月明りがきらきらと差し込むこともあったが、ほとんどは暗い暗闇だった。それは水沢七兵衛の愕然とした暗澹たる気持ちにも似ていた。
 上杉治憲は賀籠を降り、廃墟のような板谷を家臣とともに歩いて、茫然とした。治憲や竹俣らはボロボロの宿らを茫然と見ながら歩いていた。
 しばらくすると、水沢七兵衛らが出迎えに参上した。
「御屋形さま! 江戸からの長旅……領国・米沢の板谷宿にご到着のおり、まことにご苦労さまにござりまする!…私、出迎え役の水沢七兵衛らにございます」
 水沢七兵衛と部下が地面に膝をつき、頭をさげて言った。
「出迎えご苦労である、水沢」
 治憲は魅力的な笑顔のまま言った。
「ところで水沢殿」竹俣当綱は水沢に声をかけた。そして続けて「…御屋形さまや我らが泊まる宿は何処じゃ?」と尋ねた。
 水沢七兵衛と部下は頭を深々と下げ、「…ございません!」と胸を締め付けられる思いで答えて謝罪した。「…宿は……ございません! 申し訳ありません!」
「なんじゃと?」竹俣当綱は水沢にそう尋ねた。「どういうことじゃ、水沢殿」
「……はっ! なんとも申し訳なく……」
「水沢殿……そちにもわかる通り、御屋形さまはわれらとともに歩いてこられたのじゃぞ。それが……休む宿もないと申すのか…?」
「………申し訳ありません。そうです! …我々がこの板谷に着きました頃にはごらんの通りの廃墟となっており……宿は…そのぉ」水沢七兵衛はしどろもどろになった。
「それは言い訳にならん! 水沢殿、そちはずっとこの米沢におったではないか。板谷がこうなっているのは調べればわかったはず!」
「……申し訳ありません!」
「これは国元から御屋形さまへの嫌がらせですか?!」佐藤文四郎が口をはさんだ。
「いえ! けして……その…ような事では…」
「しかし!」
「もうよい」しばらく冷静な表情できいていた治憲は文四郎や竹俣らをとめた。そして、魅力的な笑顔をつくり、口元からきらりと白い歯をのぞかせてから優しくいった。
「今晩はこの板谷で野宿しようせではないか。さあ、野宿の準備をしてくれ。水沢、まず寒さをしのぐ火だ。そして酒。家臣や足軽たちにふるまう。…さ、準備してくれ」
「ははっ!」その言葉に、水沢七兵衛はもう一度、頭を下げた。
 こうして治憲らは板谷宿で野宿することになった。焚き火がたかれ、日本酒も用意されて団欒のようなものが出来ていた。談笑するものが出来てもいた。しかし、水沢七兵衛らはそれらの集まりから外れ、暗澹たる気持ちを拭い去ることが出来なかった。冷たい地面に腰をおろしていた。無理もない。取り返しのつかない失態を演じ、これからその罪滅しのために切腹となるのだから…。元気に明るくふるまえ……というほうがどうかしている。「水沢殿」
 しばらくして、そのような声がして振り向くと、佐藤文四郎と上杉治憲がやってきていった。文四郎が水沢に声をかけたのだ。
「これは佐藤さまに御屋形さま…」
 その言葉に水沢はもう一度平伏した。
「礼はもうよい。それより水沢、酌をさせてくれぬか」治憲が酒瓶を手に、言った。
「は……ははっ!」
 水沢らは杯を手にとって、ひざまずいたまま杯を前に差し出した。
「出迎えご苦労であった」
 治憲が酒瓶から酒を杯にそそぎながら、水沢に労いの言葉をかけた。それに対して水沢七兵衛らはもう一度、深々と頭を下げた。それからしばらくして、
「お…御屋形さま!」と土下座した。そして続けて「申し訳ありませんでした、御屋形さま……この責任をとって、私めがこの場で腹を切って…お詫びを…!」と必死に訴えた。「ならぬ!」
 治憲がハッキリとした口調で水沢を諫めた。「これくらいのことで腹を切るなどとんでもないことだ」
「……しかし!」
「もうよいのだ」治憲が魅力的なきらきらした笑顔をつくり、おだやかな口調で続けた。「このようなことはなんでもないことだ。私は気にしておらぬ。それに…野宿も案外楽しいではないか、のう水沢」
「御屋形…さま…」
「謝って改めるに憚ることなかれだ。水沢は謝った。もう…それで済んだ。これからは気をつけてくれよ」
 治憲は笑顔のままいうと、佐藤文四郎とともに場を去った。
 残された水沢七兵衛らの胸に熱いものが込み上げてきた。涙が瞼を刺激して、それを堪えようと下を向いて瞬きしたが、無駄だった。涙がボロボロとこぼれ、やがて水沢らは号泣した。
「……御屋形…さま…」
 水沢七兵衛らはそう涙声で言って、もう一度、頭を下げた。………


         火種と希望




  一夜明けると、周りは銀世界だった。
 上杉治憲(のちの鷹山)はふたたび賀籠に乗り、行列はふたたび始まった。
 しんしんと降りしきる白い雪。それらは何もかもを白く覆い隠し、何もかもを重く包み込むかのようだった。…板谷から米沢までは六里の道程である。
 しかし、領内にはいっても何も風景はかわらなかった。
 土地は死んでいた。
 何よりも領民の心が死んでいた。
 希望がないから誰もやる気がない。活力もない。瞳の輝きもない。土地も人間の心も、すべてが死んでいた。
 上杉治憲は賀籠に乗り、隙間からみえる雪の米沢の風景や領民らの希望のない瞳をみて、絶望してしまった。なんということだろう……。これが、米沢か…。治憲は小さな火鉢を手にとり、火もなく灰だらけとなった中を見続け、
「米沢はこの灰と同じだ。……灰に種をまいても…育つだろうか……とんでもない国にきてしまった」と、心の中で呟いた。
 絶望的な気持ちだった。心臓がかちかちの石のように重く、全身の血が岩石のように固まっていく気持ちだった。「……灰に種をまいても…育つだろうか?」
 治憲は蒼さめた表情のまま、火鉢の中を指でかきまわしてみた。
 するとどうだろう?……わずかだが残り火がみつかった。「…これは…」そして、ふうふう。ふうふう。上杉治憲はいまにも消えそうな火を吹き続けた。
 その音に気付いて、お側の者が「火を取り替えましょう」と言った。しかし治憲は「いや、一寸思うことがあるからこのままにさせてくれ」と断った。
 ふうふう。ふうふう……しばらくするといまにも消えそうだった火がふたたび明るさを取り戻した。火が蘇ったのだ。上杉治憲は火種を覗きみながらにこりとした。
 そして、それからしばらくして治憲は、
「賀籠をとめてくれ」と言った。
  行列がとまると、賀籠から治憲は出て雪道に降り立った。手には小さな火鉢を持っていた。家臣らは跪いた。
 上杉治憲の表情は、さきほどまでの絶望的な表情ではなかった。
 しばらく沈黙ののち、治憲は語り始めた。
「皆。きいてくれ。米沢領に入って、正直……私は絶望した。
 お前たちに改革案をつくらせたが、それを受け入れる国のほうが死んでいた。この灰のように。……しかし、残った灰をかきまわしていたら火がついた。
 これだ! と思った。
 残った火が火種となって、また新たな火を起こす。そしてその火がまた火をおこす。そうしたことがこの国でも出来ぬものかと思って火を起こしてたのだ。この火種は誰あろう…お前たちだ。火をつけるものは藩士たちであり領民たちだ。
 濡れている者、湿っている者、火をつけられるのを待ち侘びている者、私の改革に反対する者……一様ではあるまい。
 いくら吹いても火がつかぬ者も多いだろう。しかし、私はかならず火がつくと信じるしかない。そこでお前たちの胸に燃えている火を、心ある藩士たちにつけてほしい。そうすればいつかきっと改革の炎が燃え上がるに違いない!」
 治憲の言葉をきき、一同は静まった。しばらくのち、竹俣当綱が抑えきれなくなって、「御屋形さま! その改革の火を私めにわけてください! ……米沢藩の改革が実るまでたやさずに置きます!」
 と嘆願した。
「うむ」治憲は口元に微かな笑みを浮かべて、頷いた。
「御屋形さま!」佐藤文四郎も言った。
「御屋形さま! ……私めにもその火をわけて下さい! 私も改革が実るまで火をたやしません!」
「うむ」
 それからは「私にも、私にも!」とたくさんの家臣たちの声があがった。
 それに大して、上杉治憲は口元に微かな笑みむを浮かべて、「うむ」と頷くのだった。


  それからしばらくして、上杉治憲は白馬に乗り、米沢城へ初入城した。
 しかし、国元の重役たちの中には、治憲公に反対する者も多かったるそのボスがのちに『七家騒動』をおこすことになる千坂高敦(国家老)や須田満主や芋川延茂や色部たちだった。
「まるで物乞い入城だ…」
 天守閣のうえの窓から治憲らの姿を眺めて、千坂が吐き捨てるように言った。
「まったく…」須田が同意した。「……米沢のしきたりもわからぬ養子藩主め」
「あれをみよ」芋川が続けた。「竹俣のやつ…江戸で冷や飯を食らわせてやったのに……意気揚々と乗り込んでくる、ふん」
「しかし……例え雪がふっていようと入城の際には着替えてくるのが常識だろうに…」
「とんでもない若造だ。一から教育しなおさなくては」
『七家』は勝手きままに愚痴ともとれるような陰口を囁いて、養子藩主・上杉治憲を嘲笑した。そんな中、色部照長がオドオド言った。
「……いやいや、あの御屋形さまは年こそ若いが…なかなかのやり手……甘くみていると火傷しますぞ…」
「なんだと?」千坂が笑った。そして「色部、お主……あの若造にたらしこまれたか?」「…いや…そのようなことは…」
「それならいい」
『七家』そういうと、また、せせら笑うのだった。                  
        反発




  予想通り、国元からの反発はあった。
 しかし、その反発は治憲の予想外だった。
 なにせ改革どころかその案さえ伝えられてなかったのだ。…二年間も……。

 千坂高敦が治憲の裁可を求めたのは、来春早々に催される鉄砲上覧の順序を、馬廻組を先にするか、五十騎組を先にするかという問題についてであった。戦国時代、上杉謙信の養子の二代目・上杉景勝に仕えた家老直江山城守兼続が、米沢藩の山奥で、秘密裏に鉄砲を量産していたのはもはや歴史家だけでなく誰もが知るところだ。
西吾妻山の白布温泉あたりで、今は「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の石碑が建っている。
この馬廻組や五十騎組、与板組というのはそれぞれ特徴があって、米沢藩の侍の上層部は侍組といい、馬廻組とは藩祖上杉謙信に仕えた勇猛な旗本騎馬隊百騎の子孫たちである。五十騎組は二代目景勝の実家である上田長尾家からつき従えてきた俊英旗本たちの後裔である。そして与板組は、これは直江兼続の越後与板衆の後裔である。
どちらが先に「鉄砲の上覧の催しをするか?」どうでもいいようにも思えるが、これは侍というより上杉の誇りがかかっていた。上杉の義である。
ついに千坂高敦が到達した解決策は「鉄砲上覧の行事を廃止する」というものだ。
治憲は千坂の案を用いなかった。
「上杉家代々続けられてきた直覧を、余の代で廃止するのは誠に嘆かわしい。鉄砲は第一武器であり、今が徳川泰平の世とはいえだからと“ぬるま湯”につかって防衛力も軍事力も米沢藩に備わらないではいわば片落ちである。馬廻組と五十騎組、お互い話し合う手はないものか?」殿さまにそこまでいわれたら、両組とも話し合うのはあたりまえだ。
「これ以上お屋形さまをお悩ませしては申し訳ない」
二月四日、格上の馬廻組から「先勤を五十騎組、に譲りたい」と申し出てきた。これを受けた五十騎組もわだかまりを解き、ついに九日に上覧は古式に則りつつがなく行われた。
治憲ははかどらぬ改革路線に苦悶する当綱を労わるようにいった。
「民の心がなお至らぬのではないか」
この一言で当綱の迷いが消えた。そうだった! 真っ先にしなければならぬのは人々の心に訴える事だったのだ。多くの人が改革は必要だと考えている。だが、従来の習慣や秩序が変化することには不安がある。積極的にそれに協力するべきかどうか、迷いが大きい。
人は正しく教えられて、初めて「人間」になる。「改革」を成功させるのに一番大事なことを忘れていた!まずは教育、既得権益の打破!競争原理!論語と算盤と経世済民だ!
「細井平洲先生を米沢藩に招きたく思い御座る」
竹俣は言った。治憲は頷く。「それがよい」
そして、治憲たちは江戸に行き、平洲に“三顧の礼”をもって、行動した。ここまですれば断ることはできない、ものの頼み方をする、ので、ある。「ご成長なされた」
平洲は愛弟子・治憲公の三顧の礼に涙して喜んだという。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用53~64ページ>

 上杉治憲は千坂らが控える座敷に歩いてきて、上座に腰を降ろした。そして、すぐに、「千坂……江戸で頼んだ改革案を家臣たちに話したであろうな」と尋ねた。
「いいえ」千坂高敦は当然のようにいった。「伝えておりませぬ」
「……なんだと? ……江戸で頼んでから二年間…。まったく伝えてなかったと申すのか」「いかにも!」
「…いかにも?」治憲は動揺した。「では、なぜ伝えなかったのだ?」
「ははっ! なにせその改革案とやらは江戸にいる竹俣らの入れ知恵…そのようなものを藩士たちに伝える訳にはまいりません」
「入れ知恵などではない!」治憲はキッパリと言った。
「確かに、私は改革案を竹俣らに作らせた。……しかし、私が認めた以上、もう改革案は私からの案である」
 しかし、治憲の言葉も千坂には効かなかった。
 千坂は「しかし……江戸では御屋形さまが自ら改革案を告げられたとか……。一方で、国元の家臣たちには私が伝えるのでは……国元を軽くみているともとられかねません。そのようなため、伝えませんでした」とひようひょうといった。
「……直接家臣たちに伝えよ、と私に申しているのか…」
「いえいえ。そういうことのまえに、まず我ら重役たちにご相談なされてからがよろしいかと…」
「いや」治憲は静かに首を横に振った。そして続けて「重役たちには相談しない。したらまた同じことだ」と言った。
 しばらくして、須田満主が口をはさんだ。
「…御屋形さま!」
「……なんだ?」
「御屋形さまに、我ら重役たちより申しあげたいことがあります!」
「申せ!」
「ははっ」須田は言った。「板谷宿では火をたいて野宿されたとか……。まったくもってあってはならぬ振るまい。藩主が民に軽んぜられるのは何より軽い行いでござります!
 しかも、そうそうと賀籠を降り、大沢宿からご乗馬なされたよし。…これはとんでもないこと! 賀籠から降り、馬に乗り換えるのは城から一里の羽黒道からが決まりであります。米沢には米沢のしきたりがあります。以後、お気をつけを」
 芋川が続けて、余裕の笑みを浮かべつつ言った。
「御屋形さまは日向高鍋藩三万石からの養子ゆえ、米沢十五万石の家風がわかりますまい。郷にいっては郷に従え、という諺があります。これからは私どもの申す通りに行動していただければ間違いはないかと……」
 治憲はしばらく愕然としてしまった。このような反発はある程度は予想してはいた。しかし、これほど酷いとは…。なんということだろう……。だが、茫然と黙っている訳にもいかない。治憲は気を取り直してから、
「……お前たちの意見はわかった。過ぎたことは咎めまい…」といった。そして続けた。「明日。藩士たちに私自ら改革案を話す。明日、広間に藩士たちを集めよ! 足軽たちもすべてだ!」
「…足軽も?」
「そうだ。足軽たちも侍とともに藩を支える大事なものたちだ」
 須田は反発した。「謙信公以来、広間に足軽たちをいれたことはありません。米沢藩のしきたりに反します!」
「……ならばそのしきたりを破ろう。必ず呼ぶように!」
 治憲はそういって少しだけにこりとした。とにかく藩士たちに改革案を話せばなんとかなるだろう。なんとか…なる。きっと…なる。藩士たちの心に火をつけるのだ。
 それはきらきらとした微かな希望だった。火をつけるのだ……藩士たちに…。


  こうして、次の日、米沢城の広間に過信や足軽たちか集められた。
 治憲は集まった大勢の家臣たちを前に語り始める。
「藩は今、藩を幕府に返上するか…自滅するかの瀬戸際にたたされている。しかし、私はこの米沢藩を改革したく思う! だが…私の力にも限界がある。私は米沢の生まれではない。九州の小藩の生まれである。私は若輩で、技術も経験も不足している。
 この米沢に来たのも、今日が初めてだ。お前たちとも…今日が初体面た。
 目標は大き過ぎ、私の力はあまりにも足りな過ぎる。その隙間を、皆の協力で埋めてほしい。……頼む。
 そのためにはまず、情報はすべて公にする。各持ち場では、身分、年功、経歴を気にせず、思うように意見をいいあえるようにする。いい意見はかならず私の元まであがってくるように。…また私や藩士たちが決めたことはすべて家臣に行き渡るようにしたい。
 次に、米沢の人口は普通ならば十五万人いるはずだが、今は十万人に減っているという。きくところによると、貧しい家では生まれてきた子を間引きすることが後をたたないときく。命というものは例えどんな貧しい家に生まれようとも等しく尊い。
 改革の目的は、領内にいる病人、老人、子供など、弱い立場にいる人々を救うための政を実現させることだ。そのような改革をするために人事を一新したい!
 まず、竹俣当綱を執政に、莅戸善政を奉行に任命する!」
「ははっ」
 集まった一同にざわざわとした動揺が広がった。治憲にとってそれはあまり手応えのいいものではなかった。しかし、何にせよおわった。改革をするのだ! それしかない!


  治憲と竹俣当綱らが通路を歩いていた時、千坂や須田、芋川らがは背後から声をかけてきた。「御屋形さま!」
「…なんだ? 千坂、須田」
「はっ」”七家”は頭を軽くさげた。そして続けた。「お話…大変関心してききました。なかなかご立派な考えにござりました。しかし……あのような耳に心地好いお話をされたよし。何か、御屋形さまには資金を調達する妙案がおありかと。その案を是非ともお聞かせ願いたい」
「……そのようなものはない」
 治憲は当然のように言った。
「なんと?」
「私は初めて米沢にきたのだ。そのような妙案などあろうはずもない」治憲はそういって笑みを浮かべた。きらきらと白い歯が光る。それはとても魅力的なものだった。
「妙案がない?」
「そうだ。………それは是非お前たちにお願いしたい。私はまだ若輩で、力不足だ。是非、お前たちの協力を願いたい。…頼む」治憲はいった。
「……ご謙遜を」千坂が笑った。
「我々は官職を追われた身……。そのようなことは御免こうむります」
「我々隠居組は……御屋形さまのご改革がうまくいくことを願って…遠くから見学させてもらいます」
”七家”は頭を下げた。そしてそのまま身をひるがえして歩き去った。
 その”七家”の態度に、上杉治憲はただ茫然と黙り込むしかなかった。それに対して、「御屋形さま…気にすることはござりません」
 と、莅戸善政は治憲の耳元で言った。


  いつ頃だろう。
 須田の息子の須田平九郎や、芋川の息子の芋川磯右衛門らが、小野川温泉に向かう道を歩いていた。一同は、温泉につかるために道を急いでいた。
 ちなみに『小野川温泉』とは小野小町が発見したといわれる、米沢の温泉郷である。
「なんでも頼み申す、頼み申すと……まったく藩主としての威厳というものがない」
 須田の息子が悪口をいった。続けて芋川の息子が、
「まあ……あれは養子だからな。藩主の威厳というものは一朝夜で身につくものではない…まあしょうがない」
「しかし、御屋形があれではな」
「くそう、俺の親父を首にしやがって!」
「くそったれめ!」
 須田の息子たちはほぞを噛んだ。そして「今にみてろよ!」と心に誓った。


  春がきた。雪深い米沢の春は遅い。
 雪がとけるの頃は、四月頃で、そんな春は誰にとっても待ち遠しいものだ。
 その朝は、とてもいい天気で、きらきらとした朝日が森や山々に差し込んで、すべてのものを白く輝かせていた。米沢に流れる河にも、そのような朝の光が差し込んで、陽の光で、きらきらとハレーションをおこす。それはしんとした静けさと幻想の中にあった。
 治憲は佐藤文四郎だけを連れて、馬に乗り、極秘で領内の視察に出掛けた。
 しかし、視察の情報は事前に漏れていた。
「……一汁一菜……着るものは木綿…などどいっでもよ。結局は、領民がら年貢をしぼりどろうっで考えだべ。その手にのるがっで」
 領民の心は荒んでいた。領民は陰では口々にそう言っていた。まだ誰も治憲の改革の真意を理解するものは、いなかった。
 治憲と佐藤文四郎が馬でやってくるのが見えると、農民たちは平伏した。
「皆、おはよう! 米沢藩主、上杉治憲である」治憲は馬から降りた。そして「何か訴えたいことがあればきこう」と優しくいった。
 しかし、何も、よい意見などはきかれなかった。ただ、領民は、
「御屋形ざまのおかげで、日々、安心して暮らしていげます。まごどに、ありがだいごどで…」とおべんちゃらを言い、頭を下げるだけだった。
 すべてがうわべだった。すべてがおべんちゃらだった。すべてが嘘だった。
「………そうか。畑仕事の手を休ませてすまなかった。仕事に戻ってよい。では」
 上杉治憲は無力感を感じずにはすいられなかった。
 これでは視察の意味がない。…誰かが漏らしたのだ………視察の情報を…。

  米沢城に戻ると治憲は、「誰も本当のことをいってくれぬ」と不満を漏らした。
「それはとんだ無駄骨でしたな」千坂は笑った。
 治憲は言った。「領民たちがかたくななのは何のために生き、何のために仕事をするかという目標がないためだ。そこで私はその目標をつくろうと思う」
「……目標?」竹俣が尋ねた。
「うむ。生きることを喜び、働くことを喜べるような目標だ。それにはまず領民たち…自分たちがつくりだしたものが正当な値段で、自分の収入とならねばならない。
 この国では税はすべて米で組まれている。しかし、東北には冷害も多く、米づくりには苦労も多い。米がいま以上の高い穀物となるのは無理だ。そこで東北には東北にあった農作物を植えることが必要だ。
 例えば、漆、こうぞう、桑、藍、紅花……。とくに漆は蝋や塗料の材料がとれて、非常に多きな富を生む。これらの植物を中心に植えてみたらどうだろう?」
「今おっしゃられた植物はすでに、米沢でも植えておりますが」竹俣が言った。
「私がいいたいのは他藩では米沢の産物を原料にさらに別な産物を生んでいるということだ。たとえば越後の小千谷ちぢみ、原料は米沢のからむしだ。奈良のさらしもしかり。さらに上方の口紅やゆうげん染めも米沢の紅花が原料だ。……もったいない」
「御屋形さまは、当米沢でもちぢみをつくれと?」莅戸が尋ねた。
「その通りだ。ちぢみだけではないぞ。原料を他藩に売るだけでは益にならぬ。とにかくこの米沢で手を加えて出来るだけ高く売ることを工夫するのだ。
 生糸からは絹織物、紅花は紅、漆を植えて……漆器をつくろう。米沢には小さな池、沼、川が多い。鯉を飼おう。笹の観音の前で一刀彫りをみた。『笹の一刀彫り』とでも名付ければあれは売れるぞ。また、
 小野川の湯には塩分が多いときく。この山中でも、塩がつくれるかもしれない」
「少し問題があります」竹俣が口をはさんだ。「米沢でちぢみを作ろうにも、職人がおりません」
「ならば、小千谷から職人を招け」
「は?」
「経費をきりつめるだけが改革ではない。必要ならば投資もやってこその改革だ。それが金の生きた使い道だ」
「はっ。されど…。御屋形さまがおっしゃられることは農民が片手間で出来ることではありません。農民は米造りなどで手いっぱい。人手がありません。不可能です!」
 治憲はにこりと笑って言った。「人手はある。……まずお前たちの家族だ」
「家族?」
「うむ。中でも老人と子供は鯉を育てるのに興味を示すだろう。なぜなら……老人はいずれ絶える命。子供はこれから長い人生、に向き合っているからだ。鯉を育てて得た収入は、肩身をせまくして暮らしている老人たちの支えとなる。
 蚕を育て、糸をつむぎ、絹などを織るには家臣たちの妻や母がいるではないか。老人と子供とともに女子たちにも働いて何かしらの収入を得れば……家計も潤うであろう。私が人手があるというのはそういうことである」
 竹俣は「お考えよくわかりました。しかし…」と言おうとした。が、その前に千坂の怒りが爆発した。
「わしにはわからぬぞ、竹俣! われわれはすでに領地取り上げなどに甘んじておる! それのみならず今度は藩士の妻や家族に、鯉に餌を与えさせ、はたを織らせるなど言語道断! そんなことを…」
「まあ、千坂さまのご怒りはのちほど。……それより御屋形さま…残念ながら土地がござりません。そのような多種多様な植物を植えるのは……米沢は山国。土地がなく、狭うござりまする」
「いや土地はある。しかし……これから申すことはいよいよ千坂たちを怒らせる。たとえば、この城や家臣たちの家の庭だ。そこに桑を植えよう。重役五十本、他は三十本……と割り当てる。まず、侍がしてみせるのだ。
 まずこちらが動かなければ領民は動かぬ」
「おそれながら…」木村高広が言った。「武士たるものが庭に桑を植え、ちぢみを織るに至っては……およそ武士としての権威がなくなるかと……」
「武士の権威とは何か? 武士とは何か? …私からみれば民の年貢によって養われているだけに過ぎない。私も同じだ。およそ武士たるものには徳を積み、民の模範となり民を幸せにしてこそ武士の権威といえる。したがって武士には、とくに藩士には徳がいる。
 だが、この治憲、若年にしてまだ徳が足りぬ。だから、領民も本当のことを話してはくれぬ……」
「しかし……御屋形さま…それでは肝心の藩士たちのお城の仕事がおろそかになりはしませんか?」
「木村」
「はっ」
「では、尋ねるが……今、お城の仕事とはなんだ? どんな仕事があるのだ? 武士、役人たちの習わしごとはあろう。しかし、肝心の民とつながる仕事は誰がしているのだ?
 ………そんなお城の仕事より、鯉を飼ったほうが百倍も民の役にたつ…」
 治憲はハッキリと言った。それにたいして千坂や竹俣らは何もいえず、ただ沈黙するしかなかった。……とにかくこれからが治憲の改革の始まりだった。



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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.155小平的な先行事例「米沢市アベノミクス経済特区化・高福祉高負担」

2015年01月23日 18時25分28秒 | 日記







私は救国の新世紀維新(国の仕組みを変える)のは

あとでいいと思う。


小平の一国二制度のようにまず先行事例をつくる。


本当に出来るかは謎だが、


私が市長になって米沢市を「アベノミクス経済特区」にしてもらい


自主財源や高福祉高負担のフィンランド化をする。


そうすれば「自分達も!」と全国に広がる。



緑川鷲羽2015年始まりの年へ

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「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」2017年度NHK大河ドラマ原作<上杉鷹山公の改革物語>「為せば成る」4

2015年01月22日 12時53分54秒 | 日記










  宝暦十三年の二月の夜、竹俣当綱は江戸の米沢藩邸をでると、かねてから準備しておいた市内の隠れ家で旅姿に着替え、密かに江戸を立った。懐には、関口忠蔵名義の関所手形と、出発にあたって莅戸善政と木村高広と藁科松伯が当綱にあてた血判書と、松伯がしたためた書があった。
 ……長い旅になる。いや、困難な旅になる。……
 竹俣当綱は歩き始めた。
 懐の血判書はひとりぼっちの当綱を勇気づけてくれた。郷里に向かうとはいえ、森のせいで敵地のような米沢……。しかし、なんとか米沢に隠密で森派に気付かれないように着けば同心の千坂、色部、芋川がいる。竹俣当綱は無言で歩いていった。
 江戸をすぎると、急に寂しい風景となる。
 それでも、竹俣当綱は無言で歩いていった。だが、
「森派の追っ手がきてやせぬか?」
 と不安にかられ、ときどきそれとなく道の背後を確かめたりもした。
「……いない」
 彼はこうして道を急ぎ、奥州街道をひたすらひとりで進んだ。
 当綱は翌日の二月七日には板谷峠を登りきることができた。奥州街道を北に進む間、天気は凄くよかった。ほんの一日だけは雪が降って往生したが、それ以外は晴天だった。陽の光りが眩しいほどきらきらと辺りを照らし、しんとした静かな空間が広がってもいた。
 前後には人影もなく、当綱が道の凍ったところで転ぶと、カアカアと馬鹿にしたように烏が鳴くだけだった。
「くたびっちゃ(疲れた)」
 竹俣当綱は起き上がって言った。
 それから、野を越え、山を越え…彼は急いだ。しかし、板谷関所に近付くにつれ、当綱は自分の身分がバレやしないか?と不安にかられた。なにせ、その関所は森派の連中がうようよいるところなのだ。ちなみに板谷は、仙台の伊達の侵攻を押さえるために築かれたところである。いってみれば戦国時代の「国境の守り」の遺物である。
「いやぁ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 竹俣当綱は足をとめ、そう荒い息でいった。…もうすぐ米沢の街も見えよう。それにしても、いやぁ、こわいこわい(疲れた疲れた)。
 板谷関所につくと、竹俣当綱は関口忠蔵名義の関所手形をだした。例え名前や身分に疑いをかけられようと「関口忠蔵」で通すつもりだった。人笠をふかくかぶり、目立たないように努めた。しかし、彼の緊張とはうらはらに、関所は難なく通ることができた。
 当綱はあやしまれぬように関所を出て、米沢へ急いだ。そして、心の中で、
「簡単に抜けられた……だが、まだ安心は出来ぬ」
 と用心した。関所が簡単に通可し過ぎだ。…何かあるのか? それとも自分の変装がうまくいったのか?……そうだといい。
 だが、もし自分の存在に気付いた者がいたら、通報者がいたら……その場で殺さぬばならない。無益な殺生はしたくはない。だが……、
「まだ安心は出来ぬ」
 竹俣当綱は足をとめ、そう荒い息でいった。
 しかし、彼の心配したようなことにはならなかった。当綱は誰にも知られずに、米沢の城下町に着くことに成功したのだ。その日、竹俣当綱が米沢城下についたのは深夜だった。関根を立つころには雲ゆきが怪しくなってきて、暗い夜空から雪が降ってきた。千坂の屋敷に着く頃には、当綱の笠も肩も真っ白になっていた。


  米沢の千坂の邸宅に着くと、すぐに奥へ通された。
「日暮れに着くとのしらせだったのに、遅かったではないか」
「もうし訳ござらん」
 竹俣当綱はあやまった。そして「しかし…」と続けた。「しかし、これには理由がござる。確かに日暮れ頃に関根まで着いたのだが、途中、森派の人間と見られる人物がいた。そこで、村に入り、いなくなるまで民家に匿わせてもらったのじゃ。よって、遅くなった」「さようか」
 千坂は言った。そして「先方は竹俣とわかったのか?」
 屋敷の主人で、同じく江戸家老をつとめる千坂高敦が続けて言った。
「さて、それはいかがでしょうか。わかりません。ただ、せっかく名を偽って旅してきたゆえ、米沢にきてバレたのではつまらぬと考えた」
「しかし、その者が森に伝えるとも限るまい」
 芋川が言った。当綱は芋川をみて、
「用心に用心を重ねたということでござる」
 と言った。
「まあ、いい。ごくろうだったな、竹俣」
 千坂が竹俣当綱をねぎらった。「腹は減ってないか?」
「いや、まぁ少し……それより白湯を一杯頂きたい」
「よかろう。準備させよう」
 千坂高敦が笑った。
 こうして竹俣、千坂、芋川、色部の四人は明りの前で「密談」を始めた。
 森利真のような家格の低いものが、重い家格の上杉家臣をさしおいて藩政を動かしていることは、米沢の権威がゆらぎはじめている、とみるべき。…四人はそう考えていた。
 竹俣当綱は白湯を飲むと、血判書や藁科の書を千坂らに渡した。
 千坂、芋川、色部らはそれを読み、
「なるほど……よく書けておる」と頷いた。
「ごくろうであったな」
「いや、なに」
「竹俣もこうしてきたことだし……さっそく森を除く段取りを決めいたそう」
「そのまえに申すことがある」
 竹俣当綱は、森に訴状をみせ隠居を勧める考えもある、と言った。それでダメなら…という訳である。
「藁科松伯は森について何もわかっておらん」
「まさしく」
 千坂、芋川らは口ぐちに言った。「あの森という男は藩の元凶! すぐにでも討ち取るべきじゃ!」
「しかし、今回のことは江戸の幕府も知っていることゆえ、すぐに討ち取るというのは藩のメンツにかかわる」
 竹俣当綱は、冷静に言った。「どのような手を使っても……という訳にはまいらん」
「なら、説得し、聞かねばその場で討ち取るというのはいかがか?」
「説得し、腹切りさせるのがよい」
 色部がはじめて声を出した。冷静な声だった。
「森は、われらが説得したくらいでは腹切りはせぬ。傲慢な男じゃからな」
「いや」色部が続けた。「さきほどの弾劾書……それをみせて殿からのご命令だ、といって腹切りさせるのだ」    
「しかし、それでは御殿の御名を偽り借りるようでおそれおおい」
 芋川が言い、四人は沈黙した。
 やがて千坂が、しかしながら、と言った。
「いずれにしても藩のためにすることじゃ。われらの私利私欲のためではないから、御殿の御名を偽り借りることもやもえない」
「そうじゃな」
 四人は頷いた。



  五ツ刻(夜八時)、米沢城内二ノ丸…。
 「森を除く」会談が開かれた。森は、弾劾書を読み上げる竹俣当綱をじっと見ていた。森は大男という訳でもないが、割腹のいい体躯で、贅沢な食事のせいか顔や体に脂がのっている。出掛けに髭を剃ってきたのか、顎のあたりが青々としていた。
 竹俣当綱は弾劾状を読み終えて、森のほうを見た。千坂、芋川、色部も見た。……座敷にはこの四人と森しかいなかった。
「どうだ、思い当たるフシが多々あろう?」
「いや、なんのことでござろうか? いっこうに思い当たらぬ」
 森は嘘ぶいた。竹俣当綱は動じなかった。「さる年、自分の屋敷を改築し、贅沢な庭園を造り、池にはギヤマンの金魚を大量にそろえたそうじゃが……?藩の金で」
「なんのことかな」
「では、人別銭についてきこう。いまおこなわれている人別銭を、領民は血も涙もない悪税と申しておる。またこの税のために人心も荒むとの声もある。この人別銭はいまから七年前に御殿が出府されるときの最後の手段としておこなったもの。それを今だに続けているのは無策と申しておる」
「米沢藩の台所は火の車……ほかに藩費をまかなうよい方法があれば教えていただきたい」森は素っ気なく言った。すると、今までだまっていた芋川が、
「この男と議論しても無駄じゃ!」
 と怒鳴った。
 森は「わしは藩のために正しいことをしておる。ギヤマン金魚だの豪華な食事云々はすべて出鱈目……わしの政に一点の曇りもあらず」
「さようか」
 千坂は悠然とした態度で言った。
「そなたの家の土蔵の中には豪華なこしらえがあり、炉のわきにはじかに掘った井戸があって、その水をくむつるべは銀で出来ているそうではないか」
 森の顔が、ふと青褪めたように見えた。森は何かいいかけたが、口ごもって沈黙した。しだいに森の表情が曇っていくのがわかった。秘密の土蔵の内部のことまで知られているのは森にとって予想外のことであったらしい。
 竹俣当綱の手が汗ばんだ。今、千坂が申したことははじめて聞くことだった。
「…覚えがあろう?……答えぬか、森!われらの詰問に答えられぬ時は、腹切りさせよと御殿からのご命令だぞ!」
 千坂が、森を喝破した。
「……腹を……?それは…おかしい…?」
 森は狼狽した。そして「では、直接江戸の御殿に確認してから…そのぉ」と言った。
「いさぎよく腹を切るか、森!支度はできておるぞ」
 森は益々青褪めた表情になった。恐怖しているのは誰の目にもわかった。
「ならば、殿のご沙汰書を拝見したい」
「内密のことゆえ、ご沙汰書はない」
「……ますます怪しい。さような…ことがあるものか」
 と森は呟いた。そして一瞬にして顔が赤みをおびた。すざまじい形相で、四人を見て、大声で怒鳴った。
「これは何かの企みだ!御殿に確認するまで腹など切らぬぞ!」
 森が言い捨てて、立ち上がると、竹俣らもすっと一斉に立ち上がった。竹俣当綱が「倉崎」と呼ぶと、入り口横の襖がひらいて、伏せておいた倉崎一信が踊りでた。そして森の行く手を遮ると、すかさず小太刀でひとたちした。
 倉崎一信の一撃は、森の額を浅くきっただけだったが、森は激しく動揺し、狼狽した。「うあぁぁっ!」
 森の顔は、額から流れでる血で真っ赤に染まって、すざまじい形相になった。すぐに、千坂と色部、芋川が短刀を構え、森にきりかかった。森は刀を抜かず、ただ逃げ惑うだけだった。激しい衝突で、色部が畳みに転んだが、誰も声をださなかった。
 森の裃は片袖がはずれて背にぶらさがり、衣服はきりさかれ、顔からも両手からも血がしたたっていた。森は部屋をでて、通路をどたどたと逃げた。が、当綱が脇差しを抜いて追い付き、千坂と色部、芋川が短刀を構え、最後の一撃をくわえた。
 森は「うっ…」というと、そのまま廊下に血だらけで倒れ込み、やがて息絶えた。
「……身まかった」
 森の屍をみた芋川が言った。しばらく四人は荒い息だったが、なんとか冷静をとりもどすと、「さてと、今夜はいそがしくなるぞ」と呟いた。
「少しは手むかってくるかと思ったが………逃げ回るだけだったの」
 千坂が言った。
 こうして、「元凶・森平右衛門利真」の粛清は終わった。この後、御殿・上杉重定公に森平右衛門利真の処分について報告した。が、やはり重定公は初め激しく怒った。…自分に相談もなく殺害するとはなにごとか?!というのである。しかし、なんとか慰めて事なきを得た。
 直丸(のちの鷹山)が養子となったのは、このような事件のすぐあとのこと、である。

  治憲が米沢藩の養子となったのは十歳の頃だった。
そして、それから、2つ年上の幸姫(よしひめ)が正室になった。が、この病弱で心も体も幼いこの少女はひとの世の汚れを知らぬままこの世を去ることになる。
 幸姫は治憲の前の先代藩主・上杉重定公の次女だった。
 確かに、幸姫は美しかった。
 黒色の長い髪を束ね、美しい髪飾りをつけ、肌は真っ白く透明に近く、ふたえのおおきな瞳にはびっしりと長い睫がはえている。細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さくて、彼女はあどけない妖精のような外見をしていた。
 細い腕も、淡いピンク色の唇も、愛らしい瞳も、桜の花びらのようにきらきらしていてまるでこの世のものではないかのようであった。
 それぐらい幸姫は美しかった。
 しかし、そのような愛らしい外見とはうらはらに、彼女のメンタリティ(精神性)や思考能力や心とからだの成長は全然なってなかった。
 その外見は確かに美しかった。が、もう二十歳ちかい成熟した女性だというのに、まるで小学生のような体型であり、頭も悪く、まんぞくに会話も出来ないあり様だった。
 まあ、はっきりいうと「知恵遅れ」だった。
 しかし、彼女は「純粋なピュアな心と優しさ」を持っていた。それゆえに、そうした純粋な心と優しさと可愛さを持った彼女のことを、治憲は「天女」と呼んだ。
 まさに幸姫は天女だった。
 治憲は婚礼の式のときを忘れることができない。対面したときの唖然とした気持ちを忘れることが出来ない。幸姫は十七歳。花のさかりをむかえようという乙女のはずが、十歳ほどの少女に過ぎなかったのである。これは何かからくりがあるな……と思った。が、なんのからくりもなく、その目の前にいる少女が、結婚相手の幸姫だった。
 幸姫は可愛らしい笑みを彼に向けていた。姫がこんなに小さいのでびっくりなされているのですね、と語りかけているように思えた。姫は明るい性格なので、治憲はすくわれる思いだった。式の後、彼と姫はふとんにはいった。治憲は、さて姫、眠りましょう、と囁いた。と、姫は、
「……夫婦ですから……このようになさるのですね」と珍しく言葉になった声を発した。 治憲は微笑して、その通りです、といった。姫は目をつむって彼の胸に顔をよせた。
 …これでいいのだ…治憲は思った。そう思っていると、彼は大人の女の匂いをかいだような気がした。だが、目を開けると、そこにはやはり少女がいるだけだった。

「幸、幸……」
 幸姫は、治憲に作ってもらった小さな人形を胸元に抱き締めほわっとした笑顔になった。彼女はその人形に自分の名前をつけたかのようだった。
 それをあたたかい母親のような目でみいた奥女中の紀伊は、
「よろしかったですね、幸姫さま。御屋形さまに素敵なものを頂いて…」
 と優しく微笑んだ。
「幸、幸……」
 しばらくして治憲が幸姫のいる座敷まで訪ねてきた。
 幸姫は「幸、幸……」といって治憲に人形を掲げた。
「そっくりですよ、幸姫。人形も幸姫も可愛らしい」
 治憲はやさしい笑みを口元に浮かべて、優しい父親のように答えた。そして膝まずき、懐から紙を出して、「よい紙が手に入りました。鶴を折ってさしあげましょう、幸姫」
 と言った。
 しかし、幸姫は心ここにあらずで、人形を大事そうに抱いたままどこかへ歩いていってしまった。
 こうして座敷には治憲と奥女中の紀伊のふたりだけになった。
 しばらく静寂が辺りを包んだが、沈黙をやぶったのは紀伊だった。
 紀伊は畳みに手をつき、深々と頭を下げ、「…本当にありがとうございます。御屋形さま。幸姫さまにかわってお礼を申しあげます。国元の重役や重定公からも側室を置くようにといわれましたのに断られたよし……何とお礼を申しあげてよいやら…」と泣きそうな声で礼を述べた。
「いや、たいしたことではない」治憲は魅力的な笑顔を浮かべて、「私は幸姫を裏切ることが出来ぬだけだ」
「は?」
「幸姫は天女だ。……天女は裏切れない」
 治憲のその言葉に、奥女中の紀伊は涙をボロボロと流しながら、もう一度深々と頭をさげた。なんというお優しい方だろう。……紀伊は心の底からそう思った。        
 小説家や脚本家は創造力に冨み、あらゆる夢物語で我々読者や、大河ドラマなら脚本家の創作劇でわれわれ視聴者に夢を見せてくれる。
 夢も希望もない現実のなかで「ありがたい」存在である。
 確かに鷹山公は現在では大有名人で「「上杉鷹山公」の人物伝」も多い。単発のテレビドラマ化もされたし、小説等も多数の数がある。
 中でも私が驚いた小説内容は、「幸姫(よしひめ)は知恵後れではなく「うつけを装っている」だけ」というものだ。多分、大河ドラマ「篤姫(役・宮崎あおい)」の旦那・徳川家定(役・堺雅人)のストーリー展開「うつけを装う」からきているのだろう。
 いろいろと考える小説家もいるものだなあ、と思う。
 確かに、幸姫が大河ドラマ「篤姫」の徳川家定のように「うつけを装っているだけ」という展開も面白い。フィクションだとしても、この物語「続・米沢燃ゆ 上杉鷹山公」の大河ドラマ化ではそういう物語展開を期待したい。
 夢があって面白いではないか。
 徳川吉宗の改革も面白いし、鷹山公の改革と前後するように吉宗も粉骨砕身した。
 だが、その改革の話は山深い米沢藩まではつたわってはこない。
 鷹山公でさえまだ米沢藩の改革への希望を抱いている段階、に過ぎないのだ。  


       重定への言上書




  帰国する本庄と芋川を見送った夜、竹俣美作当綱は江戸の役宅に、莅戸善政、藁科松伯、木村高広を招いた。召使の爺が大根の煮付けと徳利をもってきた。
 当綱は徳利をさっそくもつと、つごうとした。
「この地酒は国元の大町でもとめたものだ」
 当綱は徳利をふってみた。…いい音だ。いい酒は音もよい。
 そして、「まだ残っておる」といった。
「いや、江戸にもどったら貴公らとのもうとおもっておったが……なにせ持って歩くと音がする。芋川にみつかっての。かなり飲まれてしもうた」
 竹俣美作当綱は笑った。
 木村高広と莅戸善政も笑った。しかし、藁科松伯は微笑するだけであった。
 杯を満たして酒を味わってから、当綱は
「これが殿にさし出した言上書の写しだ。目を通してくれぬか」といって巻紙を出した。 竹俣当綱にいわれ三人は順々に写しをみた。木村が最後に読み終わると、巻紙を返上した。それをみてから藁科松伯が口をひらいた。
「……で、殿は森平右衛門の誅殺を承認されたのですな?」
「うむ。認めた」
「そうですか」
「うむ。ただはじめは激しく怒ってのう」
「ほう。でしょうな。殿は森を可愛がっておりましたからな」
「うむ」当綱は続けた。「はじめの激怒で、承認をえるのに苦労した。しかし…そこは肝心なところゆえわれらも負けなかった。重臣連判を盾に押し切った」
「ほう」
「…殿は…」
 竹俣当綱はなにかいいかけて口をつぐんだ。あのときの重定との応酬を思い出して、……殿は愚者で馬鹿だ…と思った当綱ではあった。が、そう口に出すのには憚られた。確かに愚かで馬鹿でも、米沢藩の殿であることにはかわりはないからだ。そして、それにもましてこらえたのは、口にだしていってしまえば空しくなると思ったからだ。
 藁科松伯が口をひらいた。
「ご改革の件も、殿はお認めになられたのか」
「……一応は…」
 竹俣当綱は盃をおいて、顎の不精ひげを掻いた。竹俣当綱は髭の濃いたちである。朝も昼もそったのに、もう髭が青々となっている。
「…改革とはいってもなにをするのか何もきまってはおらん。だから、殿も一応だけ認めたのであろう」
「さようか」
 藁科松伯は咳をしながらいった。そして続けて、
「ただ認めただけでは改革は無理でござりましょう。改革には思いきった人材登用も必要です。また森のようなのがでてこないように…また藩財政を正確に判断し案をだせる人材登用こそが必要でありましょう。言上書をみるかぎりそこが抜けているように思えてなりませぬが…」
「その場に、竹俣がいて、かようなあり様はなにごとかと先生はいいたいのですな?」
「いや、さようなことは…」
 竹俣当綱は手を掲げて、弁明しようとする藁科松伯を止めた。
「当然、そう思われると思っておった。それがしも格式、先格が出てきたときはこれはこれけはと思ったが、口に出さなんだ。侍頭をとりこむのだから、妥協も必要じゃと思った次第である」
 当綱はそういって、ぴしゃりと膝を打った。
 そして「改革は必ず実行する。われわれには名君がいるからのう」といった。
「……直丸さまですか?」
 藁科松伯がにやりとすると、当綱はにこりと笑って「そうそう」といった。
 そして続けて「……先生、直丸さまのご様子はいかがですかな?」と問うた。
「それがですな」
 松伯はにやりと顔をほころばせると、「ご学問もさることながら、近頃は弓や馬のお稽古に精進でござります」
「ほうほう、それはよい。頼もしい限りだ」
 竹俣当綱も顔をほころばせた。そして、その瞬間、
 ……はやく藩主交代を急ぐべきではないか……と思った。


  藩主重定に、竹俣当綱ら重臣四名が談判して森平右衛門誅殺を追認させてから十日ほどすぎた三月四日、国元では森家の処分言い渡しが行われたという。
 嫡子の森平太七歳は親類預け囲入り、故・森平右衛門利真の用人佐久間政右衛門父子は入獄処分となった。だが、ほかの家族、召使は構いなしとされた。その後、森のいた奉行所の家宅捜索がなされ、森の屋敷と塀と門が藩の手で打ち壊された。
 また森が屋敷内にたくわえておいた諸道具は、六人年寄の中沢新左衛門が立ち会って改め、城の宝蔵に返すべきものは返し、売り払うべきものは商人を呼んで売り払った。
 が、たくさんの刀や金銀があったので処分に時間がかかったという。
  その後、参勤交代で重定が江戸に着くと、竹俣当綱はひと息ついた。
 上杉重定と竹俣当綱の関係は、藩主と江戸家老というものであったが、重定は、
 ………わしの信頼しておった森平右衛門を誅殺した張本人め!
 という目で当綱をみるし、竹俣当綱は当綱で、
 ………この藩主は暴君で無能だ……
 と内心みている訳だから、双方とも相手を見れば気持ちが擦れ違うのはやむを得ないことであった。
 しかし、上杉重定もおそまつながら「改革」をしようという動きをみせた。
 七月になって、重定は侍頭の本庄職長、須田満主を呼んで、侍頭のまま六万石の荒地開拓をふくむ農政を担当することを命じた。しかし本庄は一年ほど職をつとめてからお茶をにごし、しきりに辞めるつもりだと国元にも伝わった。重税と借金にあえぐ米沢藩のために誰かが命がけでやっていないことは明らかであった。

  竹俣当綱の屋敷に、後日、藁科松伯がひとりでやってきた。
 先生は咳がかなりひどかった。松伯は胸を患っていた。
「非道の取り立てとは何のことでござろうか」
 当綱は首をかしげ、そしてすぐ自分でうなずいた。
「停止した銀借り上げ分を別の形でとりもどしたということじゃな」
「その分、また米沢の民がかぶったということでござる」
「しぼっても血もでぬところから、さらに血をしぼった訳でござるか」
「藩は天も恐れぬことをおやりになる」
「まさに亡国ですな?先生」
 と、当綱はいった。
「直丸さまがおられます」
「おそれ多いが……まだ子供だ」
「しかし、名君になられる」
「しかし…上杉は名門。若輩の直丸さまに藩主がつとまるじゃろうか?」
「つとまります!直丸殿は臥竜ですゆえ」
 藁科松伯がにやりといった。
「人材登用はどうです?先生」
「……今の殿よりましになりますでしょう。千坂さまは平時なら名執政と呼ばれてしかるべき器量のひとです。しかし、その千坂さまも、いまの藩をいかんともしがたい」
「いま……米沢は大病にかかっておる」
「さよう」
「森の始末がついて……一杯やったとき…」
 と、当綱はいった。
「九郎兵衛と丈八がいたゆえ言うのを憚ったが、先生、わが殿はまちがいなく愚者です。森の処分でつくづくそう感じた」
「今頃お気きですか?」
 藁科松伯がにやりといった。
「いや。かねてより凡庸と思っておったが、あれほど酷いとは思わなんだ」
「ですから…」松伯が続けた。「名君が必要なのです」
「直丸さまか?」
「はい」
「しかし……まだ海のものとも山のものともわからぬ若君である。名君になられるか…」「なられます!」
 藁科松伯が珍しく抑圧のある声でいった。
「……であるか?」
「はい。直丸さまは臥竜です。きっと米沢を救ってくださります」
「……臥竜……であるか」
「しかし、殿は若い。用意に藩主の座をゆずるでしょうか?」
「わしが引き摺りおろす」
 竹俣当綱は、ひとりごとのように、そういった。
                                        
         改革の狼煙



  治憲が米沢藩主となってから五ケ月後、改革の骨子を発表した。
 九月十六日に、江戸勤番の者一同を集めて、大倹令の骨子が発表された。
 治憲は語り始める。
「当家は大家から小家になり、上下共に大家の古を慕い、家格も重く、重ければ自然身分よりも多くの出費がある。また太平が久しく続いて、世の中が平和になったよし、わが藩だけが六千人もの家臣を抱えて…藩の台所は火の車。まったく嘆かわしい次第である。
 今日では家中が借金まみれであり、もはや誰も金を貸してはくれぬ。
 もしこのようなときに、水害、飢饉、火災…などの災難がひとつでもあれば米沢藩は国が立って行けない。自分は小家から入って大家の後を譲り受け、このまま家が滅びるのを待っていたのでは、国中の人民を苦しめ、謙信公以来のご先祖さまに対して申し訳がたたない。
 それでそれぞれの役筋に尋ねてみたが、誰も立ちいく見込みがないという。しかしながら、私はただ滅びるのを待つより、だめでもいいから大倹約と改革を実行したいと思う。 出来るだけやってみようと思う。
 今はひどくとも、後に国が滅びて難儀をすることを思えば、目の前のことは我慢して、皆も一致協力してくれ。
 まず自分の身の回りから実行するから、もし気付いたことがあるならば、遠慮なく言ってくれ。下々が立ち行かないで、自分だけが立ちいく事は出来ない。藩士も百姓も一致協力して大倹約を守ってくれ。頼む。……では発表する…第一に…」
 こうして治憲により竹俣らの改革案が発表されていった。
 要は、特令の廃止である。伊勢神宮への参拝はわざわざ米沢から使者を遣わさず、京都留守居役に代出させる。年分行事、祝謝事項もすべて中止。
 女中は必要な人数まで減らす(リストラ)、一汁一菜、着るものは木綿、建物の改築はひかえる、奥女中は9人まで。
 ……といった、形式と格式などを重んずる武家社会へ挑戦する12項目だった。
「………以上である」
 治憲は語りおえた。しかし、
 この改革案があまりにも大胆なものであるため、家臣の誰もが沈黙し茫然とするしかなかった。やがて、家臣のひとりがオドオドと江戸家老の色部に、
「色部さま……色部さまは、この改革案に賛成なされたのですか?」
 ときいた。
 それに対して色部照長はなんといっていいかわからず、オドオドと躊躇して咳ばらいをするしかなかった。「……う…そのぉ、だな…」
「私から答える!」色部のそんなオドオド声を遮るように、治憲が言った。そして続けて、「色部は改革案に賛成してくれただけでなく、手まで貸してくれた。色部には感謝したい」 と言ってほわっと微笑み、きらきらと白い歯を見せた。
 それに対して色部照長はまたまたなんといっていいかわからず、オドオドと躊躇して咳ばらいをするしかなかった。「…う…そのぉ。まあ……いえ…感謝には…及びません」
 しばらくしてから色部は躊躇したまま、
「う…そのぉ。御屋形さま! このように家臣に倹約を望むのであれば、御屋形様にも…という声がきかれますでしょう。御屋形様ご自身の倹約についておきかけ願いたい」
 と尋ねた。
「もっともな質問である」治憲がまってましたとばかりに言った。「…いまの私の生活費は1500両だか、それを200両に減らす」
「なんと……?!」
 家臣たちは驚いて声も出なかった。御屋形さまは本気だ……皆がそう実感した。そうした中で、竹俣当綱・莅戸善政・木村高広・藁科松伯ら4人の男たちは冷静で、御屋形さまの態度に共感し、笑顔をつくるのだった。それから心臓が二回打ってから竹俣当綱が、
「しかし…御屋形様は日向高鍋藩からの養子の身…しかも若輩…。何かとうるさい国元の重役たちから反発され米沢藩主の座から排斥されるおそれもあります。それについてはどうお考えですか?」と尋ねた。
「わかっておる。しかし、この治憲が藩主としてふさわしいかどうかは家臣が決めることではない。それを決められるのは領民だけだ。年貢を納めた者のみがそれを決められるのだ」
 治憲はハッキリとした口調で答えた。その瞳はどこか大きな海を見ているかのようで、妙に逞しくもあった。
 竹俣当綱・莅戸善政らは、その若輩ではあるが指導者としてはふさわしいヴィジョンを持った治憲に感嘆し、強烈に魅かれていった。そして畏れいった。
「……さすがは御屋形さま」
 竹俣当綱は満点の笑顔をつくり、輝くような表情のままそういった。

 それから二年、治憲は辛抱強く江戸で改革を進めた。
しかし、その倹約も焼け石に水のごとし、で、なかなかうまくいかなかった。……
 この時期、治憲(のちの鷹山公)の正室・幸姫が病死した。治憲は涙を流し、姫の最期を看取った。米沢藩江戸藩邸でのことである。
 治憲の先生・細井平洲は天下の器、である。地元や江戸での平洲の存在はやはり「天下の器」である。
 細井平洲先生が鷹山公に頼まれてはじめて米沢藩に下向するのは一七七一年(安永六年)、上杉治憲二十七歳の頃である。


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小説家・作家の陳舜臣さん(享年90歳)老衰のため2015年1月21日早朝、死去(神戸市内病院で)

2015年01月21日 16時35分37秒 | 日記





小説家の陳舜臣さん 死去
1月21日 15時08分

中国を舞台にした歴史小説を数多く発表してきた小説家の陳舜臣さんが、21日朝、老衰のため神戸市内の病院で亡くなりました。90歳でした。

陳舜臣さんは神戸市出身で、当時の大阪外国語学校を卒業後、ヒンズー語の辞典の編さんなどに携わりました。
40代になってから本格的に執筆活動を始め、神戸を舞台にした推理小説「枯草の根」で昭和36年に江戸川乱歩賞を受賞したほか、昭和44年には「青玉獅子香炉」で直木賞を受賞しました。
陳さんは中国を舞台にした歴史小説を数多く執筆し、「阿片戦争」や「秘本三国志」、「諸葛孔明」などの作品で知られました。
また、東西の文化の交流の道を描いたNHKの番組「シルクロード」の現地取材に携わり、昭和60年にはNHK放送文化賞を受賞したほか、日中間の領土争いに翻弄された琉球王朝の姿を描いた「琉球の風」は、平成5年にNHKの大河ドラマで放送されました。
陳さんの作品は、日本やアジアの人々の交流を世界史的な視点で見つめ、異なる文化や背景を持つ国や人どうしが、お互いを受け入れ、共に生きようとする姿を描いて多くのファンを魅了しました。
また、ふるさとの神戸市への思いも強く、平成7年の阪神・淡路大震災の際は被災者を勇気づける文章を発表し、復興への希望を捨てないよう呼びかけました。
陳さんは去年11月に体調を崩し、神戸市内の病院に入院していましたが、21日午前5時46分、老衰のため亡くなったということです。

「『友好な日中関係を』と言い続ける」
陳舜臣さんの長男で写真家の陳立人さんは「入院したあとも呼びかけなどにしっかりと答え、最後まで日中の友好について気にかけていました。最近、日中関係が悪化しているといった話に接するたび、ささいないさかいは越えて、友好な関係を保ってほしいとずっと言い続けていました」と話していました。

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「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作 号外大久保利通岩倉具視編

2015年01月20日 21時17分24秒 | 日記






大久保利通を漫画家の小林よしのり氏は『大悪人』『拝金主義者』『私利私欲に明け暮れた謀略家』と見ているようだ。
頭山満や玄洋社なる幕末・明治初期の極右過激派集団を英雄視させるための詭弁ではあるが、大久保利通は大悪人でもなければ謀略で私腹を肥やした訳でもない。
あまりに現実的で、冷徹なリアリスト(現実主義者)であるから大久保利通も岩倉具視も歴史的偉業を成し遂げたわりには人気がない。
だが、それもむべからぬことだ。権謀術数をつかい、明治政府の舵取りをした功績は、西郷や大隈や前原一誠のような(夢遊病的な)”非現実主義者”の「非現実な理想論」より卑怯に見える。
だが、政治や経済や国家運営には確かに理想も必要だが、それ以上に権謀も必要なのだ。革命が成功するには理想論だけではなく、政敵や敵を謀殺する覚悟がなければ何も成らない。
綺麗ごとだけで物事がうまくいくなら誰も苦労はしないのである。
他の路線を切り捨てる大久保の強さは現実路線だ。徹底した現実主義者であった大久保は綺麗事の非現実理想論をもっとも嫌ったという。
島津斉彬が在命中には寵臣・西郷隆盛(吉之助)がいて、大久保の出番はなかった。だが、斉彬は薩摩軍を率いて京に上る時期に病死してしまう。西郷は僧侶・月照とともに入水自殺を図り、自分だけ死なず島流しにあう。
いよいよ大久保の出番である。藩主として斉彬の何段も下の、人間的にも下賤で凡人の島津久光に、とりいる。これは西郷には出来ない技である。斉彬の毒殺説が本当なら「仇」であるからだ。
だが、現実には久光しかいない。現実主義である大久保利通は島津久光という愚鈍な凡人に取り入る為に久光の趣味の囲碁を練習した。
おかげで、無趣味の謀略家の大久保利通のたったひとつの趣味が囲碁、という笑えることになった。
大久保にとっては藩主・久光など「将棋の駒」でしかない。だが、久光は愚鈍であったが薩長同盟の利点を理解することだけは出来た。
久光は何もわからないから大久保の方針を妄信するしかない。王政復古の大号令のクーデターも戊辰戦争も”大久保頼り”であった。
廃藩置県で武家も大名も幕藩体制もなくなり、島津久光は殿様でもなんでもない平民となり、はじめて「騙された!」と気づくほどの愚鈍なひとであった。
大久保利通も岩倉具視も『闇の陰謀家』『闇の権謀術数家』と描かれることが多い。だが、世の中は綺麗事だけで偉業が成る訳ではない。
明治維新も理想論だけで成った訳ではない。大久保や岩倉を『大悪人』と考えても結構だが、夜郎自大も甚だしい。
すべての革命がそうであるように、権謀、駆け引き、遠慮なくしてことは成就しがたい。あるときは権謀が力を制して、時の主役になるときがある。
王政復古のクーデターは完全に岩倉具視が主役であった。
坂本竜馬や高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰、等の明治維新の英雄は血気にまかせ一途に理想に向かって走るタイプの人間である。若死にした為にダントツの人気がある英雄だ。
だが、大久保利通、岩倉具視ら「謀略家」は、ときに権謀術数をつかい、陰険な印象を人に与える。目的の為には犠牲を出すことも恐れないので、あまり維新の志士の中では人気がない。
果たした維新回天の功績・偉業の割には誤解され、ときに怨嗟の的となり、ときに悪役の俗物・大悪人と描かれたりする。
だが、世の中は綺麗事だけでは動かないのだ。綺麗ごとだけ声高に叫んで歴史が動くならそんなものは革命でも維新でもない。そんなことで物事も人心も動かない。
リアリスト、現実主義者が政府や組織にいなければすぐに”瓦解”するのがオチだ。大久保利通も岩倉具視も「綺麗事だけの非現実理想主義」より「現実の政策施策」で日本を近代化したかったのかもしれない。
だから、馬鹿げた元・侍たちに暗殺された大久保利通も、明治政府の知恵袋であったが病死した岩倉具視も最期は無念、であったろう。
『徳川慶喜(「五―王政復古 大久保利通「近代」を拓いた偉大なるリアリスト」)』松浦玲著作、プレジデント社刊+『徳川慶喜(五―王政復古 岩倉具視「王政復古」に賭けた「権謀術数」の人)』南原幹雄著作、プレジデント社刊(一部)+(参考資料)『岩倉具視』(中公新書)、『大久保利通』(中公新書)、『大久保利通の研究』(プレジデント社)、『歴史の群像・黒幕』(集英社)、『日本の歴史』(中公文庫)他。

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「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>号外徳川慶喜編

2015年01月20日 19時11分06秒 | 日記











岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用



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<"Islamic countries", and warning the hostage or killed two people Japanese>

2015年01月20日 18時47分36秒 | 日記




Islamic countries have been threatened and take hostage the two Japanese "pay $ 200 million if you want to help life". It may seem to be too ruthless, but thing through the stance of "not negotiate with terrorist groups."money shall not pass even one yen. The cold seems but Do not pay money to two japanese. Military expenditure contribution is not a mistake.
Garyo
<"Islamic countries", and warning the hostage or killed two people Japanese>
January 20, 2015
AP communication is the 20th, extremist organization "Islamic countries" was reported that the took hostage the two Japanese, has been claimed in the video on the Internet. If you do not pay the $ 200 million (about 23.6 billion yen) within 72 hours of being threatened to kill two people.

Video found and claimed responsibility of the Islamic countries

According to the report, hostage is a Goto Kenji and Yukawa-Haruna's.

Syria last year in August in Japan, a man seen with Haruna's Yukawa of Chiba, are bound by "Islamic countries". Also, journalist of the video communication company "Independent Press", Kenji Goto April last year, is in contact with the man seen as the Yukawa's in Syria coverage. If reports are correct, hostages there is a possibility of this two people.

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.151イスラム国人質テロ事件に憤る!テロ組織とは交渉しないスタンスで!

2015年01月20日 17時43分34秒 | 日記







イスラム国が日本人ふたりを人質にとり


「命をたすけたければ2億ドル払え」と脅迫してきた。

あまりに冷酷なように思われるかも知れないが


「テロリスト集団とは交渉しない」というスタンスを貫くことだ。


金は一円も渡してはならない。


冷たいようだがふたりに金は払うな。


軍事費寄与は間違いでない。


臥竜

<「イスラム国」、日本人2人を人質か 殺害を警告>
2015年1月20日15時53分



人質にされた日本人とみられる映像=動画サイト「ユーチューブ」から


 AP通信は20日、過激派組織「イスラム国」が日本人2人を人質に取ったと、インターネット上のビデオで主張していると報じた。72時間以内に2億ドル(約236億円)を払わなければ2人を殺すと脅しているという。

イスラム国の犯行声明とみられる動画

 報道によると、人質は、ゴトウ・ケンジさんとユカワ・ハルナさんとされる。

 シリア国内では昨年8月、千葉市の湯川遥菜(はるな)さんとみられる男性が、「イスラム国」に拘束されている。また、映像通信会社「インデペンデント・プレス」のジャーナリスト、後藤健二さんは昨年4月、シリア取材中に湯川さんとみられる男性に接触している。報道が正しければ、人質はこの二人の可能性がある。


Islamic countries have been threatened and take hostage the two Japanese "pay $ 200 million if you want to help life". It may seem to be too ruthless, but thing through the stance of "not negotiate with terrorist groups."money shall not pass even one yen. The cold seems but Do not pay money to two japanese. Military expenditure contribution is not a mistake.
Garyo
<"Islamic countries", and warning the hostage or killed two people Japanese>
January 20, 2015
AP communication is the 20th, extremist organization "Islamic countries" was reported that the took hostage the two Japanese, has been claimed in the video on the Internet. If you do not pay the $ 200 million (about 23.6 billion yen) within 72 hours of being threatened to kill two people.

Video found and claimed responsibility of the Islamic countries

According to the report, hostage is a Goto Kenji and Yukawa-Haruna's.

Syria last year in August in Japan, a man seen with Haruna's Yukawa of Chiba, are bound by "Islamic countries". Also, journalist of the video communication company "Independent Press", Kenji Goto April last year, is in contact with the man seen as the Yukawa's in Syria coverage. If reports are correct, hostages there is a possibility of this two people.

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.154人間は見た目が九割だが「性格ブスは絶世の美人でも駄目」デブスは無論×

2015年01月20日 15時47分48秒 | 日記









理想の異性?

と聞かれて外見や顔やスタイルがいい異性がいい


というのは男女で当たり前だと思う。


が、たとえ絶世の美人でも


性格がブスなら付き合わないことだ。

見ず知らずの他人の顔を「気持ち悪い」だの「私が私が」の自己中は男女とも此の世界にいらない人間だ。


だからってデブスがいい訳ないが(笑)



緑川鷲羽2015年始まりの年へ

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「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」2017年度NHK大河ドラマ原作<上杉鷹山公の改革物語>「為せば成る」3

2015年01月20日 08時27分01秒 | 日記








         大倹令




 改革案作成のため、竹俣当綱、莅戸善政、藁科松伯、木村高広ら4人の男達に官邸の奥の部屋が与えられた。
 そこで4人は5ケ月を費やした。
 改革案は多岐に渡り、非常に優れていたが為に、作成には手間ひまがかかった。そのために5ケ月を費やさなければならなかった。が、結果としていいものができた。
 その改革案がまとまったころには、竹俣当綱、莅戸善政らの顔の髭は伸び、ちょんまげの髪はバラバラになり、服はぼろぼろになり、それは見苦しかった。しかし、それでも男たちは気にすることなく、改革案に満足するのだった。
「よし、出来た……これだ!」
 竹俣当綱はニヤリと笑って、筆をおいた。
 ちょうどそんな時、
「失礼つかまつる」
 と、佐藤文四郎が訪ねてきた。
「おお、文四郎。なんじゃ?」
「御屋形様からの差し入れにございます」       
 佐藤文四郎はそういうと、籠にはいった美味しそうな葡萄を差し出した。
「おお、葡萄か。これはうまそうじゃ」
「御屋形様も気がきくな」莅戸が言った。
 そして竹俣ら4人は葡萄をほうばった。で、
「文四郎………そちも食え」と竹俣当綱は言った。
「いいえ、なりません。この葡萄は御屋形様から皆さんへの差し入れにございます」
「堅いこというな、食え!旨いぞ」
「いいえ、なりません!」
 佐藤文四郎は頑固として首を振った。それにたいして莅戸が、
「文四郎……おぬしも頑固だな」と笑った。
「そうそう」それからしばらくして竹俣当綱が思い出したように、
「米沢藩の改革は藩士、家臣だけ……という訳にはいかん。御屋形様にも率先してやってもらわなくてはならん。文四郎、それについて御屋形様から何かきいておるか?」と尋ねた。「はっ、御屋形様も率先して改革に協力する所存かと」
「そうかそうか」竹俣は文四郎の答えに満足気に頷いた。
「………改革案はできましたでしょうか?」
「うむ…」莅戸が首をひねってから「それなんだがな、文四郎。ちょっと困ったことがあってな」と言った。
「なんでございましょう?」
「奥女中を減らそうと思うのだが……」
「何人…でございますか?」
「9人」莅戸や竹俣当綱がハッキリとサバサバした口調で文四郎に言った。
「9人?……奥女中が六千人いる中から9人だけ減らす…と」
「いや、違う!5991人に暇を与えるのだ。つまり……結果として残る奥女中が9人…ということじゃな」
「なんですと?! 六千人いる中からたった9人に? しかし…紀伊さまはお体もすぐれず…」「そこじゃ!」唖然とする文四郎をよそに、竹俣は続けた。「やはり残すのは10人のほうがよいか?それとも8人か?………文四郎、おぬしはどう思う」
「………わかりません!」
 文四郎はどう答えていいかわからず、そう言うしかなかった。
この時期に佐藤文四郎と春猪の関係が深くなるが、鷹山公の奥女中削減案で離ればなれとなる、というのは小説上のフィクションである。だが、小説通りの文脈なら、佐藤文四郎は奥女中の「紀伊の世話をかいがいしく行って紀伊の信頼の厚かったその奥女中の娘(春猪という名前は仮名で本名ではない)」だけは特別に江戸藩邸に残してください、と文四郎は鷹山公にお願いするのである。
 一端はその提案を鷹山公は受け入れるものの「やはりのう、文四郎。やはりひとりだけ特別扱いは卑怯である。謝って改めるに憚ることなかれ、だ。その奥女中だけ特別視する訳にはいかん」と朝令暮改みたいなことをいう。
 で、春猪(仮名)という奥女中の娘は米沢藩邸から「お払い箱」となり、小説の面白味を消して、結果だけ書けば春猪は米沢藩の小野川温泉旅館の女中となり、佐藤文四郎と再会……やがて結ばれるのである。まあ、この物語は「恋愛小説」ではないのでまあいいだろう。
 話を戻す。
 しばし沈黙ののち、
 莅戸や竹俣当綱らが、
「そういえばこう悩んでいるとあの時を思い出すのぉ」としみじみと言った。
「……森か?」
「そう森平右衛門利真じゃ」
 ふたりはニヤリと言った。



         元凶、森平右衛門利真




  莅戸や竹俣当綱は思い出していた。
 数年前……。まだ治憲が幼い頃の米沢藩……。そこには、元凶、森平右衛門利真がいた。竹俣当綱はその当時、江戸家老で、千坂から手紙を受け取っていた。
千坂とは、千坂対馬高敦のことである。
「うむ。」といって、竹俣はもう一度手紙をひろげて、目を走らせた。
 手紙は、その当時の郡代所頭取と御小姓頭を兼ね、藩政を一手に切り回している米沢藩最大の権力者・森平右衛門利真の近況を伝えていた。
「ふむ」
 竹俣当綱はそう唸った。そして、
「つまり、森を排除せよ………ということじゃな?」
 と独り言をいった。
 確かに、そのような内容だった。
 また手紙には、
”………森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…”
 とかなんとかで結んであった。つまり、
「責任は俺がすべてとれ……か」
 竹俣はボソリと言った。
 …森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…我々は知らぬ存ぜぬ…?なんともまぁ手前勝手な。竹俣当綱は人一倍濃い髭をなでて、「勝手なものだ」と独り言った。 なんというオポーチュニズム(ご都合主義)だ。
 竹俣当綱のいかつい髭顔が、渋面になった。
「だが………森をのぞくのには反対ではない」
 いや、むしろ除くべき人物である。
 当綱が伸び始めた髭を片手でなでていると(朝剃ったのが濃いために生えてきた)、ギシギシと床のきしみ音がした。米沢藩は困窮のために、国元の城屋敷どころか桜田門の江戸屋敷の床や屋根のいたみさえも直せなかった。金がない、金、金、金、金欠……なのだ。 近付いてきたのは藁科松伯だった。
「ご家老はおいでですか?」
 藁科松伯の声がきこえた。だから、
「おりますぞ。どうぞ中へ」
 と竹俣当綱は答えた。それと同時に、自分から率先して襖を開け、中へ入れた。
 それは師のためであり、藁科の非力な力ではかたむいた襖は開けずらいのを考慮してのことだった。この当時から藁科松伯は病気がちだった。肺と心臓が悪く、虚弱体質のために手にも足にもどうにも力がはいらないのだ。
「どうもご家老」
 藁科松伯がにこりと微笑んで言った。
 彼は医師ではあるが儒学にも卓越した才能と知識をもつ人物で、上杉直丸(のちの鷹山)の教育係りだった。若輩ながら国元の米沢で家塾を開き、竹俣当綱や莅戸九郎兵衛善政、木村丈八高広などの傑出した人物を世に送りだした人物でもある。
 竹俣当綱は一礼して労をねぎらい、
「ごくろうさまです、ところで直丸殿のご教育のほうはいかがですかな?」
 と尋ねた。
「それがです、ご家老」
 藁科松伯が言った。
「もともと実直で勤勉な性格のお方ゆえ、勉強がはかどります。よほどの才能を持っていらっしゃるのでしょう」
「……うむ。そうですか」
「はい」
 彼は頷いた。
 直丸は昨年の宝暦十年に正式に米沢藩主上杉重定の養子に決まり、麻布の高鍋藩から外桜田の米沢上屋敷に移ってきた少年で、年は当時十二歳だった。彼は、その才能から、江戸の米沢藩士たちから「臥竜(がりょう・野に隠れて世に知られぬ大人物)」と期待されてもいた。
「……直丸殿はまさに臥竜です」
 松伯がにこりと言った。
 藁科松伯は禿頭で、姿勢も正しく、きりっとした学者肌の二枚目だった。病気のために何度か咳こむことはあったが、立派に背筋をのばし、とても好印象だった。態度や性格は謙虚そのもので、こういうひとを本当のエリートと呼ぶのだろう、と感じさせた。
 だが、病弱なのは紛れもない事実で、竹俣などは
 ……師がこのままあの世に旅立たれるのでは……?と不安になること度々だった。
 藁科松伯は明晰の人だった。
 家塾で経書を講義するかたわら、竹俣などに米沢藩の財政や政治、経済再生の案などを話したりもしていた。だから、もし今芽生えつつある改革の前にしてこの師を失うことになれば大変残念である……だが、
 先生は医者だ。ご自分のことは誰よりもわかってらっしゃる。心配無用……だ…?

「直丸さまは、ただ賢いだけではありませんぞ、ご家老」
 藁科松伯は活発な声で言った。
「ほうほう」
 竹俣当綱は請け負った。「それは…さもありなん」当綱は勘のいい男だ。松伯がまだ言いたいことがあるのはわかっていた。だから、
「今日は他になにかありもうしたか?」
 と尋ねた。
「はい」藁科松伯は言った。「今日、世子さまがお泣きになられました」
 竹俣当綱は大きな目を丸くした。……世子が泣いた? 十二歳にもなって人前で泣いたというのか……。なんと軟弱な……。泣いた?………なぜ?
「ご勉強の後で、いつものように米沢の話をしました」
 藁科松伯は言った。彼は、直丸に藩主としての心得として、米沢藩の歴史、気候、財政、産物、政、人情といったものをじっくりと教えていた。江戸生まれの、しかも三万石の小藩の直丸にとっては、この教育は大事に思えた。さいわいにして、直丸は国元の話に興味を示した。講義の合間に、少年とは思えない鋭い質問をすることに、藁科松伯はビックリさせられっぱなしだった。…けしてなおざりに聞き流してるのではないことは十分にわかる。だから、松伯はこっちの講義にも力を入れた。
「本日は、わが藩の人別銭について話しました」
「困窮しているとはいえ……あれは稀にみる悪税じゃ」
「お泣きになられたのは、その人別銭の話しが佳境にかかったところででした」
 藁科松伯は頷いた。そして続けた。「講義の間、世子さまは頭をもたげ、伏し目がちになっておりました。これはお行儀が悪いことだと注意しようとしました所、なんと直丸さまはその姿勢で泣いておられたのです」
「ほう、……泣いた?」
「はい。それで、何故お泣きになられているのかききました。その間、直丸殿の両方の瞳から熱い涙がぽたぽたと頬を伝わり、畳に落ちます。……どうなされましたか?と」
「それで?」
「はい、そして直丸殿は懐紙で涙をふき、不覚を詫びた後、それでは国元の米沢の家中、領民があまりにもあわれであると」
「憐れ?」竹俣当綱はびっくりした。
 十二歳の子供が意見を言った。……意見? いや、違うな。きっと、自分がそのような情ない困窮藩の藩主になるのが嫌で泣いたのかも知れぬ。きっとそうだ。
 竹俣当綱はにやりとひとり苦笑した。
 ちなみに、人別銭とは人頭税のことで、世にも稀な悪税だった。問題なのは領民ひとりひとりそれこそ赤ん坊から老人・男女問わずに税をとる。しかも、米沢だけでなく江戸の米沢藩人からも税をとるところだ。この人別銭(人頭税)を考えて実施しているのが森平右衛門利真だった。貧すれば鈍する…で、困窮・米沢藩はこのような汚い税収に頼らなければならぬほど「憐れ」だった。税史の通った後は草も生えない…といわれるほど。
「なるほど……「憐れ」か」
 竹俣当綱はもう一度、ひとり苦笑した。
 そんな時、
「ご家老」と、藁科松伯は言った。
「われわれはたぐい稀な名君にめぐりあったのかも知れません」
「だが、まだ十二歳であろう?」
「年齢は関係ありません」
「では、先生も、直丸殿は臥竜だと?」
「はい」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「直丸殿はまさに臥竜です」
「そうですか」竹俣当綱は話題をかえた。「…千坂対馬高敦から手紙が届きました」
「森氏のことですな?」
「はい。対馬は森の屋敷に伏嗅(スパイ)を入れるのに成功したそうです。それによると、森平右衛門利真は贅沢ざんまいな生活を送り、大きな池には贅沢な錦鯉を大量に飼い、なんと藩の金をも私的に流用していたといいます。これは許しがたい」
「まさに元凶ですな」
「まったく」
「色部さまにはそのことは…?」
「伝えて申す」
 竹俣当綱は言った。元凶、森平右衛門利真打倒のために集まっているのは千坂対馬高敦、芋川縫殿正令、色部修理照長と、竹俣美作当綱の四人である。藁科松伯は四人の結束を大事にするように日頃から申告していた。
「森は許しがたい男でごさる」
 当綱は強く言った。その瞬間、当綱は心臓に杭を打たれた感覚に、肩を震わせた。
「まったくその通りでございます。世子のためにも、早めにのぞくべきです」
「悪貨は良貨を駆逐する……と申すから、森をのさばらせておくとよからぬ事になり申す」「朱に交われば……」松伯はそう言いかけて、ごほんごほんと咳をした。
「とにかく、森は許しがたい男でごさる。早めに除かなくては」
「まったく」
 当綱は強く頷いた。松伯は「われわれには名君もいますしね」とにこりとした。
 ……名君か。たとえ世子が名君のたまごとしても、わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 夕暮れのオレンジがセピア色にかわり、障子を赤く染めていた。わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 森は片付ける……しかし……それでも、藩はつぶれるだろう。
 竹俣当綱はひとりそう考えてしまった。

         米沢藩の借金と困窮



  米沢藩の財政や台所事情は悪化の一途を辿った。
 綱憲の跡をついだ吉憲の代には、参勤の費用が捻出できず、ついに人別銭を徴収するにいたったという。
「人別銭……とな?」
 上杉吉憲は、城内で家臣に問うた。
「人別銭とは領民すべてから税をとることでございます」
 家臣がいうと、殿は笑って、
「たわけ!そのようなことはわかっておる」
「はっ」
「……人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬのか?ときいておる」
「はっ。……なにぶん米沢藩は困窮しており…そのぉ…」
「はっきり申せ!」
 上杉吉憲が声を荒げると、家臣は平伏して、「御屋形様のおっしゃる通り、人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬ……ということでござる」
「領民は納得するかのう?」
「…しますまい。しかし、仕方がござりませぬ。藩の窮地ですから…」
「さようか?」殿は溜め息をついて、「仕方…ない…であるか」といった。

  人別銭とは、人頭税のことである。
 だいぶ前に英国のサッチャーが導入しようとして、国民に反発され、デモが激化しサッチャー首相(当時・2013年死去)が退陣に追い込まれたエピソードは記憶に新しい。
 そして、困窮米沢藩はそんな人別銭(人頭税)を敷かねばならぬほど混乱していた。
 だが、財政困窮はさらに続いた。
 つぎの藩主宗憲の代、享保十八年には、江戸城のおほりの浚渫という国役を命じられ、家中の棒禄半分を借り上げて急場をしのぐという事態も起きたという。
 綱憲以来、家中の借り上げははんば習慣化していたそうだが、棒禄半分をもの借り上げははじめてであった。
  つぎの藩主宗房は、兄・宗憲の急死の跡をついだ藩主だが、このような藩財政の緩和に心を砕いた形跡があるという。襲封五年目の元文三年には、領内郷村の困窮がひどくて年貢がとどこうっているのを知ると、古年貢の七ケ年延納と当年分年貢の完納を命じた。で、米沢藩の年貢は半米半銀が建て前であるが、その年の年貢は米蔵にあふれて急遽用意した仮屋に積むほどに集まり、また銀も蔵の床が抜けるほど集まったという。
 この触れを、膠着する年貢未進の状況を打開する藩の一工作とみるむきもあるという。事実、旧債に喘いでいた農民がこの触れに善政の匂いを嗅ぎつけたのは確かなようである。「…やればできるではないか。こんなに年貢が集まった」
 藩主宗房は、にやりとしたことであろう。
 実際、この年(元文四年)は漆の実や青ソなど豊熟で、宗房の代で米沢藩の窮乏も一服という感じになった。
 しかし、藩主宗房も二十九歳の若さで死去して、さらにその弟で吉憲の四男にあたる重定が新藩主になると、ふたたび米沢はきびしい窮乏に直面することになる。
 延享三年に、兄宗房の跡を継いだ重定は、翌年五月に初入部したが、八月に至って家中藩士に文武ならびに歌謡乱舞に心がくべきだという論告を出したという。
 重定は、「これからは家中藩士みなが歌謡乱舞に心がくべきだ」
 といったという。
 それにたいして家臣が「御屋形様……歌謡にございますか…?」
 と問うと、重定は、
「さよう。みなで能や狂言をやれば楽しいであろう?」と飄々といった。
「ですが……財政が…」
「なんじゃ?」
「…しかし……能とは…」
「武家というものはのう。……能芸をたしなんでこそ武家なのだ」
 重定はそういって笑った。
 家臣一同は唖然とし、沈黙するしかなかった。
 しかし、次第にそうしたひとびとも「御屋形様のいうことだから…」と、家臣はみな歌謡の稽古に熱中し、学問弓馬の道を顧みる者はいなくなったともいわれる。
 この新藩主を『綱憲の再来』と思った者もいたに違いない。
 とにかく、重定は綱憲のように”暴君”であり、”馬鹿”であった。
 ……藩の財政が困窮しているのに”能遊び”とは何事のことだろうか?
 延享、寛延のつぎに宝暦という時代、重定の治世下であったが、その薄氷を踏むようなやりくりをしている米沢藩財政に、致命傷ともいうべき打撃が到来した。
 脆弱な米沢藩財政に加えられた最初の一撃は、重定が藩主となってから七年目の宝暦三年末に幕府から下命された上野東叡山の中堂の修理、仁王門再建工事の助役であったという。その費用は九万八千両もかかると概算されたので、藩はただちに費用の調達にとりかかったが、領内からは家中、商家、郷方を合わせて六千二百六十両、越後商人の渡辺儀右衛門千七百両、与板の三輪九郎右衛門四千五百両というところが借入金の主で、これらの借金集めても一万二千五百両に満たなかったともいわれているそうだ。
 米沢藩では、あとの不足分を上方からの借入金と、領内に宝暦四年三月から毎月徴収の人別銭を課すという非常手段に訴えてなんとかした。
 辛うじて危機を乗り切ったが、このときの作業手伝いは、借財の急増と人別銭による家中、領民へのダメージと傷や禍根を残すこととなった。
 米沢藩では、こうした経緯はありながら、宝暦四年十月幕府に「手伝い完了」の報告ができたというが、翌年五年は奥羽一帯を覆う大凶作となり、米沢藩もこの宝五の大飢饉を免れることはできなかった。
 大雨て河川が氾濫し、田畑の損失は二千七百四十九町歩に達し、三万七千七百八十石余の収穫が消滅した。
 この状況をみて、米価が高騰する。八月に入ると、米は一俵一貫七百三十文になり、藩が一俵の値段を一貫五百文に指定すると、村からの米穀の出回りがぴたりととまった。藩では市中に横目を放って米を探させたところ、町中の米は百九十七俵しかなかったというのは、東町の長兵衛が六、七百俵の米を隠していたからだという。
 こうした状況と飢饉に憤った南町の下級藩士に率いられた関村、藩山村などの農民五、六百人が、九月十日馬口労町酒屋遠藤勘兵衛家、南町の酒屋久四郎家、紺屋町の喜右衛門家を遅い、その三日後の十三日には城下に住む微禄の藩士五、六百人が、米座のある商人の土蔵を破ったという。
 ……百姓だけでなく、武家も”一揆”に走った訳だ。
 暴徒たちはすぐに鎮圧されたが、その次の年も次の年も飢饉は続き、ついに餓死者まででたという。
 凶作で、高二十三万石のうち十九万石もの損失をだした弘前藩、あるいは飢饉に悪疫が重なって死者五万人を出した盛岡藩ほどではないにしろ、米沢藩でも、ひどいことになったのである。三万とも五万ともいわれる禄高を損失したという。
 こうした状況の中で、家中、領民はどうのような暮らしをしのいでいたろうか?


  馬廻組、五十騎組、与板組は総称で三手組と呼ばれ、米沢家中の中核であったという。 馬廻組は藩祖謙信の馬前のそなえを勤めた勇猛な旗本百騎を淵源とし、五十騎組は出生地上田以来の景勝の旗本で、とくに景勝が征服に手をやいた大敵であった新発田重家を攻めて決戦を挑んだとき、直参の五十騎の武功が著しかったのでその名を冠された組、与板組は、上杉の柱石直江兼続の与板城以来の直参で、兼続の戦役の功名をささえてきた者たちであるという。
 三手組ともに、しだいに人数が多くなり、家臣の二割を占めるまでになった。が、それは、それぞれ戦時下の戦仕事よりも、日常の重要な職務をゆだねられたからである。
 馬廻組が勤める役職は、大目付、御中之間年寄、御留守居、群奉行、宗門奉行、町奉行、御中之間番頭、藩主に近侍する御中之間詰二十四人などであった。このうち御中之間年寄六名は奉行の下で重要政務に参与する要職で六人年寄などと称したという。
 五十騎組は、板谷などに関所の職や、江戸での仕事、奉行などの仕事であり、与板は足軽や大筒、鉄砲などの職であったという。
 しかし、足軽たちは早くから棒禄による生計をあきらめていて、商農工に道を探していたという。それぐらい藩財政は困窮していた訳だ。
 ……あまり難しくてどうでもいいようなことは省略して、これからは鷹山公の改革などに言及する。しかし、どうしても詳しい事情が知りたい方は古い文献を参考のほど。
 とにかく、こうした困窮した米沢藩の状況のなか登場した政治家が、森平右衛門利真であった。森は、長く藩政に専権をふるった筆頭奉行清野秀祐が職をしりぞいた翌年の宝暦七年に奉行職についた。そして、独裁的な権力をふるったのである。
 ”無能”の藩主は森の正体を見抜けず信頼し、自分は領民が飢えて苦しんでいるのにもかかわらず「能」や「茶」ばかりに熱中していたという。
 名君・上杉治憲(のちの鷹山)、改革の数十年前の出来事である。

         元凶、森 二



  宝暦十三年のある夜、竹俣当綱の江戸屋敷の邸宅に3人が集まっていた。
 莅戸善政と木村高広はすでにきていた。ただ、藁科松伯はまだだった。だが、風でぎしぎしと揺れる屋敷に近付いてくるのは誰にでもわかった。
 …ゴホン、ごほん、ゴホン…。藁科松伯の咳こむ声が響いたからだ。
 だいぶ病状は悪いらしい。
「先生、だいじょうぶですか?」
 木村が襖を開けて、そう心配気に尋ねた。それにたいして松伯は、
「なに大丈夫、これくらいなんともない」
 と、にこりとして、また咳こんだ。
 江戸屋敷も森派のものだった。そのため、批判派の四人は密談がばれないように慎重をきさねばならなかった。莅戸は襖に横耳をつけて、敵の気配を見張ったが、煩く吹く風の音以外はきこえもしなかった。木村も耳をそばだてた。
「どうぞ先生」
 竹俣当綱が、病身の藁科松伯に言った。
「はっ、………では」
 彼は中に入って、襖をしめた。そして、また、ごほんごほんと激しく咳こんだ。
「いやいや…これでは密談もできませんな。ごほんごほんという咳で、藁科松伯貞祐ここにあり、と言っているようなものですからな」
 当綱が、冗談めかしに言った。
 が、誰も笑わなかった。言った当人の竹俣当綱もすぐに険しい顔にもどった。
 ………先生がこのまま死んでしまったら………。不安にかられた。
 しかし、当人の医師・藁科松伯だけはそう思ってなく、周囲のものには「風邪だ」と言っていた。それは本心かどうかはわからない。
 藁科松伯は米沢生まれでも、米沢育ちでもない。父の藁科周伯が御側医のつぎの待遇を受ける外様法体の医師として米沢藩に抱えられて以来の家臣である。
 彼は火鉢に手をかざし、「いやぁ、寒い寒い」と言った。その手も顔も、驚くほど蒼白かった。それから続けて、
「あたたかい季節になれば、風邪などすぐになおります」と言った。
「もう少しあたたかくなるまであたってて下さい」
 当綱が、師をいたわった。
「いや、ご家老」
 藁科松伯は火鉢から離れると、正座した。そして、「危険をかえりみずにわれわれを収集したところをみると……よほどの重要なお話しと存じます。たかが風邪ごときのそれがしの心配など無用に願います。さっそく話を承りたい」
「さようか」
 当綱が頷いた。           
「九郎兵衛、丈八、そちらも近くに寄れ」
「はっ」
 三人は竹俣当綱のまわりに集まり、言葉を待っていた。「…では申す」
 竹俣当綱はそういって、言葉を切った。それで、しんとした静寂がしばしあった。当綱の濃い髭がゆれたが、それは表情をかえて考えているからだった。
「実は、ある藩のご家老の屋敷にいってきいた。それによると、わが米沢藩の内情を伝える書を滝の口に箱訴したものがいるというのじゃ」
「なんと?!」
 莅戸九郎兵衛善政と木村丈八高広はびっくりとした声をあげた。しかし、藁科松伯だけは、表情をかえなかった。
 箱訴とは、滝の口の幕府評定所表門にでている投書箱に訴状を投函することである。いわば、幕府の目安箱にだ。この箱は、先先代の徳川吉宗が設置をきめたものである。その目安箱に、誰かが、「米沢藩の内情」を書面にしたためて投書したのだ。なんということだ! 九郎兵衛も丈八もことの重大さに気付き、動揺して額に汗をにじませた。「落ち着かなければ…」と焦れは焦るほど、足の力は抜け、足はもつれるばかりだ。無論、だからといって藁科松伯が重大さに気付かなかった訳ではない。この人物は事前に知っていたのだ。もちろん投書する者も多かった。が、すべてが正論という訳でもない。が、現代の政治家が「世論」を気にするように、幕府、各藩もそれを気にした。
「いったい誰が投書を……?」
「わからぬ。ただ」竹俣当綱はそういって、言葉を切った。そして「ただ……な」と言った。「うむ。どうもその書状の内容は幕府にとって重用視されたようじゃ。赤字や藩の内情、人別銭のこと森のこと……あからさまに書いてあったそうじゃ」
「訴えたのは、はたして領民でしょうか?」
 木村が尋ねた。
「箱訴は武士の訴えを禁じておる。訴状は名前や住所を記入しなければ受け入れられぬゆえ、米沢の者に間違いなかろう」
「もしくは家中の者が、親しい領民に書かせた……とも考えられましょう」
 莅戸が言った。
「それもありうる」
 竹俣当綱はそういって、莅戸に顔を向けた。
「米沢藩のありさまは何がおこってもおかしくないところまできておる」
「はっ……まさにその通り」
 莅戸と木村が頷いた。
「森の排除を急がなければなりますまい」松伯が言った。そして、また激しく咳こんだ。そして続けて「しかしながら……」と言った。
「森の排除には慎重をきさなければなりますまい」
「慎重?」竹俣当綱は怪訝にそういって、考えた。……どういうことじゃろう。慎重?森という男は藩の元凶……それは誰もが知っている。そのような男をのぞくのに慎重をきす必要があるだろうか?手段など考えずバッサリと斬り捨てるべきでは……?
「今回の訴書の件がござる」
 藁科松伯が当綱の心の問いに答えるように言った。
「訴状が焼き捨てになるか、取り上げられるかはわからないにしても……これだけ評判になったよし、幕府としても無関心ではいられますまい。森の処分についても藩の内々の問題とはならなくなったと思います」
「………確かに…」
「それに森は藩主・重定公のもっとも信頼している重鎮の家臣……その取扱いによっては、こちらの方が処分されないともかぎりません」
「それについては大丈夫。国元の千坂、芋川、色部らとともに談合いたす所存である。藩の重役たちの意見として殿に森の処分を押し切る所存じゃ」
「森の処分の内容はもう決めておりますのかな?」
「そこじゃ」竹俣当綱は言った。「千坂を中心に条々は決めているはずで、千坂の密書によると……森の悪政は十七か条にもおよぶという」
「さて…それではその書をして森に隠居を勧めてはいかがですかな?それを受け入れぬとあらば…その時、謀殺を検討すればよろしいかと」
「先生は森をご存じない」
 竹俣当綱は強く言った。「あの森という男はかなりの傲慢な人間で、神にかけてもいいが隠居などするような男ではありません」
「ならばいたしかたなし」
 松伯は言った。そして、また激しく咳こんだ。
「だいじょうぶですか?先生」
「だいじょうぶ…です」
 師は言った。「江戸の寒さは米沢よりこたえます」
 そんな時、外の門が開く音がしたので、一同は沈黙した。木村が襖を開けて、みにいった。が、たんに風に吹かれて音をたてただけだったことが分かった。…ほっ。一同はまた話はじめた。
「で、決行はいつになりますか?」
 藁科松伯が静かに言った。当綱は、
「すぐにでも。殿が当屋敷にいる間に形をつけなければなりません」
「いかにも」
 松伯が静かに言って頷いた。
「そのようなことは一日でも一刻でも早いほうがよろしい。しかし、内密に…秘密利に」「さよう」
 当綱は強く頷いた。「しかし、まだ国元の重役は訴状の件を知りません。誰かが知らせて、森排除の話しをすすめなければなりません。しかも、内密に…秘密利に、森派に気付かれないように、です」
 木村は「では私が米沢へいきます」と手をあげた。それにたいして当綱は、
「いやいかん」
 と言った。
「なぜでございましょう?」
「丈八は顔が知られ過ぎておる。九郎兵衛も松伯先生も、だ」
「……では、誰か顔を知られぬものがおられますか?」
「そこじゃ。顔を知られぬものはここにはおらん」
 当綱は強く言った。「だが、他の者では話しにならん。そこで、わしが隠密に米沢にいって話しをしてこようと思う」
「ご家老が、ですか?」
「うむ」竹俣当綱は強く頷いた。




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「花燃ゆ」とその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作<加筆維新回天特別編>アンコール連載小説8

2015年01月19日 07時51分04秒 | 日記









「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。
  元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入した。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。
 下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。
 そして、作戦を練った。
 ……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!
「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。
 薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」
 晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。
  高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。
「旦那はん、なに弾きましょ?」
「好きなものをひけ」

 ……三千世界の烏を殺し
     お主と一晩寝てみたい…
    
 後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。

  薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、
「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。
 あの巨体の巨眼の男である。
 しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。
 禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。
 消息不明だというと、
 今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。
 晋作は二番手だった。
「高杉さん、大変です!」
「どうした?」
 高杉は酔っていた。
「西郷さんがきてます。会いたいそうです」           
「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」
 高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。
「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」
「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」
 高杉は苦笑して、
「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」
「あいますか? それとも斬り殺しますか?」
「いや」
 高杉は続けた。「西郷の側に”人斬り半次郎”(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」
「じゃあ会いますか?」
「いや。あわぬ」
 高杉ははっきりいってやった。
「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」
 一同は笑った。

 竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
 のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
 すべては日本の国の為にである。
 長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
 京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
 だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
 勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
 ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
 だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。


  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」
「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。
 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。
 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。






 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。      浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
  小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸入りし、練習用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」


  三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。
 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人どおしが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人どおしが争って駄目になってる。
 確かに、今までは戦国時代からは日本人どおしは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。
 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
 四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。
 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。
 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。




  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
  元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。
 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
 とにかく、近藤勇たちは決断した。

  池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。
「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)
 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、さらに増やすように資金まで送ってきたという。

「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。
「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。
 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。

 この年、近藤の妾、深雪太夫が病死した。
 近藤は駆けつけたがすでに手遅れ、深雪太夫は近藤勇の腕の中で死んだ。近藤は初めて泣いた。悲しかった。せっかくの俺の女子が……
 近藤の全身の血管の中を、悲しみが、悲しい感情が駆けめぐった。涙が瞼を刺激した。近藤は、これはいかん、と上を向いて堪えた。しかし、涙はあとからあとから溢れ、やがて彼は号泣した。
  深雪太夫には妹がいたという。これまた美女で、名を孝子といった。
 寂しさからだろうか……近藤勇は孝子を、次の妾、とした。
 新選組崩壊のわずか数年前のことであった。

  『禁門の変』で長州藩が朝敵となると、桂小五郎はのちの妻・幾松の援助金などでなんとか生き続けた。その逃げ足の速さから、新選組から『逃げの小五郎』といわれ、京に潜伏していた桂小五郎。あるときは僧侶、あるときは女装して芸子、あるときは太鼓持ち、あるときは下僕…と変装して京で情報収集をしていた。幾松や他の芸子たちにもてた女たらしの桂は、女子たちに守られ、新選組たちの凶刀から逃げ続けた。
「そこのもの、桂小五郎を見なかったか?」
 新選組隊士たちから聞かれた下僕に変装した桂は、「いえ。あっしはそげな奴はみとりまへん」という。まだマスコミも何もなかった時代で、誰も桂の真顔は知らない。
「…そうか。ん?!」
 桂はびくついた。「何でおまっか?」
「お主、桂ではないか?」
「そげな……わてはそんな悪人とは違います。ひと違いどす」
 そこにきたのが幾松だった。「これ、お前、何をやっとんのや!」
 幾松は桂の胸倉を掴み、頬に平手打ちした。「桂小五郎のような悪人に間違われるなんて……この店の恥どす! はよう新選組のみなさまに謝りや! この又兵衛!」
 幾松はまた平手打ちした。
 これにはさすがの新選組隊士も弱り、「もうよい、芸子! 又兵衛とやらすまなかったな。これは詫びだ、少ないがとっておけ!」と銭袋を投げて店から出ていった。
 誰もいなくなってから、幾松は桂に土下座して、
「すんまへん、桂はん! 芸子如きが武士である貴方さまに平手打ちなど…すんまへん!」「いや、いいってことよ幾松。……それより礼をいうぞ。危ないところだった」
 桂は益々、幾松にホレこんでいく。しかし、この桂小五郎、やたらと女にもてる。そして幾松だけでなく、色々な女に手を出し、子供まで孕ませるなど女色の限り……
 それでも幾松の桂への思いは消えなかった。
  桂は新選組たちの目を盗み、橋の下でホームレス同然の生活をしたり、放浪した。
 幾松は乞食となった桂に『握り飯』などを届けて、サポートした。
  だが、新選組も馬鹿ではない。幾松が桂の愛人だと知って、駐屯所に呼びだし、縄で縛って木刀で拷問にかける。
「桂はどこだ?! 言え!」
 しかし、幾松は口を割らなかった。この根性にはさすがの近藤勇も土方も感嘆したという。幾松はそれ程までに桂という男を愛していたのだ。

「先生! 桂先生!」
 長州の連中が呼ぶと、
「馬鹿者! ”先生”…と呼ぶな! 新選組や見廻組たちが私の命を狙っているのだぞ」 と恐怖の顔をした。
 しがない『うどん屋』のようなことまでしている。
「マズイ……こんなうどんで金とってたんですか?」
「やかましい! 私はこれから長州へ帰るぞ。京のことや幕府や朝廷の動きを文で知らせよ。これは命令だ」
 桂はホームレスのような格好のまま指令を出した。


  十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝海舟は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。


  麟太郎はいよいよ忙しくなった。
  幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
 龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
 龍馬は笑いながらいった。こののち龍馬は京の清風亭で、亀山社中の仲間とともに土佐の後藤象二郎と会談をして、龍馬は土佐藩をも薩長官軍への同調姿勢となすことに成功する。坂本竜馬という名前が有名になって、龍馬は暗殺者から身を守る為に「才谷梅太郎」という仮名をつかうようになる。長崎の貿易商トーマス・グラバー、長崎の豪商・大浦慶(女性)等と商談を成功させる。
 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。

  幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。
 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。
 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。
「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。
 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」
 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。
「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」
 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。
 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。
 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。
「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」
 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。
 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。
 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。
 慶喜の対応は冷たかった。
 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。
  麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。
 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。            
「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。
 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。
 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。
 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。
 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。
 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。
 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」
 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことは いっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。
  長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。
 福沢諭吉もひのひとりだった。
 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。
 ……あれはもしかして英語か?
 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!
 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。
 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。
 九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。
 慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。
 二十日には登営し、日記に記した。
「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」
 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。
  江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。
 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。
 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に理由学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。
 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。
  麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。
 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。
 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」
 と強くいった。
 パークスは麟太郎の提言を承諾した。
 そして、麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。
「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。
 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」
 麟太郎はするどく指摘していく。
「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」
 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.153幕末的日本国危機「ハイパーインフレ」「デフォルト」今こそ新世紀維新!

2015年01月18日 19時22分03秒 | 日記









今の日本は幕末の時代のように植民地にされる訳でも日本が発展途上国な訳でもないが自民党独裁政権が続けば「悲惨なハイパー・インフレ」「デフォルト(日本国債の債務不履行)」が起こる。皆さん知らないだろうが日本の金融機関は日本国債を買い占めている。それがデフォルトすれば日本人の金融資産(銀行預金・年金・株価等)が1600兆円もなにもかもが水泡に帰す。つまり、日本の資産がスカラカンになり後進国になってしまう。これは日本人の危機なのだが、日本人は危機感がない。何故なら理解していないから。野党連合での自民党政権の暴走ストップも必要だ。維新の党と民主党ら(イデオロギー的にあわない共産党社民党以外)での野党大連合でふたたびの救国の新世紀維新としなければ日本はおわる。民主党の代表が岡田氏とは残念だが、まあ、時代だろう。今の日本の危機は政治ではない。経済と外交だ。自民民主に今どれだけの人物がいる?人材こそ宝だ。日本人は異常な程『学歴至上主義』で、大学を出ていない人間を忌み嫌うが何故だ?無学歴なら無能だとでも思ってやがるのか?それこそ糞食らえ!だ。じゃあ、安倍晋三や谷内正太郎や飯島勲や財務官僚がどれだけあくどいやり方で私腹を肥やしたか理解しているのか?霞が関幕府こそ瓦解・大政奉還せよ!

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「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」2017年度NHK大河ドラマ原作<上杉鷹山公の改革物語>「為せば成る」2

2015年01月17日 07時33分54秒 | 日記











 鷹山公の実母・春は病床の身となる。ごほごほと咳をすることが多くなる。やがて、喀血して本人も驚いたことだろう。
 春はまだ幼き息子・直丸(のちの鷹山公)に「秋になると木々が紅葉で真っ赤や黄色に色づくのは何故か知っていますか?直丸」と聞く。
「わかりません」正直な答えであった。
「木々の紅葉は御屋形である木を守る為、真っ赤や黄色くなってまで御屋形の木を守る為に身代わりになって散っていくのです。お前もそういう君主にならねばなりませぬよ。夢夢「自分は誰よりも偉い」等と天狗になってはなりませぬよ」
「はい!わたくしは母上に誓いまする、きっと立派な殿さまに、紅葉のような絢爛な殿さまになりまする!」
 若き鷹山公(直丸公・治憲公)の志であった。
 のちの鷹山公の実母・春が、三十五歳の花のような生涯を病死という形で果てたのは、この頃である。
 のちの上杉鷹山となる直丸は、幼少期から学問と武道を学んでいる。秋月家も上杉家も文武両道方針で質素倹約の家系である。
 直丸は細井平洲(ほそい・へいしゅう)先生や米沢藩奥医師・藁科松伯らに学び学殖を得た。ここで直丸は猛勉強する訳だが、直丸にはある癖があった。
 彼は何かに集中し過ぎると先生や誰かが声を掛けても耳から聞こえない程に熱中することだ。熱中するものがあると一直線に行動する為に成功を遂げる事も多いが、どこか「過ぎる」ところがあって、間違えたと分かるまで一直線に行動し、自分の正義を曲げない。
 そうしてある創作や政策をひらめかせる。まあ、今でいうならアイデアマンであり、アインシュタインやエジソンのような偉人な訳である。この時期、上杉家・米沢藩主・重定の子供が相次いで病死したり夭折(ようせつ・幼くして死亡)している。
 のちに上杉治憲(のちの鷹山)の正室となる幸姫(よしひめ)が誕生している。
 ちなみにこの頃の竹俣当綱の存在意義は大きい。やがて失脚してしまう運命の竹俣当綱だが、先祖は上杉二十五将のひとりでもある。
 かなり恵まれた環境で育った当綱だが、実母が若くして死んでしまう。当綱の父親は若い娘を後妻に迎え、祝言の席となった。当綱は酒豪でぐいぐい飲んでいた。しかし、同僚で親友の莅戸善政は下戸である。
「まあ、莅戸よ一杯くらいどうじゃ?」
「いいえ。私は下戸ゆえ」
「そうか。だが、舐めるくらいはよかろう?」
「はあ」莅戸は杯に酒を注がれ、舐めるだけ酒を飲んだ。たちまち顔が真っ赤になる。「竹俣殿、わしはやはり……酒は……苦手じゃ」  
 そのまま莅戸はぐったりとなった。病気ではない。舐めた酒に酔った訳だ(笑)
「莅戸は酒を舐めただけで、泥酔してぶっ斃れおった」
 一同は笑った。
 この頃、米沢藩士改革派として台頭してきたのが、この莅戸九郎兵衛(くろうべい)善政と竹俣美作(みまさか)当綱、木村丈八(じょうはち)高広、藁科松伯貞祐(さだすけ)、佐藤文四郎秀周(ひでちか)ら、である。
 宝暦五年(1755年)米沢藩は大飢饉に襲われた。
 多くの餓死者を結果として出してしまう。が、前述の米沢藩士改革派の活躍と藩の「御救い米」等により最低限の死者の数で済んだのである。
 鷹山公の学問の栄達は細井平洲先生と藁科松伯にかかっているといっても言い過ぎではなかった。
 しかし、藁科の寿命は「風前の灯」であった。
 ここ最近咳き込む事が多くなり、医者として自分の病状は「風邪の羅看」と思って江戸の名医に診てもらった。そして、咳き込み喀血して、自分でも驚いたという。
「労咳(ろうがい・肺結核)ですな」いわずもがな、である。
 当時は肺結核は不治の病である。しかも、余命半年だという。
 そうか。わたしは直丸殿、治憲殿の改革を…米沢の藩政改革の一翼ともならず、死んでしまうのか。
 それは絶望ではなかった。改革に自分が参加できないであろう悔しさ、であった。

         公の教育と立志



               
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山公、鷹山公といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。
のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」
話しを戻す。
 米沢藩の藩校・興譲館に出勤して藁科は家学を論じた。次第に松伯は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。莅戸らにとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという師匠・藁科松伯の存在は誇らしいものであったらしい。松伯は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」若き松伯は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松伯は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松伯はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松伯は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松伯は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松伯は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い藁科松伯でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松伯は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松伯の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松伯は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松伯は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松伯は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松伯は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松伯の名声は世に知られるようになっていく。松伯はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない。だから労咳になどに罹ったのだ」



  明和四年(1764年)十二月、米沢藩江戸屋敷…。
 その日は11月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くのほうにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。
 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             
 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。
 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。そして、難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとした首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。
 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。
 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。
 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。そして、畳に手をつき頭を下げて、
「……上杉直丸でございます」
 とハッキリとした口調で言った。
「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。そして続けて、
「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。
「はい」
 直丸は答えた。そして、台にのった本をひろげて、
「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。
 あるとき、直丸は木登りから落ちて怪我をしたことがある、そのときの右肘の傷は晩年まで痕になって残る程であった。
 だが、命が危ない程の怪我ではなかった。藁科松伯のほうが棺桶に右足が一歩入っている状態である。なのに藁科松伯は、病気をおして正装してまで江戸藩邸に出向き、直丸を労わっている。
「われのことなどよい。それより藁科松伯先生の病のほうがよほど深刻では?」
 直丸が訊くのももっともである。
 藁科松伯は「拙者如きは只の風邪にござる」と嘘をいった。直丸は叱った。真実が耳に入っていたからだ。
「藁科松伯先生、無理をなさるな。養生なされよ」
 すると藁科松伯は涙を流し、「かたじけありません、直丸公……拙者如きが……そのような温かいお言葉…」
 ふたりははらはらと涙を流し、号泣した。
 そして藁科松伯は志を公に託した。こののち直丸から上杉治憲と名を変えた鷹山公が、米沢藩に初入部する頃、藁科松伯の寿命は尽きている。
 ちなみに佐藤文四朗には好きな女子がこの頃より出来た。
 奥女中で米沢藩江戸屋敷の春猪(はるい・仮名・童門冬二先生の小説では“みすず”という名前)という若い女性である。だが、一目ぼれの片思いであった。
 何度か話すうちにお互い惹かれあうようになるのだ。だが、それはもう少し時間が必要、であった。


翌明和二年(一七六五年)、当綱は国家老に昇格して米沢へ戻った。
そして次の年、直丸は元服して治憲(はるのり)と名乗る。さらに翌四年四月、藩主重定は家督を譲って引退し、上杉治憲が藩主となる。時に十七歳であった。
なお、上杉家では藩祖である謙信を初代としているが、米沢藩主としては次の景勝(かげかつ・上杉謙信の姉・仙桃院からの養子)が最初になるので、こらから数えて治憲は九代目藩主(上杉家では十代目)ということになる。
爽やかな風が頬を撫でていく春の江戸桜田の上杉藩邸で、治憲は空を見上げて、志を確かにするのだった。松柏や美作から上杉家米沢藩の窮状は聞かされていた。そこで改革をするのは自分しかいないではないか!と思ったのだ。家督を継いだ以上は、何が何でも再建しなければならない。今日こそがその第一歩の、戦国時代で言えば初陣である。
若い藩主は重い使命感に武者震いを覚えた。その興奮を鎮めるように机に向かうと彼は自ら筆をとり、墨痕鮮やかに「民の父母」と大書した。
そして、その下に小さく「受け次て国の つかさの身となれば 忘るまじきは」と三行に分けて書き上げた。君主たる者は民の父母にならなければならない、これは『大学』にも説かれている為政者の基本姿勢である。
慶応元年(一八六五年)米沢市の林泉寺(りんせんじ・米沢市南西部・直江兼続の菩提寺)の学寮から出火したことがある。このとき隣の春日神社にも類焼の危機が迫った。急を知った住職が貴重品を運び出そうとしたが、その中から治憲の人知れず奉納していた誓詩が発見された。
そこにも自ら「民の父母」となることを第一と自覚し、文武の道に励むこと、礼儀正しくすること、賞罰に不公平のないことなど、自分自身への戒めが五か条にわたって記され、末尾には署名したうえに血判が捺されていた。
もし、林泉寺に火事がなければ、この誓詞は発見されなかった。治憲は翌九月、やはり国元の白子神社に藩政の再建の宣言した誓詞を奉納しているが、これも明治二十四年(一八九一年)になって初めて発見されている。この虚心誠実な治憲の前にこれからも呆れるほどの艱難辛苦が襲いかかってくる。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用32~40ページ>

♪松葉を腰にさし
 ゆずり葉を手にもち
 お正月がゆさゆさ
 ござった、ござった……
子供たちの歌声は元気である。米沢にも明和九年(一七七二年)の新春が訪れた。
古来米沢には「正月お手掛け」というしきたりがある。年始に客が来ると主人は三方(さんぽう)に松葉、昆布、串柿、榧(かや)の実、勝栗、蜜柑、馬尾藻(ほんだわら)などを飾り、客に「お手をお掛け候え」と勧める。客は三方に手を掛け、そこで双方が年始の挨拶を交わす(『米沢市史』)。
米沢藩恒例の鉄砲上覧も一月十六日に挙行され、この年は諸事順調に滑り出すかと思われた。ところが二月十九日、江戸で大火が発生した。江戸の上杉家藩邸屋敷も全焼しているが、後述しているのであえてここではこう述べるにとどめよう。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用68~70ページ>

  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、三郎景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館(おたて)の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。武田勝頼方からは同盟の証として、武田信玄の娘(勝頼の妹)・菊姫が上杉景勝に輿入れした。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。しかしながら、歴史通の方ならご存知の通り同盟を結んだ武田家は滅亡してしまう。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の山崎合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を押さえて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したというわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なりの後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう! 米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。              
         改革



  治憲は江戸の米沢藩屋敷の庭を散策するのを日課としていた。
 庭はあまり広くないのだが、朝の散歩はとてもここちよい気分にさせてくれた。少なからず目の前の不幸を忘れさせてくれるかのようだった。
 朝も早いためか、きらきらとした朝日が庭に差し込み、庭が輝いても見えた。それはしんとした静けさの中にあった。
 治憲は散歩の足を止め、朝日を浴びてきらきらとハレーションをおこす小さな池を指差した。一緒にいた若き側近、佐藤文四郎も池を見た。しかし、そこにはいつもと変りのない池があるだけだった。治憲は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年は文四郎と同じように見えた。すらっと細い体に、がっちりとした首、面長の鼻筋の通った青年で、クールな力強さを感じさせた。着物もぴったりしているが、瞳だけは違った。彼のまなざしは妙に深く、光っていた。瞳だけが老成している、といえばいいのか。佐藤文四郎もハンサムだが、髭面で汚かった。
 佐藤文四郎秀周(ひでちか)は、「御屋形様、いかがなさいましたか?」、と尋ねた。
 それに対して、治憲は言った。
「文四郎………この池の中の魚をどう思う?」
「魚……でございますか?」
「うむ」
「さぁ………」佐藤文四郎の顔がクエスチョン・マークになった。そして、公の答えをまっていた。
 治憲は言った。
「この池はあらゆる藩。そしてこの中の魚はあらゆる家臣たちだ。泳ぐ魚をみてみるがよい。鯉は自由自在に泳ぐ。つかみどころのない鮒。池の中にありながら泳ぎを忘れないハヤ。しかし………国元の米沢の家臣たちは金魚だ」
「金魚?」
「そう。金魚だ。みずから泳ぐことをしない。…………今、私の改革の手助けをしてくれるのは……誰だろう?」
 ふたりはしばし沈黙した。
 それから、治憲はハッとしたような顔をしてから佐藤文四郎に、
「本国の重役たちから好かれてない人物たち。改革の志を持った者たちをあつめよ」
 と命じた。
 文四郎は呆気にとられた顔をしたまま「私もそのひとりですが…」と呟くように言った。 すると治憲はほわっとした微笑みを口元に浮かべて、魅力的な横顔のまま、
「だからこそ頼むのだ」と答えた。
「はっ!」
 佐藤文四郎はすぐに動きだした。


こうして、竹俣当綱(37才・千石・前江戸家老・現在閉職)、莅戸善政(33才・百八石・馬廻組)、藁科松伯(31才・米沢・待医・細井平洲門下)、木村高広(37才・二十五石・御右筆)らが呼ばれた。莅戸や木村はとてもいい顔で、華奢な体つきだ。木村は少しうらなり顔で、莅戸善政は背も低く、おちょぼ口で、しかし堂々たる男であった。
 奥座敷ではすでに上杉治憲と江戸家老の色部照長が待っていた。
 色部照長は初老の男で、がっしりとした体躯のわりには気の小さな男であったという。この色部の前の江戸家老が竹俣当綱だったのだが、国元の重役たちのクーデターによって竹俣は失脚させられたのだった。失脚のことを思うえば思うほど、焦り、怒りで体が震えた。
 集まった竹俣ら四人集と佐藤文四郎は座敷に足を踏み入れ、正座して、頭をさげた。
「御屋形様、連れてまいりました」佐藤文四郎が言った。
「うむ。ごくろう」
 竹俣ら四人集は「御屋形様、ごきげんうるわしう」と言った。
「うむ。おぬしらに話しがある。さっそくだが………ここにいる色部が毎月金を借りにいっている商屋に金を借りにいった。が、断られた。もはや、誰も米沢藩に金を貸してはくれぬ。それについて色部から意見がある。よく聞くように」
「はっ」
 色部照長はためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、心臓が二回打ってから話しだした。
「御屋形様からのお話しの通り……もはや誰も米沢藩に金を貸してはくれません。藩の台所は火の車でして………正直なところ……そのお…」
「色部、申せ」
「はっ」色部照長は少しためらってから「……もはや米沢藩の命運尽きたかと。もはや…幕府に藩を返上して…一からやり直すのが得策かと。もちろん家臣。藩士はじめ、皆、浪人になりますが……このまま死ぬのを待つよりはマシかと…思います」と呟くような苦しい声でいった。心臓がかちかちの意思になるような感覚に、色部は驚いた。
 治憲は「うむ。」と頷いてから「なるほど、そういう考えもあろう」と言った。そして、続けて、ハッキリとした口調で、
「しかし、私はこう考える。私は日向高鍋から養子にはいったばかりだ。それがすぐに藩をつぶしてしまったのでは謙信公以来の藩主に申し訳がたたぬ。同じ潰すなら、やれるだけやってみようと思う。米沢藩を立て直し、自立できるようにする。しかし、私のいっている改革は藩に金を集めることではない。領民の幸福のための改革だ。そこで、おぬしらに命ずる。………改革案をつくれ!」
 と言った。
 色部照長はまた少しためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、
「………しかし…」といいはじめた。
「色部、申せ」
「はっ」色部照長はまた少しためらってから「……御屋形様のお考え、まことにご立派。しかし…このような重要なことは…まず国元の重役たちに相談してからのほうがよろしいかと……」
 それにたいして治憲は「いや。」と首を軽く振ってから「それではことが進まぬ。米沢藩はいまや大病にかかっている。すぐにでも大掛かりな手術が必要なのだ。おぬしらの怒りを改革案にぶつけよ! 米沢を生きかえらせるのだ!」
 と言った。それすざまじい気迫のある声だった。
 こうして治憲(のちの鷹山)の改革はスタートしていくので、ある。

  米沢・前藩主・上杉重定は放蕩の限りを尽くしていた。
 ……能に酒に若い女……重定は藩財政の窮乏そっちのけで贅沢三昧の生活を続けていた。”無能”重定は自分の藩がどれだけ財政難か、という簡単なことさえ理解してなかった。これにたいして竹俣が、治憲に申告した。
「御屋形様!」
「なんだ?」治憲がきくと、竹俣が、「重定公は放蕩の限りを尽くしております」
 と、怪訝な顔でいった。
「……うむ」
 治憲はなにもいわなかった。
 竹俣は「御屋形様から大殿様に節約を進言なされては?……藩の財政は窮乏しておりますれば…」
 竹俣の言葉を治憲がさえぎり、治憲は寂しそうな顔で微笑み、
「大殿さまに自由に遊ばせてあげてくれ」というばかりであった。
「……しかし…」
 竹俣当綱は何かいおうとしたが、やめた。これも御屋形様の優しい配慮なのだな、と考えたからだった。
  重定は、さきの藩主宗憲、宗房に子がなかったので、幸運にも、跡釜になっただけの男である。凡庸にして無能…。その無能さが森利真の独裁を許し、また森の前の清野内膳秀祐に、前主から続く二十六年にもわたって独裁政治を許した。
 しかし、重定の前から米沢藩は窮乏しており、米沢藩窮乏をすべて重定のせいにするのはかわいそうである。
 しかし、あきらかに重定は”無能”…であった。
 だからこそ、その反発から、のちの名君・上杉鷹山が誕生することになったのだ。



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