三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
その出会いは天正二年……
秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
秀吉が所望した。
すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・寧々が佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。
いわゆる三献茶の話は後世の作り話の可能性が強いです。
少なくともそんなエピソードは当時の史料に出てこない。後世の編纂物に散見されるのみです。また太谷吉継の母親は淀殿か寧々に仕えた東殿であり、それは可能性が高いです。またその東殿に伴って子の吉継が出世したというのが自然だそうです。
吉継や三成が歴史上にでてくるのが秀吉の播磨攻略(軍師黒田官兵衛の斡旋)の頃です。
天正五年(一五七七年)くらいでしょうか。同じく秀吉の馬廻りとして福島市松(正則)、加藤虎之助(清正)も出てきます。
ですが、石田三成が横柄で冷酷な人物というイメージは正しくありません。徳川時代の創作であるそうです。「へいくわい」(横柄な)というイメージはその時代には歴史上書状としてもありませんし、また(三成からの手紙が)残っていないのも徳川の世で三成と親しかったら、最悪の場合、お取潰しの危険があるからです。おそらく三成からの手紙は捨てるか焼いたか。秀吉の官僚として指示を忠実に実行する立場の三成が、私情をはさまず、官僚的な冷めた対応で嫌われた可能性は高い。ですが、悪口や陰口とかそんな人物ではなりません。ほとんどの三成の冷酷イメージは徳川時代の創作であるそうです。
太谷吉継の人柄はどんなものでああったか?正確には記録や歴史的資料があまりありません。三成よりも文官としての仕事があまり多くない為のことです。
ですが秀吉をして「百万の大軍を預けてみたい」とまでいわせた男です。
そうとうのやり手だったことは間違いありません。
また太谷刑部の肖像画や大河ドラマなどで頭巾をかぶり白いマスクというか布で顔をおおっていますが、これはハンセン病に羅漢していたためだと伝えられています。
天正十二年二月、京洛で「千人斬り」とよばれる事件が起き、吉継が犯人ではないか?と疑われます。容疑は晴れまして無罪であったのですが、「悪瘡(あくそう・らい病・ハンセン病)」を直すには千人の血を舐めることだ(『宇野主水日記』)が容疑理由とされました。
真犯人は未だに明らかになっていませんが、特筆すべきは市井(しせい・民間人)のひとが太谷吉継のハンセン病を知っていたことです。この頃には市井のひとが知るほどハンセン病の病はすすんでいたという証です。
石田三成(いしだ・みつなり)は安土桃山時代の武将である。
豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大坂城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大坂城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
次に黒田長政がきた。官兵衛の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
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NHK大河ドラマ真田丸総集編第三章『栄枯盛衰』より
真田源次郎信繁(幸村)の顔を両手で包んで、茶々のちの淀君は悪戯な笑顔を見せて、
「あら。わりと好きな顔。」とふざけた。
「姫さま。いけません。」
乳母の大蔵卿局はいう。「あのもしかして…」
「もしかして?」
「……茶々さま?」
「そうです。あたり!あなたは真田なんとかという…」
「源次郎信繁(幸村)にございます!」
「不思議なことをいいます。わたしとあなたは運命がある。」
「……運命?」
「わたしとあなたは同じ同志として働き……そして同じ日に…死ぬのです。」
「……遠い未来のことと思いたい」
「では、源次郎。」
悪戯な笑顔のまま茶々は去った。
この信長の姪っ子で浅井三姉妹の長女(茶々・初・江)こそ秀吉の子供を二回も妊娠して運命の子・お拾い…豊臣秀頼を生むのである。
豊臣秀吉は徳川家康を懐柔し、四国、九州を平定し、北条攻めでついに天下人になる。
だが、子供は出来ない。わずかに茶々の生んだ鶴丸(夭折)、お拾い(のちの豊臣秀頼)のみである。しかし、晩年は認知症になったり、不満を爆発させての朝鮮出兵などを引き起こす。太閤秀吉は甥っ子の関白秀次を自害においこんだ。
真田源次郎信繁(幸村)は“左衛門佐(さえもんのすけ)”、真田源三郎信幸は“伊豆守(いずのかみ)”の官位を与えられた。
耄碌した秀吉をおぶって大坂城の天守閣まできた信繁に秀吉はいう。
「どうだ?これが豊臣の世の大坂じゃ。だが、まだまだだ。いずれは朝廷から天子さまをおつれして平清盛のようにしたかったが……わしは半分も成して…いない。」
「これで半分でございますか?!」
「源次郎。……わしの天下はすべては夢のまた夢じゃ。くやしいのう」
「殿下。……」
「わしは死にとうない。秀頼を頼むぞ、源次郎。死ぬのは…くやしいのう。」
「……殿下。」
こうして豊臣秀吉は死んだ。享年六十二歳……
石田三成は決意していた。
……亡き太閤殿下や秀頼公のために徳川家康を討ち滅ぼす!
三成は悔し涙を流した。
「何故じゃ。豊臣家の為に豊臣政権のために尽力したこの石田三成が……何故怨嗟の的になるのじゃ?わしは……どこで間違った??!!源次郎。わしは…何処で間違った??」
「……石田さま。」
源次郎は言葉を呑んだ。
慶次は、尾張(おわり)国・荒子(あらこ)城二千貫の城主前田利久の養子だが、実父は織田信長の重臣で、「先駈(さきが)けは一益(かずます)、殿(しんがり)も一益」と謳われた猛将滝川左近将藍(たきがわさこんのしょうげん)一益の甥滝川義太夫益氏(たきがわぎだゆうますうじ)といわれる。
これには奇説もあって、益氏の妻が懐妊したまま利家に嫁いで、生まれたのが慶次であるという。利久が懐妊を承知の上で迎えたというが、それが事実なら、彼女はよほどの美貌で魅力的な女性であったことだろう。
慶次はよき若者に成長し、そのまま順調にいけば、義父利久の跡を継いで荒子城主となる筈であった。ところが、永禄十二年(一五六九)の晩秋、平穏な日の暮れを、まるで石つぶてを投じるように掻き乱し、突然、木っ端微塵に破壊したのは、他ならぬ織田信長である。
信長が突然、利久に対して、
「前田家の家督を、お犬に譲れ」
と命じたのだ(大河ドラマ『利家とまつ』参照)。
青天の霹靂とは、このことであった。
利久は言葉を失った。理不尽なとはいうものの、相手が信長とあってはどうにもならぬ。弟の犬千代こと又左衛門利家は、直情精悍(せいかん)、かなり傾いた荒小姓であり、信長は「お犬、お犬」と呼んでかわいがった。
事実、又左右衛門は、弘治二年(一五五六)八月、信長の弟の末森城主信行と戦った尾張稲生(いのう)の合戦で、宮井官兵衛なる剛の者を突き伏せる殊勲をもって「槍の又左」と謳われ、赤母衣衆旗頭(あかほろしゅうはたがしら)とされているのだ。
昨年、将軍足利義昭を擁して上洛したばかりの信長にしてみれば、足元を固める意味からも、凡庸な利久よりも、剛勇の又左衛門利家を荒子城主に据えたいと思ったのだろう。
「わしには、さしたる武功とて無いからな」
義父利久が、あっさり諦めるのを、慶次は複雑な思いで聴いた。
(こんな馬鹿なことがあっていいのか…こんな理不尽がまかり通るのか、一体、俺の人生はどうなるのだ…)
慶次は、いくたび自問自答したことか。
信長の一語で、荒子城の前田家は混乱状態に陥った。
「兄者、思いもよらぬことになり申した。慶次、済まぬ」
と困惑の面持ちであったが、利久は、
「御前の気持ちは分かっておる。気にすな」
「これからどうなさる。このまま荒子城におられても構わぬが…」
「いや、それでは信長さまの意に逆らうことになる。伊勢へでも参ろうと思う」
「滝川殿のゆかりの地へ?」
「うむ、そのほうが妻も気が安まろう」
利久は、すでに完全に諦観(ていかん)の心境になっていた。妻女は城を去る時、呪詛(じゅそ)の言葉を吐き散らしていた。無理もない。何一つ不自由がなかった城主夫人から、一転して流浪の身になり果てたのだから。
それは慶次も同様であった。
陰気な顔している慶次に、義父母たちは腫れ物に触るような配慮を見せた。
(あなた方に罪はないのだ。お許しアレ。悪いのはあの信長だ)
と内心で詫びながら、自身でもどうすることもできないのだった。
前田慶次の人生は天正十年(一五八二)六月を境に、またまた急変する。いわゆる「本能寺の変」で、これまで不滅不動と思われた織田信長が自刃して果て、秀吉の天下となる。
「槍の又左」こと弟の前田利家から加賀の金沢に来てくれないか。という誘いの使者が来る。別に喧嘩した訳でもないから利久ら家族は金沢にきた。金沢城主前田利家は、兄利久を隠居料七千石で迎えた。禄高は少なすぎる感なきにもあらずだが、戦塵を駆け抜けてきた譜代の家臣らの手前もあるから、まずは穏当といっていいであろう。
慶次は「天下無双の傾奇者」として、あれは一万石、二万石の漢だ、という。だが、慶次の奇行は続く。
叔父の前田利家には風呂だと称して、極寒の冬場に水風呂をお見舞いしてやった(歴史上の真実・作り話ではない)。
「叔父上、湯加減も宜しきようで…」
「うむ」
利家、衣服を脱ぎ、いそいそと風呂場に入り、微かに湯気を漂わしている湯槽にざぶと入った。途端に「あっ!」と叫んだ。まったくの水風呂だったのだ。しかも冬場の寒い季節で湯気ではなく水が空気よりは温かいから煙ってただけだった。
「そのいたずら者を逃すな!」
利家が怒鳴った時には、すでに自慢の駿馬「松風」に飛び乗った慶次が、ひと鞭くれて、一目散に行方をくらました後であった。
慶次が漢(男)として惚れたのが上杉家執政でもある直江兼続と、藩主・上杉景勝である。だが、ホモじゃない。漢(男)と漢(男)として、その生き様に惚れたのだ。
「それがし前田慶次にござる」
といい、上杉の城で土大根を三本、盆に乗せて慶次は「お土産に御座りまする」と差し出した。
「これは?」
さすがに景勝が怪訝な顔をすると、慶次は待っていましたとばかりに、咳払いをしてから、
「この前田ひょっとこ斎慶次、これなる土大根のごとく、見かけはむさ苦しゅうござるが、噛めば噛むほどによき味が出て参りまする」
と答えたのだ。すると思いもよらぬことが起きて、列座の重臣たちが驚いた。声なき驚きが大広間に波打った。驚くことに生まれてから一度も笑ったこともない景勝が笑ったのだ。
(殿がわらわれた!)
重臣らが、一瞬、目を疑ったのも無理はない。実は上杉景勝という漢は、極端なまでに無口で、いつも脇差の柄頭に右手を添えた姿で、こめかみに癇癪の青筋を浮かべてぴくぴくさせている。ために外出の際など、駕籠廻りの者はもとより、誰ひとり、声を発したり、咳払いする者もなく、一行の足音のみ、ヒタヒタと聞かれたという。
これは天才軍神であった叔父で、義父の上杉謙信を極限まで真似る為の景勝の悲運で、当然、もともと無口ではあったが、天才で無敗伝説までもつかの上杉謙信の義理とはいえ息子として同じように見られようとの景勝の緊張と存在意義での結果なのだった。
だが、そんな景勝が笑った。これは驚きであったことだろう。
しかも、執政の直江兼続まで笑っている。これは上杉家の家臣たちにとっては驚愕なことであったろう。
慶次も上杉家の家風をいたく気に入り、減封されて出羽米沢三十万石に落ちぶれた上杉家をたより、米沢で晩年まで過ごすことになる。
次の歌は彼の詠句である。
賤が植うる田歌の声も都かな
(参考文献『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)74~110ページ)