長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

不犯の名将・上杉謙信「天と地と」ブログ連載小説2

2011年04月22日 13時34分20秒 | 日記
         越後の龍



景虎たち主従六人は、無事に栖吉城に着いた。が、案の定、城主・長尾景信に逗留を断られた。景虎たちを迎え入れれば、また越後に争いがおこる…というのが理由だった。 無理もない。それを景虎は理解した。で、
「おっしゃることごもっともと存ずる。すぐ立ち去るうえ、ご心配なく」
 景虎はそう丁寧に凛然たる態度でいった。                  
 城主・長尾景信や家臣の古志長尾家のみんなは、景虎の利発さに舌を巻いた。
「ついさきごろ元服されたといいながら、まだ幼少にあられるゆえ、さぞや我儘でもいうかと思いきや、なんとも物分かりのよい立派な態度……われら一同、心から感謝いたしまする」
 と言って、八歳の甥・景虎にへりくだった後、長尾景信は新兵衛のほうを向いた。そして、まだ幼少の主君をここまで立派に育て上げたこと、を褒めたたえた。
 新兵衛は、「ありがたきお言葉にございます」と頭を下げた。ぞくぞくするほど嬉しかった。一族の雄に貫禄を示せない者が、一族の主になれる訳がない。若殿さまにはそれがある。若殿さまは「越後の龍」になるに違いない!
「金津新兵衛とやら」
「ははっ」
「先程申した通り、いま景虎殿をお迎えいたすと、とんでもないことになるやも知れぬ。だが、時がくれば……」長尾景信は言葉を濁した。そして続けて言った。「ひとまず栃尾にまいれ。紹介状を書こう。そこで時を待つのじゃ」
「ははっ」
栃尾城も古志長尾家のものだが、いまは本庄実仍という城代にあずけてある。彼は、岩船小泉本庄家のものだが、古志長尾家への忠誠は疑いもない。…そこなら安心だ。
「では、手紙を書くまで」
 長尾景信はそういって、景虎ら六人を城内に入れた。すると、座敷には当の本庄実仍がいた。それで景虎は「なんだこれなら手紙など不要ではないか」と思った。
 それからすぐに、俺に城の鉄壁さを見せて、思わず本音を口外するように手を打っておいたのだな、と気付いた。
  栃尾城は春日山城より小粒だが、展望がよく、天守閣からの眺めは最高だった。
「……いい眺めだ」
 景虎は言った。
「若殿……ここでさらに徳を積んでもらいます。まず、剣も大事ですが、まずは「頭」から鍛えましょう」金津新兵衛はほわっとした笑顔のまま言った。それにたいして、
「あぁ」
 景虎(のちの謙信)はそう頷くのだった。
 こうして天文六年から七年間、景虎(のちの謙信)は武術や学問の鍛練に勤しんだ。年齢でいえば、八歳から十四歳までの果敢にして大切な時期である。また、越後国の歴史や勢力などにも力を入れて勉強した。あらゆる経験者、体験者を呼んで話をきいた。だが、つまらぬおべんちゃらや妄言には怒りをあらわにし、
「もうよい、下がれ!」
と怒鳴り散らしたという。それでも帰らぬ者には太刀を抜く動作をして「帰らねば…斬り殺すぞ!」とさえ言ったという。
しかし、耄碌気味の老人が記憶をたよりに一生懸命思い出そうと話すのには優しく耳を傾け、ごちそうを与え、帰りぎわに金まで与えたという。
 このようにして、景虎(のちの謙信)は自分の才を磨いた。

     
「景虎様は御寝されたか?」
 金津新兵衛が、寝室の外の見張り役・千代松に囁くようにきいた。
「しっ!」
 千代松は今宵が宿直だから、槍をかまえて襖ぎわに控えている。
「まだ読んでおられます。そろそろぽつぽつとお泣きになられるかと思います」
「よし、わかった。しっかり見張ってられよ」
 新兵衛はそろそろと足音をたてぬように遠ざかって、どこかへ姿を消した。千代松は眠気ざましに茶を袋から取りだして、口にふくみ、飲んだ。
 そろそろ泣き声がきこえてきた。……「九郎判官が衣川で腹を召されるところだな」千代丸の勘は当っていた。部屋の中では、景虎が『義経記』を読みながら目を真っ赤にして       く ろうはんがん  みなもとのよしつね    
泣いていた。(九郎判官とは源義経のことだ)                   
 景虎は、源 義経の大ファンで、物心がついた頃からの崇拝者だった。
……景虎がこのようにして夜中に読書に耽り、ひとり泣くのを知るのは、主従六人以外では、くノ一(女忍者)の千代だけだった。
千代は雇主の若狭屋にあやまった情報を流してしまったことに、後悔していた。…景虎が泣いているのは、母恋し…のような心境かひとり寝がさびしくて泣いているのだと思っていた。しかし、それは間違いで、彼は、『義経記』の九郎判官が衣川で腹を召されるところの話が哀れで泣いているのだった。それを知った時、千代は、彼(景虎)と性交して結ばれたいと強く思った。
 千代は女忍者で、若狭屋に雇われていた。もう三十近い年増だったが、鼻スジもよく目がぱっちりとした美人で、少女のようにも見えた。
 彼女は、景虎に惚れてしまったのだ。
 しかし、仲間の男忍者は「お前にたらしこまれたら、あの若者は「色ボケ」になって才能を枯らしてしまう」とひやかすだけだった。
「あら、そうじゃないわ。若君はわれと結ばれれば、さらに男を磨くはずよ」
 千代はにこにこと言った。
 彼女は今、少年に化けて景虎ら主従六人の馬に餌をやったり、からだを洗ってやったりしているから千代松らの会話を盗みきいておおよそのことは把握していた。
「あの若者は、きっといつか天下を獲るやも知れない」
 千代は、わくわくとしたまま思った。


  空の高い季節だった。
 秋の変わりやすい天気で、空のブルーには薄い雲がふわふわと浮いていた。うっすらうらうらとした雲の隙間から、時折、きらきらとした陽射しが照りつけ、辺りが輝いて見えた。陽射しがまぶしいほどで、河辺に反射して、ハレーションをおこしていた。
「いやぁ、いい天気だ」
 景虎はひとりで森の散策をしていた。
 これは、彼の早朝の日課だった。…森をいき、自然と戯れる。自然と同化する。それが精神を安定させ、活力に繋がる。すべて、自分のためだ。
 しかし、その日はいつもと違っていた。
「あっ」
 景虎は言葉をのんでしまった。いつのまにか、可愛らしい少女が目の前にいたからだ。彼女は「薪拾い」をしているようだった。彼女こそ、景虎の「幼い日の忘れえぬ恋人」になる美代だった。彼女はまばゆいばかりの美少女だった。
 美代の顔は小さくて、全身もきゅっと小さくて肌は雪のように白く、全身がきゅっとしまっているが胸は大きく、目が大きくて睫がびっしりと生えている。彼女はまるで彌勒ようだった。「……可愛い。まるで人形のようだ」景虎はドキドキとした。
 しかし彼には不思議だった。なぜ、この女子を見ただけで胸が苦しくなるのだろう?胸が締め付けられるかのようだ。喉も乾く。体が火照ってくるようだ。
 景虎は「恋」したことがなかったために、その気持ちが理解できなかった。
「………こんにちは」
 美代がにこりと微笑む。と、彼はますます真っ赤になった。
 しかし、景虎は心臓が二回打ってから、
「……お、お主の名は?」
 と、きいた。
「美代です。………あなたは?」
「景虎、長尾景虎」
「あら」美代はびっくりして平伏し、「これはこれは若殿様でしたか、申し訳ございません。ご無礼お許し下さい」と言った。
「よいのだ。それより……」
「はい」
「それより、美代殿、明日もここで会おう…明日だけではなく明後日も明々後日も…」
 景虎は照れながら言った。美代も照れて、それからふたりは笑顔を交わした。それは魅力的な笑顔だった。
 こうして、ふたりは誰にも知られずに早朝のデートを重ねることになる。時には、彼らは口吸い(キス)を交わすこともあったろうか?それは誰にもわからない。とにかくふたりは誰にも知られずに恋人として付き合うようになっていった。
 しかし、そんなふたりの蜜月もすぐに終りを告げた。
 美代がひとりで森を歩いていると、急に不良を絵に描いたようなチンピラが向うからやってきた。彼女は「いやだな」と感じた。男達はほんとうになイヤらしくゲヘヘと笑った。まさに性欲剥きだし、だった。まさに汚い格好をした「不良」だった。
 彼女は逃げようとして、駆け出した。が、すぐに行く手を遮られてしまった。
「おい、……気持ちいいことしようぜ」
「きゃああぁ…っ!」
 チンピラたちは彼女を押し倒し、のしかかってきた。美代は必死に抵抗したが、無駄だった。すぐに服をびりびりと破られ、乱暴に扱われ、石に頭をぶつけて気を失ってしまった。男達は腰をつかうためにフンドシを外そうともがいた。はぁはあはあ…。息が荒い。「……げへへ。けっこういい胸してんぜ」
「はやく、俺にも揉ませろ!」
「俺は下がいい!」
 チンピラたちは彼女を「物」のように扱い、性欲を満たそうともがいた。
 そんな時、
「やめろーっ!」と声がした。それは、悲鳴に気付いて駆けてきた景虎だった。
 彼は怒りの声のまま駆け付け、すぐさま男達を刀でと斬りつけた。
「ぐあうぁぁあ!」
「ぎゃあぁ」
 男たちはやがて断末魔の悲鳴をあげて、ドサッと地面に転がって息絶えた。しかし、そのようなクズどもなどどうでもよかった。「美代殿!」景虎はすぐに彼女の元へ近付き、起こそうとした。しかし、彼女は打ちどころが悪かったのか、頭から血をどっと流して、すでに死んでいた。もう、息がなかった。もう、表情を変えることもなかった。
「美代殿! 美代殿っ!」
 景虎は涙ながらに言った。胸が苦しく、悲しかった。瞳に冷たい涙があふれ、何度も頬を伝わって地面にぽたぽたと落ちた。信じられなかった。…昨日まで、あんなに楽しく語りあっていたのに……。
「美代殿っ!」景虎は涙ながらに叫んだ。
 しかし、彼女はもう二度と彼に微笑みを返すことはなかった。
  美代の葬儀には、身分を隠した景虎もいた。当時の葬儀は「土葬」である。景虎の目を涙が刺激したが、彼はまばたきしてなんとか堪えた。そして、
「一生、お前だけを愛する……」
 景虎は、美代の遺体に、そう誓った。

 悲しみを乗り越えた景虎は、また一段と成長した。

 景虎たち六主従の乗る馬六騎は春日山より高い栃尾山を駆け上がり、やがて目的地に着いた。そこからは佐渡島が一望できた。
「佐渡島が大きく見える」景虎がしみじみと言った。それはとても微かな心症が混じっていた。……美代殿……。彼は一瞬、風に飛ばされそうな瞳になった。だが、それも一瞬で、家臣たちに気付かれるほどではなかった。
「そうでしょう」新兵衛がにこりと頷いた。
「昔、父上が佐渡島に渡ったのは……」
「今から三十年ほど前ときいてまする。船出されましたのは越中の浜でしたが、お戻りは浦原津(新潟市)だったときいております。それからこの寺泊を越え、椎谷にて高梨政盛の手勢と合流されたと」
「そうか」
 景虎は頷いた。
景虎が生まれる二十年ほど前、彼の亡父・長尾為景はあわや関東管領・上杉顕定に討ち取られそうになって佐渡島に逃げた。が、やがて形成逆転、上杉顕定を討ち取ったのである。そもそもそ上杉顕定が為景を殺そうとしたのは、実の弟で越後守護の上杉房能を守護代の為景に殺されたからだった。つまり、守護の代官でしかない男が、守護の上杉家や関東管領を虐殺した訳だ。いかに下剋上の時代とはいえ、為景の悪評は広まった。…無理もない。
 景虎はその話をきくのが辛かった。
 しかし、今は亡父・長尾為景の気持ちもわかる。
  景虎は十六歳になっていた。しかし、彼には心休まる時はなかった。恋人の死に悩み、暗殺の影に怯え、亡父の残した地位や権力を奪取して維持しなくてはならない。ただし、馬術、弓術などと大酒を楽しむときには心が安らいだ。ぐっすり眠り、美代のことを忘れ、鬱病から逃れるために酒をしこたま呑むようになっていた。
 しかも、酒がまわると強気で豪気になるため、居候の直臣ばかりでなく誰かれとなく取り立てるものだから、家来はすぐに六騎、七騎と増えていった。
”景虎が挙兵するやもしれない”
 そのような噂もしだいに広がっていった。
 面白くないのは兄の晴景と妹(景虎の姉で、景勝の母)で、「小童(こわっぱ)のくせに生意気な」と思っていた。とくに晴景の妹(景虎の姉で、景勝の母)が輿入れしたばかりの上田(六日町)長尾家では、晴景以後の守護代を自分の家系で……と思っていたのに、まったく視野にいれてもいなかった景虎がしゃしゃり出てきたのだから、面白くなかった。 さて、景虎には兄の晴景と姉だけでなく、五つ年上の兄もいたことになっている。これは資料に信憑性があるかどうか不明だが、その兄が黒田秀忠なる人物に殺されたという。……本当に景虎の兄だったかはさだかではないが、殺された。
 天文十一年、謀反の旗を翻して春日山城に乱入した黒田秀忠に殺されたのだ。
 その訃報が届いた時、景虎は兄・晴景が自分の弟をむざむざ黒田秀忠に殺させたことに怒り心頭だったが、「栃尾の居候(景虎)も殺してしまおう」と近隣の小豪族たちに黒田秀忠がいっているのを知って、「謀反者を成敗さねば!」と思った。
「黒田秀忠討つべし!」                   
 景虎は叫んだ。そして、本庄実仍に、「兄も挙兵するだろうか?」と尋ねた。
「はっ、多分……いや必ず」
「そうか」
 景虎は頷いた。                                
以下は過去ブログ連載小説で。

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不犯の名将・上杉謙信「天と地と」ブログ連載小説1

2011年04月22日 13時31分59秒 | 日記
不犯の名将
 上杉 謙信


                      ーうえすぎ けんしんー
                ~「不犯の名将」上杉謙信公の戦略と真実!                     今だからこそ、上杉謙信~

                 total-produced&PRESENTED&written by
                  washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

         あらすじ

長尾虎千代(のちの上杉謙信)は1530年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による。
虎千代が七歳の時、父親の越後の守護代・長尾為景が死ぬと、兄と弟との骨肉の争いが始まる。虎千代は、兄・晴景より逃れ、家臣の新兵衛におんぶされて栖吉城へ。そこで文武に励む。やがて長尾景虎と名を改めた虎千代は、成長し、頭角を現しだす。
しかし、そんな時、黒田秀忠によって守護代(守護の代官)長尾晴景(景虎の兄)が殺されてしまう。そこで初陣。不戦勝をもぎとる。だが、若輩の景虎は、カリスマがほしかった。そこで、「われは毘沙門天の化身なり」と称し、一生不犯を宣言する。
 つまり一生結婚も女とのセックスもしないというのである。しかし、それは若き頃の亡き恋人への貞操だった。いや、絆だった。
武田晴信(信玄)との川中島の合戦では、天才的な謙信の戦略によって優位に。その間、何度か暗殺されかけるが、ある女忍者に命を救われる。それは、若き日の恋人にうりふたつだった。…だが、意気揚々の謙信のもとに疫病神がころがりこんでくる。関東領管・上杉憲政、である。景虎は上杉家を継ぎ、何度か上洛を試みる。しかし、武田信玄や信長の勢力におされ、遂には1578年、志なかばのまま、不世出の天才・上杉謙信は脳溢血のため死んでしまう。享年、四十九歳だった。
 この物語の執筆では、上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。
 では、ハッピー・リーデイグ!
                                   おわり


  愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。そして、謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。



         立志


             
  謙信公の名を知らぬ者はいまい。
上杉謙信は特に、越後国(新潟県)と置賜(山形県米沢市)では「英雄」である。「戦国時代」の天才・織田信長が武田信玄とともにもっとも恐れたのが上杉謙信公といわれ、彼は、合戦の天才と称された。上杉家の祖であり、米沢藩を開いた景勝の叔父にあたる。 上杉といえば私の郷里の米沢、米沢といえば上杉だが、上杉謙信は越後国(新潟県)の生まれ育ちで、米沢にきたこともない。天下分け目の「関ケ原の合戦」の後、置賜(山形県米沢市)に転封され米沢を開いたのは、謙信の甥にあたる上杉景勝である。
 また、有名なのが名君・上杉鷹山公だが、ここでは時代が違うのであえてふれない。
 上杉家の、初代・上杉謙信は、天才的戦略により、天下の大大名になった。越後はもとより、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた。八〇万石とも九〇万石ともよばれる大大名になった。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。
上杉謙信こと長尾景虎は越後(新潟県)の小豪族・長尾家に亨禄3年(1530年)生まれ、越後を統一、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた人物だ。 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることも女と性的に交わることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわなければならない。
(この小説で登場するくノ一や幼き日の恋人などは架空の人物でありフィクションである) また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と合戦し、敵の武田信玄に「塩」を送ったりもした「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで侵攻してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数におされ、ジリジリと追い詰められるだけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて織田信長の圧倒的兵力に追い詰められていく。
そんな時、天正六年(五七八年)三月、天才・上杉謙信が脳溢血で遺書も残す間もなく死んだ。
 それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。
  この物語は、この非凡で不世出な天才・上杉謙信の物語である。
 上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。

長尾虎千代(のちの上杉謙信)は1530年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による古志長尾氏の娘である。虎千代が七歳の時(1536年)、父親の越後の守護代・長尾為景が死んだ。
 為景は身まかる前、病の床に伏しながら、虎千代と晴景を呼び付けた。彼は咳混みながら、兄弟仲良く、長尾家を守れといったという。そして倒れ、そのまま死んだ。為景はかっぷくのいい体つきでせ、口髭を生やし、堂々たる人物であったという。
 謙信は幼児期をふりかえり、「父上が死んでから、葬儀の時、俺は甲冑をきせられ葬列に参加した。皆が敵にみえてたいそう怖かった」と家臣に何度も話したという。
 それも実は事実で、彼の父親の死によって、覇権を握ろうという豪族たちが葬儀にかなり参列していたという。もちろん、戦国時代だから、「下剋上」も考えられる訳で、七歳の虎千代(のちの上杉謙信)であっても怖かったろう。
 ……昨日の友は、今日の敵……というのが「下剋上」であり、戦国時代であるのだから。 上杉謙信にとって、父親の葬儀は忘れられない思い出である。
 参列者の中に、謀反を起こした家臣や、下剋上精神の豪族が沢山いたからだ。しかも、虎千代は幼い兄弟のみで、母もすでに亡くなっていてたいそう孤独で脆弱な立場にいた。「いつ、殺されてもおかしくない」
 虎千代(のちの上杉謙信)もさすがに震えただろうか?
 いや、そうではなかった。
 彼は、まだ、なぜ幼い自分や兄弟の命が狙われるのか理解していなかった。…つい先日までは親父のことを「大殿さま!大殿さま!」と呼んでペコペコしてやがったくせに…。
彼(虎千代)は、たったひとりの家臣・金津新兵衛とふたりっきりで、奥座敷に入った。そこには、彼の父親・長尾為景が横たわっていた。
 柩には花がいっぱいしきつめられ、その中に、謙信の亡父・長尾為景が横たわっていた。硬直した「デスマスク」。それはなんとも哀れであった。しかし、その硬直し蒼白くなったその顔は、何かを言い掛けているようにも思えた。
「………いい顔をしている」
 虎千代は呟いた。虎千代は確かに、不思議な印象を与える人物である。年は七歳であったが、がっちりした首や肩がたくましさを示し、目はツリ上がっていて堂々とした印象の子供だった。
 十二月の寒い日だった。
 分厚いグレーの雲から、しんしんと雪が降りしきっていた。しかし、時折、雲の隙間から弱々しい陽の光が差し込んで、辺りを白く照らしていた。それは、とても幻想的で、気が遠くなるほどのしんとした感傷だった。
 彼(虎千代)と、家臣・金津新兵衛は襖から差してくるぼわっとした光を浴びながら、亡骸を見ていた。…それはかつて「越後の龍」とよばれて恐れられた「謙信の亡父・長尾為景」そのひとだった。新兵衛は腹部に収束感を覚えた胃が痛くなり、嘔吐を覚えた。
「「越後の龍」も死ねば…ただの亡骸か…」
 家臣・金津新兵衛がそう不遜なことを思っていると、
「なぁ」
 と、虎千代がきいてきた。
「はっ、なんでございましょう?」
「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのか?」
 新兵衛は即答せず「……はぁ」としばらく迷ってから、
「つづめていえば、そういうことになりましょう」と言った。
「ふん、まるで獣だな」怒りが籠っていた。
「はぁ」
 家臣・金津新兵衛は怪訝なまま溜め息をついた。また 二十七歳の家臣だった。
「この春日山城に住みついている猫や犬ものう、幼き頃に親をなくすと…強い野良に酷い目にあわせられる」
「……はあ」
「要はそれと同一ということじゃ」
 虎千代が言った。新兵衛は改めて、この少年であるはずの虎千代の利発さに驚くのだった。「まったくその通りで」彼は頷いた。
 そして続けて、「そのけだもののような連中が、虎千代さまの命を狙う可能性も大きいかと……」と、真剣に言った。
「俺を殺しにくるというのか?」
「いかにも」
 金津新兵衛は強く言った。「そこで今しばらくは安全のために私や家来とともに行動して下さい」
「……家来? おぬしに家来がいるのか?」
「はっ。恐縮ながら四人だけですが……」
「四人も?」虎千代が驚いたように言った。「俺の家来はお前ひとりだけだ」
「なにをおっしゃいますか。私の家来はすなわち若殿様の家来にございます」
「……そうか」虎千代が言った。「ならば俺が大将になったらその四人をとりたててやる」「ありがたきお言葉にございます。四人も喜びましょう」
 金津新兵衛はにこりと言った。
 ふたりがふり向くと、前とかわらぬ硬直した「デスマスク」があった。
 それは豪族として生き、武将として生き、そして守護代として死んだ長尾為景の最期の表情だった。虎千代(のちの上杉謙信)はこの父親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。だが、残念ながら遅すぎた。父親が彼の成功を認めることはもうないのだ。
 失敗を咎めることも、息子のことを誇りに思うことも、もうないのだ。
 豪族の、ただの平凡な武将、守護代で革命の夢ばかり追っていたと決め付けていた父親…。しかし……。虎千代の背後に冷たいものが走った。
「なぁ、新兵衛」虎千代がきいた。「あそこにある刀覚えているか?」
「大殿さまが大事にしていらした名刀でございますか?」
「うむ。おやじの大事な「子供」だったんだ。あのくそったれの刀がさ」彼の声には、怒りをふくんだ苦しさがあった。「おれはあの刀には触れさせてももらえなかった。「名刀だからな」っていうのが親父の口癖だった。「敬意を払わなくては、童子の触るもんじゃない」っていうのさ」彼の声は気味悪いほど横柄で、金津新兵衛は長尾為景の言葉のこだまを聞いていたような気がした。
「もっと幼い時、俺はその糞ったれの刀をこっそり持ち出した」
 金津新兵衛は驚いたような顔をした。
「どうしてそんなことを」新兵衛の視線が虎千代の目にそそがれ、答えを待っていた。
「だって、息子として当然じゃないか!」
 虎千代(のちの上杉謙信)はこわばった声で言った。そして、「それで外で振り回してあそんでた。で…」彼の声が苦悩に満ちたものになった。「見付かった」
「大殿さまに?」
「あぁ、それで俺は暗い蔵の中に閉じ込められた……おやじは冷酷だった。母も助けもしなかった……二日間も」
「それは、ひどい」新兵衛は深いショックを受けて、呟いた。
「怖かったですか?」
「あぁ、最初の恐怖さ。それいらい、俺は父親も母親も信じなくなった。母はすぐ死んだが、父はやっと今……ってところさ」
 自分が家臣として雇われる前に、そんなことが。そんな事情があったのか。息子にたいして決して満足しようとしない、執念深い横暴な父親から逃げ出そうとした少年。自分だってやれるんだということを示したかった少年の物語。しかし、残念ながら遅すぎた。父親や母親が彼の成功をみとめることは決してないだろうし、失敗を咎めることもけしてないだろう。彼のことを誇りに思うこともけしてないのだ。
 虎千代が金津新兵衛に笑顔を見せた。それは”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔だった。
「若殿さま!この刀をお持ちくだされ」
 それから、新兵衛が例の「糞ったれの刀」をもちだして彼に渡した。「これは虎千代さまのものです」
「…………新兵衛」
 虎千代が受け取って「すまぬ」と言った。
  それから、彼等は柩を見送った。
「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのだな」
 虎千代が呟いた。そうしてると、いつのまにか可愛らしい少女が彼のもとに歩いてきて、ちいさな花を差し出した。彼はそれを無言で受け取ると、彼女は身を翻していってしまった。……誰だろう?虎千代は、心臓がどきどきするのを感じた。…なんだろう?この気持ちは……?
 その夜、虎千代は「悪夢」を見た。
 彼が独りふとんで眠っていると、父親の気配を感じた。目を移すと、遠くの座敷に、なんと父親が横たわっていた。その姿はまさに亡霊だった。蒼白く、透明なのだ。
「……虎千代」
 突然、為景の亡霊が息子のほうに顔をむけて言った。「……虎千代、闘え!自由のために…。お前ならやれる。お前には勇気がある。自由のために闘え!」
 虎千代は声も出なかった。そうして動揺していると、亡霊はふっと消えた。
 その次の朝、彼は金津新兵衛にそのことを言ったが、新兵衛は信じず笑うだけだった。…そのようなものはただの「夢」にござる、というのだ。
 そうだろうか?
  まもなく年が改まって、天文六年、虎千代は八歳となった。
 春日山城と目と鼻の先の府内(直江津)に館を構えている守護上杉定実が使いの者をよこして「大事な話があるから虎千代を連れてくるように」と言ってきた。
 金津新兵衛は「すわこそ……若殿さまの身が危ない」と緊張した。
 ……守護は、若殿さまを殺すかも知れない……もしや……。
「若殿さま、申し訳ござらぬが「仮病」を使って頂きたい」
「仮病?」
「はっ、このままでは虎千代さまの身が危うくござる。そこで病気なればのこのこ「虎の巣」へまいらなくてもようございます」
「そうか。……では俺は、炒豆と焼栗を食べ過ぎて腹くだりしたことにしよう。そちはもっともらしい言い訳をいいながら向こうの様子を探ってまいれ」
「はっ」
 金津新兵衛は、まだ八歳であるはずの虎千代の「智将の片鱗」に感動を覚えた。…もしかするとこの若殿さまは本当に大物になるやも知れぬ。…越後国一…いやこの天下一の武将に………。
 新兵衛は家臣たちに「くれぐれも警戒するように」と言って出掛けた。
虎千代はあししげく厠に通った。「腹が痛い、腹が痛い」と言いながら、苦悩の表情で厠に何度も通った。そして、薬師のもってきた薬を、虎千代はわざと大袈裟に呻きつつ飲み込んだ。……あざやかな芝居である。まず家臣に見せて、敵にも嘘が伝わらないようにする。一番みせるのが召使の女たちにである。女は口が軽い。芝居で病気のふり……などと本当のことをいえば、たちまち守護の耳にも入るというもの。女、子供には注意しすぎるということはない。
 だが、だからといって虎千代は「女子嫌い」でもなかった。只、女は愚か、と思っていた。が、嫌いな訳でもなかった。この思いは、冷たかった亡き母親へのコンプレックスであろう。女子など糞っくらえだ!
 まだ、父親の長尾為景が健在で、城のあちこちを自由に歩きまわっていた頃、虎千代は猫や猿が赤ん坊に乳をやるのをみるのが大好きだった。幼い子供が母親の暖かい胸に抱きしめられて乳を飲む……なんとも幸せな気分になったものだ。それにひきかえ、俺の母親は……。虎千代は母を呪った。
「虎千代さま、仮病はつかわなくてよくなりました。さっそく府内(直江津)にまいりましょう」
 戻ってきた金津新兵衛は、言った。
「俺を府内につれていくのか?」
「はい、御屋形様はたいそう優しい方のようで…私の勘違いでございました」
「なんだと?」
 虎千代は怒った。…先程まで「仮病をつかえ」といっておいて、すぐ手の平をかえしたように「さっそく府内(直江津)にまいりましょう」と手前勝手なことをいうので怒ったのだ。金津新兵衛は、守護の上杉定実を虎千代の敵のひとりにあげていた。というのも、父親の長尾為景は守護代のくせに守護・上杉定実を圧迫したり、幽閉したりしたこともあり、さながら家臣を扱うような態度をとったからだ。しかも、上杉定実の養父で、先代の上杉房能(ふさよし)を襲って自害させたこともあったからだ。
 話をきいて虎千代は、
「ならば父上こそ逆臣ではないか?」と言った。
「話だけなればそうでしょう。ただ、御先代さまは守護が無能なため、あえてそのような態度をとったのでありましょう。すべて国人衆のためにです」
「俺が守護なら、そのようなやつの息子は殺してやるわ」
「だから、このようにお守りしておるのです」
「そうか。…………兄上は無事か?」
 虎千代は話題をかえた。
兄上とは、虎千代の兄・長尾晴景のことである。晴景はうらなり顔で凡人だ。死期を悟った長尾為景はこの二十七歳の青年に守護代・当主の座を譲っていた。れっきとした春日山城主であるが、豪族の誰も彼を認めてはいなかった。
 上杉定実の元にいくと、たいそう優しく可愛がられ、りっぱな太刀や馬まで贈られた。「虎千代」は幼名を改め「景虎」ときょうから名乗ることになった。「まことにありがたく存じまする」
 景虎は晴景と定実に平伏して言った。
 越後守護・上杉定実は、色部、黒川、本庄、加地、水原、中条、新発田などの豪族たちを臣従させねば国主にはなれない、と説いた。それから守護は、加地の祖先のことを説いた。そのところ、それは佐々木四郎高綱のことでありましょう、と明晰に景虎が言った。「そちは物知りじゃのう?八歳とは思えん」
 無能の兄・長尾晴景は面目を保とうとして馬脚を現した。「そのようなことはわしも知っておる。佐々木四郎高綱が梶原景時と戦って勝った話しは有名だからな。いい気になるな」
 越後守護・上杉定実は吹き出した。
 …俺は知らなんだ、お前は物知りだのう…と褒めてやればいいのに…この守護代のおつむは弟の半分もない。女色だけは一人前だが…。
「守護代殿、景時は景季の親父じゃ。あまりいいかげんなことを申すと、弟に笑われまするぞ」
 無能の兄は、とたんに恥ずかしさで顔を真っ赤にした。そして、きっと弟を睨んだ。
「景虎殿、わしを亡父のかわりだと思ってよいぞ」
 上杉定実は言った。…馬鹿にするな!お前のような弱いやつを誰が父親などと思うか?!景虎はそう思ったが、ぐっと堪えて言葉にはしなかった。
 こうして、天才・景虎はのちにふたりの凡人に反感を買い、生命を狙われることになる。その危険を逸早く察知したのは、景虎の家臣・金津新兵衛だった。

「若殿さま!……今のうちに逃げましょう」
「逃げる?」
「はっ」新兵衛はうなづいた。「このところ毎週のように悪い噂がきこえてきます」
「噂とは?俺を殺すと……?」
「その通りにございます」新兵衛はふたたび頷いた。「さぁ、逃げましょう。私の家臣のもの四人も一緒に若殿さまをお守りいたします」
「……どこに逃げるというのか?」
 景虎は怪訝なままきいた。
「まぁ、若殿様の母君の実家、栖吉城へいくのが妥当かと」
「………栖吉城か。ならば、そこへいく道程、刺客がくるやも知れぬ。変装してまいろう」「変装?」
「そうだ。山伏の格好が妥当であろう。それならば怪しまれぬ」
 景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人は関心してしまった。……なるほど。さすがは景虎さま、それはいい。山伏か。………こうして六人は山伏の格好となり、山道を急いだ。
「俺がこの峠に陣を張れば、春日山城の兄上を攻め崩せると思うが、どうだ?」
 景虎は言った。新兵衛や家臣四人はハッとした。若殿はもう春日山城攻めを考えてらっしゃる。なんと野望の高き少年だろう。
 しばらくすると、太陽も沈みかけてうっすらと夜がきた。一行は足をとめ、「腹が減った」と景虎は言った。だから、ひとにぎりの家臣の者は用意していた弁当を開けた。
「俺の大好物が入っておるではないか」
景虎は言った。…彼の好物の栗強飯と鮭の酢割だった。「箸をだせ」「はっこれに」弥太郎が箸を差し出すと、景虎は雪の上にどっしりと胡座をかいだ。そして食べようとした。その時、家臣の千代松が、
「お待ち下さい」と言った。
「……なんじゃ?」
「毒味をします。それがしが口にしたものだけをお食べ下され」
 千代松はそういって食べると「旨い」と言った。だから一同は笑った。「よし、食おう」食い始めると、誰かが竹筒の水を差しだした。ごくごくと飲む。
「おや」
 景虎は言った。「これは若狭屋に謀られたぞ」
「なんですと?!毒ですか!?」景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人はうろたえた。しまった!と思った。竹筒に毒を……?しかし、景虎は笑った。
「これは酒じゃ」景虎はまた笑った。「俺は初めて酒を飲んだが、とても旨いものじゃのう、はははは」
 一同はほっとした。
 こうして、景虎は八歳にして「大酒家」の片鱗を見せつけるのだった。       


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石田三成「巨いなる企て 打倒徳川家康」ブログ連載小説2

2011年04月22日 05時10分33秒 | 日記
         2 秀吉に支えよう






  行列が、北からきた。
 武者や女郎、童子などと御輿などである。
 それが左吉の興味をそそった。
 ……御輿の御簾が少しあき、そのものは小さい人物だった。眉をそり、白塗りしていて、あきらかに平氏の「マロ」である。貴族といえばいいのか。
 左吉は「みたい」と思った。
 もっとその人物をみてみたいと思って近付いた。
 すると側近の者や護衛がガキの左吉をとめた。とたんに左吉は手に噛み付いたという。「なにをする! この餓鬼め!」
 ひっぱたかれた。
 餓鬼め! と武者は左吉を手毬のように投げて蹴った。しかし、左吉は逃げない。
 さらにリンチを加えようとすると、年老いた女房殿が                          
「止しや!」ととめなかったら、左吉は殺されていたかも知れない。
 左吉はやっと逃げた。
「あれは誰じゃ?」
「知らぬわ」
 両親はこのことを知ってから「朝廷だから立ち向かったのか……?」と疑問をもった。寺にいれたことは正しかったのだろうか? 自問した。
 答えは出なかった。

  永禄三年(1560年)、石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれた。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を名字とした土豪であった。(幼い頃から観音寺で学習した)
 負けん気は強い。
  七歳となった左吉(のちの三成)は近江の観音寺に預けられた。
 左吉を馬で連れてきた母は、いろめ笠をとって「これからは母は亡いものと思いなしゃれ」といい揃いの笛の一体を渡して、後ろ髪ひかれる思いで去った。「母上!」
 左吉は寺での生活も闇夜も怖くなり、寺から逃げ出した。
 しかし、坊主につかまった。
「離せ! われは京に戻りたい!」
「そなたは京に戻ってはならない身元じゃ! 京は胸の中にある」
「……胸?」
「そう。そなたの胸の中に、森羅万象……すべてある。あれをみよ! 毘沙門天ぞ! われらの守護神ぞ」
 左吉は巨大な毘沙門天の像を眺めた。
 左吉は剃髪せず、坊主にもならなかった。
 そこで十五歳までを暮らすことになる。
 左吉はときどき寺を抜け出して京にいったという。
 観音寺では毎日、早足や飛び越えの稽古にはげんだ。
 剣術の腕も腕も磨いた。毎日、滝にうたれて精進した。散々、滝に叩き落とされる。     
 英雄には此伏のときがかならずあるものだ。
 天狗に兵法を教わったというのはもちろんフィクションである。本当に教えたのは中年の僧侶で、今川の残党の老師である。
 老師には”天狗”の渾名がついていた。奇妙な服装をして、天狗の面をかぶり、木刀で左吉(のちの三成)を何度もコテンパンにやっつける。
「お前はそれでも強いと思うておるのか?!」
「…われは強い!」
「お前は弱い! 弱い! 今日の復習! こいガキ!」
「やああ~っ!」
 左吉がかかっていったが、殴られて滝にどぼんと落とされた。「お前は弱い! 強くなるのだ! 左吉! もっとかかってこんか!」
 いつも酒を呑み、顔を赤くしている。鼻もひとより高い……白髪頭で髭もある。
”赤い酒臭い天狗さまじゃ”
 村人たちは笑った。
 左吉は僧侶に尊敬の念をもっていたので、”天狗さま”のことを『師匠』と呼んでいた。天狗さまの剣はすざまじく、飛ぶのも、走るのも早い。
「われも師匠のようになりとうござりまする!」
 左吉は眉目なハンサムな少年となっていた。走りながら木刀で木々を打ちつける。
 色白で、目がキリリとしていて、面長な顔で、風格さえある。               
 師匠は僧侶だけあって袈裟をきて、念仏もとなえる。天狗の面をとった。
 左吉(三成)は師と泥だらけになりながらも、剣の稽古をする。
「……われは何を求めているのであろう……これが宿命か…」
 あるとき、師匠は両手をパチンと叩いた。
「左吉! 今どちらの手が鳴った?!」
 問うた。
 左吉に答えはなかった。
 只、唖然とした。
「敵を知り、己を知らば百戦危うからずじゃ」師匠は孫子の兵法や三十六兵法を教え、少年の頭と体を鍛えた。少年の吸収は早い。
 しだいに師匠が感嘆することも多くなっていった。
「われは百姓の子なのでしょう?」
 ある時、真実を知った左吉が師匠に尋ねた。
 師匠は、
「やっとわかったか? 今までは武士の子供だと思っていたのであろう?」
「はっ」
「武士の子だとでも思っておったか?」
「……いえ。それは…」左吉は痛いところをつかれて黙り込んだ。
「ならばどうする?」
「われは………信長さまや信玄公のようなものに支えたいと思いまする!」
 左吉は志をもった。
「それでは武士と戦になるであろう?」
「かまいませぬ」左吉は強くいった。「それが義の戦であれば、われは戦うのみでありまする!」
「お前の申す義とは何ぞ?」
「天下国家のための国つくりでござりまする。……いまの朝廷の世は不満だらけです。皆、飢えておるのに一部の貴族や武士一族だけが満腹な思いをしていまする」
「ほう。で?」
「この国を回天させまする!」
 左吉は息巻いた。
「おぬしひとりでできるものか?」
「いえ、実力のある武将につかえて……力を合わせておれば、全国の武士が立ち上がりまする!」
「そんなに甘くいかんぞ! 今や戦国の世じゃ。ちまたでは武士にあらずんばひとにあらず……ともいう」
「それを変えたいのでごさりまする!大一大万大吉でござる」
「そうかそうか」
 師匠は満足そうに笑った。                     
 ……こいつは法螺ばかり吹くやつではない。天才かもしれぬ。軍事の天才じゃ!


  時代は混沌として動くようで、動かない。
 いや、動かすべきだ。
 とおもう男が、地方にいた。場所は関東でも奥州でもなく、険しい山のなかの近江の観音寺にいた。
 天皇が、
「あの地方にはどんな連中が住んでおるのか?」と尋ねたことがある。
「ウイススキ党というものがいるということでごさる」
「ウイススキ……? なんじゃそれは」
 天皇は笑った。
 ウイススキ党などというのは人間なのか。宇井・鈴木党というところだが、なんという馬鹿な名前の人間たちだ。この連中が『天狗』の由来である。
 その族の伝説も怪しげで、熊野権現が摩伽陀(古代、中インドにあった国)からこの地へ飛来したとも、秦の始皇の臣徐福が蓬来島に上陸しようとして難破した者たちの子孫ともいわれる。どちらにしても怪しい家柄だ。
「私は熊野で臥竜をみました」
「……臥竜?」
 秀吉は目が点になった。「それは孔明のようなものか?」
「さようにござる。今、観音寺にいまする」
「……童子じゃと? そんなものがこの国を変えられるのか?」
「ときがくれば……」
 家臣は笑った。

 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
 その出会いは天正二年……
 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
 左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
 秀吉が所望した。
 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
 秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
 平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・おねが佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。                


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石田三成「巨いなる企て 打倒徳川家康」ブログ連載小説1 

2011年04月21日 06時36分53秒 | 日記
小説
   石田三成


              ~天下の家康と挑んだ男の人生!~

                いしだみつなり
                ~「策士」石田三成の戦略と真実!                        今だからこそ、石田三成
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
 this novel is a dramatic interoretation
 of events and characters based on public
 sources and an in complete historical record.
 some scenes and events are presented as
 composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

       石田三成 あらすじ
  秀吉が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。三成は秀吉の重臣・幼名・左吉である。十歳の頃より秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の合戦で武功をあげて出世した。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。そして、その頃、三成は生まれた。三成が本当に得意だったのは貿易や検地などだった。決して勇気がない訳ではなかったが合戦は苦手だったようだ。小田原城水攻めでは自分のほうが溺れ掛けている。秀吉の死後は家康と並ぶ実力者となった。しかし、福島正則や加藤清正など武力自慢の武将に攻められ、一時、領地佐和山に隠居している。だが、野心を捨てた訳ではなく家康が会津討伐に向かうと毛利や上杉などと連携して挙兵した。そして、関ケ原の戦いへ… だが、小早川秀秋の寝返りで西軍はやぶれ、三成は遁走して捕らえられ三成は首をはねられた。その後、大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康の天下になり、家康は死んだ。そして徳川幕府は二百七十年続いた。幕末の維新の英雄は私の各小説に詳しい。
 三成はその徳川政治を変えようとした最初の男だった。それだけに幕末の龍馬、勝海舟、西郷隆盛や木戸考充(桂小五郎)、高杉晋作と同じように評価されてしかるべきである。 平成の官僚霞ヶ関幕府末期の今、石田三成は再評価されてしかるべきだと著者は思う次第である。三成こそが独裁者への最初の反抗者だったからだ。       おわり
         1 桶狭間合戦と三成誕生




         今川義元


  石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・茨城の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。









 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長は弟・信行を謀殺した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは           
足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし、当の松平元康 (のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。


         元康の忠義


  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
 日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の秀吉はいった。のちの豊臣秀吉、秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」 
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
 人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべか」 舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。






         桶狭間の合戦

                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                      
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。まっこうから武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで短期間で天下をとれた訳だ。

   清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。
「御屋形様! おにぎりを!」
 まだうら若き娘であったおねが、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。おねはきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」おねは声をあらげた。
「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。
  ある夜、秀吉はおねの屋敷にいき、おねの父に「娘さんをわしに下され」といった。おねの父は困った。すると、おねが血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。
「ごもっとも!」
「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」
「……おね殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。
「黙れサル!」おねはいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」
「運命にござる! おね殿!」
 おねは仰天した「運命?」
「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。
  かくして、秀吉はおねと結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉はおねに目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目がおねの小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれはおねの肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。
  信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 永禄三(1560)年、のちの石田三成は生まれた。貧しい農家の生まれである。    
 幼名・左吉という。
 家が貧しく、近江の観音寺に預けられることが決まっていた。
 そして、そこで運命的な出会いをする。
 そう、あの秀吉とである……



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大前研一先生近著「東日本大震災復興策」文藝春秋近日発売

2011年04月20日 12時48分26秒 | 日記
緑川鷲羽です。今回はわが師・大前研一先生の近著のご紹介です。
大前研一先生の著書『日本復興計画 Japan:TheRoad to Recovery』(文藝春秋)が   2011年4月28日に緊急出版することになりました 東日本大震災からわずか2日後の解説映像が反響を呼び、 Youtubeでの再生は60万回を超えました。 客観的データをもとに、「あの時点」で大前が考え出した 「日本復興計画」は、今、現実化に向けて動き出していることは 読者のみなさんだったらおわかりですね。 さらに! 4月28日(木)に、『日本復興計画』として 緊急出版することが決まりました。 復興の財源、エネルギー問題、外交政策など緊急提言します。 『日本復興計画 Japan:TheRoad to Recovery』(文藝春秋)はこちら!→ http://vil.forcast.jp/c/aofzarra2mqKnjae - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 目次:第一章 これで原子力の時代は終わった ユーチューブにアップされ七十万回以上再生された、 震災二日後の『大前研一ライブ』から。 原子炉の設計思想「スリー・アウト・オブ・ツー」はなぜ機能しなかったのか。 日本の原子力産業はなぜ終わったと言えるのか。 豪州クイーンズランドの災害復興の前例から、時限の消費税引き上げを提言。第二章 三分の二に縮小する生活 震災一週間を経ての『大前研一ライブ』から。 日本の原子力産業は冬の時代へ。ピーク時の電力供給能力は、二五%減に。 しかし、計画停電は愚の骨頂。 ようは、ピーク時に電力需要が供給を上回らなければ、停電はおこらない。 そのための三つの方法を提言。第三章 日本復興計画 原子炉の安全思想の根幹にある 「ラスムッセンの確率論」が揺らいだ今回の事態。 テクノロジーの哲学を考え直す。 コンクリートで固める石棺計画はなぜ危険なのか。 道州制と個人の意識改革。 三月十一日以前からこの二十年間進行してきた日本の危機の ファンダメンタルズから、日本復興の道筋を考える。 ※大前は印税を一切放棄、売上げの12%は被災地救援に寄付します。 まずは私たちから「新しい、もっと強い日本」への第一歩を!

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サッカー日本代表長谷部誠「心を鍛える。」幻冬舎引用

2011年04月20日 09時25分07秒 | 日記


サッカー日本代表・長谷部誠「心を鍛える。」(幻冬舎引用)

1 意識して心を鎮める時間をつくる
2 決戦へのスイッチは直前に入れる
3 整理整頓は心の掃除に通じる
4 過度な自意識は必要がない
5 マイナス発言は自分を後退させる
6 恨み貯金はしない
7 お酒の力を利用しない
8 子供の無垢さに触れる
9 好きなものに心を委ねる
10 レストランで裏メニューを頼む
11 孤独に浸かる
12 先輩に学ぶ
13 若手と積極的に交流する
14 苦しいことは真っ向から立ち向かう
15 真のプロフェッショナルに触れる
16 頑張っている人の姿を目に焼き付ける
17 いつも、じいちゃんと一緒
18 集団のバランスや空気を読む
19 グループ内の潤滑油になる
20 注意は後腐れなく
21 偏見を持たず、まず好きになってみる
22 仲間の価値観に飛び込んでみる
23 常にフラットな目線を持つ
24 情報管理を怠らない
25 群れない
26 組織の穴を埋める
27 監督の言葉にしない意図・行間を読む
28 競争は、自分の栄養になる
29 常に正々堂々と勝負する
30 運とは口説くもの
31 勇気を持って進言すべきときもある
32 努力や我慢はひけらかさない
33 読書は自分の考えを進化させる
34 読書ノートをつける
35 監督の手法を記録する
36 夜の時間をマネージメントする
37 時差ぼけは防げる
38 遅刻が努力を無駄にする
39 音楽の力を活用する
40 ネット馬鹿ではいけない
41 常に最悪を想定する
42 指揮官の立場を想像する
43 勝負どころを見極める
44 他人の失敗を、自分の教訓にする
45 楽な方に流されると、誰かが傷つく
46 変化に対応する
47 迷ったときこそ、難しい方を選ぶ
48 異文化のメンタリティを取り入れる
49 指導者と向きあう
50 自分の名前に誇りをもつ
51 外見は自分だけのものではない
52 眼には見えない「土台」が大事
53 正論をふりかざさない
54 感謝は自分の成長につながる
55 日本のサッカーを強くしたい
56 笑顔の連鎖を巻き起こす

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シンプルに生きるドミニック・ローホー著原秋子訳幻冬舎引用

2011年04月20日 09時23分34秒 | 日記
シンプルに生きる

 ものを持たない暮らしには、技術が必要です。フランスでは40万部のベストセラー。ヨーロッパを席巻した、心豊かな人生の過ごし方。「シンプルに生きる」変哲のないものに喜びをみつけ、味わう。ドミニック・ローホー著作、原秋子訳、幻冬舎刊行の概要を説明します。盗作ではありません。引用です。
1 嫌なことは引き受けない
2 ものを処分したり、他人にあげたりすることに罪悪感を抱かない
3 洗面台に香水サンプルコレクションを置かない
4 自分の家が火事になったと想定し、まずなにを買うかリストを作ってみる
5 その場合買わなくてすむものをリストアップする
6 好きだけど一度も使用してないものは写真に撮っておき、処分する
7 自分の経験を自分の予約に照らし合わせたうえで、迷いが出るものは捨てる
8 一年以上使わなかったものは捨てる
9 「大事なもの以外いらない」とおまじないする
10 「少なく」が「多く」をもたらすことを現実に実感してみる
11 欲求と必要の違いを区分する
12 自分にとって必需品がなくて何日もつか実験する
13 可能な限り物質的なものを排除する
14 場所を移動させただけで「片付けた」と思わない
15 シンプルにすることは「愛するものを排除するのではなく、
   幸せのためにも役にたたず、貢献しないものを排除するのだ」と自分にいいきかせる。
16 取替えのきかないものはないと肝に命ずる
17 とっておくものの数を決める(スプーン、シーツ、靴など)
18 それぞれのものの置き場所を決める
19 空き箱や袋、空き瓶を溜め込まない
20 家事作業に行うときの服は二揃え以上もたない
21 大事なDVD,TAPE、本などの整理する棚を用意する
22 ひとつひとつのものを必要かどうかチェックする
23 常に「どうしてこれをとっておくのか?」と自問自答する
24 泥棒が入っても、とっていくものがないくらいにしておく
25 過去の買い物の失敗にとらわれない。それを捨てることで過ちを償えばいい
26 自分の所有物を試しにリストアップしてみる
27 すでに排除したもの、捨てて後悔しているものをリストアップする
28 例えそれが思い出の品であっても、自分をいらつかせるものから自分自身を解放しなければならないといいきかせる
29 良いものを良いものと後悔するのに躊躇しない。そこで満足感が得られる
30 二流の選択をけっして受け入れない。自分の住環境を構築する要素ひとつひとつが、より完璧な状態に近づくことで平静さを得られる
31 手元にお金があるときだけ遣う
32 住まいが生き生きしている状態のなかに変化は訪れる
33 品質の良さを長年示してきた伝統的なものを信用する
34 これ以上段取りできないところまで段取りする。ほかはすべてカットする
35 関わっているさまざまの活動の数を減らす
36 新規に購入するものは、かさ、重さ、大きさにおいて小さいものにする
37 余計な装飾品は捨てる




        日本の警察と海上保安庁(海の警察)
 
2010年6月に就任したばかりの大林宏検察総長が一連の事件の責任をとり辞任です。後任は笠間治雄東京局検察長です。2010年11月23日、北朝鮮が韓国に砲撃した「朝鮮有事」のとき国家公安長官の岡崎トミ子氏が登庁しなかったという。このひとは警察のトップで、北朝鮮工作員などが国内でテロ行為を警戒するために指令を発しなければならない立場だ。どういう神経をしたおばさんなのか?多分、何も考えていないのだろう。仙谷官房長官は自衛隊を「暴力装置」というし、この内閣どうなっているの?まずは検察について紹介します。「検察官、裁判官、弁護士」になるには司法試験を合格する必要があります。日本ではよく「法曹三者と呼ばれるのは裁判官(3611人)、検察官(2667人)、弁護士(2万8891人)」です。ちなみにですが検察官はバッチをしていますが弁護士のひまわりではなく、秋霜烈日章という星型バッチです。検察組織はうえから「最高検察庁」、「高等検察庁(全国8箇所)」、「地方検察庁(全国50箇所)」、「区検察庁(全国438箇所)」です。また小室やホリエモン事件のときにきいた「検察庁特捜部」ですが「東京、名古屋、大阪」の「地方検察庁」にしかありません。特捜部は上から、特捜部長、副部長、主任検事、検事、事務官、という組織です。また保釈金はどんな悪いやつでも金払えば保釈できるの?という質問ですが、殺人事件犯人などは駄目です。また保釈とは逃亡しない、証拠隠滅の恐れはない被告になり、保釈金はそのひとの資産次第で値段も違うのです。保釈の条件は①住所確定②必ず出頭③事件関係者にあわない④1泊以上の宿泊や海外旅行は駄目、などです。保釈金払って過去に逃げたやついる?の質問ですがいます。保釈金の日本の最高額は2004年の牛肉偽装事件の20億円です。「反日デモ」の元となったのが、「日本の領海内で中国漁船が海上保安庁の巡視船にぶつかってきた」といういわゆる「尖閣領海事件」ですが海保は2001年には北朝鮮工作船と銃撃戦をしています。では「海上保安庁」って何ですか?ですが海の警察(Japan Coast Guard)です。海上保安官は1万6000人いて、拳銃を携帯して逮捕権もある国家公務員です。主な海保の活動は①不審船の監視②密輸、密入国を防ぐ③沿岸にある重要施設(原子力発電所などの警備)の警備④違法活動の取り締まり⑤救難活動(潜水士129名、機動救難士48名、特殊救難隊36名)⑥消防活動⑦交通整理⑧環境を守る⑨海洋調査(海図製作)などです。なお海保には年齢制限があって官僚を育てる海上保安大学校が18歳から24歳で全寮制で4年間。普通の海保保安官は海上保安学校で20歳から24歳で全寮制で2年です。だいたいは巡視船に配属されます。巡視船は「海のパトロール船」です。457隻あります。日本最大の巡視船は「しきしま」です。領土から12海里が「領海」(通交自由だが経済活動駄目)、領土から12海里から200海里は「排他的経済水域(いわゆるEEZ)」200海里以上は「公海」です。前代未聞の大事件です。2010年9月21日に大阪地検主任検事の前田恒彦被告(43)が厚生労働省局長であった村木厚子氏の事件(無罪確定)でFDのデータを改ざんしたとして証拠隠滅罪で逮捕されました。また大坪弘道被告、佐賀元明被告らの大阪地検元特捜部長らが「犯人隠避(いんぴ)罪」で逮捕されましたね。これはモラル・ハザードというか検察のクレディビリティ(信憑性)を揺るがす一大事です。また、よく聞かれる質問なのですが、「警視庁と警察庁の違いって何?」ということです。まあ、警視庁は「東京都の警察」で警察庁は「国の行政機関」です。ちなみに警察庁は公務員ですがスーツにネクタイ姿で制服は着ていません。皇宮警察は「天皇や皇族の身辺警護」をするところです。では警視庁はですが、総務部(備品調達)、警務部(捜査や不正)、交通部(駐車違反やひき逃げ)、警備部(要人警護)、地域部(100番)、公安部(テロ対策)、刑事部、生活安全部、組織犯罪取締部(ヤクザや暴力団対策)などに分かれています。
ちなみに刑事部は捜査一課(殺人、強盗、誘拐担当の為プロの目が必要であり、ノンキャリアがなります)、捜査二課は(詐欺、汚職)、捜査三課は(窃盗対策で、これもプロの目を持つノンキャリアがなります)。
では警察の階級を説明します。ピラミッド形でひらが「巡査」(「巡査長は巡査のリーダー」)→「巡査部長」→「警部補」→「警部」→「警視」→「警視正」→「警視長」→「警視監」→「警視総監」です。その上に「警察庁長官」がありますが「職務」であり、警察官僚のトップは「警視総監」です。
では「キャリアとノンキャリアって何?」という質問はいわゆる「キャリア組」は東大法学部の生徒でも難しい「国家公務員Ⅰ種試験」(年41人)を合格したエリートで、「準キャリア組」とは「国家公務員Ⅱ種試験」を合格したひと。「ノンキャリア組(もしくはノンキャリ)」はその他の高卒とか試験に合格しないひとです。警察用語でホシは「犯人」、レツは「共犯」、ニンチャクは「人相と着衣」、サンズイは「汚職」、ショクシツは「職務質問」です。




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北川景子&佐々木希 長澤まさみ(24)EXILEAKIRA(29)熱愛

2011年04月20日 09時09分04秒 | 日記
     
北川景子・佐々木希・超美女対決!

2011/02/22のフジテレビドラマ「プロポーズ兄弟」での小池徹平くんとのぞみーること佐々木希ちゃん可愛かったよね。あれぞ「秋田美人」です。佐々木希さんがCMでマリリン・モンローばりの「スカートふわふわ」に挑戦です。北川景子さん主演のTBS金曜ドラマ「LADY 最後の事件プロファイル」がいよいよスタートです。あのドラマだけみると北川景子さんは「冷静な冷血漢」のようですが、北川景子さんは美人を鼻にかけることもない「いいひと」です。山Pの彼女ですがね(笑)。実は北川景子さんは2005年から2006年くらいにテレビ朝日で放送された「美少女戦士セーラームーン(実写版)」の主人公・月野うさぎの友達でセーラー戦士「セーラーマーズ(火野レイ)役」でした。当時から可愛かった。佐々木希ちゃんは木曜日いいとも!のメンバーですね。私は面食いではありません。でも、付き合うなら誰だって「美人」のほうがいいに決まっている。例えば山田花子からアプローチされるのと新垣結衣や北川景子や佐々木希や綾瀬はるかにアプローチされるなら北川景子や綾瀬はるかなどのほうがデブスの山田花子よりマシに決まっている。誰だってそうだ。(山田花子は結婚したそうです(笑)。でも山田花子の財産狙いですね。でなきゃ抱くとき吐くだろう)佐々木希さんの主演映画「天使の恋」を観ました。せつなくも甘い物語でした。佐々木希さん、ビビアン・スーさん、吉高由里子さんのCMは最高です。北川景子さんと岡田将生くん主演の映画「瞬(またたき)」が公開です。北川景子さんと親友の貫地谷(かんじや)しほりさんがニンテンドーDSのゲームのCMで宣伝してますね。なんか可愛いです。佐々木希さんは出演するロッテのガムのCM曲「噛むとフニャン」を歌いCDデビューです。フジテレビ番組「くちこみ」のゲストは北川景子さんでした。占い特集でした。占いは「科学的根拠」のない出任せです。只の「金儲けの手段」なだけなんです。FECJモデル・オブ・ザイヤーに佐々木希さんが選ばれましたね。北川景子さんと木村拓哉さんらのフジテレビ月9ドラマ「月の恋人」がいよいよ2010年5月10日18時にスタートです。共演者は他に、篠原涼子、松田翔太、リン・チーリンなど。北川景子さんは目が悪くて眼鏡をしてますが、コンタクトすればいいのにね。眼鏡はださいから。佐々木希さんと佐藤健(たける)くんのロッテ・ガムのCMはデヴィル(悪魔)姿ですね。北川景子さんは2010年3月15日に「笑っていいとも」のテレフォンゲストでした。佐々木希さんは2010年4月26日のテレフォンゲストでした。北川さんと付き合ったら「排水溝のぬめりをとってくれる」そうです。山Pの家の排水溝さぞやきれいなんでしょうね。ブサイク・コロシアムの道重さゆみ(モー娘。20歳)は笑ったね。たいして可愛くないのに自意識過剰で女性が嫌いな女性タレントの10位。わかる(笑)福本清二みたいな糞みたいな感じです。芸能人に嫉妬して糞みたいな悪口コメント書き込みをするだけ…哀しい男です。可愛い北川景子さんは「ひみつの嵐ちゃん」のビップルームのゲストでしたね。また北川景子さん主演映画「花のあと」(藤沢周平原作)が3月13日公開です。北川景子さんや佐々木希さんは大ファンです。東京ガールズコレクションにモデルとして出演しましたね。なお、ここでは北川景子さんのファンの為に北川景子さんのプロフィールを紹介致します。北川景子、1986年8月22日兵庫県神戸市中央区出身。O型。女優、スターダストプロモーション所属。
またここでは佐々木希さんのファンの為に佐々木希さんのプロフィールを紹介致します。佐々木希、1988年2月8日秋田県秋田市出身。ファッションモデル、グラビアモデル、タレント。AB型。168cm。B80W58H82…。
なお、北川景子さんはフジテレビドラマ「ブザービート」映画「ハンサムスーツ」「花のあと」などでしかも女性が「なりたい顔」No.1です。佐々木希は「ささきのぞみ」と読みます。後はまた情報を更新します。頑張ってね、景子さん、希さん。
韓流スター、チャン・ドンゴンが女優コ・ソヨンと結婚ですね。それにしても日本の文壇は何とかならないのでしょうか?また小娘作戦です。「中原中也賞」に女子高生(笑)この国の文壇はよしもとばななから始まって綿矢りさ、金原ひとみや携帯小説女子高生作家(笑)と「話題性」だけです。つまらないタレントの本やオナニースケベ裸本ばかりが本屋に並びます。まさに亡国の国です。八戸市市議の藤川優里さんは可愛いですね。頑張ってください。大ファンです。藤川優里さんは新垣結衣くらい可愛いです。優しそうですし家庭的なほんわりとしたイメージで好印象です。ファンも多いことでしょう。私も応援します。だけど私は藤川優里より北川景子や新垣結衣や佐々木希のほうが「美人過ぎる」と思う。カチューシャがださいし、田舎くさい。青森県八戸市で自民党の「客寄せパンダ」・小泉進次郎と「美人過ぎる市議」「東大出身」だけが売りの藤川優里や大島理森などで自民党の街頭演説をした。かなりの「人材不足」です。参議院選挙の私の地区では自民党が元・議員、民主党は元官僚の「学歴エリートの野郎」……誰がそんな輩に投票するか!舐めるな!藤川優里は「さんまのまんま」では明石家さんま相手にすごいボケの空振りでしたね。お笑いとしては「才能なし」ですね(笑)自民党は国民的アイドルでカリスマ主婦の辻希美(つじのぞみ、元・モーニング娘。)さんを3年後に出馬させる予定であるそうです。役に立たないけど(笑)簡単な数学や漢字が出来ない方ですよ。親友はくみっきーこと舟山久美子さんや純ポこと小森純さんやしょこたんこと中川翔子、つーちゃんこと益若つばさちゃんです。また2010年参議院選挙は東北部ブロック自民党比例区公認候補に藤川優里さんがなりそうです(辞退しましたね。少しは常識があったようです)。岩手県県議との「お泊まり密会、不倫愛」を写真雑誌に撮影されて最近「山本モナ化」している藤川優里さんですが今後の男性関係が楽しみですね。まあ小泉進次郎とは付き合っていません。が、今後はわからないです。また藤川さんには新たな不倫か熱愛のうわさがあるそうですね。でも国会議員になっても確実に役に立ちません。せいぜい小泉進次郎のような「ひと寄せパンダ」です。新写真集撮影予定。藤川優里さんに「処女説」が流れているそうですね(笑)まさかですね(笑)彼女は30歳ですよ。福田衣里子さんではありませんよ。またここでは藤川優里さんのファンの為にプロフィールを紹介します。藤川優里。本名、同じ。1980年3月8日生まれ。青森県八戸市生まれ。力量は未知数。彼女のブログ「いちご煮日記」をみて読んでも「政治家として才覚があるかわからない」とにかく未知数の美人すぎるかは知らないけど女性です。頑張ってください。
私も陰ながら藤川優里さんの幸せをお祈りいたします。  
  
  

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嵐が紹介 アメリカ留学・英会話

2011年04月14日 23時04分24秒 | 日記

 
     嵐が紹介、アメリカ留学と英会話 
 
日本人はアメリカ合衆国を勘違いしている。憧れるのは勝手です。が、だからといってアメリカ合衆国を「拡大解釈」してはいけない。 まずは日本とアメリカ合衆国は共通する点が多いという思い込み。アメリカ合衆国にいけば何とかなるという甘え。アメリカ合衆国にいけば生の音楽と英語がマスターできるという思い込み。日本人はジーンズからハンバーガーやアメリカ音楽映画ファッションまで知ることができる。が、それは断片でしかない。アメリカ合衆国は確かに経済力やインフラや大学インフラは世界一かもしれない。が、「安全」ということで言えばフィリピンといい勝負です。 先進国で水や安全はタダというのは日本に限ってのこと。発展途上国より危険な国がかなりある。その代表国がアメリカ合衆国です。アメリカ合衆国にいっても何とかはなりません。アメリカ合衆国はサブプライム不況で大変な状態です。アメリカ合衆国に行って「何とかなる人」はアメリカ合衆国が欲しい才能を持つ人材だけです。アメリカ合衆国に行っても英語はうまくなりません。子供ならばいざ知らず大人が意味不明の英会話を聴いても英語の歌詞の歌を聴くように意味などわかる筈ありません。アメリカ合衆国は確かに「自由」です。が、麻薬の自由はありません。流行りではなく麻薬はタダの犯罪です。 アメリカ人が拳銃を枕の下に隠すことより、ニューヨークの深夜に「地球の歩き方」を手に歩いている日本人女性のほうが「よっぽど危険」です。アメリカの強姦事件率は日本の50倍です。レイプ犯は麻薬をやり、エイズ感染者であることが多い。また留学すると女の子なら「いいよって来る外国人」がかならずいる。彼らの多くは教養が高くない。高いならジゴロのような真似はしない。いいよって来るのは大抵タダでセックスしたいからだ。また麻薬を買う金も援助してもらうのが大抵です。ドラッグ、セックス、衣食住がタダになるのだから彼らにしたら一石二鳥です。英語が話したいならホノルルやロサンゼルスの馬鹿高い料金の日本人ばかりがいる英会話教室より、小学校にいれてもらうといい。そこにはマイケル・ジャクソンのような英語を話す子供達が沢山いる。日常会話程度の英語をマスターするならそれでOKです。また日本の新聞記事が理解出来ない人がワシントンポストやニューヨークタイムズが理解出来る訳ありません。 またアメリカで因縁を付けられたときは「アイムソーリー」といい逃げることです。馬鹿の相手はしないことです。また白タクや募金やホームレスの物ごいは「ノーイングリッシュ」で貝になればいい。とにかく「君子危うきに近寄らず」だ。馬鹿の相手はしないことです。また警察官に拳銃を突きつけられたら両手を挙げろ。撃たれて死ぬこともある。その際警察官は「フリーズ」「ハンズアップ」という。警察官は「ホールドアップ」とは言わない。「ムーヴイット」とは「どけ」という意味です。 銃を突きつけられたら両手を挙げろ。そして「プリーズドントショット」といいます。なら撃たれて死ぬことはない。強盗も「ホールドアップ」とは言わない。大抵は「スティックイットアップ」といいます。スティックは麻薬ではありません。とにかくアメリカ合衆国の夜遅くの外出はやめることです。「君子危うしに近寄らず」です。 また入国審査では大金を持ち歩かないことです。カード社会のアメリカで大金は「麻薬を買うケース」だけです。だから申告書の五○○○ドル以上の現金を持っているひとは申告すること…は書かない。か、目的を「スキューバダイビングの道具を買う」「ダイヤの指輪などを買う」と書けばいい。ビジネスでも「サイトシーイング」でいい。 とにかくアメリカ合衆国は危険だと思い「君子危うしに近寄らず」です。イギリスやフランスやイタリアも最近ちょっと治安が悪くなった。日本より安全な国などないって思いなさい。危機意識を持って外国に行くことです。アメリカ合衆国に行くなら特にです。気をつけて頑張ってください。 また知ってるお友達や家族一同や親戚の方にもこの「緑川鷲羽わしゅうブログ」の存在を教えていただけませんでしょうか?1人でいい情報を独り占めはずるいです。みんなで英語や政治経済など一緒に勉強しましょう。





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世界一の美女になるダイエット エリカ・アンギャル著幻冬舎引用

2011年04月14日 23時00分07秒 | 日記


「世界一の美女になるダイエット」 食べ物がすべてを変える。 幻冬舎ベストセラー ミス・ユニバース・ジャパン公式栄養コンサルタント エリカ・アンギャル著作 食べ物を味方につける68の美の秘密を更新します。 盗作ではありません。引用です。1 「栄養の砂漠」から早く抜け出して2 いま口にしたものが、10年後のあなたを決める3 最強のコスメは、テーブルの上にあるわ。4 美女の朝は一杯のグリーンカクテルで始めて5 世界の美女たちは白いものなどもうやめてます。6 「サラダはヘルシー」だなんて単純な思い込みね。7 美女に必要なのは濃い野菜8 日本人はフルーツが足りなさ過ぎるわ。9 買い物で迷ったら美女効果の高いトマトとベリーを10 有機で食べていいのはブロッコリーと小松菜11 残念だけど日本人には乳製品はおすすめしないわ。12 美女と卵の切れない関係 13 日本の女性たちよ、アーモンドの実力を知って14 意識して「生もの」を食べましょう15 水のとり方が美を左右する16 肌はあなたの内臓そのものよ17 油抜きしている人、今すぐやめて18 ベーグルとフランペチーノがランチなんて悲しくなるわ19 アボカドは食べる美容液よ20 なにを食べるか食べないかで、シミやシワの数に差ができる21 白砂糖の魔力は、麻薬なみに危ないわ。22 美女のおやつは、ダークチョコレート。23 冷えた女性に美女はいないわ24 美しさの品格は、髪先、指先に現れる25 食後のサプリメントで美をサポートしてもらいましょう26 太らない為にもいい油が必要なの27 食事を抜いて、我慢して何かいいことあった?28 カロリーだけでは真実は見えてこない29 炭水化物抜きではゴージャスな美女になれません30 低脂肪・無脂肪ならやせるというのは大きな誤解31 ソフトドリンクは見えない砂糖の塊です。32 そもそもあなたはダイエットが必要?客観的にスタイルを眺めてみて33 あばら骨のういたミスはいません。プロポーションもグローバル基準に34 食べなさ過ぎる日本人が心配だわ。35 老化の敵は酸化だけじゃない。「炎症」も覚えておいて 36 サーモンはアンチエイジングのスーパーフード37 クルミとブルーベリーで脳もアンチエイジング38 「ふわふわ」「とろとろ」スイーツは完全な敵39 アイスクリームは老化を進めるかわいい悪魔40 タバコは今すぐやめて41 足りないのも多いのも、運動が老化の針を進める42 正しい姿勢と呼吸がみずみずしい美しさの基本43 コンビニごはんには缶詰めを味方につけて44 ナッツとドライフルーツで美しい間食を45 「早食い」は美女の品格ががた落ちよ46 いい消化は美人の絶対条件47 お腹がすいて寝むれないなら豆乳ココアを48 食材は裏から見るのがビューティーマナー49 おばあちゃんが知らない原料が入っているものは買わない50 不調が続くときは、醗酵食品で腸内美化を51 新しい食習慣は、まず1ヶ月続けるの52 一日一善、ゲーム感覚で美人のライフスタイルを作る53 「ばっかり食べ」は効果半減54 外食の美人メニューは油と野菜がカギ55 睡眠はダイエットの手軽な特効薬56 就寝一時間前の過ごし方が眠りの質を変える57 余裕の朝があなたをエレガントにするわ58 疲れているときほど身体を動かしてみる59 一日一度のリセットポーズでストレス解消60 ベネズエラ代表の魅力がわかること61 理世とくららも初めから完璧ではなかった62 自分をもっと認めて63 ロールモデルとライフワークが人生の必須アイテム64 食事は心の健康にも欠かせない65 笑い、楽しみ、喜ぶことできれいになれる66 あなた自身を一番にする時間をもちましょう。67 褒められたら、心から感謝を68 自分の美点にもっとフォーカスしましょう本当の美しさを手にしたいなら必ず読むべきです。簡単には壊れない「美のベース」を作ってくれるのですから。 森理世 エリカと出会って「美しくなる食べ方」をはじめて意識しました。知花くらら新垣結衣も辻希美も益若つばさも小森純も舟山久美子も読んだ。東方神起やSMAPでさえ読んだ。あとちょっと皆さんにお頼みいたします。みんなでこのブログ「緑川鷲羽わしゅう上杉奇兵隊日記」をお友達や親戚や家族一同に教えていただけませんでしょうか?1人でいい情報を独り占めするのはずるいです。みんなで英語やダイエットや政治経済など一緒に勉強しましょう。みんなでね。「世界一の美女になるダイエットバイブル」(エリカ・アンギャル著作幻冬舎)1 あなたの体はたった一台のフェラーリ 最高のボディには最高のガソリンを2 朝食の効果で一日の食事の80%を得る3 ゼロカロリーや糖質ゼロには罠があるわ4 最高の美肌工場サーモンは天然のものを5 ベーコンとソーセージは美女の敵6 電子レンジは使わない7 肝臓は美肌工場よ8 「油抜き」ディナーから逃れるには「選択する」力を9 白砂糖よりハチミツ、メープルシロップ、アガベシロップを10 アルコールハチミツナツツとお水をお供に11 抗酸化・抗タンパク食品でエイジング美肌を 12 忙しい人こそ朝食にウエイトを13 炭水化物抜きダイエットは太りやすい体をつくる14 ダイエット中もタンパク質を欠かさないで15 1(炭水化物)2(タンパク質)3(野菜)がやせ体質をつくる16 口に入れたものが効くかどうかは消化がなされて初めて叶う17 食事の最初の2、3口はタンパク質から18 いい油の条件は末精製、低温圧搾、遮光製のビン入り19 ティースプーン一杯しかない女性ホルモンにもいい油と茶色い食べ物を20 油は美容効果の高いものからさけたいものまで5つにわけられる21 あらゆる努力を打ち消すストレスホルモンには笑顔が効果的  
 
 
       

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宮本武蔵「武蔵VS小次郎 巌流島の戦」ブログ連載小説2

2011年04月11日 07時04分19秒 | 日記
         2 俺は強い!






            
  越前(福井県)にも剣豪がいた。
 宮本武蔵の永遠のライバル、佐々木小次郎である。
 小次郎の生涯は謎が多い。出生日や出生地がはっきりしてない。と、同時に、巌流島で武蔵と戦うまで何をしていたかもさだかではない。女好きだった……などという説もあるが、ホモでもないかぎり男はみんな女好きである。
 当然、女だってレズではないかぎり男好きであろう。そういう性欲がなければ子供など生まれはしない。表面上は真面目でも、裏でこそこそ……というのが現代人だ。それは戦国時代でも同じで、皆表面上は紳士淑女だが、戦がはじまると歩兵たちは村や町の女をさらってはレイプしていたという。
  佐々木小次郎は色男であった。
 涼やかな目元、長い髪を後ろで束ね、鼻筋が通っていて、痩体で、手足がすらりと長くて顔がいい。ハンサムな男である。
 彼は今、恋人・お美江の父親とふたりっきりで屋敷の一室にいる。昼頃の晴れた日だ。 ふたりは上座と下座でみつめあっていた。
「……どういう意味かな?」
 お美江の父親は首をかしげた。「拙者にはとんと身に覚えがない」
 小次郎は「師匠からそなたを何とかするようにといわれてきました」と低い声でいった。「……なんのことだ? なぜわしを?」
 お美江の父親は狼狽しだした。ふたりは対峙した。床に置いてあった刀に手をかけようとする。しかし、佐々木小次郎の電光二尺の剣が低空でふりきられると、斬られた男は血を吐き、どさりと倒れて絶命した。
 小次郎の剣はすざまじかった。斬られた男は見事に急所を鋭利に斬られている。
 そんなとき、彼の恋人で今年十七歳になるお美江が、
「小次郎さま! 父上!」とやってきた。けっこう美女である。長い髪を束ね、きれいな着物をきた痩せた美女だ。
 襖をあけた。
 驚愕した。
「……小次郎さま…?」お美江は動揺し、狼狽した。
 佐々木小次郎は顔を向けることもなく、血に染まった刀を振り、血を払うと、      
「そなたの父を斬った」と低い声で言った。刀を鞘にしまった。
 お美江はあまりのショックに気絶して畳の上に倒れた。
 小次郎は身を動かし、彼女に触れたところで、殺気を感じて駆けだした。        
「……おや! 頭が……追え! 追え!」
 家臣の者が声を荒げた。「佐々木小次郎を生きて越前から出すな! 殺せ!」
 小次郎は駆け続けた。追っ手は男十人あまり……
 ほどなく、日本海をのぞむ岩場でいきずまった。小次郎は剣を抜いた。
「はむかう者は斬る!」
 しかし、男たちは刀を抜いた。「殺せ!」
 大男が刀を振りながら突撃してきた。つばぜりあいになる。小次郎は右足で男を蹴ると、刀をふった。大男は胸から又まで斬られ、倒れた。血が噴水のように吹き出す。
 次に痩せた男がふたりがかりで襲ってきた。
 刀がまじわる。小次郎は相手のこてを突き、心臓をえぐった。
 男ふたりは血だらけで、断末魔の悲鳴をあげる間もなく倒れて死んだ。
「はむかう者は容赦なく斬る!」
 しかし、男たちは刀を構えたままだ。「ほざけ!」
 小次郎はすばやい剣で、男たちをバッタバッタと斬り倒した。
 ひいい~っ! やがて男たちは遁走しだした。ここにきてやっと佐々木小次郎は一息つくことができた。足元には塁塁と死骸が横たわっている。
 日本海の荒波が激しい。
 潮風に前髪を揺らしながら、佐々木小次郎は「越前から離れなければならなくなった」 と涼しげにいった。
 ……さすらいの旅となる…どこかに仕官できればいいが………
 彼はふとそう思った。



  新免武蔵は美作(岡山県)宮本村に足を踏み入れた。
 村に家族が待っている訳でもなかった。母親は彼が幼い頃に家出して行方不明になっており、父親も彼を虐待し、ついには村の男を斬り殺して追われるように宮本村を去っている。武蔵はひとりで山に小屋を築き、田畑を耕して生活していた。
 しかし、そんな武蔵に手を貸す者もなく、彼は孤独な生活を送って現在に至った。
 けれども、そんな村でさえ、武蔵には故郷であり、大切な地でもあった。
「……なつかしいなぁ」
 武蔵は笑顔になった。
「おや?」僧侶が気付いた。「武蔵じゃないか? 新免武蔵じゃないか?」           
「…沢庵和尚!」武蔵は声をあげた。
 沢庵和尚は剃髪していて、袈裟を着て、丸い顔の五十代の男である。がっちりとした肩と腕が忘れられない風貌だ。
「武蔵! 戦で負けたって? なぜここに戻ってきた?」
「いやぁ」武蔵には答えられなかった。「ここが私の故郷だからです」
「落ち武者狩りにおうてもいいと思って帰ってきたのか? 武蔵」
 武蔵は黙り込んだ。                    
「まぁよい。寺に身を隠せ! 権七たち村の男たちが落ち武者狩りをやっておる」
「沢庵和尚……せっかくですが私は逃げません」
「武蔵、逃げる逃げないの問題ではない。これは命がかかっておるのだ」
「…ここで逃げれば末代までの恥。剣で戦います」
「武蔵!」沢庵は声を荒らげた。「池田輝政公の足軽たちも落ち武者狩りをしておる。末代までの恥だろうがなんだろうが逃げよ。生き抜け武蔵!」
「いいえ!」
 そんな中、権七たち村の男たちが落ち武者狩りに、槍や刀をもって駆けてきた。
 武蔵を村の男たちは取り囲んだ。
「やめるんだ権七!」そういったのは沢庵だった。
 しかし、権七たち村の男たちは刀を構えた。武蔵も刀を抜いてかまえた。殺気だった。「武蔵! 抵抗すると斬る!」
 権七は叫んだ。武蔵は怒り心頭で、「なぜ俺を斬る?!」
 と息巻いた。
「落ち武者だからさ!」
 当然のように権七はいった。
 やああっ! 男がふたり斬りかかってきた。武蔵は鋭い剣で斬り倒した。なおも対峙し、また斬り、斬り、倒した。権七が刀を挙げて駆け、振り下ろした。武蔵は剣をよけると、権七の横腹を斬った。権七は血を流し、倒れた。男たちは総崩れとなった。
 そんな時、池田輝政の鎧姿の足軽たちがやってきた。剣を抜く。
 武蔵は勝てると思った。しかし、多勢に武勢、何十人もの足軽たちに囲まれ、刀を向けられて武蔵は剣を捨て、膝から地面に崩れ落ちた。
「……殺せ!」武蔵は叫んだ。
 沢庵は「待て! 殺してはならん!」と足軽たちをとめた。
 ほどなく、武蔵は後ろ手で縄にしばられた。
 連行された。
  姫路城につくと、城内の一室に隔離された。城主・池田輝政がやってきた。沢庵も同行していた。「わしが姫路城主・池田輝政である!」
 池田輝政は髭の小柄な男である。播磨、備前、淡路の領主で、もともとは秀吉に仕えていた。秀吉の命令で家康の次女・富子と結婚し、そのため秀吉の死後は関ケ原で東軍についた。家臣を大事にする人物で、そのため有能な人物が彼のもとに集まったという。
「そちが新免武蔵か?」
「……そうだ」武蔵は顔を背けた。
「関ケ原ではわが家臣たちを殺した罪がある。よって本来ならば死罪とすべきだが……ここにいる沢庵のたっての頼みで、この城でそなた自身の罪を考えるよう禁固刑に処す」
「なにが禁固だ?! 殺せ!」
「武蔵!」沢庵が怒鳴った。「命が助かっただけでもありがたいと思え!」
 武蔵は言葉を飲んだ。顔は背けたままだった。


  ある日、城で沢庵と武蔵が竹刀で稽古をつけていた。
 やああっ! 武蔵はこてんぱんに負けた。
「お前は弱い! 自分が強いと思っておるのか?」
「俺は強い! 強いんだ!」
 武蔵は竹刀を振りながら叫んだ。沢庵は武蔵の剣を払い、肩を打ち、「お前は弱い!」 といった。
 何度やっても武蔵の負けだった。
 武蔵の脳裏に、幼い頃の虐待した父親・新免無二斎の姿が浮かんだ。…自分が強いと思ってるのか?! それでも強いと思ってるのか?! 無二斎は倒れた息子を木刀で何度も殴りながらいった。そのことを武蔵は回想した。父親の記憶は虐待以外にない。
「お前は弱い! 自分が強いと思っておるのか?」
 沢庵はいった。
「俺は強い! 強いんだ!」武蔵はなにくそと思った。


「あの方のところへ行かなければなりませぬ」
 京で、千代はいった。お幹婆は「あの方とは?」と尋ねた。一同は宿にいた。
 たけぞう      
「武蔵さまです!」
「なにっ?」実兄・三郎がきいた。「あの武蔵のところへか?」
「そうです!」
 お幹婆は激怒し「あの男は三之助を見殺しにした男ぞ!」
「違います! あの方はそのようなひとではありません!」
「あってどうする?」三郎はゆっくりきいた。
「ひとりでは…」千代は続けた。「ひとりでは強くなれないと…武蔵さまに伝えます」
「……そうか」三郎は頷いた。「ひとりでは強くなれぬか?」
「はい…」彼女は抑えきれない感情に身を動かせた。その感情の波は全身の血管を駆けめぐり、千代の体を火照らせた。…武蔵にあいたい…只そう強く思った。
 千代は身支度した。旅に出るのだ。「わたくしは美作へまいります。あとはよろしく兄上、では!」
「え? 千代、もういくのか?」三郎は驚いた。妹の素早い決断に驚いたのである。
 お幹婆はなおも「この親不幸者め!」といった。
 三郎の妻・おねは何もいわなかった。
 只、同じ女として千代の女心が理解できるのであった。

  武蔵はひとりで木刀を柱に打ちつけ、掌に血豆が出来るほど打ち込んだ。
「俺は……強い! 強くなるんだ!」
 武蔵は必死だった。そして、数日が過ぎた。
 池田輝政がやってきた。紙を広げた。筆で「宮本武蔵」と書いてある。
 武蔵は呆気にとられた。          
「新免武蔵……今日からは宮本村の武蔵、宮本武蔵と名乗るがよい!」
 輝政はにやりとした。
「宮本……武蔵?」武蔵は囁くようにいった。気にいった名だった。宮本…武蔵。
 沢庵和尚は「武蔵、池田輝政公の温情に感謝しろよ。本当ならばなお前はもう死罪だったのだぞ」と武蔵を諭した。
 それにたいして武蔵は何も答えなかった。
  しばらく平穏な日々が続いた。
 武蔵は床に置いた紙に筆書きしていた。しかし、そんな生活ももう飽き飽きしていた。そして彼は意を決した。こんなところ…! 朝日が眩しい。
 やああっ! 筆で扉に大きくバッテンを書きつけ、
「俺はこの城を出る!」と叫んだ。
 と、同時に扉を開けて、駆け出した。城の廊下で池田輝政の家臣たちと擦れ違った。
「まて! 逃げたぞ! 追え!」
 武蔵は駆け続けた。
 門を出た。
「待て! 武蔵! ひとりでは強うなれん!」止めたのは沢庵だった。
 武蔵は立ち止まり「俺は……強くなってやる!」と唸るようにいった。その後、駆けて城を出た。沢庵は「あの男はわかっておらん」と舌打ちした。
 武蔵は、自由になった。
 しかし、武蔵には、千代が美作にいったことなど知るよしもなかった。
「俺は……強くなってやる!」
 武蔵は京への道を駆けながら狂ったように叫び続けた。


  佐々木小次郎は夜、京に着いた。
 彼は白い服をきて、刀をさしていた。彼に同行する女があった。
 お美江である。彼女は市女笠で、きれいな衣をまとっていた。
「お美江……なぜわしについてくる?」
 小次郎の問いに、彼女は答えなかった。
「お主の父親を殺した男ぞ」
「…それは」小次郎の問いに、彼女はやっと答えを出した。「あなたに懸想(愛)しているからです」
「懸想?」佐々木小次郎はまんざらでもなかった。
 相手がぶさいくな女なら、ぶくぶくに太った女や、オバさんでは嫌悪するだろう。だが、お美江は美少女だ。まんざらでもない。
「そうか」小次郎は歩きながら頷いた。満足の顔だった。



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宮本武蔵「武蔵VS小次郎 巌流島の戦」ブログ連載小説1

2011年04月10日 07時32分15秒 | 日記
小説
     武蔵!


                  MUSASHI! ~king of samurai ~
                ~「剣聖」宮本武蔵の戦略と真実!
                   今だからこそ、武蔵

                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
……この作品は事実をもとにしたフィクションです。事実とはいささか異なる点がありますご了承ください………
          あらすじ


 天下分け目の関ケ原で残負兵となった新免武蔵(のちの宮本武蔵)はお幹たちの住む屋敷へ逃げ込む。そこには恋人となる千代がいた。その兄・三郎と親友に。やがて野党との戦いで離れ離れに。武蔵は故郷・美作に帰り、囚われの身に。姫路城で池田輝政に「宮本武蔵」と名乗れ、といわれ城を出る。一方のライバル佐々木小次郎も越前から歴史の檜舞台に立つ。武蔵は吉岡清十郎と勝ち、その弟・伝七郎にも勝った。そして、吉岡一門との戦い「一乗寺下がり松」へ。そして勝利。しかし、武蔵には仕官の道がない。途方に暮れ、武蔵を追って一人旅を続ける千代。千代は柳生兵庫助に助けられ、柳生へ。
 やがて、ライバル佐々木小次郎との戦い「厳流島の戦い」へ。
 武蔵は勝ち、千代とも再会する。そんな中、大阪で鉄砲商いをしていた三郎にもあう。が、大阪で柳生の使いに殺される。三郎の妻・おねには赤子が……
 そして、大阪夏の陣。豊臣家滅亡とともに武蔵の恋人・千代も死ぬ。武蔵はひとり晩年、ほこらに籠って「五輪の書」を書く。そして64歳で生涯を終える。
         1 関ケ原合戦



「家康は佐波山城をおとし、一気に大阪をねらうつもりだな。馬鹿め! よし関ケ原に陣をひいて決戦だ」三成はにやりとした。
  東軍は十万あまりの兵力、西軍は八万五千、東軍優位だった。しかし、合戦に参加したのは東軍七万六千、西軍は三万五千といわれ数のうえで東軍が有利である。
 東軍は、浅野幸長(甲斐府中)、有馬豊次(遠江横須賀)、山内一豊(遠江相良)、堀尾吉晴(遠江浜松)、金森長近(飛騨高山)、池田輝政(三河吉田)、福島正則(尾張清洲)、前田利長(越中一国)、九鬼守隆(志摩鳥羽)、筒井定次(伊勢上野)、細川忠興(丹後宮津)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒一正(讃岐高松)、加藤嘉明(伊予松崎)、藤堂高虎(伊予板島)、黒田長政(備前中津)、寺沢広高(備前唐津)、加藤清正(肥後熊本)。他に伊達や最上義光も参戦発表したが、実際には参戦していないという。
 西軍は、上杉景勝(会津若松)、佐竹、真田、赤座、宇喜多、長曽我部、小早川、島津島……。西軍は「鶴翼の陣」であった。
 家康は桃配山に陣をしき、石田三成は伊吹山に麓に陣をひいた。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、朝八時、関ケ原の霧が晴れると同時に戦の幕がきっておとされた。
「東軍の先頭は福島正則なり! 正面の宇喜多軍を討て!」
「攻め反せ!」合戦ははじまった。
 家康に伝令がくる。「藤堂は大谷の陣へ、織田は小西の陣へ討ち入りました!」
「よし! 田中、黒田、細川の隊は三成の本陣をせめよ!」
 家康はにやりとした。石田三成の元にも伝令がくる。
「本陣の兵力がかなり不足してきました」
 三成は不安な顔を隠し「毛利は何をしておるのじゃ?! 一万五千の兵をもちながら……早く戦を始めるように伝えよ!」
 毛利の元にも伝令がくる。「早く戦をはじめよとの三成様からのことばです!」
 毛利秀元(毛利輝元は大阪城にいた)は「この戦、わしの思いとおりにやる。出過ぎた指図はせぬように三成殿に伝えよ」と不快な顔でいった。
 伝令が去ると、「すこしばかり頭がよくて秀吉公に可愛がられたとはいえ、たかだか二十万石の大名ではないか。加藤清正におわれたときは家康に助けをもとめたほどの腰抜けのくせに…百二十万石の毛利に指図などかたはら痛いわ」と秀元は思った。
 このように豊臣軍の中には三成に反感をもつものが多かったという。
 間もなく昼になるが、戦は一進一退でなかなか勝負がつかない。
 こばせやかわひであき                                 「小早川秀秋は何をしておるのじゃ?」三成は焦った。「二万もの兵をもっておるのに」
家康陣でも小早川秀秋のことで軍儀していた。「どうじゃ、秀秋の軍はまだ動かぬか」「はっ、まだ動きませぬ!」
 家康は策をめぐらせた。「わが東軍にねがえると約束しておきながら臆病風にでもふかれとるのか…よし!」家康は小早川のたてこもる松尾山へ向けて鉄砲を一斉射撃させた。 わすが二十歳の小早川秀秋は動揺した。とうとう家康が怒った……とびびった。ふつう鉄砲をうちかけられたらその相手を敵としてうちかかるのが普通であろう。しかし、秀秋は軟弱な男であったため、びくびく震えて、
「……よし……西軍の横ばらへせめかかろう…」あえぎあえぎだが、声を出した。
「殿!」
「大谷の陣へ攻めよ!」小早川秀秋は寝返った。脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊も家康陣営にねがえった。こうして、西軍は敗走しだした。
 午後四時頃、八時間におよんだ関ケ原合戦はついに家康の率いる東軍の大勝利に終わった。この合戦では二万五千丁もの鉄砲がつかわれたという。その数は世界の鉄砲の三分の一にものぼるという。こうして、家康は勝利した。息子・秀忠の十万の兵は間に合わなかったが、とにかく家康は勝った。
 上杉景勝は会津にいた。上杉は読みあやまった。関ケ原の戦いはもっと長引くとみていたのだ。それから出陣すればよい……しかし、短期で戦はおわってしまう。上杉のさらなる誤算は、合戦が終わると、総大将の毛利輝元が大阪城から出ていったことだという。大阪で毛利がもっと頑張っていれば、もう少し局面は違っていただろう。しかし、いつの時代もひとは利益より恐怖に弱い。家康が、毛利百二十万石に手をつけないというと、吉川広家という毛利の甥がそれに乗り、毛利自身も大阪城を後にして川口の屋敷に逃げてしまう。こうして、関ケ原のあと、世は確実に徳川の世になった。
 石田三成は遁走中に捕らえられ、切腹させられた。享年・四十一歳であった。
 息子の秀忠は遅刻した。
 かれがきたときにはもう合戦はおわっていたのだ。
「秀忠……遅かったではないか」家康はせめた。息子は「申し訳ござりません! 父上!」と平伏した。「まあ、よい……勝ったのだから…もし……わしが負けてたらどうした?」「いいえ」秀忠は首を振り「父上が三成ごときに負ける訳がございませぬ」
「さようか?」家康は笑った。
 まあ、何にせよ勝ったのだ。あとの”目の上のタンコブ”は大阪城の淀殿と秀頼だけだ。  関ケ原の戦後処理で、家康は九〇の大名を廃し、約四四〇万石を没収、減封分をくわえると六七〇万石を手中におさめ、事実上の天下人となった。が、名目上の資格はいわば「将軍代行」であったという。まぁ、さいわいなことに秀吉は征夷大将軍のタイトルがなかったから、「将軍代行」とは少し正確ではない。それが家康にさいわいした。
 家康が征夷大将軍となり、豊臣家をつぶせばいいのだ。家康は策をめぐらせた。
  関ケ原では十五万もの兵士が激突した。
 兵士たちの死骸が累々と野原に横たわっていた。靄がかかっている。徳川家康率いる東軍の勝利である。新免武蔵(のちの宮本武蔵)は西軍・宇喜多秀家の傭兵として参戦していた。武蔵は死ななかった。あれだけ死んだというのに武蔵は無事だった……
 合戦のときは多くの敵を斬り殺したという。武蔵は天正十(一五八二)年、岡山県の美作に生まれたとされる。しかし、出生地は他にもいろいろとあり、謎が多い。十三歳のとき有馬喜兵衛という人物を殺したともいわれている。
 武蔵は死骸をのけると、ボロボロの服のまま立ち上がった。宇喜多軍の旗指物を外した。髪は後ろで束ね、チヨンマゲまで誇だらけだ。刀を構えているが、周囲には死骸と馬以外いない。新免武蔵は確かに、不思議な印象を与える人物だった。
 がっしりとした肩に太い腕足、鬼のようにつり上がった目、長いチョンマゲ、しかしどこか若臭い、むさ苦しい青年……だが、心は落ち着くことはない。
 彼は、刀を構えながら死骸の山の中を彷徨った。
 どうしてだろう? 世の中には楽しいこともいっぱいあるだろうに、何故、武蔵の目の前でバラバラになってしまうのだろう。
「俺は……強い!」
 新免武蔵はひとりで暗い声でいった。
 武蔵の鬼のような顔に少年っぽい笑顔が広った。馬の音がする。濃い霧でわからないが、遠くから馬の駆ける音がきこえる。……よし! 首をとって大手柄だ! 西軍か東軍かわからないが、この際、どちらでもよい! 首をとれ! 首をとるんだ!
 馬が近付いてきた。馬上にいるのは徳川家剣術指南役・柳生宗矩であった。宗矩は口髭を生やした若い男で剣の達人でもあった。
 この頃の武蔵の勝てる相手ではない。しかし、武蔵は刀を構えた。
「どけ!」
 宗矩は武蔵を蹴散らし、去った。
 武蔵はそれを茫然と見送った。……くそったれ! 誰だ、ありゃあ?
 とにかく頭がひどく痛かった。ズキズキとした痛みが肩まできたが、のんびりとここに突っ立っている訳にもいかない。自分が荷担した宇喜多軍はやぶれたのだ。
 直に、貪欲な農民たちが鎧や刀を盗みにくる。”落ち武者狩り”もすぐに実行されるだろう。このままでは自分までやられてしまう。
「……くそったれ!」武蔵は舌打ちした。俺が……負けた…?
 武蔵は頭を振った。「糞ったれめ!」叫んだ。
 すると、遠くの樹海の方で物音がした。武蔵は駆けた。…しめた!  首をとって大手柄だ! 西軍か東軍かわからないが、この際、どちらでもよい! 首をとれ! 首をとるんだ!
 難なく追いかけることができる。相手は後ろ姿でわからないが、小柄な人物だった。死骸からはぎ取った刀や鎧をもっている。盗んで売るつもりだったようだ。
「待て!」武蔵は駆けた。
 その小柄な頭巾の人物は鎧や刀を捨てた。諦めた。武蔵が追いつき、その人物にタックルをかけた。すると、以外な感触があった。武蔵はその人物の膨らんだやわらかな胸に手を触れた。………こいつ、女子?! 顔は汚れていたが、美貌の少女のそれだった。
 ………女子?
 武蔵が動揺して茫然としていると、その美少女は駆け逃げていった。
 彼は娘が駆けていくのを茫然と見送った。……女子の胸にはじめて触れた。やわらかいものだった。武蔵は帆柱立つ(勃起すること)ことはなかった。が、初めての感触に、何が何だかわからなかった。どう表現すればいいのだろう。
 武蔵は頭が痛かった。かれには一夜の熟睡と熱い風呂が必要だった。
 武蔵は彷徨った。
 彼には頭の痛い問題が山積していた。”落ち武者狩り”から逃れること、食べ物、さっ           
きの女子のこと、剣、兵法、睡眠、銭………すべてがドンづまり状態だった。
 それにしても、どうすべきか? これからどうする?
 俺が負けた。負けたんだ。くそったれめ!
  やがて陽も暮れた。
 武蔵は小枝を集め、暖をとった。食べ物などもってなかった。
「腹減ったな」彼は弱音を吐いた。
 御腹がぐうぐうなった。この腹め! ………なんともなさけない。
 そんな時、山中の草むらで歩く音がきこえた。そして、こうこうとした松明の紅蓮の炎も。………”落ち武者狩り”か?
 武蔵は刀に手をかけ、鞘から抜くように身構えた。
 その人物はひとりだった。農民のようだ。右手で松明をかかえている。
「お主、落ち武者か?」
 甲高い声で、その男はいった。猿のような顔がやっと明りでみえた。農民は歯をみせて笑った。武蔵は刀を構え、「”落ち武者狩り”か?」とドスのきいた声で尋ねた。
「……いやぁ」
 武蔵はなおも「俺は狩られたりせぬぞ!」とその男を威嚇した。
 農民は笑った。「違う! 違う! 俺は”落ち武者狩り”じゃねぇ」
「ならばなんだ?」
「只の百姓よ。俺の名は稲本三郎………お主は?」       
「武蔵……新免武蔵」
「そうか」三郎はにこりと笑うと、「どこの軍にいた?」
「宇喜多軍だ」
「宇喜多? あんなやつのところで槍働きしたのか? 馬鹿だなぁお前は」
 それにたいして武蔵は声もでなかった。言葉をなくしてしまった。
 そんな時、御腹がぐうぐう鳴った。
 三郎は笑って「腹が減ったのか? なら俺んとこへ来い。うまいおまんま食わしてやる」 武蔵はいぶかしがった。「なぜ? なぜ俺を助ける?」
 生まれたときからひとに優しくされてこなかった武蔵は、人情を知らなかった。只、強くなりたい! そう思って生きてきた。それなのに………
 この稲本三郎という男は何なんだろう?
「俺を騙す気か?」武蔵は心を閉ざしたままだった。
「そんなんじゃねぇってば」三郎は笑顔のままいった。「いいから来な! 俺はなぁ。いいやつなんだよ」
「……いいやつ?」
「そう、いいやつなんだよ、俺は」三郎はにやりといった。「直に、百姓たちの本物の”落ち武者狩り”が始まるぞ。急げ!」
 武蔵は言葉も出さず、只、疑惑を感じながらも従った。
 半信半疑のまま武蔵は三郎の後をおった。とにかく腹は減るし、頭は痛いしでまいっていた。とにかく、なんとかこの窮地を脱したい。
 やがて、森を抜けると、一建の茅葺き屋根の民家がみえた。なぜか柵がしかれている。「ここだ! 武蔵、ここが俺の家だ………もっともうるさいおっかあがいるがの」
 三郎はにこにこいった。
「稲本殿………本当によいのでごさるか? 拙者は落ち武者ですぞ」
「かまうもんか」三郎はいった。「それに俺に”殿”はいらねぇ。三郎……いやさぶやんとでも呼んでくれ」
「さぶやん?」
「おぉとも、さぶやん、だ!」三郎はおどけた。
 それでやっと武蔵の心の中の氷が溶けた。全身の血管を感情……いいようもない感情が駆けめぐった。それは実際の感情ではなく、思い出のような、そんな不思議な感情だった。「ほら、はいれ」
「かたじけない! さぶやん」ふたりは笑顔でみつめあい、握手をかわした。なんにせよ、友情が生まれた瞬間だった。武蔵と三郎、落ち武者と農民、武蔵とさぶやん…
「おっかあ! 客人だ!」
 三郎がいうと、玄関に婆がでてきた。質素の服を着た皺だらけの小柄な老女だった。
「俺のおふくろのお幹婆だ、武蔵」
「”婆”は余計じゃ、三郎」お幹は渋い顔のままいった。そして、「これは落ち武者ではないのか? 三郎」と尋ねた。
「まぁまあ、いいってことよ、おふくろ」
「どこがよいのじゃ!」お幹は悪態をついた。「侍たちに睨まれるぞぇ」
「おふくろ……野党と戦うにはいい”戦力”じゃろう?」
「ほうか…そういうことか」お幹は笑った。
 ………野党? 武蔵は不思議な顔をした。
 三郎は「へいってくれ、武蔵」といった。武蔵は恐縮しながらも「ごめんつかまつる」と低い声でいった。中は意外と広々としていた。いろりがある。
 そして、武蔵は驚いた。中に武装した侍たちが何人かいる。どういうことだろう?
「こいつがおれのおっかあの、おね、だ」三郎はにやにやいった。
 三郎の妻は、なかなかの美人だった。武蔵は「新免武蔵でござる」と頭を下げた。
「おねです。こちらの娘は千代……」
 おねの言葉に武蔵は反応し、料理をつくっている娘に目をやった。
 ………なんと美しい娘だろうか。
 確かに、千代は美しかった。
 黒く束ねた髪、透明に近い肌、ふたえの大きな、大きな瞳にはびっしりと長いまつげが生えていて、伏し目にすると深い影を落とす。血管が浮くような細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるで神仏がつくった人形のような端整な外見をしていた。そして、武蔵は気付いた。……あのときの女子だ! 胸を触ってしまった…あの…「はじめまして千代殿、そのせつは…」武蔵は口ごもった。
「…いいえ。いいんです」千代も恥じらった。
「千代殿はさぶやん…いや三郎殿の娘か?」
 武蔵が問うと、お幹が「違う! 違う! 千代は三郎の妹じゃ。三郎とおねには子がおらん」と口をはさんだ。
「そうでしたか」武蔵はなぜかホッとした。お幹は「千代は末通娘(生娘)じゃからちょっかいはやめてくれよ」と冗談のようにいった。
 武蔵と千代は見詰めあった。それは恋愛感情なのか。それとも別の感情なのか…武蔵にはわからなかった。「千代です」彼女は頭をさげた。
「わからんやつじゃのう。千代にはいいなずけがおるのじゃ」お幹は悪態までつきはじめた。「ここにいる三之助じゃ」
 すると武装した男たちの中のひとりが手をあげた。なかなかの色男だ。
 千代は「母さまが勝手に決めただけです!」と強くいった。
「千代、三之助では不服か?」母・お幹は尋ねた。
「いえそのようなことは…」千代は言葉をきった。
「さぶやん。この武装した男たちは何だ?」武蔵はやっと疑問を尋ねた。
「ああ」三郎は頭をかいてから「この家にはな、ほれ!」と上をむいた。武蔵も天井をみた。屋根裏部屋には死骸からはぎとった刀や鎧などが山積みされていた。
「このお宝を狙って度々野党どもが襲撃してくる。それで追っ払おうと…。のう、三之助」 三之助は鎧姿のまま立ち上がり「おうとも! 俺たちだけで野党どもを成敗するのよ!」 といった。武蔵に強い嫉妬を抱いていた。妙に千代と仲がよいではないか。俺は千代の許嫁ぞ! この落ち武者め!
 武蔵は「それで侍を探していたのか? 野党は何人ぐらいなのだ?」
「十三人程度だ」三郎は答えた。「こっちは武蔵、お主を加えて十人…」
 ………そうか。そういうことか……野党との闘いのため…か
 御飯を頂いて、武蔵は一息ついた。三之助たちも食事をした。質素な粥だった。
「ところで、さぶやん」
「なんだ武蔵?」
「さぶやんは武装しなくていのか?」
「俺は…」三郎はにやりとした。「司令官、指示するだけだ。刀しかもたない」
 ふたりは笑った。千代はなおも武蔵を一途に思うのであった。
 ……武蔵は思った。”三之助という男は使えるが、あとの男たちはダメだ。こちらが不利なのは明らかだ”しかし、逃げ出すほど俺は弱くない! 一対十三でも十分だ。

「なんだ? その格好は、さぶやん」
 その夜、部屋にやってきた三郎の姿を見て、武蔵はいった。三郎は鎖をきていた。
 灯籠に火をつけてのことだった。
「俺だって好き好んでこんな格好しているんじゃねぇよ」
「どうかしたのか?」
「三之助だよ。武蔵が悪いんだぞ」
「俺が……?」
「三之助に剣のことで説教めいたこというから……三之助、千代にいいところをみせようと思って、例の高橋小二郎一人をつれて、野党の巣の館へ討ち入りに出掛けた。死ぬ気だぞ、あれは」
 武蔵は珍しく狼狽して「三之助には無理だ」
「無理でもああいうやつだから、俺たちの足手まといになってないってことを見せようとして討ち入りにいったんだよ、きっと」
「馬鹿野郎!」
 武蔵は起き、いまいましそうに衣服をつけた。確かに、三之助は武蔵のような剣豪にとって足手まといだった。しかし、その三之助を見殺しにしては千代にあわせる顔がない。「さぶやん、手の者を駆けさせろ! 俺はあとでいく!」
 三郎と浪人隊が駆け出した。
「三之助……まだ死ぬなよ!」三郎はいった。駆けながら。必死に。
 宮本武蔵は人の命など、塵のほどにも思っていない人物だったという。なのに、なぜ、三之助程度の男のために必死になったのか?
 それは、千代との縁である。三郎との縁でもある。三之助は千代の許嫁だという。そういう縁なのである。
 そして、三之助は死ななかった。武蔵の援軍がかけつけ、野党者浪人たちをバッタバッタと斬り殺した。こうして、三之助は助かった。
  稲本三郎邸への斬り込みは六月五日午後七時頃だった。野党者浪人の残党が復讐しに襲撃してきたのだ。このとき三郎の浪人組は二隊に別れた。武蔵がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、三郎が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた又左衛門が、残党たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」武蔵は囁くように命令した。
 あとは武蔵と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。三郎は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 武蔵たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が武蔵に続いた。
「千代殿、おね…お幹殿、納屋へ隠れて」武蔵が彼女らにつげた。彼女たちは「すみません」といい隠れた。
 武蔵は廊下から出てきた野党浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは武蔵であった。刀を抜き、野党の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて野党の頭を斬りつけた。三郎は斬られてころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだ。昏倒した。乱闘になった。
 武蔵たちはわずか四人、野党は十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 武蔵は叫んだ。しかし、野党たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、武蔵と三之助、田所、藤堂だけであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 田所が討ち死にし、藤堂が死んだ。「武蔵…生きろ! 生き抜け!」
 武蔵はひとりで闘い続けた。武蔵の剣といえば、剣豪でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も殺した。
 三之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、三之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、三之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、三之助は無想で刀を振り回した。三之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 武蔵と三郎だけになった。しかし、武蔵が野党の頭を倒した。こうして、武蔵は決闘で勝った。「……俺は…強い!」武蔵は血を浴びながら叫んだ。
  早朝、むくろを片付けていると、三之助がまだ生きていることに武蔵は気付いた。
「……三之助殿?」武蔵はきいた。             
「…生きよ…武蔵殿………剣がその身を貫くその刹那でさえ、生きる…と思え」
 三之助は虫の息だった。「千代は無事…か…?」
「だいじょうぶ…無事だ、三之助殿」
 武蔵は囁くようにいって、にこりとした顔を見せた。
「そう…か…」三之助は横たわり、荒い息のまま、「千代を……頼む…ぞ…武蔵殿」
 武蔵は珍しく狼狽して、「すぐ千代殿を呼んでくる」といった。
「いい! ……頼む…ぞ」
 三之助は武蔵の腕の中で息をひきとった。
「どうした? 武蔵」三郎がやってきて飄々といった。武蔵は、
「三之助殿がみまかった」と涙声でいった。「千代殿を……頼むと」
「そうか…なら、頼む」三郎はいった。続けて「俺たちは京に行くことに決めた。こんなとこ物騒でいけねぇ。また、同じような野党が現れては消える」
「京?」
「そうさ!」三郎は猿のような顔に笑顔を作り、「京で商いして一旗あげるのよ!」
「しかし……」
 武蔵が口ごもったとき、お幹婆が、「よくも三之助を! お前が見殺しにしたのじゃ!」 と、食ってかかってきた。三郎は止めた。「よさんか、おふくろ! 武蔵が悪いんじゃねぇ!」         
 千代たちは市女笠の旅服姿であった。
「武蔵、お前も一緒に京にいかんか?」
 三郎は提案した。「せっかく仲良くなれたんだしな。俺たち親友だろ?」         
「いや、ありがたいが…拙者は美作(岡山県)に帰る」
 それに反応したのは千代だった。「でも…武蔵さんは落ち武者でしょ? 帰ったら殺されたりするかも…」千代は泣きそうな顔になった。
「千代殿」武蔵は、心臓を高鳴らしながら笑顔を作り「俺は強いのです。どんな相手だろうと……打ち負かします。ご心配なく」とゆっくり言った。
「ひとりでは……強くなれません」千代はすがるように言った。
 武蔵は沈黙し、「今は…」と何かいいかけた。
「武蔵さん?」
「……ごめん!」
 武蔵は必死に駆け出した。とにかく、今は……自分がもっと強くなったら…そのときこそ千代を…。武蔵は駆けた。とにかく駆けだした。
「武蔵!」「武蔵さん!」三郎や千代の声が遠くできこえたが、武蔵は、駆け、続けた。 美作に、帰るのだ。美作に。
 ライバル、佐々木小次郎との”巌流島の戦い”の数年前のこと、である。 

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毛沢東「中国の赤い星」「建国者から破壊者へ」ブログ連載小説2

2011年04月02日 08時09分30秒 | 日記
         第二章 立志



         毛沢東 誕生



  確かにそれは平穏な時代ではなかった。
 19世紀末期の中国は、腐敗した清朝とイギリスや軍国日本などに翻弄される「湖畔の木の葉

」のような存在だった。西洋列強が中国を食い物にし、すべてを搾取していた時代だった。そ

んな中、あの、のちの英雄、中国建国の父にして独裁者の毛沢東は誕生している。1893年

12月26日、湖南省・韶山にて、毛沢東は豊農の父・毛順生の長男として生まれた。母の名前は

、文氏。父・毛順生は10畝(十アール)の田を持ち、農業のかたわら穀   
物取り引きも手掛ける豊農だった。家族は他にも次男・沢民と三男・沢覃がいた。
 毛沢東は生まれると、すぐに産湯につけられ、「おぎゃあ!おぎゃあ!」と元気に泣いた、

と文献には載っている。よほど元気な赤子だったのだろう。
 もちろん、父・毛順生は初めての子供の誕生…しかも男の子とあって、とても嬉しかったに

違いない。父・毛順生は割腹のいい体に人民服を着ていて、髪は弁髪にしている。がっちりし

た胸や肩は逞しく、口髭を生やし、堂々たる中国農民そのものの男であった。母の文氏は痩せ

た体のすらりとした手足の女で、どこにでもいる平凡な女性のように見える。 父・毛順生は

赤子を抱きかかえて、
「よし、文氏、よくやった。元気な……男の子だ」と言った。
 そして、続けて、「お前は農民にはしないぞ。……読み書きやそろばんを習わせて商人にし

てやる」とにこにこと赤子に言って笑った。
「あなた…商人ですか?」
「あぁ、商人だ。立派な商人にしてやるぞ!この湖南省地区一番のな!」
「…それはすごいわ」
 父と母は笑った。愛と安らぎがふたりを包みこんだ。愛情の、波だ。
 もちろんこの赤ん坊、毛沢東は商人にはならなかった。が、このように比較的裕福な農家の

家に生まれたことは毛沢東にとってはラッキーだったに違いない。もし、貧乏な家に生まれて

いたら、今の中国のヘイハイズー(黒刻子)のように文字も読めず…足算もできないような子

供になっていたに違いない。そうなれば「中国建国」どころか、まともに仕事もできず結婚も

できないような悲惨な人生を送るだけの人間になっていたことは間違いないだろう。もしそう

だったら、今の中国も成ってなかったし、その後の小平の「改革開放経済」もなかったろう


 そう思うと、毛沢東が生まれて(独裁前の中国にとって)本当によかったと思う。
 しかし、のちに毛沢東自身が、
”私の人生は、間断なき闘争の歴史だったが、その最初の相手は父だった”
 …と語っているように、彼の闘争はすでに始まっていた。


             アヘン                            

十九世紀後半の中国は、阿片戦争、清仏戦争、日清戦争に破れ、英・米・独・仏・露 の西洋

列強や日本などに国土を蚕食されつつあった。
  いっぽう国内に置いては、満州王朝である清朝の打倒と列強一掃の旗印のもと、太平 天

国の乱や義和団の乱があいつぎ社会不安を増大させていた。
  中央では官吏の腐敗、地方では地主の下層農民への誅求搾取はますます激しく、そのため

に難民・流民・餓死者が氾濫し、まさに内憂外患の暗黒の時代であった。




  それはうららかな春の一日だった。
 晴れたブルーの空にはトンビがひらひらと飛んでおり、きらきらとした陽の光が田畑にそそ

がれていた。なんとも平和そうな、のんびりとした一日で、毛沢東にとっても、他のひとにと

っても目の前の恐怖を少なからず和らげてくれるような、そんな季節だった。
 もちろん、時代はそんなに甘いものではなく、中央では官吏の腐敗、地方では地主の下層農

民への誅求搾取はますます激しく、そのために難民・流民・餓死者が氾濫し、まさに内憂外患

の暗黒の時代であった。まさに、ひとがひとを食らうような時代だった。
「あぁ、いい天気だな」彼の端整な顔に少年っぽい笑みが広がった。
 ハンサムで利発な毛沢東少年は、青い空を自宅の窓から見上げて言った。そして、ほんわり

と微笑した。毛沢東は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年はまだ十二才だというの

に大人びていて、すらりと細い体に手足、がっちりした肩や首はクールな印象を与える。弁髪

、きつそうな眉、人民服をぴしっと着こなして、瞳を輝かせている。
 そんな時、弟の沢民と沢譚がやってきて、「にいちゃん、本読んで」と言った。
「本?なんの本をだい?」
「なんでもいいよ!」
 弟たちは元気に言った。
「そうか。なら……『三国志』だ」毛沢東少年は言った。そして本をひろげて、読み始めた。

ちょうど、口うるさい父親がいないので、それも彼にとってはよい出来事であった。「………

劉備は言った。「軍師!よくぞきてくれた。やはりお主のような逸材がいないと余の軍はダメ

じゃ」それに対して諸葛亮(孔明)は言った。「いいえ。この軍が安泰なのも主君あってのこ

とです。主君あっての私です。一刻もはやく飢えに苦しむ民を救い、漢室を復興し、「天下三

分の計」果ては「天下統一」を成し得ましょう!」「軍師…そちがいれば余の軍は安泰じゃ」

…そういうと劉備は…」
 そこまで読んでみて、沢東はハッとした。なぜか?
「こらっ、沢東!」という父親の怒鳴り声をきいたからだ。
「……父さん…」
 父・毛順生は息子の沢東の背後から歩いて近付いてきて、本を取り上げて、「『三国志』?!

……馬鹿もん!こんな本を読ませるために塾に通わせてやってるんじゃないぞ!このぉ!」と

怒鳴り散らした。その後に、「こんなもの!」と本を床に叩き付けて、ぎゅうっと靴で踏んだ


「……なにをするんですか、父さん!」
「くだらんものは読むな、沢東!お前に読み書きを習わせてやっているのは商人にするためだ

!くだらん本を読ませるために塾に通わせてやってるんじゃないぞ!」
 毛順生はいきまいた。
「父さんは『三国志』がくだらないというのですか?!」
「そうとも!」
 毛順生はますますいきまいた。そして、「沢東! お前に読み書きを習わせているのは商売

に役立たせるためだ! 無駄な本読みは一切許さん!」
「しかし……」
「いいか!」毛順生は腕を振った。「いまはひとがひとを食ってふとる時代だ!まごまごして

いると食われてしまうぞ!」
「すると、お父さんは家の十五畝の土地を得るのに随分とひとを食ってきた訳ですね?」 毛

沢東は言った。抑圧のある声であった。
「なにっ?!」父親は顔を紅潮させた。そして、ついに怒りは爆発した。「こいつ!」そう怒鳴

ると、毛順生は息子の頬にゲンコツを食らわせた。妙に冴えた音が響く。が、父親にとっては

そんなことはどうでもいいことでもあった。
「このやろう!生意気な!」
 毛順生はなおも息子の頬にゲンコツを食らわせた。
 沢東の弟たちは泣きだし、母・文氏は、
「おまえさん、やめて!」と順生にしがみつき、嘆願した。だが、毛順生の暴力は止まらなか

った。
「世の中には飢え死にするやつがゴロゴロいるというのに……おまえたちが十分食っていける

のは誰のおかげだ?!」
「お父さん!」毛沢東は言った。「この間読んだ本にこんなのがありました……」
「なにっ?」
「あぁ中国、まさに滅びんとす!」
「中国?」毛順生の暴力がストップした。いや、唖然としたのだ。
「……あぁ中国、まさに滅びんとす!
 日本は朝鮮・台湾を占領し、夷荻(外国人のこと)は安南ビルマの宗主権を奪った。いまに

して救国の道を講ざずば中国の滅亡は火をみるより明らかである。
 しかるになんぞや!
 清朝は腐敗、衰弱し……人々は私利私欲に狂奔している。
 あぁ中国、まさに滅びんとす!」
「…中国?!バカモノ!中国の心配をする暇があったら米一合稼ぐ心配をしろ!」
「お父さん、国が滅んだら……僕たちは外国の奴隷になるのですよ!それでもいいのですか?


「ムムムー」ここにきて父・毛順生の怒りは頂点に達した。なにが中国だ!なにが奴隷だ!な

にが滅びるって?馬鹿なことばかりいいやがって!
「この野郎!つべこべと屁理屈ばかりぬかすな!」
 毛順生は、ふたたび息子を殴ろうと拳を振り上げた。
 するとどうだろう?
 毛沢東の弟たちと母親が、ふたりの間に割って入って、言った。「殴るなら私を殴ってくだ

さい!」
「うぬぬ…」毛順生は、その態度に、拳を止めて立ち尽くすしかなかった。
 のちに毛沢東は言っている。
”家の中にはふたつの「党」があった。ひとつは父、つまり支配者。反対党は私と母と弟たち

の連合戦線だった。わが党は団結してしばしば独裁者を悩ませた”
                            毛沢東

  この頃、毛沢東少年は、神学者を志す李水蓮という美貌の女性と親しくなっていた。 の

ちに、毛の愛人となる女性である。
 李水蓮は十六才の美貌の少女で、髪も長くて、すらっと細く華奢な体が印象的な少女だ。チ

ャイナ・ドレスから飛び出した脚や膨らんだ胸が、男心をそそる。
 うららかな草原の風景。陽射しが川に反射して、ハレーションをおこす。それはしんとした

感傷にも似ていた。ふたりは草原に寝そべって、蒼天を眺めた。
「……ぼくはきっと中国を動かしてみせる。今の清朝はつぶさなければ」毛はいった。
 それに対して李水蓮は「それはすごいわ!それじゃあ、まるで中国のリンカーンね。神のご

加護があなたにありますように」とにこりとした。
「……神? 神なんていないさ。すべては人間が作り出すんだよ。神様じゃなくね」
 毛沢東少年はいった。それにたいして、彼女は何もいわなかった。
 そして、ふたりはいつまでも、透き通るような蒼天をじっと眺めた。

         農民一揆(チーターフー)



  季節は秋となっていた。
『実りの秋』とはよくいったもので、時代がいかに危機的な状況でも、田畑には穀物が実り、

農家にとっては収穫の忙しさになっていた。しかし、この時代、中国の農家もまた搾取につぐ

搾取を受けていた。収穫のほとんどを地元の地主にとられ、農家のひとびとは食うや食わずの

生活をしいられていたのだ。
 そんなこともあってか、中国のあちこちで農民による一揆が相次いだという。もちろんそれ

は、毛沢東の住む土地でも同じだった。
  その日もそうだった。
 その一日は、たいしてどうっていうこともなかった。秋の晴れ間の一日で、ほんわりとした

天気や青空で、きらきらとした穏やかな陽差しが田畑に照りつけるだけの日だった。 きらき

らとした陽差しが川辺に照りつけて、ハレーションをおこす。
 毛沢東少年も、農作業を手伝い、カマで稲穂の束を刈って、収穫していた。
「ふうっ」
 しばらくしてから、毛沢東少年はそう一息ついた。
 そんな時だった。
「大変だーっ!大変だーっ!」と、村人たちが畦道を走って、ワーワーと騒いで駆けていくの

が見えた。「大変だーっ!龍老会の頭領が掴まったぞ!」
 毛沢東は手を止め、「龍老会?この間、地主のところへ押しかけた貧農の秘密結社か」と呟

いた。貧農の秘密結社の頭領が掴まったのだ。毛はいてもたってもいられず、やじ馬の中へ参

加し、一緒に駆け出した。そして、
「龍老会の頭領って誰です?」
 毛沢東は急かせてきいた。声が焦りでうわずった。
「知らねぇ!とにかく地主のとこの雇われ兵に捕まったらしい」
「いけばわかるさ!」
「おうとも!」

  いってみると、村人たちはあっと驚いた。なんと、捕まっているのは、石臼づくりの櫓権

ではないか!
「櫓権だ!石臼づくりの櫓権じゃねぇか!」
 集まったやじ馬はザワザワと騒ぎ出した。確かに、地主の雇われ兵に捕まって、後ろ手に手

錠をかけられて地面に跪いているのは、間違いなく「石臼づくりの櫓権」そのひとであった。

これには毛沢東も思わず動揺した。
 なぜなら、毛も「石臼づくりの櫓権」を知っていたからだ。まさか、龍老会の頭領が櫓権だ

ったとは…。そんな時、ボコボコに殴られたのか顔や体中アザだらけの櫓権という男は、言っ

た。「皆きいてくれ!俺は石臼もつくるが本職は農民だ。農民の仕事は米をつくることだ!と

ころがおれたち農民は汗水たらして収穫した米は食べることもできねえ!…おかしいじゃねぇ

か!」
「うるさい!黙れ!」雇われ兵が男の顔を銃鉄でがつんと殴った。しかし、櫓権という男は、

さらに言った。「……遊んでて食えねぇっていうなら話しは分かる!だが、俺たちは一生懸命

死ぬほど働いても食うことができねぇんだ!おかしいじゃねぇか!皆、いつまで黙ってるつも

りだ?!声を上げろ!行動を起こせ!」
「うるさい!黙れ!」
 ぶくぶくにふとった地主の男が、怒鳴った。すると、ヤジ馬の中から声がきこえだし、つい

に合唱になった。不満が爆発したのだ。
「農民の頭にゃ刀が三本!」
「……借金!税金!高い利子!農民の前には道三筋…」
「夜逃げか!死刑か!監獄行きか!」
「うるさい、黙らんか!」醜く豚のように太った地主の男は怒鳴り、「やれ」という合図か、

雇い兵に顎をしゃくって見せた。
 雇われ兵が銃口を男のこめかみに当て、引き金を引くと、鈍い音が響いた。そして次の瞬間

、櫓権はこめかみから血を流して、ボロ切れのように地面に転がった。それはまるで虫ころを

殺すように簡単に終わった。まるで虫ころを殺すように簡単にひとを、農民を殺す男たち……

これがほんとうに同じ中国人のすることか?!
 毛沢東は愕然とするしかなかった。




  1899年湖南省一帯を大飢饉が襲った。
 そこで毛沢東は、また、ひどい話しを耳にする。なんと、「飢えに苦しんだ小作人たちが、

地主のところに一揆に押しかけた」というのだ。
「え?!それで?!」
 毛沢東の父がやってきた隣人の男に尋ねた。
「それが……地主の雇っている私兵どもに銃で皆殺しにされたと…」
 毛沢東は、その話しに強い衝撃を受けた。そして、いてもたってもいられず、外に駆け出し

た。外へ!夜空と暗闇の広がる草原へ!
「くそう!」毛沢東は下唇を噛んだ。そして、夜空の月に向かって叫んだ。
「いったいいつまで……?いつまでこんなことが続くんだ?!こんな無残で非道なことが……。

彼らを助け……彼らを救ってやれる者が……この広い中国にはひとりもいないというのか!諸

葛孔明も・備も関羽もこの世にはいないのか!」
 毛沢東は、夜空の月に向かって叫んだ。そうしているうちに、悔しさで両方の瞳から涙があ

ふれそうになった。毛沢東は上を向いてなんとか堪えようとしたが、無駄だった。遂に、ポロ

ポロと涙が両目から溢れ出て、止まらなかった。
「彼らを助け……彼らを救ってやれる者が……この広い中国にはひとりもいないというのか!


 毛沢東はふたたびそう叫ぶしかなかった。

”地主階級の農民にたいする残酷な経済的搾取と政治的抑圧のために、農民は地主階級の支配

に反抗して、何度となく蜂起を行わざるえなかった。……中国の封建社会では、このような農

民の階級闘争、農民戦争が歴史を発展させる真の原動力であった”
                            毛沢東


                    チャンシャー    ショウキュウ       
  1911年、毛沢東18才。……彼は省都長沙へのぼり、湘郷中学へ入学した。
”長・は湖南省の省都で、私の家から120里もはなれた大都会だった。1911年の長・は

中国全土がそうであったように、まさに第一革命の前夜にあった。”
                          毛沢東


  うららかな春の陽射しがあたりを照らしていた。ゆらゆらと春の雲が空の青に浮かんでい

る。なんともうららかなほんわりした一日だった。
 こどもの毛沢東は中学校の教室にいた。いまはけだるい午後だ。
”今日の中国に必要なのは、満州人王朝を駆逐して漢民族すなわち中国人による中国をつくる

こと。
 しかも、専制君主制ではない民主共和国をつくること。さらにすすんで、民衆の生活を楽に

するために社会改革を行うことだ。
  民族主義、民権主義、民生主義
 この三民主義こそ中国を救う道である。
                           孫文”

  中学生の毛沢東は教室で、この孫文の「三民主義」を読んで、えらく共鳴した。そして、

猛烈に孫文にひかれたという。
「三民主義か……」毛沢東は心臓に杭を打たれたように立ち尽くした。
 全身に、血管の奥に、なにやら熱いものがこみあげて伝わるのを感じた。なんだろう?とに

かく不思議な感じだ。三民主義か……。これはすごいものに違いない!
 毛沢東は弾かれたように椅子から腰をあげ、         
「き、君、この孫文ってどんな人だ?!」
 と近くの学生に尋ねた。
「なんだって?」学生はとてもゆっくり聞き返してから「こりゃあ驚いた。きみは孫文先生を

知らないのかね?」とボンヤリした口調で言った。
「君は、野を越え山を越え……とんでもない田舎から出てきたからなぁ」
「井の中の蛙、大海を知らず……か」
 もう一人の学生が嘲笑ぎみに笑った。
 まったく信じられない!という感じだった。孫文先生を知らないなんて……。おかしなやつ

だなぁ。……いや、無知なやつだなぁ……。
「孫文先生は、いまもっとも急進的な革命団体・中国同盟会の総理で、我々の思想的な指導者

だぜ!」
 毛に声をかけられた学生は真面目くさった顔をして立ち上がり、言った。
「先生は清朝の弾圧のために、いま日本に亡命中なんだ」
「そう。」もうひとりが続いた。「亡命先の日本からその民立報を発刊されているんだ!」「

三民主義か……」
 毛沢東は胸を熱くしてからふたたび呟いていた。三民主義か……。これこそ中国を清朝から

守る道だ。そうに違いない!
「いいかい?孫文先生はこうおっしゃっている。
”わが中国はいまや外敵の利権獲得のために蚕食を受け、危急存亡の時にある!
 これに対して、清朝はいかなる手段を講じたか。なんと、彼ら満人王朝は外国のいうがまま

になり、屈辱的な条約をつぎつぎと結び、わが中国を外国に売り渡しつつあるのだ! かかな

る売国的な清朝はただちにてんぷくさせて、われわれの手で中国人による中国をつくらなけれ

ばならない!
   トイファンマンチン
    推飛満清
   フーレンチョンホワ
    復興中華
 満人の清朝を打倒し、中華民族の国家を復興しよう!
 ………とね。わかるかい?」
「なんだいそりゃあ? 孫文先生のうけおりじゃねぇの」
 もうひとりの学生が、その学生を笑った。
 しかし、毛は笑わなかった。推飛満清…復興中華…。毛沢東は胸を熱くしてからふたたび呟

いていた。「推 満清…復興中華…」
 毛沢東はその言葉を繰り返し呟いた。「推飛満清…復興中華…」「推飛満清…復興中華…」

。呟き呟きつぶやきつぶやく…。悪魔のマントラ…。繰り返して呟く。
「おい!どうしたんだい?」
 同級生の少年がわけがわからず、立ち尽くしている毛にきいた。毛沢東が何をいっているの

かわからなかったので、もう一度その学生は「おい!どうしたんだい?」と尋ねた。    

 すると毛は、学生の弁髪(中国人の髪は当時、女の子のおさげ髪のように後ろで一本の三編

みにしていた。これを弁髪という)を掴んでぎらぎらした真剣な目をした。
「な、な、なんだ?!」
「諸君!この弁髪は、昔、満州族が中国を支配した時にわれわれ中国人に強制したものだ!…

…いまこそ、この弁髪を切って、清朝に対するわれわれの反抗の意志を示そう!」
 そういうと、毛沢東はナイフで自分の弁髪を切って捨てた。
 その大胆かつ迅速な行動に、他の学生たちは只唖然とするしかなかった。
「さぁ、諸君も切ろう!」
 毛沢東はナイフを持ち、逃げる学生たちを追いかけ出した。
「さぁ、君も!」
「ひいぃっ!やめてくれ!」
「君はさっき、推飛満清…復興中華…と演説したじゃないか!それを身をもってしめすのだ!


「それとこれとは話しが違うよぉ!」
「違うもんか!これがわれわれの革命のちいさなノロシだ」
「ひいぃっ!やめてくれ!」
 毛沢東はナイフでその学生の弁髪を切り、自分の弁髪も切った。それは言葉通り、毛の小さ

な革命ののろしで、あった。

 1911年10月10日、湖北省武漢において革命軍起つ!
 ……同月23日、長沙もこれに呼応す!
 毛沢東18才。…この日、ひとりの傍観者として革命軍が長沙の衛門に「大漢民国」の旗印を

あげるのをみたが、よもや自分が、三十八年後の同じ十月に天安門上にのぼり中華人民共和国

の建国を宣言することになろうとは、この時、夢にも思わなかった。     


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毛沢東「中国の赤い星」「建国者から破壊者へ」ブログ連載小説1

2011年04月01日 07時12分26秒 | 日記
小説
  毛沢東


             マオ・ツートン
             ~英雄・毛沢東の戦略!中華人民共和国の青春~





                     Total-produced&presented&Written by
                         midorikawa washu
                        緑川 鷲羽


    the novel is a dramatic interpretation
    of events and character based on public
    sources and an in complete historical
     record.some scenes and events are
    presented as composites or have been
    hypothesized or condensed.



    ー成功への扉は、押すか引くかしなければならないー
                     タルムード









         毛沢東 あらすじ


        マオツートン         
  この物語は、毛沢東の伝記小説である。
 中華人民共和国建国までは波乱と混乱に満ちた時期だったが、「中華人民共和国建国」という巨大なロマンがあった。そして、その頃の毛沢東はパワーあふれる革命児であるとともにロマンティスト、ヒューマニストであったと思う。しかし、建国後の毛は独裁色を強め、7億人(現在は13億)の民の神としてふるまい、「大躍進」「文化大革命」などの過ちを犯した。さらに江青ら「四人組」の暴走をゆるし、自己資本をいっさい認めないというまったく経済原理を無視した「共産・社会主義」の徹底、自分の権力維持のために劉                           
少奇や小平らを失脚・粛清したりした。ここに私は毛沢東の悲劇を見る。
「絶対的権力は絶対的に腐敗する」というのは真実なのだ。
  毛沢東は1893年、湖南省に生まれている。
 その当時の中国は、日本などの西洋列強や腐敗した清朝などに翻弄される「木の葉」のような国だった。幼い毛沢東はそんな祖国を救いたいと思う。しかし、当時の毛にはその力がなかった。そんな毛の憧れは、『中華民国』建設に燃える革命思想家・孫文…。毛沢東は学生軍ではなく、革命軍に入隊する。結果は孫文軍の勝利。しかし、中国は軍閥の支配する独裁国家になっただけだった。毛は失望し、教師となるために学校へ通う。そして朱徳や周恩来らに出会い共産党へ入党…。指導者となり、長征を指揮する。やがて日本軍や将介石の国民党軍と対立して激しい戦争を繰り広げる。民衆のために…国民のために……。果たして、毛沢東の挑戦の結果はいかに……?!中国の未来は…?!
 毛沢東は日本軍をやぶり、中華人民共和国を建国…。しかし、その晩年、彼は「文化大革命」や「大躍進」政策や、「非林非孔」運動などで評価を落とす。その恥をぬぐえないまま彼は、この世を去る事になる。その時、彼は何を思ったのか……?

                           「毛沢東」あらすじ おわり


  当時の中国人にとって、紅衛兵の若者たちは見慣れたものだったが、その行動が尋常ではない。みな人民服を着て赤い腕章をし、赤い毛語録の書いてある手帳を掲げ、赤旗を振って行進していく。紅衛兵の中には女の子までいた。
 紅衛兵の若者たちは無実の人達を「人民の敵」と呼び、首からプラカードを下げさせ、引き摺り回した。そうしたひとを殴ったり蹴ったりする若者までいる。
 すべて毛沢東の「文化大革命」の影響である。その行進を見ていた老人や女たちは、強烈な光を眉間に食らった気がした。ある者は怒りに震え、ある者は筋肉の力が抜け、へたりこんだ。恐怖に押し潰されて声も出せない。
 毛沢東の「文化大革命」は、こうして中国全土を破壊していった。








   第一部 毛沢東の挑戦








      第一章 毛沢東の建国


         新中国成立

  一九四九年十月一日。
 天安門広場は大勢の人々でごったがえしていた。無数の赤旗と中国国旗がひるがえる。          
見物人の間から拍手が沸き上がった。彼等の視線は、毛沢東に向けられていた。
 毛沢東は足下の人々にむかって手をふった。そして、メモ用紙を取り出して、
 チョンホワレンミンコンホクオ
「中華人民共和国
 チンテンチョンリーラ        
 今天成立了!」と宣言した。
 すぐさま何十万人という民衆から、大歓声と拍手がわきあがった。
「万才!万才!」「毛沢東主席、万才!万才!」「中華人民共和国万才!」
「万才!万才!」
 ”中国の革命は偉大ではあるが、
  革命後の行程はもっともながく、その仕事は、もっと偉大であり、もっとも労力のい るものである。
  中国の人民民主主義革命の勝利は、長い芝居のちいさな序幕にすぎない!
 われわれはまた新しい万里の長征の第一歩をふみだしたのだ。”
                      一九四九年・毛沢東
 中華人民共和国の成立である。
「五十六年間……今日のために闘ってきたのだ。……五十六年間…」毛沢東は心の中で言った。そして、感涙の気持ちをなんとか押し殺そうとした。「五十六年間……今日のために闘ってきたのだ。……五十六年間…」毛の勝利の瞬間だった。
 毛の顔が紅潮し、嬉しさで体中がどうにかなりそうなほど震えた。震えが止まらない。  毛沢東によって「新中国」の建国が宣言された。これは「共産党イコール新中国」という、共産党独裁宣言だった。そして、それは同時に共産党内での新たな権力闘争の始まりでもあった。それは、高嵐、尭瀬石の「反党陰謀活動」を理由とした摘発。これは周恩                               
来と劉小奇らによる陰謀だった。こうしてさまざまな権力闘争が激化することになる。
  この年、一九四九年の十二月、毛沢東はソヴィエト連邦を訪れている。しかし、この頃より中国とソ連の仲は悪くなっていくのである。毛沢東とスターリンの確執の違い、それが原因だった。………




         二・五戦略とMD(戦域ミサイル防衛構想)


  ナチス・ドイツと大日本帝国という悪の帝国が滅んだことは、とてもいいことだった。しかし、ドイツには原爆を落とさずに、何故アメリカは日本にだけ二発も落としたのか? もう日本の敗色は誰の目にも明らかな時に…。あるひとは、日本は黄色人種だから、だとか、あるひとは核爆弾の実験がしたかったのだ、という。しかし、それはあるにしても、戦争という状況下でおこったことであり、日本人が被害者意識だけをもって世界にアピールするのはおかしい。それどころか、日本は加害者であるのだ。中国や朝鮮などで大量の人々を虐殺したりレイプしたりしたのはどこの国の人間か?南京大虐殺は?従軍慰安婦は?731部隊は?まだまだある。だからけして日本人は被害者ではない。だからこそ、アジア諸国にまともに謝罪もしないでただ広島や長崎のことだけを持ち出して”世界平和”を宣言するこの国は、ひどく異常にみえるのである。
 確かに、広島などへの原爆人体実験は許してはならない。しかし、その前に加害者としての意識をもつことだ。
 ワイドショーだとかくだらない番組をみて馬鹿笑いしているだけではなく、そうした意識をもつこと……これが重要なのである。
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
 まさに至言なのだ。
 原爆をおとしたのは戦争終結を早めるため、そしてソ連に日本を侵略される前に日本に「降伏宣言」をさせてソ連をストップさせるため、というのがアメリカのたて前だ。
 しかし、その頃、ソ連も中国もアメリカの陰謀を知るよしもなかったろう。
 アメリカに軍産複合体が誕生したのは第二次世界大戦の頃である。大戦以前から、アメリカ国内では、ウォー・エコノミー(戦争経済)を永年的に維持していく必要性を産業界の大物たちが説いていた。独裁主義にかわって新たな敵・国際共産主義・ソ連邦や中国の影響力が台頭し始めたからだ。だがそれは、民主主義をおびやかす巨大な勢力の誕生も意味していた。
「アメリカの民主主義はいまや新しい勢力によっておびやかされている。それは軍産複合体と呼ばれる力である。軍産複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主主義政治過程を破壊することを許してはならない」
 一九六一年、アイゼンハワーが大統領辞任演説で国民に残した警告だった。軍産複合体は、ソ連や中国との兵器近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究所に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい武器開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、軍需産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された武器や兵器が、大企業によって大量に生産される訳である。そして戦争によって大量に消費される。こうして軍産複合体は、大学の研究室と産業と政府がガッチリと手を組んで、冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていったのだ。
 戦争を無傷で乗りきり、そして莫大な利益をあげた産業界にしてみれば「ウォー・エコノミーを維持すべき!」という意見は当然だった。しかし、ドイツは降伏してしまった。だが、戦争状態とはいかないまでも、その一歩手前であればかまわない。アメリカ人が納得するような潜在的脅威を秘めた敵……格好の敵がある。国際共産主義の代表で、共産革命により世界征服を狙う「ソヴィエト」と弟分の中国だ。
 戦後すぐにソ連はイランのアゼルバイジャンに傀儡政権を立て、中東への土台にしようとしたし、ギリシアやトルコでも混乱に乗じて共産革命の後押しを演じている。またチェコ・スロバキアをはじめとする東欧諸国はソ連圏に飲み込まれつつあった。(一九四七年六月、ハンガリーでは共産党が権力を握り、四八年にはチェコ・スロバキアも共産化された。一九四七年九月にはアメリカのマーシャル・プラン(欧州復興計画)に対抗するためソ連リーダー・シップのもと、コミンフォルムが結成された)
 アメリカ人にとっては、これはソ連の拡張主義以外のなにものでもなかった。
 第二次世界大戦では共に闘ったが、それはなりゆき上であって、もともとアメリカはソヴィエトの持つシステムには嫌悪感を抱いていた。だからソヴィエトを「悪の帝国」と呼ぼうが不自然ではなかった。もちろん、ソヴィエトが被害者だった訳ではない。それはモロトフ・リッベントロップ秘密義定書やカティンの森事件など様々なことでも明らかだ。そして、アメリカはソ連の弟分の中国もまた嫌っていた。
  さて、二・五戦略というのをご存じだろうか?
 これはアメリカの当時の軍事戦略である。
 わかりやすく書けば、二つの大きな戦争とそれプラス中くらいの内戦的な戦争をアメリカ軍は同時に実行できる、というペンタゴン(米国国防総省)の考えである。二つの大戦とは間違いなく、対ソ連と対中国、内戦は例えば朝鮮半島などだ。えらい自信である。しかし、ヴェトナム戦争で”そんなことはできない”ということをアメリカは証明してくれた。
 さて、話は変わるが、冷戦が終結してもうだいぶたつ。それから世界は軍縮に向けて動き続けたが、東アジアだけは例外である。
 理由は難しくない。東アジアでは中国と台湾、そして朝鮮半島がいう分断されたままであり、危機の構造が依然として存在するからである。そのため、東アジア諸国は財政が苦しい中から国防費予算を年々増大させ、新兵器の導入に血まなこになっているのだ。
 とりわけその問題が焦点となった台湾総統選挙をめぐって中国が態度を硬化させ、演習と称して台湾近海にミサイルを撃ちこむという事態になった。
 これに対して米国は台湾海峡周辺に空母『インディペンデンス』『ニミッツ』を中心とする海軍機動部隊を派遣した、ということもあった。
 しかし、本当に中国は「脅威」なのか?ときかれれば疑問符がつく。
 中国人民解放軍は約220万人で兵力こそ世界最大だが、装備は旧式で海軍の上陸作戦能力や空軍力は特に貧弱である。ロシアからスホーイ27、37戦闘機や潜水艦などの新型兵器の導入を急いでいるものの、外貨が充分でないためまとまった数をそろえることができず、また維持管理能力も低いので、実戦ではさほどの威力は発揮できないだろう。(新兵器の供給を外国に頼ること自体、軍事技術の水準が低いということ。)
 北朝鮮も似たりよったりで、北朝鮮軍が韓国軍をやぶって半島を占領することなどありえない。中国も北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も核やミサイルと科学生物兵器を除けばさしたる脅威はない。
 中国が台湾に上陸すること、武力占領することも、不可能である。しかし、戦略ミサイルを中国本土から発射して台湾にぶちこむことは可能だ。(発射から10分でターゲットに到達するというから、迎撃も難しいという。)
 これらのミサイルはすべて旧ソ連のものの改良型だ。北朝鮮の「ノドン」「テポドン」イラクの「アル・フセイン」中国の「M9」などはスカッド戦術ミサイルの改良型である。 ここにアメリカの軍需産業・軍産複合体は目をつけた。つまりMD(戦域ミサイル防衛構想)である。(湾岸戦争の時のパトリオットの発展型)ここに生き残りをかけているのだ。また、軍産複合体のつぎの獲物は「朝鮮半島」だ。だから、「北朝鮮や中国の脅威」は軍需産業のメリットにつながる。だからこそ、中国軍などの装備の貧弱さをアピールしないで" 有事””有事”と主張するのだ。
  それに乗せられるのは、やはり日本国政府である。具体的にいえば、日本の馬鹿政治家はMDのために巨額の予算を分担することだろう。
「中国が脅威だ」「危ないのだ!」「北朝鮮が脅威だ!」などと主張して開発や導入に巨額の予算を投じることなど愚の骨頂だといわざるえない。
 そもそもミサイルを迎撃するなどと考える前に、飛ばさなくする方法を考えていくこと、信頼関係を築くことの方が建設的であるはずだ。
 軍拡に走る国やテロ国家(北朝鮮、イラン、シリア、リビア、アルジェリアなど)へのODA(政府開発援助)などを考えて減らしたりゼロにしたりしていけば、「脅威」は少なくなる。そして、貧国の経済を発展させていけば、大半の「脅威」も消え去るのである。なぜなら、エスノ・ナショナリズム(民族主義)や宗教対立の根は貧しさにあるからだ。貧しいからこそ争う、銃をもつ、殺し合うのであり、所得が上がっていけば人々のフラストレーションも少なくなり、「脅威」などなくなっていくのだ。(教育も大事だけれど)そうしたアクション・プランが実行されること、「脅威」を減らしていくためのアクションこそが大事なのである。……
 日本に求められているのはまさにそれなのだ。





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