小説「紅蓮の炎<真田丸>真田幸村幻勇伝 ー花の真田幸村(信繁)烈伝ー」
かぶき者のススメ
―大坂夏の陣に散った赤いバサラ武者―
~天才武士、真田幸村公…
「真田の武功」はいかにしてなったか。~
真田幸村の生涯
total-produced&PRESENTED&written by
UESUGI KAGETORA
上杉(長尾) 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
Inspered by a true story.
故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』を参考文献としている作品です。「文章や話の流れが似ている」=「盗作」ではなく、「盗作」ではなくあくまで「引用」です。
この物語を故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』製作に関わったすべての漢たちに捧げる。
上杉(長尾)景虎 2014年度初春執筆より
この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉(長尾)景虎 臥竜
あらすじ
真田幸村(信繁)は永禄十年、信州上田城主・真田(当時武藤)昌幸の次男として生まれる。幼名・弁丸。やがて上杉家、武田家、豊臣秀吉・秀頼に仕える。
十八歳のときに景勝と景虎との御館の乱をみる。以後、景勝を慕い、師弟関係へ。謙信が死ぬと、養子の景勝を補佐して『お館の乱』を勝利に導く。が、信長の勢いにおされる。奇跡が起こる。本能寺の変で信長が死んだのだ。その後、秀吉に従い、そして家康と対立……が、『関ケ原の戦』で上杉は米沢転封に。景勝とともに名門・上杉家を支えた慶次だったが、上杉の安泰を見守ると、死んだ。一方、関ヶ原の際、父親の昌幸とともに幸村は秀忠軍に戦をしかけたとして、高野山に幽閉され、父が死去……十四年後の大坂冬の陣に「豊臣家のために」大坂城に参陣、真田丸で勇猛果敢な働きをする。だが、利は徳川にあり、和睦停戦の条件である外堀どころか内堀まで大坂城は埋められ文字通り大坂城は『ハダカ城』に。翌年の大坂夏の陣で、たった数騎で幸村隊は家康本陣に突入するも、戦死、大坂城は炎に包まれ、秀頼と淀君の自決で、豊臣は滅び、天下は徳川のものとなった。
あらすじ おわり
ちなみに2016年NHK大河ドラマは三谷幸喜脚本の真田幸村が主人公のドラマ『真田丸』である。この著作をものしている過程でニュースで知ったが、いかにも好都合である。2016年に放送されたNHK大河ドラマ「真田丸」主人公の戦国武将・真田幸村役を、俳優の堺雅人さん(40)が演じたが、「真田丸」は三谷幸喜さんが「新選組!」(04年)以来2度目の脚本を担当した。堺さんは過去「新選組!」、「篤姫」(08年)と2本の大河ドラマに出演している。狙っていた訳ではない。が、時勢とタイミングがあって何よりである。大河ドラマの参考文献としてお読みくだされ。
1 関ヶ原の役・信州上田城VS徳川秀忠
「治部(じぶ・三成)、おぬしには人望がない。おぬしが総大将ではどんな大軍でも負け戦じゃ。ここは大将を毛利安芸中納言輝元公(もうり・あき・ちゅなごん・てるもと)に、副将に宇喜多備前宰相秀家(うきた・びぜんさいしょう・ひでいえ)さまとして立てて、おぬしは裏方にまわるのじゃ。さもなくば諸将はついてはこないだろう」
「刑部(ぎよぶ、吉継)、得心した!」
慶長五年(一六○○年)、打倒徳川家康を掲げて石田三成(治部少輔・じぶのしょう)が挙兵し、大谷吉継(刑部少輔・ぎょうぶのしょう)は何度も止めるが、三成の意思がかたく、上杉の宰相・直江兼続や上杉景勝と同調していることがわかると、病身をおして荷担する決意をする。同時に、三成に厳しくも的確な助言をしたといわれています。
「この戦はもともと負けのようなものかも知れない」
慶長五年九月十五日未明、関ヶ原では石田三成が布陣していた。
同じく山中村の陣所で、ほとんど失明の大谷吉継は開戦前のひんやりとした戦場の空気をひしひしと感じていた。輿(こし)に座り、頭巾の中でつぶやいた。
…太閤殿下のもとでわしと佐吉(石田三成)は奉行として何度も大軍を動員して兵站(へいたん)をうまく動かして勝ち続けた。今回も内府・徳川家康の軍勢を上回る軍勢を集めた。されど…。戦は数よりも士気である。三成はわかっているはずだろうが。
三成は笹尾山に陣をはっている。…佐吉、おぬしのくやしさはわかる。わしらは私利私欲なくすべては豊臣家の為に骨を折ってきた。太閤殿下が亡き後も秀頼さまや豊臣政権のもと豊臣政権で天下太平を夢見た。だが、それをよこしまな心で奪ったのは家康じゃ。家康が居る限りいずれ豊臣はおわる。家康を倒さねば天下太平はない。我らが目指すのは徳川の私するものにあらず。
「備え怠るな!下知を待て!」霧が薄れゆく中、吉継の声が戦場に響いた。
(ちなみに大谷吉継が茶に膿をおとして石田三成がその茶を平然と飲み込んで二人の盟友関係が深まった、というような話は後世にふたりの深い関係を表現するための創作であるそうです。そういう話が創られるほど盟友関係だった、ということです。)
(関ヶ原の前に三成に佐和山に呼ばれ、一度陣をはる垂井(たるい)に戻り、東西軍のどちらの軍につくか深く迷い、葛藤した末、また佐和山にいくのです。大谷吉継はどちらかというと家康を評価していたが、三成がすべてにおいて豊臣政権に殉ずる覚悟であると知ると、その一途な至誠に負けて「(竹馬の友の)三成に命を殉ずる」と至ったそうです。)
石田三成が近江長浜城の城主時代の秀吉に仕えたのが、天正二年(一五七四年)頃、十五歳だったそうです。三成より一歳年上の大谷吉継が使えたのも同時期である。三成の父・正継(まさつぐ)は近江石田村の土豪ですが、大谷吉継の詳しい出自はわかっていません。諸説あるそうですが同じ近江の大谷村(現・小谷)出身ではないか、とのことです。
天正五年頃になると織田信長の命令で秀吉は播磨姫路城を拠点に中国攻めに着手し、その頃、秀吉の馬廻りとして加藤清正や福島正則らとともに太谷平馬(へいま)と名乗っていた吉継が歴史上にでてきます。三成も近習(きんじゅう)としてでてきます。初陣もこの頃でしょう。
三成の出自は不明な点が多いのですが、研究によって三成は永禄三年(一五六○年)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で石田正継の次男として生まれたことがわかりました。正継は太谷城主・浅井長政に仕えた人物です。
少年時代の三成は寺小姓。勉強熱心だったらしい。どの寺かはわかりませんが。説は2つ。石田村の隣村にある大原寺観音寺(現・滋賀県米原(まいばら)市朝日)と、母親の出身地にある法華寺三珠院(ほっけじさんじゅいん 現・滋賀県長浜市)。三成の生家との距離から、観音寺の説が有力だそうです。三成と吉継。ふたりの共通点は多く、近江出身であり、歳も近く、有能な官僚タイプの秀吉の小姓であり、かつ、秀吉の天下取り、戦国の世を終わらせるという使命も同じ。太閤検地(刀狩り・検地・通貨の統一)など辣腕でもあった。反面、まっすぐでな性格で理屈と論理で理論攻めの三成に対し、吉継はうまく三成を軌道修正した。視野が広く、世間慣れした吉継は、周囲との軋轢を生む懇切でない三成に適切な助言をした。「計画・理論・策略」の三成と、「人望・親切・実行役」の吉継、このふたりがいてこその豊臣政権でした。そこに真田幸村こと信繁や直江兼続や伊達政宗など集う訳です。秀吉をして「百万の軍を預けてみたい」と語ったといわれる太谷吉継ですが、確かに人望もありかなり立派な人格者であったようです。
また石田三成が人望がなく、冷血漢というのは徳川時代の創作であるそうです。
確かに人望はありませんが、冷血漢でひとをゴミのように扱い、「馬鹿と話していると疲れる」とか「利休め。おとなしく謝れば許したものを。我を張りよった。」と冷笑する。
そんな事実はなく、徳川時代の創作であるそうです。
それほど徳川からしたら石田三成はおそろしい人物だったのでしょう。
石田三成は義のひとでした。当然、人格者であり豊臣政権の優秀な官僚であるのです。ですが、残念ですが人望がない。人望がないんですよね。優秀で頭は切れるんですが嫌われる人物なんです。それで関ヶ原でも裏切られて負けてしまったんですが(笑)
史料によれば、三成は天正二年(一五七四年)に秀吉に仕官したそうです。
天正元年(一五七三年)に三成の父親が仕官していた浅井家が滅びて、その旧領を秀吉が受け継ぎました。当時は秀吉は卑しい一塊の百姓上がりの秀吉であり、子飼いの家臣や重臣などいませんでした。
だから、旧浅井家の家臣を自分の家臣にして強固な家臣団をつくろうとしたのです。
叩き上げの人物の特徴ですが、秀吉は百姓上がりの人物とか卑しい身分の人物を雇わないし信用しません。雇うのはいまでゆう学歴エリート(身分のしっかりしたどこぞかの大名の家臣)とか側室はどこぞかの姫君ばかり。いまでゆう「学歴コンプレックス」でした。
だから、自分と同じように百姓上がりから出世して大名になることまで禁止する訳です。
いいひとでひとたらしなんだけど狭量で、いまでゆう「学歴(家柄)コンプレックス」…
政治家で言うと安倍晋三みたいな(笑)信じるのは学歴エリートと立派な家柄の役人や一流大卒の官僚の言葉のみ。安倍晋三と秀吉とはそういう男でした。
大きく天下が動き始めた。
太閤秀吉の死(一五九八年)、盟友・前田利家の死(一五九九年)から時代は、慶長五年(一六〇〇)陰暦八月、いよいよもって大人物・徳川家康が『会津の上杉征伐』と称して福島正則、黒田長政など豊臣恩顧の大名団隊数十万の兵を率いて動いた。信州(現在の長野県)上田城の真田安房守昌幸(さなだ・あわのかみ・まさゆき)、真田左衛門佐幸村(さなだ・さえもんのすけ・ゆきむら(信繁・のぶしげ))父子の手元に、生々しい情報が次々ともたらされた。幸村の眸(ひとみ)が輝いて心が躍った。かねて放っていた物見たちが、まるで白い風のように秋風に吹き寄せられるように、一人、またひとりと城に舞い戻っていく。それにつれて次第に徳川方の情勢が明らかになっていった。
彼ら物見衆は、琵琶を背負った語り法師、一管の尺八を腰にした梵論字(ぼろんじ・虚無僧・こむそう)などに姿を変えているが、いずれも安房守昌幸の鑑識(めがね)にかなった心利いた者ばかりであり、その情報収集能力は高く、情報の精度も高いのである。
さすがにフィクションの真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵など)は存在しないし、漫画やアニメや映画のように空を飛んだり、木々の枝間を駆けることは出来ない。
忍びといえど所詮人間である。漫画と一緒にしないでください。
「そうか。うむ、成程、成程…」
安房守昌幸は忍びから情報を得て分析し、戦略を練るのである。戦国時代にはこうした情報収集と要人警護、要人暗殺を職とした忍びの者(いわゆる間者)が存在した。
だが、現在の日本政府にはこの間者のような(つまりCIAやモサドのようなスパイ)組織がない。内調(内閣調査室)やNSC(国家安全保障会議)があるではないか、というひともいるかも知れない。だが、内調にしても日本のNSCメンバーにしても全員顔はバレバレで、只の高学歴のお坊ちゃんお嬢ちゃんなだけで、戦略どころかまともに行動も出来ない。
私上杉景虎の出来る事の半分も出来ない『学歴エリート』なだけの、残念なひとたちだ。
情報がなければ戦略の立てようがない。プロ野球やサッカーでもまめに情報収集や情報分析をやっているのに、彼らは、高学歴なら何でも出来る、と勘違いしている。馬鹿だ。
話がそれた。去る七月。豊臣政権の大老徳川家康は、奥州会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、野州小山宿(やしゅう・おやましゅく・栃木県小山市)まで北上着陣した。
実は昌幸、幸村父子もこの時、動員に応じ将兵八百余を率いて、上田から野州犬伏宿(いぬふししゅく・佐野市)へと着陣、長男の伊豆守信幸(のちに信之と改名)も、居城の上州沼田城に、一足先に着陣していた。
そこに石田三成からの密書が届いて、真田家の運命が思わぬところへと急旋回した。すなわち、三成は家康討伐の挙兵への参加をもとめたものであった。
(やはり三成殿が動くか!)
安房守昌幸は、ただちに、長男の伊豆守信幸(いずのかみ・のぶゆき)を呼びつけ、人払いした密談にて、
「わしと幸村は、石田治部少輔(じぶしょうゆう)の挙兵に応ずるつもりだが、そなたはどうする?思う所をのべるがよい!」
「父上、狂されたか!?」
訊いていた信幸は顔色を変えた。そして、もはや世の中は徳川家康の天下で、石田治部などは人望もなく、豊臣家ももはやこれまでで確実に世の中は徳川家康が天下人だ、と天下の形勢を述べて、
「父上ともあろうお方が、それをお読みになれぬとは情けなや」と厳しく反対した。
信幸の判断は正確でよく分析されていた。だが、議論の末、結局、安房守昌幸と幸村は石田方(豊臣方)へ、伊豆守信幸は徳川方に残る事に決した。
「相分かった。それぞれ、おのれが思う様に生きるがよろしい」
この父子の行動は迅速である。
昌幸と幸村は、ただちに兵を引き連れて犬伏宿を発し、信州上田へと向かい、一方の長男の伊豆守信幸は本堂へ馬を走らせ、家康に父と弟の離反と、石田三成挙兵を伝えた。
この親子の離反には当然ながらどちらに転んでも真田家が安泰なように双方に離反しての安全策ということである。また、決断の背景には安房守昌幸の妻「山手殿」が、宇多下野守頼忠(うだしもつけのかみよりただ)の娘であり、石田三成の妻もまた、頼忠の娘という関係性が影響していた。しかも次男の幸村の妻は、三成の盟友にして、挙兵の片腕とされる、敦賀(つるが)の城主大谷刑部吉継の娘なのだ。
だが、長男の伊豆守信幸の妻は、徳川家の重臣本多平八郎忠勝(ほんたへいはちろうただかつ)の娘を、家康が養女とした上で伊豆守信幸に娶らせた。すなわち、真田家は、すでに分裂を運命づけられていたようなものだったのだ。
情報網を張り巡らせていた家康は、伊豆守信幸の報告によって、石田三成挙兵を知ると、形ばかりのパフォーマンスである『会津の上杉討伐』を中止し、急遽、大軍を江戸へ、関ヶ原へと反転させた。上杉家の追撃の為には家康の次男の結城秀康を配置、豊臣恩顧の大名たちに毛利輝元、宇喜多秀家、豊臣家、小早川秀秋らの参戦を伏せて、みんなの嫌われ者・石田治部少輔三成討伐と称して、福島正則や黒田長政、加藤清正らを東軍につくよう説得した。家康は東海道を西上、三男秀忠に兵三万八千を授けて中山道を西進させることにした。
「内府(家康)は、江戸から東海道を西上、先鋒は福島左衛門尉(さえもんのじょう)正則が買って出たようにございます」
との間者の報告に、昌幸は、
「何たることぞ、福島正則といえば常日頃、口を開けば、豊臣こそ天下、わしは豊臣恩顧の大名じゃ、といっていたのに豊臣家滅亡の片棒を担ぐとは!」
「秀忠軍の三万八千余は、八月二十五日に、宇都宮城を発進して候」
との報告には、にやりと、
「内府で無うて残念だが、………息子の秀忠めに、一泡吹かせてやろうとするか……」
「父上、何分にも敵は大軍、なんぞ撃退の妙手がございましょうか?」
「まあ、見ているがよい」
「ははは、父上、楽しげでありますなあ」
幸村は、父安房守昌幸が、十五年前の徳川勢と一戦を交えた神川(かんがわ)合戦(第一次上田合戦)の再現をもくろみ、闘志を燃やしていると感じた。
真田家は歴史好きの方ならご存じの通り武田信玄勝頼の家来の家柄である。それが、織田方による武田滅亡に際して、上杉景勝(謙信の義理の息子・上杉氏二代目)を頼るという奇策をきりだした。そこで家康方と戦いになったのだ。その際、次男の幸村を人質として春日山城に送ったが、それを知った家康は、
「あの横着者めが!」
と激怒し、鳥居元忠、大久保忠世(ただよ)ら七千余もの大軍勢をもって、信州上田城攻略戦を開始した。これが意外な結果に終わった。たかが、これほどの小城、一気に攻め落とせると思ったが、柵をもって城下を迷路状にするなど、二重三重に工作した昌幸の知略に翻弄され多大な死傷者を出した挙句に、撤退を余儀なくされたのである。ために「東海一の弓取り」という家康の誇りは傷つき、逆に真田安房守昌幸の武名は天下に知れ渡った。
この武功を幸村自身は越後府内(新潟県上越市)春日山城で聴いたという。
上田城落ちず、徳川勢撤退……当たり前だ。われら真田家は知略の武家だ。
その幸村に対して、無口で知られる、上杉景勝が突然、ぶっきら棒にいった。
「屋代(やしろ)一千貫……」
「……?」
幸村は、何のことかわからず、景勝の言葉を待った。が、景勝は口を噤(つぐ)んだなり、もう何もいわぬ。極端に無口な漢なのだ。側近で家老の直江山城守兼続が、
「殿は貴公に、屋代一千貫の地を賜るとの仰せなのである」と景勝の言葉を補足した。
「えっ、人質の私に、知行地を!?」
驚く幸村に兼続は諭すように、
「我らは、貴公を人質などと思うておらぬ。屋代近い十三屋敷の地は、往昔(おうせき)、順徳天皇の皇子広臨(ひろみ)親王が隠棲されたとの伝承のある由緒ある土地……よろしゅうござるな」
幸村はこの瞬間「義」に篤いという、謙信以来の上杉家の家風の真実を悟った。これは祖父真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆の、「人間は利に弱いもの」とする人間観と対極にあるといってよく、幸村は強い衝撃を受けた。時に景勝三十歳、兼続二十六歳、幸村、弱冠十九歳であった。上杉での一年の生活は、幸村に多大の影響を与えた。その幸村が今、慶長五年、徳川秀忠率いる三万八千余の軍勢を、父安房守昌幸とともに迎え撃つことになり、父子は闘志に燃えたのである。
「幸村、大軍を相手の合戦とは、どのようにするものか、後学のため、よっく見ておけい」
中山道を西進した徳川秀忠率いる三万八千の大軍勢が、すでに秋色深い碓氷(うすい)峠
をこえ、軽井沢をへて、小諸(こもろ)に着陣したのは陰月九月二日のことであった。
父親の家康からは信州上田城の真田父子の軍勢とは戦わず、そのまま関ヶ原へと向かえ、という書状がきた。だが、秀忠は邁進していた。たかだか、数千の信州上田城の真田を恐れて秀忠は逃げた、といわれるのは末代までの恥である。
だが、その邁進が怪我の元であった。
実はこの徳川秀忠の大軍が、徳川家としての『本陣』なのだが、真田に散々にこっぴどくやられ(夜襲や奇襲などの謀略戦)、歴史に詳しい人ならご存知のことだが、『関ヶ原の合戦』に遅参することになる。
家康に内通していた小早川秀秋が徳川東軍に寝返り、西軍が大敗し、石田三成が滅んだからよかったようなものの、もしも東軍(家康連合軍)が敗北していたら、歴史はどうなっていたかわからない、と、多くの歴史家は口をそろえる。徳川家康だからこその対石田三成対豊臣家であり、家康と秀忠では、そもそも人間の格が違い過ぎる。
豊臣家大坂方を滅ぼすのに、家康が、十数年も辛抱強く戦略を巡らしたのも「秀忠では豊臣家を滅亡できない」、と冷静に分析した結果であり、七十六歳の、当時としては長寿も、家康の執念であったことだろう。
話を戻そう。
秀忠が信州上田城などたかだか城兵三千余ほど、わが十倍の三万八千の軍勢をもってすれば、一気に落としてみせる、と闘志を燃やすと、彼の、上田討伐を知った謀臣本多佐渡守正信から、
「真田の上田城などは枝葉のこと。関わらずに捨ておかれ、とにかく急ぎ美濃の本隊に合流することこそ肝要でありまする」
と忠告されていたが功名心から、真田安房守昌幸が、
「もとより我らに、抵抗の意思など毛頭ありませぬ。城内を清掃したる後、開城する所存でおりますゆえ、一両日お待ち願いたい」
とのことを伝えてきたので、秀忠は頬を綻(ほころ)ばせた。
ところが、約束の日が来ても、一向に開城の気配もない。
それで溜まりかねて重ねて使者を送ると、意外にも、
「実を申しますと、籠城準備に不備な点があったので、一両日お待ち願ったが、どうやら兵糧、弾薬とも、万事、遺漏(いろう)なく整い申した。では、これより一合戦、馳走つかまつる」
という人を食った挨拶であった。
「おのれ、安房守め、たばかりおったか!」
嚇(か)っと秀忠は逆上した。その瞬間、本多正信の忠告の言葉など一気に消し飛んでしまった。
悪いことに、その本多正信は「戦費補充」のため江戸へ赴いており不在であった。
中山道を北に外れ、秀忠軍は小諸(こもろ)から上田城へと進軍した。
秀忠は激昴で冷静さをなくしていた。上田城を望む染谷台(そめやだい)に本陣を据えると、
「安房守父子を討ちとれ、断じて逃がすな!」と厳命したという。
実りの秋である。秀忠は、豊饒な稲穂を刈り取ることで、上田城の糧道(りゅうどう)を断ち、また、城外へ城兵を誘い出そうと企てた。戦国時代の典型的な作戦であるという。
ここに旗本大番組の五十人が抜擢され手鎌をもって稲刈りを始めると、案の定、城兵が数十人ほど出てきた。
「それ、今だ……」
大番組は手鎌を捨て、白刃(しらは)をかざして襲い掛かった。すると城兵は、きわどいところまで大番組を引き寄せてから、さっと城内へ逃げ込み、かわって弓、鉄砲が猛烈に発射されて、大番組から多数の死傷者が出た。
「何たることぞ!」
秀忠の逆上は、頂点に達した。歯ぎしりする彼に、もはや正常な判断は失われ、ただ「おのれ、おのれ」と呻(うめ)くのみであった。
そんな秀忠をわずかに慰めたのが、真田安房守昌幸の嫡男伊豆守信幸に攻めさせた、上田城の支城戸石城が緒戦において落城したことだった。
「おお、伊豆守が、戸石城を……!」
秀忠は「伊豆守、でかした!」と賞揚(しょうしょう)した。だが、実は戸石城は幸村がいたが、攻め手が兄・伊豆守信幸と知って、いち早く城を捨てて上田城へ引き揚げて、兄に戦功を立てさせただけのことだった。戸石城は、古くより知られた要塞であり、上田城の築城以前は、真田の本拠地としていたところだ。
当然、凡人、徳川秀忠は大喜びだ。
本陣の染谷台は、千曲川断崖(ちくまがわ・だんがい)上の上田城よりも、さらに一段高みになっているから、秀忠は、
「イマニ見ておれよ!」と意気込み、総攻撃の作戦を練った。が、真田に関わる事自体が秀忠の一生の不覚であった。
突如、思いもよらぬ方向から、凄まじい勢いで本陣を襲った一隊がある。これは安房守昌幸が、かねて染谷台の北東、虚空蔵山(こくぞうさん)に潜ませていた伏兵であり、秀忠の本陣は大混乱に陥った。
武装も不揃いな奇妙な一隊は例の、首一つ百石を約束された農民町人たちだが、奇声を放って勇敢である。「おらは二百石じゃ!」「おらは三百!」
とわめいて暴れる始末の悪さだが、これには「甕割(かめわ)り典膳(てんぜん)」の異名をとる兵法者・神子上(みこがみ)典膳が立ち会向い、苦闘の末にようやく撃退した。
「さすがは典膳、ようやった」
秀忠がほっとしたのも一瞬で、それまで機をうかがっていた幸村率いる一隊が、真一文字に突入したため、本陣は総崩れとなり、秀忠も身一つになって逃げのびるという失態となった。ところが、かねて神川の流れを止めおいた上流の堰を、安房守の合図で切って落としたので、どっと濁流に、たちまち浅瀬の将兵は呑み込まれて溺死した。まさしく徳川秀忠軍の完敗であった。
「伊豆守……そなたの父親と舎弟は、何たる奴らだ!」
秀忠は悲鳴を上げ、初めて悪夢から醒めたように、上田城攻めを断念、ふたたび中山道に戻って先を急いだ。だが、すでに七日間を浪費しており、木曾妻籠(きそ・つまご)の宿まで至った時、関ヶ原での戦勝報告に接した。
すなわち、秀忠は徳川家が存亡を賭けた大戦に、遅参したのだ。
「ああ、なんたることぞ!」
秀忠の顔から血の気が失せた。彼には、真田父子の髙笑いが聞こえるようであった。事実、遅参した彼は、父家康から面謁を拒否されるほどの不興をかっている。
しかも秀忠にとって天敵ともいうべき真田父子――昌幸、幸村は、戦後処理をまぬがれ、紀州高野山山麓の九度山村(和歌山県九度山町)へ配流という軽い刑罰ですんでいるのだ。
「父上、わたしは承服できませぬ!真田父子の斬首を!」
秀忠は、最後の最後まで、強く真田父子の斬刑を求めたが、伊豆守信幸が、
「わが父を誅(ちゅう)されるより先に、この伊豆守に切腹を仰せつかれたい」
といって、必死に父と弟の助命を懇願したのに加えて、徳川家の重臣本多平八郎忠勝からも、娘婿伊豆守信幸のための嘆願があったからである。
これはさしもの家康も、ついに父子の助命に同意せざる得なかったのである。
「父上、わたしは、真田父子の助命など、とても承服しかねまする」
激しく反対する秀忠に、家康も、
「秀忠、腹も立とうが、本多の平八までがああ申していることだ、わが徳川家の安泰が確かとなるまでの我慢じゃと思うて、辛抱してくれい」
と慰めたのであるという。だが、秀忠の怒りは生涯にかけて残り、終生、彼は伊豆守には、笑顔を見せなかったといわれる。
参考文献(『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』永岡慶之助著作Gakken(学研)142ページ~153ページ)