3 山形市での日々
はるかが山形市にきてから、もう数ケ月が経つ。
はるかこと、黒野はるかが山形市にきたのは、高校を卒業して、大学に入ったくらいの時だから、黒野はるかは山形市通って訳でもない。それどころか、はるかはまだまだ山形市について知らないことの方が、多い。いっぱい知っているようでも、はるかはまだ無知で、『異邦人』って感じなのだ。はるかの住んでいるのは市の郊外町のせいか、そんなに山形市のひとが冷たいとかは感じない。
でも、そういう山形市での日々も、また楽しい。
はるかの父が始めた食堂も、けっこう客がくるようになっていた。
『黒野食堂』は、山形市の下町にある大衆食堂だ。下町だから、なんというか田舎くさいっていうか醤油くさいっていうか…とにかくそんな感じの店である。けして、青山や渋谷にあるようなお洒落なフレンチ・レストランとかそういう店ではない。
何度もいうが『大衆の食堂』なのだ。近所の学生やおっちゃんおばちゃんの食堂!だ。だから、けして食堂のラーメンとか定食も(値段が)高くない。そりゃあそうだ。値段が高けりゃお客さんがこなくなる。官僚とかが接待で行く『向島の料亭』じゃないんだから、値段が高くては客がこなくなるだけだ。そんなに高級で美味な料理を出す訳じゃないんだから。でも、けしてマズい料理を出す訳でもないけどね。
一方的にはるかこと黒野はるかの話しをしてきたので、これからは主人公の鈴木ちひろの話しもしようと思う。
ちひろもはるかと同じく、『作家志望』で、大学の文学部に入るために勉強と執筆を続けたが『鳴かず飛ばず…』だった。しかし、彼女は『M田ショック』に次ぐショックを受けていた。(『M田ショック』とは、ちひろが作家になる前、どうしても出版したくって「小平」という作品をM新聞出版局第一編集部に送り、そこのM田という中年男に罵倒された事件をいう。彼女は「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などと罵倒された。)『M田ショック』パート2ともいうべきショック…『白戦ショック』である!
今度は「ゴースト・ホテル」という作品を白戦社に送り、そこのH田均という男に、また、罵倒されたのだ。また、彼女は「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などと罵倒されたのだ。この『白戦ショック』に彼女はしばらく打ちひしがれたとさやかは言った。 当然だろう。偉そうに、「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などというのはM田だけだと思っていたからだ。M田は特殊な特異な人物だと思っていたところに、「いや、もっともっとM田ならぬH田もいるよ!」と頭をこづかれた思いだったに違いない。
とにかく、はるかが知らない間に、鈴木ちひろは『白戦ショック』という事件に遭遇していた。
その頃、はるかはそんなことなどつゆ知らず、ただキャンパス・ライフを謳歌していただけだった。でも、知らないのもムリもなく、だろう。なぜなら、鈴木ちひろはそうしたことを一言もいわないからだ。…弱さを見せるのが嫌いな娘なのだ。負ずぎらいの娘なのだ。だから、そういう情報ははるかにはのちのちになってからしか手に入らない。くやしい。
そういえば、なぜ彼女は東京に住まないのだろう。その方が便利なのに。
これに対して鈴木ちひろは、
「東京にいなくても地方でも仕事は出来るわ。今や、インターネットで世界中とつながる時代なのよ。SOHOでね」
と言った。はるかはわからなかったので、「SOHOって?」ときいた。
「バカね、はるか…。SOHOっていうのはスモール・オフィス・ホーム・オフィスって意味だよ。つまり、コンピュータと回線さえあれば地方にいながらにして山形市でもNYでもどこにでも繋げられるってことよ」
「でも、仕事にいくには東京に住んだほうが便利でしょ?」
「……う~ん、まぁね。でも、やっぱり東京はひとの住むところじゃないわ。遊ぶにはいいけど。物価も高いし、ひとが蟻の巣ひっかきまわしたようにウジャウジヤいるでしょう? そういうのって私はあんまり好きじゃないんだ」
「やっぱり米沢が好きってこと?」
「ちがうわ!」
ちひろは言った。でも、はるかにはそれが嘘であることもわかっていた。あの娘は故郷が好きなのだ。はるかはなんとなく嬉しくなったのを覚えている。
しばらくしてから、電話のベルがリーンとなった。
「はい、黒野です。あ! ちひろ?」
それはちひろからだった。
「はるか! ひさしぶりね」
ちひろはアハハと笑った。
「うん。ひさしぶり。……何か用?」
「あのね。明日、ちょっと大学の下見に山形市まで行くんだ」
「あ、そう。それで?」
「それではるかの家にいこうかな、と思ってね。いいか?」
「うん!いいよ、おいで!」はるかは微笑って頷いた。
「うん。…とにかく」
「とにかく?」
ちひろの声が元気で明るいものになった。「とにかく、はるか、どうせ暇なんでしょう? 迎えにきてくね」
「『つばさ』でくるの? 山形駅ね?……わかった」
はるかはもう一度、弾かれたように頷いた。
鈴木ちひろは次の日の午前中の新幹線で山形駅に着いた。
その日は、あまりいい天気とはいいがたいものだった。雲はどんよりとしていて、それでいて太陽の光もちらほら見えたりもする。
「おそい、はるか」
ちひろは駅に着いて少し待ったのか、そう悪態をはるかについた。
「ゴメン、ゴメン」
はるかは笑った。
「笑いごとじゃないわ……迎えに来ないかと思った」
「そしたらどうしてた?泣いてた?」
「私は幼児じゃないのよ」
「そうでしょうよ」はるかはもう一度笑った。そして「ひさしぶりに顔合わせたね。元気だった? ちひろ」と言った。
「まぁね、でもお腹空いちゃった」
「わかったわよ」はるかもニヤニヤ言った。「じゃあ、割り勘ね。牛丼でいい?」
「うん」
こうして、はるかとちひろは安っぽい牛丼屋へ入り、食べ、それからなんとなく映画を観た。その映画は、『マザー・テレサ』というドキュメンタリー映画だった。そう、97年9月5日に心臓病のために亡くなったマザー・テレサの映画だった。あの、『スラム街の聖女』である。
あらすじはこんな感じだ。
1997年9月5日、「スラム街の聖女」と呼ばれたマザー・テレサが心臓病のために亡くなった。この死はダイアナ元英国皇太子妃の死からわずか一週間後のことだった。
マザーの持ち物はいつもサリーと草履だけ。なぜ、あれほどまでにマザーや仲間たちは貧困者に愛をあたえつづけることが出来たのか?その愛に迫るのが、このドキュメンタリー映画だった。
マザー・テレサは1910年8月26日、マケドニアのスコピエに生まれた。明るく活発なこの少女は、ある本にであう。聖人フランシスコの話だった。そしてテレサ(本名・アグネス)は決心する。神に仕えようと。そして彼女は修道女となり、インドへ渡る。
インドで教師としての数年間は、平和そのものだった。が、第二次世界大戦や内戦による飢饉で餓死者が多くでる。悩むテレサの耳に、そんな中、神の声がきこえる。「貧しいものを救え」。こうしてテレサは修道院を後にし、スラム街に。しかし、そこは予想以上の酷さだった。必死に貧困者救済に勤めるマザー・テレサには迫害がまっていた。しかし、マザーの献身的な活動をみて、批判者もしだいに矛をおさめていく。50年、『神の愛の宣教者会』設立。以後、『孤児たちの家』や『死を待つひとの家』『ハンセン病患者の家』をつぎつぎと設立していく。やがて半世紀、マザーはノーベル平和賞を受賞。しかし、マザーの活動にも終りがくる。後継者も次々と育ち、さらに活動しようとしていたやさきの1997年、マザーはこの世を去ってしまったのだ。
マザーは言います。「この国のどこに飢えたひとが?この国のどこに裸のひとが?
この国のどこに家のないひとが?と尋ねられます。
いえ、この国にも飢えはあります。”一切れのパン”を求める飢えではなく、”愛を求める”激しい飢えです。心の飢えなのです。愛を与えられず、誰からも必要とされない心の飢え……これが一番の飢えなのです」
「与えなさい、心が痛むほどに…」 マザー・テレサ
なんともいいようもない感動的なドキュメンタリー映画だった。はるかはいいようもないほど感動し感銘を受けた。でも、ちひろはそうでもないようだった。別に、彼女が冷たいから…ではないだろう。きっと、ちひろはこの映画を何度もすでに観ているからだ。
そうに違いない。
なにせ、鈴木ちひろっていうのは、マザーみたいな活動にひと一倍共鳴したり感銘をしたりするほうなのだ。でも、裏では人一倍感動するたちなのである。だから、この映画を初めてみた時、鈴木ちひろは涙でうるうるしたに違いない。きっとそうだ!
「なかなか感動的な映画だったわね」
はるかたちは映画館を出て、山形市の街を歩いているところだった。はるかはふいにそう言った。
はるかは、
「つまらなかった?」と歩きながら、尋ねた。
「いや………まぁまぁね」
「まぁまあ?」
「まあね」
これじゃあ、会話になっていない。しかし、それはそれで楽しい思い出だった。
しばらく歩いていると、偶然、はるかは父をみかけた。はるかとちひろが帰ろうとオフィス街を歩いている時だった。ちょうど夕方で、暮れゆく太陽の赤色がビルの窓に反射して、辺りをセピア色に染めていた。
交差点にはひとがどっと溢れ、信号が青になるのを待っていた。皆、せわしなく、きびしい顔をして、なんだか変だった。そんな時、現付きバイクに乗ったはるかの父がそんな集団の横を通り過ぎた。きっと出前だ。はるかはそう思った。
でも、それは不思議な光景でもあった。
ほんの少し前、銀行マンだった頃の父も、交差点にたまっているエリートのひとりだったに違いない。まじめできびしい顔をして、信号待ちをしていたに違いない。
しかし、いまは違う。もうそんなんじゃない。父はいい意味で違ってしまったのだ。へらへらとTVをみて笑ったり、ゴロゴロして欠伸したり、そんな風にかわった。もちろんエリートのほうがいいってひともいるだろう。だけど、はるかはいまの父のほうが好きだ。 セカセカ働いて、いずれ過労で死ぬより、ラーメンや親子丼やらを作って680円や800円もらうほうが人間らしいではないか。はるかはそう思う。
その時、信号がかわり、どっと人が流れた。はるかとちひろも歩きだす。そうしながらはるかは考えた。
その父と会社員やOL達とのすれ違いはほんの一瞬だったのに、父の変貌をかい間みせてくれた。それまでの、父の長い生活。はるかと母があのなつかしい田舎町で生活していたのと同じ時間、父は大都会東京で呼吸していたのだ。仕事したり、ごはん食べたり、映画をみたり、同僚と赤ちょうちんにいったり、時にははるかと母を思い出したりして。
その間に、父は、はるかや母のことを捨ててしまいたい、と思ったこともあったろうか? 多分、あったに違いない。きっとあったろう。
父も人間だから、ストレスやいやなものをももっていたに違いない。人間は誰でも人生の中において嫌な目にあう。そして、どうしようもないドロドロしたものを心に持つようになる。それは誰だって例外ではないのだ。
だが、父はそれがいやだったのかも知れない。だから、「脱サラ」で食堂を始めたのだ。そして、はるかも父のように心のドロドロしたものを捨てたいと思っている。だから、とりあえず、他人には親切にしよう……そう思ってる。
「ねぇ、ちひろ」はるかは言った。「これからどこ行く?」
「そうだね…ディズニーランドとか?」
「あはは…。ねぇ、ノーパンしゃぶしゃぶ行く? ちひろ」
「バーカ。…はるかの食堂みたいわ」
ふたりはあははと笑った。で、はるかが、「ねぇ、ちひろ。うちのお父さんね。きっとあんたの顔みたらきくわよ」
「なんて?」
「”コンパとかないのか?”って」
「”コンパ”?」
「そう」はるかは笑った。そして続けた。「お父さんのクセなのよ。女の子みるとコンパは? コンパは?っていうのが」
「ふ~ん。でも私まだ高校三年生だよ」
鈴木ちひろは横顔のまま、微笑んだ。
やがて、はるかとちひろは下町にある『黒野食堂』に歩きついた。すると、
「やぁ、ちひろちゃん、ひさしぶり」
「ちひろちゃん、元気だった?」
と、はるかの父と母がちひろを出迎えた。
ここでも性格のいいちひろは、
「おひさしぶりです。おじさん、おばさん。お世話になります」と深々と頭をさげた。
「うんうん。まぁ……ちらかってるけど、中に入って」
「はい」
ちひろはもう一度頭をさげた。
「ところで……山大受験するんだってね」
「えぇ、まぁ、一応」
「すごいね」父は感心した。そして、「じゃあ、医学部?」と言った。
「いえ。人文学部ですよ」
「ところで…」
「はい?」
「ところで…ちひろちゃん。恋してる?」父は馬鹿なことをニコニコと尋ねた。彼女に浮いた話しのひとつやふたつあってもおかしくない頃だった。
「してませんよ」ちひろはあははと笑った。
「そうか。そりゃあ寂しいね。コンパとかないの?」
父ははるかの予想どおりに、ちひろにそうきいた。ので、はるかは、
「ほらね」と彼女にウインクして見せた。
それに対して、鈴木ちひろは苦笑するだけだった。
次の日、ちひろは大学の下見を終えると、足速に新幹線で米沢へと戻った。
米沢駅では、母が出迎えたという。そして、ふたりは歩きだした。自宅に向かって。
「おかえりなさいちひろ……疲れたでしょう?」
「いや、だいじょうぶよ」
「そう?……山形市はどうだった?」
「まぁまあ」
「そう。…ところで、今度は『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説書いてるんですって? どう? はるかちゃん、執筆の調子は?」
母は興味深々に尋ねたという。それに対して、ちひろは、
「それはやめたって! というより保留ね。…いまさら『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説じゃあ、世間や文壇へのインパクトが弱いからって」と言った。
「インパクト? はるかちゃんは、そんなものを執筆の基準に…?」
「なぜ悪いの?!」ちひろはキッとした目で言った。「はるかは成功するためにやっているのよ。そのためにはなんだってやるわよ」
「はぁ……そう…」母はそう言うしかなかったという。
ちひろは横顔のまま笑った、という。
まだ、ちひろ発病前のこと、である。
はるかが山形市にきてから、もう数ケ月が経つ。
はるかこと、黒野はるかが山形市にきたのは、高校を卒業して、大学に入ったくらいの時だから、黒野はるかは山形市通って訳でもない。それどころか、はるかはまだまだ山形市について知らないことの方が、多い。いっぱい知っているようでも、はるかはまだ無知で、『異邦人』って感じなのだ。はるかの住んでいるのは市の郊外町のせいか、そんなに山形市のひとが冷たいとかは感じない。
でも、そういう山形市での日々も、また楽しい。
はるかの父が始めた食堂も、けっこう客がくるようになっていた。
『黒野食堂』は、山形市の下町にある大衆食堂だ。下町だから、なんというか田舎くさいっていうか醤油くさいっていうか…とにかくそんな感じの店である。けして、青山や渋谷にあるようなお洒落なフレンチ・レストランとかそういう店ではない。
何度もいうが『大衆の食堂』なのだ。近所の学生やおっちゃんおばちゃんの食堂!だ。だから、けして食堂のラーメンとか定食も(値段が)高くない。そりゃあそうだ。値段が高けりゃお客さんがこなくなる。官僚とかが接待で行く『向島の料亭』じゃないんだから、値段が高くては客がこなくなるだけだ。そんなに高級で美味な料理を出す訳じゃないんだから。でも、けしてマズい料理を出す訳でもないけどね。
一方的にはるかこと黒野はるかの話しをしてきたので、これからは主人公の鈴木ちひろの話しもしようと思う。
ちひろもはるかと同じく、『作家志望』で、大学の文学部に入るために勉強と執筆を続けたが『鳴かず飛ばず…』だった。しかし、彼女は『M田ショック』に次ぐショックを受けていた。(『M田ショック』とは、ちひろが作家になる前、どうしても出版したくって「小平」という作品をM新聞出版局第一編集部に送り、そこのM田という中年男に罵倒された事件をいう。彼女は「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などと罵倒された。)『M田ショック』パート2ともいうべきショック…『白戦ショック』である!
今度は「ゴースト・ホテル」という作品を白戦社に送り、そこのH田均という男に、また、罵倒されたのだ。また、彼女は「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などと罵倒されたのだ。この『白戦ショック』に彼女はしばらく打ちひしがれたとさやかは言った。 当然だろう。偉そうに、「ひとの読む水準に達してないんだよ!」などというのはM田だけだと思っていたからだ。M田は特殊な特異な人物だと思っていたところに、「いや、もっともっとM田ならぬH田もいるよ!」と頭をこづかれた思いだったに違いない。
とにかく、はるかが知らない間に、鈴木ちひろは『白戦ショック』という事件に遭遇していた。
その頃、はるかはそんなことなどつゆ知らず、ただキャンパス・ライフを謳歌していただけだった。でも、知らないのもムリもなく、だろう。なぜなら、鈴木ちひろはそうしたことを一言もいわないからだ。…弱さを見せるのが嫌いな娘なのだ。負ずぎらいの娘なのだ。だから、そういう情報ははるかにはのちのちになってからしか手に入らない。くやしい。
そういえば、なぜ彼女は東京に住まないのだろう。その方が便利なのに。
これに対して鈴木ちひろは、
「東京にいなくても地方でも仕事は出来るわ。今や、インターネットで世界中とつながる時代なのよ。SOHOでね」
と言った。はるかはわからなかったので、「SOHOって?」ときいた。
「バカね、はるか…。SOHOっていうのはスモール・オフィス・ホーム・オフィスって意味だよ。つまり、コンピュータと回線さえあれば地方にいながらにして山形市でもNYでもどこにでも繋げられるってことよ」
「でも、仕事にいくには東京に住んだほうが便利でしょ?」
「……う~ん、まぁね。でも、やっぱり東京はひとの住むところじゃないわ。遊ぶにはいいけど。物価も高いし、ひとが蟻の巣ひっかきまわしたようにウジャウジヤいるでしょう? そういうのって私はあんまり好きじゃないんだ」
「やっぱり米沢が好きってこと?」
「ちがうわ!」
ちひろは言った。でも、はるかにはそれが嘘であることもわかっていた。あの娘は故郷が好きなのだ。はるかはなんとなく嬉しくなったのを覚えている。
しばらくしてから、電話のベルがリーンとなった。
「はい、黒野です。あ! ちひろ?」
それはちひろからだった。
「はるか! ひさしぶりね」
ちひろはアハハと笑った。
「うん。ひさしぶり。……何か用?」
「あのね。明日、ちょっと大学の下見に山形市まで行くんだ」
「あ、そう。それで?」
「それではるかの家にいこうかな、と思ってね。いいか?」
「うん!いいよ、おいで!」はるかは微笑って頷いた。
「うん。…とにかく」
「とにかく?」
ちひろの声が元気で明るいものになった。「とにかく、はるか、どうせ暇なんでしょう? 迎えにきてくね」
「『つばさ』でくるの? 山形駅ね?……わかった」
はるかはもう一度、弾かれたように頷いた。
鈴木ちひろは次の日の午前中の新幹線で山形駅に着いた。
その日は、あまりいい天気とはいいがたいものだった。雲はどんよりとしていて、それでいて太陽の光もちらほら見えたりもする。
「おそい、はるか」
ちひろは駅に着いて少し待ったのか、そう悪態をはるかについた。
「ゴメン、ゴメン」
はるかは笑った。
「笑いごとじゃないわ……迎えに来ないかと思った」
「そしたらどうしてた?泣いてた?」
「私は幼児じゃないのよ」
「そうでしょうよ」はるかはもう一度笑った。そして「ひさしぶりに顔合わせたね。元気だった? ちひろ」と言った。
「まぁね、でもお腹空いちゃった」
「わかったわよ」はるかもニヤニヤ言った。「じゃあ、割り勘ね。牛丼でいい?」
「うん」
こうして、はるかとちひろは安っぽい牛丼屋へ入り、食べ、それからなんとなく映画を観た。その映画は、『マザー・テレサ』というドキュメンタリー映画だった。そう、97年9月5日に心臓病のために亡くなったマザー・テレサの映画だった。あの、『スラム街の聖女』である。
あらすじはこんな感じだ。
1997年9月5日、「スラム街の聖女」と呼ばれたマザー・テレサが心臓病のために亡くなった。この死はダイアナ元英国皇太子妃の死からわずか一週間後のことだった。
マザーの持ち物はいつもサリーと草履だけ。なぜ、あれほどまでにマザーや仲間たちは貧困者に愛をあたえつづけることが出来たのか?その愛に迫るのが、このドキュメンタリー映画だった。
マザー・テレサは1910年8月26日、マケドニアのスコピエに生まれた。明るく活発なこの少女は、ある本にであう。聖人フランシスコの話だった。そしてテレサ(本名・アグネス)は決心する。神に仕えようと。そして彼女は修道女となり、インドへ渡る。
インドで教師としての数年間は、平和そのものだった。が、第二次世界大戦や内戦による飢饉で餓死者が多くでる。悩むテレサの耳に、そんな中、神の声がきこえる。「貧しいものを救え」。こうしてテレサは修道院を後にし、スラム街に。しかし、そこは予想以上の酷さだった。必死に貧困者救済に勤めるマザー・テレサには迫害がまっていた。しかし、マザーの献身的な活動をみて、批判者もしだいに矛をおさめていく。50年、『神の愛の宣教者会』設立。以後、『孤児たちの家』や『死を待つひとの家』『ハンセン病患者の家』をつぎつぎと設立していく。やがて半世紀、マザーはノーベル平和賞を受賞。しかし、マザーの活動にも終りがくる。後継者も次々と育ち、さらに活動しようとしていたやさきの1997年、マザーはこの世を去ってしまったのだ。
マザーは言います。「この国のどこに飢えたひとが?この国のどこに裸のひとが?
この国のどこに家のないひとが?と尋ねられます。
いえ、この国にも飢えはあります。”一切れのパン”を求める飢えではなく、”愛を求める”激しい飢えです。心の飢えなのです。愛を与えられず、誰からも必要とされない心の飢え……これが一番の飢えなのです」
「与えなさい、心が痛むほどに…」 マザー・テレサ
なんともいいようもない感動的なドキュメンタリー映画だった。はるかはいいようもないほど感動し感銘を受けた。でも、ちひろはそうでもないようだった。別に、彼女が冷たいから…ではないだろう。きっと、ちひろはこの映画を何度もすでに観ているからだ。
そうに違いない。
なにせ、鈴木ちひろっていうのは、マザーみたいな活動にひと一倍共鳴したり感銘をしたりするほうなのだ。でも、裏では人一倍感動するたちなのである。だから、この映画を初めてみた時、鈴木ちひろは涙でうるうるしたに違いない。きっとそうだ!
「なかなか感動的な映画だったわね」
はるかたちは映画館を出て、山形市の街を歩いているところだった。はるかはふいにそう言った。
はるかは、
「つまらなかった?」と歩きながら、尋ねた。
「いや………まぁまぁね」
「まぁまあ?」
「まあね」
これじゃあ、会話になっていない。しかし、それはそれで楽しい思い出だった。
しばらく歩いていると、偶然、はるかは父をみかけた。はるかとちひろが帰ろうとオフィス街を歩いている時だった。ちょうど夕方で、暮れゆく太陽の赤色がビルの窓に反射して、辺りをセピア色に染めていた。
交差点にはひとがどっと溢れ、信号が青になるのを待っていた。皆、せわしなく、きびしい顔をして、なんだか変だった。そんな時、現付きバイクに乗ったはるかの父がそんな集団の横を通り過ぎた。きっと出前だ。はるかはそう思った。
でも、それは不思議な光景でもあった。
ほんの少し前、銀行マンだった頃の父も、交差点にたまっているエリートのひとりだったに違いない。まじめできびしい顔をして、信号待ちをしていたに違いない。
しかし、いまは違う。もうそんなんじゃない。父はいい意味で違ってしまったのだ。へらへらとTVをみて笑ったり、ゴロゴロして欠伸したり、そんな風にかわった。もちろんエリートのほうがいいってひともいるだろう。だけど、はるかはいまの父のほうが好きだ。 セカセカ働いて、いずれ過労で死ぬより、ラーメンや親子丼やらを作って680円や800円もらうほうが人間らしいではないか。はるかはそう思う。
その時、信号がかわり、どっと人が流れた。はるかとちひろも歩きだす。そうしながらはるかは考えた。
その父と会社員やOL達とのすれ違いはほんの一瞬だったのに、父の変貌をかい間みせてくれた。それまでの、父の長い生活。はるかと母があのなつかしい田舎町で生活していたのと同じ時間、父は大都会東京で呼吸していたのだ。仕事したり、ごはん食べたり、映画をみたり、同僚と赤ちょうちんにいったり、時にははるかと母を思い出したりして。
その間に、父は、はるかや母のことを捨ててしまいたい、と思ったこともあったろうか? 多分、あったに違いない。きっとあったろう。
父も人間だから、ストレスやいやなものをももっていたに違いない。人間は誰でも人生の中において嫌な目にあう。そして、どうしようもないドロドロしたものを心に持つようになる。それは誰だって例外ではないのだ。
だが、父はそれがいやだったのかも知れない。だから、「脱サラ」で食堂を始めたのだ。そして、はるかも父のように心のドロドロしたものを捨てたいと思っている。だから、とりあえず、他人には親切にしよう……そう思ってる。
「ねぇ、ちひろ」はるかは言った。「これからどこ行く?」
「そうだね…ディズニーランドとか?」
「あはは…。ねぇ、ノーパンしゃぶしゃぶ行く? ちひろ」
「バーカ。…はるかの食堂みたいわ」
ふたりはあははと笑った。で、はるかが、「ねぇ、ちひろ。うちのお父さんね。きっとあんたの顔みたらきくわよ」
「なんて?」
「”コンパとかないのか?”って」
「”コンパ”?」
「そう」はるかは笑った。そして続けた。「お父さんのクセなのよ。女の子みるとコンパは? コンパは?っていうのが」
「ふ~ん。でも私まだ高校三年生だよ」
鈴木ちひろは横顔のまま、微笑んだ。
やがて、はるかとちひろは下町にある『黒野食堂』に歩きついた。すると、
「やぁ、ちひろちゃん、ひさしぶり」
「ちひろちゃん、元気だった?」
と、はるかの父と母がちひろを出迎えた。
ここでも性格のいいちひろは、
「おひさしぶりです。おじさん、おばさん。お世話になります」と深々と頭をさげた。
「うんうん。まぁ……ちらかってるけど、中に入って」
「はい」
ちひろはもう一度頭をさげた。
「ところで……山大受験するんだってね」
「えぇ、まぁ、一応」
「すごいね」父は感心した。そして、「じゃあ、医学部?」と言った。
「いえ。人文学部ですよ」
「ところで…」
「はい?」
「ところで…ちひろちゃん。恋してる?」父は馬鹿なことをニコニコと尋ねた。彼女に浮いた話しのひとつやふたつあってもおかしくない頃だった。
「してませんよ」ちひろはあははと笑った。
「そうか。そりゃあ寂しいね。コンパとかないの?」
父ははるかの予想どおりに、ちひろにそうきいた。ので、はるかは、
「ほらね」と彼女にウインクして見せた。
それに対して、鈴木ちひろは苦笑するだけだった。
次の日、ちひろは大学の下見を終えると、足速に新幹線で米沢へと戻った。
米沢駅では、母が出迎えたという。そして、ふたりは歩きだした。自宅に向かって。
「おかえりなさいちひろ……疲れたでしょう?」
「いや、だいじょうぶよ」
「そう?……山形市はどうだった?」
「まぁまあ」
「そう。…ところで、今度は『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説書いてるんですって? どう? はるかちゃん、執筆の調子は?」
母は興味深々に尋ねたという。それに対して、ちひろは、
「それはやめたって! というより保留ね。…いまさら『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説じゃあ、世間や文壇へのインパクトが弱いからって」と言った。
「インパクト? はるかちゃんは、そんなものを執筆の基準に…?」
「なぜ悪いの?!」ちひろはキッとした目で言った。「はるかは成功するためにやっているのよ。そのためにはなんだってやるわよ」
「はぁ……そう…」母はそう言うしかなかったという。
ちひろは横顔のまま笑った、という。
まだ、ちひろ発病前のこと、である。