駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

高山真『エゴイスト』(小学館文庫)

2023年03月30日 | 乱読記/書名あ行
 14歳で母を亡くした浩輔は、同性愛者である本当の自分を押し殺しながら過ごした思春期を経て、しがらみのない東京で開放感に満ちた日々を送っていた。30代半ばにさしかかったある日、癌に冒された母と暮らすパーソナルトレーナーの龍太と出会う。彼らとの満たされた日々に、失われた実母との想いを重ねる浩輔だったが…鈴木亮平と宮沢氷魚主演で映画化された、2020年に没したエッセイストの唯一の自伝的小説。

 映画は楽しく観ました。ゲイ映画としての評判を聞いて観に行って、前半はBLとして楽しく観て(こういう言い方はいけないのだとわかってはいるのですが…しかし実写BLとしてさすがの迫力だなとか、BL漫画でしか観たことなかった絡みだけど本物の人体で本当にこういう体勢になるのかとか、ちゃんとインティマシーコーディネーターが入ったそうだけどどういうふうに撮影したんだろうとか、恋愛描写も演技も上手くて適切でホントキュンキュンするなとか、そういう消費を確かにしました)、後半の展開は個人的には意外だったので、最終的にはタイトル含めてなるほどこういう作品だったのか、とラストでやっと把握したような気持ちになりました。
 原作小説がある、しかも自伝的小説らしいと聞いて、読んでみたいと思ったものの、知らないエッセイストさんでしたし(重ね重ね申し訳ない…)きっとそんなにおもしろくない、ないしそんなに出来が良くないものを、すごく上手く映画化しているのではなかろうか…などと考えていました。映画を観たころには書店で売り切れていて、やっと重版が入ったのか先日遠征先の書店で見つけたので購入し、帰京の新幹線内でほぼ読み終えてしまいました。
 ごく短い、というのもありますが、非常に読みやすく、それは簡易だとかそういう意味ではなくて、とてもナチュラルでわかりやすかった、ということです。情景描写みたいなものに特に手をかけず話がさくさく進むのは、書き手がプロの小説家ではないからかもしれませんし、書きたいことはそういうことではなかったからでしょう。どこまで事実そのものなのか、かなり歪曲されているのかはわかりませんが、とにかくこうした相手とこんなような出会いがありこういう経緯を経て失った、ということは確かなのでしょう。それがごくシンプルに捉えられ、描かれていた、読みやすい小説で、それがなんとも意外でした。もっと照れ隠し紛れのゴタゴタした虚飾があるか、単に稚拙かで読みづらいものなのではないか、と勝手に類推していたからです。我が身の不明を恥じ入ります。
 小説では映画以上に、主人公が早くに母親を失っていることがフィーチャーされている印象で、相手との恋愛も純粋な好意や性欲よりも、彼を通して母親との関係を生き直すことができる相手、みたいに捉えられているようだったのが印象的でした。私は映画を観ていてそういう側面をほとんど感じなかったので…根が薄情なのかもしれません、すみません。小説では最終的に、龍太の母親ですら自身の母親との関係を語り出し、浩輔との間でそれを再構築し出そうとします。まあそれくらい、母親との中断された絆というものはその人にとって甚だ大きく太い、ということなのでしょう。それがぴんとこない私は、未だ両親ともに健在だということもありますが、恵まれて育つことができた子供だったということなのでしょう。ただ、龍太の母親のこの視線がなければ、私は「男ってホントーにマザコンだね」みたいで終えてしまいそうでもあったので、よかったなと思いました。もちろん種が必要ですが、人は誰でも母親からしか生まれないので、やはり大事で重要な存在なのです。そしてもちろんごく自然なものに思えるこうした愛情、こだわりもまた、単に自分のためだけのもの、わがまま、エゴイズムなのです。そういうタイトルだし作品だと思いました。それが人間で、だから愛しい、という作品なのかな、と…
 もう一度見直したい、という意味で円盤を買いたいなと思っていますが、発売されますよね…? それか、まだやっている映画館があれば見に行きたいな。そういえばドキュメンタリーふうの手持ちカメラでの撮影が多用されていて、私は臨場感があってとてもいいなと思ったのですが、三半規管が弱い方には苦行だったそうですね。そういうところも鈍感で健康な我が身をありがたいと思ったのでした。
 書籍化、映画化にもいろいろ顛末があったと聞きました。円盤解説にそうしたものもあると嬉しいな、と思ったりもしています。






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『SPY×FAMILY』

2023年03月29日 | 観劇記/タイトルさ行
 帝国劇場、2023年3月27日13時。

 世界各国が水面下で熾烈な情報戦を繰り広げていた東西冷戦時代。隣り合う東国「オスタニア」と西国「ウェスタリス」では、十数年間にわたるかりそめの平和が保たれていた。西国の情報局対東課「WISE」所属の凄腕スパイであるコードネーム「黄昏」(この日は鈴木拡樹)は、高い諜報能力を駆使して東西両国間の危機を幾度も回避させてきた。そんなある日黄昏は、東西平和を脅かす危険人物の動向を探るため、さる極秘任務を命じられる。黄昏は精神科医ロイド・フォージャーに扮し、家族を作るために「妻」と「子供」を探すことになるが…
 原作/遠藤達哉、脚本・作詞・演出/G2、作曲・編曲・音楽監督/かみむら周平。「少年ジャンプ+」で連載中の大人気漫画をミュージカル化。全二幕。

 この日はヨル/唯月ふうか、アーニャ/井澤美遙、ユーリ/岡宮来夢でした。というかアーニャのことは全然わからなかったので別にして、他のダブルキャストで観たい組み合わせで行ける回を探したら確か二回くらいしかなかったんじゃなかったかな…それでド平日のマチネをお友達に頼んで、チケットを取りました。さっさと観てわあわあ言いたいし人の感想ツイートも読み漁りたいタイプの私にしては、遅い観劇になりました。
 しかしそろそろ学習しよう自分、こういう企画はファンこそが最も楽しいのだと…下手したらファンしか楽しくないのだと。ファンでなくてもおもしろいと思えるクオリティに仕上がっているものは稀なのだし、今回に関してはそもそもそんなことは目指してすらいなかったのだな、ということが窺えたので。私は原作漫画はアタマ3巻くらいまでは読んでいて、テレビアニメもアタマ数回は見ていましたが、まあそれだけで、もちろんおもしろいしよくできているし人気が出たのもわかるけど特にファンではない…みたいな感じで、単にまぁ様が出るというのでじゃあ観ておくか、と思った程度なのでそもそもお呼びでない観客だったのでしょう。しかし、何もない、とは聞いていましたが本当に何もなかった…単に漫画を舞台化しただけ、ミュージカル化しただけ。そこに、戦争の悲劇とか平和への願いとか、冷戦の意味や非情さとか、戦災孤児が偽物の家族を得て再生されていくとか、愛や信頼の大事さとか…が語られる、というようなことがいっさいありませんでした。テーマとかメッセージとか物語がないのです。原作漫画にないから、と言うならそれはそう、なのですが、この舞台作品としての意味が何もない。ただ原作漫画の事件、エピソードを再現しただけで、本当に単に役者を使って舞台で三次元化しただけの、ただそれだけの、純粋な2.5次元作品でした。それはもう潔いほどに。なのでハナからあくまでそういう狙いだったのだと思いますし、それがよかった、それでよかったというファンも多いのでしょう、とは思いました。私はそこに当てはまらない観客だったというだけのことです。ないものを期待して行ってない、ないと騒ぐ迷惑な客だったということだと思います。でも本当にいいのかそれで…
 こういうある種すっとんきょうな設定の作品世界って、ミュージカルの魔法と意外に相性が悪いものなのかもしれないなとも考えましたが、ストプレでなくミュージカルにしたのは何故なんでしょうかね…しかもミュージカル・パートはまぁ様始め、メインキャスト以外が担当していた気もしましたが、あくまで賑やかしということなのでしょうか。いや歌い踊るアーニャとか可愛かったけれども! でもなんか、主に二幕、ユーリとフィオナ(山口乃々華)のエピソードが連続で来て急にラブコメドラマを展開し出したときに、そこでまた上手い役者が絶妙に上手い歌とオーバーアクションで心情を晒して笑いを取るんですけど、もちろん私も笑ったんですけれど、でもそれはミュージカル効果の悪用という気がして、でもわかっていて意識的にされているんだろうなとも思ったので、そもそもミュージカルの人のはずのG2の仕事としてそれはどうなんだ…と私はけっこうモヤったんですよね。
 あとは、アーニャが本当に可愛かったしちゃんと達者で、本物の子供ってこんなに小さいんだなあとか、子役ちゃんってこんなに仕事ができるんだな、嘘の演技の演技ができるんだもんな…とか感心しましたし、小柄な女優さんにやらせるとかティーンを使うとかではない意味があるなとは感じたんですけれど、でもこれもテレビ業界で昔から言われる「子供と動物には勝てない」ってヤツなので、やはり製作姿勢としてどうなんだ…と私は思ってしまったのでした。ホントめんどくさい客ですみません。
 でもホント、お仕事としてこれでいいの…? それともこういうものを作っていられるうちが花なのか…??

 周りに黎明期からの刀ステ・ファンがいたのでそこからの出世株として名前は知っていた鈴木拡樹、私は初めて観たかな? 歌はダブルキャストの森崎ウィンの方が上手そうかな、と思いました。最初のスーツがあまりカッコ良く見えなくて、これは黄昏のものでこの時代の服装ということなのかもしれませんが、それでしょぼんとしてしまったというのもあります。ロイドになってからはちゃんとカッコ良かったと思うんですけれど。
 唯月ふうかは小柄でしたが(スタントの依里の方が背が高かった)、歌は上手くて達者でしたね。可愛らしくてよかったです。
 まぁ様はビジュアルが大勝利で、G2のミューズと呼ばれるのもわかるショースターっぷりでしたが歌はあいかわらず弱い…鈴木壮麻が無駄に上手くて再現率も高く、笑いを取っていて良きでした。フランキー(木内健人)もさすが間が良かったです。
 アンサンブルもまず人数が多いのが手厚くて、セットもいい感じで(美術/松生紘子)、帝国劇場で生オケで超リッチで大真面目でからっぽな2.5、贅沢で良きですよね。こういう企画が通って予算が出て採算が取れるのは、ある種まだ世の中が平和で豊かだということなのかもしれませんしね。
 チケット代もお高かったですが、小さいお子さんもよく見かけて、舞台への入り口になっているならそれも良きことです。笑い声もよく響いていて、ほっこりしました。これは掛け値なしに、子供の笑顔や笑い声は世の宝です。ただ、大の大人がこれに一緒になってただ笑ってるだけでいいのだろうか…と私は思ってしまった、というだけの話です。楽しかった方にはホント申し訳ない文句ですみません。イヤ楽しかったんですよ私も、でもただ楽しいだけだったので本当にびっくりしたのです。ただそれだけのことです、それをねちねちとホントすみません…







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『ジキル&ハイド』

2023年03月25日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京国際フォーラムホールC、2023年3月23日18時。

 1888年秋、ロンドン。医者のヘンリー・ジキル(この日は柿沢勇人)は「人間の善と悪とを分離する薬」の研究に身を捧げてきた。それは精神を病み、心をコントロールできなくなった父のため、ひいては科学の発展と人類の幸せにつながるという強い信念に突き動かされてのことである。しかし、婚約者エマ(この日は桜井玲香)の父ダンヴァース卿(栗原英雄)や親友のアターソン(この日は上川一哉)からは、神を冒涜する危険な理論だと忠告される。研究の最終段階である薬の人体実験の許可を得るため、ジキルはセント・ジュード病院の最高理事会に臨むが、理事会のメンバーである上流階級の面々によって要求は棄却されてしまい…
 原作/R.L.スティーブンソン、音楽/フランク・ワイルドホーン、脚本・詞/レスリー・ブリカッス、演出/山田和也、上演台本・詞/高平哲郎。2001年日本初演、八度目の上演。全二幕。

 なんと私はちゃんと日本初演を観ていて、そのときの感想はこちら。マルシアはこのときが初舞台だったんですね、そのルーシーがよかったことしか覚えていない…なのでその後何度も上演されているのは気づいていましたが、食指が動かん…と静観していました。鹿賀丈史のあとを継いで12年から主演している石丸幹二が今回でファイナル、そしてダブルキャストでカッキー登場、ルーシー(真彩希帆)にはきぃちゃん登場というので、久々に観てみる気になりました。
 というわけでもちろんお話は二重人格設定(?)部分以外はすっかり忘れています。というか今さらですが「時が来た」ってこんな位置にある曲だったんですね…! つまり「自分で人体実験するときがキター!」って歌だったのか、なのにこんなに晴れやかなのか、グランドフィナーレにふさわしいような曲だけど…!?とちょっと、だいぶおもしろくなってしまいました。でもカッキー初日にここはまさしくショーストップとなったそうですね。さすがダンシング塩タクター(指揮/この日は塩田明弘。カッキー初日担当は違っていたらすみません…)、粋な計らいで次の音楽をちゃんと待ったのでしょう。次の音楽がない場面だったらすみません…
 つまりこんな状態で観たので、一幕はだいぶ、退屈したとまでは言わないけれどかなり冗長に感じました。私は芝居が観たいタイプなんだなー、としみじみ思いました。なのでワイルドホーン・オペラとは相性が悪いのかもしれません。大曲揃いで話がなかなか進まないので、私はちょっとイライラさせられちゃうのでした。
 オペラは、もちろん新作も作られていますが多くは古典で、ストーリーもごく単純で少なくともファンはみんな知っていて、だからキャストの歌唱の技量を楽しみに観に行くようなところがあるじゃないですか。歌舞伎の古典の鑑賞のされ方に近い。だから歌詞が二番も三番も繰り返しで話が全然進まない歌でも、朗々と歌い上げるのを何分でもそりゃ聴きますよ。でもミュージカルはそうじゃなくない? スティーブンソンの小説『ジキハイ』自体は古典だと言ってもいいと思うんですよ、でもこのミュージカルは初演からたかだか30年くらいしか経っていないものでしょう?(プログラムに初演に関する記載がありませんでしたが) ルーシーもエマ(この日は桜井玲香)もこのミュージカルのオリジナルという、ジキハイの設定を使った全然別の物語です。だったらもっと初見のお客さん相手にストーリーを見せる構成にしないと、飽きられちゃうんじゃないの?と感じたのでした。今流行りのタイパ云々なんていう気はないけれど、セットチェンジや誰かの着替えの時間を捻出するためというならまだわからなくもないけれど、そういう事情もないのに同じことを何番も繰り返して歌わなくてもいいよこの曲のことはもうわかったよ次に行こう、とちょいちょい思いました。全体で休憩込み3時間というのも今どき長いと思いますしね。もっとタイトにシャープにコンパクトに構成してくれていいのよ、なんなら同じ尺でも曲をカットして浮いた分を芝居に当ててくれてもいいくらいだよ、なんならこのストプレ版を観たいくらいだよ、と私なんかは考えるのでした。それくらい、やはり古典には力があって『ジキハイ』の物語って科学としてはトンデモでも、物語としてすごく強度があっておもしろいし、そこへ持ち込まれたルーシーとエマのダブルヒロインの存在もとても興味深かったので、そこをもっと見せてくれよ、と私は思ったのでした。
 カッキーは石丸さんとはだいぶ年齢も違うし、ジキル像もだいぶ違って作っていたのかなあ? どうなんでしょう、見比べた方にご教示いただきたいです(ちなみに石丸さんが『ハリポタ』と出演スケジュールが被っていて交互に出ている、というのはホント問題だと思います。ホリプロ側が褒めるようなツイートをしたことも醜悪です。そりゃ石丸さんはすごいよ、でも労働環境として劣悪だし本当はクオリティが担保できない事態なのでは? 主催側が容認すべきじゃないでしょう本来は…)。
 カッキーのジキルは若くて、「とても崇高な動機で始め」、「正しいと信じる道を突き進んだ」清廉潔白な若手研究者、というよりは、そりゃ生真面目だけどちょっと神経質で繊細すぎてイラチでなんなら傲慢に見えかねないところもある、世渡り下手な若僧って感じが上手く出ていて、そこが人間臭くていいなと私は思いました。彼は彼自身も含めて人間には善悪に二分される心があり、だから薬で分けて片方をなくすところまでできれば世界平和だ、と考えたわけです。名誉欲とか権勢欲とかはなかったかもしれないけれど、ハナから真っ白、というワケでもないごく普通の青年だった、というところがいいな、と思ったのです。
 でも、当時のブルジョワ以上の階層の男性が普通にする買春行為みたいなことには縁がないタイプで、だからパブ「どん底」みたいなところには初めて行ったし、娼婦のルーシーに対してもハナから見下すような口は利かず、ちゃんと「ハリスさん」と呼んだりする。私が呼称フェチだからというのもありますが、ルーシーもこれは新鮮に感じたろうしときめいたろうと思いますよ! そもそもこの脚本がレアですよ。敵娼の名前なんざ聞かない男がほとんどであろうことを考えたら、丁寧な口は利きつつも「ルーシー」と呼ぶことにするだけで十分というか普通なところを、おそらく原文は「ミス・ハリス」としているということでしょう? この丁寧さ、相手を尊重する優しさ(本来人間としてまったく当然なことなのだけれど、世の男性に望むべくもないこと)が彼の本質だったのでしょう。そこまで落差が出ていないけれど、薬を飲んだあと、ジキルでいるときの彼はより優しい人になっていたのでしょうね。それでルーシーは恋に落ちる。
 ルーシーは、きぃちゃんにそういう色気があまりないというのもありますが、今回は「媚が売れない」「誰よりも少女」な設定のようで、くわしい生い立ちは描かれていませんが幼いころから劣悪な環境で育った女性で、ポン引きみたいな娼婦たちの元締めみたいな男の暴力に常に怯えていて、売春はしていても性的にはまだ全然開花していない(だから自分でも楽しむという方向に走り媚を売り色気を醸す、という域に至っていない)女性のようでした。だからジキルにきちんと応対されても感じるのは恋というよりまずは人としての感動や感謝、信頼、父性への憧れみたいなものなわけです。けれどのちにハイドからもけっこう離れられなくなっちゃってる感じなのは、やはりセックスがよかったってことなんですかねキャー!とかも考えちゃいました私。すんません。そしてそんなん単なる男のドリームやろ、とも思うんですけれどね。エマとの婚前交渉なんてとんでもない時代だし、それで色町通いをしてないとなればジキルは童貞だとしてもおかしくないわけで、ハイドになったからって性豪になれるわけないのです。そもそも男の考えるセックスの上手さ、良さと女のそれって違うし。でももしルーシーがハイドとのセックスはいいと考えていたのだとしたら、それこそハイドがジキルでもある証、つまり相手を尊重し相手が嫌がらない相手の気持ちいいことをしてあげてお互いに良くなるセックスができていたからなんじゃないの?とか私はつい考えてしまうのでした。男はハイドのワルなセックスの良さにルーシーも屈服したのさ、みたいに考えるんだろうけれど、そんなことってないからさ。
 ハイドも要するにジキルのもうひとりの自分であり、人間には善悪両面があるものなのだ、というのがテーマというか結論みたいなこの物語において、ヒロインがふたり用意されているのはおもしろいことです。そして一見、一方は娼婦で一方は令嬢であり、よくある女を娼婦と聖母に二分するパターンにも見えます。けれどルーシーもエマも実はそんな典型的なパターン・キャラではない。ルーシーは境遇というか職業が娼婦でもあまりそういうキャラではないし、一方のエマも天使のような何も知らないお嬢様なんかではありません。これまた経緯が描かれていないのでジキルとどんなふうに出会ったかとかどんな交際をしてきたかとかお互いどこがどう好きでとかは全然わからないんだけれど、彼が病院でもやや浮き気味だったり、父親が娘婿として彼を完全に歓迎しているわけではないこともちゃんとわかっていて、その上で上手く取りなし周りと橋渡しできる聡明な、しっかりした女性です。白痴美人とかではない。その上でとてもチャーミング。このふたりの女性は善悪のシンボルでもないし、どっちが天使でどっちが悪魔とかでもない。たまたま置かれた環境が置屋か屋敷かの違いなだけで、人間としては同等、強いところも弱いところもあるしいいところも悪いところもある、ごく普通の人間、としているんだと思います。女性を過度に聖化したり型にはめ込んで満足していないところがいいですよね。この物語は人間を男女問わずそもそもそういうものだと捉えている。ただ、ジキルには、病気で豹変してしまった父親が、人が違ってしまって見えて、本当に悪魔に心を乗っ取られてしまったように見えて、この善悪が二分できたら、そして悪の部分だけを押さえ込めたら…と夢想してしまった、理想化肌の、ロマンティストだったということなのでしょう。話が長くなりましたが、カッキーからはそういうジキル像が立ち上がって見えました(芝居パートがこんなに少ない作品だというのに!)。それがとてもおもしろくて、よかったです。
 ジキルの周りの男はみんなワルばっかかというとそうでもなくて、親友で弁護士ジョン・アターソンという存在がいてくれるわけですが、これももう一方の石井一孝だとカッキーにはややお兄さんすぎたのではないでしょうか。なので今回の組み合わせで観られてよかったです。もうめっちゃいい人で、なんなのBのLなの?ってくらい世話焼きで、でもこれまた単なる善人ではなくてけっこう気が短いところもあってジキルとすぐ喧嘩になるし、そういうナチュラルさがすごくいいキャラクターでした。最後の最後は、『ファントム』でキャリエールに殺してくれと頼むエリックのような展開になり、そりゃエマにやらせるのはひどすぎるというのもあるのだけれど、まさしくBでLな展開になって終わったのでやはりたぎりました。もちろんジキルは最後はエマの腕の中で死ぬのですけれどね。その前にルーシーはハイドに殺されていて、これもまたかわいそうすぎる気はするんですけれど、これもまた道連れにしたいというハイドの、ひいてはジキルのわがままな愛だったのでしょう。ジキルとハイドは結局はひとりだから、ひとりしか連れて行けない。エマを残すならルーシーを連れていくしかなかったのです…
 と、ことほどさようにかなりドラマチックな物語なので、なんかわりとまっとうすぎて個性を感じられない演出家の手にかかっているせいもあるのかもしれませんが、なんかもっとぐっと手を入れた新演出版が観たい気もしますけれどね!となった観劇でした。楽しかったです。2階前方どセンター席はとても快適でした。
 まあしばらくはこの座組でいくのかなあ、でもジキルはホント出番の多い主役なのでダブルキャストは正解だと思います。甲斐翔真が観劇感激ツイートしていていつかやりたいとつぶやいていましたが、いいと思う! 次回このふたりならまた行きたい、今度は両方観たいです。そしてルーシーのダブルキャスト笹本玲奈はかつてはエマをやっていたというのもすごいけれど、そろそろ卒業して、ここもどんどん若いミュージカル女優さんがやっていくといいと思います。娘役OGもルーシーもエマも余裕でできるでしょうし、お若いうちにやってほしいなあ、これは若者の物語だと思うので。お姉様方はビーコンズフィールド侯爵夫人(塩田朋子)を務めればいいと思うの!
 ジキルの執事プール(佐藤誉)がめっちゃいい声でハッとなりました。ジキルをライバル視しているストライド(畠中洋)もとてもよかったです。セットがスタイリッシュで(美術/大田創)素敵で、照明(高見和義)もとてもよかったなー。プログラムの稽古場写真が楽屋日記調スナップ写真ばかりなのも可愛らしかったです(笑)。
 何よりカッキーが素晴らしく、きぃちゃんが素晴らしかったです。歌える芝居ができる、見た目も良きで素晴らしい! きぃちゃんとしてもお手のものなんかでは全然なくて、歌唱としてもすごくトライしている様子がプログラムでも語られていましたし、実際に舞台でも「現役時代には聴いたことないなこんな歌声!」ってのがあってもうシビれました。ミュージカル女優としてますますバンバン活躍していってほしいです。次は『ファントム』かな? 観られるのかな私…てかこれは『ドリガ』がよかったsaraちゃんを観たいんですよね、ますますいろいろ楽しみです!





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ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(新潮文庫)

2023年03月24日 | 乱読記/書名さ行
 私立探偵マックスが受けた依頼は、元大リーガーのチャップマンからのものだった。キャリアの絶頂期に交通事故で片脚を失い、今は議員候補と目される彼に脅迫状が送られてきたのだ。殺意を匂わす文面から、かつての事故にまで疑いを抱いたマックスは、いつしか底知れぬ人間関係の深淵へ足を踏み入れることになる…ポール・オースター幻のデビュー作にして正統派ハードボイルドの逸品。

 イヤもうすごかったです、ハードボイルド小説芸が。イヤ作品に罪はないのだけれど、1982年の作品が今訳されて読まれていることに半笑いが抑えきれません。まさしく、30年前では効かない、40年前にこういうの、ハヤカワ文庫ミステリとか創元推理文庫でたっくさん読んで育ちましたから、私…
 まず、主人公の私立探偵が、まあヤメ弁ってのはわりと新鮮な気はしましたが、普通はヤメ警がわりと多いですよね。なんにせよ体制派、組織側であることに限界を感じて、独立し一匹狼になるパターンです。あるある。それと前後して家庭でも問題が起きて離婚している、これもよくあるパターン。思春期前の息子がいる、これもあるある。妻とは傷つけ合って別れたけど、今は落ちついていていい友達で、でも向こうに再婚を考える相手ができて、でも向こうは迷っていて、それがこちらもわかっていてでもどうする気もなくて、でも寝ちゃう。もうすっごいあるある。さらには依頼人の妻、なんならその後被害者の妻になり容疑者になる女性とも寝ちゃう、もうすっごいすっごいあるある。
 ギャングのボスとも知り合いで小競り合いがある、あるある。野球蘊蓄、あるある。帯のアオリにもありますが「軽口(ワイズクラック)に運命の女(ファム・ファタル)。ハードボイルドの王道」あるあるあるある。
 事件は無事に解決されるけれど、真犯人より何より、裏で糸を引いていたのは被害者の妻だったのではないか、みたいなことが示唆されて終わる。「女は怖い。魔物だ」みたいな結論、もうあるあるすぎてつっこみが追いつきません。賭けてもいいけどジュディスは1年でマックスなんて男がいたこともその関わりも忘れるでしょうが、マックスの方は10年経っても自嘲を装って自慢げに、こんな女とこんなことがあってね…と語っていることでしょう。男ってホント馬鹿。ハードボイルドってもはやそれを楽しむ文芸ですよね。何故今訳出されたのか、謎ですが…オースターにしたってそんなに人気作家ってワケでもないと思うのだけれど。
 まあでも久々にハードボイルドを読んでみてもいい、と思って私が店頭で自分で選んで買った文庫ですし、その目的はきちんと果たされたのでいいのです。当時はお洒落に思えたかもしれないけれど今の目で見るとあまりにベタベタで、それだけだった、ということが改めて確認できたのと、ワイズクラックという言葉を覚えたので満足です。てかこんなにきっちりあるあるを押さえている作品って、秀逸すぎるのでは…
 今書かれているハードボイルドは、まあ今はハードボイルドを書くにはいい時代ではないかもしれませんが、おそらくもっと違う何かしらの進化や発展をしているのでしょう。たとえば何が有名なんでしょうね…?
 そんなことを考えた、おもしろい読書になりました。イヤ意地悪で言っているのではないのです、ホント。古式ゆかしいハードボイルドが読みたくなったというときには、おすすめの一作です。昔のものを昔のままの訳で読むのってけっこうしんどいかもしれないので、愛蔵している古い本を引っ張り出してきて読むより快適に「昔のまま」が味わえる、という利点がこういうものにはあるな、と思ったりもしました。



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『ジェーン・エア』

2023年03月23日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京芸術劇場プレイハウス、2023年3月20日18時。

 1840年代のイングランド。父母を亡くし孤児となったジェーン・エア(この日は上白石萌音)は伯母のミセス・リード(春野寿美礼)に引き取られるが、いじめられ不遇な幼少期を送る。率直な物言いで媚びることをしないジェーンを伯母は目の敵にし、規則が厳しいことで知られるローウッド学院に送ってしまう。学院でも理不尽な仕打ちに対し怒りに震えるジェーンだったが、そんな彼女に「赦す」ことを教えてくれたのが、学院で生活をともにする、敬虔なキリスト教徒であるヘレン・バーンズ(この日は屋比久知奈)だった。ふたりはかけがえのない友として深く結びつくが…
 原作/シャーロット・ブロンテ、脚本・作詞・演出/ジョン・ケアード、作曲・作詞/ポール・ゴードン、翻訳・訳詞/今井麻緒子。1996年カナダ・トロント初演、2000年ブロードウェイ初演。日本でも2009年、12年に上演されたが、新演出版として11年ぶりに上演。全二幕。

 だいぶ以前にさる出演者さんの会にお取り次ぎをお願いしていたのですが、開演間近になって連絡不首尾で用意できていないと一方的に言われて嫌になり、放置していました。が、やはり気になるなーと思っていたところ、おけぴネットの譲渡でいい感じのお席が出ていたので、引き取らせていただきました。多少お安くしていただけましたし、ありがたかったです。
 日本はチケットを売るルートが複数あって統合するのが難しいから、とかリセールシステムや席種割りの変更ができないことをウダウダ言い訳されることがありますが、ならこちらも正規ルートだけでなく現行の便利なシステムを活用させていただきますよね、となりますよね。おけぴは都合が悪くなった方からお譲りいただくもので、お値下げしてもらえることも多く、お互い助かるじゃん、という感じで私はよくお世話になっています。ありがたいことに詐欺に遭ったことや不愉快な経験をしたことは未だありません。定額譲渡が基本ではありますすが、チケット代高騰の折、お値下げに助けられています。
 一階後方通路脇の大変視界の良い座席で、ノーストレスでとても快適でした。
 オンステージシートなるものが販売されていましたが、舞台の上下に斜めに客席が張り出されていて、黒いマスクも配られていたようで舞台の上でもそこだけ上手く照明で沈み、舞台を奥のヒースと手前の室内その他になる空間に上手く区切っていて、とてもおもしろい効果が出ているなと思いました。この席に座った方は物語の中にいるような気分になれたのかしらん、それとも基本的には役者の背中を見ることが多くなっていただろうからアレレな感じだったのかしらん…
 原作小説は大昔に読んでいて文庫版も愛蔵していますが、長らく再読しておらず、だいたいの設定を覚えている程度で観に行きました。なのでゴシック・メロドラマとしてなかなかスリリングに楽しみました。
 原作はそもそもジェーンとエドワード・ロチェスター(井上芳雄)のロマンスというよりはジェーンの生い立ちの記、一代記みたいなテイストのものだそうで、なのでエドワード登場までけっこうしっかり尺を取り、子役(この日は三木美怜)も起用して、主演ふたり以外の何役もこなすキャストたちがコロスのようになって語り、歌い、陰惨とまではいかないまでも暗くしんどいジェーンの生い立ちをややおどろおどろしく物語っていきます。華やかなダンスシーンみたいなものはまるでないので、ミュージカルというよりはオペラのような、楽曲がとても多い舞台でした。エドワードの被後見人アデール(ヤング・ジェーンとの二役)が少女らしいピンクのワンピースを着ている他は、みんな真っ黒な衣装で影のように幽鬼のように舞台をよぎりさまよい、オンステージシートの壁添いに潜んでまた次の出番を待つ…という構造なので、ホント全体に陰鬱なのです。でもそれが貧しく、厳しい環境をひしひしと伝えていて、とても効果的だと思いました。
 ジェーンはずいぶんと幼いころに両親と死別しますが、それでも両親に愛された記憶や眠る前にお祈りすることなんかを教わっていて覚えていて、それで神と愛を知ったのでしょうか。知らないと、求められないし与えられませんものね。このスタートが大事なんだなあ、と思いました。
 伯母に引き取られて、でも冷たくされて傷ついて、でもじゃあひとりで本でも読むかとおとなしくしていたら、従兄(神田恭平)にいじめられて…愛してくれないのはまだしも、なら放置しておいてくれよ、何故かまう? いじめる? 嘘を吐き悪口を言いコントロールしようとする? と、観ていてこちらも本当に怒りに震えました。思うにここが人間の邪悪さの極みではないかしらん。動物だったらこんなことしないと思うんですよね、群れのルールに従わないものは追い出しておしまい、だと思う。いちいち絡む質の悪さは本当に性悪だと思います。自分のルールに従わせたい、他人を支配したい、コントロールしたいという邪悪さ…そもそも自分の生き方に満足している人間は他人がどうしていようとスルーできると思うのですが、不安だからこそ他人にも自分たちと同じでいてもらわないと困るんですよね。本当にいじましい…
 ジェーンは学校へやられ、そこでも理不尽な仕打ちを受けますが、それでも一定の教育は授けられ、心優しい友達との出会いという奇跡に恵まれます。それでジェーンはやっと再び神と愛を信じる気になれたのでしょう。しかし友は流行病で死んでしまう…
 成人して教師になって学校に恩返ししつつも、もっと違うこともやってみたい、と家庭教師に応募するジェーン。当時の女性に許容された数少ない職業です。それでロチェスターのお屋敷にやってくる。でももちろん資産家のイングラム卿一家なんかからしたら、蔑みの対象でしかない。ここの母娘をオサとユキちゃんがやっているのですが、これがまた抜群に上手くて憎々しい!(笑)
 嵐の夜に落馬したエドワードを助けることでジェーンは彼と出会いますが、ここの馬が、馬頭の飾りとシーツみたいなもので薄暗い照明の中を上手く動いて表現されていて、とてもよかったです(^^)。ヨシオさんエドワードは若者でも年寄りでもない感じ。当時のこととて長髪が素敵でスタイルがいいので、どんなに猫背で態度が悪かろうと素敵は素敵なので、感じ悪いおっさんっぷりとのバランスもいい塩梅でした。お互いに孤独で、孤独を愛してもいて、でもだからってまったくひとりでいいわけではなくて…という距離感がちょうど合ったふたりは、心を寄せ合っていく。でも身分の差もあるし主従関係でもあるし、結婚が噂されるお金持ちの美女が押しかけてきたりして、それで妬いちゃったりなんかして、それはエドワードがジェーンを妬かせることで彼女の本心を探りたかったからで、占い女の真似までして、そして愛の告白へ…って少女漫画か! な展開がたまりませんでした。でも彼には、この屋敷には、秘密があったのです…
 エドワードの「妻」は、今からすれば身障者差別のメタファーみたいなものでもありますよね。本当なら適正な治療やケアが施されるべき人で、こんなふうに押し込めておいていいものではもちろんない。けれど当時のこととて、それを理由に離婚はできないし、不名誉だとか体面が保たないとかなんとかでこうなっているわけです。持参金目当てに父親と兄に押しつけられた妻、とされてはいますが、エドワードがまったく無罪ということではない。神に誓った婚姻はそれほど神聖で重婚なんて許されないし、結婚していない成人男女が一緒に暮らせる道などない時代です。ジェーンは立ち去るしかない…
 しかしそこからがまた過酷で、ヒロインが困窮して行き倒れるなんて物語でもなかなかないです。しかしそこは物語なので、助けられた家が元の伯母の家で、伯母の死を看取り、赦すことを思い出し、財産を受け継ぐことになる…
 だから、と直結しているわけではないけれど、ジェーンがロチェスター屋敷に戻ると、そこは焼け落ちていて、エドワードは不自由な身になっている。妻の放火で、彼女自身も亡くなり、彼は晴れて独身だけれど、今度は世話が必要な身障者側となっているわけです。それでもいい、愛しているから…という、まあ実によくできている物語なのでした。失明していたエドワードの片目にぼんやり光が戻り、アデールが笑い、メイドたちも笑い、すべて世はこともなし、という幕切れ…美しい物語でした。
 ジェーンはエドワードの声を聞いて、お屋敷に戻りました。騙していた、妻の存在を隠していたという彼の罪を赦すことにしたのでしょう。その時点ではそれだけで、その後の展望とかはなく、ただ声に呼ばれたから走り出してしまったんですよね。妻がいたままでは結局はどうにもならなかったと思いますが、神を信じ人を愛し赦す者には報いがある、という美しい物語になっているのでした。キリスト教徒の感覚は本当のところでは我々無宗教で無信心なのんき日本人にははかりかねますが、やはりその支えは強いのだろうなあ、と改めて感心させられます。逆に言うと本当に荒野生まれの宗教で、環境が過酷だからこそ頼るものとして必要とされたのだろうな、とも思います。登場人物のストイックな黒衣が世界観をよく表していました。
 ユキちゃんはメイドのときはメガネできゅんとしました。じゅりちゃんがこれまた陰険なミス・スキャチャード(樹里咲穂)ややや鈍臭そうなメイドまでまた上手くて最高でした。家政婦長のミセス・フェアファックスは春風ひとみ。OGはどこでも本当によく働きます…
 大澄賢也もちょっともったいないくらいでしたがやはり上手くて存在感があってよかったです。
 ジェーンは小柄で不細工、という設定だそうで、上白石ちゃんは言っちゃなんですがぴったりで、でもホント上手いんだこれが! 歌はもちろん、陰気臭くてヒロインとしてはしんどいところギリギリを攻める在り方が絶妙だと思いました。ヨシオさんとの身長差は年齢差も思わせて、これまたちょうどよかったんだと思います。一見不釣り合いに見えることが必要なカップルなんだと思うので。
 ポスターやプログラムなんかのビジュアルがすべてそうですが、セピア色というか、無彩色、単色の淡い風景の中でどちらかと言えばしんねり進む、派手なところがまったくないミュージカルですが、しみじみと良く、ハコの雰囲気ともよく合っていて、日本人好みでもあるのではないかしらん、と思ったりしました。ドラマシティだとより密になりそうですね、公演の安全をお祈りしています。




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