長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【NHK大河ドラマ真田丸】<総集編>最高の2016年名作大河ドラマの集大成!!

2016年12月30日 22時22分23秒 | 日記




















日本が誇る年間ドラマの最高峰。三谷幸喜の執念を見た『真田丸』(NHK)




力を入れて執筆に励む三谷幸喜の姿が目に浮かぶような作品だった。「歴史上の大事件なんてそっちのけ。すべては真田家の目線から」というスタンスは、明快かつ新鮮。「本能寺の変や関ヶ原の戦いをほとんど描かなくても大勢に影響ない」と、初めて気づかされた人は多いのではないか。

その一方で、かの時代に生きた人々への思い入れは相当なものがあった。徳川家康や豊臣秀次などのステレオタイプな人物像を取り払った一方、きり、こうなどの歴史上に名の残らない女性にも愛情たっぷり。全般的に、男性に情けなさや醜さを加え、女性にたくましさやズル賢さを与えていたのはいかにも三谷らしい。そのため、主人公であるはずの信繁も無理にヒーロー然として描かず、終盤までは父の真田昌幸や豊臣秀吉らに主役のようなポジションを譲っていた。

『真田丸』の魅力は数あれど、最大のそれは"年間ドラマ"であることに疑いの余地はない。ネットやスマホ、録画レコーダーなどの普及で、視聴者は移り気で飽きっぽくなった。実際、『真田丸』が放送された一年の間に、「PERFECT HUMAN」「ポケモンGO」「ピコ太郎」「君の名は。」が次々にブームとなるなどコンテンツの消費スピードが速くなり、1クールの連ドラでも8~9話で終わらせる作品が増えている。その点、一年間ドンと構えて全50話をじっくり見せる大河ドラマは異次元の存在であり、さらに続編やスピンオフが待望されているのだから、快挙という意味合いに近い。

『真田丸』には、「日本には世界に誇る年間ドラマがある」ことを再認識させてもらえた。一年間楽しませてくれたことに感謝しつつ、来年放送の大河ドラマ『おんな城主 直虎』を期待して待ちたい。

三谷幸喜は間違いなく天才的脚本家である。
だが、主な脚本はコメディであるためにアンチも多い。これは天才故にやもを得ない。
天才のずば抜けた才能に嫉妬する嫉むアンチは必ずどの時代もいるものだ。
自分では何一つ小説も音楽も絵も脚本もつくれない凡人が「天才的才能」を嫉んで悪口をいい悪態をつき攻撃する。
ある凡人は三谷幸喜の天才もわからず、「戦国幕末のミーハー脚本家」などという。
「黙れ、凡人!三谷幸喜先生は天才だ!何もできないくせに黙れ、凡人め!」といいたくなった。
とにかく凡人であればあるほど嫉妬や妬みで天才を馬鹿にする。
悪辣であり自分の凡庸や馬鹿がわからない。まさにお気の毒な連中である。

2016年12月30日昼からの真田丸総集編はまさに最高の2016年の集大成!!録画もしました(笑´∀`)
三谷幸喜の天才には舌を巻くしかない。キャストもよかった。スタッフも一流だった。
『花燃ゆ』の後だけにクオリティの違いに日本人全員がはまった。最高の集大成で、フィニッシュであり感動もした。
やはり、三谷先生は凄い!


臥竜  緑川鷲羽  2016/12/30 22:21

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2016年の連ドラTOP10発表! - 大河、朝ドラ、ミステリー、恋愛…終わってみれば名作ぞろい

2016年12月29日 16時46分57秒 | 日記





























2016年の連ドラTOP10発表! - 大河、朝ドラ、ミステリー、恋愛…終わってみれば名作ぞろい





© マイナビニュース 提供
●綾瀬はるかの引き出す演技、前田敦子のリアリティ
『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)と『ドクターX ~外科医・大門未知子~』(テレビ朝日系)が華々しいフィニッシュを飾るように、2016年の連続ドラマが全て終了。今年は例年以上に、事件・医療モノ以外のジャンルが多く、なかでも恋愛モノが勢いを取り戻すなど、多くの作品が楽しませてくれた。

ここでは、「朝ドラから深夜ドラマまで全作品を視聴している」ドラマ解説者の木村隆志が、一年を振り返るべく、「業界のしがらみや視聴率は一切無視」して、独断でTOP10を選んでいく。

○10位 宇宙人が主人公のゲスくも爽快な異色作『ラブラブエイリアン』(フジテレビ系)

いきなり超変化球のセレクトだが、知人のコラムニストたちが絶賛していたように、深夜2時台の放送にも関わらず、文句なしに楽しい作品だった。

物語は4人のヒロインと手のひらサイズの小人宇宙人が出会うところからはじまる。「小さいが驚異的な科学力を持つ宇宙人が居候することになり、日本人の本質や問題点が明かされていく」という筋書きだが、至るところに笑い満載。まず事実上の主人公と言える宇宙人(CG)が見事に作り込まれていた。

常に冷静沈着で、知能の低い地球人を見下しながらも、なぜかNASAに通報されることを嫌がり、極端に酒癖が悪く「地球滅ぼすぞ」を連発する宇宙人。合コン、初デート、出産、結婚、エッチなど、さまざまなテーマのトークで日本人の本音を暴いていく姿は、ゲスさだけでなく爽快感抜群だった。

新木優子、森絵梨佳、太田莉菜、久松郁実という華のある次世代ヒロインに加え、桜田通、堀井新太、佐久間由衣らのブレイク候補たちも出演するなど、若手俳優を愛でる楽しさも。女優4人によるオープニングのゆるいダンスもド深夜にハマっていた。

○9位 重いテーマに挑み、普遍的な光を見せた『わたしを離さないで』(TBS系)

何より、「臓器提供」や「クローン」など連ドラ史上まれにみる重いテーマにトライした勇気に敬服。綾瀬はるか、三浦春馬、水川あさみという人気者をキャスティングした上で、過酷な運命を背負わせることで、胸の奥底から湧き上がるような感性あふれる演技を引き出していた。

立役者は脚本家の森下佳子。「暗すぎて連ドラに向かない」と言われた原作を壊すことなく、わずかな光を与えながら、クライマックスまで導く筆致は見事だった。どんなに辛い状況に置かれた人でも、救いを求め、見い出すことができる。そんな普遍的なことにも関わらず見失いがちなことを再認識させてくれた。ながら見が多く、想像力を働かせたがらない現時点での視聴者にフィットしなかっただけで、見応えのある作品だったことは間違いない。

秋の『砂の塔』が一定の成功を収めたのも、この作品を筆頭にシリアスなテーマに挑戦し続けてきた『金曜ドラマ』そのものによるところが大きい。裏番組の「ジブリ映画再放送連発」にも負けず、2017年も頑張ってほしいと心から応援している。

○8位 共感とエールを込めた若者群像劇『HOPE~期待ゼロの新入社員~』(フジテレビ系)

韓国コミック&ドラマのプロットが良質なだけに、放送前は「いかに日本人の心に響く脚本・演出に落とし込めるか?」が注目されていた。

ビジネスシーンのリアリティに疑問が残るシーンこそあったが、サラリーマンの心情描写は丁寧かつ繊細。中島裕翔、瀬戸康史、桐山照史、山本美月ら若手社員と上司が見せる1つ1つのやり取りに、彼らへの共感とエールを込めるような優しさが感じられた。かつては人気ジャンルだった「"若者たちの群像劇"というジャンルを選び、最後まで貫こう」という真摯な姿勢はもっと評価されてしかるべきだろう。ただ、視聴率は低かったが、クチコミや満足度の高さはトップクラスで、見た人には確実に魅力が伝わっていた。

作品の世界観を形作っていたのは、遠藤憲一、山内圭哉、矢柴俊博、松田賢二、丸山智己、マギーら上司役の俳優たち。上司を写し鏡のようにして成長する若手目線から見ることも、上司の目線から見守ることもできる汎用性の高いビジネス作に仕上がっていた。ビジネス界を描いた作品は、リアリティを追求しすぎると、視聴者に息苦しさを感じさせることも多いだけに、ほどよい塩梅だった感がある。

○7位 愛と政治をリンクさせ、前田敦子が開花した『毒島ゆり子のせきらら日記』(TBS系)

恋愛依存症で二股を繰り返すヒロインに前田敦子がジャストフィット。デレデレに甘え、男を翻弄し、泣き叫び、ボロボロになる姿を見せたほか、揺れ続ける心境を吐露したモノローグは、妙なリアリティがあった。

「誰かに愛されたい」「一人になりたくない」という女性が抱きがちな心境にフィーチャーしつつ、「愛と裏切りは切り離せない」というシビアな結末も選んだのも好印象。「政治の世界にも愛と裏切り」があることを巧みにリンクさせて、ヒロインを成長させる筋書きも絶妙だった。

クロワッサンの食べ方や、ダルマをエッチにたとえるなど、細部のディテールにも遊び心満載。「深夜の昼ドラ」というキャッチコピー通り、ベッドシーンと愛憎劇が入り乱れる様子を30分間で描き切り、しかもオリジナル作品だったことは称賛に価する。「30分の深夜ドラマでもここまで作り込める」という事実を知らしめた意義も大きく、「今年最大の掘り出し物だった」と言ってもいいだろう。

○6位 自由な脚本・演出で時代劇の可能性を広げた『ちかえもん』(NHK)

「人形浄瑠璃の名作『曾根崎心中』の誕生と、作者・近松門左衛門の生涯を描く」という時代劇の可能性を広げるような野心作。スランプに悩みながらもひょうひょうとした近松と、まったく空気を読まず勘違いの多い渡来人・万吉の絡みは楽しく、松尾スズキと青木崇高が役にハマっていた。

さらに、「アホぼん」の小池徹平、遊女の優香と早見あかり、竹本義太夫を演じた北村有起哉など、助演も人情と薄情が入り混じる軽妙さ。キャラ造形だけでなく、音楽や美術などにも自由さをまとわせることで、時代劇とは思えない異質な映像を作り上げた。

なかでも、怒涛の展開でアッと言わせた最終回は出色。伏線の回収、オチのつけ方、映像としてのダイナミックさなど、誰もが納得できる心地よいフィナーレを飾った。

『ちかえもん』はNHKならではの試みであり、結果として時代劇の可能性を広げたのは明白。脚本・演出の力に頼るところは大きいが、まだまだ時代劇には音楽の使い方や色気の醸し方など、さまざまな娯楽性が眠っているのではないか、と期待させてくれた。

●『逃げ恥』視聴率倍増の理由
○5位 大胆な緩急と、控えめなキャラクター造形が光る『べっぴんさん』(NHK)

「戦前戦後の激動期を生きた女性実業家の一代記」という骨組みは、『あさが来た』『とと姉ちゃん』と同じ鉄板の成功パターン。しかし、フタを開けてみたら異例尽くしの内容だった。

とりわけ驚かされたのは、第2週での超速展開。幼なじみへの初恋、失恋と姉の結婚、別の男性と結婚、妊娠と夫の出征、出産、終戦が、各1話ずつ描かれた。

本来これらの過程は、登場人物の奮闘や悲劇をしっかり描いて、感情移入をうながす大切なパート。半年間もの長期間放送されるにも関わらず、わずか1週間で駆け抜けてしまったのは、その後の物語をできる限りじっくり見せたいからだった。

『べっぴんさん』が本当に描きたいのは、戦争で多くのものを失った4人の女性が、1針1針コツコツと子ども服を縫い上げるように仕事や子育てと向き合い、絆を育んでいく姿。そのためには、女学生時代や戦争中のシーンに時間を割きたくなかったのだろう。

ヒロイン像も異例だった。朝ドラのヒロインと言えば、明るく元気なキャラクターが多い中、すみれは「言いたいことすら言えない」控えめなタイプ。つまり、セリフに頼れないため演じるのは難しいはずだが、芳根京子は持ち味である感受性の豊かさを生かして、思いを絞り出すような熱演を見せている。引いては「『キアリス』の4人全員が、何者でもない普通の女性であり、力を合わせて地道に進んでいく」という展開は、近年ありそうでなかった古き良き朝ドラの定型に近いのかもしれない。

放送は折り返し地点を越えたところに過ぎないが、現時点でも今年トップクラスのクオリティがあると言っていいだろう。

○4位 バカリズムが"芸人脚本家"の可能性を見せた『黒い十人の女』(日本テレビ系)

とにかくバカリズムの脚本に尽きる。連ドラデビュー作『素敵な選TAXI』は一話完結のファンタジーだったため、本格的な連ドラは初めてにも関わらず、さまざまな技を見せつけた。

10人の女性を見事に色分けし、些細な言動1つで笑わせる小技から、徐々に濃度の高いものをぶっかける荒技まで縦横無尽。相関図を説明するためにカフェ店員を置き、その女性も不倫をしているなど、登場人物たちの交通整理とキャラ付けにぬかりはなかった。

当初は「お笑いライブの集団コントみたいになるのでは?」なんて声もあったが、今年の芸能界最大のテーマである不倫を扱った上で、風刺もしっかり。「ただ笑わせるだけでない」連ドラとしての魅力を見せつけた。

最大の副産物は、脚本の面白さに女優たちが躍動したこと。成海璃子、水野美紀、佐藤仁美、MEGUMI、トリンドル玲奈などが、近作の出演作では最高クラスの生き生きとした姿を見せ、希少な"女だらけの不倫コメディ"を作り上げた。

コント作家だけに「結末のカタルシスが弱い」という課題がある気もするが、バカリズムがすでに一流の脚本家であることは明らか。これほど女性の気持ちが分かるのなら、月9で王道の恋愛ドラマにも挑戦してほしい。

○3位 高品質の裏に、ドラマ界の課題を破る挑戦アリ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)

秋ドラマの話題をさらった『逃げ恥』だが、あらためて振り返ってみると、ドラマ界が二の足を踏んでいた課題に挑戦していたことが分かる。

第1に、さまざまな立場の人間を尊重すること。『半沢直樹』以降ドラマ界は勧善懲悪ムード一色になり、善悪をはっきりさせるのが当たり前になっていた。しかし、『逃げ恥』は、専業主婦、シングルマザー、独身アラフィフ、マイノリティーなど、あらゆる人の存在をほどよく尊重して、等身大かつ幸福感あるムードを作り上げた。

第2に、みくりと平匡の恋愛スピードが、昨今ほとんど見られないほどスローだったこと。ハグやキス、一泊旅行などの小さな出来事で一話を使う展開は、80年代~90年代前半の恋愛ドラマを思わせるものであり、「少しずつキャラクターに肩入れしていく」という連ドラの醍醐味に満ちていた。ここ数年、ハイテンポや大きな事件を起こす作品ばかりになっていただけに、スローペースの楽しさを思い出させた功績は大きい。

第3に、作品の質を上げるだけでなく、視聴者とのさまざまアタッチポイントを作ったこと。恋ダンスを筆頭に、自局情報番組とのコラボ、タイアップCM、クックパッドとの連動、横浜市との街めぐり企画など、「あらゆるところから視聴者を集めよう」という全方位PRを実現させ、見てもらうための努力を惜しまなかった。これまでも質の高い作品はあったが、『逃げ恥』の視聴率が初回から最終回で倍増したのは、こんな努力もあってのことだろう。

新垣結衣と星野源らキャストはもちろん、脚本家、演出家、プロデューサーのすべてが機能したからこその大ヒットだった。

○2位 すべての働く人を明るく照らし、俳優たちが力を見せつけた『重版出来!』(TBS系)

普通のマンガ業界モノと思いきや、侮るなかれ。さまざまな立場の働く人々にスポットライトをあてて、仕事の楽しさと難しさを力むことなく描き出した名作だった。
当初、黒沢心のスポ根型ヒロイン像に既視感を覚えたが、それでも押しつけがましさはなく、次第にそのピュアさで、彼女の周囲で働く人々を映すテレビカメラのような存在になっていった。

特筆すべきは、脚本家の野木亜紀子が、先輩の編集部員に加え、漫画家、営業部員、書店員、デザイナー、アシスタントやアマチュアなど、それぞれの状況と心境を過不足なく抽出していたこと。今思えば、「1人1人の仕事をリスペクトして、フラットにスポットライトをあてよう」という姿勢は、2クール後に放送された『逃げ恥』大ヒットの下地となったのではないか。

また、これまで「業界ドラマは面白くならない」と言われていたが、当作がどんな業界で働く人も共感できる作品に仕上げたことで風向きが変わり、他局だが『地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子』のヒットにつながっていたとしたら素晴らしい。

その他、実在の人気漫画家に作画をオーダーするなど、細部の創意工夫にも抜かりなし。オダギリジョー、松重豊、安田顕、荒川良々、小日向文世、生瀬勝久、滝藤賢一、ムロツヨシら中堅・ベテランが品質を保証し、永山絢斗、高月彩良、中川大志ら若手が勢いをもたらしていた。あらゆる面で、工夫と努力が施された贅沢な作品だったと言える。

○1位 日本が誇る年間ドラマの最高峰。三谷幸喜の執念を見た『真田丸』(NHK)

力を入れて執筆に励む三谷幸喜の姿が目に浮かぶような作品だった。「歴史上の大事件なんてそっちのけ。すべては真田家の目線から」というスタンスは、明快かつ新鮮。「本能寺の変や関ヶ原の戦いをほとんど描かなくても大勢に影響ない」と、初めて気づかされた人は多いのではないか。

その一方で、かの時代に生きた人々への思い入れは相当なものがあった。徳川家康や豊臣秀次などのステレオタイプな人物像を取り払った一方、きり、こうなどの歴史上に名の残らない女性にも愛情たっぷり。全般的に、男性に情けなさや醜さを加え、女性にたくましさやズル賢さを与えていたのはいかにも三谷らしい。そのため、主人公であるはずの信繁も無理にヒーロー然として描かず、終盤までは父の真田昌幸や豊臣秀吉らに主役のようなポジションを譲っていた。

『真田丸』の魅力は数あれど、最大のそれは"年間ドラマ"であることに疑いの余地はない。ネットやスマホ、録画レコーダーなどの普及で、視聴者は移り気で飽きっぽくなった。実際、『真田丸』が放送された一年の間に、「PERFECT HUMAN」「ポケモンGO」「ピコ太郎」「君の名は。」が次々にブームとなるなどコンテンツの消費スピードが速くなり、1クールの連ドラでも8~9話で終わらせる作品が増えている。その点、一年間ドンと構えて全50話をじっくり見せる大河ドラマは異次元の存在であり、さらに続編やスピンオフが待望されているのだから、快挙という意味合いに近い。

『真田丸』には、「日本には世界に誇る年間ドラマがある」ことを再認識させてもらえた。一年間楽しませてくれたことに感謝しつつ、来年放送の大河ドラマ『おんな城主 直虎』を期待して待ちたい。

終わってみれば2016年のドラマ界も力作ぞろいで、ここで挙げた10作は好みの問題でしかない。実際、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)、『お義父さんと呼ばせて』(フジテレビ系)、『ナオミとカナコ』(フジテレビ系)、『世界一難しい恋』(日本テレビ系)、『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』(TBS系)、『夏目漱石の妻』(NHK)、『THE LAST COP/ラストコップ』(日本テレビ系)、『砂の塔~知りすぎた隣人~』(TBS系)など、エッジの効いた良作が多かった。未視聴のものは年末年始の休みを利用して、オンデマンドやDVDで視聴してみてはいかがだろうか。

最後に、ドラマ制作のみなさん、俳優のみなさん、今年も1年間おつかれさまでした。2017年も「多くの人々を楽しませる」「心から感動できる」ドラマをよろしくお願いいたします。

■木村隆志
コラムニスト、テレビ・ドラマ解説者。雑誌やウェブに月間20本超のコラムを提供するほか、『新・週刊フジテレビ批評』『TBSレビュー』などに出演。取材歴2000人を超えるタレント専門インタビュアーでもある。1日のテレビ視聴は20時間(同時視聴含む)を超え、ドラマも毎クール全作品を視聴。著書に『トップ・インタビュアーの「聴き技」84』『話しかけなくていい!会話術』など。

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【パールハーバー真珠湾宣言】緑川鷲羽<真珠湾ドクトリン>今孔明諸葛孔明独占宣言6

2016年12月28日 15時41分45秒 | 日記


























6


「ニューヨーク市には差別があり、南アフリカにはアパルトヘイトがあり、ペルーの山奥には未だ農奴制が存在していた。バングラディシュの街頭では人々が飢えで死に、北朝鮮では反体制派の人々が刑務所にぶち込まれる。北では何千人という人々が虐殺されている。そして世界の富は惜しげもなく軍備拡張にそそがれている。
 これらは一様に悪ではあるが、所詮人間が作り出した悪であり、人間の正義感の不完全さ、人間の慈悲心の欠落、他の人の不幸にたいするわれわれの感覚の欠如を反映しているに他ならない。故にわれわれは怒りと良心をもってこれらの悪を取り除くという決意を分かち合わねばならない。
 すべてが急変している今日、時代遅れの教議や使い古されたスローガンはもはや通用しない。すでに消えかけてる現在にしがみつき、どんな平和的な進歩にも必ずついてまわる危険性とエキサイトメントよりも安全という幻想を選ぶ人間は世界を動かし、変えることができない。
 かつてイタリアのある哲学者が語った。”新しいことを手掛け、新しいアイデアをこの世に紹介するほど難しく、その成功が不確かなものはない”と。しかし、これこそこの世代がやらなければならないことなのだ。そして前途には様々な危険と障害が横たわっている。
 まず第一の危険は何をしようとも無駄であるという考え。無知、不正、暴力、苦悩などこの世界が抱える問題に対して、ひとりの人間ができることはなにもないという無力感に溺れることは、戦う前に白旗をあげるに等しい。
 歴史を思い出してほしい。思想においても行動においても、世界をかえた偉大な動きの多くはたったひとりの人間によって成功されてきたではないか。ひとりの若い僧侶が宗教改革を成し、ひとりの若い将軍は国境をマケドニアから地の果てまでのばし、ひとりの女性がフランスの領土を奪還した。ひとりの若いイタリアの探検家は新大陸を発見し、三十二歳のトーマス・ジェファーソンは人間はすべて平等と宣言した。古代ギリシアの数学者アルキメデスは言った。”私の立てる場所をくれ、そうしたら世界を動かしてみせる”と。 これらの人々は皆世界を動かした。われわれにもできないはずがないのだ。歴史そのものを曲げる偉大性を持つ者は少ないかも知れない。しかし、われわれひとりひとりが、社会のほんの小さな一部分を変えていくことはできる。それらの行為がひとつにまとまった時、初めてこの世代の歴史が書き綴られることになるのである。
 勇気と信念に基づいた限りない行動によって人類の歴史は形成されていく。
 ひとりの人間が理想のために立ち上がり、不正を攻撃し、苦しんでいる人々のために行動を起こす度に、彼は希望のさざ波を送り出している。一〇〇万人が行動を起こせば、それらのさざ波は、いかなる迫害、いかなる抵抗をも突き破る津波となり、歴史をも変えてしまうエネルギーとなり得るのだ。
 古代ギリシャの政治家ペリクレスは言った。”もしアテネが偉大だと思うなら、その栄光は勇敢なる人々、義務を果たすことを知った人々によって勝ち得たのである”と。これこそあらゆる偉大性の源であり、われわれの時代の進歩の鍵となるのだ。
 われわれの未来はわれわれのヴィジョンを超越する。しかし、それは決してわれわれがコントロールできないものではない。なぜなら未来は、運命や自然の力やさからうことのできない歴史の波によって作られていくものではなく、われわれ自身の手によって作られるものだからだ。運命がわれわれを支配するのではなく、われわれが運命を作り出していくのだ」



7  緑川鷲羽「草莽掘起」宣言

「皆さんがここに集まったのは私のためではない。この国の将来を信じているからだ。大震災に突入しても皆さんは平和の到来を信じている。絶望の中にあっても、皆さんは希望が生まれるのを信じている。政治は皆さんを疎外し、私たちを長い間分裂させていたのにも関わらず、私たちはひとつの国民になれることを信じている。私たちは今、その旅路に立とうとしている。 私がジャーナリスト界に来たのは二十数年前。専門学校を卒業したばかりの若者だった。教会グループから地域活動の仕事を与えられた。日本をよりよくするために、ささやかながら役割を果たせると思って引き受けた。その後、ジャーナリストになり、選挙民の積極的な政治参加次第で自由や平等という私たちの大切な権利が守られることに気付いた。私はジャーナリストとしてこの米沢にいる。日本のはるか東に面するこの地で、私は日本国民の特質である寛大さを知った。寛大さをもってこそ、希望ある日本を建設できると私は信じるにいたった。だからこそ、私は、直江兼続公が、かつて分裂した戦国に結束を呼び掛けたこの地で、共通の夢と共通の希望がたたずむこの場所で、皆さんの前に立ち、「草奔掘起」を表明する。
1年前、私は皆さんの前に立ち、私自身の話をした。裕福でなく、無名だった米沢からきた若い男性と山形市出身の若い女性の話だ。彼等は、自分たちの息子が望むことを実現できるのが日本だと信じていた。この約束こそ、日本を特別な国にしている。勤勉さと犠牲を通じて私たち一人ひとりが自分の夢を追求できる。それとともに日本という一つの家族として団結し、次の世代も夢を追えるようにするのだ。その約束が今、破られようとしている。多くのひとが失業し、家を失い、借金に苦しんでいる。破綻した永田町の政治、菅政権の失策が原因だ。
 私は日本人に訴えたい。我々は立ちあがらなけれけばならない。「(失策は)1年でたくさんだ」と。
 私は日本の約束を守るため変革(チェンジ)を公約する。国内で雇用創出する企業への優遇税制や、全勤労世帯の95%を対象とした減税だ。中東の石油依存から10年で脱却する。風力、太陽光など再生可能エネルギーの開発に投資し、500万人の雇用を創出する。すべての国民が利用できる医療保険制度を約束する。男女の給与格差もなくす時だ。 責任ある形でイラク戦争を終結し、アフガニスタンでの国際テロ組織アルカイダと、旧支配勢力タリバンとの戦いを完遂する。テロと核拡散、貧困と虐殺、気候変動と疾病という21世紀の脅威を打ち負かす、新しい国際協調関係を築く。
 この20年間で失われたのは、共通の目標に取り組む国民の意識だ。これを取り戻さなければならない。私の選挙ではない。あなた方の選挙だ。皆さんが日本を変えるのだ。若い(黒人公民権運動指導者マーチン・ルーサー・キング)牧師が語る夢を聞いた。人民の人民による人民のための政治は滅んでいなかった。
 我々の前には大きな仕事が待っている。道は長く険しい。だか、私は今夜ほど希望に満ちたことはない。私は約束する。我々は一つの国民として目標に到達するのだ。
 今夜我々は、この国の真の力は武力ではなく、民主主義、自由、不屈の希望に由来することを証明した。今こそ我々の時代だ。子供達に機会の扉を開き、豊かさを取り戻し、ドリームを訴える時だ。皮肉や疑いに直面したとき、「できない」と私たちに語るひとがいる時、変わることのない信念で答えるのだ。私たちには出来る、と」

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【パールハーバー真珠湾宣言】緑川鷲羽<真珠湾ドクトリン>今孔明諸葛孔明独占宣言5

2016年12月28日 15時40分32秒 | 日記



























5



「シェイクスピアは?」「シェイクスピアは読んだ?」
「じゃあ、ジュリアス・シーザーは? 誰に殺された?」
「あなたたちは楽なほうに逃げるのか? 影の政府に満足しているのか?
 JFKは体制にとって邪魔だった。だから殺された。しかし、JFKは生前に敵をつくらなかった? 違うね。そんな生き方はしなかったはずだ。絶対に。時代は関係ない。”王は殺される”んだよ。利益のために…。”戦争は最大のビジネス”なのだよ。
 そう。彼ら改革者の死を誰が悲しむ? ひっそり埋葬されてもね。そして、JFKの大きな国葬ですべて隠され、当局の創作が拡大される。堂々たるウソとJFKの葬儀で、人々は思考能力を失う。ヒットラーはいった。”ウソが大きいほど国民は信じる”と。オズワルドは目立ちたがやの狂人で、孤独な男…そして、その同胞が同じように要人を殺していく? 無意味な一匹狼のしわざとして。我々はハムレットの気分だ。殺人者が王座にいる。JFKの亡霊がこのことを許す? 理想との挑戦だ。JFKは問う。憲法の意義は? 命の貴さとは? 大統領が殺される国で…真の民主主義は? しかも、陰謀の疑惑があるのに司法当局は動かない。政治的暗殺はこのあとも続くだろう。自殺や癌や交通事故、航空事故…さまざまな手段で、真実が消されていく。”反逆は栄えず”…と誰かがいった。その通り……反逆が栄えたら、それは反逆じゃない。
 サブルーダー・フィルムも未公開だ。なぜ? 国民にX線写真や検死写真を見せない。なぜ? 陰謀を示す資料が山のようにあるのに…なぜ司法は動かない。政府に重要書類を求めても連中はこういう”国家機密だ”と。大統領を殺されて何の機密だ? 国家機密の名目なら、基本的権利は奪われていいと? 米国は影の政府を認めるのか? ファシズムのような政府を…。ここであえていう。六三年の事件はクーデターだ。
 悲劇的な結果だった。JFKの死で、ヴェトナム撤退は、反古、だ。戦争は最大のビジネスで、年間費用800億ドル。JFKは国家の最高レベルの陰謀により暗殺された。
 実行したのは狂信的で冷酷な狙撃者たち……軍産複合体とCIA、シークレット・サービス…マフィア…。暗殺は公開処刑であり、警察の人々だけでなくシークレット・サービス、CIA、MI6、ジョンソン、ニクソンやマフィア……みんな共犯だ。暗殺のことを知るには、JFKが死んで得したふたり…ジョンソンとニクソンに資料を請求すべきだ。でも、関係者からのリンチを恐れたのか、資料は二〇三七年まで封印だ。なぜ? これはわれわれのものなのに。…税金がつかわれた」





「われわれはいつか真実を発見する。我々は挑戦しなければならない。独立宣言でもいっている。”社会が停滞したらもっと西へ行け”と。ある作家はいった。
”我々は政府から国を守らなければならない”……われわれは子供のころ、正義は絶対であり、かならず悪に勝つ、信じてきた。正義は自然と生まれると…。しかし、それは真実じゃない。正義は人間が作るものであって、自然にはうまれない。真実は権力にとって脅威だ。権力と闘うのは命がけだ。過去さまざまな人間が抵抗し、殺されていった。
 なぜ、われわれは挑戦しなければならぬのか? それは、皆が望んでいるからだ。真実を知りたい、と。我々の国だから。誇りのもてる国にしたい。真実は最も貴重だ。もし、真実が無になり、この国の政府を信じられなくなれば、この国で生まれてもこの国で死にたくない。”去り行く首相に権威なし…”そう首相は人気と権威を失った。だが、この国は世界に問わなければならない。”人民の人民による国”が日本国であるということを。
 そして、われわれは”国のためになにかできるか?”を問うのだ。
 そのために、私は、きっとこの国を復活させてみせる。
 いま求められているのは暴力でも憎悪でもない。静かに祈ってください。世界は人間の愛の力によって平和へ導かれることを願って……みなさん、祈りましょう!」
 

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【パールハーバー真珠湾宣言】緑川鷲羽<真珠湾ドクトリン>今孔明諸葛孔明独占宣言4

2016年12月28日 15時39分23秒 | 日記





























4      ニュー・ヴィジョン



「ジョン・メイスフィールド氏の言葉に”この地上において大学ほど美しいものはない”ということばがある。
 彼の言葉は今日でも真実である。しかし、彼は建物やキャンパスの緑、蔦でおおわれた塀などの美しさを語っていたのではない。彼が大学の美をほめたたえたのは、彼も語っているように、大学とは”無知を憎む人間が知識を得るために努力し、真実を見たものがそれを他に知らしめようと努力する場所”だからだ。
 故に私はこの場と時を借りて往々にして無知が支配し、真実が押し潰されているある事柄について語りたい。それはこの地上で最も重要な事柄ー世界平和である。
 どのような平和を私は言っているのか?どのような平和をわれわれは探求しているのか? それはアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナではない。
 そして、墓場の平和でもなければ、奴隷の安全性でもない。私がいっているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせるような平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立てさせ得る平和である。
 それは日本人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、われわれの時代だけでなくすべての時代の平和である。
 今日、何千億ドルという金が軍事費に使われ、それによって平和が維持されている。しかし、核兵器の無駄な蓄積、破壊するだけで何ものも創造しない核兵器の蓄積だけが平和を保障する唯一の、しかも最も効果的な方法なのだろうか。決してそうではないはずだ。 平和とは理性的な人間の理性的なゴールであらねばならない。平和の追求は戦争の遂行ほど劇的なものではなく、往々にして無関心という壁にぶち当たる。しかし、これほど重要かつ緊急を要する事柄はない。
 ある人々は言う。北朝鮮や中国の指導者たちがより啓蒙された考え方を持たぬ限り、世界平和や軍縮について語るのは無駄なことである、と。中国の指導者たちが啓蒙されることを私は望んでいる。そのための手助けをわれわれはできるし、せねばならない。しかし、同時に、国家としてまた個人として、われわれもまたわれわれ自身の態度について改めて考えねばならない。中国側の態度と同じようにわが方の態度もまた重要だからだ。
 まず第一に平和に対するわれわれの態度を見てみよう。あまりにも多くの人々が平和は不可能かつ非現実的と考えている。しかし、それは危険な敗北者的思考と言わねばなるまい。なぜならそれは人間の力の無力さを表し、人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられており、戦争は避けられず、結局は滅亡するという結論に導くからだ。 この見方を受け入れる必要はまったくない。われわれの問題はわれわれ人間がつくりだしたものなのだ。それ故に人間が解決でき得るものなのだ。人間は限りなく大きくなれるものである。人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。これまでにも人間の理性と精神力は一見不可能と思える数々の問題を解き明かしてきた。ここで再びできないという理由はない。
 私は一部の幻想家や狂信者の夢みる絶対かつ無限の観念を含んだ平和について語っているのではない。希望や夢を私は否定しない。しかし、それらを基に平和を構築しようとすれば、待っているのは落胆と懐疑でしかない。
 より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。真の平和とは、多くの国々による具体的な活動によってもたらされるものである。それはダイナミックで、決して停止せず、あらゆる時代の挑戦に耐え得るよう常に変化しなければならない。なぜなら平和とは諸々の問題を解くプロセスであるからだ。
 そのような平和がきても、互いの利益の対立や紛争は絶えることはないかもしれない。 世界平和は地域社会の平和同様、人々にその隣人を愛するよう要求はしない。しかし、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きることを要求する。国家間の敵愾心は個人間のそれと同じように永遠に続かないことを歴史は教えている。
 平和は決して非現実的なものではないし、戦争は決して必然的なものでもない。
 第二に中国に対するわれわれの態度を見直そうではないか。かの国の指導者たちが、彼らの宣伝機関によって書かれていることを頭から信じているのは悲しむべきことである。アメリカが戦争を仕掛ける準備をしているとか、アメリカ帝国主義が侵略戦争によってヨーロッパや他の資本主義国家を経済的、政治的に属国化しようとしているなど根も葉もないことを彼らは信じている。
 昔の諺にあるように”悪者は誰も追いかけてもいないのに逃げる”のだ。しかし、彼らのプロパガンダを読んでわれわれと彼らの間にある溝の深さを知ると悲しみさえ感じる。これは我々日本人にとっても警告である。われわれは北朝鮮と同じワナにはまってはならない。
 日本人としてわれわれは個人の自由と尊厳を奪う共産主義に対して深い嫌悪感を抱いている。
 しかし、中国国民がこれまでに成し遂げた事柄、科学や宇宙、経済的成長、文化や数々の勇気ある行為に対しては心から賞賛の拍手を送る。
 そして忘れてはならないのは、日本人と中国人のどちらが共に戦争を忌み嫌い、両国ともこれまで何度も戦ったことがある、という事実である。
 互いに相違点が存在することは認めよう。しかし、同時に互いの共通の利益にも目をむけ、相違点の解決にも努力しよう。
 そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくとも多様性を認めるような世界を作る努力は成せる。なぜなら、最終的にはわれわれの最も基礎的な共通点は、皆この小さな惑星に住み、皆同じ空気を吸い、皆子供たちの未来を大切に思っている。そして、皆死んでいく身ということであるからだ」


「今、初めて平和への道が開かれたかもしれないのだ。未来が何をもたらすのかは誰も知る故もない。闘争努力を柔らげる時がきたのかどうかは、誰も確信をもって語れない。しかし、もしわれわれが今、希望をもって行動に移すあらゆる努力を払わなければ、歴史とわれわれの良心はわれわれをきびしく裁くであろう。今が始める時だ。中国の古い諺によれば、
”一里の旅も一歩から始まる。”
 わが同胞日本国民よ、その第一歩を踏み出そうではないか。バブル崩壊の影から一歩後退し、平和の道を探求しようではないか。そして、その旅が一里かそれ以上になろうとも、われわれが今この地でこの時に第一歩を踏み出したと歴史に記さしめようではないか」
「われわれは基本的に道徳的問題に直面している。古くは聖書で語られ、日本国憲法でも明らかにされている。
 問題の核心はあらゆる日本人が平等の権利と平等の機会を与えられるかということだ。もし日本にいる人が皮膚の色が違うということだけで公共学校に入ることができないとしたら、彼を代表する人間を選挙で投票できないとしたら、要するに皮膚の色が違うというだけでわれわれ皆が欲している自由で意義深い生活が送れないとしたら、われわれの中で誰が皮膚の色を変えてあえて彼の立場に身を置きそれに甘んじるという者がいようか。 リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに二〇〇年が過ぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫だちはまだ完全に自由ではない。彼らはまた不正義の鎖から自由になっていない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になっていない。そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない」

「リンカーンという偉大な人物が黒人を解放してから二〇〇年たつが、未だ黒人は”物質的繁栄という海のど真ん中にある孤独な貧困の島に住んでいる”。
 公民権活動家に対して質問するひとがいる。
”あなたがたは一体いつになったら満足するのか”
 われわれは黒人や外国人が警察の暴力の犠牲者であるかぎり満足できない。
 われわれはホテルやモーテルで疲れた体を癒すための一夜の休息を得られない限り満足できない。
 われわれは黒人や外国人の移動性が小さなスラムから大きなスラムに移るだけという状況が続く限り満足できない。
 私は夢見ている。四人の小さな私の子供達が、彼らの皮膚の色ではなく、その性格から判断される国に住める日がくることを。
 私は夢見ている。
 これがわれわれの希望である。この信念をもって私は南部へ帰る。この信念をもって、われわれは絶望という山から希望の石を取り出すことができるのだ。この信念をもってわれわれは、あつれきの不調和音を美しい兄弟愛のシンフォニーにかえることができるのだ。 この信念をもついつか自由になれる日がくるのを信じてわれわれは、共に働き、共に祈り、共に戦い抜き、共に拘留所に入り、共に自由のために立ち上がろう。そして自由が得られた日、われわれすべての神の子は新しい意味を持って”“わが祖国、甘い自由の地、汝のために歌わん。父たちが死んだ地、移民たちの誇りの地、すべての山腹から自由のベルを鳴らそう”と歌えるのだ。
 そしてもしアメリカが日本が真に偉大な国となるならこれは現実とならなければならない。
 だから巨大なニューハンプシャーの丘の上から自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの山々から自由の鐘を鳴らそう。ペンシルバニアのアレゲニー山脈から自由の鐘を鳴らそう。 雪に覆われたコロラドのロッキーから自由の鐘を鳴らそう。カルフォルニアの美しい峰から自由の鐘を鳴らそう。しかし、それだけでなく、ジョージアのストーン・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。テネシーのルックアウト・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。
 ミシシッピーのあらゆる丘、あらゆるもぐら塚からも自由の鐘を鳴らそう。
 あらゆる山頂から自由の鐘を鳴らそう。
 われわれが自由の鐘を鳴らす時、あらゆる村、あらゆる集落、あらゆる州、あらゆる市で自由の鐘を鳴らす時、われわれはすべての神の子たちが、黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも手を取り合って共にあの古い黒人霊歌を歌える日がくることを早めることができるのだ。『やっと自由になった!やっと自由になった!神に感謝す、やっとわれわれは自由になれた!』と」
                               

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【パールハーバー真珠湾宣言】緑川鷲羽<真珠湾ドクトリン>今孔明諸葛孔明独占宣言3

2016年12月28日 15時38分17秒 | 日記



























3



「二〇〇〇年前、最も誇り高い言葉は”キヴィス・ロマナス・スム”(われわれはローマ市民である)という言葉であった。
 今日、自由社会において最も誇り高い言葉は”われわれは世界市民である”という言葉だ。
 ある人々はいう。共産主義と自由世界の間に横たわる問題は、一体なんなのか?と。
 そういうひとは日本に来るべきだ!
 ある人はいう。共産主義こそ未来の波である、と。
 彼らは日本に来るべきだ!
 またある人は共産主義者たちとうまくやっていけるという。そしてある人々は、確かに共産主義は悪のシステムであるが、経済的発展を促進させているという。
”ラッス・ズィー・ナック・ジャパン・コメン!””レット・ゼム・カム・トゥ・ジャパン!”
 自由には諸々の困難があり、民主主義は完全ではない。しかし、われわれは自国民を閉じ込めるために壁を作ったことなど、一度としてなかった。
 私は極東アジアの彼方に住む日本国民を代表して、あなた方に言う。われわれは過去六十年間の苦難を、あなた方と分かち合えたことは最大の誇りであった、と。六十年間もの長い間、包囲の中にありながら、日本ほど活気と力、希望と決意をもって生きてきた国を私は知らない。中国の共産政治は、共産主義体制の最も明らかな失敗を全世界にみせつけている。しかし、われわれは満足などしていない。なぜならそれはあなた方の劉暁波氏が語ったように、歴史に対する罪であるのみならず、人間性に対する罪でもあるからだ。家族を引き離し、夫や妻、兄弟姉妹を隔離し、共に生きたいと願う人々を引き割くことを、人間性への挑戦といわずして何と言おうか。
 あなた方は自由の孤島に住んでいる。しかし、あなた方の人生は大きな流れの一部なのだ。故に話をしめるにあたって、あなた方にお願いする。今日の危機を超越し、明日の希望に目を向けて欲しい。この日本の自由だけでなく、全人類の自由と正義にもとずいた平和に目を抜けてほしい。
 自由というものは決して分割されない。ひとりの人間が奴隷として扱われたら、すべての人が自由ではない。すべての人々が自由になる時、この日本国家もそしてこの偉大なる極東アジアも、平和と希望に満ちた世界のひとつになる日がやってくるであろう。
 その日は必ずやってくる。その時こそあなた方は約六十年の間、この戦いの最前線に立っていたという事実に心からの満足感を得られるのだ。
 いずこに住もうと、すべての自由人は、日本市民に他ならない。故に私はひとりの自由人として誇りをもって言う。”イッヒ・ビン・アイン・ジャパニーズ”と」

       



「今われわれはわが国の歴史のなかで最も重要な岐路に立っていることは、改めて強調するまでもあるまい。尖閣諸島や朝鮮半島や北方領土では重大な危機に直面し、国内では経済の再建と安定のために皆が全力をつくし、予備兵たちは家族から何か月も離れてくれるように要請し、兵士たちには命を賭けてくれるように要請している。組合には賃上げ交渉を控えるように要請し、すべての人々に自重と犠牲が強いられている時、個人的権力と金を追求する一握りの会社の幹部たちがその公的責任を顧みず、一億二〇〇〇万人の日本人の利益を頭から侮辱する態度に出た状況を、日本国民は、私同様決して受け入れないであろう」

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【smap解散】中居涙…SMAPバイバイ 5人でスマスマ最後に「世界に一つだけの花」

2016年12月27日 16時02分30秒 | 日記




























中居涙…SMAPバイバイ 5人でスマスマ最後に「世界に一つだけの花」







最後の歌収録前、中居がもらした本音



 中居が泣いた。31日で解散するSMAPの5人が唯一そろうフジテレビ系「SMAP×SMAP」の最終回が26日午後6時30分から放送され、20年9カ月の歴史に幕を下ろした。4時間48分にわたって歴史を振り返り、5人のラストステージとなった大ヒット曲「世界に一つだけの花」は、リーダー・中居正広(44)の号泣で締めくくられた。大みそかのNHK紅白歌合戦は正式辞退しており、5人での活動は26日をもって終了した。

 SMAP最後の歌唱にメンバーも感極まった。結成28年、デビューから25年。300万枚突破の代表曲「世界に一つだけの花」に思いの全てを込めた。

 午後11時過ぎ、黒いスーツ姿の5人は色とりどりの花を背景に歌いだした。中居が目を潤ませると稲垣吾郎(43)、草なぎ剛(42)、香取慎吾(39)が瞳を潤ませ、木村拓哉(44)は涙をこらえ歌った。時折、笑顔の花も咲かせながら、中居がメンバーの人数を示す5本の指を一つずつ折り、また開いて“バイバイ”と手を振り、別れを告げる振り付けをアドリブで盛り込んだ。

 4分41秒の楽曲を歌い終えた5人は、白い幕が下りて再び上がるまでの1分28秒間、頭を下げ続け、中居は後ろに歩きながら何度も涙をぬぐい号泣。SMAPラストステージを5人がそれぞれの思いを胸に締めくくった。


26日に最終回を迎えた「SMAP×SMAP」の番組ロゴ© デイリースポーツ/神戸新聞社 26日に最終回を迎えた「SMAP×SMAP」の番組ロゴ
 ラストステージはスマスマと決断した。19日、紅白出場を正式に辞退。「『SMAP×SMAP』を自分たちのラストステージとさせて頂きたい」と手紙にしたためた。番組では96年の森且行(42)脱退報告、02年の稲垣吾郎(43)復帰ステージなどの軌跡をたどり、視聴者からのファクスは1万通を超えた。

 解散する31日までに5人そろっての稼働はなく、5人の姿はこの日で見納め。関係者によると、5人は31日に仕事はなく、木村拓哉(44)以外の4人がそろって食事をすることは「ない」とした。木村はTBS系主演ドラマ「A LIFE~愛しき人~」(1月15日スタート)の撮影を1月4日から始める予定といい、国内で年を越す。夢や希望を与え続け激動の日々を共にしたメンバーは、静かに解散の日を迎える。

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【美人でいい娘】石原さとみ 水をこぼしたADに…顔だけじゃない“意外な魅力”

2016年12月26日 19時57分13秒 | 日記


























石原さとみ 水をこぼしたADに…顔だけじゃない“意外な魅力”






石原さとみ© dot. 石原さとみ
 女優の石原さとみ(30)が、女性誌『美的』(小学館)の読者が選ぶ「最もなりたい顔の有名人」に贈られる「美的ベストビューティウーマン」を受賞した。12月20日に都内で行われた授賞式に出席した石原は、スパンコールが刺しゅうされた水色のロングドレス姿で登場。クリスマスイブの誕生日を目前に控えて、「20代最後のいい思い出になった」と感激した様子だった。一方、22日にはORICON STYLEによる「女性が選ぶ『なりたい顔』ランキング」で、女優の北川景子(30)の四連覇を阻止して初の1位を獲得。“快進撃”が続いている。

 今年は大ヒットした映画『シン・ゴジラ』や、主演ドラマ『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』(日本テレビ系)など話題作に出演し、仕事に恵まれた1年だった石原。その活躍ぶりがまだ記憶に新しいゆえ、女優オーラが漂う彼女の容姿に注目が集まることも多い。だが、業界関係者によると、その性格はとても人間味があり、お高くとまってないという。

「バラエティー番組『1億人の大質問!? 笑ってコラえて!』(日本テレビ系)の『ダーツの旅』のロケでは、住人とフランクに会話している姿が印象的でした。おじいさんから『マクワウリ』という瓜をもらうと『これ食べたいです。包丁がないんです。でも食べたいです、今』とおねだり。その後、すっかりおじいさんと打ち解けた石原は、家の台所を借りて自ら切り分けていました。さらに他の番組ですが、収録先に向かう途中で焼き鳥屋を見つけると、スタッフに『焼き鳥食べる?』と質問。お店の人に『こんにちはー』と声をかけ、店主オススメの鳥皮を『うまい!』と言いながら店先で食べるほど。そんな立ち振る舞いを見れば、美しいルックスとは裏腹に『いい人』なのがよくわかります」(スポーツ紙の芸能担当記者)

 といっても、本番収録中での話。多少の演出が入っているのでは? と思ってしまうが、実はカメラが回っていない所でも、親しみやすく気遣いのできる人なんだとか。

「石原の場合、誰にでも分け隔てなく接するんです。番組の収録中に水をこぼしたADに対し、他の共演者が無視する中、石原だけが『大丈夫?』と声をかけたりする。ドラマのロケ中に雨が降ってきた時は、最初に主演女優の石原に傘が渡るのですが、石原は自分のことよりも他人を気遣い、次々と傘をスタッフに渡してしまうとか。いつまでも石原に傘が渡らなかったこともあったそうです」(在京キー局ディレクター)

 スタッフへの気配りも忘れない石原。さらに、仕事に関して努力家な一面も持っているという。

「自身の役に合ったメークについて毎夜、研究をしているそうです。メーク道具を広げて『この役はどういう子かな?』と思いながらリップやシャドウ、チークから眉毛の色まで考えているとか。その上、ドラマや映画、舞台のメークは自分でするように心がけているそうです。そんな努力家かつ、気さくな性格で周りにも気配りもできる。過去には数々の男性と噂になりましたが、モテて当然です。にもかかわらず、路上で焼き鳥を食べたりと女子力をアピールし過ぎないところは、女性から見ても好感が持てると思います」(前出の記者)

 今年の「なりたい顔NO.1」だった石原。美に関して女性からの支持を一番集めたということになるが、見た目だけでなく彼女の人間性からも見習うべき点は多そうだ。(ライター・丸山ひろし)

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「逃げ恥」梅原くん、まさかのカミングアウトに驚き!意味深発言のワケとは…

2016年12月26日 19時41分59秒 | 日記



























「逃げ恥」梅原くん、まさかのカミングアウトに驚き!意味深発言のワケとは…





百合の部下・梅原くんを演じた成田凌(写真は今月6日撮影)© CINEMATODAY Inc. 提供 百合の部下・梅原くんを演じた成田凌(写真は今月6日撮影)
 20日に放送されたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS系)の最終回で、「MEN'S NON-NO」の専属モデルとしても活躍する成田凌ふんする梅原ナツキがあるカミングアウトをして、視聴者から驚きの声が続出している。(以下、ネタバレあり)

 梅原は、主人公・森山みくり(新垣結衣)のおば・土屋百合(石田ゆり子)の部下で、同僚の柚(山賀琴子)と事あるごとに言い争い、百合を悩ませる、どこか不思議な雰囲気のイケメン。17歳の年の差がある風見(大谷亮平)との関係に悩む百合に対して、「好きならいっちゃえばいいのに。俺は俺の好きな人に会いたくても会えないんで。羨ましいんです、世界中の自由に会える人たちが」などと意味深な発言をしていたが、それにはある秘密があったようだ。

 この日の放送では「わたしも百合さんって呼んじゃおうかな」と言い出した柚に、梅原が「やめて。それ、俺のハンドルネームだから。土屋さんの名前、勝手に借りてんの。ゲイアプリで」と告白するシーンが。「え、ゲイなの?」と柚が驚くと、「内緒な。カミングアウトする勇気ないし」と告白し、「ゲイアプリで知り合ったすげえ気の合う人がさあ、近くで働いているはずなんだけど、絶対に会ってくれないの。俺のことは死んでいると思ってくれとか言って」と“会いたくても会えない好きな人”の存在を明かした。

 さらに驚きなのが、その相手というのが、みくりの“夫”津崎平匡(星野源)の同僚・沼田さん(古田新太)だったこと。最終的には、沼田さんが百合と共に一歩踏み出して、それぞれの相手にメールを送ろうと決めたことで、二人は出会うというハッピーエンドを迎えた。放送後、Twitter上では「逃げ恥最終回色々衝撃的だったなー 正直、梅原君が1番驚いた」「梅原くんがゲイとはね…そこが1番びっくりしたわww」「梅原くんと沼田さんのシーンよかったなぁ」など反響が続々と寄せられている。(編集部・中山雄一朗)

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井伊直虎って女性なのか!? NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」先取り人物事典

2016年12月25日 14時25分09秒 | 日記



























井伊直虎って女性なのか!? NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」先取り人物事典







 2017年大河ドラマの主人公は「井伊直虎」である。戦国ファンや同時代のゲーム好きには割とよく知られた名前だが、その一方で主役を演じるのが柴咲コウさんだと聞いて驚かれた方も少なく無いだろう。

 直虎って女性なのか!?

 答えは、イエス。彼女は幼名を「おとわ」、出家して「次郎法師」と言い、最終的には地元・井伊谷(いいのや)の女地頭になって「井伊直虎」を称する。

 一体、直虎という「おんな城主」はどんな人物だったのか? 幼少期の「おとわ」時代から解説していこう。

※直虎が男性だったという説が一部報じられていますが、本稿ではこれまで検証されてきた女性説の資料をもとに解説していきます

◆虎の目を持つ一族と呼ばれた井伊家の人々

 彼女は一体、ドコでいつ生まれたのか?

 井伊直虎に限らず、戦国時代の女性は、名前も年齢も分かっていないことが多い。

 徳川家康の正室・築山御前ですらそうなのだから、地方の小領主に過ぎなかった井伊家の女性など、ある意味、不明で当然だ。が、それでは物語が何も進まないから、ある程度は演出を伴って物語は進んでいくのであろう。

 ドラマ『おんな城主 直虎』で、直虎の幼少期は「おとわ」(柴咲コウさん)という。

 おとわの生年は、許婚者の亀之丞(かめのじょう・三浦春馬さん)が1535年生まれであるため、1535±5年と推測。亀之丞にとって彼女は、年下の可愛い女の子であったとも、年上の男勝りの女の子であったとも言われている。

 作家は、数ある説の中から、ストーリーに都合のいい説を選びがちだ。それがメディアを通じて広まり、いつしか「定説」となり、気がつけば「真説」として定着してしまう。さて、来年の大河ではどう描かれるか。

 柴咲コウさんの気丈なイメージ、かつ三浦春馬さんの優しげな風貌からして、直虎が年上となる気がしないでもない。

 いずれにせよ井伊一族には、不思議な伝承がある。

 虎の目を持つ一族――というのがソレ。

 「虎の目」とは、「野性的な目」と解されるが、私は「茶色の目」と解している(茶色の目の持ち主といえば、時代劇の俳優なら静岡県出身の里見浩太朗さん、アイドルなら大島優子さんや橋本環奈さん辺りだろうか)。

 相手に安心感を与えて信頼される目。人を惹きつける目。魅力的な目ということであろう。

 おとわの父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり・杉本哲太さん)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。

 一方、おとわの母は、ドラマでは新野千賀(ちか・財前直見さん)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。

 こうした両親のもと、おとわが生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。

 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「おとわ」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。

 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父、前田吟さん)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ・宇梶剛士さん)の子・亀之丞と、おとわを結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。

 おとわが、まだ2~3歳の時だったという。

◆亀之丞は信州へと亡命 出家して「次郎法師」を名乗る

 「おとわ」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。

 が、間もなく悲劇が起きる。井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった上に、当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。

 若かりしおとわが絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。

 当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になったおとわは、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓和尚(なんけい・龍潭寺二世住職・小林薫さん)の元へ出向いた。

「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」

 それを聞いたおとわの両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。

※このあたりのヤリトリは、江戸中期に祖山和尚(龍潭寺九世住職)によって書かれた『井伊家伝記』に、まるでその場にいたような描写で書かれている

 おとわが「出家したい」と考えた理由は

「(亀之丞はいつか帰ってくると信じて)愛を貫くため」

 すなわち、次々と舞い込む縁談を断るためとも

「(亀之丞が死んだと信じて)いいなずけの菩提を弔うため」

 とも言われている。

 ドラマ風にアレンジするならば、おとわは亀之丞だけを永遠(とわ)に愛したのであった。

◆桶狭間で直盛が死んだけど、直政が生まれた

 南渓和尚が付けた「次郎法師」の「次郎」という俗名は、井伊家当主が使う通称である。

 つまり、「次郎法師」とは女性(尼)の名ではなく、男(僧)の名であった。この「次郎法師」と名乗っていた時期を「男として生きる準備期間であった」と位置づけている方もおられる。

 亀之丞(9歳)が信州に亡命して10年後の弘治元年(1555)2月、ハタチになった亀之丞が井伊谷に帰ってきた。

 ここで「次郎法師」という名が活きる。尼であれば還俗できないが、僧であれば還俗して結婚できるのである。

――次郎法師は、還俗し、亀之丞と結婚して、幸せに暮らした。

 と書きたいのであるが、現実はさにあらず。彼女は、還俗をしなかった。むろん結婚もしていない。なぜか。

 理由として考えられるのは、彼女の結婚適齢期を超えていたからということもあろうが、亀之丞がすでに信州で子(高瀬姫・後の彦根藩家老の川手氏の妻など)をもうけていたことにショックを受けたのであろう。

「立場が上である嫡流の彼女は愛を貫いたのに、傍流の男に裏切られた」

 つまり宗家が舐められたとしてプライドを傷つけられ、還俗も結婚もしなかったのではなかろうか?と私は思う。

 結局、亀之丞は直盛の養子となり、元服して直親(なおちか)を名乗った。そして、奥山氏(井伊家の庶子家)の娘・しの(奥山家文書によると実名は「おひよ」・貫地谷しほりさん)と結婚したのである。

 直虎にとっては不運な運命としか言いようないが、井伊家にとっては、ひとまず跡取りが現れ、安泰。と、そんなところで歴史を揺るがす大事件が起きる。

 桶狭間の戦いである。

 永禄3年(1560)5月19日、直虎の父・直盛が「桶狭間の戦い」で殉死すると、母・千賀は出家して「祐椿尼」(ゆうちんに)と称し、直親が23代宗主となった。そして、翌永禄4年(1561)2月9日、新しく虎の目を持つ男の子が生まれた。

 名は直盛と同じ「虎松」。後の徳川四天王・井伊直政である。歴史を知る我々からすれば、なるほどこれで井伊家の家運は上昇したのであろうか、と考えがちかもしれないが、そうは簡単には進まない。

 翌永禄5年(1562)、今度は井伊直親(三浦春馬さん)が「徳川家康に内通している」として、今川忠臣の朝比奈泰朝に誅殺されてしまったのだ。

――そして井伊家には成人男性がいなくなった。

◆井伊谷では「静の直虎・動の直政」と対比される

 井伊家が消滅する。

 そう思われたが、1つの望みはあった。虎松である。次郎法師は、還俗して「井伊次郎直虎」と名を変え、虎松の後見人となった。

 「女城主・井伊直虎」の誕生である。

 その名に恥じない武将として、『彼女はさぞかし勇ましい男として生きたのだろう』と考えられがちだが、地元・井伊谷では「女地頭・次郎法師」と呼ばれ、物静かで優しい女性だったと伝わっている。

 「静の直虎・動の直政」と対比されるほどで、ドラマではどう描かれるか楽しみの一つだ。

 実際、彼女が「女城主」だった頃には、幸いなことに大きな戦いもなく、「女武将」としての勇ましい手腕は未知数だ。むしろ「女地頭」「女領主」としての内政能力のほうが高く評価され、土地訴訟の解決や新田開発に力を入れた。

 地味な話ではあるが、直虎最大の功績は、今川氏真が永禄9年(1566)に出した「井伊谷徳政令」を2年間凍結したことであるとされる。

 ただし、永禄11年(1568)11月9日に徳政令を施行すると、地頭職を解かれてしまい、さらに命まで狙われるようになった。そこで直虎は尼となって「祐圓尼」(ゆうえんに・「圓」は「円」の旧字体)と名乗り、実母の祐椿尼(ゆうちんに)と共に龍潭寺に入った。

 後の井伊直政である虎松は鳳来寺へ。また、時をおいて虎松の実母・しのは、徳川家臣・松下源太郎清景(きよかげ)と再婚した。

◆「日本最強の赤備え」山県隊が井伊谷に襲いかかる

 直虎の地頭解任後、家老であった小野政次(高橋一生さん)が地頭に任命された。

 が、その期間は短く、わずか1ヶ月。永禄11年(1568)12月に徳川家康(阿部サダヲさん)が三河国から侵攻してきたのだ。旧井伊領は徳川氏に寝返った「井伊谷三人衆」のものとなり、小野政次は家康によって処刑された。

 その後、家康の遠江侵攻を阻む戦いが、堀川城(気賀)や、堀江城(舘山寺)で行われ、井伊谷衆は、徳川方として戦った。

 祐圓尼は、これらの戦いには参加していない。合戦によって多くの死者が出て、各地で葬儀が重なったにも関わらず、僧侶自身も戦いで多くが亡くなってしまい、南渓和尚と祐圓尼が葬式のために回ったことが『南渓過去帳』から窺い知れる。

 そして元亀3年(1572)、武田軍が遠江国に侵攻すると、12月22日、徳川軍と三方ヶ原で衝突。武田軍が勝利をおさめ、旧井伊領はそのまま武田領となった。

 武田軍は、旧井伊領刑部で越年すると、翌年1月3日には「日本最強の赤備え」と恐れられた山県隊が井伊谷に襲いかかった。この時、龍潭寺は全焼。後日、武田信玄が死ぬと、旧井伊領は家康が奪い返し、再び井伊谷三人衆の領地となる。

 天正2年(1574)12月14日、井伊直親の13回忌法要に、後の井伊直政・虎松が鳳来寺から龍潭寺へやって来た。実母・しの、南渓和尚、祐圓尼(直虎)、祐椿尼(直虎の実母)の話し合いにより、虎松は鳳来寺へ帰さず、しのの再婚相手・松下清景の養子とした。

 「松下虎松」の誕生は、すなわち約600年続いた名門・井伊家が途絶えたかのように見えた。が、彼等の狙いはそうではなかった。

 松下虎松の将来について、しの、南渓和尚、祐圓尼、祐椿尼たちは、

――徳川家康に引き合わせ、仕官させよう。

 ということになったのだった。祐圓尼は、家康と対面させるために着物を縫い、遠くからでも目立つように四神旗を作ったという。

 そして天正3年(1575)2月15日、鷹狩に出た家康は、首尾よく虎松を見つけると……

――こやつ虎の目を持っておる。はて、どこかで見たような?

 と、浜松城へ連れて帰り、身元を聞いて納得した。徳川に寝返ろうとして討たれた直親の子であり、桶狭間の戦いでは共に先鋒を務めた直盛の孫(直親は直盛の養子)であると知り、

――取り立てずんば叶わじ(召し抱えないわけにはいかない)

 として、虎松を小姓にし、「井伊」の復姓を許して「井伊万千代」と名付けたのだ。所領は300石。後の井伊家大躍進から見ればまだまだ小さな石高であったが、ともかく井伊家は、家康のおかげで絶えずに済んだのである。祐圓尼は喜んだ。

◆時には男として生き、生涯未婚 早すぎる死を……

⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1261961

 万千代の仕官後、祐圓尼は、愛した人の子の出世を祈り続けた。

 彼女の祈りは届いたのであろう。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変に続く「神君伊賀越え」では、万千代も功績をあげ、家康から「孔雀の陣羽織」を賜るなど順調に出世していった。それに安心したのか、同天正10年(1582)8月26日、祐圓尼は、龍潭寺の松岳院で南渓和尚に看取られながら、静かに息を引き取った。病魔に侵され早すぎる最期ではあったが、死に顔は穏やかであったという。

 井伊家を虎松(万千代→井伊直政)に引き継いだ女性は、時には男として生き、生涯未婚であった。享年は不明だが、母・祐椿尼の死から4年後であることから早逝であることは明らかであり、当時の平均寿命50歳には程遠かったとと考えられている。

 位牌と墓は、彼女の戒名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」と改名された菩提寺の自耕庵にある。

 平成19年(2007)、彦根城築城四百年記念祭に合わせて、龍潭寺の境内に「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑が建てられた。まるで、龍潭寺での祐圓尼の祈りのおかげで、直政が出世できたと言わんばかりのその佇まい。

 徳川家康は、約17年間、遠江国(浜松)で過ごし、その間、遠州(遠江国のこと)の多くの武将が家康の軍門に下ったが、「徳川二十八神将」に選ばれた遠州人は、井伊直政、只一人である。

 直政の出世はさほどに異例であり、神がかっていたとしか言いようが無く、彼自身の努力の賜物であることは間違いないが、「井伊」という名門の血、人を魅了する虎の目、そして、祐圓尼の祈りが、出世に無関係だったとは言い切れない。

<著者/戦国未来>

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【忠臣蔵】2016年年忘れいっき読み!蒼に月に、忠臣蔵<忠臣蔵維新回天編>3

2016年12月25日 08時27分10秒 | 日記

















         3 大石内蔵助






  大石内蔵助は、
「城を枕に討ち死にしようぞ!」と血判状を集めていた。
 それに反対する者たちが現れた。いわゆる”仇討ち派”である。
 その中心的人物が、堀部安兵衛、堀部弥兵護義親子と奥田孫太夫、高田郡兵衛などであった。
 それは、浅野家とも内匠頭とも関係なく、御家が断絶となって主君が切腹したのに相手吉良はのうのうと生きているのは武士として禄を食んだものとして面目が立たない、というヒロイズムであるという。
 堀部安兵衛というのは元々は中山安兵衛といって、元禄七年に、友人の菅野六郎左衛門の助太刀に出て、高田の馬場で相手の村上庄左衛門ら三人を斬り殺したことで有名人となり、浅野家詰三百石の堀部弥兵衛の養子になった者だ。
 十石で仕官するのも難しい時代に、養子後、わずか三年で二百石とりの武士になったのだから大変な出世である。そんな安兵衛はスターであり、江戸で広がる”吉良憎し””仇討ち当然”の世論にひどく気にしたのも当然である。
 奥田孫太夫、高田郡兵衛も新参者だった。
 奥田孫太夫は内匠頭の母に付いて鳥羽の内藤家から浅野家に入ったものだが、延宝八年、内藤和泉守忠勝が増上寺で刀傷事件を起こしたために浅野家に居残る形となったという。 内藤家は改易となり、改易となった大名の家臣として負い目を感じていた。
 高田郡兵衛は槍の名手で「槍の郡兵衛」といわれスターだった。
 その腕をかわれて浅野家に仕官したのである。
 その点では堀部安兵衛と似ている。
 これらは「恥をかいてまで生き延びたくない」という面目があった。
 この人物たちは強行に「吉良を討つべし!」と主張し続けたという。


                  
  内蔵助の息子・主税は小滝という小娘と結納までしていた。
 まだ若いふたりである。
 主税はハンサムで、小滝は可愛い顔をした女子だった。
 ふたりは庭を散策していた。
 手を握ると、それだけで小滝は頬を赤らめた。純粋な女子である。
「主税さま………わらわたちは夫婦になるのでごさりまするね?」
 まだ未通娘(処女)の小滝は、主税と結ばれるのを心待ちにしていた。
 いやらしい気持ちはない。
 まだ無垢な小娘である。
 しかし、その愛しの彼は妙なことをいいだす。
「……別れる?」
 小滝とその母、どちらが驚いたかわからないくらいだった。
 大石主税がそういったのだ。
 小滝は可愛い顔に涙を浮かべて、
「なぜでござりまする?! 小滝が嫌いになったのでござりまするか?!」と涙声でいった。「……いやそうではない」
「……では…なぜ? 小滝に悪いところがあるなら改めますゆえ…」
「そうではない。そうではないのだ!」
 主税は無念そうに言った。
「小滝のことを嫌いになったのではないのですね?!」
「……そうじゃ! わしはお主が大好きじゃ」
「なら……なぜでござりまする?! 小滝は悲しうござりまする」
「小滝!」
「…はい」
「われは」主税は無念そうに続けた。「われは父とともに城を枕に死ぬのじゃ」
「えっ?!」
 小滝は驚愕した。「なにゆえ?!」きいた。
「……殿が殿中で「刀傷事件」を起こしたのは知っておろう?」
「………はい。それはもう」
「それで赤穂藩はなくなる。亡君さまの弟君・大学さまの跡目相続も危うい。われら家臣は……幕府への抗議として赤穂城を枕に切腹するのじゃ」
「そんな……主税さま。そんな……!」
「さらばじゃ……小滝!」
「……主税さま。そんな…そんな」
 小滝は歩き去る主税を、泣きながら目でおった。
  江戸の夜の酒場では、堀部安兵衛、高田郡兵衛、片岡源九右衛門、神崎与貞郎らが、「かならず吉良を討とう!」
 と話しあって酒を呑んでいた。
「いまさら血判状などと…馬鹿らしい」
「おじけづくものもいよう」磯貝十兵衛左衛門がやってきていった。ぐいっといっきにいった。「昼行灯め!」
「なにが城を枕に討ち死にじゃ! 吉良の首はどうなる?!」
 そんなとき、一同はぴっとはりつめた。「まて! 女!」
 女と男は逃げ始めた。
「まずい! 上杉の間者か?!」
「待て~っ!」
 女は駆けてどこかへいってしまった。
 しかし、男のほうはやってきた不破数左衛門が斬って捨てた。
 一同は遺体をみた。
「………上杉の間者か?」
「死体だけでわかるまい。血判状のことが上杉に知られたかも知れん」


  廻船門屋・天野屋……
 播州赤穂の塩商人にて大富豪である阿島八十右衛門は、大石と話していた。
「かのようなことになり申し訳ないのですが…」
 大石内蔵助は恐縮した。
「赤穂の塩で一代築きました」
 阿島八十右衛門は「殿が一大事にならしゃれたと………切腹されるとか」
 大石は「まだそのことは内密に」という。
「……藩札(藩の借金・不良再建)は焼いてしまったということに」
 八十右衛門はあっぱれな男だった。
 借金を忘れてくれるという。
  大石内蔵助の妻りくは息子の死に装束の白無垢を縫っていた。
「母上! いままでお世話になりありごとうごさりました」
 主税はいった。
 母は「武士の子として、恥ずかしくない死にかたをしなさい」と涙声でいう。
 主税は服をきた。
「立派な最期を!」
 りくは言った。
「ご安心ください! 武士の息子として最後を飾りましょうぞ!」
 主税はいった。
 りくは台所にいき、奉公人たちに最後の挨拶をした。奉公人たちは泣いて平伏している。「お前たちには世話になりました。お別れです」
 りくに共をさせて下さいという奉公人があった。
 のちに討ち入り後、生き証人となる寺坂吉衛門である。
「なりませぬ、寺坂! そなたは武士ではありませぬ」
「大石さまのお供を!」
「わが旦那さまは切腹するのですぞ!」
「かまいません!」
 寺坂吉衛門はいつまでも平伏していた。
 雨がふってきた。
 老人がきた。
 吉田忠左衛門だった。それでも、寺坂吉衛門は雨に濡れながら平伏していた。
 大石内蔵助は出迎えた。
 そして、寺坂吉衛門に気付いた。
「なにをしておる? 寺坂吉衛門」
「わたくしもご一緒いたしたく…」
「馬鹿者! おぬしは侍でも赤穂藩士でもないのだ! 命を粗末にするな!」
 内蔵助はきつく叱った。
「あっぱれ。奉公人まで”義”を貫こうとする」忠左衛門はほめた。
 大石は折れて、
「わかった。寺坂吉衛門……共をせよ! 亡殿もよろこぶだろうて…」
「ははっ!」
 寺坂吉衛門はさらに平伏した。
  播州赤穂城の中では、家臣一同が白無垢姿だった。死に装束だ。
「………矢頭五衛門、下がれ!」
 内蔵助はいった。
 矢頭五衛門は「なぜでござりまする?! われも赤穂の家臣としてご一緒しとうござりまする!」という。
「お主はまだ十六歳! 死に急ぐでない!」
「下がりませぬ!」
 五衛門はその場で切腹しようとした。「わたくしが最初に!」
「それにはおよばん!」
 内蔵助は強くいった。
 一同が沈黙する。そして、ざわざわと騒がしくなった。
 内蔵助が、
「切腹はしない。わしはお主たちを試したまでのこと」と言い出したからだ。
「どういうことです?! ご家老?!」
「われらが目指すのは吉良の御首それのみ! 仇討ちせず、亡殿がはたして喜ぶだろうかとわしは思う!」
 一同はざわざわとなる。大石は続けた。「もうすでに戦いは始まっておる! 上杉の間者がわれらは切腹すると伝えたであろう。しかし、同じ切腹するのならば吉良の御首を頂いたあとじゃ!」
 一同も「そうだそうだ!」と同調する。
「殿の仇を討たずして切腹しても……吉良が喜ぶだけじゃ!」
「吉良の首を斬りとって殿の墓にささげなければ腹の虫がおさまらぬわ」
 大石は「城は幕府に明け渡す。無血開城じゃ」という。
 なにやらわからぬが、家臣たちは熱っぽくなった。
 ……これは仇討ちしかない。
 しかし、吉良はまだぬくぬくと生き続けていることであろう。老人だからいずれ死ぬだろうが、その前に痛い思いをさせてやろう。
 こうして、城は開城された。
 大石はその早朝、赤穂城内を見てまわった。柱に内匠頭の幼少のおり、つけた刀傷があった。「吉良さえいなければこんなことには……」
 大石内蔵助は残念に思った。
 やがて、幕府の令により、播磨藩や毛利藩の武者たち一同が旗をなびかせて城にやってときた。嘉坂は大石にわびた。
「わしがいながらこんなことに……すまぬ」
「いいえ。これは幕府の決まりでござる」
「わしは内匠頭殿の弟君・大学さまの跡目を幕府に進言するつもりである」
「嘉坂さま! 播磨藩主のあなたさまからのそのお言葉ありがたく思いまする!」
 大石は男泣きした。
「お家再興のために嘆願するぞ! あんずるな大石殿! 上様は頭が堅いが理解ある方じゃ。きっと、弟君・大学さまの跡目となりましょうぞ」
「……たとえ一万石でも……大学さまが浅野家を継がれればありがたき…幸せ…」
「今回のお家断絶は幕府の片落ちじゃ。きっと上様がなんとかしてくださるじゃろう」
 大石は男泣きし崩れた。
  江戸では堀部安兵衛の愛人が、病死した頃だった。
 清水一角は、「ねんごろに弔え」と銭を渡した。
 安兵衛は「吉良め! 吉良め!」と怒りを爆発させている。
 赤穂家臣たちの間では脱落者が多数でた。
 討ち入りのときは四十七人だったのだから、その何倍もの家臣が脱落したことになる。「まて!」
 赤穂家臣の吾平太は船にのった。「待たぬと斬るぞ!」
 しかし、吾平太は、
「仇討ちなどに付き合ってられぬ。ただの浪人では食っていけぬ!」といい船で去った。 このような者が続出した。
 人間は”義”だけでは食べていけない。
 忠義だの忠臣だのといってみたところで、所詮はただの浪人。今でいうフリーターやニートだ。つきあってられない…と思っても無理はない。
 どこかに仕官しなければ給料ももらえない。
  上杉の千坂兵部は「なにっ?! 切腹せず開城しただと?!」と間者からきいた。
 上杉綱憲のブレーンでもあった千坂兵部は、何やらおそろしくなった。
 ………何を考えておる?! 大石内蔵助!

大石内蔵助が江戸へ「東下り」する際、『垣見五郎兵衛』うんぬんでの有名な話はフィクションなのであえて触れない。年末のドラマででも参照して頂きたい。
 その大石内蔵助は紋付き袴姿で、城から出た。
 そして、空虚な気分で城を眺めた。
「主税! よく見ておけ! 赤穂城の見納めぞ!」
 明朝卯の刻、のことであった。
 ……狙うは吉良上野介の御首!
 いよいよ、仇討ちのための長い戦いの始まりでも、あった。            

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【忠臣蔵】2016年年忘れいっき読み!蒼に月に、忠臣蔵<忠臣蔵維新回天編>2

2016年12月25日 08時24分53秒 | 日記




















         2 刀傷事件と危機






  浅野内匠頭はまた計られた。
殿中に参内したおり、烏帽子ひたたれだったが、他の大名はそうではなかった。
 前日、吉良に烏帽子で…といわれたためにその格好で参内したのだった。
「……どういうことなのじゃ?!」
 内匠頭は狼狽した。
 いろいろな大名が通り過ぎる。
 嘲笑されている。
「……殿。こちらへ」
 背後の襖の奥から囁く声がした。襖が開く。それは浅野家の家臣だった。
 内匠頭は静かに奥にひっこんだ。ゆっくりと襖が閉ざされる。
「殿……こんなこともあろうかと別の制服を用意しておりました」
「おお」内匠頭は家臣の心配りにおそれいった。「でかした」
「さっそく……気付かれぬうちにお着替え下され」
 内匠頭は烏帽子をとり、着替えた。
 そして、心の中で、
 ………おのれ! 吉良上野介め! なぜわしに烏帽子ひたたれで参内せよなどと嘘を申したのじゃ?! 騙して、われを嘲笑させるためか?! 許せぬ!
 と激怒した。
 それでも我慢した。
 嘉坂にいわれたように老人はもうすぐあの世にいく。それまでの辛抱だ。
 わしはまだ二十五……吉良はもう六十過ぎというではないか…
 着替えた内匠頭は、やってきた吉良にお辞儀した。
 吉良上野介は、びっくりしている様子だった。
 ……せっかくわしが浅野に恥をかかせる気でおったのに……
 その顔にはそう書いてあった。
 浅野内匠頭は謙虚な男だった。すぐにつくり笑顔で、
「ごきげんうるわしう」といった。
 吉良は何もいわない。
 浅野内匠頭は「勅使を迎えるには玄関でか、それとも奥でか……? 吉良殿お教え下され」と頭を下げた。
 吉良上野介は、ふん、と鼻を鳴らした。
 そして、「そなたはお迎え役であろう?! そのようなことも知らんのか!」
 と喝破した。強くいいはなった。罵倒に近かった。
「何かと思えば……口をパクパクパクパク……まるで鮒じゃ」
「……吉良殿…」
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ!」
 浅野内匠頭は腹にすえかねた。
 ……鮒侍じゃと?!
 吉良上野介は、まだ嘲笑罵倒をやめない。
 扇子を取りだして、金具の部分で内匠頭の額を叩き、
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ! この鮒侍め!」と悪口をいった。
 内匠頭は、吉良の白髪まじりの顔をぎろりと睨みつけた。
「……なんじゃ? その目は? 鮒侍め! わしを愚弄する気か?!」
「許せぬ!」
 内匠頭は、腰の脇差に手をかけた。
 すると、吉良は、
「ここは殿中じゃぞ!」といい放った。「殿中で刀を抜けばどういうことになるかお主だってわかっておろう?!」
 内匠頭は、愕然となって膝をついた。
 狼狽した。
 しかし、吉良への怒りは抑え切れない。それはぐらぐらと炎のように内匠頭の体に熱を帯びさせた。
 吉良は「できもせんことはせぬことじゃ。わはははは……この鮒侍め!」
 と笑った。
 そして、浅野内匠頭に背を見せて、歩き去ろうと歩きだした。
「鮒侍、鮒侍……わははは」嘲笑はやまない。
 ……吉良め! 吉良め!
 浅野内匠頭は激昴のあまり、顔を真っ赤にして刀に手をかけたままだった。どうにかなりそうだった。怒りが頭中に達して、全身が火照った。
「吉良上野介! 待て~っ!」
 ぎろりと憎しみの目で、六メートル先の吉良に声を発した。
 一同は振り返った。
 その時だった。
 浅野内匠頭は刀を鞘から抜き、駆け出した。そして、吉良上野介に斬り込んだ。
 ハッ! とする吉良……
 そして、前代未聞の事件、「刀傷事件」は起こった。
 吉良上野介は額を斬られ、出血した。ぼたぼたと血がしたたる。
 老人は尻餅をつき、おたおたと狼狽して逃げようとした。
 内匠頭はなおも一撃を加えようとする。
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿! 殿中でござるぞ!」
 誰かが浅野内匠頭をはがいじめにした。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……後生でごさる!」
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿!」
 殿中はパニックになった。
 浅野内匠頭ははがいじめにされて、吉良は担がれて奥に運ばれる。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……!」
 内匠頭は、一同にはがいじめにされ、刀を取り上げられた。肩でぜいぜい息をした。
 とうとう観念した。
「……とうとうやってしまったか…浅野内匠頭殿」
 播磨藩主・嘉坂はその姿を遠くから見て、愕然とした。
 幕府目付役がきた。
「幕府目付役・多門伝八郎にござる。刀をこれへ」
 血のついた刀が没収された。「浅野内匠頭殿……こちらへ」
 内匠頭は明らかに狼狽し、動揺していた。茫然と突っ立って、視線もうつろだ。
「こちらへ」
 やっと伝八郎の声がきこえた。
 この「刀傷事件」はすぐに殿中に広まった。赤穂江戸藩邸にもすぐ知らせがきた。
「……ど……どういうことなのじゃ?! 兄上は何故そのようなことを?!」
 内匠頭の弟・浅野大学長広はすぐにやってきて、狼狽した。
 家臣たちにも皆目検討もつかない。
「兄上は本当に殿中で刀を抜いたというのか?!」
 家臣は狼狽しながら「そ……そのようでござる。しかし、今、幕府にて吟味中とか…」「どういうことなのじゃ?! さっぱりわからん!」
浅野内匠頭の正室・阿久里(あぐり・瑤泉院・りょうぜいいん)は何もいわずに只、泣いていた。
 ……殿中で「刀傷事件」を犯したらただではすまない……
 ……相手はどうなったのであろうか…?

「乱心であろう? 乱心であればお咎めなしじゃ」
 伝八郎は、浅野内匠頭を別室で問いただした。
「いえ……乱心ではござらぬ」
「…乱心といいなされ。それで命は助かる」
「乱心ではござらぬ」
 内匠頭はかたくなに首を横にふった。目が遠くをみているようで、辺りを不安にさせた。 伝八郎の側にいた家老は、
「吉良は浅でで……」といおうとした。
 伝八郎は止めて、強くいった。
「吉良上野介はひどく傷をおって、出血がひどく命もあぶない」
 内匠頭はにやりとなった。
 そのまま拘束されていた。
 しかし、吉良上野介はひどい傷をおって出血がひどく命もあぶない、というのは嘘だった。吉良は額を数センチ切っただけで包帯をまけばすむような浅傷だった。
「……何が何だかわけがわからん」
 多門伝八郎はそれを黙ってきいていた。
 吉良の内匠頭への度重なる罵倒など知りようもない。
 息子で、出羽米沢十五万石上杉家に養子に出していた上杉綱憲が江戸藩邸からかけつけてきた。もう、江戸中がこの前代未聞の「刀傷事件」でもちきりだった。
「父上! お怪我のほどは?!」
 綱憲は心配して問うた。
 医師は、
「軽い傷です。傷跡は少し残るでしょうが……命に別条はごさりません」という。
 息子はほっと胸をなでおろすと、
「なぜこのようなことになったのです?」と父に問うた。
 吉良はシラをきり通した。
「わしには何のことだかさっぱりわからん。あの若者が急に斬りつけてきたのじゃ」
「許せぬ! 浅野め!」
「やめい! お主はもう吉良の子ではない。出羽米沢十五万石上杉家の当主ぞ!」
「しかし…」
 綱憲は続けた。「父をこのようにされて、浅野を斬らぬ訳にはまいりませぬ!」
「今は戦国の世にあらずじゃ。綱憲殿……おって幕府からご沙汰があろう」
 吉良はどこまでもシラをきる気だった。
  徳川綱吉将軍の元にも情報が入ってきた。
「なにっ?! 急に斬りつけただと?!」
「はっ!」
「殿中でか?!」
「はっ! さようにござりまする!」
「どういうことでおこったのじゃ?」
 綱吉は是非とも答えがききたかった。
「わかりませぬ。いきなり斬りつけたと……見ていたものがそういいましてござる」
「田舎大名めが! 戦国の世でもあるまいに!」
 徳川綱吉将軍はすぐに命令を発した。
 それは浅野内匠頭の切腹だった。
 驚いたのは、多門伝八郎である。
「浅野内匠頭の切腹はわかるが、吉良上野介はお咎めなしとはどういうことじゃ?! 喧嘩両成敗と幕府規則で決まっておるではないか」
「とにかく上様はそうおおせです。浅野内匠頭のみ切腹をと」
 幕府目付役・多門伝八郎は納得いかなかった。
「そけでは浅野家、赤穂藩があまりにも憐れであろう?!」
「上様のおっしゃることですぞ!」
「納得ならん! なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」

  浅野内匠頭は一室で、襖に囲まれて幽閉されていた。
「是非、ご切腹の前に殿にあわせて下され! 事情をききたいのです!」
 赤穂藩士・片岡が幽閉先の田村右京太夫邸で嘆願しているところだった。
 幕府目付役・多門伝八郎は、
「幕令により面会はできない。ただ……切腹は庭でと決まった」
「庭?!」片岡は驚いた。「なぜ武士らしく屋敷内で切腹されないのですか? 吉良は?」「幕令である」
 多門伝八郎は、情けをかけた。「ここの廊下を浅野殿が通る……声はかけてはならぬぞ」「はっ! ありがたき幸せ!」
 片岡は庭の満開の桜のもとで平伏していた。
 やがて死に装束の浅野内匠頭が歩いてきた。
 片岡は涙を流して平伏している。
 ちらりと内匠頭が、片岡をみた。
「……無念じゃ」呟くようにいった。歩き去った。片岡は泣き崩れた。
 やがて、浅野内匠頭は庭についた。
 切腹の用意がされ、解釈の侍が刀を構えていた。
 内匠頭は辞世の句を書いた。

 ……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……

 内匠頭は衣を脱いで、刀を持ち、やがて頷き切腹した。
 首が落とされる。
 享年二十五歳だった。
  早馬がすぐに江戸を発した。
 向かうは播州赤穂藩である。原惚左衛門、大石瀬左衛門が馬でかけたが、途端に馬がだめになり、夜も寝ずに賀籠にのり、赤穂へと急いだ。
 高輪の泉岳寺で葬儀が開かれた。
 赤穂藩五万石の質素な葬儀だったという。
 浅野内匠頭の妻・阿久里は、集まった江戸藩邸の家臣たちに礼を述べた。
「そなたたち、今までの忠義……大儀であった」
「奥方さま!」
 一同は泣き崩れた。
  上杉綱憲は、
「浅野内匠頭は天命ぞ!」などと上杉江戸藩邸で笑った。
 千坂兵部は諫めた。
「殿! その言葉、けして他言なされまするな! 吉良殿が浅でなどとは決して…」
「……千坂。なぜじゃ?」
 綱憲には考える頭はない。この男に事情を察しろというほうが無理だ。
 もともとこの男は無能で、頭の悪いたちである。
「赤穂藩士たちに命を狙われまする!」
「……命? なぜじゃ?」どこまでも無能な男だ。
「浅野が切腹で、吉良殿が無罪放免では藩士たちが不満をもちます」
「…………なるほど」
「まずは上杉から間者(スパイ)を出して、様子をさぐらせます。吉良殿の警備もいたさねばなりませぬでしょう」
「なるほどのう。頼むぞ」

  江戸から赤穂までは百五十五里である。
 携帯電話もインターネットもない時代、早馬や賀籠では四~五日かかる。そこを、ふたりの家臣たちは三日でついた。夜も寝ず、食事もとらずのまさに死に者狂いの伝達だった。「原惚左衛門! 大石瀬左衛門! 殿よりの知らせ報告の儀これあり!」
 三月十二日の早朝、巳の刻………
 内匠頭切腹が大石内蔵助の元に知らさせた。
「なんじゃと?! 殿がご生外?! 切腹したと申すのか?!」
「……はっ! 残念ながら命果てましてごさりまする!」
「なにゆえ「刀傷」におよんだのじゃ?!」
「存じませぬ」
 大石は訝しがった。「それで相手はどうなった?!」
「吉良上野介はご存命……傷はわかりませぬ」
「なぜじゃ?! なぜ吉良は無罪放免で殿は切腹なのじゃ?! 幕令でも喧嘩両成敗となっておるではないか!」
 大石はついに怒りを爆発させた。
 原惚左衛門は「幕府の片落ちにごさりまする! これを殿より大石殿へと!」
「わしに……? このわしに殿からか?!」
「はっ! 正室・阿久里さまにも弟君・大学さまにも書状はなく、ただ大石だけにと…」 大石内蔵助は書を読んだ。
「……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……春の名残……り…を…」
 大石内蔵助は男泣きに泣いた。
「春の名残…り……殿! 殿!」
 一同も泣いていた。
 これでは藩は取り潰しである。
「弟の大学さまを跡取りとは出来ないものか……この際、禄高は減らされても伝統ある赤穂藩の名が残れば……いいが…」
「もし、藩がつぶされるなら……城を枕に討ち死にしましょう…ご家老!」
 一同は悲嘆に暮れた。
 討ち入りの一年九ケ月前のこと、であった。


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【忠臣蔵】2016年年忘れいっき読み!蒼に月に、忠臣蔵<忠臣蔵維新回天編>1

2016年12月25日 08時23分20秒 | 日記



















小説
 蒼に月に。忠臣蔵
                          ~赤穂浪士”義”

                                をつらぬく~
                 ちゅうしんぐら   ~the best samurai's~
               ~世紀の忠義! 吉良打倒による「討ち入り」。
                 「赤穂の忠義」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  ときは元禄。舞台は播州赤穂である。
 播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩は、吉良上野介による嫌がらせに憤慨し、刀傷事件を殿中で起こしてしまう。浅野内匠頭長矩は切腹、しかし吉良上野介は御咎めなしだった。
 そのことを知らせれて家臣たちは憤る。「なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」
 播州赤穂の家老は有名な大石内蔵助である。内蔵助は白無垢姿で切腹しようと家臣たちにいうが、切腹せず城を明け渡し、藩はつぶされる。
 内蔵助はそれから放蕩にふけり、酒や女に明け暮れる。
 しだいに去っていく家臣たち……
 しかし、大石は主君・浅野内匠頭長矩の命日から一年九ケ月後、四十七人の刺客をそろえて江戸の吉良上野介の館へ深夜、討ち入る。上杉からの刺客も倒し、ついに吉良の首をとる。こうして忠臣たちは主君の仇を討ち、切腹して果てた。       おわり
         1 吉良上野介






      
  ときは元禄時代である。
 戦国時代の終り、すなわち徳川家康が天下人となり、大阪夏の陣で豊臣秀頼をやぶって徳川の世をつくって、百年以上過ぎた時代……
 この時代の人々は、上杉謙信や武田信玄、織田信長、秀吉、家康、政宗などを、現在の日本人が明治維新の龍馬や新選組、勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、福沢諭吉などの英雄たちを見るような感覚で見ていたのかも知れない。
 徳川の五代将軍は綱吉である。独裁者だった。文をよく読んだ。
 元禄はことのほか華やかな時代だった。
 将軍も機嫌がいい。
  神田橋の大寺院と中野村のお犬小屋もできあがっていた。目下、巨大な伽藍も建設中だ。将軍は生き物すべてに憐れみをかけていた。絶対平和の世の中を千年ののちまで残すことを念願し、民から殺伐の気を完全になくさなければと信じていたという。
 特に、大好きな犬には保護を続け、野良犬も保護した。
 ……犬将軍とも嘲笑された。
「さがは将軍様、これで犬も人も幸せになったとみなよろこんでおります」
 近習が伝えるそんな報告に、綱吉は目を細めてきいていた。実力者大一等・御側御用人の柳沢保明(のちの吉保)は老中となり、いまや幕府の実力者ナンバー・ワンだった。
 なにより幕府にとって有り難いのは、多年の懸念だった財政難が見事に解決したことだ。金銀改鋳に踏み切って三十万両もの銭が入ってきた。
 しかし、間もなくインフレになった。
 綱吉は母・桂昌院に土産を贈った。
「上様、ありがたく頂きまする」母は、息子を褒め上げた。
「上様のおかげで、みな平和でごりまする。上様は家康公以来の天才的将軍様にござりまする」
「わははは。それはちと大袈裟でござる」
 綱吉は目を細めて笑った。
「しかし、余はまだまだ長生きしなければならぬ。まだ世継ぎが生まれぬ。なぜでしょうか?」
 母は「上様は生まれる前の前世に何か罪でもしたのではござりませぬでしょうか?」
「罪でござりまするか……?」
「上様は戌(犬)年生まれ……犬や生類を憐れんでみては世継ぎも生まれましょう」
 このような女の浅知恵で、世にいう『生類憐れみの令』は発せられた。
 野良犬を蹴っただけで死罪になったり、鶏を食べただけで鞭打ちになった庶民も多かった。まさに馬鹿げた法律である。
 さて、この小説では浅野内匠頭長矩に、吉良上野介が「フナ侍!」などと罵声をあびせかけることになっているが、それは吉良を悪人とするためだ。本物の吉良は領地の三河吉良町では名君といわれているほどの人物である。
 このひとの築いた黄金堤は今も残る立派なものだという。近隣の他領との境界問題や水争いに介入し、みごと解決している。しかも、将軍受けもよく、高い位ももらっている。     一方の、浅野内匠頭長矩が狂気じみた男で、すぐにキレて、刀で発作的に斬りつけたというのも正しくない。このひとは教養人で、書もたしなみ、和歌もつくっていた。
 それまでの諸藩の火消し役にも勤め、「火消し名人」とまでいわれて、江戸庶民にも人気があった。播州赤穂藩ではとりたてて目立った業績はないが、各藩がのきなみ赤字を抱える一方、質素倹約に勤めていたともいう。
 そんなふたりが殺人未遂事件をしかも殿中で犯したのだから、歴史家も不思議に思って、”吉良のいやがらせで…”となった訳だ。
 内匠頭にしても「先日の遺恨覚えたるか!」と叫んで理由も述べず切腹している。
 理由は上野介の自慢話にあるとみていい。
 吉良上野介は運のいい男だった。息子の綱憲を出羽(山形県)米沢十五万石の養子にすることに成功し、他の子供(娘三人)も上杉家に養子に出している。
 かれは出世したと思って自慢気だ。
 ところが大名たちは出世欲などないし、吉良が主張するような努力を評価してなかった。たった四千二百石の吉良が、少しばかりよい縁組を得ても羨ましいことでもなかった。
 だから、吉良の説教など馬鹿らしくてきく耳もたない。
 しかし、吉良は自慢気に説教をたれ、大名の中には「吉良を斬る!」と息巻くものまでいたという。内匠頭も案外そのひとりだったのではないか?
 またこの時代の日本は完全なる非武装国家だった。
 天然の要塞”海”にかこまれたこの国は、モンゴル軍襲来以来、幕末に黒船が来るまで乱らしき乱はなかった。一国平和主義で、長崎の出島以外では貿易さえしてない。
 のちに蝦夷(北海道)や流球(沖縄)を侵略して併合し、台湾や朝鮮も攻めるが、それは幕末近くにやったことだ。
 徳川幕府独裁政権の二百七十年で、日本人は完全に平和ボケしてしまった。
そんな中で、唯一、忠義を貫いた家臣が、赤穂浪士だった訳だ。
 忠臣蔵のような事件が三度も六度も起こっていたら、赤穂浪士たちもそれほど有名にはなっていなかったかも知れない。毎年師走にテレビや映画で放映されることもなかったろう。それだけ平和な世の中だった訳だ。
 だからこその幕末の異変は興味をそそるのだ。我々が勝海舟や西郷隆盛や新選組や高杉晋作や坂本龍馬に抱く感情は、よくあんな国になった世を変えてくれた……という憧れだと思う。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「元禄忠臣蔵」「忠臣蔵」「四十七人の刺客」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。
  話しを戻す。
「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?

赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳寺(写真:シャネル / PIXTA)c 東洋経済オンライン 赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳…  
 元禄15年(1702年)12月14日深夜、江戸郊外の本所松坂町にある武家屋敷が襲撃され、その主である幕府旗本高家(こうけ)、吉良義央(きら・よしなか[または「よしひさ」とも])が、旧赤穂藩の義士47人(46人という説も)によって殺害された。世に言う「赤穂事件」である。
 この事件は、前年の3月、江戸城中で起きた「ひとつの傷害事件」によって主家を取り潰された旧赤穂藩士による、いわば「復讐劇」である。
 事件後、彼らの行為は「美談」として語られ、『忠臣蔵』の名で芝居の題材に取り上げられると、空前の大ヒットを記録した。その人気はいまなお衰えない。
 しかし、そんな私たちの知る『忠臣蔵』は、実際には「美談ではなかった」とする見方も指摘されている。
 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「忠臣蔵の真実」を解説する。
本当に『忠臣蔵』は実話なの?
 毎年、12月半ばを迎えると、日本ではなぜか『忠臣蔵』の新旧映画・ドラマが放映され、東京・高輪の泉岳寺では「義士祭」も行われます。
 これは、元禄15(1702)年12月14日(旧暦)が、いわゆる「赤穂四十七士による吉良邸討ち入りの日」だったことと関連しています。いまや『忠臣蔵』は私たちにとって年末の風物詩でもあるわけです。
 『忠臣蔵』では、清廉潔白の赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、老獪な幕府旗本高家「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」にたばかられ、ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷ざたを起こし、その罪によって切腹のうえ藩は取り潰しとなります。
 しかし、吉良のほうは無罪放免。刃傷ざたにもかかわらず、片方が一切、罪に問われませんでした。これに怒った赤穂義士たちが「亡き主君の無念」を晴らすべく、屈辱の日々を耐え忍び、ついに悲願だった吉良の首を討ち取ります。
 この爽快な「勧善懲悪」のストーリーは、時代を超えて私たちに感動を与えてくれますが、『忠臣蔵』はあくまで「赤穂事件をモデルとした物語」です。実際の出来事をすべて忠実に再現したものではありません。
 それどころか、「赤穂事件」を詳しく見てみると、これまで私たちが描いていた「赤穂義士」の討ち入りの目的が、じつは「あだ討ち」ばかりではなかった可能性が垣間見られるのです。
 いったい彼らの「本当の目的」は何だったのか、今回は「赤穂事件」をテーマに、「忠臣蔵の真実」について解説します。
 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
『忠臣蔵』のモデルとなった「赤穂事件」
 Q1. そもそも「赤穂事件」って何ですか?
 元禄15年(1702年)12月14日に起きた、「大石良雄」ら旧赤穂藩士47人による幕府旗本「吉良義央(きら・よしなか)」への襲撃事件です。
 Q2. おさらいですが、なぜ旧赤穂藩士は吉良を襲撃したのですか?
 きっかけは、前年の3月に起きた江戸城内での刃傷事件です。
 赤穂藩主「浅野長矩(あさの・ながのり)」が幕府旗本で幕府の行事儀礼を取り仕切る高家の「吉良義央」を短刀で切りつけ、その罪によって即日切腹のうえお家取り潰しとなります。しかし、「喧嘩両成敗」が当然だった当時において、どういうわけか一方の吉良は無罪でした。
 これに怒った旧赤穂藩士たちが「主君に代わり吉良を討とう」と襲撃を計画、実行したのです。
 Q3.実際の襲撃の様子は?
 前日の大雪が残る中、大石ら47人は深夜の午前3時半ごろ、大名火消の装束に擬装して、「火事だ」と叫びながら吉良の屋敷に突入しました。
 周到な計画に基づいてのぞんだため、まったくの無防備だった吉良側はほとんど抵抗できず、短時間の格闘の末、吉良義央は身を潜めていたところを討ち取られました。
 Q4.襲撃による死傷者は?
 この事件で、吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷、一方、大石側は2人が負傷したのみで死者はゼロでした。
 Q5. 浅野長矩は、吉良義央に対して「どんな恨み」があった?
 詳しい理由は、現在なお不明です。
 2人は当時、将軍へのあいさつに訪れた朝廷からの使者の勅使接待役を命じられており、その準備期間に何らかのトラブルが生じていたようです。
 ただ、詳しい取り調べもないまま、浅野長矩はその日のうちに切腹、吉良義央も「身に覚えがない」と黙秘したため、真相はいまだ闇の中です。
 Q6. では、討ち入りが行われた「本当の理由」は?
 少なくとも、前述の「主君の無念を晴らす」ためではないでしょう。
 それらはあくまで「表向きの理由」で、じつは彼らの「本当の狙い」はまったく別にあったと考えられます。
 大石ら47人の旧赤穂藩士は、「義士」を装い、主君の「あだ討ちに見せかけた芝居」を演じました。そして、これを大々的に世間へアピールすることで、自分たちの「より高待遇での再就職」をもくろんだ節があるのです。
赤穂浪士の目的は「再就職」?
 Q7.えっ? 赤穂浪士の仇討ちは「就職活動」だったのですか?
 もちろん、現在の境遇に自分たちを追いやった吉良義央への恨みもあったでしょう。
 しかし、彼らと浅野長矩が『忠臣蔵』で描かれるような深い絆で結ばれていたことを示す証拠はどこにもありません。そもそも、「主君のあだ」という意識そのものが、あまり一般的ではありませんでした。
 むしろ、そのときの彼らの現実的心境は「浪人生活への恐怖」です。「なんとか再び仕官する道を見つけて、現状を脱却すること」こそが最大の関心事でした。
 そのための秘策こそが「あだ討ち」だったのです。
 Q8. 「あだ討ちの成功」が、なぜ「就活」になるのですか?
 あだ討ちに成功すると、「世間の大きな話題」になります。しかも、当時このような行いは公的に認められた「権利」でもあり、殺人罪にはなりませんでした。
 実際、大石らは事件後、一貫して自分たちの行動を「あだ討ち」であると主張しつづけました。
 吉良邸討ち入りの後、義士の一行は吉良家と深い姻戚関係にあった上杉家からの報復の恐れもある中、本所から浅野長矩の墓のある泉岳寺までの9キロもの道のりを堂々とパレードします。それも、世間に向けて「あだ討ち」を印象づけるための「意図的演出」だったとすれば納得がいきます。
 Q9. 赤穂事件以外にも「就活的なあだ討ち」はあったのですか?
 ありました。江戸時代、あだ討ちは100件を超えるほどの事例があり、成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたでした。
 「赤穂事件」以前にも同じようなあだ討ちが行なわれていて、仕官に成功した例もあります。
 Q10.具体的に聞かせてください。
 たとえば赤穂事件の約30年前に宇都宮藩で起きた「浄瑠璃坂のあだ討ち」では、「忠臣蔵」の事件とほぼ同じような経過で早朝に徒党を組んで押し入り、この者たちはいったんは流罪になりますが、のちに赦されてほとんどが再仕官に成功しています。
 また、赤穂義士による討ち入りの前年にあった「亀山のあだ討ち」では、あだ討ちに成功した兄弟の仕官先を探そうと、江戸の北町奉行が奔走したこともありました。
 大石らはこれらの事例を「模倣」して、自分たちも「より良い待遇での再仕官」を実現しようと、最もアピール度の高い「あだ討ち」を選んだと考えられるのです。
 Q11. では、なぜ赤穂義士は切腹を命じられたのですか?
 理由は簡単で、彼らの行為が「あだ討ち」と認められなかったからです。
 事件後、幕府では事後処理の対応に追われ、彼らの処分が検討されました。当初は、幕府上層部においても彼らを好意的に見る人も少なからずいました。
 しかし、それまでの数あるあだ討ちは「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半で、今回のような「主君のため」というのは初めてのケースでした。
 そのため、「あだ討ちとして認められるか」が議論され、結論に至らぬまま約2カ月半が過ぎた後、最終的には将軍様のおひざ元である江戸城下を「徒党」を組んで押し込んだという「罪」で、大石らは切腹となったのです。
「本当の歴史」には「本当の人間ドラマ」がある
 浅野長矩と吉良義央の間にどのようなトラブルがあったのか、その内容はいまなお不明です。
 物語では「浅野家の悲劇」ばかりが強調されますが、刃傷事件のあと無罪放免となった吉良家にも、ほどなく暗雲が忍び寄ることになります。吉良は被害者ながら、相手を切腹のうえ改易に追いやった「負のイメージ」がつきまとい、幕府も対外的なイメージを考慮して彼を免職せざるを得ませんでした。
 呉服橋(現在の東京駅そば)の一等地にあった屋敷は召し上げられ、当時は江戸郊外の新興地、本所松坂町(現在の両国駅の南)へ移り住むことになります。
 傷心の中、隠居を幕府に願い出た彼は、真相はどうであれ十分な社会的制裁を受けていたはずでしたが、その矢先の赤穂義士による突然の討ち入りで、あわただしくその62年の生涯を閉じました。
 近年、彼の領地があった三河吉良(愛知県西尾市)では、「名君、吉良義央」としての名誉回復が叫ばれています。
 この「忠臣蔵」のように、ドラマや小説で知る歴史は、「現代人が見て楽しい物語」に脚色されていることがしばしばです。
 「歴史に興味をもつ」ためには、ドラマや小説もいいきっかけにはなりますが、それを史実と鵜呑みにして人前で話すと、「恥」をかくこともあります。それに、生身の人間が織りなす「本当のドラマ」は、わかりやすい物語とは違う「史実の奥深さ」を実感させてくれるものです。
 ドラマや小説で日本史に興味を持つのはよいことです。しかし、そこで終わりにせずに、歴史書で「本当の日本史」を学び直すことで、「歴史の奥深さ」と「本当の人間ドラマ」を味わってください。



「大名には伊達を旗本には浅野にする」
 柳沢吉保はつげた。
 舞台は播州赤穂である。
 赤穂城では藩主・浅野内匠頭長矩が熱心に弓の稽古をしているところだった。
 なかなかの色男で、色白で線が細いが、それは若さのせいだろう。
 家老(といっても老人ではない)の大石内蔵助はそんな殿を目を細めてみている。
「いかがじゃ?」
「よろしうございまするな、殿」
「的中したのは二度目じゃ!」
 内匠頭は笑った。
 まだ、内蔵助は何ら業績らしき業績を残していない。家柄がよかったから家老までなれたが、のちに『昼行灯』と陰口を叩かれるほどの呑気で、温和な男だった。
 それだけの男だった。
 まさかこんな人物が、前代未聞の討ち入りを決行するとは誰も思わなかったであろう。元禄三年三月、浅野内匠頭長矩は江戸へ到着した。
 吉良邸は将軍のおひざもとの呉服町にあった。
 播州赤穂の家臣たちは吉良邸宅で土産を渡して、待っていた。それにしても遅い。
 さんざん待たされてから、吉良の家臣が、
「殿はご病気で会えませぬ。日を改めて…」
 などといわれる。
 吉良上野介は激昴していた。病気などではなかった。
「礼儀も知らぬ田舎侍めが! 思い知らせてくれるわ!」
 怒りの元は、伊達藩からの土産より、播州赤穂藩の土産の銭が少なかったからだ。
 そのようなことで吉良は怒っていた。
 肝っ玉のちいさな男である。
  内蔵助の息子は主税といった。まだ若い十代の青年である。
 そんな青年は、未通娘(処女)の娘と庭を散策していた。現代でいうならデートだ。
「主税さま……わらわたちは夫婦になるのでごさりますね」
 娘は頬を赤らめていった。
「そうじゃ。小滝……われらは夫婦ぞ」
 主税はたいそうな色男で細身である。結納の相手は小滝といった。まだ十四歳の小娘である。しかし、美貌の女子であり、それゆえ青年はたいそう満足していた。
 声も外見も可愛い。こんな娘が妻なら満足だ。
  播州赤穂の家臣・岡野金右平衛門は台所に駆け込んだ。
「今度の吉良さまとの食事は精進料理だそうだ」
 金右平衛門はぜいぜいと息をしながら告げた。よほど急いだらしい。
 膳田新左護門、前原仲助、奥田孫太夫は、
「もう三日も前から準備しているのだぞ! いまさらかえろといわれても…」
 と動揺した。
「これは吉良殿の嫌がらせか……?」
 さっそく殿に報告にいった。
「吉良殿の食事が精進料理?」
「はっ」
 家臣は平伏した。
「これは嫌がらせかと…」
 内匠頭は否定した。「吉良殿はそのようなひとではない。しかし、万一にそなえて料理をふたつ用意させよ」
「はっ」
 やがて吉良がきた。
 墨絵にまで文句をいった。「もっときらびやかな屏風にせぬか! この田舎侍め!」
 憤慨していた。
 まだ土産に不満を持っていたのだ。
 食事の時間となった。
”精進料理”が膳で運ばれてきた。
 内匠頭は微笑んで「ご要望の精進料理に御座りまする」といった。
 吉良上野介は、
「そなたはケチか?」などという。
「は?」
「伊達家の邸宅では肉や魚がふんだんに入った料理だったわ。それにくらべて浅野家は食事をケチってこんな料理をだす…」
「しかし、吉良殿は精進料理を、と……」
 吉良は腹を立てて白髪頭をかき、
「わしはしょうぶつ料理といったのじゃ! お主はケチか?! この田舎侍め!」
 と酷く激昴した。
 浅野内匠頭は頭を下げて、
「これは失礼つかまつりました。これへ!」といった。
 すぐに贅沢な魚や肉の料理が運ばれてくる。
 料理を二種類用意していて助かった訳だ。
 吉良は唖然とした。
 しかし「金遣いが荒いのう」とまた悪態をついた。

  その夜のことだった。
 片岡たち家臣がきて、叫ぶようにいった。
「伊達家が江戸屋敷の畳をすべて替えましてござる! 上様がわが藩邸にお立ち寄りとのうえ明日までに畳をすべて新しく替えるようにとのご命令でござりまする!」
 浅野内匠頭は苦虫を噛みしめたような顔になり、
「またしても吉良か!」と呟いた。
 それから「上様参内なら仕方ない! 江戸中の畳職人を集めて、江戸藩邸の畳を今夜中に全部替えよ!」と命じた。
 家臣は「無理です! 二百畳はありまする!」という。
「よけいなことはいうな! とにかく急げ、これは藩の威信がかかっておる!」
「……はっ!」
 さっそく家臣たちは畳屋たちをかきあつめた。
「急げ! 急げ!」
「朝までに畳をすべて新しいものに替えるのじゃ!」
「へい!」畳屋たちは突貫工事のように畳をつくってははめ、つくってははめた。藩邸は畳でいっぱいになる。休んでいる暇もない。
 畳屋の男たちは汗だくになりながら畳替えを行い続けた。
 朝になった。
 やっと畳がすべて新しく入れ替えられた。もう職人たちはくたくたでぐったりしている。 浅野内匠頭はやってきて、
「よくやってくれた! 余は感激した」と声をかけた。
 くたくたになりながらも男たちは平伏した。
「よい。ゆっくり休め」
 ……それにしても吉良め、よくもわしをこ馬鹿にしおって!
 浅野内匠頭は内心、怒りの炎で身が火傷せんばかりだった。
  この時期、浪人だった安兵衛が堀部弥兵衛の養子となって、堀部安兵衛と名乗るようになる。彼には病気の愛人がいた。安兵衛はせんべつに金二両を渡して去った。
 この堀部安兵衛は、討ち入り赤穂浪人たちの中で内蔵助よりも一番知られる侍となる。
「老人のたわごとなどに腹を立てても仕方のないことでごさる。吉良には腹を立てぬようにすればよい」播磨藩の藩主・嘉坂淡路守は、浅野内匠頭と酒を呑みながらいった。
「老人はすぐに怒る。始末のわるいことだ」
「吉良ごときの嫌がらせは無視することじゃ」
「さようにござりまするな」
 浅野内匠頭は内心を吐露した。
「耐えねば耐えねばと思うほど怒りが抑えきれなくなめのです」
「内匠頭殿、あなたに一大事あれば三百もの家臣が路頭に迷うことになりまするぞ。ここは忍耐が肝要でござる。老人などいずれ死ぬ身……もう少しの辛抱ですぞ」
「ありがたき……ご助言、いたみいりまする」
 内匠頭は頭をさげた。
 このように理解ある者もいる。
 余はひとりではない。余の肩に家臣三百と領民たちがいるのだ。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、陳舜臣著作、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「忠臣蔵」「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。



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五稜郭と榎本武揚と北風と<榎本武揚の戊辰戦争維新回天白虎編>維新の風3

2016年12月25日 08時06分59秒 | 日記



























「船がついたわ!」
 海岸で、多津は浮かぶ開陽丸をみた。勇々たる軍艦である。
 白いマストが眩しい。
「釜次郎さま~っ! 釜次郎さま~っ!」
 少女の多津は笑顔で、手をふった。艦長の榎本に見えたかはわからない。
 それでも多津は大喜びで手を振るのだった。

  榎本は陸にあがりパーティーでシャンパンを呑みながら、勝海舟と話した。
「幕府ではだめでい」
 勝海舟はいった。「幕府は腐りきっている」
「勝さん、幕府の要人が何をいっているのですか? 上様は…」
「その上様がだめだってんだ。家茂公ならまだしらずあの慶喜公ではな」
 榎本はいきりたち「徳川幕府は三百年も続いた伝統があるのですぞ!」
「幕府はもう駄目だ。あとは新政府にまかせて大政奉還するしかねえ」
「勝さん! 薩長に降伏せよというのですか?!」
「そうだ」
「勝さん! あんたは裏切り者かね?!」榎本は激昴した。「幕府のほうが兵が多い。負ける訳がない。軍艦もある。薩長なぞにまける訳ない! 一戦交えて…」
「その戦をやめさせねばならんのだ!おいらは幕府の幕引きをするつもりでい」
「…幕引き?二百六十年の徳川幕府ですぞ?」
「ああ。知行地八百万石のな。」
「そう。神君・家康公から二百六十年…徳川幕府あってこその日本国でしょう?」
「幕府は死にかけている。釜さん、お前さんは留学していて江戸の幕臣たちをみてこなかったからわからねぇんだ。幕府は今や腐りきった糞以下だ」
「戦わずして降伏するは末代までの恥!」
「幕府は死にかけている。戦だけは回避せねばならねぇ。そのために俺はなんでもやるぜ。薩長新政府への投降結構。徳川だけでは共和制は無理だ。まず、俺の思うように幕引させてもらうぜ! わからねぇか釜さんよ」
「それは私利私欲であり、義じゃあねえ!」
「いや!これがおいらの勝海舟の義だ!おいらの幕引きが気に入らねえなら文句なく斬ってくれていいぜ。」
「しかし…まだ幕府の軍艦も武器も薩長に負けていない!」
「だから!そのまま戦えば内戦になって長引けば外国の食い物になっちまうって話だよ!アヘン戦争の清国みたいに日本がなっちまうぜ!それでいいのかい?釜さんよ!」 
榎本に勝海舟(勝麟太郎)はいった。そして、場を去った。
 榎本釜次郎は呆気にとられ、シャンパンを喉に流しこんでから、
「あれは勝海舟じゃない。”負”海舟だ」と悪態をついた。
 ……幕府は旗本七万騎と多数の軍艦がある。薩長なぞにまける訳ない!
 急進的な「佐幕派」の榎本武揚の不幸はここからはじまる。

  佐藤泰然から榎本釜次郎に文が届いた。
 ……至急こられたし。孫娘の多津がまちわびている……
 榎本釜次郎は至急、泰然の屋敷に向かった。もう夜だった。
「おお! 釜さん!」
 佐藤泰然は笑顔で榎本を出迎えた。そして「これが孫娘の多津じゃ」
「多津にござりまする」多津は頭を下げた。
 榎本釜次郎は知らなかった。多津がまだ十六歳になったばかりの子供だということを…「榎本、榎本釜次郎です」
 頭をさげたが、多津のあまりの若さに驚いている様子だった。
 ふたりは江戸の町を連れ立ってあるいた。
 榎本はさすがに、
「多津さんはまだ十六歳になったばかりだそうですね?」と動揺した。
「はい」
「私は知りませんでした。文通していたときに年はきかなかったものですから」
「若いとお嫌ですの?」
 多津は可愛い顔を向ける。
「いやあ」榎本は苦笑して「私は今年で三十六になります。二十歳も年が違う」
「いいじゃありませんか。愛があれば年の差なんて……」
 多津はますます可愛い顔をする。
「どうせ、すぐにわたしもお婆ちゃんになりますわ」
「それは…」釜次郎は笑った。「多津さんがお婆ちゃんになったら、私はもうヨボヨボのお爺さんですぐあの世行きだ」
 ふたりは笑った。


  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
  長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
  慶応三年年(一八六四)正月……
 雪まじりの風が吹きまくるなか、大鳥圭介は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から大鳥圭介のような者がでてくるのはうれしい限りだ。幕府の様式軍隊はこうして訓練していた。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた大鳥は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
  榎本釜次郎は実家に戻った。
 父はすでに亡い。母は琴という。兄の武与と妻てい、姉の楽(通称・観月院)、妹の歌と夫の江連真三郎が正座してまっていた。
「いやあ! みなのしょうしさしぶりじゃな!」
 榎本は江戸訛りで笑顔をみせた。
 一同は酒を汲み交わした。榎本釜次郎は何かいいかけた。すると母が「佐藤泰然先生の孫娘さんと結婚するのですね?」と口をはさんだ。
榎本武揚の実家では母の琴と兄・武与(たけとも)の妻・てい、姉の観月院と妹の歌が「やれやれですねえ。これで釜次郎さんもやっと結婚ですか。」と笑顔だ。
「しかし、母上…少し問題があるのです」
「なんです?」
「どうも多津さんは二十歳も年下で、まだ十六だそうです」
「まあ、若いならいいじゃないですか。それともおばばさまみたいな熟女がいいとでも?」
「いいやあ、そういうことではないのですが…」
「ならばご先祖さまへのおわびとしてこの母がこの短刀で自害しておわびします」
「え?」
「母上、この観月院もお供を。」
「ならばこの歌も。」
武揚は驚いた。「おいおい。姉上に歌、母上!はやまらないでください!」
観月院は「おや。今日は仏滅ですね。これでは自決できません」などという。
母の琴は「自決に仏滅が関係あるの?」ときく。
「はい。仏滅は仏が滅亡して不吉。友引は誄(るい)が親類縁者におよぶ」
「じゃあ、だめですね」とは歌。
「母上、お昼寝なさいませ。また、お疲れになりますよ?」
「しかし…この榎本家の一大事に昼寝など…」
「姉上…」
観月院は武揚に囁いた。「母上は躁うつ病(現在の認知症)であると医者はいいます。寝ればすべてを忘れてしまいますわ」
「躁うつ病?それで母上の勝気な状態は躁うつ病のなせることか。勝さんじゃねえが、こいつはいけねえ、じゃな?」
榎本家は一同が明るい。
陰気な印象のある幕末が少しだけ華やいでみえたことだろう。
「……母上、多津さんはまだ十六歳だというじゃありませんか」
 観月院は「何か不満でも?」ときいてきた。
「いやあ、しかし二十も年が違う」
 歌は「いいんですよ、兄さん。女子は若くて子供を沢山産めるだけでいいんです」
「いやあ、これはまいったねぇ」
 榎本釜次郎は観念した。「わかった。年は違いすぎるが、よし! 結婚だ!」
 母は喜んだ。一同からは拍手がおこった。
「結婚だ! 結婚だ!」
 こうして、榎本釜次郎と多津は、勝海舟と妻たみ子を晩酌人に結婚した。
 初夜は榎本の実家だった。
母親や姉は夜中に心配して、物見遊山みたいな顔をしたが、「姉さま、母上。」と歌が諫めた。多津は言った。
「釜次郎さま、ひとつだけ多津と約束して頂けまするか?」
「…ん?何かのう?」
「女子はこの多津だけにして頂きたいんですの。それ以外のことは多津は我慢しますわ」
「多津……」
「…駄目ですか?やはり他の女子にも手を出しまするか?」
「いや。そんなことはねえが。」
「なら。駄目ですか?」
「…いや!わかった!女子は多津だけだ!」
そういって榎本釜次郎(和泉守武揚)は多津を抱擁した。
釜次郎と多津の甘い新婚生活はたったの数日に過ぎない。
嵐の前の静けさ、であった。
榎本、三十六歳……
榎本は名をかえ、榎本和泉守武揚、榎本武揚となり引き続き開陽丸の艦長職についた。 維新の夜明け前夜のこと、である。







        2 鳥羽伏見の戦い





  榎本武揚と妻・多津は初夜を向かえた。
 ふたりは寝間着になって向かい合って話していた。
「いやあ、十六才の多津とする訳にはいかんが……なにせ夫婦だからな」
 武揚は頭をかいた。
「釜次郎さま!」
「……なんだ?」
 多津は可愛い顔をして「誓ってくださる?」といった。
「何を?」
「生涯、女子はこの多津だけだと……」
 多津はどこまでも清純でうぶだった。男が外にでれば他の女も抱くのは当たり前の時代、夫・榎本武揚には「浮気」は許さん、という訳だ。
 もっとも初めての相手である武揚に、自分以外の女は抱いてくれるな、という思想は末通娘(おぼこ)の多津らしい考えではある。
 榎本は笑って、
「多津にはかなわんのう。わかった。誓おうじゃねぇか! 生涯、女子は多津だけだ!」「うれしい!」
 ふたりは抱き合った。
「じゃあ、指切りげんまんね」
「指切りげんまん?」
ふたりは小指を絡めた。
「♪指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲-ます。指きった」
ふたりは笑顔を交わした。
「指切りげんまんか…他人はあの釜次郎は英語でげんまんするんじゃねえか?と笑うかもしれん。他人は俺のことを西洋かぶれという。べらぼうめってんだ!」
「いわせておけばいいのです。釜次郎さまの凄さがやがてわかりますわ」
「凄さか……」
 武揚は苦笑した。「英国は蒸気機械の発明で産業革命を成し遂げ、世界に冠たる海洋艦隊をもって世界一になった。この日本も幕府をたてて英国においつき追い越せだ」
「まぁ! それはすごいことですわ」
「日本だってやればできるはずでぃ」
 榎本武揚は妻をぎゅっと抱き締めた。すると十六歳の若妻・多津はやはり華奢な体だと気付いた。まだ、子供だ………
「そうだ!」   
 武揚は何か閃いた。
「……なんですの?」
「これだ」 
 武揚は懐から小さな紙袋を取り出してあけた。それは石鹸だった。
「まあ、いい匂い」
「そいつを食べちゃ駄目だぞ。口の中が泡だらけになっちまう」
「これは……シャボン(石鹸)?」
 多津は可愛い笑顔になった。
「そう、シャボンだ。これを多津にやろう。結婚祝いだ」
「まあ! うれしい!」
 多津は石鹸を受け取ると、まるでお転婆娘のように武揚にもう一度抱きついた。まだ子供だ……。榎本武揚は笑顔になって「こんなんでよかったらまた俺がつくってやろう。シャボンつくりは得意じゃからのう」といった。
 多津は可愛く抱きついたままだ。……まだ子供だ……
 榎本武揚はしあわせな気分になった。
 しかし、そんな新婚生活もわずか五日間だけだった。
 榎本武揚は開陽丸艦長として品川沖にいた。艦隊のブリッジにクルー(乗組員)とともに緊張していた。官軍が江戸にせまってきているというのだ。
「われ、幕臣として官軍と戦う!」
佐藤泰然は「今は釜さんたちを賊軍と侮る風潮もあるだろう。じゃが、数十年後、五十年後にでも釜さんたちのことをわかって歴史が評価してくれるだろう。だが、百年後では遅すぎる」
「釜次郎さま。」多津は去りゆく艦隊に手をふった。涙目になる。
「時代の風が吹いとるぞ。釜さんよ。」
                            
 翌日、ひそかに麟太郎(勝海舟)は長州藩士桂小五郎(のちの木戸考允)に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝麟太郎は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思っているのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話して、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。
 勝海舟は、部下に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」
  三月六日、勝海舟は部下を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。                     
  勝海舟はこの年、安房守に出世した。安房とは現在の千葉県のことである。
  十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝麟太郎は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。
「なんてこった!」
 のちの勝海舟(麟太郎)は嘆いた。

  勝海舟は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。
 勝海舟は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。
「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。
 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」
 幕府の重役をになう象山と協力して、勝海舟は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。
  そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して部下たちにいった。
「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長            
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から           
追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。

  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。


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「逃げ恥」最終回は視聴率20%超え! 「真田丸」パロディーに有働アナも「恋ダンス」で呼応

2016年12月23日 19時20分20秒 | 日記


























「逃げ恥」最終回は視聴率20%超え! 「真田丸」パロディーに有働アナも「恋ダンス」で呼応




 新垣結衣(28)、星野源(35)主演で大ヒットしたTBS系「逃げるは恥だが役に立つ」の最終回が20日放送され、番組最高となる平均視聴率20・8%(関東地区)を記録したことが21日、ビデオリサーチの調べで分かった。


「逃げ恥」主演の新垣(右)と星野© zakzak 提供 「逃げ恥」主演の新垣(右)と星野
 初回から一度も数字を落とさず、最終回でついに初の大台超え。瞬間最高視聴率は22・7%で、主役2人が妄想する「東京フレンドパーク」のパロディシーンだった。

 エンディングでキャストが踊る「恋ダンス」人気がヒットにつながった。ネット上は“逃げ恥”ロスを訴える声であふれている。

 最終回では、先日ラストを迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」のパロディーも織り込んだ。これに呼応したのか、21日放送のNHK「あさイチ」では「真田丸」でナレーションを務めたMCの有働由美子アナが「恋ダンス」のフリをみせる一幕もあった。

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