長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

スピーチの基礎『大勢の前でのスピーチ』飴をなめる+自己暗示リ・プログラム

2015年10月31日 17時58分47秒 | 日記






大勢の観衆の前でのスピーチって緊張しますよね。


そこで緊張を解消するにはまず飴を舐める、


そして人前=緊張、といった自分の脳にプログラミングされたシステムを


リ・プログラムすること。


つまり、自己暗示で緊張状態を脱するのです。


誰でも出来るスピーチのまずは第一歩。皆さん頑張りましょう!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

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諸葛孔明 蒼天の臥竜天才軍師諸葛亮孔明<三国志外伝>ブログ連載小説4

2015年10月31日 07時46分55秒 | 日記







         4 周揄






             
  名将として名高い呉の周揄将軍が馬で城にもどってきた。
 周揄将軍は孔明と同じ年くらいで、痩せていて、彫りの深い顔たちのハンサムな男だった。しかも、頭脳明晰である。だが、諸葛孔明のような天才の足元にも及ばない。
 が、そんな周揄でも、呉の人々は支持していて、将軍が帰参したと知ると、皆が喜んだ。かれは呉の英雄であった。
 周揄はひさしぶりに妻に会い、うれしさのあまり琴を弾いた。かれの妻は二喬といい、才媛で美貌の女性だった。
「……あなた……いつもと違う様子」妻は周揄にいった。
 周揄は「魏を恐れて人々は保身に走っている。なんともなげかわしい」と嘆いた。
「わたしにはあなたがいます。愛してますわ、あなた」
「私もだ」周揄は琴を弾く手をとめ、笑顔を見せた。「そなたを愛しておるぞ」
 それからふたりは酒を呑みあった。
「孔明さまにはあわれないのですか?」妻は尋ねた。
「いや。会わぬ。孔明は弁術だけの男………何かたくらみがあるのやも知れぬ」
 周揄は孔明にライバル心を抱いていた。諸葛孔明など……この周揄の敵ではないわ!
  櫓粛の策に、周揄は反対した。
「魏は百万……主君・孫権殿の軍は数万人、和睦が最善であろう」
 周揄はいった。櫓粛は周揄に失望した。
「なにが名将か? 周揄は匹夫の勇じゃ」櫓粛はひとりで激怒した。孔明はわらった。
  翌日、孔明と周揄は会見した。
 孔明は羽扇を揺らしながら、
「戦わずして魏を追い返せばよい」といった。
 周揄は唖然とした。「どうやって?」
「魏の曹操は色情の男、遊郭もつくった。女に目がない。天下の美女を集めている」
 周揄は息をのんだ。その拍子に喉仏が上下した。
 孔明は続けた。「美女を集め、快楽にひたっている。呉にせまったのも美女をあさるためである。呉に喬氏に大喬、小喬の美人姉妹がおると聞き、呉に迫ってきたのです」
 周揄の血管に怒りの波が駆けめぐった。なんとうことだ!
 孔明は続けた。「和睦のために二喬を差し出してはいかがか?」
 たえきれなくなって櫓粛はおどおどいった。
「その二喬とは周揄さまの奥方です」
 孔明ははっとした演技をした。孔明は知っていた。すべて計算ずくのことであったのである。周揄は怒りで顔を真っ赤にし、「曹操め!」と怒鳴った。
 ……よくもわが妻をてごめにしようとしたな!

  周揄は鎧を着た。決意は固まった。魏と対決するのだ。かれは呉に号令を発した。周揄は完全に反曹操となった。
 呉の君主・孫権も決意を固めた。魏と対決するのだ!
 孔明は周揄にいった。
「剣印が必要です」
 周揄は不思議な顔をした。「剣印……?」
「呉公には不安があります」
「先生の策では?」
 孔明は不敵に微笑んだ。「曹操の軍は百万といえど、ほとんどが投降兵です。魏をやぶるには五万の兵で十分です」
 孔明は続けた。「孫権殿、周揄将軍に剣印を」


  周揄は夜、ひとりになってから恐ろしくなった。孔明に対して敵愾心をもった。
「孔明は恐ろしい男だ。………呉公の考えをよんでおった。のさばらせておけば……大変な災いとなる…」



第二部 赤壁の戦い







         5 皮肉の策






   劉備は長江(揚子江)のほとりで、関羽、張飛とともに話していた。
 関羽は「軍師殿は本当に呉公・孫権を説得できるでしょうか?」と疑問をもった。
「軍師孔明殿なら必ず…」劉備は遠くを見るような目でいった。
 張飛は「孔明と兄じゃは水魚の交わり……その水で、呉公・孫権を説得してもらおう」と大笑いした。
「よせ」劉備は諫めた。
「しかし……魏の軍は百万。呉は数十万………孫権はどうでるでしょう?」関羽はいった。「さあな」張飛は笑った。「孔明にまかせればいい」
 劉備は何もいわなかった。只、天才軍師・孔明を信じていた。

  呉の孫権は周揄を将軍にして3万の兵で魏を討つように命じた。
  周揄は成長するに従って、孫権に心酔するようになっていく。
”「新しい釈迦」つまり孫権が「今や」出現したのだ。「前進! 前進! わしは英雄になりたい」”
”昨日、官僚たちの議論場にいった。昨日のようなくだらないおしゃべりに私が参加するのはきわめて希なことであった。非占領区では私が長くまっていた戦いが燃え盛っていた。つまり国粋主義と国民社会主義の戦いが。両者はかみあってない。前者は官僚的主義を容し、後者は大魏の均一化を欲している。………多分幾分儒教的色彩をもっている。魏と呉が戦っているのだ。呉公の孫権と魏の曹操の戦いといってもいい。私がどちらにいくかは問題外だ。実際に新しい人間を欲しているところにだ。防衛同盟の古い戦士たちは若者の力を殺ごうとしている。若者の成功が不気味なのだ。はっきり別れたほうがよい。一致すべきところは一致すればよい。………そうでないところは偽りの統一を見せかけてほしくはない。魏の曹操、腹が突き出て、ひねった口ひげ、いい奴だが、若者に感銘を与えられる男ではない。指導者的素質はない。私は国粋的な指導者を一人もしらない。私はいつまでも地位と金を持っている。絶望、懐疑、挫折! にっちもさっちもいかない!”
”夏の大地が雨を求めているように、呉はただひとりの男を求めている。力を結集し、余すところなく熱狂的に献身することだたけが、われわれを救ってくれる。神仏よ、民族に奇跡を示して下さい! 奇跡を! 一人の男を!”

  魏の曹操は腹部がゆるむかのように感じた。続いて、頬が緩んだ。虐殺した死骸の山。殺した衝撃で小刻みに震える体を動かすと、曹操は大笑いした。気分がよかった。彼にとって「殺し」は美学であった。しかし、足首から先が自分の物でなくなったかのように震え、膝が笑うように不安定な動きを呈しており、そこだけが罪悪感の微かな名残のようでもあった。彼は、自分を馬鹿にした連中を駆逐したのだ。

   一方、呉の甘寧将軍は魏と戦った。
 甘寧将軍は小柄で、ふさふさの髪形で、さっぱりした男である。少し陰険そうな顔で、ときに魅力的な表情もする。中肉中背で、鎧が安っぽい。甘寧将軍は確かに不思議な印象を与える人物だった。すらりとした体に長い手足、がっちりした首、ちょっと見にはナイス・ガイだ。しかし、瞳だけは何か多くのものを知っているかのように光っている。瞳だけが老成しているといえばいいのか。

 甘寧将軍は雄弁には語れないが頭脳明晰な男である。だが、貧乏で金がなく、差別を受けていたため学がない。
 しかし、甘寧将軍という男は策略にも長けている。
 彼はすぐに”魏”のつぶし方を考えた。
 ……まず、こちらが打撃を与えられないようにしながら”連中”を叩き潰さなければならない。
 彼はまず、”魏”を挑発した。
 船で布陣してる”魏軍”に矢を浴びせかけ、逃げた。”魏軍”は追いかけてくる。…角を曲がり、河口にでると、甘寧将軍は隠れた。駆ける、駆ける”魏軍”……
 河口から火矢が放たれる。”魏軍”はやられいく。そして、ひどいことになった。
 甘寧将軍はそうやって”魏軍”を火矢攻撃の一方で、孔明に匿名で連絡していた。…”魏軍”が船でも戦いに弱いこと。”魏軍”の船はもろいこと”を伝達し、孔明は動いた。 まず、深夜、孔明はやはり魏を倒すのには「火」だ……と思った。周揄は矢を集めた。 予備の矢も揃え、腰に剣を装着した。これで……皆殺しだ!殺すのだ……”魏軍”を…。それはぎらつくような復讐の炎であった。怒りの炎といえばいいのか。地獄のぐつぐつ煮える釜のような。

  甘寧将軍が魏軍一万の兵をやぶると、魏の曹操は怒った。
「馬鹿者め!」
 曹操は怒りで王座を立ち上がった。
「わが”魏軍”は北上人が多く、船での戦いには不慣れだ!」
「まさしく……」家臣たちは平伏した。
「甘寧ごときに負けおって! ふたりを呼べ!」曹操は怒りの表情のままいった。
 やがて、張允ともうひとりの将軍がきた。
 張允らは荊州で降伏した将軍だった。
「張允ら!」曹操は低い声でいった。「ふたりを都監に命ずる!」
「ははっ!」ふたりは平伏した。
「………かならず劉備と孫権を殺せ!」
 曹操は怒りの表情のままいった。



   やがて、曹操の魏軍から呉に勅使がきた。
 周揄はそれをきき「曹操の魏軍から勅使か? バカめ!」と舌打ちをした。
 陣によばれる勅使………
 周揄はさっそく勅使と会見した。
 勅使はにやりと笑って、「劉備との連合は虎をかって野に放つようなもの……」
「で?」
「是非とも劉備や孔明を殺し、魏と和平を…」
  周揄は冷酷な顔のままだった。目はベーリング海のように冷たかった。
「和平?」
「はっ! 劉備や孔明など弱小勢力……そんな連中と同盟しても何の得にもなりませぬかと」
「ふん!」周揄は鼻を鳴らした。そして、「勅使を殺してしまえ!」と部下に命じた。
 勅使は首をはねられた。周揄は今だに”よくも妻をてごめにしようとしたな!” と、恨みをもっていた。孔明の挑発とも知らずに………
  魏の曹操は怒った。「是非とも劉備や孔明を殺し、呉と和平を…。駄目なら呉など皆殺しにしてくれるわ」
  周揄の方も「孔明だけは殺さなければ……災いの種となる」と思っていた。あの策略、知恵、弁舌……恐ろしい男だ。
 魏の曹操船団”水塞”は固まったままだ。
 孔明だけは殺さなければ……


  あくる日の午前、大きい船で周揄と孔明は、長江の対岸の魏”水塞”の視察にでかけた。船は中国の大河・長江を順調に進んでいた。風が心地好い。
 周揄は「孔明殿は知謀のひとときく。あの水塞をどうみられますかな?」と尋ねた。
「水塞には水門が二十四あります。しかも固まっている」
「さすがは孔明殿、情報が早い」
「いいえ」孔明は羽扇をふりながら、謙虚に「”長江に周君あり”……とか。私など将軍の足元にも及びません」と答えた。
 口元に笑みを浮かべた。
 周揄は「魏の水塞をやぶる策は?」ときき、そして瞬時に、「いや。ふたりで考えましょう」といった。
「……と、いいますと?」
「筆で、掌に策を書くのです。そして、見せあう。ふたりの策が同じだといいのですが…」 孔明は笑って「……それは面白いことですな」といった。
「筆と墨汁をもて!」
 周揄は部下に命じた。そして、ふたりは見えないように掌に計略を書いた。
 孔明と周揄はふたりで顔を見合わせて、微笑んだ。
「では…」
 そして、ふたりは掌をひらき、計略をみせあった。計略は”火”だった。つまり、火攻めにして魏の大船団を撃破しようというのだ。
  孔明と周揄はふたりで顔を見合わせて、また微笑んだ。



  呉の前線の陣に戻ると、周揄は横になった。
 そんなとき、周揄の元に北上の魏から旧友・韶関が訪ねてきた。周揄は疑問に思った。  ……この時期にきたとなると、投降の誘い…か…? いや、伏嗅(スパイ)だ!
 何にしても周揄の心は穏やかではなかった。
 周揄は策を孔明より授かる。まず、曹操の元に呉の一部の軍が投降すると密書をおくり、火攻めに備えるというもの。しかし、それだけでは曹操は信じるかどうか…?
 そこで、周揄は策をめぐらせた。
 その夜、周揄は韶関を酒席でもてなした。
「……韶関先生、おひさしゆござる」
「周揄殿もお元気そうで」
 韶関は酒を飲んだ。同席していた孔明は何ひとつ言葉を発しなかった。
「誰か!」周揄は家臣をよんだ。「わしの剣をあずかっておいてくれ」
 そして、周揄は舞った。韶関先生のために。
 韶関は喜び「将軍、みごとな舞いでした」と笑った。
「よろこんでいただいてけっこうでした。昔を思いだします」
 すると、同席していた黄蓋将軍は「昔もなにもないだろう! 百万の魏の敵の前になにができる?!」と激怒した。
「何?」
 家臣は「酒のためのことです。お許しを!」といった。黄蓋は譲らず、
「魏と和睦することこそ呉の救われる道!」と宣言した。
「黙れ! わしの策にあやまりがあると申すのか?!」
 黄蓋将軍は「いかにも!」と怒鳴り散らした。
 黄蓋は降伏論を主張して譲らなかった。周揄は激怒して「黄蓋将軍を斬れ!」といった。部下は黄蓋将軍は貴重な人材……殺すのはおしいと…というと、周揄は、
「ならば百叩きの刑だ!」と命じた。
 黄蓋の肉はさけ、血まみれで、陣屋にかつぎこまれたときはかれは気を失っていたという。何にしろ韶関は呉が”分裂していること””降伏軍がでること”を認識した。
 宴会が終わって、孔明はまったく口をきかないまま、無表情で陣から出た。
 不思議に思った櫓粛が、
「いつもはおしゃべりな孔明殿なのに……今夜はひとことも発しませんでしたな?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
 孔明は感心した顔をして、「いや、見事な演技でした」といった。
「……演技?」
「行うほうも、叩かれるほうも、苦しいことでしたでしょう。みごとな”苦肉の計”でした」孔明は、周揄の”策”を見抜いていたのである。
 櫓粛は驚いて、腰を抜かした。                         


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スピーチの基礎『相手の目線で話す』『相手のIQで話す』杞憂・更地・世襲・アプリ・TBわからぬ人も!

2015年10月30日 13時45分14秒 | 日記







スピーチで大切なのは相手の目線で話すということ。


驚くかも知れないが世の中には


杞憂・更地・原発・世襲の意味もわからないひともいるのだ。



老人ならネットワークやアプリとか(笑)


そういうひとに「イノベーションでIT環境を改革…」といっても無駄。


他人のIQに合わせる話し方しかない(笑)臥竜



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話し方維新 3大要素「オープニング」「ボディ」「クロージング」”成功自慢話””特殊英語”☓

2015年10月29日 17時20分21秒 | 日記







スピーチの3要素は「オープニング」「ボディ」「クロージング」である。


僕自身の経験からいうと


”成功の自慢話”や”特殊和製英語”はしない方がよい。



逆に皆が聞きたい話は


苦労話と教訓や挫折からの挽回や解決策である。


皆さん誰でも苦労や地獄を経験していて、苦痛の解決策が皆欲しいもの(笑)臥竜




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諸葛孔明 蒼天の臥竜天才軍師諸葛亮孔明<三国志外伝>ブログ連載小説3

2015年10月29日 07時17分53秒 | 日記






         3 挑発






  呉の孫権は長江(揚子江)のほとりに立ち、ひとり苦悩していた。
 ……昨夜の悪夢はなんであったのだろうか?
 そして、魏の曹操は自分の目前まで迫ってきている。どうなるか? もし十倍以上の敵と戦えば、恐ろしい性格の魏の曹操のこと……皆殺しにされるに決まっている。現に、曹操と対立し敗れた軍隊は虐殺され、川に放り込まれ、死体の山で川の水が流れなくなったともきいている。……もしや呉も……皆殺し?!
 劉備と同盟を結んでも、劉備など弱小勢力に過ぎない。
 家臣たちのいう通りだ。
 ここは何かの策をうたなければならない。
 ……そうだ!
 孫権はひらめいた。…ここは周揄将軍だ。
 かれなら、この危機に知恵を貸してくれるに違いない。孔明より周揄将軍のほうが信用できる。しょせん諸葛孔明など天下に”天才軍師”と名が轟いているが、劉備の弱小勢力の軍師に過ぎない。
 …ここは周揄将軍だ。


「はやく武装蜂起を!」張飛は焦っていった。劉備軍のNO3である彼は、一騎当万だが、酒にだらしないのが欠点だった。
 劉備は「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは孔明先生の策がうまくいくまで待つべきだ」
「しかし…」関羽は続けた。「うまくいくでしょうか?」
「そのために孔明先生に呉にいってもらったんだよ」劉備はにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日の御飯””輝かしい未来”を与えなければ……すべては民のためだよ」
 関羽と張飛はにやりとした。「まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければならない」関羽はにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」劉備は是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”銭”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものに訴えていけば百人中、九十九人の人間は動かせます」
「臥竜先生、頼むぞ。わが劉備に政権を! わしを皇帝にしてくれ」
 こうして、劉備は政権をとるために、動きだした。


  呉の軍事施設で、櫓粛は、暗い室内である人物とあっていた。
 かれの側には側近の軍人姿の男たちがたっていた。
 櫓粛は痩せていて、いかにも頭脳明晰な感じのする中年男である。面長な顔にすっとした鼻筋、長い黒髭、ハンサムではある。
「孔明殿、よくぞ呉に」櫓粛は孔明にいった。
「いいえ」彫の深い顔だちの諸葛孔明は答えた。そして、羽扇で身を扇いだ。
「で、本当なんでしょうな? 例の話……」
 櫓粛は人払いを要求した。すると部下たちはいきり立ち、
「あなたの身を守るのが我々の任務だ! 孔明のような怪しい人物とふたりっきりにする訳にはいかん!」と、口々に文句をいいはじめた。
 孔明は余裕の表情で、羽扇をかざした。するとどうだろう? 櫓粛の部下たちは床に倒れ、気絶した。
「な?!」櫓粛は驚愕した。「超能力か? あなたは前は超能力者か?」
 あえぎあえぎだが、やっと声がでた。
 孔明は口元に冷笑を浮かべ、低い、ゆっくりとした声で「いいえ。私は超能力者ではありません」
「………ではなぜ?」
「今、私の家臣があなたの部下の首筋に麻酔針を飛ばして、眠らせたのです。強敵・曹操も………暗殺…できますよ」
 孔明はにやりとした。
「そんな馬鹿なことがあるものか! たったひとりでそんなに殺せるものか!」
 櫓粛は怪訝な顔でいった。
 ふふふふ、孔明はふくみ笑いをした。
「わたしをナメて…いるのか?!」
「さぁ、私の目を見て……じっと…じっと」孔明は顔を櫓粛の顔にちかづけた。互いの距離は数センチになり、櫓粛は孔明の顔や目をみるしかなかった。
 櫓粛は目をまわし、やがて気絶した。頭蓋骨の裏側で、孔明のうつろな笑い声がきこえ、孔明が遠ざかっていく気がしたが、その感触は記憶の彼方へと消えていった。櫓粛が目を覚ましたときには、もう、孔明はいなかった。
 只の夢……悪夢だったのだ。しかし、孔明が呉に訪問したのは事実であった。

  孔明が呉に訪問したとき、迎えたのは官僚たちだけだった。
 孔明は不思議に思い、「将軍の方たちはいかがなされたのですか?」と尋ねた。
 すると、呉の官僚たちは「将軍など力ばかりで、頭が足りない……軍儀には役にたたないのです」とくちぐちにいって笑った。
 孔明は羽扇をかざして「ならば、呉の将軍・孫権殿も役にたたないことになりますな?」と皮肉をいった。顔は余裕の不敵な笑みのままだった。
 やがて、孔明の到着を祝うため巫女たちの踊りが披露された。
 呉の官僚たちは孔明の名声が虚構であると思っていた。そのため、「孔明殿、われらと論争でもしませんかな? 論破されたら酒を三杯いっきに呑む罰をつけましょう」
 と、挑戦をした。孔明はあえて反対はしなかった。
 呉の張昭はいった。
「劉備殿は縦横無尽な活躍をされた。しかし、孔明殿を迎えてからはおちこぼれ………。新野を捨て、当陽でやぶれ、江夏に逃げ込む有様…」
 呉の家臣たちは笑った。そして、黙っていた孔明に酒瓶をもってきた。孔明は羽扇でそれを押し戻し、
「呑むのは私ではありません」ときっぱりいった。
「……しかし…」
 孔明は不敵に微笑み、「当陽に逃げたのは民を守るために戦に勝てなかったためです。すべては人徳のためです」といった。
 呉の家臣たちは押し黙った。
 孔明は続けた。「高祖劉邦も項羽には連戦連敗でした。しかし、参謀の策で項羽は自殺して果てた。高祖劉邦を勝利させたのは人徳でした」
「詭弁だ!」
「いえ、詭弁ではありません。事実を私は申しておるのてす」孔明はいった。
「……何が人徳だ! そんなもの……」
「”燕省いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや”……一、二度の敗北で英雄か否か論ずることができましょうか」孔明は真剣にいった。
 張昭は論破された。かれは酒を呑まされた。
 別の呉の家臣が「魏は十万の兵を率いて南下している」
 孔明は「別に」と答えた。他人行儀な言葉だった。
 呉の家臣たちは嘲笑しだした。
「長江岸まで追いつめられて呉に助けを求めにきたのに?」
「虚勢を張って……」
 孔明は羽扇を扇ぎながら、「われわれは戦います。恐れているのは呉のほうです」といった。呉の家臣たちは嘲笑をやめない。
「劉備など筵売りだった男だ」
「弱小勢力だ!」
 孔明は「劉備殿は皇帝の血をひくものです」
「なぜ呉にきた?」
「漁夫の利か?」
 孔明は余裕だった。「すべては魏を討ち果たすためです」
「いいかげんにしろ! 貴公には学がない!」
「貴公こそ……経世済民の策なし!」
 年寄りの張昭は「若造が!」と吐き捨てるようにいった。
「呉の主君・孫権殿は二十八歳………ならば張昭殿、あなたが主君となればよいではないですか?」孔明は不敵に笑った。
 張昭老人はその言葉にぐうの根もでなかった。「さぁ、張昭殿に酒を」孔明はいった。張昭老人は酒を呑み、論破されたショックで気絶した。

  孔明は呉の一室で、ひとり策をねった。……呉の主君・孫権殿は並の人物ではない。どうするべきか? そんなとき、櫓粛が訪ねてきて、「主君が孔明殿に会われるそうです」と笑顔でつげた。「さようですか?」孔明はわざと驚いた顔をした。
 櫓粛は念を押した。「魏の軍が百万とは……口が裂けても申されないように」
 孔明は何も答えず、遠くを見るような目をした。何にせよ、孔明が何を考えているかは誰にもわからなかった。
  翌日、孔明は呉の主君・孫権に謁見した。
 孫権は不安気になって、
「魏の曹操の軍はどれほどか?」と孔明に尋ねた。
 孔明は微笑んで「百万」といった。櫓粛は、しまった、という顔をした。
 孫権は「なに?」と驚いた。
 しかし、孔明は続けた。「…しかし、劉備軍と孫権軍双方合流すれは百五十万になります」
 孫権は上座に座りながら、苦悩した。頭がフライにされたように疲れた。かれには一夜の睡眠と熱い風呂が必要だった。……そうか、魏の曹操の軍は百万か……
 孫権は動揺しながら、「で? 魏の将軍の数は?」と孔明に尋ねた。
「知将が二千………呉に攻めてくるでしょう」
 孫権は言葉も出せないほど動揺した。あえぎあえぎだが、やっと「さようか」と声を出した。孔明たちは前線の柴桑にいた。孔明は孫権を挑発した。
「孫権殿が魏にかなわないとみられるならさっさと降伏なさるのが宜しいでしょう。いつまでも決めかねているのはよくないことです。状況は緊迫しています。将軍は自分の力を計られ、真剣にお考えください。呉の軍をひきいて魏の曹操と抗争できるとのお考えなら、できるだけ早く攻撃、守備の策をとられることです。できないとお思いなら、できるだけ早く武器を捨てて、曹操に降伏されることです。いま、将軍は服従するとみせかけながら、内心決定できないでおられるご様子。ことは急を要します。しかも、決断できないようでは、将軍にわざわいが降りかかるでしょう」
「ならなぜ君の主君・劉備降伏しなかったのか?」
「漢初の田横は一介の壮士に過ぎませんでしたが、義を守って屈しませんでした。ましてや劉備は王室の後裔、その英才は世をおおい、多くの人々に敬慕されています。どうして曹操ごときに屈服しましょうや。もし、わが主君・劉備が戦死したとしてもそれは天命というものです」孔明は孫権の自尊心を刺激した。
 孫権は言葉も出せず、退席した。
「……魏の軍を少なくいうようにとあれほど念を押したのに……」櫓粛は孔明に愚痴をいった。孔明は笑って、「魏をやぶる大計もきかずに孫権殿は退席した。惜しい」
「…………大計? 策があるのですか?」
 櫓粛はびっくりして、「分かり申した。わしが主君・孫権殿を連れ戻そう」といって主君を呼んできた。孫権はひどく動揺していた。そんな中、城に周揄将軍が馬でやってきた。「策…とは?」
「それはまだ秘密です」孔明は羽扇をふった。「重役たちの降伏論は保身です。魏軍は長い遠征でつかれています。しかも、船での戦いには不慣れ。ここは千載一遇の好機です。私や主君・劉備は死ぬ気で戦います」
 この言葉で、孫権は決心した。
「劉備がそうなら、私とて一国の君主! 私は江東の地、十万の兵があるのに、だまって曹操に支配されるわけにはいかないぞ。断固として曹操と戦う!」
 孔明はいう。
「将軍が猛将に命じて兵数万を率いさせ、劉備と一致協力して戦うならば、曹操を撃破できることはいうまでもありません。曹操は、やぶれればきっと北に帰るでしょう。そうすれば、江州、江東は安全となるだけでなく、勢力はいっそう強大となるでしょう。その機会はいまをおいてはありません」
 こうして、魏の曹操と呉の孫権との『赤壁の戦い』に向けて、情勢は激動しだした。



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DVD映画『インターステラー』観賞 最高級超大作SF映画では今年最高の映画!感動をあなたへ!

2015年10月28日 15時49分00秒 | 日記







DVD映画『インターステラ―』を観た。


荒廃した地球の替りの移民先惑星を探すSF大作。


結末を書く訳にはいかないが大変にこった脚本と演出と俳優陣である。


映画『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイもいい演技だった。


非常に感動したし、是非多くの人に見て欲しい。



最高のSF超大作である!臥竜




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軽減税率はやめた方がよい 欧州100年の歴史でも複雑不満爆発 政治家官僚の利権だらけに

2015年10月27日 19時45分17秒 | 日記







 軽減税率はやめた方がよい

  何度もいう様でなんだが『軽減税率導入』はやめた方がよい。欧州では100年の歴史があるが構造上も制度上もうまくいっているとは言えず国民の不満も高まっている。精米だけ軽減税率だとほとんどの商品が税負担になる為に現実的ではなく、また、酒税だけが軽減税率なら1兆円の財源が足りなくなる。大体にして日本で軽減税率を導入したら政治家や官僚の”利権だらけ”になってしまう。制度上非常に複雑で計算方法や負担も莫大なコストがかかるのが軽減税率であり、むやみに提言するべきではない。経済がわからない人間程、軽減税率や補助金や関税強化だの云々言うがまさに経済オンチらしい。経済オンチで有名な与党公明党が軽減税率を声高に主張しているらしいがまさに経済オンチ(笑)世界で軽減税率がいかに問題視されてるかぐらい少し考えればわかりそうなものなのに理解していない。更に安倍政権はGDP(国内総生産)を500兆円から600兆円に経済成長させる、と息巻いているのだから「勘弁してよ」と言いたくなる。600兆円に経済成長とは単純計算しても20%の経済成長(高度経済成長並みの成長)である。やはり、与党安倍政権公明党は経済がわかっていない。もう少し勉強して欲しい。だが、官僚の作文を棒読みして戦略や政策を打っていると勘違いしている安倍晋三氏や安倍政権では駄目だろう。
野党も内ゲバやまとまりがなく、まさに末期状態の安倍政権と日本国。本当の意味での日本国の”救国の新世紀維新”こそが待たれる。”維新”まで、日本の危機はおわりそうもありませんね(笑)

フリージャーナリスト・緑川鷲羽(45)山形県

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諸葛孔明 蒼天の臥竜天才軍師諸葛亮孔明<三国志外伝>ブログ連載小説2

2015年10月27日 08時49分04秒 | 日記







         2 軍師




  荊州の劉備の城では、孔明たちによる軍儀が続いていた。
 孔明は「魏の軍がふたたびせまっている」と正直にいった。そして、続けた。「魏の夏候淳は必ず博望坂を通る。かの地は左に山、右に林だ。待ち伏せができる」
 劉備たちは頷いた。
 孔明は続けた。「趙雲、5百の兵を率いて先発し、必ず負けよ」
「………負ける?」趙雲は不思議な顔をした。是非とも答えがききたかった。
「負けて、この坂に敵をさそえ」孔明は羽扇をかざしていった。趙雲は「はっ! 必ず!」と両手をあわせた。
「関平と劉邦は博望坂後方の両側にかくれ、敵をみたら火を放て」
 関平と劉邦のふたりは「はっ!」と両手をあわせる。
 孔明はさらに策を授ける。「関羽将軍は火をみて総攻撃の合図をせよ。敵の食料もすべて焼き払え」
 関羽は怪訝な顔のままだった。
「主君は後方にいて見守っていてくだされ」孔明はいった。
 関羽は怪訝な顔のまま「では? 軍師殿は何を?」と尋ねた。
 それに対して孔明は、「私はこの城を守る」といった。
 張飛は嘲笑し、「自分だけ楽する気か」と吐き捨てるようにいった。関羽と張飛はまだ孔明の才能を認めてはいなかったのだ。

  前線でも、関羽と張飛は諸葛孔明を馬鹿にしていた。
「何が軍師だ」張飛は悪態をついた。「あんなやつ口だけだ」
「いかにも! すべて机上の空論……孔明などおそるるにたりぬわ」
 関羽は地面にツバを吐いた。何が……軍師だ? 義兄上は勘違いしておられる。

  戦が始まると、すぐに趙雲軍五百は敗走しだした。孔明の策である。魏の夏候淳たちはそのぶざまぶりを嘲笑した。
「名高い孔明を軍師にしたはずの劉備軍はぶざまなものだ。やはり孔明など口だけの男だったという訳だ」夏候淳は笑った。部下たちも笑う。「孔明などおそるるにたりぬわ」
「追撃するぞ!」
「……しかし……罠では?」
「孔明ごときがそんな策をとれるものか!」夏候淳は軍を率いて、趙雲軍五百を追撃した。 しかし、そこは孔明が上手、夏候淳の軍が博望坂に入ったところで火攻めにされた。両側を囲まれ、包囲された。夏候淳は軍は集中砲火をあび、全滅した。
 戦がおわると、関羽と張飛は茫然と突っ立っていた。
 あまりに策がうまくいったので、茫然として言葉もでなかった。ふたりは顔を見合わせた。やがて、馬車にのった孔明がきた。孔明は羽扇で顔をあおいでいた。
 関羽と張飛の血管に、熱いものが駆けめぐった。そして、ふたりは地面に膝をつき、両手を合わせて、
「軍師!」と頭を下げた。ふたりもやっと孔明の才能、いや天才を認めた瞬間だった。

  しかし、魏軍10万がふたたび荊州に攻めてきた。劉備たちはボロボロの敗戦となった。その途中、魏の曹操は不安にかられた。
 曹操は「……わしは天下無敵…しかし、案ずることがある」と家臣にいった。
「それは何でござりましょう?」
「劉備だ」曹操はゆっくりいった。
 それにたいして家臣たちは「劉備など弱小勢力に過ぎませぬ。何を恐れることがありましょうや」と笑った。
「いや」曹操は首をふった。「孔明がおる。劉備には諸葛孔明がついておる」
「孔明? 口だけの男にごさる」家臣たちはまた笑った。
「劉備と呉の孫権が連合して攻めてくるやも知れぬ。それがわしの恐れじゃ」
 家臣たちは顔を見合わせた。
「劉備と呉の孫権が連合するかどうか使いを送れ」曹操は命じた。
 それに対して、呉の孫権のほうも情報収集のため、荊州太守弔問を口実に劉備のもとへ参謀の櫓粛を送った。櫓粛は中年であったが、控え目で、物静かな男だった。
 弱点は口の軽さだ。
 櫓粛は孔明と面会した。
 孔明はかれに酒をすすめた。もう夜だった。場所は城の一室。蝋燭の明りで辺りは鬼灯色であった。なごやかに孔明は接待した。
 櫓粛は「先の夏候淳をやぶった策略は見事でしたな、孔明殿」と孔明をほめた。
「いやいや、将軍たちがよくやってくださったからです」
 孔明は微笑んで、謙虚にいった。
「いやいや、孔明殿の智略がなければ10万の兵を撃破することなどできませぬ」
「私が撃破した訳ではございません」
「謙遜を」
 櫓粛は酒を飲んでいった。孔明は羽扇をふった。
「……近々、私は呉公・孫権殿とあいたい思います」孔明はいった。
 すると櫓粛は顔色をかえ、「それはいいのですが……」といいかけた。
「なんでしょう?」
「魏の曹操軍が百万とはわが主君には絶対に申されるな」
 孔明は口元に微笑みを浮かべた。
「絶対ですぞ!」櫓粛は念をおした。


  呉公・孫権に魏の曹操から使者がきた。劉備をやぶってわが軍と同盟せよ、というのだ。三日以内に返答を……使者はいった。孫権は悩む。魏の曹操は河口にあった。
 孫権船団軍3万、曹操軍20万……いくら曹操軍が陸地戦しかしてなく、船での戦いに慣れてないとしても勝ち目がないのではないか……。
 曹操は江稜を占領した。そして、沢山の軍艦をつくった。このままでは曹操の『天下統一』は目前だった。当然ながら呉の孫権陣営では軍儀が続いていた。
 甘寧将軍は「曹操など恐るに足りぬわ!」といきまいた。
「いや、曹操と同盟したほうが…」とは張昭。
「城を枕に討ち死にを!」
「臆病者め!」
「匹夫の勇ではことはならぬ!」
「命があぶないのだぞ!」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
 家臣たちは口々に勝手なことをいいだした。
  孫権はやがて眉をつりあげて、「黙れ!」といった。家臣たちは沈黙した。
 ……恐ろしい沈黙であった。しんとした静けさが辺りを包んだ。
 孫権は上座から降りて、ゆっくりと歩いてきた。家臣たちは今だに黙ったままだった。なんともいえない緊張が辺りを包んだ。
「……まず…」孫権はいいかけた。
「………なんでごさりましょうや?」
「まず」孫権は続けた。「櫓粛を魏に使いに出す」
「櫓粛を?」
 家臣たちは顔を見合わせた。
「それによって……戦か和睦か決める」
 孫権はきっぱりといった。
「…しかし…」
「なんだ?」
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利があると思いまする」
「そうです。匹夫の勇ではことはなりません」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦を!」
 家臣たちはまた口々に勝手なことをいいだした。
 孫権は押し黙り、苦悩した。戦か……降伏…か……。

  やがて、呉に孔明が櫓粛に連れ添われてやってきた。馬車の中で、櫓粛は何度も、
「魏の軍を是非とも少なめに…」と念を押した。
 孔明は何も答えず、不敵な笑みを口元に浮かべるだけだった。孔明は羽扇をふった。
 孫権の家臣たちは冷ややかな目で、孔明をみた。
「ふん!」
 鼻を鳴らした。
「孔明など三日だけで逃げ帰るさ」家臣たちは口々にいい、嘲笑した。
「櫓粛を魏に使いに出さずとも、戦より和睦のほうが利がある」
「匹夫の勇ではことはならぬ」
「弱小・劉備など見捨てて、曹操と和睦をすべきなのだ」
「なにが諸葛孔明だ」家臣は嘲笑しつついった。「孔明などハッタリだけの男じゃ! 諸葛孔明の虚名にまどわされてはならぬ!」
 そんな中でも、曹操の大軍が呉に迫って、きていた。


  孫権は悪夢を見た。
 長江の湖で、かれは水浴を楽しんだ。夏の大きな太陽の陽射しがぎらぎらと辺りに照りつけて、湖に反射してハレーションをおこす。どこまでも続く青空に入道雲……それは、しんとした感傷だ。
 湖を泳ぎ、陸にあがる。
 そして、彼は別荘にむけて歩き出した。
 この湖から城まではそんなに遠くはない。
 さっきまで、ぎらぎらとした陽射しだったが、今や雨でも降出しそうな天気になった。天気は変わりやすい。
「……雨でもふりそうだ」
 孫権は、しんと静まりかえった森を抜けながら呟いた。
 そして、ハッ!となった。
 城の方でシュウシュウという矢音が何回か聞こえたからだ。しかも、誰かが後をつけてくるような気配を感じる…!
 孫権は恐怖にかられ、狼狽し、目をキョロキョロさせた。で、ゆっくりとうしろを振り向き、「だ……誰だ……?」と掠れた声でいった。
 誰もいない。……だが、次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。
 ざざざっ…!と、誰かが追いかけてくるような足音が響き、孫権は恐怖のあまり悲鳴の声すら出なくなった。彼は逃げる! 鈴の音が微かにきこえる。しかし、孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。とにかく逃げた。
 恐怖のどん底にたたきつけられた孫権は、とにかく走った。孫権はやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。草や木々をかきわけ、とにかく逃げた。曹操の軍が追ってくる。 そして、孫権は急に立ち止まった。もう道がない。崖っぷちに立たされてしまったのだ。崖の下は滝つぼになっていて、崖は高くて、崖下の滝や河はどこまでも深くて、蟻地獄のようだ。孫権は恐怖で身体を震わせながら、滝壺を見て、背後を見て、心臓を高鳴らせた。いいようもない恐怖が彼を襲い、孫権は戦慄した。
 曹操の軍がせまってくる。
 ……殺される……!
 孫権は決心を固め、咄嗟に、崖下の滝や河に向かってダイブした。とにかくこれしか手はなかった。恐怖と戦慄と狼狽のまま、孫権はダイヴした。
 彼が滝に落ちて見えなる。と、曹操はチッ!と舌打ちした。
 そして、そのまま曹操の影はどこかへ歩き去った。

  孫権はゆっくりと目を覚ますと、悪夢のためか身体をガタガタ震わせて動揺の様子をみせた。妻は、
「…もう大丈夫ですよ」
 と、城のベットに横になっている孫権の髪を撫でて慰めた。
「もう怖くないわ」
 妻は優しくいった。                              


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<松本清張賞 石田衣良×桜庭一樹対談(抜粋)>非常に非情「十年選手(即戦力)完全粛清」

2015年10月26日 19時40分56秒 | 日記



****<松本清張賞 石田衣良×桜庭一樹対談(抜粋)>******


石田 僕のときには既に「公募ガイド」という便利なものがありましたから、順番にマルをつけていったんです。直近が角川の日本ホラー小説大賞で、次が新潮社の日本ファンタジーノベル大賞、それから朝日新人文学賞。その後が小説現代とオール讀物がほぼ一緒の時期で、オール讀物のほうがちょっと遅かったのかな。そうして順番に応募していって、最初の三つは三回とも最終選考まで行ったんですね。最後に書いたミステリーが、実は小説現代のほうに間に合わなくて、オール讀物に出した。それが『池袋ウエストゲートパーク』です。九七年ですよね、オール讀物推理小説新人賞をいただいたのは。三十七歳のときでした。

桜庭 私はほんとにチキンで、大きな賞は獲れないと思ったので、第一回ファミ通エンタテインメント大賞というマイナーなところに、ここなら獲れるかなと思って出したら、佳作で無理やり引っかかりました。第一回は二百人も応募がなかったそうです。中村うさぎさんが選考委員にいらして、推してくれてギリギリ入選して、デビューできたんです。だから、新人をデビューさせて育てる、というノウハウがまだほとんどないときだったので、獲った後が大変でした。

石田 でも、賞の第一回目って、不思議といい書き手が集まるんですよね。それは賞の大きい小さいは関係なく。だから第一回って、その賞の行方を決めることがあると思う。でも、大変失礼な話なんですけど、ある文学賞のパーティーで先輩作家に言われたことがあって、「昔は、賞に応募するんだったら一年ぐらいはその雑誌を熟読して、選考委員のこの人に読んでもらいたい、と思って応募するものだったんだよ」と。僕は選考委員が誰かを全く知らなかったですし、もちろん後で確認して、「ああ、この人の作品を読んでいる」というのはありましたけど、オール讀物もほんとに読んだことがなかった(笑)。

桜庭 私は、自分が読んで好きな作家さんのところに応募したほうがいいかな、とも思います。私の場合、中村うさぎさんを読んでいて、面白い人だと思っていたら、その人が褒めてくれた。小説も武道で言う流派みたいなのがいろいろあるから、この人の作品が好きだと思っている人のほうが分かってくれる気がします。

石田 そのへんは難しいんだよなあ。あまりにも近いと、かえって厳しくなりますよね。時代小説の作家は、時代小説に対してほんと厳しいですから。なので新人はあまり、これが有利になるとか、受験技術みたいなことを考えないほうがいいですよ。

桜庭 あっ、聞かれますね。「この賞の傾向は?」とか「どういうふうに書いたら有利ですか?」「一人称と三人称ではどちらが評価されやすいですか?」とか。いや、それは小説によるし、どちらが評価されるということはないので、その話に向いているほうで、と言うと、納得できない顔をされたりする(笑)。

石田 みんな簡単な答えとか、近道があると思っているのがよくない。

桜庭 「マニュアルないんですか?」と聞かれたこともあります。文学賞を獲りやすいマニュアルって……。

石田 そこはもう、ちょっと考え違いを改めてほしいところですよね。

桜庭 自分の話になりますけど、デビューした後もあまり仕事がなかったし、出した本も売れないという迷走期間があり、やっぱり傾向とかばっかり考えていたことがあったんです。これが受けるのかな、こうしたらいいのかな、と他人の真似ばっかりしていた。その時期に中村さんとまたお会いして、「最初にあった良いところを伸ばしなさい」みたいなことを言っていただいて、その後は他人の真似をせずに書くようになったということがありました。

石田 傾向と対策を学習するのはほんとに無駄だと思いますね。分かるんですよね、ここを狙って書いたな、みたいなことが。やっぱり自分が「これが面白い」というところ、それをしっかりつかんだら、手放さずに最後まで書いてほしい。じゃあ、そうなると圧倒的にオリジナリティが必要か、と思ってしまうでしょうけど、みんなちょっと怖がりすぎなんです。ハッ! と新鮮に感じることだったり、組み合わせの妙があったりすれば大丈夫。要は“新しいこと”じゃなくて“新しい感じ”でいいんですよね。だから、これは王道だからいけない、とかあんまり考える必要はない。逆に王道であるなら、そこからさらに熱量とかキャラクターの魅力とかをプラスしていけばいい。

桜庭 新人だけが持っているものってあるじゃないですか、熱量とか毒気とか。やってやるっ! みたいなものは最初ほどあるものかもしれない。他の作家と話したときに、「現在のほうが書く物はうまいけど、今は新人賞に応募しても獲れる気がしない」と言っていた人がいました。最初に持っているものをすごく大事にして、一気に行くべきだと思います。中には、もう十年選手みたいに応募し続けている人がいる。そういう人の作品を読むと、整ってはいるけど、この人の最高傑作ではない感じがして、おしいけど推しきれなかったりします。

石田 ずっと期待されて獲れなかった人が獲ることもあるけど、そういうパターンのときは、たいていもう一段ジャンプしています。それまでとちょっと作風を変えてきたり、「これを書いたら、もう最後でいい」みたいに、どこかで踏んぎりをつけて書いてきている人。

*******(抜粋)*****
「十年選手」みたいなひとが整っているがそのひとの最高傑作ではない感じがして、おしいけど推しきれない、ではなく「即戦力」だから「潰す」「パージ(粛清)しておく」というのが本音。作家の世界はそういうところ。(笑)******(緑川鷲羽・臥竜・十年選手(笑))

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出鱈目でメチャクチャな安倍政権の政策戦略『間抜けなアベノミクス』『新・三本の矢』間抜けな安倍晋三首相

2015年10月26日 16時40分00秒 | 日記








 出鱈目メチャクチャな安倍政権の政策


 安倍政権が成立してから4年半、安倍政権の経済政策『アベノミクス』『新・三本の矢』が一段と噴飯ものになってきている。
例えばGDP600兆円成長を目指す、とする政策(笑)現在の500兆円のGDP(国内総生産)を600兆円にするという政策だが、移民政策も明確な経済戦略もなく、600兆円を目指すといっているがまともに考えればおかしな話である。
現在の500兆円のGDPを600兆円にするということは単純計算で20%の成長が必要になる。つまり、高度経済成長並みの経済成長である(笑)どこの馬鹿官僚が作文を書いたかは知らないが馬鹿な話である。この事実だけで安倍政権にちゃんとした戦略も政策ブレーンもないことがわかる。経済がまるでわかっていない。日本のような成熟国が発展途上国みたいな高度経済成長がもう一度出来る訳ないじゃないか!オリンピックだってそんな経済成長は見込めない。
なんというか頭がクレイジーというか(笑)
とにかく高学歴や高肩書が大好きな安倍晋三氏だから馬鹿みたいな”学歴エリート”のいうがままに作文を読んで戦略を政策を打っているつもりなんだろうがまさに”阿呆”だ。こちらが”手を貸す”というのに学歴がないからと無視し馬鹿にしやがる。
それで馬鹿官僚のパペットになりさがって作文読まされておかしさもわからないのではこの国も末期状態である。
もう僕は安倍晋三氏には期待しない。僕の臥竜としての天才がわかり、民間登用してくれる指導者を一日千秋の如く待つしかない。そうなれば”水魚の交わり”で日本国もかわる。それまでは日本国は”フリーズ状態”である。



フリージャーナリスト・緑川鷲羽(45)山形県


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諸葛孔明 蒼天の臥竜天才軍師諸葛亮孔明<三国志外伝>ブログ連載小説1

2015年10月24日 07時42分01秒 | 日記






小説

  三国志


                   諸葛孔明

                          <戦わずして勝つ>
                    total-produced&Presented&writtin by
                       washu midorikawa
                      緑川 鷲羽



  …この物語は実話とフィクションの混合の時代小説です。…

         あらすじ

  戦乱の中国は魏呉の両軍が争っていた。劉備はちっぽけな勢力に過ぎなかった。そこで、かれは天才的軍師の名を耳にする。劉備は田舎の諸葛孔明の庵に三願の礼を尽くし、軍師として向かいいれる。孔明は赤壁の戦いを呉公・孫権を挑発して勃発させる。魏呉の両軍が争っているうちに第三の勢力・蜀を建国する。天下三分の計。しかし、関羽、張飛が戦死し、劉備も病死、蜀の命運はひとり孔明の肩にかけられる。孔明は魏と対峙し、智略を使って戦う。が、部下の馬謖の失敗によって不利に。空城の計で難を逃れるが、やがて孔明も志なかばで病死する。天才軍師・孔明の最期は、五丈原で魏の司馬仲達との睨み合いの中であった。「さては…孔明め。死んだか?」仲達は撤退する蜀軍を追うが、孔明の人形をみて「孔明め! 生きておったか!」と逃げた。死せる孔明、生ける仲達を走らす……である。諸葛孔明の戦略、そして人生をじっくりごらんください。
 では、ハッピー・リーティング!

         第一部 臥竜





          1 臥竜


  高祖・劉邦の築いた大漢帝国も後漢末期には官臣が実験をにぎり、戦乱の世となった。  黄巾の乱のあと、二十四歳となっていた劉備は戦いに身をおいた。
 しかし、たいした戦力ももたない劉備は、戦いには勝っても、これといった根拠地をもてずにいた。劉備は曹操軍に攻撃され、まだ誰の支配地でもない荊州へと劉備は逃げのびた。
  諸葛亮、字は孔明。徐州の陽都の人である。
 後漢の霊帝の光和四年(紀元一八一年)七月二十三日、あまり地位の高くない官僚の家に生をうけた。元々、諸葛家の名は葛だったそうだが、同じ町に葛というひとがいたので諸葛とわけ、それが定着したのだという。孔明には兄、弟の均、それにふたりの姉がいた。幼い頃に母に死に別れ、父の諸葛 は子供達のためにと後妻をめとった。そんな父も孔明が八歳の頃に亡くなり、孔明は叔父の諸葛玄の手で育てられた。
 孔明がうまれて四年目、霊帝の中平元年(紀元一八四年)「黄巾の乱」が起こり、またたくまに全国に波及し、後漢王朝をゆるがしたという。霊帝が死ぬと、わずかに十四歳の劉弁があとを継いで即位し、外戚の可進が大将軍として政治をおこなった。
 可進は、宦官(後宮に奉仕する小役人)の権力闘争に当時悩まされていた。それに手を焼いた可進は、董卓(一三九~一九二年頃、強大な武力をもつていた残忍好色な豪族)の力をかりて、宦官を一掃しようとしたが、董卓到着前に可進は 官に殺されてしまう。そのどさくさにまぎれて劉紹が軍をおこし、劉弁を推挙して皇帝となる。が、その後、権力者はいれかわりたちかわりして、ついに曹操軍が10万の兵を率いて、魏を県立する。
 翌年の秋、曹操は徐州を攻め、孔明の故郷も戦乱の混沌におとしいれられた。たまたま議術によって予章の太守に任命された諸葛玄は、諸葛均を残して義母に仕えさせ、孔明と姉妹を連れて予章に移った。
 しかし、まもなく輿平二年(紀元一九五年)、朱浩が漢王朝から予章の太守に任命され、武力をもって諸葛玄を追放したのだという。そのため玄は子供たちをつれて、旧友の朴州の牧(長官)劉表のもとへ逃げるしかなかった。

  孔明は叔父について広州に移り、瀋陽に住みついた。
 広州の首都である瀋陽は、交通の便にも恵まれ、比較的安全であった。その南陽で、孔明は叔父の関係から、多くの知識人たちと交流をもつようになった。その中には名士と名高い水徳公、水鏡先生と称される司馬徽、阿南の名士の黄承彦らがいた。孔明より二つ、三つ年上の?徳公の甥の鳳統は、ハンサムではなかったが非凡な青年だった。
  孔明はその中で?徳公を尊敬し、やがて?徳公の方も孔明のすくぎれた資質に気がついて「忘年の交わり(年の差を抜きにした親交)」を結んだという。
諸葛玄が二年後に死んだ。姉たちは嫁いでいたから、孔明と均だけが残された。孔明はまよって母のいる故郷に帰ろうともした。しかし、?徳公や司馬徽たちから「書を読み、経国済世の学問を身につけて将来にそなえよ」といわれ、熟慮したあげく孔明は 陽にとどまることに決めた。

  隆中に住んで四年目、戦乱の世がまたやってきた。袁紹は幽州で公孫玄を滅ぼした。  そして、袁紹と曹操両軍は対立していた。
 黄承彦は「袁紹は力量では曹操よりはるかに大きいが、計画性においてははるかにおとっているから、おそらく曹操の敵ではないだろう」と孔明にいっていた。はたして、翌年、曹操は袁紹と戦争をおこし、十月には曹操が勝利した。すべては黄承彦のいった通りになったのである。
 孔明はよく書を読み、記憶し活用した。また、情報収集のために諸国を行脚した。こうして孔明はその天才を磨いていったのである。そんな孔明の名声があがるに従い、孔明の結婚のことがとりだたされるようになった。孔明ほどの天才には美貌で才媛な女性がふさわしい……誰もがそう思っていた。しかし、孔明は黄承彦の娘・阿醜というブスな女性を妻にめとった。阿醜は赤茶色の髪で、顔もよくなかった。が、そのブスのコンプレックスのために、彼女は百冊以上もの書を読み、兵法にもくわしかった。
 孔明はそんな彼女の才をみて、醜くとも……と喜んで妻にしたのである。

  諸葛孔明は、隆中でさらに書を読み、学識はいっそう深くなり、現実社会に対する認識も一層明晰になったという。当時の学問は書の一文字、一文字を深く研究するのが主流であったが、孔明はそんな無駄なことはせず、書をたくさん読んで、その要点だけを理解し、学識を蓄積していったという。さすがは天才である。誰に教えられる訳でなく、学問の完成のありようを知っていたのである。
 船で、徒歩で、孔明は広州や魏国、呉国、などを行脚して情報を収集して知識を深めた。 一方、劉備たちは何をする訳でもなく、広州で”無為のとき”を過ごしていた。
 劉備と義兄弟の関羽、張飛、は馬で去る除庶先生を見送った。
「……除庶先生がいってしまわれた……残念だ」劉備は落ち込み、唇を噛んだ。…私は……どうなってしまうのだろう…?
 そんな時、除庶先生が戻ってきた。三人は驚いて、「どうなされたのです? 先生」と問うた。すると除庶は真剣な顔をして、「いい忘れたことがござる」といった。
「……それは?」
 除庶はゆっくりいった。「隆中にすばらしい人物がおる」
「どのような?」関羽は怪訝な顔できいた。
「知恵の者だ。号は”臥竜”。もうひとりの号は”鳳雛”」
 除庶はにやりとした。「……”臥竜”? ”鳳雛”? 名前は?」劉備は真剣に尋ねた。
「諸葛孔明と鳳統という。隆中にはその孔明がいる。その者がいれば貴殿の夢も実現できるじゃろう」除庶はそういうと馬で去った。
 劉備の血管を思わぬ感情が駆けめぐった。感情というより、熱い感情……よろこびだった。その孔明という人物を得れば、天下泰平の世を、経国済世を、実現できる。
 是非とも、その孔明という人物に会いたい。力を貸してもらいたい。

  健安十二年(紀元二〇七年)、広州の劉表のもとでほとんどなすこともなく過ごしていた劉備は内股の贅肉に気付き、涙を流した。劉表が訳をきくと、劉備は、
「私はこれまで馬を乗り回していましたので、内股に贅肉のついたことがなかったのです。しかし、ところが最近、あまり馬に乗らなくなったため贅肉がつきました。時間が経つのは早く、老いもせまっています。自分が情ないのです」といった。
 ……旗あげから三十年。劉備四十二歳。老いも早い。しかし、自分は何ひとつ成していない。自分はこのまま……終わってしまうのか……
”髀肉の嘆”をかこっていた劉備は”どうしても孔明を得たい!”と祈った。

  劉備は義兄弟の関羽と張飛とともに馬で、隆中に田舎に向かった。劉備は”どうしても孔明を得たい!”と祈った。臥竜岡の草ぶきの家につくと、眉目な少年がでてきて、
「兄をお訪ねになったのでござりましょうか?」と問うた。
 劉備は、その少年は諸葛均と判断した。
「劉備と申しますが、是非とも臥竜先生にお目にかかりたくてまいりました」
「兄は二日間前に外出し、四、五日してかえるか、十日、半月して帰るかわかりません」 劉備は、がっかりして退散した。
 その頃、諸葛亮孔明は諸国行脚をして、情報収集していた。そして、何月後に帰宅した。孔明は上機嫌だった。かれは黄色い布(当時は紙はなかった)にかかれた地図を妻にみせた。「まぁ!」阿醜は驚いた。
「この地図は蜀という国になるものだ。蜀は守りに堅く、攻めに容易……首都・広州には優れた人物も多い。きっとよい国となることであろう」孔明は微笑んだ。少年のような顔だった。孔明は羽扇を手でゆらしながら、頷いた。孔明はハンサムで、性格もおとなしく、控え目で、清貧をむねとした。痩せていて、端正な顔をしていた。
 劉備の義兄弟の関羽と張飛は「諸葛亮孔明などという田舎者など迎えてどうにもなるものか!」と愚痴をいった。それにたいして劉備は、
「孔明殿はわしの力になってくれる。何せ臥竜(地に伏していまにも飛び上がらんとする竜)さまじゃからな」
「ふん!」張飛は悪態をついた。「虚名だ! 兄じゃ、孔明などいなくともわれらがいるではないか!」
 関羽も「そうですとも。兄じゃ、そんな田舎者など……不必要です」といった。
 しかし、劉備は、「孔明殿はわしの軍師として迎える。孔明殿の知恵で、わしは漢室を復活させてみせる。そのために……是非、臥竜先生に会いたい」
  半月ほどして、雪の日、劉備はまた義兄弟の関羽と張飛とともに馬で、隆中を訪れた。諸葛均は、劉備たちをみると、老人を紹介した。
「兄の岳父の黄承彦です」
 黄承彦は笑っていった。「また留守にぶつかりましたね。私も婿を訪ねてきたのですが、むだ足をふんだようです。まぁ、とにかくあがってください」
 諸葛均は、とりあえず劉備、関羽、張飛らに草堂にあがってもらい、お茶をだした。草堂には「淡泊以明志、寧静以致遠」と書いた字がかけてある。これは「貪欲にならないことでその志を明らかにし、静かに安定した心によってさらに遠いところに達する」というひそかな抱負であった。それをみた劉備は孔明がまさしく臥竜であると確信した。だが、義弟たちは「孔明がいないなら長居は無用、さっさと帰りましょう」と催促した。
 関羽は「諸葛孔明の虚名にまどわされてはなりません」といい、
 張飛は「首にナワをかけて引っ張っていこう」とにやりとした。

  孔明は質素ないでたちで、蜀を見てまわった。その途中、劉備のことを遠くから見た。孔明はかれの顔を知らなかった。劉備軍は刀を振り、訓練中だった。孔明の端正な顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいとともに大人っぽくもある。説得力のある不思議な微笑みだった。帰宅すると、そこには長男の諸葛 がいた。兄は孔明に贈物を渡した。
「まあまあ、兄じゃ、酒でもどうぞ」孔明はにこりとした。
しかし、兄は不安な顔をして「劉備が二度も訪ねてきたそうだな。わしの支える呉公の孫権殿はそれをきき、わしを使いによこしたのだ。わしと一緒に呉公に支えぬか?」
「いいえ」孔明は断った。羽扇を振った。「呉公には支えません」
「なぜ?! ……今や呉公・孫権は実力者だぞ。魏の曹操と肩を並べておる」
 孔明はにやりと余裕の笑みを口元に浮かべ、羽扇を振った。「ならば、兄上は魏の曹操に支えればよろしかろう。立身出世も夢ではないであろう?」
 兄は怒り「なぜだ?! 劉備などただの弱小将軍に過ぎないのだぞ! 選択を誤るな」
 続けた。「今や天下は魏の曹操と呉の孫権のどちらかだ。劉備など相手にするな!」
 しかし、孔明はただ不敵に笑うだけであった。

  城で、張飛はまた酒を呑んでいた。関羽は諫めたが、きかなかった。「われら桃園の義兄弟だけで十分……田舎者の孔明などいらぬわ!」張飛はベロベロに泥酔し、悪態をついた。関羽は「しかし……兄じゃは孔明を必要としている。わが軍にも軍師がほしい」といった。「諸葛亮孔明が本当の軍師で天才なら…………あるいは…」
  三度目の訪問で、孔明にあえた。
 孔明は昼寝中だった。均がおこそうとすると劉備は「起こさないように。私は先生がおきるまで何時でも待ち申す」といった。やがて、孔明は起き上がり、劉備と対面した。そして、地図を広げて劉備に見せた。
「……これは?」
「蜀です。まず益州と広州を併合して、蜀を建国するのです」
「どうやって?」
「今、強大な兵力を誇る魏の曹操と戦うのは得策ではありません。まず、第二勢力の呉の孫権と同盟を結び、両軍を争わせ、そのすきに第三の勢力・蜀を建国し、天下三分の計を実現させるのです。そして、呉と提携して魏をやぶり、やがては天下を統一して漢王室の復興をめざすのです」孔明は策を授けた。
 若干二十七歳で、確実な分析と洞察をもってこれほどの大構想をうちたてた孔明は、特異な天才と呼ばなければなるまい。
 劉備は感涙し、「先生、是非、非力な私に力をおかし下さい! 天下泰平のため! 人民のために!」と強くいった。
「……浅学非才の私にはとても無理です」孔明は謙虚にいって、羽扇をかざした。
 勇猛果敢な張飛は刀に手をかけ「来るのか、来ないのか、どっちだ?!」と怒鳴った。
 しかし、そこは孔明、そんな脅しにのるほど馬鹿じゃない。
「これ、刀をおさめよ」劉備は張飛を諫めた。
 そのあと、劉備は土下座した。孔明もこれには驚いた。「……非力な私の力に…なって…くだされ!」涙声だった。孔明は動揺し、「頭をお上げ下され」とかれに手をさしのべた。すると劉備は涙をぽろぽろ流しながら、「先生! 民のため! その知恵を、力を、おかし下され!」と嘆願した。
 さすがの孔明もこれには驚き、感激し、「わかりました。劉備殿、私はあなたの家臣となります」といった。ふたりは泣きながらにこりとした。
 こうして、孔明は劉備軍の軍師となった。孔明は”三願の礼”で迎えるに十分な天才だった。なぜなら、のちに孔明のシナリオ通りに”天下三分の計”は実現したからである。 孔明は書にかく。
 …………”劉備殿は私ごときのために三度も訪ねてきてくださいました。私はそれに感      謝し、支えることにしたのです”…………
 しかし、諸葛孔明はただ、劉備の”三願の礼”に感激して支えたのではないという説もある。孔明は何年も前から晴耕雨読の日々を送り、仲間が孫権や曹操に支えるといっても冷ややかな目でみるだけだった。誘いにも乗らなかった。
 孔明は、自分のことを古代の英雄菅公に支えた管仲にたとえていた。孔明は自分の力を発揮できる英雄の出現をまっていた……という説だ。そして、劉備があらわれた。

  208年9月、曹操は大軍を率いて南下してきた。劉備は四十七歳。わずかな軍しかもたない劉備軍は逃げるしかなかった。退却には、劉備を慕った難民たち数十万もつらなっていた。部下はいう。「難民を見捨ててでも、まず劉備殿が逃げるべきです」
 劉備は冷静に「大事をなすには何よりもひとをもって元となす。私は虐殺者・曹操と違うことをしてここまできた。私を慕ってついてくる難民をおめおめと見捨てていけるものか」と答えた。どこまでも”徳”のひとなのである。
 しかるに、難民とともにいて退却が完了できない劉備軍は曹操軍の追撃隊に追い付かれ、散々やられた。気付いたときには劉備の側には数騎しか残っていなかったという。
 やっと城に帰参し、劉備は一息ついた。
 だが、魏の10万の軍がまた攻めてきた。張飛は嘲笑しながら「兄じゃと軍師(孔明)は水魚の交わり。その水で……魏の10万の軍をけちらしてくれればいいのに」といった。
 その頃、劉備は子供ほどの年の離れた孔明に頼りきっていた。まさに水魚の交わりだった。劉備は張飛に「よせ!」と諫めた。
 張飛は眉をひそめたが、また孔明のほうを見た。劉備の方をみると、蒼白な顔をしていた。張飛は、義兄がうけている圧力のことを考えていた。



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安倍政権の出鱈目「一億総活躍三本の矢」GDP600兆円成長(20%成長率)=高度経済成長以上(笑)

2015年10月23日 19時38分02秒 | 日記







安倍政権の一億総活躍三本の矢は600兆円のGDPを目指す等メチャクチャです。

例えば現在500兆円を600兆円にするだけで20%もの成長率が必要になります。


高度経済成長以上の成長(笑)


しかも企業に国内投資を勧めてますが

国内に投資先等ないし成長=人員余剰=リストラとわからぬのか?臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

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石原莞爾 旭日旗の悪魔<ノモンハン事変>石原莞爾の侵略と虐殺と ブログ連載小説3

2015年10月23日 07時46分41秒 | 日記








工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和』(中公文庫)、工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』(中公文庫)、寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』(文春文庫)
 所功『皇室の伝統と日本文化』(広池学園出版部)、西鋭夫『國破れてマッカーサー』、西尾幹二『わたしの昭和史1―少年篇―』(新潮選書)、西川秀和『昭和天皇の巡幸(第1巻)』(アーカイブス出版)、半藤一利『日本のいちばん長い日』(文春文庫)、半藤一利『聖断』
 この作品の参考文献一覧をご紹介します。『東京裁判』(上)(下)児島襄(中公新書)、『東京裁判』(上)(下)朝日新聞東京裁判記者団(朝日文庫)、『私が見た東京裁判』(上)(下)冨士信夫(講談社学術文庫)、『秘録東京裁判』清瀬一郎(中公文庫)、『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修/終戦五十周年国民委員会編(ジュピター出版)、『日本の歴史30十五年戦争』伊藤隆(小学館)
『昭和史をさぐる』伊藤隆(朝日文庫)、『東京裁判 勝者の敗者への報復』新人物往来社戦史室(新人物往来社)、『別冊歴史読本 A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社)、『東京裁判の全貌』平塚柾緒/太平洋戦争研究会編(河出文庫)、『看守が隠し撮っていた 巣鴨プリズン未公開フィルム』織田文二/茶園義男監修(小学館文庫)、『東条英機 大日本帝国に殉じた男』松田十刻(PHP文庫) 
『祖父東条英機「一切語るなかれ」』東条由布子(文春文庫)、『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』東条由布子編(WAC)、『週刊日本の100人東条英機』(ディアゴスティー二・ジャパン)、『昭和の発見』花山信勝(朝日新聞社)、『秋霜の人 広田弘毅』渡邊行男(葦出版)、『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』北川晃二(講談社文庫)、『落日燃ゆ』城山三郎(新潮文庫)、『昭和天皇独白録』寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー(文春文庫)
『秘録 板垣征四郎』板垣征四郎刊行会(芙蓉書房)、『秘録 石原莞爾』横山臣平(芙蓉書房)、『コンビの研究 昭和史のなかの指揮者と参謀』半藤一利(文藝春秋)、『秘録 土肥原賢二 日中友好の捨石』土肥原賢二刊行会編(文藝春秋)、『軍務局長 武藤章回顧録』武藤章/上法快男(芙蓉書房)、『南京事件の総括』田中正明(展転社)、『「南京大虐殺」はこうして作られた』冨士信夫(展転社)、『日本陸軍 指揮官総覧』新人物往来社戦史室(新人物往来社)
『松岡洋右 その人間と外交』三輪公忠(中公新書)、『その時歴史が動いた13』NHK取材班(KTC中央出版)、『東郷茂徳 伝記と解説』萩原延濤(原書房)、『時代の一面』東郷茂徳(原書房)、『危機の外相 東郷茂徳』阿部牧郎(新潮社)、『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』永野美紗子(南の風社)、『最後の参謀総長 梅津美治郎』上法快男(芙蓉書房)、『葛山鴻爪』小磯国昭(小磯国昭自叙伝刊行会)、『怒り宰相 小磯国昭』中村晃(叢文社)
『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎(平沼騏一郎回顧録編纂委員会)、『大川周明 ある復古革新主義者の思想』大塚健洋(中公新書)、『決断した男 木戸幸一の昭和』多田井喜生(文藝春秋)、『木戸幸一関係文書』木戸日記研究会編(東京大学出版会)、『南次郎』御手洗辰雄編(南次郎伝記刊行会)、『忠鑑畑元帥』梅谷芳光(国風会本部)、『畑俊六 巣鴨日記』小見山登(日本文化連合会)、『橋本欣五郎一代』田々宮英太郎(芙蓉書房)、『荒木貞夫風雲三十年』有竹修二(芙蓉書房)
『駐独大使 大島浩』鈴木健二(芙蓉書房)、『佐藤健了の証言 対米戦争の原点』佐藤健了(芙蓉書房)、『鈴木禎一氏談話速記録』(上)(下)木戸日記研究所(日本近代史料研究会)、『完本・太平洋戦争』(上)文藝春秋編(文藝春秋社)、『嶋田繁太郎海軍大将裁判中参考資料』、『見果てぬ夢 満州国外史』星野直樹(ダイヤモンド社)、『評伝賀屋興宣』宮村三郎(おりじん書房)、『重光葵 上海事変から国連加盟まで』渡邊行男(中公新書)、『孤高の外相 重光葵』豊田穣(講談社)
『「勝者の裁き」に向き合って』牛村圭(ちくま新書)、『昭和の動乱』(上)(下)重光葵(中公文庫)、『共同研究パル判決書』(上)(下)東京裁判研究会(講談社学術文庫)、『パール判事の日本無罪論』田中正明(小学館文庫)、『國、亡ぼす勿れ 私の遺書』田中正明(展転社)、『平成22年版日本の防衛 防衛白書』(防衛省)、『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐(並木書房)、『そのとき自衛隊は戦えるか』井上和彦(扶桑社)、『ホントに強いぞ自衛隊!』加藤健二郎・古是三春(徳間書店)
『別冊歴史読本 江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史』(新人物往来社)、『今こそ知りたい江田島海軍兵学校 世界に通用する日本人を育てたエリート教育の原点』平間洋一・市来俊男・雨倉孝之・影山好一郎・北澤法隆・齋藤義朗・中村梯次・左近允尚敏・長田博・手塚正水(新人物往来社)、『中国大虐殺史なぜ中国人は人殺しが好きなのか』石平(ビジネス社)、『TPPが日本を壊す』廣宮孝信・青木文鷹・監修(扶桑社新書)、『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』エマニュエル・トッド(藤原書店)
『原発と日本の未来 原子力は温暖化対策の切り札か』吉岡斉(岩波ブックレット)、『原発のウソ』小出裕章(扶桑社新書)、『福島第一原発「放射能の恐怖」全記録』(FRIDAY6・29増刊号)、『偽善エネルギー』武田邦彦(PHP新書)、『日本は原子爆弾をつくれるか』山田克哉(PHP新書)、『国土学再考「公」と新・日本人論』大石久和(毎日新聞社)、なおここから数行はウィキペディア、『国防論』小林よしのり(小学館)と『昭和天皇論』小林よしのり(幻冬舎)から引用いたします。盗作ではなく引用です。あらかじめご容赦下さい。裁判とか勘弁してください。

 
 激動の昭和。昭和恐慌から政治不信を背景に軍部の台頭、満州事変へ。シナ事変の泥沼化から侵略戦争や虐殺行為をした帝国日本軍。絵に描いた餅『大東亜共栄圏』をお題目にしてアジア諸国を侵略して「大東亜共栄圏によってアジアの人々を白人の支配から解放した!」とぬけぬけと抜かす右翼。
 その中で昭和という時代を一身に背負って苦悶する偉大な存在があったという。昭和天皇・裕仁、そのひとである。先の大戦では現人神であり、神の子孫というペテンで軍部のパペット(操り人形)と化し、統帥権=軍部で、敗北を一身に受けて戦後をつくった昭和天皇。
 「天皇陛下万歳!」国民はそれでも、戦争に敗北しても昭和天皇を神のように崇めたという。天皇陛下のために命を捧げた英霊たち。
 ちなみに小林よしのりの漫画では、神風特攻隊や回天特攻隊で若い日本軍兵士が特攻体当たりの際、「天皇陛下、万歳!」と叫んだという描写があるが嘘である。本当は「おかあちゃーん!」と叫んで死んだのだった。
  ”海行(ゆ)かば 水漬(みずく)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ”
 実際、当時の兵士は昭和天皇=現人神と思って特攻や戦をした。だが、神ではなかった。天照大神の子孫というのはペテンであり、詭弁でしかなかった。
 戦争責任論[編集]
「昭和天皇の戦争責任論」、「大日本帝国」、および「大日本帝国憲法」も参照
概要[編集]
大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争(支那事変)、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)へと続く、「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張
大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問う事は出来ないとする主張
との間で、論争がある。
美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。
終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を「戦争犯罪人」として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。
昭和天皇崩御直後の、1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて、当時の内閣法制局長官・味村治は、大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないの二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はないという解釈を述べている。
マッカーサーに対する発言に関して[編集]
『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会した時、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、天皇は、
「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」
と発言したとされる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。
その後、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、藤田尚徳侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。
また、当時の宮内省総務課長で、随行者の一人であった筧素彦は、最初に天皇と会った時のマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、後に『マッカーサー回想記』等で発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している。
天皇自身の発言[編集]
1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー
[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか
[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー
[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?
[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見
[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。
[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見
[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
陵・霊廟・記念館[編集]

武蔵陵墓地の昭和天皇陵「武蔵野陵」(東京都八王子市)

昭和天皇記念館(東京都立川市)
陵(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。
皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族として祀られている。
2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。
敬称[編集]
平成に入ってからは「昭和天皇」が一般的であるが、敬称(「陛下」を付けた呼び方)で「昭和の天皇陛下」や「先帝陛下」と称される場合もある。また、「昭和天皇」という呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とは言わない。
皇后美智子は義父にあたる昭和天皇を「先帝陛下」と公の場では呼んでいる。
財産[編集]
終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。
皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。
なお皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が全額を支払った。この時に御物とよばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した。
終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年(昭和19年)に参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある。
著書[編集]
自身の著書[編集]
裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所)
裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)
宮内庁侍従職編『おほうなばら―昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)
昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)
その他の著書[編集]
国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)
田所泉『昭和天皇の短歌』(1997年、創樹社、ISBN 4794305222)

  昭和天皇は自らの『戦争責任』を自覚していたという。だから当時日本を統治していたGHQ連合軍のダグラス・マッカーサーとの会談や写真撮影のときも、
「朕には戦争責任がある。私の命はどうなってもいいから国民を日本国をなんとか無事にお願いする」というような意味のことをマッカーサーに言ったとされる。
 マッカーサーは驚いた。昭和天皇・裕仁は命乞いをして醜態をさらすと勘違いしていたのだ。まさに守護神である。
 このことは秘書と昭和天皇陛下とマッカーサーしか知らないことではあったが、自己顕示欲とプライドの高い自慢屋のマッカーサーは晩年『回顧録』でばらしている。
 マッカーサーの回顧録は自慢話や憶測や勘違いからの誤記が多く、参考文献としては信憑性が低いが、昭和天皇は例の写真で覚悟を示したのであった。
 マッカーサーは軍服で、昭和天皇は黒のモーニング姿にネクタイ。マッカーサー元帥はいばったようにわざと演出し「猫背で身長の低い近眼の男(GHQやマッカーサーの談)」を負け組の元帥として貶める意図で写真を撮った。
 だが、この無礼は日本の知識人たちを激高させた。作家の高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」、詩人の斎藤茂吉は「うぬーっ、マッカーサーの野郎!」と怒ったという。
 現在の今上天皇である明仁皇太子(当時)は御学友とともに租界地の新聞で、例の昭和天皇とマッカーサーの写真を見て「日本が勝った!」「マッカーサーはネクタイさえしていない!田舎っぺだ!」「日本の三千年の礼節が、たった200年の白人米国文化に勝利した!」と逆に裕仁の株をあげただけにおわった。
 マッカーサー元帥は全ての日本人を支配する雲上人としてふるまい、吉田茂などごく一部の日本人以外は会いもしなかったという。例の記念写真の時もたばこが嫌いな昭和天皇にわざとたばこを差しだし「一服したら?」とすすめたらしい。
 こうしたことは最近の研究でわかったことで、当時のマッカーサーの人気はすざましかったという。ファンレターが全国から何万通と届き、中には「あなたの子供を産みたい」などの手紙まであったという。
 だが、元帥の目標は米国大統領である。日本人など好きではなかった。だから、後に「日本人の精神年齢は十二歳だ」と発言したのだ。
 この言葉を聞いてやっと我に返った日本人はマッカーサーを嫌悪しだした。歴史に詳しいひとならご存知だが、マ元帥は朝鮮戦争で「朝鮮半島に原爆を落としてくれ」とトルーマン大統領に要請してクビになっている。
「アイ・シャル・リターン(もう一度戻ってくる)」とフィリピンで負け惜しみを言って遁走し、アメリカ代表のような地位を得たと勘違いし日本に飛行機で来て、日本を支配し、無礼を働いたマッカーサー元帥。嫌われるのは当然だが、昭和天皇も元帥を嫌いだった。
 のちに米国訪問した昭和天皇は、死去したマッカーサー元帥の記念館となっていた施設にも絶対に訪問しなかった。車でわずか数十分でもいかなかった。
どれだけ恨みが強いか?がわかるエピソードである。マッカーサーの夢は米国大統領に当選することであったが、無理だった。
ちなみに玉音放送を阻止しようと軍部の過激派がクーデターをおこした事件をご存じだろうか?終戦というか敗戦の当時の内閣は鈴木貫太郎内閣である。昭和天皇にご聖断をあおいだ。一方で、軍閥系の最高責任者だった軍人・阿南維幾(あなみ・これちか)は電話で「(外国と徹底抗戦を叫ぶ軍部関係者に)まだ本土決戦!一億総玉砕の道はある」と嘘をいった。ご聖断の有効の為である。
鈴木貫太郎首相はかつて軍部の若手将校の暗殺者に銃で殺されかけており、死後、荼毘に付すと骨とともに身体の内部にあったであろう銃弾が発見された、という。阿南は玉音後、「ご聖断はくだったのである!もし、不服ならこの阿南を殺しその屍をこえていけ!」と軍幹部たちに怒鳴るように伝えた。
「朕はどうなってもいい。日本国の「国体」や日本人達の命が無事ならば朕は死んでも構わない」敗戦の玉音放送後、阿南は皇居外苑で自刃して果てる。自らの死で軍部の強硬派を抑えたのだ。昭和天皇は自ら統帥権の呪縛をやぶって、敗戦のご聖断を下し、人間として象徴天皇としての道を選んだ。まさに英雄、まさに天皇陛下万歳!陛下は共産主義の悪もわかってらしたという。
クーデターは失敗におわり、昭和天皇が録音した『玉音(天皇の言葉)』が1945年8月15日に放送された。
二度のご聖断で、敗北を決定した昭和天皇。まさに満身創痍の決断である。
***「玉音放送」(内容)
概要[編集]
御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」
1945年(昭和20年)8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定した(いわゆる聖断)。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に伝えられた。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られた。
放送は正午に開始された。初めに日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪く、天皇の朗読に独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)があり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。直後のアナウンサーによる終戦詔書の奉読(朗読)や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半だった。また、ほとんどの国民にとって、現人神である昭和天皇の肉声を聴くのは、これが初めての機会であったため、天皇の声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られることである。また、沖縄で玉音放送を聞いたアメリカ兵が、日本兵捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねたが、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードがある。
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKの特集番組の、“皇居前広場で土下座して昭和天皇に詫びる庶民達”の映像と共に繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんき。信頼)し常に爾臣民と共にあり。」と続く)。
なお、ラジオ放送のマイクが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが、1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に一度起こっているが、その後、宮中筋は天皇の肉声を放送する事は憚りあり、として極端にこれを警戒し、結局第二次世界大戦の終結まで公式に玉音放送が行われたのは、この1945年(昭和20年)8月15日一度きりであった。天皇の声が電波に乗って正式に放送されたのは、玉音盤によるものが最初である。
終戦詔書[編集]
『大東亜戦争終結ノ詔書』は「終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付けで詔として発布された。文体は非常に古典的な漢文訓読体なので、一部の民衆にとっては分かり難い。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある。
録音と放送[編集]

玉音盤
(玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)
NHK放送博物館所蔵
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は情報局次長・久富達夫が総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められた。2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚(1テイクが2枚となる理由は後述)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もあったが下村がこれを辞退したという(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製のセルロース製SP盤に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音された。
作業は翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしたが、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示により録音盤の捜索が行われた(録音盤事件、宮城事件)。このとき録音盤は見つからなかったが、録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていた。
当日正午の時報の後、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会のアナウンサー・和田信賢である。
玉音盤が戦後しばらく所在不明とされていたため、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていた(この件に関しては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋による隠匿説もある)。しかし玉音放送から1年後、玉音盤を押収したアメリカ軍が複製を製作するに際して、担当の日本人技師が内密に自己用の複製を製作、これにより玉音放送は散逸を免れる事となった。この複製盤はNHKに寄贈され、その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているが、複製盤製作時の玉音盤の再生速度と複製盤の回転速度、そして複製盤の再生速度、磁気テープの再生速度の誤差により現在通常に流布している音源は一様に遅く、音声が低い。
後に発見された玉音盤はNHK放送博物館に収蔵され、入念な修復作業を経て現在は窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるとされている。
国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。
玉音放送と前後のラジオ放送[編集]
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送等を含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10キロワットに規制されていた出力を60キロワットに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。
予告放送[編集]
玉音放送の予告は14日午後9時のニュースと15日午前7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などが報じられた。
15日正午の放送内容[編集]
特記なき文は和田信賢によるアナウンス。
正午の時報
「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」
「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)
君が代奏楽
詔書(昭和天皇・録音盤再生)
君が代奏楽
「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)
「謹んで詔書を奉読いたします」
終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)
これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)
ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
鈴木総理大臣放送の予告(午後2時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際は総辞職の閣議のため、午後7時のニュースに続いて放送された)
15日の放送[編集]
1945年8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。
午前7時21分(9分間)
正午(37分半、玉音放送を含む)
午後3時(40分間)
午後5時(20分間)
午後7時(40分間)
午後9時(18分間)
全文[編集]
ウィキソースに大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。
詳しくはWIKISOURCE 日本語版の「大東亞戰爭終結の詔書」を参照のこと
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所

曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス

加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス

爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ

若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日


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【緑川鷲羽四面楚歌】努力は必ず報われる訳ではない。だが、夢を諦める=自殺・死なだけ

2015年10月21日 19時06分43秒 | 日記






努力したことが報われないと絶望とする。


もう僕は若くはない。

でも、夢を諦める=自殺・死、ということだけ。


今更普通の仕事・生活等無理な話。

確かに宮城谷先生も45歳でデビューして

もっと遅い作家もいる。


正直、これ以上どう作品を改善したらいいかわからぬ。

音楽も。


神は僕に死ねと言うのか?臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

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NHKBSテレビドラマ『大地の子』(山崎豊子先生原作)再放送!中国残留孤児小説「後続の苦難」

2015年10月17日 19時19分18秒 | 日記







NHKBSで『大地の子』の再放送をしている。


私が”中国残留孤児”の小説を書こうと思った時には


すでに山崎豊子先生の本『大地の子』が


ベストセラー文庫だった。


同じ事はくだらないし完全な二番煎じ。


日中国交正常化は赤ん坊の時。


後続は新しい題材にも困る。


しかも情報過多状態社会だ。悔しい。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

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