駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

リンカーン・センターシアタープロダクション『王様と私』

2019年08月03日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターオーブ、2019年7月31日17時15分。

 1860年代のシャム王国(現タイ)。幼い息子を連れたイギリス人の未亡人アンナ(ケリー・オハラ)が船着き場へと降り立つ。近代化を推進するシャム王(渡辺謙)によって、王家の子女たちの家庭教師として招かれたのだ。出迎えにやってきたクララホム首相(大沢たかお)に怯える息子に、不安を乗り切る秘訣を教えるアンナ。だが住む家を用意するという事前の約束が破られ、王宮に住むよう言われてアンナは猛反発し…
 作曲/リチャード・ロジャース、作詞/オスカー・ハマースタイン、原作小説/マーガレット・ランドン、演出/バートレット・シャー、振付/クリストファー・ガテッリ。アンナ・レオノーウェンズとモンクット王の実話をもとにした小説『アンナとシャム王』を原作にした同名映画が1946年に製作され、1951年にミュージカル化されてブロードウェイ初演。日本初演は1965年。2015年にリバイバル版がブロードウェイで上演され、2018年ウェストエンド上演。そのカンパニーの来日公演、全2幕、字幕付き。

 「シャル・ウィ・ダンス?」の歌とだいたいの設定しか知らず、「『サウンド・オブ・ミュージック』みたいな設定だな…? でもどうオチる話なんだろう…??」などと思いながら出かけました。実話がもととはいえ、当時の西洋のオリエンタリズムというかぶっちゃけアジア差別があふれている作品だとも聞くし、現代日本女性の自分が観るのにどうなんだろう…?とも思っていました。でも、作品として一度はちゃんと観ておきたかったのと、世界のケン・ワタナベ(笑)の凱旋を寿がなくては!と思ってチケットを手配したのでした。
 で、爆泣きしました。
 ロジャース&ハマースタインということで、オペラに近い歌い上げ系の楽曲が多く、けれどバレエっぽい劇中劇挿入なんかもあってダンスがないわけではなくて、もちろん「シャル・ウィ・ダンス?」のダンスは胸アツで、とても素敵なミュージカルでした。アンナと王様だけでなくタプティム(キャム・クナリー)とルンタ(ケイヴィン・パンミーチャオ)のラブストーリーが進行するのがまたオペラっぽく、でもクラシカルなミュージカルの構成として、とても好ましく感じました。
 これは別に、西洋の女が東洋の男を教化する、といった東洋差別、女性差別の話ではなくて、また異文化交流みたいな話でもなくて、もっと単純に、アイデンティティの相克とか、他者の尊厳を認められる度量が自身にあるか、他者を認めることでより自分の尊厳も保つことができるということがあるか、というような話なんじゃないかな、と思いました。
 なんせ王様は男性なので、洋の東西を問わずこんな威張り散らかすだけで本当のことは何もわかっていない男なんて世に腐るほどいるわけですよ、ちょっと昔だろうと現在だろうと。他人に自分を崇めることを強要して、やっと自分を保てている男。けれど当人もそんな無理に気づいてはいる、けれど他にどうしたらいいのかわからないでいる。わからないのは彼が当人だからで、他者であれば誰でも、たとえ女でなくても、どんなものであれ助言はできるのです。それを受け入れられるか、そういうふうに他者を求められるか、認められるか、いいことばかりでなくてもつきあうことを受け入れられるか、という話ですよね、これは。というか受け入れられなかったらその先には闇しかない、という話です。
 アンナに「野蛮人!」と呼ばれて、自分が全否定されたようでショックで、でも自分がなんらかの間違いを犯していることは自分でもわかっていて、それでもどうしていいかわからなくて激しく動揺する王様の哀れさに、爆泣きしました。男ってホント馬鹿。渡辺謙演じる王様が本当にチャーミングで、しょうもなくて、ザッツ男で、もうキュンキュンしました。だからアンナと一緒になってときめいたり、あきれたり、怒ったり、泣いたりできました。
 アンナは普通に、男女の愛を王様に対して感じるようになっていたと思います。でも、お互いの立場とかを考えると一線を越えられなかったんだろうし、東洋のあちこちに赴任の経験があるようだけれどそもそものルーツはやはり英国にあるのだろうから、彼女は帰国してこの物語は終わるのだと私は思っていました。王様が死のうとアンナにはアンナの人生があるのだし、皇太子(アーロン・ティオ)はまた別の教師を招聘すればいいだけじゃん、アンナが王様に、この国に殉じる必要はないよ、と思ってしまったのです。だからラストの展開は意外でした。私は冷たい女なのでしょうね…
 新国王となる皇太子が虚礼を廃し、一番に自分の母親(セザラー・ボナー)を立たせたところにまた爆泣きしました。そうなのよ、何故男が女を馬鹿にできるのかさっぱりわからないのは、あんたら誰に産んでもらったと思ってるの? 女だよ、女に産んでもらってその乳で育ててもらったんだよ、女なしでは存在すらしえなかった身でよく女を馬鹿にできるよな? と言ってやりたいからです。男の種なんてそのうち遺伝子操作でなんとでもできるようになるでしょう、でも女の胎はしばらくは無理ですよ、人工子宮なんてそんなに簡単にできるものではないと思う。女なくして男は生まれえない、オスの象だけではアメリカに象は増えないのです。どうしてそれがわからないのか本当に皆目わかりません。
 でも男って、女なしでは生まれられなかった自分を恥じ、忌み嫌っているのでしょうね。そして自分と世界を憎んでいる。男のそういうルサンチマンがますます我が身と世界を不幸にしていることに、早く気づいた方がいいですよ。その点、女は弱い立場に置かされているから、愛し、認め、許すことをハナから知っている。そうでなければ生きられないから、ではあるけれど、そういうある種の必要悪であることは悲しいことだけれど、愛や寛容は大事なことです。それがなければ導けない幸せがある、そのことに世界に早く気づいてもらいたいです。
 皇太子は気づけました。不安でも、危なっかしくても、きっと今よりいい治世を行うことでしょう。クララホムもきっと支えてくれるはずです。
 このクララホムがアンナにぶつけた嘆きがまたいいんですよね。男性の率直な想いでしょうよ、でも間違っているんです。でもここでこう言っちゃうのが彼なんですよね。
 でも、今がよければこの先は闇でいいと思えるのは強者の特権であり、要するに男性の特権だということです。女性は弱者だからそんなふうには考えないし、より良い未来のために辛抱することを知っているのです。
 空元気でも元気、は私の座右の銘のひとつです。大事。自分や世の中の未来、可能性を信じて進むこと、あきらめないこと、投げ出さないこと、そういうことをシンプルに訴えている、この演目はごくシンプルな、だからこそ不朽の名作であり今なお上演される意義のあるものなのだと思いました。ちなみに「おかしな西洋の人たち」は必須です。初演時に作られるだけの度量があったのに、その後の再演でカットされることがほとんどだったというのが信じられません。それについては絶望的になりますね、西欧人でもそこまで自信を喪失していたことがあったんですね。でもそれこそが人間であり、人間的なエピソードなのかもしれません。でももうダメ。絶対に必要なナンバーです。この視点は必須です。

 字幕はやはり見づらかったけれど(目で追ってしまって肝心の舞台から視線が外れるので)、わざとなのかもしれませんがみんながわりとわかりやすい、なんならカタカナ英語でしゃべってて、だいたいのことはわざわざ字幕を読まなくても理解できたようにも思えます。あと、あたりまえかもしれませんが全キャストが歌上手でノーストレスで耳福でした。
 遠目にはそこまではっきりとはわかりませんでしたが、ケリー・オハラ以外は本当に見事な東洋人、というか非白人のキャストなのもリアルで観やすくて、だからこその舞台のファンタジーとかロマンチックさが醸し出されているのもおもしろかったです。そういうコンセプトで組まれた座組だから、だったのかもしれないけれど、そこで主役を演じブロードウェイからウェストエンドまで行った渡辺謙はやっぱりすごいなあ。いい役者さんですよね。
 シンプルだけれど効果的な装置、照明も素敵でした。

 それにしてもダンスってすごいものです。社交ダンスに関する記事でもちょっと語りましたけれど、一対一で相手と向かい合い、手を取り合うなんて、怖いことに決まっているのです。でも、お互いに心を合わせて息を合わせられれば、そして音楽に乗れれば、楽しさが何倍にも膨らむ。恋愛と同じです、あらゆる人間関係と同じです。相手を尊重し、自分の意思も大事にして、ふたりで協力し合ってひとつのことを成し遂げる。リーダーとパートナーという役割はあっても、対等で平等。自分を大事にできて相手のリスペクトもできる人間でないとできないもの、それがダンスなのです。この演目のメインテーマにふさわしい曲ですよね、「踊りませんか?」…正直手拍子は余計やろ、と思いましたが、感動しました。ラインナップのあとには素直にスタオベしてました。楽しかったです、いい観劇でした!




 




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