駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

劇団た組。『今日もわからないうちに』

2019年08月31日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2019年8月28日19時(初日)。

 恵(大空ゆうひ)と一志(鈴木浩介)、中学二年生の娘・雛(池田朱那)で暮らす大西家。恵は妻を亡くした実父の一郎(串田和美)に毎月金を渡している。一志は出会いカフェで出会った女の子・吉田(山谷花純)に毎月金を渡している。ソフトボール部の雛は新しいグローブが買ってもらえない。ある日、恵は父のお金を稼ぐパート先の主婦友達とのランチをした帰りに、家への帰り道がわからなくなる。「家」だけを忘れる記憶障害になったのだ…
 作・演出/加藤拓也、音楽/谷川正憲(UNCHAIN)。全一幕。

 何度か言っていますが私はナチュラル日常会話が続くタイプのナチュラル芝居が嫌いで、それは私がもっと論旨明晰にしゃべってとっとと話を進めんかい!とイライラしてしまうからなのですが、実際には人ってこういう感じにダラダラしゃべるよねとも思うし、そういう会話を舞台の脚本として書ける劇作家の脳ってどういう構造なんだろうなあ、きっと私なんかとは全然作りが違うんだろうなあ…と感心したりはします。まあ私は劇作家では全然ないんですけれどね。あとこういう会話を書く人は意外とこうはしゃべらないんじゃないかな、とも思ったり。すっごく無口だったり、ものすごく理屈っぽい話し方をする人だったりするんじゃないかしらん。ところで「劇団た組。」の舞台はいつもこういう感じなんでしょうか? 私は初めての観劇でした。
 それはともかく、こういうなチュラル日常会話劇を演技でする役者ってまたすっごく大変だろうなすっごく難しい技量がいるのだろうなと思うのだけれど、出てくる人みんな達者で仰天しました。またこのサイズの舞台、作品にしては登場人物が多く役者の数も多く、その贅沢さにも驚きました。贅沢なことはいいことです。
 そしてヒロイン、主役と言っていいであろう大空さんよ! 素晴らしかった!!
 いやファンがスターの何を知っているんだよと言われてしまえばそれまでですが、でも私たちファンは知っているつもりでいるんですよ大空さんが恵みたいな女性では全然ないってことを。でも、恵その人に見えました。もしかして大空さんが結婚して中学生女子の母親になったらこんなになるの!?ってくらいのリアリティがありました、すごい。こんなじゃないはずなのに、こんな経験だってないはずなのに、そう見えました、すごい。
 そして恵はなんということもないごく普通の主婦、妻、母親で、すごく魅力的なキャラクターだとかいうことも特にないはずなのだけれど、そのリアルさゆえに観客に親近感を抱かせ、感情移入を誘っているなと思いました。その吸引力も役者の力量なんだろうし、大空さんの芝居はずっとずっと好きでしたが、改めてすごい、と驚倒し感動させられました。引き寄せられ、集中させられました。これは記憶を巡る物語で、大空さんが宝塚歌劇の男役だったこともトップスターだったことも忘れられないし忘れたくないことですが、それとは別に、今の女優姿が素晴らしいな好きだな、と改めて思ったのでした。
 しかし私は妻でも母親でもなくその意味では「娘」に一番立場が近く、またこの雛役の役者も上手いので、だんだん今度はこちらの立場になって泣いちゃいそうになったり、でももっと話が進むと恵が「娘」であったころの事件に事態はそもそも起因するのでは、と思うと再び恵に気持ちが沿って怒り暴れたくなり…と、とにかく心震わせられる舞台でした。
 ただ、オチがわかりませんでした。
 大西一家の家はよくあるごく普通の家庭に一見見えて、けれどすでにして最初からちょっとおかしくて、椅子が倒れていたりするのを登場人物たちが芝居とともに正しく立てたりなんたりするのはいいとして、冷蔵庫が寝ていてソファやベッド代わりに使われているのは明らかに変だし、洗濯機がキッチン代わりになっているのは異常です。この家族は、どこにでもあるごくごく平凡な一家のようですでにして歪んでいます。だからこそ恵は発病するのです。
 後半突然舞台奥に現れる愛人の家がまた異常なのです。そもそも今どきのこれくらいの年齢の男性が若い女を囲えるほどの金を持っているのかが怪しいものですが、まあまあ若いらしい劇作家にこれはリアリティがあるのかしらん。さらにこんな若く美しい愛人が金はいらないがつきあいは続けたいと言うとかありえるのかしらん、それごとファンタジーでそもそもこの舞台の物語は幻想なのかしらん。ひとり暮らしだとしても実家住まいだとしても今どきあんな家具であんな暮らしをしているあれくらいの年齢の女なんざ存在しないでしょう。でも手前の大西家よりは整然としていて豊かですらあるように一見見える、その嘘寒さはいいなと思いました。
 でも、オチがわかりませんでした。
 途中、耳障りなくらいに笑う男性の観客がいたのですが、どこに笑っているのかさっぱり私にはわかりませんでした。一郎の言動にもそれにおたおたするだけの一志にも私はイライラするばかりで、さっさと手を下した雛に快哉を叫びたいくらいでしたが、男性はやはり男性キャラクターに感情移入してさもありなんと笑っちゃえるのでしょうか。私は自分が子供の頃に祖父母と疎遠で、たまに家に来られたときにも家族と思えずに居心地の悪い思いをした経験があるので、断然雛派でした。ましてもしも恵の母親がそんな状態だったとしたら、たとえばこれは女性に遺伝するとかそういうものなの?とかも思うと怖くなってなおさら怒り暴れるしかなくなるし、そうでないにしても記憶障害とかアルツハイマーとか認知症とかってまあまあ身近な病気かもしれず、脳天気に笑っていられるはずはないだろうとしか思えなかったのですが…
 なので殺して埋めるんで全然いいと私は思いますが、しかし死体は穴に見立てられた冷蔵庫に中途半端にしまわれ、冷蔵庫の扉が閉まらず、親子3人がうんうん唸って閉めようとしても閉まらない様をかなり長く見せたあとにやっと暗転になって舞台は終わったのでした。
 …オチがわかりませんでした。
 記憶こそがその人を作り、人と人との関係性を作る。忘れてしまったら血のつながった家族ですらバラバラになりかねない。その怖さ、もろさ、はかなさ、だからこその愛しさ、尊さに涙した中盤から一転、そもそもそんな障害を引き起こすようなトラウマが恵にあって、それもまた母親の記憶障害に原因があった事件だったのだとしてもやはりひどいことで、そのせいで恵が壊れ今また雛の目の前から失われそうになっているときに、とりあえずなんの解決にもならなくても大元の人を殺して埋めてなかったことにしたくなるでしょう人は。だから雛は正しいよ、雛の行動はたとえ衝動だろうと正しいよ。このときのために恵から幼き日にソフトボールを習ったのだと言ってもいいくらいです。
 ただ、そうは言ってもそれだけではすまされないのが世の中というものだし、だからこそどうオチをつけるのかを楽しみに観ていたのですが…私にはオチが理解できませんでした。何を表してしるのかわかりませんでした。一家が一致団結してよかったね、ということでもあるまいし、ないことにしてしまえることなど何もないのだ、ということでもないようだったし…
 私には、わかりませんでした。それだけが残念です。私はなんでもわかりたい派のので。わからなくてもいいんだ、とかがわからないので。舞台として、作品として、物語として、オチが、結論が、意味が、私は欲しいのです。なので残念でした。





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霧矢大夢25th Anniversary Dinner Show

2019年08月27日 | 観劇記/タイトルか行
 第一ホテル東京ラ・ローズ。2019年8月25日14時。

 構成・演出/三木章雄。出演は他に彩星りおん、中原由貴。この回のゲストは蒼乃夕妃。

 私は93年初観劇なので、きりやんたち80期以降は初舞台から観ていることになります。東京公演ですが『ブラックジャック/火の鳥』、観てますしね。ファンになりたての当時、花組の下級生ではコムだのオサだのアサコだのきりやんだの、華があって優秀な人が多いなあなどと思っていたものでした。月組に移ってからも観ていましたし、トップ時代も『ジプ男』から『エドワード8世』までまあまあちゃんと観ていました。きりまりコンビ、本当に良かったと思っています。なので元きりやん会のお友達にお取り次ぎをお願いして、いそいそと出かけてきました。

 開演アナウンスがなんと初舞台時の花組組長のマヤさんでまず大笑い。で、きりやんが黒紋付きに緑の袴で登場するものだからまたまた微笑ましくて笑いました。OGでもいつまでも生徒なんだよね、いいなあタカラジェンヌって。
 で…あとは、細かいセトリとか順番とかは忘れましたが、りっちーより意外やゆうきの歌の方が良かったことと、まりもがベビーピンクのオフショルダーのマーメイドラインのドレスで登場してめっちゃザッツ・娘役!でそのいじらしさにキュンキュンして、でも出番は意外と短くてちょっと残念で、髪をアップにしてヒール履いちゃうときりやんより背が高くてでももう膝折芸はしなくて、きりやんは確かこのときは白スーツで男役っぽくはしていたけれどハンサムウーマンふたりって感じでとても素敵で萌えまくりました…というあたりが印象的でした。
 きりやんが語るまりもは本当にがんばり屋さんで、組んでいるときは男役に負担をかけず、離れて踊るときに限ってひとりで転んでいたりする…という微笑ましいものでした。
 きりやんは卒業して今や立派なミュージカル女優さんですが、ついつい男優さんを見ちゃう、ということで、りっちーやゆうきにイライザを歌わせて自分はヒギンズを歌ってみせたり、義母役だったのにピピン歌っちゃったりしちゃうの、すっごく良かった! また上手いしね当然なんですけど!!
 宝塚コーナーもたっぷりで、柴田先生の思い出に『紫子』を歌い、「退位の歌」はやはり名曲でこういうサヨナラ公演とその主題歌を持つことって財産だなと感動し、リベルタンゴで踊るくだりではミハルの歌声が脳内で流れジェラシーで踊るときはナツメさんやコムちゃんの幻が沿いました。長くファンやってると何重にも楽しめるものですよね…!
 次の25年もよろしくお願いします、と最後におそらくは古いおつきあいのファンの方に言っていて、私も向こう50年観る気でいましたがそうだよねまずは25年!と気を引き締めました。すごく贅沢な時間を楽しませていただきました。






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『青薔薇呪文』初日雑感

2019年08月25日 | 日記
 宝塚歌劇花組『A Fairy Tale/シャルム!』大劇場公演初日と2日目11時を観てきました。2日目11時が友会で当たったので、なんとか初日のチケットも工面して、みりお担の親友と出かけてきたのでした。
 毎度言わせていただいていますが、現時点でのごく個人的な感想です。ただし珍しくネタバレしていないので、未見の方でも興味あればお読みいただいても問題ないかと思います。ただしまったく褒めていません。予断を持たずにフラットに観たい方は観劇後にお読みいただければと思います。あと、ネタバレしていない、と言うのは、残念ながらこの作品にはバラすようなネタがない、というかストーリーがない、という意味です。そういうことは語ってしまっています、すみません。

 私は、回想はストーリーではないと思います。少なくともこの作品では起承転結の形にはなっていないと感じました。なってなくてもおもしろきゃもちろんかまいませんけどね。でも「時は金なり」とか言いながら何十分経っても話がまったく始まらないので、そして話がないままに終わるので、さすがに呆然としました。大合唱でいいこと歌ってむりやり感動させておしまい、ってのはどうなんだ…
 この作品にはイメージとメッセージしかなくて、キャラクターもドラマもストーリーもない。だからつまらないというより、何を見せられているのかよくわからないままに終わった気がしました。いやメッセージは十分伝わるんだけどそういうことはストーリーを通して感じたかったのであって、直接表現するのってダサいです。そして単にイメージだけを展開したいのなら、ショーにする方がよかったのではないかしらん…?
 たとえば『エリザベート』って全体がルキーニの回想というか妄想というか、な構造になっているわけですが、そういうことでもない。むしろ『壬生義士伝』なんですよ、アレは鹿鳴館メンバーが本編を回想する形になっているじゃないですか。そして鹿鳴館パートいらなくね?って観たほぼ万人が思うじゃないですか、アレなんです。しかも『青薔薇』は鹿鳴館パートにみりおとれいちゃんがいて、回想される一応本編らしきパートに華ちゃんがいるのです。トップトリオがそんなふうに時空を分断されて、有機的なドラマやストーリーが作れるわきゃないと思いません? そして実際に作れていないのです。そういう構造の舞台になってしまっているのです。だから風が吹いているとかなんとかのレベルではないのです。久々に、直しようのない、手を入れようのない、ハナから全ボツだなという作品を観た気がしました。残念です。
 
 「おとぎ話の終わりはきっとHappy End」、稀代のトップスターの卒業にかけて、また宝塚歌劇そのものの在り方にかけて、いいテーマですね。これは認めます。
 王子様と王女様が結ばれ、悪が滅び正義が勝つおとぎ話を信じる童心を大人になっても持ち続けることの大切さ、わかります。
 実利主義、功利主義、損得ばかりの金勘定優先で環境汚染を垂れ流す機械文明は悪。わかります。科学がすべてではない、科学では解明できないこともある。そうですね。
 誰かのために生きることは尊いこと。そうですね!
 でもそんなこたぁ改めて言われなくてもみんなわかってるから。そういう青臭いことを青臭いまま教科書レベルで言われてもそれは私たちはもう学校を卒業したので、こういうところであえてやってくれなくていいんですよ景子先生(この「先生」は「教師」の揶揄です)。景子先生は優等生で周りがみんな劣等生に見えて自分が言ってあげないとみんなわからないからって思いがちですよね、私もそういうところがあるからホントわかるし自戒したいんだけどホントそんなこたぁないから。自分はそんな特別じゃないから、自分がわかっていることは周りもわかっているから、教えてあげようとか大丈夫だから余計なお節介だから。そんなことよりなすべきことをなせ、って風が言ってたよ?
 あと、かつて女性が働くことははしたないことだとされ女性が書いたものは読んでもらえないので男性のペンネームで発表するしかない時代があったけど自分はがんばってきたので今やそんなことないよかった、とかわざわざ言うのも、それはそれですごく褒めてあげたいけどそれで書いたのがコレなんだから言わない方がよかったねってなるからホントやめて?
 この作品には、みりおの尋常ならざる美しさは喩えるなら薔薇の精だわ、というイメージと、それにかこつけてアレコレ乗せた青臭いメッセージしかありません。あとは精霊の設定も中途半端ならシャーロットやハーヴィーのキャラ立ても中途半端で、ストーリーは作れていません。エリュとハーヴィーが出会った時点でほぼほぼ終わっている過去を語るだけの話だからです。
 プログラムをよくよく読めば物語の種はいろいろあるんですよね。それに水をやってきちんと育てる緑の指が、劇作家としての景子先生にはなかったんですね。イメージとメッセージは創作のスタートとして大事だけれど、そこから始めて真に創作すべきはストーリーであって、それをミュージカルとして舞台で観客に見せてメッセージを感じさせてやっとゴール、でしょう。でもそれができていません。
 宿題が終わらなくてとりあえず途中で出した夏休みの子供なのかな景子たん…
 何度も何度も書いてきましたが、私は景子先生にものすごくシンパシーを感じているのだけれど(世代とかいろいろイロイロ近いんだと思うので)ホント私はクリエイターにならなくてよかったな一介のファンでよかったなと思うのは、うっかりなっていたらうっかりこういうものを作りそうな自分が見えるからで、そしてそれを現にやっちゃってる景子先生が痛いからです。こういう言い方しかできなくてホント申し訳ありませんけれど、ホント本心なのです。せめて漫画家とか小説家であれば編集者やプロデュースしてくれるビジネス・パートナーが得られたろうけれど(私はそういう業界に就職したのでそれがわかるのです)、宝塚歌劇団の演出家にはそういうシステムがないらしいので、本当に残念です。

 さて、私と親友は出演者でも関係者でもなんでもないのに勝手にふたりで初日乾杯をし、勝手に善後策ブレストを始めました。私はともかく親友は今後も何度も観劇予定があるので深刻です。もちろん芝居は寝てショーだけ観る、とかがてっとり早いわけですが、どういうストーリーにしたらよかったのかを請われてもいないのに考え出してしまうのが私たちの性癖なのでした。ここで「やっぱ三島をやるべきだったんじゃないの?」「『金砂漠』はよかったなー」とか言っても仕方がないので、「みりおに青い薔薇の精をやらせる、それは決まっている。で、どんなお話にするか?」という縛りで考えました。
 ちなみに親友は私より全然オタクじゃないしクリエイター気質でもないのですが、彼女が幕間開口一番に言ったのは「私に忘却の粉をかけて」で、彼女のこういうところが本当に天才的だと思うのでした。で、彼女がものの一分で思いついた答えは「いろいろあって最後にみりおが青い薔薇の精になって全人類の贖罪を負って幕」でした。天才か!
 私は演目発表時にあらすじを何度読んでも目が滑って内容が頭に入ってこなくて、なんか『ポーの一族』にインスパイアされて、というかなんかあんなようなことをやりたいってイメージだけしか伝わってこなくて、とにかくヤバそう、なんかヘンなパクリみたいになりませんように…とずっと勝手に危惧していたんですけれど、親友はむしろ「やるなら『スター・レッド』だろう!」と言っているわけです。その発想はなかった、そしてその方がみりおに似合うかもしれません。
 登場人物始め、私たち愚かな人類の罪を一身に背負ってみりおが薔薇の精に堕ちることで神の人類への怒りを解いてくれるの、私たちがいつかもっと賢く優しく善良になれたら呪いは解かれてみりおは再び人間に戻れるの、でも今はこんなことになっちゃってごめんなさい、私たちが愚かで醜くてごめんなさい、さようなら美しい人よ、またいつか会える日を信じて、永遠に愛しているわ、そして涙々の幕…いいと思う!
 みりおはもちろん華ちゃんへの愛ゆえになんか悪いことをしちゃうんですよ、そして華ちゃんを救うために、そして自分の罪を贖うために薔薇になることを選ぶわけですよ。たとえばみりおが庭師の甥で庭師に引き取られてお屋敷のお嬢さんの華ちゃんと出会って恋をして、でも華ちゃんはあとから現れた植物学者のれいちゃんに惹かれて、妬いたみりおがなんか事件を起こすんですよ。そういう恋愛や葛藤のドラマを観たい。そんでその事件の収拾のために、犯した罪の罰として、薔薇になるの。愛のために人間でなくなるのですよ! いいと思う!!
 それでそれは、それまで人間たちを見守り物言わぬ精霊としてチラチラ舞台にいたほのちゃんと入れ替わることにする、ってのはどう? ほのちゃんもまた、かつて罪を犯しその購いのために薔薇になった人間でずっと世界を見守ってきていて、今度はみりおがその役を引き受けるからほのちゃんはやっと人間に転生できるの。そんで新公主演なの、エモくないですか!?!?
 まあ自画自賛で盛大に盛り上がりましたよね私たち…
 それからしたら私の発想はやっぱり普通で、エリュがハーヴィーをナンパ(笑)した時点をシャーロットがお嫁に行って北部に移って消息が知れなくなった直後くらいにして、れいちゃんが華ちゃんと出会ってびっくから救って恋に落ちちゃってみりおどうしよう、みたいな三角関係でどうにかすべきだったんでは?程度のことしか思いつきませんでした。それか、れいちゃんには婚約者で画家のしろきみちゃんがいるんだけど仕事が忙しくて全然会えていなくて、彼女は庭木の絵を描いているうちに庭師のマイティーに惹かれちゃうのよ…
 凡庸ですね、でもこの方が現行脚本よりなんぼかマシやろと思います。

 この程度のブレストはしましょうよ。そしてキャラクターとドラマとストーリーを作りましょうよ。イメージとメッセージだけではお話にはならないのです。それか青い薔薇がテーマモチーフで美しい場面が次々に歌と踊りで展開されるショーにしましょう。というか景子先生が作るショーは普通に観たいです。
 サヨナラ公演に名作なし、とは常に言われることですが、大空さんの本来ならサヨナラであったろう公演にまがりなりにも『クライタ』を書いてくれた景子先生には本当に感謝しつつ、あれは奇跡だったんだなとしみじみするしかないのでした。ホントにホントに残念です…
 いや泣いてる人はいたしたとえばみりおファンの大多数がこれでいいこれがいいと言うなら、もちろん私は外野なのでもう何も言いませんけれどね…いや多分言い続けますけどね、すみません…

※※※

 さて、それからするとレビューロマン『シャルム!』はまあわりと手堅いいつもの稲葉ショーかなと思います。パリの地下道、という縛りがあるのは私は好きですし、川底衣装がヘンな方に走りすぎることもなかったと思いますし、組子みんなで白いお衣装でみりおを囲む場面があるのもベタだけどいいし、黒燕尾ももちろんいい。サヨナラ仕様もいい感じだと思います。
 ただ、総論としては、やはりごく凡庸なショーかなとも思います。たとえば『宝塚幻想曲』とかの方が作品として上質だったのではないかしらん…
 そしてそれより何より驚いたのが、スターの扱いというか番手というか、要するにここでこの形で劇団が提示してきた新体制についてのことです。以下またつけつけ書くので、センシティブな方は以後は自分の目で観てから読むことにしてください。

 私は先日の組替えについて書いた記事でもあきらは別格扱いのままなのだろうとしていましたし、この初日前日にカレンダーの発表があってスターカレンダーやパーソナルカレンダーにあきらがいてもまあ暫定的にこうするしかないよねとしか思えなかったんですけれど、『シャルム!』を観たら…観たら…「ええええぇっ!?」だったんですけれど、え? 本当にそういうことなの? それでいいの? ファンはそれでいいの??
 ぶっちゃけ今まではちなつがいたから、あきらはちなつとシンメで別格扱いだったじゃないですか。マイティーはれいちゃんとシンメでこちらが路線、二番手スターと三番手スターに見えました。マイティーは新公主演こそ滑り込みだったけれど(それで言うとあきらもだけど)、ちゃんと『Senhor CRUZEIRO!』をやらせたんだし、劇団は起用する気があるんだと思ったんですよね。つまり路線スターとして、将来のトップスター候補として、という意味です。
 あきらの二度目のバウ主演、しかも東上付きの発表はそりゃ驚きましたが、上級生だしこれが餞別かなとか、わりとみんな考えちゃうじゃないですか。ここを若手バウでごまかすのは『Dream On!』でもうやっちゃったし、マイティーの二度目の主演がまだ早いというなら他に仕方ないよね、みたいな。ただ私は、だったらせのほのダブル主演とかぶっ込めばいいのに…とは思いましたけれどね。私は人事はもっと早巻きにしてみんなもっと若くしてトップにさせ若いうちに卒業させて第二の人生に旅立たせてあげるべきだと思っていて、路線スターは新公を卒業したらもう三番手、くらいにしないとそう流れていかないよ、新公卒業すると本公演では役がつかず番手は五番なんだか六番なんだか…みたいな数年がファンにも生徒にもしんどいんだよと考えているので、もう100期をバンバン使っていくべきだろうと思うのです。すでにもう102期新公主演が出ているんですからね。もちろんだからこそ誰をどう起用し育成し抜擢していくかはより慎重に繊細にしていただきたいわけですが。
 で、ひとこの組替え発表があって、さてどの位置に置くのかね、まあ二番手にするにしてもマイティーは三番手ならポジション据え置きってのはわりとあることだし降格じゃないんだからいいのかな、下級生に抜かれる例は最近増えているし遅咲きでもなんでも最終的に咲けばいいんだよ、とかいろいろ案じていたわけです。もちろん学年から考えて自然なことに、マイティーが二番手でひとこが三番手でも、ひとこからしたら雪組からの栄転だからそれもアリなんだろうし、トップと二番手が同期だったことは過去にもあるのでれいまいもアリだろう、とかね。
 が、ちなつが抜けた『シャルム!』では…みりおがいて、二番手スターで次期トップ就任発表済みの誰もが認めるれいちゃんがいて、それであきらとマイティーがシンメでした。あきらは上級生なので常に上手(かみて)、つまり上位にいます。マイティーは常に下手(しもて)で、学年のためというよりダブル三番手の下席にいるように、ポジションが落ちて見えるのです。
 まずプロローグの立ち位置が完全にそうでした。銀橋渡りの順はなんとでも解釈できるかなとは思いましたが…
 続くキャバレー場面はあきらの場面というよりはしろきみちゃんの場面で、あきらはその相手役にすぎない…のかもしれません。が、次のスーツでタンゴの場面にまたみりお、れいちゃん以下並ぶので、あきらの方がいわゆる三番手ポジにいてマイティーが四番手ポジにいるように見えます。からの中詰めの銀橋渡りはマイティーがしろきみちゃんととっぱしの露払いを務めただけでひとりでは渡りません。あきらはもちろん渡るのに!
 レジスタンスはれいちゃんの場面であきらもマイティーも出ません。そこで死んだ華ちゃんを迎えに来るのがマイティーで、そこから白いお衣装で全員勢揃い場面になるのでやはり並び方はあきらが上位。さらに、つなぎのような場面にも見えますがあきらがソロでピンで歌って銀橋渡り。そこからはフィナーレで、娘役さんたちに囲まれるみりおから始まって華ちゃんが現れてデュエダン、黒燕尾の男役たちが下りてきて群舞ですがそれもセンターがれいちゃん以下3人でれいちゃん、あきら、マイティーの順にピンスポが当たりました。みりおが加わってからも並び方は以下同文。
 パレードは学年順とも考えられるからなんとも…ですが…(ちなみにしろきみちゃんをちゃんとソロ歌付きでひとりでセンター降りさせたのは英断ですが当然です。新公ヒロインもバウヒロインも何度も務めてきた、人気も貢献度も高く華も実もある娘役さんに対して、ここで報いずしてどうしましょう。そもそもエトワールとトップ娘役以外に娘役がほぼセンター降りしない、しても若手男役とふたりないし3人で、とか娘役の扱いが悪すぎです。卒業の餞別なんかでなくてもポジションに応じて娘役ももっとセンター降りさせるべきなのです)
 というわけで…次代の花組はれいちゃんと華ちゃんのトップコンビなのは発表済みなわけですが、二番手はあきらなの…? そんでひとこがマイティーの上だか下だかに来るの…?? えええぇ…???

 ちなみに次代の星組についてはこっとんコンビが発表済みですが、専科から異動してくる愛ちゃんが二番手になるんだろうなと私は勝手に考えていて、なのでせおっちは三番手です。今の公演でかいちゃんなきあとの三番手をしっかりピンで務めていて、そのまま、ということですね。
 そして愛ちゃんはこっちゃん卒業後のトップ就任の芽があると私は踏んでいます。93期は咲ちゃんキキちゃんといてそれぞれトップになるだろうし上手くしたら時期が揃うだろうしせおっちは待てると思うし愛ちゃんにはそれだけのものがあると私は思うし劇団もそう判断したのではないか、と私は考えているからです。そして組の二番手スターって、トップスターさんの次にカッコいい人でトップスターさんが卒業したら一番になる人であってつまり次期トップスターである、というものだと私が考えているからです。
 けれど、では花組で、次にれいちゃんが卒業したら、あきらがトップスターになる、の、か…? ぶっちゃけそんな育ちだったか今まで…??
 でもではトップにならないとしたら、二番手で辞めるってこと? みやちゃんのように? あれだけ非難囂々だったのにまたやらかすの劇団??
 イヤ私はユミコの例もあったし遡ればルコさんの例もあったし、それ以前はトップとか番手とかがもっと流動的だったからなおさら混沌としていましたが、とにかくそんなわけでみやちゃんの件もいろいろあったんだろうし正確な経緯とかはもちろん知らなくて類推するだけなんだけどまあとにかく仕方なかったんじゃないの、とか思っているのですが、だからこそ劇団には今後はもっときちんと路線を引いて、せめて二番手にしたならそれは次のトップだよってことにしようよ、と思っていたのです。なのに…ええええぇ?

 ファンの方には外野が本当にすみません。でもだいたいのところみんなこんなことを心配しているのではないかしらん…?
 生徒がみんな、実力と魅力と個性を発揮してそれぞれ輝き咲き誇り、幸せでいてくれますように。ファンがなるべくたくさん幸せになれますように。一介のファンとして、私は演目の出来、不出来を心配する以外のことはなるべくしたくないです(てーか演目の不出来を心配したくないよ良作ちゃんと並べてくれよ劇団!)。私は宝塚歌劇のスターシステムはよくできていると思うし、ここに人気の一端はあると考えています。けれどだからこそ、不透明だったり理不尽だったりする人事のアレコレは避けていただきたいのです。花園をまた100年存続させるためには、大事にしなければならないことがけっこうたくさんあるはずですよ…
 頼みますよ、劇団さん……


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『エリザベート』

2019年08月24日 | 観劇記/タイトルあ行
 帝国劇場、2019年6月11日18時、8月21日13時。

 東宝版前回観劇の感想はこちら、直近の宝塚月組版感想はこちら
 私は特に『エリザ』ファンではないし帝劇『エリザ』ファンでもないので、素直にちゃぴ目当てで(笑)出かけてきました。ちゃぴシシィ以外のキャストはなるべく違う人を観たかったので、一回目の観劇ではトート、ルキーニ、フランツ、ゾフィー、ルドルフがそれぞれ井上芳雄、山崎育三郎、平方元基、香寿たつき、木村達成で、二回目が古川雄大、成河、田代万里生、剣幸、三浦涼介でした。二回目はちゃぴのお誕生日当日だったんですねえ、めでたやな。
 一回目に観たときには、帝劇『エリザ』が久々で、宙組に月組と続いていてもう一生分観たと思っていたけれど意外とその差異がおもしろく思えて、かなりのめり込んで観てしまいました。二回目の方がどセンターの観やすいお席だったにもかかわらず、自分のコンディションのせいかはたまたキャストに合わせて演出が多少違うせいか、ないし一回目から日がかなり経っていてちゃぴの演技も少し違って感じられたからか、「こんな話だったっけ? てかヘンな演出で何を見せたいのかよくわからんな…?」と混乱したままに終わりました。不思議なものですね。
 何せ私は来日版とか現地版を観たことがないので、本来どういう作品であるのか、とかは全然語れないのですが、宝塚歌劇で上演するにあたりトートを主役にしシシィとフランツとの三角関係に仕立てたイケコは天才、かつその翻案は正解だったと私は考えています。ただ、外部でやるならシシィが主役だし、トートとのラブストーリーにしない形ももちろん成立すると考えています。そういう意味で帝劇版も楽しく観ていますし、今回の一回目観劇が今までで一番納得できた、気がしました。

 やはり一番感動するのは「私だけに」かなあ。帝劇版を前回観たときのことを綺麗に忘れているのですが、枕元の聖書だか詩集だかに挟んだペーパーナイフで自殺しかけるのは宝塚版オリジナルだったんですね? 帝劇版にはないんだ!ということにまず驚き、それもいいな、その強さ健やかさがいいな、さすがちゃぴだなと思う一方で、もともとシシィってウィーンではかなりメランコリーなキャラクターだと捉えられているんだと、これはウィーン旅行をしたときの肌感覚なんかでも感じていたので、死に惹かれるとまではいかないまでも死に近い描写がもともとなくてあとから足されたものなんだ、ということを意外に感じたりしました。
 死にかけて、死ねなくて、「なんで私が死ななきゃなんないのよ」と切り替える、のではなく、ひとりになってちょっと冷静に考えて「なんで私ばっか従わなきゃなんないのよ」となるシシィの方がいいな、と私には思えたのです。
 その前のバートイシュルでのフランツとの「嵐も怖くない」で、宝塚版と歌詞が違ってわりと最初からふたりが違うことを歌っちゃっているのがそもそもいいな、と思うんですよね。宝塚版だと、あそこでフランツはちゃんと王室の義務とかいろいろ言い聞かせてるじゃん、それを承知でシシィも嫁いだはずじゃん、なんで自由に生きたいとかあとからわがまま言うの?って感じになりかねない流れがありますよね。初演から21年、世相が変わっているせいもあってその空気はますます強くなってきているように私には感じられます。昔の方がシシィの生き方は観客に素直に受け入れられやすく、今はわがままで考えなしだと言われやすいキャラクターになっている気がします。
 でも帝劇版では、フランツが王族の義務や生き方を歌う一方で、シシィはシシィの望みを変わらず歌っていて、ふたりして最初から「一度私の目で見てくれたなら」と言い合っています。そう、フランツの方だけが正しいのだ、なんてことはないはずなのです。王族に生まれた以上国家と臣民のために個を犠牲にして働くべきだ、という考え方がある一方で、王族に生まれた者自身がまずハッピーでなければ国民を幸せにすることなどできない、やりたいことも我慢して不幸せなままでいい為政者になどなれない、私は乗馬をすると幸せになれる、だから「馬に乗ります」…というのもまた、正しい考え方なのです。
 けれど一般的に女子供の意見って取り上げられにくいじゃないですか。黙殺されがちです。そして年長者が、ないし男性が、女にだけ意見を押しつけてくる、服従を強いてくる。それに対してシシィはなんで?と怒っているだけなんですね。それはものすごく自然なことに私には思えました。この怒りは、ちゃぴがやっているせいもあるかもしれませんが、『BADDY』のグッディ怒りのロケットと同じものだと思うのです。
「私だけに」って、これまた原詞を知らないので勝手な解釈で語っていますが、そして日本語訳としても今ひとつこなれていない訳だといつも思うのですが、これは生命についてももちろんそうなんだけれど、「私は私のものなので、誰からも何ものからも侵されないものなので、ちゃんと尊重してください、そこから始めてください」という人権の歌なんだな、と今回私は思ってしまったんですよ。特に女は、こうして声高に歌わないと、女にも人権があることすら思い起こしてもらえないわけですよ。世間とか男とかに、です。でも、男も女も同じ人間で等しく人権があるのです。今の日本はそもそも誰の人権も尊重がおろそかなかなりヤバい国になりはてていますが、少なくとも『エリザ』のこの国この時代においてはそこまでではなく、ただ女性の人権が無視されがちだったのではないでしょうか。そこにシシィは怒り、抗議し、戦ったのではないでしょうか。
 彼女はただのわがままなお転婆娘などではなかったのです。「自由に生きたい、ジプシーのように」というのは、別に勝手気ままにやりたい放題したいという意味ではありません。人はひとりで生きているのではないのだから、誰かと暮らす上でルールや妥協や譲り合いは必要で、それはシシィだってきちんとかつ愛情深く躾けられた素直でまっぐな子供なのだから、必要があれば自分を曲げることだってちゃんとできるのです。いい大人になるということはそういうことです。
 でもそれは、その生活を共にする者同士が平等に、お互いを尊重し合い話し合い譲り合い合意して決定するものであるべきです。どちらかが一方的にただ押しつけられ縛られるなど、不平等で不当なことです。シシィはそのことに怒り、私を縛るな、私は私だ、私の話を聞けと叫んでいるのです。作品が違いますが「僕の叫びを聞いてくれ」なわけなのです。
 これは今なお私たちが聞き届けてもらえないでいる、私たちの魂の叫びです。それをシシィは、怯まず、あきらめず、大声で歌い上げている。そしてちゃぴはきちんと高音が出ていて、伸びやかですがすがしい。だから私は感動したのでした。

 そして帝劇版のトートは、シシィを宝塚版のような、ほぼ男女の恋愛に近い形で愛しているのではありません。木から落ちたシシィを迎え入れるとき、宝塚版であるような一目惚れめいた動揺を、帝劇トートはほとんど見せません。なのに「おまえの命奪う代わりに生きたおまえに愛されたい」とか、宝塚上演の際に増やされた「愛と死の輪舞」を歌うのは本当はヘンなんだけれど、まあトートはシシィに出会ってある種の感慨を受けはするので、ここはまあいいのかもしれません。
 私は芳雄トートは以前も観たことがあったので、今回は古川トートに期待していたのですが、意外や圧倒的に芳雄トートがいいと思いました。古川くんは弱い、優しすぎる、ソフトすぎる気がしました。ニンではない。むしろフランツが観たかったです。
 芳雄トートは偉そうでした。ザッツ王様、黄泉の帝王です。それが、ちゃぴシシィの、「私は私の主人なのであり、誰にも何にも侵されない」とすっくと立つ強さと呼応しているようで、ものすごくシシィとトートの表裏一体感を感じて、正解!と思えたのです。トートとシシィの関係は男女のラブみたいなものではなく、トートはもうひとりのシシィであり、人間が誰しも人生の最後に出会う死そのもの、死神その人、その人の死…であるように思えました。
 古川トートもシシィに恋していなさそうで、それはよかったんだけれど、ソフトというかただ薄ぼんやりとたたずまれると、強く輝き激しく戦うシシィと呼応していなくて、もうひとりのシシィとしてのトート、に見えなくて、あれれ?と感じてしまったのかもしれません。
 何度か誘惑に現れて拒否されて引き下がるときも、「まだ私を愛してはいない」のときも、このトートはフラれて落ち込む男のような真似はしません。なんかまだ機が熟していないんだな、とだけ判断してすっと退いている、ように見えます。だからこそ、シシィの真意の像みたいに見えるのかもしれません。ラストも、宝塚版の、最終答弁でフランツに図星を指されて動揺してあわててルキーニにナイフを渡す、みたいな流れではなく、それこそ今度は単に機が熟したのでルキーニにほとんど無造作にヤスリを渡す、みたいな感じなので、それもいい。最後はやっぱりシシィと抱き合いキスしますが、やっと想いが通じたラブラブハッピー!みたいな表情はもちろんしませんし、それはシシィもです。迷いながら悩みながら最後まで生き抜いた、ただ知らない人にたまたま刺された、だから死んでしまったのだけれど、そういう運命だったのだろうし受け入れよう、後悔がないわけではないがたらればを言っていたら埒が開かないのでこれで終わりとしよう…という、満足と諦念、みたいな薄い笑みを浮かべているように見えました。それが、おもしろいなと思ったしいいなと思ったのです。すべからく人生とはそうあるべきである、と思えたからです。

 ルキーニは、私が育三郎が好きだってのもあるかもしれませんが、育三郎ルキーニの方が好きでした。成河ルキーニはうるさすぎました…声量のことではなく、演技として。
 私には今回のお話はシシィのものに思えたので、これはルキーニの回想とか妄想なのだという枠組はいらないな、と感じたからかもしれません。あと、演出もちょいちょい違っていた気がして、成河バージョンの方が露悪的だった気がして、私はソフトな古川トートとの組み合わせで観たので、余計に違和感しかなかったのかもしれません。

 フランツも平方さんの方が好きでしした。万里生フランツは、あえてそういう演技をしているんだと思うのだけれど、声とかめっちゃまろやかだけど結局人の話を聞いていなくて頑固で皇帝の義務第一のつまらない男、に見えました。私はシシィはトートと恋愛しない分フランツとはがっつり恋愛しかつこじれてほしいのですが、このフランツだとなんかこじれるまでいかないな、と感じたのでした。平方フランツの方がもうちょっとシシィに譲ってくれそうな甘い優しい気配がありそうに見えて、でももちろんそうはならなかったわけで、そのすれ違いのせつなさがいいなと思えたんですよね。歌はもちろんどちらも達者でノーストレスでした。

 ゾフィーもたぁたんがよかったです。というか私はウタコさんの現役時代に間に合っていないのだけれど、すぐ下にカナメさんがいたこともあって、歌の人と言えばカナメさんでウタコさんは芝居の人だったのでは?という印象なんですね。なのでゾフィーをやるような歌唱力がある女優さんだと思えたことはなかったし、実際歌がけっこうつらく聴こえて、うーむむむ…となってしまったんですよね。たぁたんは歌も演技もさすがとても上手くてこちらもストレスがありませんでした。

 というわけで一回目の観劇の方がキャストは総じてよく感じられたのですが、ルドルフは三浦くんが素敵だったかもしれません。なんかすごくまっすぐ美しく立つ人ですね。体幹がしっかりしているというか。ビジュアルも端正で。望ましい、多くの人が考えるルドルフ像、な気がしました(まあ理想の、というか世界で一番のルドルフは私は贔屓でもう観てしまったのでそこは別格だし比べられないのですが)。
 でもなんか、「闇広」って別に妖しいナンバーでもなんでもないんだな…?という不思議な印象を受けました。いやキスとかちゃんとしてるんですけどね、でもなんか別にBLっぽくないな、という…(^^;)

 宝塚版にない場面や、歌唱でも細かいフレーズが違っていますが、シシィが地中海だかの島で「パパみたいになれなかった」と歌う短調は、寂しくて悲しくて染みましたね…
 逆に、ほぼ宝塚版と同じだけれどやはり心に響くのが病院場面かな。いまっちのヴィンディッシュが素晴らしいというのももちろんありますけれどね。
 結局のところシシィは、「自由に生きたい」とは言っていますが、本当にしたかったことは別にひとりで世界を旅して回るとかではそういうことではなくて、愛する人と家族になって楽しく仲むつまじく暮らしたかっただけなのではないでしょうか。シシィは自分の父親と家庭教師の浮気にも母親の不満なんかにも気づいていなかったのだろうし、自分が育った家に不服はなく、仲のいい家族だと思っていて、そういう家庭を自分も夫と子供たちとで作りたかっただけなのではないでしょうか。馬に乗ったり旅をしたりと楽しみつつも、政治や外交その他の王家の仕事もちゃんとやる、くらいの覚悟はあったでしょう。
 でも、アレもダメコレもダメ、ああしろこうしろと一方的に言われるだけで、自分の話を聞いてもらえず、子供たちも不幸に育っていくようで、もうどうしていいかわからなくなっちゃっていた感じなのかな、と思うんですよね。それでより不幸であるはずの病人を慰問することで自分を慰めようとするのかな、とかね。不幸ですよね、悲しいことですよね…「あなたの方が自由」には泣かされますが、その瞬間からだってシシィはいろいろふっきって本当に自由に生き出すことだってできないこたないと思うんだけれど、不器用で、やはりいろいろなことに囚われていて、できないんだろうな…と、せつなくなり、私はシシィのために泣くしかないのでした。
 美貌であるとか、生きた時代とか、もちろんいろいろ特異なんだけれど、シシィはやはりある意味で普通のひとりの女性であり、『エリザベート』はそんな彼女の生き様を描いたものなのだから、今なお繁く上演され女性観客の多くに支持されるのでしょう。だからやはり、ルキーニをヘンに使ってヘンに露悪的にしたりしなくていいと思うんですよね…なんか逆撫でするような演出があるのは気に障りました。人生の厳しさを表しているつもりなのかもしれませんが、そんなこたじゅうじゅうわかっている大人の女が観に来る芝居なんだからそんな余計な小細工は必要ないんですよね。そのあたりをわかっていなくて、おもしろいことをやった気になって喜んでいるんであろうイケコって、ホントただの男だしおバカだしお坊ちゃんなんだな、と思います。たとえば宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』を植G以外の演出家で観たいよ、と思うように、帝劇『エリザ』もぼちぼちイケコでない人に演出させてみてもいいのではないでしょうか。これはお友達が提案していたことですが、慧眼だと思います。別に観客は演出家目当てで観に来るんじゃないですからね。日本の場合はまずキャスト、そして演目でしょう。ましてここまで育ったタイトルです、別の演出家の全然違う解釈と演出のバージョンが生まれてもいい頃合いなのかもしれません。
 その上でまた、「死が人を愛する。だが、人が死を愛することなどあるだろうか?」と考えてみたい、と思いました。



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宝塚歌劇雪組『壬生義士伝/Music Revolusion』

2019年08月22日 | 観劇記/タイトルま行
 宝塚大劇場、2019年6月1日11時。
 東京宝塚劇場、8月8日18時半(新公)、20日18時半。

 幕末の動乱期。奥州盛岡、南部藩の足軽の子として生まれた下級武士、吉村貫一郎(望海風斗)は北辰一刀流の免許皆伝にして学問優秀、文武両道のもののふであった。美しい自然に囲まれた村で育ち、南部小町と謳われる娘・しづ(真彩希帆)を嫁にもらい、貧困にあえぎながらも藩に忠義をつくし、家族のために日々を懸命に生きる貫一郎。だが足軽の身では家族を守れないと悟った貫一郎は脱藩を決意する。目指した先は京、家柄や身分に関係なく腕に応じて俸給のある「新選組」だった…
 原作/浅田次郎、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子。

 原作小説は未読、映画も未見で観ました。それでも、大野次郞右衛門(彩風咲奈)との三角関係の在り方もいいなと思ったし、幼なじみで親友同士でも長じて立場が違っていってしまうことからくる相克のドラマもよかったし、史実だそうですが新選組の中でこうした生き方をした人を主人公にして物語に仕立てた原作者の手腕に感心しました。宝塚歌劇にするにも向いた題材だったと思います。
 ただ、鳥羽伏見の戦いから淀川、あたりでしょうか? 錦の御旗に対して急に吉村さんが抽象的でワケわからんことをわあわあ言い出して特攻感満載で負け戦につっこむ展開になるところで、おいてけぼりになりました。
 え? なんで? 吉村さんは愛する家族を食べさせるために、故郷に送金するために、せっかくの剣の腕を人斬りに使ってまで、同僚たちに軽蔑されようと嫌われようとかまわず、必死で稼いできたんでしょう? 家族を生きながらえさせ、自分も石にかじりついてでも生き延びて、いつかまた再会する、みたいなことを歌ってもいるじゃないですか。「♪俺を待つ故郷よ/俺は必ず帰る」「♪俺は死なない/お前のために俺は生きる」って、そういう意味でしょう? 彼のそういう生き様が、天子さまだとか幕府だとかのよくわからないものへ忠義立てしてるようで実はただ権力争いに明け暮れているような狂犬みたいな男たちから一線を画させているのであり、現代に生きる、主に女性の宝塚歌劇の観客にも理解でき共感でき好感が持てる男性像になりえたんじゃないですか。
 なのに何故彼はここでつっこんでいくの? 他の隊士たちみんなが一度撤退しようと言っているのに? 彼なら仲間を置いてでもこっそり戦場を逃げ出すとかだってしそうなものじゃないですか。傷ついている仲間に自分の飯を差し出すくらいはするとしても、仲間につきあって、というかむしろ先陣を切って、というかひとりで、負ける、死ぬとわかっている戦いに身を投じるとか、ありえません。彼は家族に送金するためにのみ生きていて、だからこそ死なないためにならなんだってする人じゃなかったのでしょうか?
 この豹変についていけなくて、以後咲ちゃんやきぃちゃんがどんなにいい芝居をしてくれても、泣けなかったのです…それが悔しいです。
 聞けば、原作小説にはもうちょっと説明らしきものがあるらしく、読めば補完できるし、今回の脚本・演出の改変だか省略だかが下手だよねってことで納得できるらしいんですけれど、ストーリーの起承転結の大事な転で話がねじれるから、その後のクライマックスの大阪・南部藩屋敷でのくだりにも全然泣けなかったんですよね。ここで何故今さら藩に泣きつくのかも私は全然わかりませんでした。どうせ死ぬしかないのなら親友のもとで死にたかった、とか、自分の死でなるべくたくさんのお金が家族の手に渡るようにしたかった、とかなのかもしれませんが、この類推で正しいのか私には自信がないのです。
 それくらい、吉村さんは途中でキャラ変しちゃっていて、人格崩壊というかキャラクターとして統一感が取れなくなっていて、物語をダメにしてしまっています。もちろんすべて劇作家の責任です。
 客席からはすすり泣きが聞こえてきたし、私だって泣ければ楽になれる、気持ちよくなれると思いましたよ。実際こういうふうにして死んでいく吉村さんが哀れでもかわいそうでもありましたし、無念だろうとも思いましたよ。でも、そこにたどり着く経緯に納得できないから、これで仕方なかったんだ、これしかなかったんだと思えないのです。無駄死にじゃん、言ってたことと違うことやってるじゃん、としか思えない。
 もはや組織のていをなしていない新選組なんかからとっとと脱走して、さっさと国に帰ればよかったじゃん、それか別の稼ぎ口を探すとか。なんとでもできたでしょう吉村さんなら、なんとでもしてきた人だったじゃないですか吉村さんは。それを覆すほどの力が錦の御旗にあったとしているつもりなら、それこそちゃんちゃらおかしいです。それはさすがに現代の日本人にわかるようには描けないことかもしれませんしね。なんにせよ劇作家の意図がさっぱりわかりません。だから萎えて、冷めて、泣けませんでした。
 そこ以外は、目をつぶれるのになあ…
 役者はみんな大好演大健闘しているのになあ。物語の額縁としての鹿鳴館部分とかも、生徒に役を与えるため、また暗転の間のつなぎとしてまあまあ役立っていましたし、長いとか芸がないとか台詞に品がないとかも黙殺していいと思える程度ではあった気がするのです。でも、とにかく肝心の起承転結の転がコレでは、ダメですよ。もう少しだけ丁寧に作っておけば、もっとずっと感動的ないい作品になりえただけに、もったいないです。ダーイシの罪は大きいと思いました。残念です。

 地味すぎる話になりそうなところを、ちゃんと吉村さんのキャラになって、でもちゃんとキラキラもできるだいもんはさすがでした。最初の銀橋ソロがことにいい。これだけでちゃんとキャラがわかるのがすごい。
 きぃちゃんは役不足だった気もするけれど、二役の演じ分けもさすがで、よかったです。この二役は舞台の醍醐味を感じて、とてもいいアイディアだと私は思っています。ここだけは演出家を褒めたい。
 咲ちゃんは途中出番があまりになくてハラハラしましたが、いい役だよね、いいお芝居でした。ひさ(梨花ますみ)や佐助(透真かずき)との場面もとてもよかったです。
 カチャを呼んでまで松本先生(凪七瑠海)をやらせた意味はなかったかな…にわにわがさすがで、ナギショーもホントいい仕事をするようになったよね(エラそうですみません)、ひらめはもったいなかったかな、あやなももうちょっと仕事させたかったかな、やたらおいしかったのはやはりあーさかな、そしてひとこイイね…!ってところでしたでしょうか。
 娘役ちゃんに役がないのはやはり残念ではありました。
 もっと回数を観ていたら、より不満が挙げ連ねられたでしょうが…

 新公も拝見しましたが、みんなすごくうまくて、そしてだからこそわりと地味だったかもな…とは感じました。
 でもあみちゃん、いいね上手いね! ただ『ファントム』ではナギショーよりあーさよりあみシャンドンがイイ!と思えただけに、今回はキラキラが弱めでちょっと残念に感じてしまったのです。
 ヒロイン経験が豊富なみちるがしっかり支えて、二役も上手い。すわっちの大野は渋すぎた気もしましたが、それまた上手い。てか次がラストだよね主演させてあげてね?
 はおりんのひさがよかったなー。壮海くんは歌がよかったですね。鍋島夫人のひまりんがあたりを払う艶やかさでした。あがちんの土方は…うーん…意外にフツーだったかな…? そしてゆめくんが殊勲賞ものでした。かりあん斎藤、健闘していましたかね。そして眞ノ宮くん総司もとてもよかったです。かのちゃんはあれじゃもったいなかったですね。どうしても娘役が不憫な演目でしたね。


 ダイナミック・ショーは作・演出/中村一徳。
 安定のBショーでしたが、目新しいアレンジや振り付けなどがあってちゃんと新鮮でしたし、路線スター以外でもバンバン銀橋を渡らせる太っ腹ぶりはやはり楽しいです。まあでも群舞はもうちょょっと少人数ずつにしてくれると、ひとりひとりの識別にまで手が回って楽しいんですけれどね…とにかく目が足りなくて、心の中でずっと嬉しい悲鳴をあげているような観劇でした。
 黒と銀かな?のお衣装でキャッチーな主題歌をガツガツ繰り出すプロローグはど定番すぎて私はそんなには来ませんでしたし、続くカチャがメインの付け足し場面みたいなのももう少しカップル数を減らしてくれると各組じっくり見られていいのに!と歯噛みしました。てか娘役さん同士でイチャイチャしていたとこもあったね? 天国かな?
 そのあとの「革命と独立」も私にはやや中途半端に感じられはしましたが、なんせエクウスひまりんが艶やかで素晴らしすぎて、スペイン兵がみんな顔が良くてヤバすぎました。ガウチョも最高。盆ガンガン回してセリごんごん上げ下げするのもいい。
 そうしたらおなじみブライアント先生の咲ちゃんセンターでジャズ場面! 本当にダンサーしかいなくて見ていて気持ちがいいし、踊っている方はもちろん大変なんだろうけれどそう見せない清々しさが素晴らしい! ここのあがちん、よかったなあ。あやな派の私がたびたび目を奪われてしまいました…
 そこからは「新世界」「革命」「ラ・カンパネラ」「威風堂々」とクラシックの名曲をアレンジして歌い継ぐ中詰め。ここがまたこれでもかこれでもかとスターをピックアップしてバンバン起用していて気持ちがいいです。とんちきカラーリングお衣装はショーの醍醐味です、無問題。
 さらに今度はひとこセンターで「カノン」、こちらもジャズ場面同様に団体賞ものの名場面だったのでは!? やはりバウ主演を経て一皮剥けましたよね、さらに花組へのステップアップ組替えは楽しみしかないですね!! そしてここのあがちんもよかった…でもあみちゃんもよかった…ダンサーって素晴らしい…もちろんあゆみ姐さん最高です…!
 その次は、あれ?誰が辞めるんだったっけ?となる、ややあるあるの、気持ち凡庸にすら思える場面ですが、まあたまにはそういうのもないとね…
 そして次がもうフィナーレなんだけれど、尺からすると普通はもう一場面作ってからフィナーレ、なんですが、最近の中村Bショーはわりとフィナーレを長めにやりますよね。もう一回スターの銀橋渡りをさせたりして、また中詰めかな?みたいな、まとめにかからない感じがおもしろいです。
 あやなの銀橋ソロ、ここまで大きくなって…!と感慨深かったです。まちくん、すわっち、はいちゃん、かりあん、あみちゃんと続く未来しかない流れもたまりません。そしてかのちゃんロケットガールのロケット! かーわーいーいーーーー!! ただし大劇場の方がよかったかなあ、東京では痩せて顔が尖って見えた気がしました。明るいオーラが特異な娘役さんです、大事にしてほしい。
 からの、きぃちゃんが歌ってカチャと絡んでの娘役群舞、ここも目が足りない! みんな鬘も髪飾りも素敵でもっとじっくり見たい! 人数半分に減らしてくれ!! でも上級生組も下級生組も見たいぞ!!!
 そして黒燕尾、やはりいいですよね。からの銀橋渡りリターンズ大盤振る舞い、たまりません。それからしたらデュエダンはやや凡庸に思えるかな第二弾、だったかも。カゲソロもそろそろ違う下級生でも聴きたいかも。でもエトワールがはおりんというのは大正解、こういうちゃんとした起用はあたりまえのようですがやはり大事です。ダブルトリオはあみちゃんばっか見てましたすみません。
 
 もしかしたら全ツ版の方が人数も減ってすっきり仕上がるのかもしれません。そちらも楽しみです!







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