マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

佐和山城と石田三成の悲劇

2011-09-07 07:03:00 | 青春18切符旅行

天下に名高い美女・信長の妹・お市の娘達。
 浅井三姉妹。 (NHK・HPより拝借)

浅井三姉妹
長女「茶々」:豊臣秀吉の妻となり、子どもに恵まれなかった秀吉の世継秀頼、を出産。
次女「初」: 京極高次の妻となりました。
3女「江」: 3回目の結婚で、徳川家康の子秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光&後水尾天皇の妻となる和子、を出産。

皆様!
 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」をご覧になっていますか?
私!
 大河ドラマの大ファン 今回=「江~姫たちの戦国」=にも夢中です 


 てことで・・今日一日・・石田三成の足跡をたどって・・。
青春18切符旅行相棒と2人・・歩け歩け歩け・・9時間
 佐和山城跡と彦根城。 訪問と検証の旅でした。


皆様!
 私達2人の「歩いて9時間の訪問と検証」にお付き合い下さい。

  さあ~! 旅の始まりです!


[佐和山城]・・といえば・・[石田三成]
 [彦根城]・・といえば・・[浅井三姉妹]


[佐和山城]
秀吉の時代にも、天下統一のための重要な拠点、として位置付けられた。
重臣である石田三成が、秀吉に、城主に封ぜられました。

石田三成の支配によって、『佐和山城』は城下とともに、整備されました。
五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡す。・・・等々。

『石田三成像』 佐和山城跡へのハイキング道入口に座る三成

永禄3年(1560年)451年前、長浜市石田町で生まれる。武士の子。父は三成の仕事を影で支えた。
天資聡明観音寺(出来すぎの寺名と思いませんか後の命名かな)で、秀吉への『真心』の献身。
有名な献身=ぬる目の茶→中位→熱めの茶の接待=が出世の糸口となり、秀吉公に認められて、長浜城で練成、次々に出世する。

26歳で、五奉行の筆頭に登る。
秀吉の日本国平定に際しては、東奔西走、抜群の功績を挙げ、『佐和山城23万石城主』となる。水口城主から移る。


『佐和山城・天守』のあった頂上  

今は、天守や櫓などの建物がまったく現存せず。 跡に碑が立つばかりでした

眼下に、彦根の町と琵琶湖が一望です。

佐和山城跡山頂から・・森の真ん中に彦根城(見えます?)・・先に琵琶湖・・そしてBlue sky.
 美しい景色

三成・・
毎日、『美しい景色』、を眺めていたのです。そのはずです。
「三成に過ぎたるもの二つあり。」とまで言われる『名城』となりました。

ちなみに・・「三成に過ぎたるもの二つ」
① 佐和山城
② 島 清興(しま きよおき)。安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。通称:島 左近(しま さこん)で広く知られる、三成ブレイン。

秀吉亡後・・
三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深める。

41歳 慶長5年(1600年) 411年前の秋

9月15日:
『関ヶ原合戦』 家康ら東軍との戦いが始まる。

大河の赴くところその帰結は自ら明らかであった=関が原の戦=に敢然と立つ三成
  
当初は、西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが・・・
しかし、西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり・・・
最終的に、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなる。 惨敗。


  『3日間の戦い』世に遺した『合戦』にしては短い。
『大河の赴くところその帰結は自ら明らかであった。』ということであろう。

9月18日:
東軍の攻撃を受けて、三成の居城・『佐和山城』 落城。
三成の父・正継をはじめとする石田一族の多く、は討死した。

三成は・・
戦場から逃走 伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて、春日村に逃れた。
その後、春日村から新穂峠を迂回して、姉川に出て、曲谷を出て、七廻り峠から、草野谷に入った。
そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。


  『3日間の逃亡』こちらも3日間。三成には、つらい3日間と3日間。 つらい。寂しい。


9月21日:家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊、に捕縛される。

9月22日:大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見。

9月27日:大坂に護送される。
9月28日:小西行長、安国寺恵瓊らと共に、大坂・堺を罪人として引き回された。
9月29日:京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日:家康の命により六条河原で斬首された。享年41。

三成の首・・
三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

三成・辞世の句
『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

三成の生涯
豊臣公より受けた恩義を忘れずに、『終始一貫』、秀吉公への『真心』の生涯を全うし、没。


 『終始一貫』 貫く生き方は大好き。そおありたい。結果のいかんよりも過程を大事にしたい。私も。
 
  来週の日曜日の大河ドラマは『関ヶ原合戦』
   三成の最期を見守りましょうね。


三成の生涯を考え、胸震わせながら・・『佐和山城跡』へ

『佐和山城跡』へのハイキングコース。急勾配。

『佐和観音像』 その隣の 『三成像』。ご挨拶して始まりです

『三成像』の横から  Let's start!  一気に急勾配になっていきます。


竹薮もあり・・頂上まで30分。この山道を三成一族は登ったり降りたりしたの 

相棒フーフー  私ニコニコ 鍛えた山女です



天下分け目『関が原合戦』終了。
その後・・
家康にその武功を認められた、[井伊直政]。 『佐和山城主』となる。



佐和山城跡から下山すれば・・11時半。 昼食です
彦根の昼食といえば・・迷わずの・・『近江牛』

『近江牛 ロースステーキ重』 3180円

『近江牛 せんなり亭 伽羅』  

焼き具合 グー   季節の一品『自家製オリーブ入りハム』 グー

 両者共に・・やわらかい。味良し。 美味


 次なる見学 & 検証
相棒は中学国語先生だった。歴史の先生になっていれば良かった。だって。知識豊か。頼もしい。


[彦根城]
石田氏滅亡の後・・
徳川四天王の一人である、井伊直政が、この地に封ぜられ、『佐和山城入城』
井伊直政は・・
三成が領地にて善政を敷き領民からも大変慕われていたため、その威光を払拭するべく、新たに、『彦根城築城』を計画。
しかし・・
直政は、築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。41歳の若さです。偶然にも三成と同年の死です。
 

   若い死も、戦乱の世の壮絶な死も、つらい。悲惨。悲しい。


更にその後・・
井伊直政の死後、『佐和山城解体』 
戦国時代の数々の戦いの中心になった『名城・佐和山城』・・その歴史に幕を閉じました


  『初めがあり終わりがある』 有限な被造物の理です。


井伊直政嫡子・直継は・・
彦根城築城計画を引き継ぐ。 天下普請によって彦根城を完成させる。
慶長11年(1606年):完成した『彦根城天守』。直継が移る。 同時に『佐和山城』を廃城。
元和8年(1622年):『彦根城』全体の完成。


    『彦根城』は、あちこちの合体物です。


『彦根城天守閣』次女「初」が嫁いだ京極高次の、『大津城の天守』、を移築。変身

徳川家康は、大津城天守を『めでたき天守』として彦根城築城の際、天守として移築させたといわれています。

『彦根城天守』から、『佐和山城跡』小山が一面に見える。
 
左奥の高い山は『伊吹山』 三成が、敗戦後、徳川側に捕まるまいと、必死に、最初に逃げた山
 毎日・・井伊直継。 どんな気持ちで、二つの山を、眺めたのでしょう

    戦国の世はつらい。


『彦根城西の丸三重櫓』三姉妹の生まれた浅井家の『小谷城」を移築。変身

 白壁で直角にそびえる『三重櫓』 大変美しい。
『西の丸三重櫓』 彦根城の天守の西に位置し、琵琶湖岸からの要塞としての役割、を果たしていました。

太鼓門櫓石田三成の居城『佐和山城』を移築。変身



『彦根城』『近江1300の城』を移築。変身させました

江戸時代までに近江には、およそ1300にも上る城、が築かれた。
天守や櫓などの建造物。 現在も残っている城は、『彦根城』ただ一つです。
戦国時代には、攻め落とした城は、次の城を築くために、部材等が使われていきました。


  終わりのある人の人生。そして 終わりある城の命。
どんな形に変身してでも、残され記憶されていくのは、嬉しいものです。

 
『彦根城』は『近江1300の城の集大成』。敵も味方も『城』の形で一体になった。ということができるのではないでしょうか?検証結論


   彦根のポスト

 彦根城が乗っかっていました。さすが!


  2人の旅も終わりました。感謝!感謝!
実は・・彦根博物館と玄宮園も訪問。でもブログではパス。

 お疲れ様でした。ありがとうございました