越後の龍
景虎たち主従六人は、無事に栖吉城に着いた。が、案の定、城主・長尾景信に逗留を断られた。景虎たちを迎え入れれば、また越後に争いがおこる…というのが理由だった。 無理もない。それを景虎は理解した。で、
「おっしゃることごもっともと存ずる。すぐ立ち去るうえ、ご心配なく」
景虎はそう丁寧に凛然たる態度でいった。
城主・長尾景信や家臣の古志長尾家のみんなは、景虎の利発さに舌を巻いた。
「ついさきごろ元服されたといいながら、まだ幼少にあられるゆえ、さぞや我儘でもいうかと思いきや、なんとも物分かりのよい立派な態度……われら一同、心から感謝いたしまする」
と言って、八歳の甥・景虎にへりくだった後、長尾景信は新兵衛のほうを向いた。そして、まだ幼少の主君をここまで立派に育て上げたこと、を褒めたたえた。
新兵衛は、「ありがたきお言葉にございます」と頭を下げた。ぞくぞくするほど嬉しかった。一族の雄に貫禄を示せない者が、一族の主になれる訳がない。若殿さまにはそれがある。若殿さまは「越後の龍」になるに違いない!
「金津新兵衛とやら」
「ははっ」
「先程申した通り、いま景虎殿をお迎えいたすと、とんでもないことになるやも知れぬ。だが、時がくれば……」長尾景信は言葉を濁した。そして続けて言った。「ひとまず栃尾にまいれ。紹介状を書こう。そこで時を待つのじゃ」
「ははっ」
栃尾城も古志長尾家のものだが、いまは本庄実仍という城代にあずけてある。彼は、岩船小泉本庄家のものだが、古志長尾家への忠誠は疑いもない。…そこなら安心だ。
「では、手紙を書くまで」
長尾景信はそういって、景虎ら六人を城内に入れた。すると、座敷には当の本庄実仍がいた。それで景虎は「なんだこれなら手紙など不要ではないか」と思った。
それからすぐに、俺に城の鉄壁さを見せて、思わず本音を口外するように手を打っておいたのだな、と気付いた。
栃尾城は春日山城より小粒だが、展望がよく、天守閣からの眺めは最高だった。
「……いい眺めだ」
景虎は言った。
「若殿……ここでさらに徳を積んでもらいます。まず、剣も大事ですが、まずは「頭」から鍛えましょう」金津新兵衛はほわっとした笑顔のまま言った。それにたいして、
「あぁ」
景虎(のちの謙信)はそう頷くのだった。
こうして天文六年から七年間、景虎(のちの謙信)は武術や学問の鍛練に勤しんだ。年齢でいえば、八歳から十四歳までの果敢にして大切な時期である。また、越後国の歴史や勢力などにも力を入れて勉強した。あらゆる経験者、体験者を呼んで話をきいた。だが、つまらぬおべんちゃらや妄言には怒りをあらわにし、
「もうよい、下がれ!」
と怒鳴り散らしたという。それでも帰らぬ者には太刀を抜く動作をして「帰らねば…斬り殺すぞ!」とさえ言ったという。
しかし、耄碌気味の老人が記憶をたよりに一生懸命思い出そうと話すのには優しく耳を傾け、ごちそうを与え、帰りぎわに金まで与えたという。
このようにして、景虎(のちの謙信)は自分の才を磨いた。
「景虎様は御寝されたか?」
金津新兵衛が、寝室の外の見張り役・千代松に囁くようにきいた。
「しっ!」
千代松は今宵が宿直だから、槍をかまえて襖ぎわに控えている。
「まだ読んでおられます。そろそろぽつぽつとお泣きになられるかと思います」
「よし、わかった。しっかり見張ってられよ」
新兵衛はそろそろと足音をたてぬように遠ざかって、どこかへ姿を消した。千代松は眠気ざましに茶を袋から取りだして、口にふくみ、飲んだ。
そろそろ泣き声がきこえてきた。……「九郎判官が衣川で腹を召されるところだな」千代丸の勘は当っていた。部屋の中では、景虎が『義経記』を読みながら目を真っ赤にして く ろうはんがん みなもとのよしつね
泣いていた。(九郎判官とは源義経のことだ)
景虎は、源 義経の大ファンで、物心がついた頃からの崇拝者だった。
……景虎がこのようにして夜中に読書に耽り、ひとり泣くのを知るのは、主従六人以外では、くノ一(女忍者)の千代だけだった。
千代は雇主の若狭屋にあやまった情報を流してしまったことに、後悔していた。…景虎が泣いているのは、母恋し…のような心境かひとり寝がさびしくて泣いているのだと思っていた。しかし、それは間違いで、彼は、『義経記』の九郎判官が衣川で腹を召されるところの話が哀れで泣いているのだった。それを知った時、千代は、彼(景虎)と性交して結ばれたいと強く思った。
千代は女忍者で、若狭屋に雇われていた。もう三十近い年増だったが、鼻スジもよく目がぱっちりとした美人で、少女のようにも見えた。
彼女は、景虎に惚れてしまったのだ。
しかし、仲間の男忍者は「お前にたらしこまれたら、あの若者は「色ボケ」になって才能を枯らしてしまう」とひやかすだけだった。
「あら、そうじゃないわ。若君はわれと結ばれれば、さらに男を磨くはずよ」
千代はにこにこと言った。
彼女は今、少年に化けて景虎ら主従六人の馬に餌をやったり、からだを洗ってやったりしているから千代松らの会話を盗みきいておおよそのことは把握していた。
「あの若者は、きっといつか天下を獲るやも知れない」
千代は、わくわくとしたまま思った。
空の高い季節だった。
秋の変わりやすい天気で、空のブルーには薄い雲がふわふわと浮いていた。うっすらうらうらとした雲の隙間から、時折、きらきらとした陽射しが照りつけ、辺りが輝いて見えた。陽射しがまぶしいほどで、河辺に反射して、ハレーションをおこしていた。
「いやぁ、いい天気だ」
景虎はひとりで森の散策をしていた。
これは、彼の早朝の日課だった。…森をいき、自然と戯れる。自然と同化する。それが精神を安定させ、活力に繋がる。すべて、自分のためだ。
しかし、その日はいつもと違っていた。
「あっ」
景虎は言葉をのんでしまった。いつのまにか、可愛らしい少女が目の前にいたからだ。彼女は「薪拾い」をしているようだった。彼女こそ、景虎の「幼い日の忘れえぬ恋人」になる美代だった。彼女はまばゆいばかりの美少女だった。
美代の顔は小さくて、全身もきゅっと小さくて肌は雪のように白く、全身がきゅっとしまっているが胸は大きく、目が大きくて睫がびっしりと生えている。彼女はまるで彌勒ようだった。「……可愛い。まるで人形のようだ」景虎はドキドキとした。
しかし彼には不思議だった。なぜ、この女子を見ただけで胸が苦しくなるのだろう?胸が締め付けられるかのようだ。喉も乾く。体が火照ってくるようだ。
景虎は「恋」したことがなかったために、その気持ちが理解できなかった。
「………こんにちは」
美代がにこりと微笑む。と、彼はますます真っ赤になった。
しかし、景虎は心臓が二回打ってから、
「……お、お主の名は?」
と、きいた。
「美代です。………あなたは?」
「景虎、長尾景虎」
「あら」美代はびっくりして平伏し、「これはこれは若殿様でしたか、申し訳ございません。ご無礼お許し下さい」と言った。
「よいのだ。それより……」
「はい」
「それより、美代殿、明日もここで会おう…明日だけではなく明後日も明々後日も…」
景虎は照れながら言った。美代も照れて、それからふたりは笑顔を交わした。それは魅力的な笑顔だった。
こうして、ふたりは誰にも知られずに早朝のデートを重ねることになる。時には、彼らは口吸い(キス)を交わすこともあったろうか?それは誰にもわからない。とにかくふたりは誰にも知られずに恋人として付き合うようになっていった。
しかし、そんなふたりの蜜月もすぐに終りを告げた。
美代がひとりで森を歩いていると、急に不良を絵に描いたようなチンピラが向うからやってきた。彼女は「いやだな」と感じた。男達はほんとうになイヤらしくゲヘヘと笑った。まさに性欲剥きだし、だった。まさに汚い格好をした「不良」だった。
彼女は逃げようとして、駆け出した。が、すぐに行く手を遮られてしまった。
「おい、……気持ちいいことしようぜ」
「きゃああぁ…っ!」
チンピラたちは彼女を押し倒し、のしかかってきた。美代は必死に抵抗したが、無駄だった。すぐに服をびりびりと破られ、乱暴に扱われ、石に頭をぶつけて気を失ってしまった。男達は腰をつかうためにフンドシを外そうともがいた。はぁはあはあ…。息が荒い。「……げへへ。けっこういい胸してんぜ」
「はやく、俺にも揉ませろ!」
「俺は下がいい!」
チンピラたちは彼女を「物」のように扱い、性欲を満たそうともがいた。
そんな時、
「やめろーっ!」と声がした。それは、悲鳴に気付いて駆けてきた景虎だった。
彼は怒りの声のまま駆け付け、すぐさま男達を刀でと斬りつけた。
「ぐあうぁぁあ!」
「ぎゃあぁ」
男たちはやがて断末魔の悲鳴をあげて、ドサッと地面に転がって息絶えた。しかし、そのようなクズどもなどどうでもよかった。「美代殿!」景虎はすぐに彼女の元へ近付き、起こそうとした。しかし、彼女は打ちどころが悪かったのか、頭から血をどっと流して、すでに死んでいた。もう、息がなかった。もう、表情を変えることもなかった。
「美代殿! 美代殿っ!」
景虎は涙ながらに言った。胸が苦しく、悲しかった。瞳に冷たい涙があふれ、何度も頬を伝わって地面にぽたぽたと落ちた。信じられなかった。…昨日まで、あんなに楽しく語りあっていたのに……。
「美代殿っ!」景虎は涙ながらに叫んだ。
しかし、彼女はもう二度と彼に微笑みを返すことはなかった。
美代の葬儀には、身分を隠した景虎もいた。当時の葬儀は「土葬」である。景虎の目を涙が刺激したが、彼はまばたきしてなんとか堪えた。そして、
「一生、お前だけを愛する……」
景虎は、美代の遺体に、そう誓った。
悲しみを乗り越えた景虎は、また一段と成長した。
景虎たち六主従の乗る馬六騎は春日山より高い栃尾山を駆け上がり、やがて目的地に着いた。そこからは佐渡島が一望できた。
「佐渡島が大きく見える」景虎がしみじみと言った。それはとても微かな心症が混じっていた。……美代殿……。彼は一瞬、風に飛ばされそうな瞳になった。だが、それも一瞬で、家臣たちに気付かれるほどではなかった。
「そうでしょう」新兵衛がにこりと頷いた。
「昔、父上が佐渡島に渡ったのは……」
「今から三十年ほど前ときいてまする。船出されましたのは越中の浜でしたが、お戻りは浦原津(新潟市)だったときいております。それからこの寺泊を越え、椎谷にて高梨政盛の手勢と合流されたと」
「そうか」
景虎は頷いた。
景虎が生まれる二十年ほど前、彼の亡父・長尾為景はあわや関東管領・上杉顕定に討ち取られそうになって佐渡島に逃げた。が、やがて形成逆転、上杉顕定を討ち取ったのである。そもそもそ上杉顕定が為景を殺そうとしたのは、実の弟で越後守護の上杉房能を守護代の為景に殺されたからだった。つまり、守護の代官でしかない男が、守護の上杉家や関東管領を虐殺した訳だ。いかに下剋上の時代とはいえ、為景の悪評は広まった。…無理もない。
景虎はその話をきくのが辛かった。
しかし、今は亡父・長尾為景の気持ちもわかる。
景虎は十六歳になっていた。しかし、彼には心休まる時はなかった。恋人の死に悩み、暗殺の影に怯え、亡父の残した地位や権力を奪取して維持しなくてはならない。ただし、馬術、弓術などと大酒を楽しむときには心が安らいだ。ぐっすり眠り、美代のことを忘れ、鬱病から逃れるために酒をしこたま呑むようになっていた。
しかも、酒がまわると強気で豪気になるため、居候の直臣ばかりでなく誰かれとなく取り立てるものだから、家来はすぐに六騎、七騎と増えていった。
”景虎が挙兵するやもしれない”
そのような噂もしだいに広がっていった。
面白くないのは兄の晴景と妹(景虎の姉で、景勝の母)で、「小童(こわっぱ)のくせに生意気な」と思っていた。とくに晴景の妹(景虎の姉で、景勝の母)が輿入れしたばかりの上田(六日町)長尾家では、晴景以後の守護代を自分の家系で……と思っていたのに、まったく視野にいれてもいなかった景虎がしゃしゃり出てきたのだから、面白くなかった。 さて、景虎には兄の晴景と姉だけでなく、五つ年上の兄もいたことになっている。これは資料に信憑性があるかどうか不明だが、その兄が黒田秀忠なる人物に殺されたという。……本当に景虎の兄だったかはさだかではないが、殺された。
天文十一年、謀反の旗を翻して春日山城に乱入した黒田秀忠に殺されたのだ。
その訃報が届いた時、景虎は兄・晴景が自分の弟をむざむざ黒田秀忠に殺させたことに怒り心頭だったが、「栃尾の居候(景虎)も殺してしまおう」と近隣の小豪族たちに黒田秀忠がいっているのを知って、「謀反者を成敗さねば!」と思った。
「黒田秀忠討つべし!」
景虎は叫んだ。そして、本庄実仍に、「兄も挙兵するだろうか?」と尋ねた。
「はっ、多分……いや必ず」
「そうか」
景虎は頷いた。
以下は過去ブログ連載小説で。
景虎たち主従六人は、無事に栖吉城に着いた。が、案の定、城主・長尾景信に逗留を断られた。景虎たちを迎え入れれば、また越後に争いがおこる…というのが理由だった。 無理もない。それを景虎は理解した。で、
「おっしゃることごもっともと存ずる。すぐ立ち去るうえ、ご心配なく」
景虎はそう丁寧に凛然たる態度でいった。
城主・長尾景信や家臣の古志長尾家のみんなは、景虎の利発さに舌を巻いた。
「ついさきごろ元服されたといいながら、まだ幼少にあられるゆえ、さぞや我儘でもいうかと思いきや、なんとも物分かりのよい立派な態度……われら一同、心から感謝いたしまする」
と言って、八歳の甥・景虎にへりくだった後、長尾景信は新兵衛のほうを向いた。そして、まだ幼少の主君をここまで立派に育て上げたこと、を褒めたたえた。
新兵衛は、「ありがたきお言葉にございます」と頭を下げた。ぞくぞくするほど嬉しかった。一族の雄に貫禄を示せない者が、一族の主になれる訳がない。若殿さまにはそれがある。若殿さまは「越後の龍」になるに違いない!
「金津新兵衛とやら」
「ははっ」
「先程申した通り、いま景虎殿をお迎えいたすと、とんでもないことになるやも知れぬ。だが、時がくれば……」長尾景信は言葉を濁した。そして続けて言った。「ひとまず栃尾にまいれ。紹介状を書こう。そこで時を待つのじゃ」
「ははっ」
栃尾城も古志長尾家のものだが、いまは本庄実仍という城代にあずけてある。彼は、岩船小泉本庄家のものだが、古志長尾家への忠誠は疑いもない。…そこなら安心だ。
「では、手紙を書くまで」
長尾景信はそういって、景虎ら六人を城内に入れた。すると、座敷には当の本庄実仍がいた。それで景虎は「なんだこれなら手紙など不要ではないか」と思った。
それからすぐに、俺に城の鉄壁さを見せて、思わず本音を口外するように手を打っておいたのだな、と気付いた。
栃尾城は春日山城より小粒だが、展望がよく、天守閣からの眺めは最高だった。
「……いい眺めだ」
景虎は言った。
「若殿……ここでさらに徳を積んでもらいます。まず、剣も大事ですが、まずは「頭」から鍛えましょう」金津新兵衛はほわっとした笑顔のまま言った。それにたいして、
「あぁ」
景虎(のちの謙信)はそう頷くのだった。
こうして天文六年から七年間、景虎(のちの謙信)は武術や学問の鍛練に勤しんだ。年齢でいえば、八歳から十四歳までの果敢にして大切な時期である。また、越後国の歴史や勢力などにも力を入れて勉強した。あらゆる経験者、体験者を呼んで話をきいた。だが、つまらぬおべんちゃらや妄言には怒りをあらわにし、
「もうよい、下がれ!」
と怒鳴り散らしたという。それでも帰らぬ者には太刀を抜く動作をして「帰らねば…斬り殺すぞ!」とさえ言ったという。
しかし、耄碌気味の老人が記憶をたよりに一生懸命思い出そうと話すのには優しく耳を傾け、ごちそうを与え、帰りぎわに金まで与えたという。
このようにして、景虎(のちの謙信)は自分の才を磨いた。
「景虎様は御寝されたか?」
金津新兵衛が、寝室の外の見張り役・千代松に囁くようにきいた。
「しっ!」
千代松は今宵が宿直だから、槍をかまえて襖ぎわに控えている。
「まだ読んでおられます。そろそろぽつぽつとお泣きになられるかと思います」
「よし、わかった。しっかり見張ってられよ」
新兵衛はそろそろと足音をたてぬように遠ざかって、どこかへ姿を消した。千代松は眠気ざましに茶を袋から取りだして、口にふくみ、飲んだ。
そろそろ泣き声がきこえてきた。……「九郎判官が衣川で腹を召されるところだな」千代丸の勘は当っていた。部屋の中では、景虎が『義経記』を読みながら目を真っ赤にして く ろうはんがん みなもとのよしつね
泣いていた。(九郎判官とは源義経のことだ)
景虎は、源 義経の大ファンで、物心がついた頃からの崇拝者だった。
……景虎がこのようにして夜中に読書に耽り、ひとり泣くのを知るのは、主従六人以外では、くノ一(女忍者)の千代だけだった。
千代は雇主の若狭屋にあやまった情報を流してしまったことに、後悔していた。…景虎が泣いているのは、母恋し…のような心境かひとり寝がさびしくて泣いているのだと思っていた。しかし、それは間違いで、彼は、『義経記』の九郎判官が衣川で腹を召されるところの話が哀れで泣いているのだった。それを知った時、千代は、彼(景虎)と性交して結ばれたいと強く思った。
千代は女忍者で、若狭屋に雇われていた。もう三十近い年増だったが、鼻スジもよく目がぱっちりとした美人で、少女のようにも見えた。
彼女は、景虎に惚れてしまったのだ。
しかし、仲間の男忍者は「お前にたらしこまれたら、あの若者は「色ボケ」になって才能を枯らしてしまう」とひやかすだけだった。
「あら、そうじゃないわ。若君はわれと結ばれれば、さらに男を磨くはずよ」
千代はにこにこと言った。
彼女は今、少年に化けて景虎ら主従六人の馬に餌をやったり、からだを洗ってやったりしているから千代松らの会話を盗みきいておおよそのことは把握していた。
「あの若者は、きっといつか天下を獲るやも知れない」
千代は、わくわくとしたまま思った。
空の高い季節だった。
秋の変わりやすい天気で、空のブルーには薄い雲がふわふわと浮いていた。うっすらうらうらとした雲の隙間から、時折、きらきらとした陽射しが照りつけ、辺りが輝いて見えた。陽射しがまぶしいほどで、河辺に反射して、ハレーションをおこしていた。
「いやぁ、いい天気だ」
景虎はひとりで森の散策をしていた。
これは、彼の早朝の日課だった。…森をいき、自然と戯れる。自然と同化する。それが精神を安定させ、活力に繋がる。すべて、自分のためだ。
しかし、その日はいつもと違っていた。
「あっ」
景虎は言葉をのんでしまった。いつのまにか、可愛らしい少女が目の前にいたからだ。彼女は「薪拾い」をしているようだった。彼女こそ、景虎の「幼い日の忘れえぬ恋人」になる美代だった。彼女はまばゆいばかりの美少女だった。
美代の顔は小さくて、全身もきゅっと小さくて肌は雪のように白く、全身がきゅっとしまっているが胸は大きく、目が大きくて睫がびっしりと生えている。彼女はまるで彌勒ようだった。「……可愛い。まるで人形のようだ」景虎はドキドキとした。
しかし彼には不思議だった。なぜ、この女子を見ただけで胸が苦しくなるのだろう?胸が締め付けられるかのようだ。喉も乾く。体が火照ってくるようだ。
景虎は「恋」したことがなかったために、その気持ちが理解できなかった。
「………こんにちは」
美代がにこりと微笑む。と、彼はますます真っ赤になった。
しかし、景虎は心臓が二回打ってから、
「……お、お主の名は?」
と、きいた。
「美代です。………あなたは?」
「景虎、長尾景虎」
「あら」美代はびっくりして平伏し、「これはこれは若殿様でしたか、申し訳ございません。ご無礼お許し下さい」と言った。
「よいのだ。それより……」
「はい」
「それより、美代殿、明日もここで会おう…明日だけではなく明後日も明々後日も…」
景虎は照れながら言った。美代も照れて、それからふたりは笑顔を交わした。それは魅力的な笑顔だった。
こうして、ふたりは誰にも知られずに早朝のデートを重ねることになる。時には、彼らは口吸い(キス)を交わすこともあったろうか?それは誰にもわからない。とにかくふたりは誰にも知られずに恋人として付き合うようになっていった。
しかし、そんなふたりの蜜月もすぐに終りを告げた。
美代がひとりで森を歩いていると、急に不良を絵に描いたようなチンピラが向うからやってきた。彼女は「いやだな」と感じた。男達はほんとうになイヤらしくゲヘヘと笑った。まさに性欲剥きだし、だった。まさに汚い格好をした「不良」だった。
彼女は逃げようとして、駆け出した。が、すぐに行く手を遮られてしまった。
「おい、……気持ちいいことしようぜ」
「きゃああぁ…っ!」
チンピラたちは彼女を押し倒し、のしかかってきた。美代は必死に抵抗したが、無駄だった。すぐに服をびりびりと破られ、乱暴に扱われ、石に頭をぶつけて気を失ってしまった。男達は腰をつかうためにフンドシを外そうともがいた。はぁはあはあ…。息が荒い。「……げへへ。けっこういい胸してんぜ」
「はやく、俺にも揉ませろ!」
「俺は下がいい!」
チンピラたちは彼女を「物」のように扱い、性欲を満たそうともがいた。
そんな時、
「やめろーっ!」と声がした。それは、悲鳴に気付いて駆けてきた景虎だった。
彼は怒りの声のまま駆け付け、すぐさま男達を刀でと斬りつけた。
「ぐあうぁぁあ!」
「ぎゃあぁ」
男たちはやがて断末魔の悲鳴をあげて、ドサッと地面に転がって息絶えた。しかし、そのようなクズどもなどどうでもよかった。「美代殿!」景虎はすぐに彼女の元へ近付き、起こそうとした。しかし、彼女は打ちどころが悪かったのか、頭から血をどっと流して、すでに死んでいた。もう、息がなかった。もう、表情を変えることもなかった。
「美代殿! 美代殿っ!」
景虎は涙ながらに言った。胸が苦しく、悲しかった。瞳に冷たい涙があふれ、何度も頬を伝わって地面にぽたぽたと落ちた。信じられなかった。…昨日まで、あんなに楽しく語りあっていたのに……。
「美代殿っ!」景虎は涙ながらに叫んだ。
しかし、彼女はもう二度と彼に微笑みを返すことはなかった。
美代の葬儀には、身分を隠した景虎もいた。当時の葬儀は「土葬」である。景虎の目を涙が刺激したが、彼はまばたきしてなんとか堪えた。そして、
「一生、お前だけを愛する……」
景虎は、美代の遺体に、そう誓った。
悲しみを乗り越えた景虎は、また一段と成長した。
景虎たち六主従の乗る馬六騎は春日山より高い栃尾山を駆け上がり、やがて目的地に着いた。そこからは佐渡島が一望できた。
「佐渡島が大きく見える」景虎がしみじみと言った。それはとても微かな心症が混じっていた。……美代殿……。彼は一瞬、風に飛ばされそうな瞳になった。だが、それも一瞬で、家臣たちに気付かれるほどではなかった。
「そうでしょう」新兵衛がにこりと頷いた。
「昔、父上が佐渡島に渡ったのは……」
「今から三十年ほど前ときいてまする。船出されましたのは越中の浜でしたが、お戻りは浦原津(新潟市)だったときいております。それからこの寺泊を越え、椎谷にて高梨政盛の手勢と合流されたと」
「そうか」
景虎は頷いた。
景虎が生まれる二十年ほど前、彼の亡父・長尾為景はあわや関東管領・上杉顕定に討ち取られそうになって佐渡島に逃げた。が、やがて形成逆転、上杉顕定を討ち取ったのである。そもそもそ上杉顕定が為景を殺そうとしたのは、実の弟で越後守護の上杉房能を守護代の為景に殺されたからだった。つまり、守護の代官でしかない男が、守護の上杉家や関東管領を虐殺した訳だ。いかに下剋上の時代とはいえ、為景の悪評は広まった。…無理もない。
景虎はその話をきくのが辛かった。
しかし、今は亡父・長尾為景の気持ちもわかる。
景虎は十六歳になっていた。しかし、彼には心休まる時はなかった。恋人の死に悩み、暗殺の影に怯え、亡父の残した地位や権力を奪取して維持しなくてはならない。ただし、馬術、弓術などと大酒を楽しむときには心が安らいだ。ぐっすり眠り、美代のことを忘れ、鬱病から逃れるために酒をしこたま呑むようになっていた。
しかも、酒がまわると強気で豪気になるため、居候の直臣ばかりでなく誰かれとなく取り立てるものだから、家来はすぐに六騎、七騎と増えていった。
”景虎が挙兵するやもしれない”
そのような噂もしだいに広がっていった。
面白くないのは兄の晴景と妹(景虎の姉で、景勝の母)で、「小童(こわっぱ)のくせに生意気な」と思っていた。とくに晴景の妹(景虎の姉で、景勝の母)が輿入れしたばかりの上田(六日町)長尾家では、晴景以後の守護代を自分の家系で……と思っていたのに、まったく視野にいれてもいなかった景虎がしゃしゃり出てきたのだから、面白くなかった。 さて、景虎には兄の晴景と姉だけでなく、五つ年上の兄もいたことになっている。これは資料に信憑性があるかどうか不明だが、その兄が黒田秀忠なる人物に殺されたという。……本当に景虎の兄だったかはさだかではないが、殺された。
天文十一年、謀反の旗を翻して春日山城に乱入した黒田秀忠に殺されたのだ。
その訃報が届いた時、景虎は兄・晴景が自分の弟をむざむざ黒田秀忠に殺させたことに怒り心頭だったが、「栃尾の居候(景虎)も殺してしまおう」と近隣の小豪族たちに黒田秀忠がいっているのを知って、「謀反者を成敗さねば!」と思った。
「黒田秀忠討つべし!」
景虎は叫んだ。そして、本庄実仍に、「兄も挙兵するだろうか?」と尋ねた。
「はっ、多分……いや必ず」
「そうか」
景虎は頷いた。
以下は過去ブログ連載小説で。