長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1(2)

2014年01月31日 07時47分47秒 | 日記



  ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
  近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
 近藤たちは緊張して座ったままだった。
 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
 近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
 今まで黙っていた龍馬が強くいった。
 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」


 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
  浪人隊は黙々と京へと進んだ。
   途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
  近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
 勇たちは就職先を確保した。
 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………

 ”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
 土方は禁令も発する。
 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)
 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。                            



 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。                明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1(1)

2014年01月31日 07時45分24秒 | 日記

 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
  




  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。

 坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
 文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。 
「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。

桂小五郎と新選組



  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
  文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………


 桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
  そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
 近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
 けっこう美人なほうである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
  遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。

  文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。    
 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
  今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。


  

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1

2014年01月31日 07時39分59秒 | 日記
「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯
 




                「はな・もゆ」とそのじだい  よしだしょういんのいもうとのしょうがい
~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               吉田松陰の「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
                セミ・ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めることが分かった。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなる。この作品が活字本や電子図書となり放送までに読者の目に触れて、私の才能も認められていることを祈るばかりだ。同日、NHKふれあいホール(東京都渋谷区)で制作発表会見が開かれ、井上さんは「勉強しないといけないこともある。責任を持って頑張りたい」と意気込みを語った。「花燃ゆ」に高まる萩市、 観光客誘致の起爆剤に期待 山口。2013.12.13 02:05■維新150年に弾み。平成27年のNHK大河ドラマが吉田松陰の妹、文(ふみ)が主人公の「花燃ゆ」と決まり、舞台となる山口県萩市は、観光振興の起爆剤になると期待を高めている。萩が舞台の大河は昭和52年の中村梅之助さん主演「花神」(司馬遼太郎原作)以来38年ぶり。萩市は30年の明治維新150年に向け、観光客誘致を進めており、大河決定で弾みがつきそうだ。(将口泰浩)「偉人ではないので不安もあるけど、私みたいに歴史に疎い方でも身近に感じられると思う」2013年12月3日に東京で開かれた記者発表で、主演の井上真央さん(26)がこう語ったように、文の経歴はほとんど知られていない。文は天保14(1843)年に杉百合之助の4女として誕生した。13歳年上の兄・松陰が開いた松下村塾に学ぶ高杉晋作や久坂玄瑞に妹のようにかわいがられて育った。その後、玄瑞と結婚、玄瑞18歳、文15歳だった。晋作と並び「村塾の双璧」といわれた玄瑞に嫁がせたことで、松陰の妹への愛情、玄瑞への高い評価がうかがい知れる。しかし、玄瑞は元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、同じ塾生の寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃した。享年25。若すぎる死だった。維新後、西郷隆盛は「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」と語ったといわれる俊才だった。文は若くして未亡人となる。その後は藩主である毛利家の奧女中として長く仕えていたが、明治14(1881)年、楫取(かとり)素彦の妻であった姉の寿子が死亡、2年後、文は素彦と再婚、美和子と改名した。素彦は、倒幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校明倫館で学んだ。松陰の死後は松下村塾で塾生を指導し、教育者、松陰の遺志を受け継いだ男でもある。維新後は官界に入り、初代群馬県令(知事)となった。 松陰、玄瑞…。79歳で亡くなるまでの間、文は時代から愛する男たちを奪われる。「運命に翻弄(ほんろう)されながらも、芯の強い女性を表現できたらいい」と井上さんは意気込む。ドラマのテーマは「明治維新はこの家族から始まった」。心優しい松陰や文を育てた杉家のおおらかな家族愛と絆も重要な要素という。平成27年1月から放送、2014年8月クランクインする予定で、萩市ではすでに受け入れ準備を進めている。井上さんも「地域密着型で山口県を盛り上げて、ロケしながらおいしい物を食べたい」と話していた。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めている。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深い。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。       おわり


         1 草莽掘起



  日本の歴史に『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。久坂の妻となっていた女性こそこの物語の主人公・久坂(旧姓・杉)文で、ある。「あや」ではない。「ふみ」である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  文の十三歳年上の実兄・吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤と文は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん文…。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅次郎にいやん!にいーやん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
「にいやーん!」文は号泣しながら絶叫した。暗黒の時代である。幕末の天才・思想家「吉田松陰の「死」」……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。


  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献は池宮彰太郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時2014年1月まだ放送前)」、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。



 立志


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。毛利元就、藩祖の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(1605年)御前帳に記された石高である。慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。また新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた[2]。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる。前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料や写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、  たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 多分、2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになるのではないか。そんな気がする。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。
 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 
 
  

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載6(1)

2014年01月22日 07時11分54秒 | 日記

 有岡城の城主・荒木村重は天正6年(1578年)11月に突如として織田信長に反旗を翻した。
が、苦しい戦いを強いられ、荒木村重は天正7年9月に有岡城を抜け出し、中国の毛利元就に援軍を求めた。
しかし、天正7年(1579年)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、城兵が織田軍の調略に応じ、落城する。
御着城の城主・小寺政職は、有岡城の城主・荒木村重に同調して織田信長に反旗を翻した。
が、有岡城が落城すると、天正7年12月に御着城を捨てて中国地方へと逃げた。
小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。
その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだ。小寺政職には男子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、小寺政職の死によって大名としての小寺家は滅んだ。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛(小寺官兵衛)は、羽柴秀吉に、
「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」
と頼んだ。
黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。
小寺官兵衛は家臣・衣笠久右衛門を備後の鞆(広島県福山市鞆)に派遣して、小寺家を呼び寄せ、小寺氏職を養育した。
小寺官兵衛は小寺政職のせいで命の危機にさらされたのに、旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。「恩をもって仇を報ず」とは、このことである、と人々は感心した。
黒田官兵衛と父・黒田職隆は、御着城の城主・小寺政職に仕え、小寺政職から「小寺」姓を賜り、小寺姓を名乗っていた。
しかし、小寺官兵衛は織田信長に反旗を翻し、毛利輝元に寝返ったので、黒田官兵衛と父・黒田職隆は小寺姓を捨て、旧姓「黒田」へと戻した。
どの時点で黒田姓へと戻したのか、正確な時期は分からない。
御着城の城主・小寺政職は織田信長に属していたが、途中で毛利側へと寝返った。
「小寺」は反逆者の姓なので、織田信長(または羽柴秀吉)が小寺官兵衛に「小寺」姓の使用を禁じた、という説もある。
いずれにせよ、黒田官兵衛は小寺性を捨てて名実共に黒田官兵衛に復帰したので、ここからは表記を「小寺官兵衛」から「黒田官兵衛」へと変更する。
 天正8年(1580年)閏3月、人質となっていた松寿(後の黒田長政)が、黒田官兵衛の元に返還される。
天正8年(1580年)、三木城を落として東播磨を平定した羽柴秀吉は、姫路城を黒田官兵衛に返還し、三木城を居城と定めた。
しかし、黒田官兵衛は、
「三木城は要害ですが、播磨では辺境の地にあり、居城には適していません。姫路は諸国への通路も良く、運送の便も良い要所なので、姫路を居城になされませ」
と助言した。
羽柴秀吉は、
「姫路城は汝の城であろう」と姫路城を返そうとしたが、
黒田官兵衛は「姫路城は中国征伐の重要拠点にて、もとより秀吉様に献上したものに御座います」と答えて受け取らなかった。
このため、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、黒田官兵衛は父・黒田職隆が築いた国府山城(こうやまじょう=別名は妻鹿城)を居城とした。
そして、黒田官兵衛の助言により、羽柴秀吉が居城・姫路城の改修工事を行う。
この姫路城の改修工事は、黒田官兵衛と浅野長政によって進められた。
さて、播磨には若干の毛利勢力が残っていたが、その後、羽柴秀吉によって駆逐され、羽柴秀吉によって播磨が統一された。
その後、織田信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与えた。
すると、羽柴秀吉は黒田官兵衛に東揖郡(現在の兵庫県揖保郡)福井庄内など計1万石を与えた。
こうして、小寺家の家老だった黒田官兵衛はようやく大名に成り上がることができた。
黒田官兵衛が1万石の大名になったのは天正8年(1580年)9月、黒田官兵衛が35歳の事であった。
(注釈:1万石以上になると大名に分類される)。
さらに、翌年の天正9年(1581年)に1万石が加増され、黒田官兵衛は2万石の大名になった。
 天正8年(1580年)5月、播磨(兵庫県南部)をほぼ平定した羽柴秀吉は、弟・羽柴秀長を派遣し、但馬(兵庫県北部)を攻めた。
そして、但馬の守護大名・山名祐豊を討ち取り、但馬を平定した。
但馬を平定した羽柴秀吉は進路を西に取り、因幡(鳥取県東部)の攻略に取りかかる。
因幡の守護大名は鳥取城の城主・山名豊国であった。
天正8年(1580年)6月、羽柴秀吉の軍勢が、因幡にある山名豊国の鳥取城を包囲する。
羽柴秀吉が、
「降伏すれば因幡1国を安堵する」と持ちかけると、
鳥取城の城主・山名豊国は羽柴秀吉に降伏する。鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。
ところが、天正8年(1580年)9月、山名豊国の家臣や兵は毛利側によしみを通じ、羽柴秀吉に降伏した城主・山名豊国を追放して鳥取城に籠城したのである。
こうして、鳥取城で籠城する家臣は、総大将が不在になったため、毛利輝元の重臣・吉川元春に守将の派遣を求めた。
吉川元春は毛利家で山陰地方の責任者であり、鳥取城の要請を受け、家臣・牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城するが、死亡(「病死」または「負傷死」)してしまう。
このため、吉川元春は牛尾元貞の後任として、家臣の市川雅楽允・朝枝春元の両名を鳥取城へ派遣した。
が、鳥取城側は吉川元春に守将のチェンジを要求した。
このため、吉川元春は一族の吉川経家を鳥取城に派遣し、天正9年(1581年)3月に吉川経家が鳥取城へ入った。
吉川経家は自分の棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定し、黒田官兵衛を軍艦(軍師)に据え、2万の軍勢を率いて吉川経家が守る鳥取城を目指した。
さて、軍師・黒田官兵衛は鳥取城を攻めるにあたり、事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運んでいた。
さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。
自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがった。
そこで、羽柴秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めにしたのである。
これは、「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために、黒田官兵衛が考えた作戦だとされている。
このとき、鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかった(鳥取城は黒田官兵衛の策だとは知らず、籠城戦に備えて蓄えていた兵糧を売り払ったとも伝わる)。
そこへ、黒田官兵衛に家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んできたため、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
下々の者まで食料は回らず、草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。
木の皮や草の根を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、それでも食料は足らず、やせ衰えていった。
鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立した。
食糧の尽きた鳥取城は、地獄だった。籠城開始から4ヶ月が過ぎた10月になると寒さも増し、4千人の餓死者が出た。
やがて、鳥取城内の下々の者は、死人を掘り返して肉(人肉)を食べるようになり、地獄絵図が展開されるようになった。
いわゆる人肉を食べる「カニバリズム」である。
また、鳥取城から逃げだそうとした者が羽柴秀吉の軍勢に撃たれてれると、鳥取城の下々の者は撃たれた者に群がり、まだ息のあるうちから、撃たれた者の手足を切り取り、食べた。
人肉の中で脳みそは美味しいのか、頭は人気があり、下々の者は頭を奪い合って食べた。
このように人肉まで食べるようになった鳥取城の籠城戦が、世に言う「鳥取の飢殺し(鳥取の渇殺し=かつごろし)」である。
いかに大河ドラマでもこのような残虐なシーンは放送されることはなかった。
鳥取城兵糧攻めの「鳥取の飢殺し」と三木城兵糧攻めの「三木の干殺し」の2戦は、日本の兵糧攻めを代表する惨劇で、そのいずれも天才軍師・黒田官兵衛の献策だとされる。(注釈:三木城包囲は竹中半兵衛の献策とも言われている。)
天正9年(1581年)10月25日、人が人肉を食べるという地獄絵図に耐えきれなくなった守将・吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
三木城兵糧攻め(三木の干殺し)は1年10ヶ月を要したが、鳥取城攻略では天才軍師・黒田官兵衛の「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦が見事にはまり、鳥取城はわずか4ヶ月で落城したのである。
ただ、「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦を献策した軍師・黒田官兵衛は、鳥取城の落城を前に、阿波(徳島県)の三好家の救出を命じられ、阿波へと向かっている。
 天正8年(1580年)、羽柴秀吉が但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)の征伐を進めるころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、阿波(徳島県)の三好家へ侵攻していた。
元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は、織田信長の家臣・明智光秀と親戚で、織田信長と同盟を結び、良好な関係にあった。
そこで、長宗我部元親は明智光秀を通じて、織田信長に鷲や砂糖を贈り、織田信長から「四国を自由に切り取って良い」と許可を得ていた。
一方、阿波(徳島県)の三好家は、14代将軍・足利義栄を擁立し、中央政権でも権力を誇った名家だったが、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした。
織田信長との戦に敗れ、衰退していた。
三好家は織田信長と対立していたが、没落後は黒田官兵衛を通じて織田信長の傘下に入り、三好家は羽柴秀吉の養子・羽柴秀次を養子に貰い受けていた。
このため、土佐の長宗我部元親と阿波の三好家の両家は、ともに織田信長側の勢力となっていた。
このようななか、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始た。
そして、長宗我部元親は阿波(徳島県)と讃岐(香川県)をほぼ平定し、四国統一に迫った。
これに困った三好家は、長宗我部元親による四国統一を阻止するため、織田信長に救済を求めた。
これを受けた織田信長は長宗我部元親に、讃岐と阿波の一部を統治を認め、讃岐と阿波の北部を返還するように命じた。
しかし、長宗我部元親は、
「自分で切り取った領土で、織田信長から拝領したものではない」
として、織田信長の要求を無視し、阿波への侵攻を続けた。
これに怒った織田信長は、羽柴秀吉に三好家の救済を命じた。
これにより、長宗我部元親との交渉を努めていた明智光秀は、厳しい立場に立たされた。
さて、三好家の救済を命じられた羽柴秀吉は、鳥取城を兵糧攻め(鳥取の飢殺し)にしている最中だった。
羽柴秀吉は、毛利側の援軍・吉川元春とも対峙して動けないため、軍師・黒田官兵衛を名代として四国へと派遣した。
このころ、姫路では黒田職隆が容態が悪化し、命も危ない状態だったが、黒田官兵衛は黒田官兵衛は命令を拒否することは出来ず、嫡子・黒田長政に「私に変って黒田職隆によく仕えるべし」と命じ、三好家の救済へと向かった。
なお、黒田長政は黒田官兵衛の言いつけを守り、献身的に介抱を行ったので、黒田職隆の病気は治った。
 天正9年(1581年)9月、黒田官兵衛は仙谷秀久を淡路島へと派遣した。
ほかに、生駒親正などを阿波(徳島県)へと派遣し、黒田官兵衛自身も阿波へと渡った。
天正9年(1581年)11月15日、三好家から援軍の要請があったため、淡路に居た仙谷秀久を阿波の勝端城の援軍に差し向け、黒田官兵衛は淡路島へと上陸した。
淡路島には由良城(ゆらじょう)という要害があり、由良城には安宅河内守という強敵が居た。
このため、黒田官兵衛は誅殺によって由良城の城主・安宅河内守を斬り、淡路島の平定を成し遂げた。
黒田官兵衛が生涯で誅殺した人数は2人だけで、その1人目が姫路時代に仕えた小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
そして2人目が、由良城の城主・安宅河内守(あたぎきよやす)である。
なお、黒田官兵衛が城主・安宅河内守を斬った刀は、名刀「安宅切」と呼ばれ、現在(2013年)は福岡市博物館に保存されている。
天正9年(1581年)11月、淡路島・阿波・讃岐を平定し、三好家を救済した黒田官兵衛は、淡路島の洲本城(兵庫県洲本市)を仙石秀久に任せて姫路へと引き上げた。このとき、黒田官兵衛は36歳であった。
 武田信玄の亡き後を継いだ甲斐(山梨県)の武田勝頼は、天正3年(1575年)の「桶狭間の合戦」で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退していた。
天正10年(1582年)2月、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻め、天正10年3月の「天目山の戦い」で武田勝頼を討ち、武田家は滅んだ。
北陸の上杉家は上杉謙信の亡き後、家督争いで疲弊しており、もはや織田信長の敵では無かった。
武田勝頼を滅ぼした後、残る強敵は九州の島津義久、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元となっており、織田信長の野望は天下統一に一歩一歩と近づいていたのである。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載3

2014年01月18日 07時31分09秒 | 日記
       3 秀吉 墨俣一夜城



         タヌキ家康


話を戻す。
「どうかこの栗山めを家来にしてください!」
永禄8年(1565年)夏、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が20歳のとき、15歳の栗山善助(別名は栗山利安)が出仕する。
栗山善助は生涯で57の首級を上げ、黒田官兵衛の右腕となる家臣である。
栗山善助の父親の名前は分からない。
が、栗山家は播磨守護大名・赤松家の一族で、代々、赤松家に仕えていた。
足利尊氏から播磨国姫路の近くにある栗山を拝領したことから、栗山姓を名乗った。
栗山善助が15歳のころ、既に播磨では赤松家は衰えており、「黒田家は大国の主なり」という噂が流れていた。
そこで、栗山善助は黒田官兵衛を大国の主と見込んで仕官した。
黒田官兵衛は、若いのに奇特な者だと思い、栗山善助を召し抱えた。
栗山善助は誠に正直で、奉公に精を出すことから、黒田官兵衛が「善助」と名付けた。
永禄9年(1566年)1月11日、父・黒田職隆は栄城の城主・井口与左衛門の娘を養女とし、室津城の城主・浦上清宗に嫁がせ、播磨での地盤を固めた。
しかし、結婚式の当日の夜、播磨で対立している龍野城の城主・赤松政秀に攻められ、黒田職隆の養女と浦上清宗は戦死した。
このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は21歳であった。
永禄10年(1567年)、小寺官兵衛が22歳のとき、志方城(兵庫県加古川市志方町)の城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘・櫛橋光(15歳)と結婚する。
(注釈:このとき、櫛橋光は15歳だが、戦国時代に淫行条例や結婚の年齢制限はないので、15歳の少女と結婚する事は合法である。)
櫛橋光は小寺政職の姪にあたり、小寺官兵衛が小寺家で重用さていたことがうかがえる。
大河ドラマでは光は、官兵衛の初恋の女の死後3年で、運命的な出会いをすることになっている。お転婆でかかあ殿下な設定らしい。
この結婚により、黒田家は小寺家と関係を強くするとともに、志方城の城主・櫛橋伊定と関係を強め、播磨での地盤を固めた。
なお、妻となる櫛橋光は「光姫」「照姫」と表記されることもある。
櫛橋光の読み方は「くしはし・てる」と「くしはし・みつ」の2説があり、どちらが正しいかは判明していない。
2014年の大河ドラマでは櫛橋光「くしはし・てる」説を踏襲していた。この物語でも光(てる)という説を踏襲した。
黒田官兵衛は正室の光のみを愛した。側室は生涯もたなかった。子はふたりだけ。成人したのは黒田長政のみである。
最初、黒田官兵衛の政略結婚の相手は光ではなく、光の姉のりきであった。光は一人目の子供(長男・松寿丸・のちの黒田長政)からなかなかふたりめが出来ないことがあった。
世の中は戦乱の世で「一族の数が多ければ多いほど「有利」」である。光は「殿、側室を是非おとりくだされ!」と気配りをみせる。
が、官兵衛は「嫁はお前(光)だけでよい」というばかりだったという。
子供を人質にとられたときも、織田方の武将で摂津の荒木村重の元に、「小寺方の使者」として荒木の城下に単身交渉にいき一年間も官兵衛が幽閉(暗い牢獄で髪は抜け落ち、足も不自由になる。小寺氏は毛利方に寝返り、織田方の秀吉に助けられ、負けた小寺氏は毛利に遁走)されたときも「黒田の家はわたくしが守りまする!」といい家臣団を勇気づけたという。
黒田官兵衛の妻の名前を「幸圓(こうえん)」と表記する解説本もあるが、幸圓は本名ではなく、櫛橋光の雅号とされている。
この結婚に際し、櫛橋伊定は小寺官兵衛に、朱塗りの合子形兜(銀白檀塗合子形兜)を贈ったという伝承が残っている。
銀白檀塗合子形兜はお椀をひっくり返した形をしており、黒田官兵衛が銀白檀塗合子形兜を愛用したため、銀白檀塗合子形兜は「如水の赤合子」として恐れられたという。
(注釈:黒田官兵衛の象徴ともなる銀白檀塗合子形兜は、九州の関ヶ原の合戦で使用された。)
さて、小寺官兵衛が櫛橋光と結婚したころ、父・黒田職隆は44歳の若さで隠居し、黒田官兵衛に家督を譲った。
こうして、小寺官兵衛は黒田家の当主となり、姫路城の城主となったのである。
そう外様大名で、軍師という具合である。そして前述した織田信長に降るのである。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が櫛橋光と結婚した永禄10年(1567年)、尾張(愛知県)の織田信長は、美濃(岐阜県)の大名・斎藤龍興を倒し、稲葉城を岐阜城へと改称して岐阜城を本拠地とした(後述)。
そして、織田信長は「天下布武」の朱印を使いようになり、天下統一へと歩み始めた。
このとき、織田信長は33歳で、小寺官兵衛は22歳であった。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が結婚した翌年の永禄11年(1568年)、正室・櫛橋光が姫路で嫡男・松寿を出産する。
この松寿が、後の黒田長政である。
天下布武を掲げた織田信長が15代将軍・足利義昭を擁して上洛を果たしたのは、黒田長政が生まれた永禄11年(1568年)のことである。
永禄12年(1569年)、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が24歳のとき、地侍・曽我一信の子・母里太兵衛(別名は母里友信)が14歳で出仕した。
母里太兵衛は戦場で常に先手を務め、黒田家家臣の中で最多となる76の首級を上げた豪傑である。母里太兵衛は黒田家の精鋭24人「黒田二十四騎」の1人で、「黒田節」として唄われた。
母里太兵衛は気性が激しく、手の付けられない少年だったため、小寺官兵衛は母里太兵衛(母里友信)と栗山善助(栗山利安)を呼び、
「栗山善助は兄として母里太兵衛を助け、母里太兵衛は弟として栗山善助の言葉に従え」
と命じ、2人に義兄弟の誓いを交わさせた。
母里太兵衛は成人しても気性が激しく、黒田長政らを困らせたが、義兄弟の誓いだけは守り、義兄・栗山善助の言うことには理屈抜きで従った。

  話を少し戻す。
  織田信長は奇跡を起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。
 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。
 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。
 信長はさらに、既存価値からの脱却もおこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟任家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに織田信長は天才であった。阿修羅の如き。天才。


  松平元康(のちの徳川家康)のもとに今川からの伝令が届いた。
「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。
 元康は「馬鹿を申すな!」と声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。
 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。
 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」
 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。
「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」
 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。
「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。「事実にこざりました!」その報告をきくと、元康はがくりとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。
 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。
  部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。
 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」
 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。
 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。
 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。
「さようでござる」
「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」
 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。
「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。
 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。
 元康は同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。
「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!
 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。
「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」
 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がぴしっと強固な壁のように一致団結してしまった。
信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。
「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。
 しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。
 くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。


         尾三同盟


   松平元康は清洲城にやってきた。永禄五年(一五六二)正月のことであった。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。
 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。
「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」
 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。
「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。
「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。
 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。
  織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。
 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」
「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。
 また、信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。
 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃コースを直線コースへとかえていた。




       サル


  猿(木下藤吉郎)が織田家に入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。
「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。
 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。
 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。
「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。
 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。
「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」
 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」
 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。
 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!
 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!
  ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、
「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。
 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。
「なにっ?!」
 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。
 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。
「なぜ上にあがらない?」
 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。
 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。
 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。
 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。
 こんなエピソードがある。
 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。
 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。
「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。
 また、こんなエピソードもある。戦場にいくとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。
 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」と飄々といった。 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。
 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、
「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。
「木下藤吉郎の部隊でごさりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。


         石垣修復


  織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。
 あるとき、信長は城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。城下町では千宗易が茶碗を売っていた。小一郎(秀長)は「まけてくれ」といってねぎっているところだった。信長は茶碗を千宗易から百貫で買っていた。藤吉郎(秀吉)はそれをみてショックをうけた。たかが茶碗に……百貫もの銭を……
 藤吉郎には理解のできないことであった。
   ある日、藤吉郎が「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」とにやりと猿顔を信長に向けた。
「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。
 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。
「サル、やってみよ」信長はいった。サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。
  信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。
 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。
「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。
「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。
 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。
「……わかった。しかし、人質はいないのか?」
「人質はおります」藤吉郎はいった。
「どこに?」
「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。
 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」
「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。
 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。 この頃、明智光秀は越前で将軍・義昭と謁見した。サルは信長の茶屋によばれ、千宗易のつくる茶をがばっと飲んだ。「これ、サル!」信長が注意すると、千宗易は笑って「かましまへん、茶などでう飲んでもええですがな」といった。

         竹中半兵衛


  信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、徳川二代目秀忠の妻・お江、京極高次という大名の妻となる初である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。

「サル!」
 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。
「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」
「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でごさりましょう」
「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」
「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」
「ほう?」
「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」
「気にいった!」信長は膝をぴしやりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」
「かしこまりました!」
 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。

  汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。
「理由は? 理由はなんでござるか?」
「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」
「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。
 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。
 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。
「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」
 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。
「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。
「かたじけのうござる!」
「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」
「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」
「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」
 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。
黒田官兵衛も同じように秀吉の叡智・英雄性を見抜いたという。官兵衛も「私は信長さまではなく、秀吉殿の軍師にございまする!」といい秀吉を感涙させている。

         墨俣一夜城


  美濃完全攻略、それが当面の織田信長の課題であった。
 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には木曾川、長良川などの川が天然の防柵のようになっている。そこからの攻撃には拠点が必要である。
 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?
 弟の小一郎はサルに「まず誰かにやらせてみて、それから兄じゃがやればよい」と忠告していた。しかし、誰かが城をつくってしまったら…。弟はいった。「誰かが出来ることを兄じゃがやっても仕方ないじゃろ? 誰も出来ないことをやれば兄じゃの天下よ」
 かくして、信長の家臣団は墨俣に城をつくることができないでいた。
「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」
「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。
「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」
「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」
「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」
「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」
「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」
「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。
「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」
「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」
「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」
 信長は唖然とした。
 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。
「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。
「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。
 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、城は一夜にして完成した。墨俣一夜城で、ある。

「よくやったサル!」
 信長は、夜、墨俣一夜城に着いて、秀吉をほめた。
 一同は平伏する。しかし、秀吉の弟・小一郎は「御屋形様! 褒美を下され!」と嘆願した。「こら! 小一郎! 黙れ!」秀吉は諫めた。
「われらは褒美のために働いたのでござる! 褒美を!」
 小一郎は必死に嘆願した。秀吉は黙ったままだった。信長は冷酷な顔でふところに手を入れた。もしや、刀を抜いて、小一郎を……斬りすてる?!
 一同は戦慄した。
 しかし、信長は袋にはいった小さな茶壺を秀吉に手渡し「ご苦労であった」といった。そして場を去った。左吉はそれをみて、銭じゃなく、……茶壺? そんな…と落胆した。 だが、秀吉は一同に笑顔を見せた。”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔であった。……こんなの…屁でもないさ……

 官兵衛の幼妻・光(てる)は「わたくしは逞しい男が好きでござりまする」
 と旦那にいう。官兵衛は生涯側室をとらず光だけを愛した。「でも、頭の賢い男はもっと好きであります」
官兵衛と光の夫婦仲はよかった。だが、播磨姫路の小大名・外様大名でしかない。そこで信長への接近、となる訳である。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大前研一氏先生談2014年1月17日「2013年国内市場・日本の現状と問題点」

2014年01月17日 11時38分57秒 | 日記
『防衛計画・税制改正・公的年金運用~類似した組織に目を向ける』防衛計画大綱 中期防衛力整備計画固め。税制改正 2014年度税制改正大綱を決定。公的年金運用 海外インフラ投資を開始。2013年12月20日大前研一氏メール記事参照。▼ あれだけ反対していたオスプレイを自衛隊に。政府は13日、中長期の安全保障政策の指針となる防衛計画の大綱と中期防衛力整備計画での自衛隊の装備目標を固めました。2014年度から5年間の目標を示す中期防では、米軍が開発した垂直離着陸輸送機オスプレイを17機、水陸両用車を52両購入する方針を明記。軍事力を高める中国を念頭に離島防衛や機動力を重視した装備を整えるとのことです。米国としては、嬉しくてしょうがない状況でしょう。中国と日本がもめることで、日本が米国から武器を購入する流れになっています。グローバルホークなどの無人機に加え、かつて米軍が日本国内で使用するのを反対していたオスプレイまで、 自衛隊で保有することになりそうです。日本は戦闘機が離発着できる空母を保有していないので、ヘリコプターとして離発着できるオスプレイは非常に使い勝手が良いと思います。 尖閣領域から石垣島までカバーすることができるでしょう。あれだけ米軍のオスプレイに国中で大騒ぎをしていたのに、自衛隊が保有するという手のひら返しには少々呆れてしまいます。▼ 交際費を拒否する英国の潔癖性とカナダの年金運用ノウハウ。自民、公明両党は2013年12月12日、2014年度税制改正大綱を決めました。生活必需品の消費税率を低く抑える軽減税率については「消費税率10%時に導入する」とし、一方、自動車の購入時にかかる取得税の引き下げなど、来年4月の消費増税をにらみ景気に配慮した措置も盛り込むとのことです。細かい項目を見ていくと、例えば交際費を50%まで非課税にするというものがあります。私はいまだにこのような項目を追加しようとすることが、残念でなりません。交際費が認められるから、飲みに行くというのは筋が違うでしょう。またそもそも最近では、飲み会や会食の数も減り、2次会・3次会と遅くまで飲み歩く人はかなり減ったと思います。ゆえに、交際費を非課税にできます、と言われてもどれほど効果があるのかは疑問です。以前、英国の労働党の議員の大阪での接待に同席したことがあります。食事を終え、会計のときになって、彼らは金額を確認させてくれ、と言いました。日本側の役人は渋りましたが、結局金額を確認した彼らは、こんな高額の食事をご馳走になったら賄賂になるので自分たちの分は自分で支払うと言いました。英国の議員が自腹で払っているので、自分たちも支払わざるを得なくなり、日本の役人は非常に困っていました。今、日本でも飲み会や会食が減り、社会が英国化しつつあるのかも知れません。英国人が持つ潔癖性を日本人も身につけてほしいと思います。交際費が認められるから飲みに行くという、みっともない行為はやめてほしいと思います。公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)はカナダで最大規模の公的年金基金・オンタリオ州公務員年金基金(OMERS)と組み、海外のインフラ投資を始めます。これは非常に良いことだと思います。日本のGPIFには経験がありませんから、学べることは多いはずです。オンタリオ州公務員年金基金は運用もスマートですし、結果も出しています。さらに日本にとって有益だと思うのは、米国のそれと違って「普通のサラリーマン」が世界のことをよく勉強し、公共投資を行って、リターンを得る仕組みを作り上げていることです。米国の場合、一部のスーパースター的な存在の人が、日本のサラリーマンでは考えられない報酬を得ていることもありますが、カナダの場合にはそういうことがありません。日本に近い環境だと思います。カナダに目を向けたことも良いですし、その中でもオンタリオ州公務員年金基金を選んだのも慧眼だと言えるでしょう。ぜひ、多くのことを学んでほしいと思います。

 靖国参拝、首相談話の疑問 歴史認識・内政・外交。2013年12月27日05時00分。 安倍晋三首相は26日、靖国参拝後に「恒久平和への誓い」と題した談話を発表した。中国や韓国の反発を見越し、あらかじめ用意した談話だ。だが、過去の経緯や首相のこれまでの言動と比べると、矛盾が多い。この日の首相発言とともに疑問点を指摘する。《歴史認識》参拝したのは政権1年の歩みをお伝えするためです。■政教分離の問題を素通り。     靖国神社には先の戦争を指導し、東京裁判で責任を問われた東条英機元首相らA級戦犯14人が合祀(ごうし)されている。靖国参拝は過去の侵略と植民地支配を日本の政治指導者がどう捉えるか、という歴史認識の問題に直結する。こうした意味をもつ靖国神社に政権1年を伝える必要があったのか。首相は昨年の就任後、歴史認識をめぐってたびたび国内外から不信を招いてきた。閣僚らの靖国参拝に中国や韓国が反発すると「どんな脅かしにも屈しない」と反発した。植民地支配と侵略へのおわびと反省を示した村山談話を「そのまま継承しているわけではない」と発言。批判を受けると一転、「歴代内閣の立場を引き継ぐ」と修正した。首相の靖国参拝は、憲法の政教分離原則に照らしても、問題点を指摘されてきた。先の大戦まで国家神道は戦争動員の精神的支柱となった。その中心的施設だったのが靖国だ。談話はその点も素通りしている。安倍首相はこの日、記者団に対し、「戦場で散った英霊のご冥福をお祈りし、リーダーとして手を合わせる。世界共通のリーダーの姿勢だ」とも強調した。しかし、米国のケリー国務長官が10月、戦没者の慰霊のために献花したのは、靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑だった。米国務省当局者は朝日新聞の取材に「宗教や政治的な含意のない場所だからだ」と答えている。オバマ政権が「失望している」との声明を出した背景にはそうした事情があるとみられる。(池尻和生)*《内政》平和の道を邁進(まいしん)してきました。この姿勢を貫きます。■過去の平和主義とは隔絶。首相の言う「平和」と、これまでの平和国家の歩みに断絶はないか。首相がことあるごとに繰り返す「国際協調主義に基づく積極的平和主義」は、今までは「消極的」だったとの不満の裏返しにほかならない。武器輸出三原則を見直し、集団的自衛権の行使容認をめざし、憲法改正までも視野に入れる。にもかかわらず、継続性を唱える談話には違和感がある。首相は談話で、「今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにした」とも語った。ただ、今年の終戦の日に行われた全国戦没者追悼式の式辞に「不戦の誓い」の表現はない。歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に言及してきたが、首相が「誰のため、何のため開く式なのか、抜本的に考え直してほしい」と官邸スタッフに指示。「深い反省」「哀悼の意」とともに「不戦の誓い」は消えた。首相は単に発言の場を選んだだけ、というかも知れない。だが、これまでの経緯からすると、この日の「誓い」は唐突だった。参拝後、首相は記者団にこう語った。自分は昨年の自民党総裁選でも衆院選でも、第1次政権で参拝できなかったことを「痛恨の極み」と述べ、そのうえで党総裁・首相に選出された――。まるで自らの参拝は国民の信任を得ていると言わんばかりだ。だが、首相は「政治・外交問題に発展していく」として、参拝するかどうか明言してこなかった。論理のすり替えはここにもある。(野上祐)*《外交》中国、韓国の人々を傷つけるつもりはありません。■戦犯合祀の理解得られぬ。首相は参拝した後、記者団に「靖国神社の参拝は、いわゆる戦犯を崇拝する行為と、誤解に基づく批判がある」とも述べた。しかし、「誤解」と言って切り捨てるのは、無理があるのではないか。仮に首相本人に「戦犯を崇拝する」というつもりがなかったとしても、A級戦犯もまつられている靖国を参拝したという事実は変わらない。特に中国にとってみれば、日中国交正常化の際、日本の戦争指導者と一般の日本国民は別という理屈で自国民に説明した経緯がある。そもそも侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国の人々には、靖国神社への嫌悪感が根強い。靖国神社の境内にある施設「遊就館」では、戦前の歴史を正当化したとも受け止められる展示をしている。「傷つけるつもりはない」と言っても理解されるだろうか。首相は就任してからの1年間で、中韓の首脳と一度も会談していない。だからこそ、「対話のドアは常にオープン」と述べていたのではなかったか。靖国神社を参拝すれば、首脳会談はいっそう遠のく。両国間のビジネスや観光などにも悪影響を与えかねない。こんなことは首相自身も予測していたはずだ。 それにもかかわらず参拝を強行した。首相は談話で「中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています」と記したが、相手国を怒らせておいて、友好を唱えるのは無理がある。(東岡徹)(2013年12月27日朝日新聞記事参照)

靖国参拝、米中韓が怒るわけ 識者に聞く。2013年12月28日05時00分。安倍晋三首相が強行した靖国神社参拝に国際社会が厳しい目を向けている。参拝は日本に何をもたらすのか。米中韓の識者に聞いた。■もう日本の擁護難しい 米外交問題評議会上級研究員、シーラ・スミスさん。――安倍首相の靖国参拝に、米政府は「失望した」と異例の批判をしました。「私もショックを受けました。安倍氏は、参拝の日本にとってのコストを理解し、代わりに中国や韓国に対する外交的な努力に取り組むと考えていましたが、私は間違っていました」「もし安倍氏が、単に自分の支持層に応えるためではなく、中韓が対話に応じないからと、あえて緊張を高め譲歩を迫る外交カードとして参拝したとしたら、地域の国々だけでなく、米国の考えも読み違えています」「オバマ政権の政策担当者の多くは、安倍氏が経済を優先課題に据え、中韓に対話を提案することを好意的にとらえていました。安倍氏によって、日本の戦略的な展望に関するオバマ政権の見方は、より前向きなものになっていたのです。しかし、そうした矢先の参拝は、日本を傷つけることになりました」――米国は従来は公式には首相の靖国参拝を批判することは避けてきました。なぜ今回は異なる対応になったのでしょう。「中国との関係では、小泉政権時代の日本は少なくとも対話をしようとしていたし、かたくなな態度を取っているのは中国側と見られていましたが、いまは違う見方があります。それに、現在は尖閣諸島の問題もあります。この問題で日本の対応に非はありませんが、参拝で、予測不能な状況に拍車がかかるかもしれません」「二つ目はもちろん、韓国との関係です。ワシントンでは、歴史や安全保障の問題で、朴槿恵(パククネ)政権が少し過剰反応なのではという見方もありました。米政府も関係改善を手助けしようとしていましたが、安倍氏の参拝によって難しくなりました」――日米関係への影響も出てくると思いますか。「当然あるでしょう。日米防衛協力のための指針見直しなど多くの安全保障上の課題に取り組もうとしているときに、安倍氏は泥をかき混ぜて水を濁らせるようなことをしました」「オバマ政権の当局者たちは、国内や韓国など外国の懸念に対して、『安倍首相は現実的な見方をする人物で、心配する必要はない』と、安倍氏と日本を擁護する側に立っていたのです。しかし、こうした取り組みは難しくなるでしょう。安倍氏の行動は合理的な政策目標の追求よりも、イデオロギー的な動機に基づくという見方が増えるかもしれません。いわゆる『国家主義的な目標』を追求しようとしているのかと、疑問を抱く人も出てくるでしょう」「安倍氏がなぜ参拝したのか、理由は複雑かもしれませんが、結果は明白です。日本の政治的な選択肢を狭めることにつながり、新しい安全保障環境への戦略的な適応が極めて重要な時期に、日米の同盟関係を複雑なものにします」(ワシントン=大島隆)*米外交問題評議会・上級研究員。専門は日本政治・外交政策。コロンビア大学で博士号(政治学)を取得し、ボストン大、東西センターなどを経て現職。■傷つける気ない?偽善 中国社会科学院日本研究所副所長・楊伯江(ヤンポーチアン)さん。――安倍首相の靖国参拝がもたらす日中関係への影響をどう見ますか。「今年に入り、貿易や環境保護といった共通の利益への考慮や、日本側の民間の理性的な声を通じて緩やかに改善されつつあったが、参拝はこうした努力を白紙に戻してしまいました」――首相は参拝後、「中韓の人々を傷つけるつもりはない」と表明しました。「偽善です。首相は『参拝は政治、外交問題化している』とも言っています。首相就任後に1年間、参拝を我慢したのは、その悪影響を認識していたからにほかならない。首相を支持する保守層は、首相の参拝を、日本の国際社会での地位向上や政治力の回復と結びつけているようですが、全く逆です。参拝は日本のイメージだけでなく、安倍首相の政治的、外交的な信用をも傷つけてしまいました」――首相の唱える「積極的平和主義」は周辺国に受け入れられますか。 「日本が国際的に平和維持活動をする権利は尊重されるべきだし、侵略の歴史について過去には謝罪もしました。しかし、謝罪をひっくり返す政治家がしばしば現れ、周辺国を心配させている。こうした心配を解かずに、積極的平和主義を唱えても、日本が守ってきた戦後の平和主義とは異なる『侵攻的』な概念ではないかと、不安を感じざるを得ないのです」――北朝鮮問題の解決にも影響が生じるのでは。「北朝鮮やアジアの多くの問題は中日韓の協力が必要ですが、参拝により、協力の余地が狭められています」――昨年の      反日デモなどを受け、日本では中国への警戒が広がりました。中国の過剰な反応が参拝に影響したのでは。「首相は今回、自身の願望に加え、国内保守派の圧力を受けて参拝したのだと考えています。歴史問題で中国は、1980年代の教科書問題から昨年の『島購入』(尖閣諸島の国有化)まで、実はおおむね受け身の対応でした。積極的に問題は起こしていない。領土問題と歴史問題は質が異なります。領土で譲歩できないのは理解できますが、歴史は『譲歩』の対象ではなく、『是か非か』の問題。日本の侵略が間違いだったことを否定できる余地はないでしょう」――中国人は今回、どう反応するでしょうか。首相と日本国民を分けて考えられますか。「多くの中国人は、日本人は勤勉で善良な民族で、党利党略で行動する日本の一部政治家が問題なのだと思っています。また、戦略上も日本人全員を敵に回す批判の仕方はよくないと考えています。中国人は成長し、国際政治の背景を徐々に理解し始めている。今回の参拝後、昨年のデモであったような暴力的な行為は起きていません」(北京=石田耕一郎)*政府系シンクタンク「中国社会科学院」の日本研究所副所長。中華日本学会の常務理事を務め、日本に知己も多い。日本や北朝鮮など東アジア問題が専門。■関係改善水の泡、悔しい 韓国・世宗研究所日本研究センター長、陳昌洙(チンチャンス)さん。――安倍首相は靖国神社参拝が「残念ながら政治問題、外交問題化している」と述べ、暗に中韓の対応を批判しました。「境内にある『遊就館』を見れば、靖国神社が日本の帝国主義を美化していることは明らかで、戦犯もまつられている。そこに首相が参拝すれば、韓国では日本が植民地支配を反省していないことの象徴と映る。その怒りを、よく分かっていないのではないでしょうか」――「戦犯を崇拝する行為との誤解に基づく批判がある」とし、参拝で「不戦の誓い」をしたとも述べています。「安倍首相は、東京裁判は戦勝国が裁いたという意味で、正当ではないと考えている。日本のために命を捧げた人たちなのだから、参拝しても何ら問題ないという発想です。でも、国際社会でその論理が通じるでしょうか。ケリー米国務長官らが10月の訪日の際に、靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花したのがその証拠です。不戦の誓いをするなら、国際社会に認められる形でするべきです」――「中国、韓国の人々の気持ちを傷つける考えはない」とも述べ、中韓との関係の重要性を強調していますが。「そういう気持ちがあるのなら、行動で見せてほしい。河野談話や村山談話など日本政府が積み重ねてきた方針を貫き、さらに上積みしてほしい。慰安婦問題などで、誠意ある具体的な措置をとってほしい」――韓国では、首脳会談をかたくなに拒み続ける朴槿恵大統領への疑問も出始めていました。日韓関係に改善の動きはなかったのですか。「双方の政府内でも、互いに妥協して改善していこうという動きが芽生え始めていた。それが水の泡になりました。悔しくてなりません」――首相は真意を直接、中韓に説明したいとしています。「韓国では再び、朴大統領の姿勢が正しかったという論調が支配的になるでしょう。安倍首相の在任中の首脳会談は難しいかもしれません」――なぜこの時期に参拝に踏み切ったと思いますか。「早いうちに右派の要求を満たし、その支持に基づいて消費税などの懸案を乗り越えようと思ったのでは。一方で、韓中との関係はどうせ改善はしないだろうと。国内でのプラスが、国際社会でのマイナスより大きいと考えたのでは」――東アジア情勢に与える影響はどうでしょう。「韓日、中日関係の悪化に加え、防空識別圏問題で韓国の中国への警戒心も強まり、互いに信頼が蓄積できない。参拝により、日米韓の協力関係はぎくしゃくするでしょう。その中で中国が新たなルール作りを仕掛けてくれば、全体が不安定化しかねない。参拝の影響は、それほど大きいと思います」(ソウル=貝瀬秋彦)*1961年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。2002年から韓国のシンクタンク・世宗研究所日本研究センター長。日韓関係で多くの提言をしている。
 
(検証アベノミクス 2013:3)大胆緩和、深める自信。2013年12月28日05時00分。株式市場が約6年2カ月ぶりの高値をつけた26日昼、その最大の「功労者」が首相官邸に現れた。安倍晋三首相との会談のために訪れた日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁だった。「日本経済は、(4月に)量的・質的緩和を導入後、予期した通りに進んでいる。2%の物価安定目標の達成に向かって着実に道筋をたどっている、と説明した」。会談後、記者団に囲まれた黒田総裁は胸を張った。自信に満ちた表情は、総裁に就任した9カ月前から変わらない。4月、いきなり過去最大の金融緩和を発表した会見もそうだった。「2年で物価上昇率2%を達成する」「マネタリーベース(市場に流すお金の量)を2年で2倍にする」。2014年末には市場に270兆円ものお金があふれかえる。これまでの日銀の政策とは一線を画す、まさに異次元の政策で、アベノミクスの「第1の矢」を強烈に放った。 就任前から緩和に積極的な姿勢は知られていたが、「ここまでやるのか」というのが正直な印象だった。記者会見では、「2年」「2%」「2倍」と、数字の「2」を並べたボードを掲げて明快に説明した。その姿は、日銀での経験がない「落下傘」総裁とは思えないほど自信に満ちあふれていた。学者肌で、「金融緩和だけでデフレ脱却はできない」と慎重だった白川方明(まさあき)・前総裁とは対照的だ。「日銀は変わった」と思わせるには十分だった。市場はすぐに反応した。昨年末からの円安・株高がさらに勢いを増した。「金融緩和で物価は上がり、デフレから抜け出せる。そう期待させるために同じことを言い続ける」。日銀幹部は、黒田総裁の姿勢をこう解説する。確かに記者会見では「生産から所得、支出へという前向きの循環メカニズムが働いている」と決まり文句のように繰り返している。物価は上がり、景気も上向く――。人々にそう信じてもらうために、日銀は市場に流すお金の量を増やし続ける。「リフレ」とよばれる黒田総裁の政策はいまのところ、ほぼ想定通りの結果を出している。この1年で円相場はドルに対して21%も下がり、日経平均株価は56%も上がった。いずれも30~40年ぶりという記録的な相場になる見込みだ。■見通せない増税後。しかし、すべて日銀の思い通りに市場を動かすことはできない。象徴的だったのは、東京債券市場で決まる長期金利の乱高下だった。国債を買う人が増えて値上がりすれば、その分、金利は下がる。日銀が4月の緩和後、大量の国債を買い始めたため、金利は下がるとみられていた。ところが予想とは逆に急騰した。日銀が新規発行額の7割もの国債を買い占めることになり、日銀以外の投資家同士の売買が急減した。「日銀に買ってもらうタイミングを逃すと国債が売れなくなる」と不安で売り急ぐ投資家も出て、市場は混乱した。「想定外だった」と日銀幹部は振り返る。その後、日銀が緩和を続けるうちに投資家も落ち着き、金利は下がった。いまはほぼ想定通りの年0・7%台に下がっている。 だが、この長期金利の乱高下は、投資家の不安がひとたび高まれば、市場が制御不能に陥りかねない怖さを改めて示した。新たな不安の種は、来年早々に控えている。消費増税という大きな崖だ。「円安効果が薄れる来年半ば以降、物価上昇のペースが止まり、消費増税で景気も失速する」と、ある日銀OBは心配する。市場ではすでに、日銀が来年4月の消費増税前後に、景気の腰折れを防ぐための「追加緩和」に踏み切る、との見方が出ている。黒田総裁も、不測の事態が起きれば追加緩和を検討する方針を示している。ただ、追加緩和でさらにお金の量を増やしたところで、今年4月の大規模緩和ほどのインパクトはなく、効果は限られている。しかし黒田総裁は「消費増税後も、想定通り景気回復は続く」と強気の姿勢を崩さない。不安を見せれば、人々の期待をそぎ、円安・株高の流れを止めてしまいかねない。「日銀総裁は、目を閉じたままお客を乗せて車を運転するドライバーのようなものだ」と、歴代総裁に仕えた日銀の元幹部は話す。経済は生き物だ。どんな政策を打っても、結果が出るまで成否は見えない。強気な発言を繰り返す黒田総裁も、実は同じ心境のはずだ。「物価上昇率2%を2年で実現する」という約束は守れるのか。来年半ばにはその答えが見えてくる。(橋本幸雄)
 
「家庭内野党」か「応援団」か 発信続ける安倍首相夫人。2014年1月7日21時10分。 安倍晋三首相(59)夫人の昭恵さん(51)が独自色の強い発信を続けている。第2次安倍政権発足に伴いファーストレディーとして再登板し、脱原発や日韓友好、防潮堤見直しに取り組み、政権の政策に異論も唱える。昭恵さんの言葉で首相の方針が変わることはなかなかないが、政権2年目も発信し続けていきそうだ。インタビュー詳報。昭恵さんは昨年12月、自民党本部で東日本大震災の被災地の巨大防潮堤計画に関する会合に出席した。首相夫人が党会合で発言するのは異例。「景観が崩れ、環境も破壊される。もう一度考えてほしい」と計画見直しを主張し、帰宅した首相に「何とかならないの」と迫ったが、首相は「一度決まったものは変えるのが難しい」と答えたという。昭恵さんは2006~07年の第1次政権では「自分らしさがなかった」と振り返る。その後、地元・山口で稲作に挑戦したり、都内に居酒屋をオープンしたりといった試みを始めた。政権は原発再稼働に前向きだが、昭恵さんは「事故が起きると影響が大きい」と否定的で、再生可能エネルギーの新技術を研究する施設を新設するよう首相に提案した。講演では「私は家庭内野党」と語り、政権の原発輸出に苦言を呈す。首相が首脳会談の糸口をつかめない韓国との交流にも力を入れる。在日韓国大使館でキムチを作り、韓流ミュージカルをフェイスブック(FB)で絶賛。FBで「韓国との交流、ありえない」などと批判されたが、昭恵さんは「隣国ですので仲良くしていきたい」と書き込んだ。昭恵さんによると、韓国側から「来てほしい」と要請されたという。ただ、昨年末に首相が靖国神社参拝に踏み切り、実現は遠のきそうだ。最近では鳩山由紀夫元首相夫人や菅直人元首相夫人が「首相の言動や政策に意見を言っていた」(民主党関係者)。野田佳彦前首相夫人のようにあまり人前に出ない夫人も少なくない。周囲はどう見るか。脱原発で連携する環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は「自民党の古さが、昭恵さんが表に出ることでソフトかのように錯覚させてしまう」。首相は扱いかねているかもしれないが、図らずも政権のイメージアップにつながっているというわけだ。首相は昨年5月、テレビ番組で「(彼女は)我が道を行っているが、ここ一番困ったときには力を合わせる」と評している。首相周辺は「家庭内野党というよりは自民党の部会みたいなもの。違う意見を持っていても、最後は選ばれた意見を尊重する」と解説する。昭恵さんは「主人に反発する人たちの意見もわかる」と説明する。首相に大きく方針転換させるまではいかないが、幅広い意見に耳を傾けるよう「つなぎ役」を自任しているようだ。(松井望美)
(ニュースQ3)独仏の影薄く、中国も陰り…… いえ、第二外国語の話。2014年1月8日05時00分。大学の第二外国語で、かつては主流だったドイツ語やフランス語の影が薄くなっている。中国語を学ぶ学生が増え、“二外”を必修としない大学も増えた。だが、中国語人気にも陰りが見えてきたという。■不人気の理由「投資不適格」。「第二外国語の代表選手だったドイツ語やフランス語は『生活に必要』と言い難く、将来の職業生活への投資にならない」。西山教行・京都大教授(言語政策)は昨年末に京大であった研究会でそう指摘した。ドイツ語の場合、旧制高校時代から長く、文科系の学生だけでなく理科系の学生の多くにも「必要」とされ、学ばれてきた。京大では2000年代になっても履修する1年生は1千人台を維持し、英語以外の外国語で最も多かった。それが09年度になって千人を割った。10年度には初めて中国語(1048人)に抜かれた。西山教授は「多くの大学では90年代後半から中国語がトップになっていったのではないか」。■「役立ちそう」期待を背負う。文部科学省は全国の大学の外国語別の履修者数は把握していないが、各言語をいくつの大学が教えているかは調べていて、英語以外では中国語が03年度にドイツ語を抜いてからずっと首位。日本独文学会の12年の全国調査では、ドイツ語履修者数は中国語の3分の2にとどまっていた。米井巌・日本大教授(ドイツ語教授法)は、91年の大学設置基準の緩和で第二外国語を必修にしない大学が増え、ドイツ語の履修者は半減した、とみている。「ドイツ語教員はそれまで思想や哲学に重点を置きがちで、中国の経済成長に後押しされ『経済言語』として台頭してきた中国語とは勝負にならなかった」 各言語の研究者が集まって12年に英語以外の6言語を学ぶ学生にアンケートし約1万7千人の回答を分析したところ、中国語は「役に立ちそう」という期待がもっとも強かった。 ただ、NHK外国語講座(テレビ)のテキストの売れ行きをみると、英語以外では韓国語が一番人気だ。13年度でこれまでに中国語が最も売れた月でも14万部だが、韓国語は24万部。早稲田大教育学部では、07年度に中国語を学んだ1年生は541人とドイツ語やフランス語の倍近くいたが、09年度は400人を割った。中国語教育を担ってきた村上公一・同学部長は「冷凍ギョーザ事件やチベット暴動の影響で、尋常じゃない減り方にショックを受けた」と振り返る。■日中関係悪化、履修者が減少。10年度に500人台に戻ったが、13年度は400人台。村上学部長は日中関係の悪化が原因だとみており、「中国語の履修者数は政治・経済情勢に影響を受けやすい。離れた学生はスペイン語に流れている」。13年度にスペイン語を学んだ1年生は前年度比4割増の342人で、ドイツ語やフランス語を上回った。京大でも12年度に中国語の履修者が減りドイツ語に抜き返された一方、スペイン語は右肩上がり。13年度に履修した1年生は10年前の3・7倍にふくらんだ。京大の西山教授は言う。「学生はそのときの気分や実利面で第二外国語を選ぶ傾向が強くなったが、多様な文化や人びとと接する窓口として第二外国語を学ぶのだと考えてはどうか」(河村克兵)
『道州制・大阪府政~冷静に現象を捉える視点を鍛える』道州制 同床異夢の道州制、大阪府政 泉北高速鉄道 三セク売却議案が否決。▼ 道州制の実現に向けて、各論レベルでの議論が重要。日経新聞は2013年12月20日、「同床異夢の道州制」と題する記事を掲載しました。これは19日に開催された全国知事会議で、先の臨時国会において道州制推進基本法案の提出を見送った自民党に抗議文が提出されたと紹介。日本維新の会との連携を探る政策として道州制を重視した自民党も、日本維新の会が橋下共同代表の慰安婦発言などで勢いを失うと、熱気が急速にしぼんだと指摘しています。これは本当に残念なことです。もし橋下氏が、道州制のみに集中してやっていれば、こんな事態にならず、実現に向けて動いていたと思います。また日経新聞がいう「同床異夢」というのは的を射た表現です。地方に権限を持ってくるということで、全国各地の知事も道州制に「総論」としては賛成しています。しかし「各論」になってくると、反対する立場をとる人もいます。例えば、福島県は東北ではなく関東と一緒になることを望んでいたり、四国と中国で一緒になることはお互いに望んでいないなど、それぞれ意見が異なります。道州制の実現にあたり、地域によっては経済的に独立できるのか不安視されているところもありますが、私に言わせれば「四国だけでもデンマーク並みの経済がある」のだから、大丈夫です。実現しようと思えば、やれるはずです。私は今後も道州制の実現に向けて尽力していきたいと思っていますが、返す返すも橋下氏の勢いが削がれてしまったのが残念です。もし橋下氏があのままの勢いで道州制を推し進めていれば、自民党も民主党も従うしかなかったと思います。▼ 大阪府政の根本的な問題は、橋下氏の政治的な力が衰えたこと。大阪府が泉北高速鉄道を運営する第三セクターの株式を米投資会社に売却するための関連議案が12月16日の府議会本会議で否決されました。大阪維新の会は会派として賛成方針を決めていましたが、所属4議員が反対。大阪維新は市議会に加え、府議会でも単独過半数の勢力を維持できなくなり、看板政策「大阪都構想」への影響は必至の様相です。地下鉄の民営化も計画倒れに終わり、この案件も非常に面白い試みでしたが否決されてしまいました。すでに、大阪維新の会はガタガタの状態になっています。地元大阪でも決定事項を通すことができず、府議会、市議会でも過半数を割り込んでいます。かつて橋下氏と維新の会に勢いがあった頃は、下手に反対すると「橋下氏が怖い」という感覚があったはずです。郵政選挙で刺客を送り込んだ小泉元首相のように、何かあれば橋下氏が対立候補を送り込んできて痛い目にあうかもしれない、という怖さです。ところが前回の堺市長選挙で、すでに橋下氏と維新の会には、その力がないことが露呈してしまいました。だから、今は誰も怖れる人はいないでしょう。橋下氏の影響力が低下し、今回の三セク売却議案だけでなく、すべてが巻き戻されてしまうと思います。当然、大阪都構想も白紙になるでしょう。非常にもったいないことです。外資系ファンドへの恐怖が原因という人もいますが、より根本的には橋下氏や松井氏の力がなくなってしまったことだと私は思います。そして、そもそも外資系ファンドだからと言って敬遠すること自体、私には理解できません。外資系ファンドであっても法律には従うわけですから、何か法に抵触することがあれば訴えればいいだけです。外資系というだけで「黒船」を例に出して、恐怖心を煽る人がいますが、黒船にしても日本の開国のきっかけを作ってくれたのですから、感謝すべきです。戦後の財閥解体なども、より日本の財閥系企業を強くする結果になっていますから、私は良かったと思っています。外資というだけで盲目的に怖いと考えるのではなく、冷静に客観的に見るべきでしょう。大阪府政の根本的な問題は、橋下氏の政治的な力が衰えたことです。今回の件も、それが表面化した一例に過ぎないと思います。(2014年1月10日大前研一メール記事参照)

『2013年国内市場・日本の現状と問題点~問題解決力で日本の先を見通す』2013国内市場 日経平均株価6年ぶりに1万6000円台。外国人投資家 2013年の日本株買越額。自社株買い 2013年初から自社株買い。1人当たりGDP 日本の1人当たりGDP4万6537ドル。中小企業支援 個人保証制度改正で経営者以外も容認へ。▼ 年明けから、日本経済の勢いに対する潮目が変わりつつある。2013年末の日経平均株価は1万6291円と前年末から56.7%上昇しました。年間の上昇率は1972年(91.9%)以来、41年ぶりの上昇率。安倍首相は先月30日、東京証券取引所の大納会に出席し「来年もアベノミクスは買いだ」とあいさつしたそうです。昨年末の大納会の時点での日経平均株価を見ると、確かにある種の勢いを感じられたのですが、年が明けて少々様相が変わってきていると私は感じています。アベノミクスや金融緩和である程度の成果が見られた一方で、その後遺症があるのも事実です。実態を超えて株価が上がり続けることはありませんし、世界経済の動きから見ても風向きが変わりつつあると感じます。円安になっているのに実際の輸出量は増えていないですし、円安についても欧州では一部の企業から悲鳴が上がり始めていて、円に対する歯止めがかかり始めています。エコノミストや証券会社に言わせると、株価は2万円を突破するとか、円は130円を突破するとか、昨年の勢いのままに好き放題に言うと思いますが、私は年明けから「潮目」が変わり始めていると思っています。日本の株価を支えている1つの大きな要因と言われる外国人投資家による日本株売買についても、手放しで安心していられる状況ではないでしょう。東京証券取引所がまとめたところによると、2013年12月第3週の海外投資家の売買高は8803億円の買い越しでした。買い越しは8週連続で、買い越した金額はこれまでの過去最高を上回る約14兆円超を記録しているとのことですが、これもいつムードが一変するかわかりません。過去の外国人投資家の日本株売買状況を見ると、入っては出ての繰り返しであり、ぬかりなく便乗している姿勢が伺えます。もちろん長期的なスタンスで投資している場合も多いですが、ヘッジファンドなども確実に入り込んできています。新興国でも実際に起こっているように、こうした外国人投資家はムードが変われば、さっと手を引いていきます。現時点において外国人投資家による買い越しが大きいのは事実ですが、これから先はわかりません。先日、日本の1人あたりGDPが3年連続で過去最高になったと発表されましたが、こうしたニュースも、安倍首相は「見せ方」が上手なので、しっかりと事実を知ることが大切でしょう。発表された数字は2012年のGDPですが、これは為替実効レートが79円だったことが大きく影響しています。つまり、為替の影響を無視できません。もし他の条件を一切除外し、単純に2013年の為替レートで換算すれば、日本の1人あたりGDPはオーストラリアや米国を下回り、ニュージーランドやイタリア並みに落ち込む計算になります。▼ 金余り状態、モラルハザードに見る日本経済の問題点。金融情報会社のアイ・エヌ情報センターによると、2013年初からの自社株買いは合計約2兆1000億円。昨年1年間の実績を4割近く上回りました。一般に株高局面では進みにくいのに、2013年は企業業績の回復を追い風に取得額が膨らんだとの見解ですが、私は少し違う感想を持ちました。というのは、日本経済は「カネ余り」状態になっていて、企業は余った資金を持て余しているからです。日本企業の内部留保は総額で約230兆円と言われています。自社株買いが増えていると言われますが、投資先も見つけられず、行き先のない資金になっています。経営者は、資金を使うアイデアを出せずに困っているという状況です。そして銀行も同じくらいの金額の資金を持っていますが、貸出先がなく、持て余しています。それにも関わらず、日銀がさらにカネ余り状態を助長している状況です。積極的に自社株買いが進んでいるというよりも、このカネ余りという状況をしっかりと認識することが重要だと思います。先日、銀行などが中小企業へ融資する際の個人保証の制度改正を巡り、引き受け側の自発的な意思が確認できれば、経営者以外にも保証を認める方向となりました。今、日本の銀行はカネ余り状態ですから、とにかく「お金を借りてほしい」と思っています。ですから、貸出をするとなれば、金利をゼロでも貸し出します。ところが、そんな状況にあっても経営的に不安がある場合には、保証(担保)を取らなければ貸さない、ということです。本来、銀行は経営者や経営戦略から融資判断をすべきですが、結局、担保でしか判断しないのであれば、本来の機能を失っていると言わざるをえないでしょう。さらに今おかしい状況になっているのは、中小企業金融円滑化法が終了しているにも関わらず、金融庁の指導によって、本来の処理をしていないことです。本当なら「破綻懸念先」に分類し、引当金を計上しなければならないものでも、金融庁の許可を得て、「健全先」として分類したままにしています。あってはならないモラルハザードだと思います。亀井氏が推し進めた悪法(中小企業金融円滑化法)は、30万社を巻き込んだまま、未だに問題を先送りにしています。それでも、超カネ余り状態ゆえ誰も痛痒を感じていないのが恐ろしいと私は思っています。(2014年1月17日大前研一メール参照)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載1(1)

2014年01月15日 07時02分29秒 | 日記


 話を戻そう。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長は弟・信行を謀殺した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。「尾張のおおうつけ(阿呆)」と呼ばれて、奇行を続け、馬鹿扱いを受けていたバサラ者の織田信長も成長したものだ。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし、当の松平元康 (のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。


         元康の忠義


  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の秀吉はいった。のちの豊臣秀吉、秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」 
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
 人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべか」 舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。






         桶狭間の合戦

                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                      
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。まっこうから武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで短期間で天下をとれた訳だ。

   清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。
「御屋形様! おにぎりを!」
 まだうら若き娘であったおねが、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。おねはきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」おねは声をあらげた。
「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。
  ある夜、秀吉はおねの屋敷にいき、おねの父に「娘さんをわしに下され」といった。おねの父は困った。すると、おねが血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。
「ごもっとも!」
「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」
「……おね殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。
「黙れサル!」おねはいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」
「運命にござる! おね殿!」
 おねは仰天した「運命?」
「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。
  かくして、秀吉はおねと結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉はおねに目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目がおねの小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれはおねの肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。
  信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 永禄三(1560)年、のちの石田三成は生まれた。貧しい農家の生まれである。    
 幼名・左吉という。
 家が貧しく、近江の観音寺に預けられることが決まっていた。
 そして、そこで運命的な出会いをする。また黒田(まだ小寺姓)官兵衛も播磨で「臥竜(野に隠れ世に知られぬ大人物)」と呼ばれ、軍師として織田信長、そして秀吉と運命の出会いをすることになる。
 そう、あの秀吉とである……

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風と奇兵隊と高杉晋作と「高杉晋作の「明治維新」はいかにしてなったか。」ブログ連載小説5

2014年01月12日 07時52分09秒 | 日記
         5 禁門の変






  のちに『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。     
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長       
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。        
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。

 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」

 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひか         
れた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州藩奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。         
  浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
 小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」


  三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。
 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人どおしが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人どおしが争って駄目になってる。
 確かに、今までは戦国時代からは日本人どおしは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。
 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
 四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。
 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。
 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。




  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」         
「新選組の土方である。中を調べたい!」                      
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
  元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。     
 六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。
 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
 とにかく、近藤勇たちは決断した。

  池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。                         
「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)
 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
                                      とんそう 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、隊士をさらに増やすように資金まで送ってきたという。

「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。
「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。
 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。龍馬と晋作は馬が合った。共に開国や尊皇であり、高い志がふたりの若者を特別な存在にさせた。

  十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝海舟は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。
「なんてこった!」
 のちの勝海舟は嘆いた。


 渋沢は三菱の創始者・岩崎弥太郎と対立している。岩崎はひとりでどんどん事業を展開すべきだといい、渋沢は合本組織がいいという。
 渋沢は岩崎を憎まなかったが、友人の益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが猛烈に岩崎を批判するものだから、岩崎は反対派の大将が渋沢栄一だと思ってひどく憎んだという。 こうしてのちに明治十三年、仲直りもせず岩崎は五十二歳で死んだ。                            


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風と奇兵隊と高杉晋作と「高杉晋作の「明治維新」はいかにしてなったか。」ブログ連載小説2

2014年01月06日 02時41分39秒 | 日記
         2 吉田松陰と久坂玄瑞





伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 
  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。


 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると明倫館に入学した。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。    
 久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。  
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」      
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもっ    
て吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

                 
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。

  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
  晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

       
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。

  安政五年、晋作は十九歳になった。      
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。     
 高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。                   「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、               
おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
  幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

   坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。


晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
 晋作は反発した。
 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。

「萩軍艦教授所に入学を命ず」
 そういう藩命が晋作に下った。
 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
   へいしん     
 名を丙辰丸という。
 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
 松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
 松島は帆をかかげて、船を動かした。
 航海中、船は揺れに揺れた。
 晋作は船酔いで吐きつづけた。
 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
 晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
 ……俺は船乗りにもなれん。
 晋作の人生は暗澹たるものになった。
 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。           
 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
 ……疲れているからいい。
 と、晋作は断ったが、おきんは服を脱ぎ、丸裸となって晋作を誘惑する。
 晋作も男である。                 
 疲労困憊ながらも、”一物”だけはビンビンになっている。
「まぁ! どこがつかれてますの?」
 おきんは笑った。
 晋作はおきんを抱くことにした。
 愛の行為は今までにないほどすばらしいものになった。晋作の疲れがひどすぎて、丁寧にゆっくりやるしかなかったためか、それはわからない。
 ふたりは丸裸のままふとんにぐったりと横になった。
 ……また藩にもどらねば。
 晋作には快感に酔っている暇はなかった。

           
 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、     その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海  か ちめつけ                                   防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
 勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、       
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。

  勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しい   というが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が勝海舟に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。

  長州藩の「このひとあり」という男がいた。
 長井雅楽である。
 長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
 長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
 だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
 しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
 長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
 ……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
 と、長井は説く。
 江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
 といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
 しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのであ                        
る。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風と奇兵隊と高杉晋作と「高杉晋作の「明治維新」はいかにしてなったか。」ブログ連載小説1

2014年01月03日 07時38分35秒 | 日記
小説 風と奇兵隊と高杉晋作と



                たかすぎしんさく~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               高杉晋作の「明治維新」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、高杉晋作は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちは明鏡止水の心だった。             おわり
         1 立志





 長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。

 若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
 話しを前に戻す。
  天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
 父はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。
あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。

  渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
  歴史的敗北者だ、というのだ。だが、なら自分が慶喜の立場だったら?ああやる以外どうせよというのだ?官軍と幕府軍で全面内戦状態になれば「清国の二の舞」だったではないか。
 あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
 まあ、「結果」よければすべてよし、である。
 


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。


  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「イエス・サー」
「取り舵十五度!」
「イエス・サー」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、             
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、  
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚      
志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を       
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。     
 全身の発疹がおさまりかけていた。
  その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
       すいきょう    
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」      
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。    
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」             
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。              
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。

  長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする