駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『エル・アルコン/Ray』

2020年11月27日 | 観劇記/タイトルあ行
 梅田芸術劇場、2020年11月26日13時。

 16世紀後半のヨーロッパ。海上では、強大な勢力を誇るスペインに対して、イギリス、フランスが覇権を争う熾烈な戦いを繰り広げていた。イギリス海軍中佐でありながら、スペインに強い憧れを抱くティリアン・パーシモン(礼真琴)には胸に秘めた大きな野望があった。それは、いつの日かスペイン無敵艦隊を率いて世界の七つの海を制覇すること。スペイン貴族の血を引く母(万里柚美)を持つティリアンは、母の従弟であるスペイン出身のイギリス海軍士官ジェラード・ペルー(綺城ひか理)に大きな影響を受け、大海原を翔る夢へと突き進む。最初の標的は港町プリマスの大商人グレゴリー・ベネディクト(輝咲玲央)。彼の息子ルミナス・レッド・ベネディクト(愛月ひかる)はティリアンの眼差しにどこか不穏なものを感じるが…
 原作/青池保子、脚本・演出/齋藤吉正、作曲・編曲/寺嶋民哉、青木朝子。2007年初演。

 私はアイーダとかシャンドン伯爵は観ているんだけどトップ時代のトウコは実は『スカピン』しか生で観ていなくて、卒業して女優さんになってからの方がずっと好きでそちらはけっこう観ています。なのでこの作品は以前スカステで見たことしかなく、役が多いばかりで焦点がよくわからない話だなという印象くらいしかありませんでした。主題歌や「七つの海七つの空」は印象的だし、盆やセリを活用したプロローグなんかは生で観ていたらたぎったのかもしれないな、とは思いました。また私は原作漫画も未読なので(『エロイカより愛をこめて』『』『アルカサル』は愛蔵しているのですが。なので『アルカサル』の舞台化の不出来には怒りまくりましたが)、読んでいて脳内フォローができていればまた違ったのかもしれません。結局今回も読まないままに、再演に特にワクテカもせず、公演後半に出かける体たらくでした。
 で、もともと全ツ用だったためか盆もセリも使われないことやセットがショボいことなんかはともかくとして、やっぱりやたらと登場人物が多く、クルクルパタパタ話が進むんだけど誰が何をしたくて誰とどう争っているのかよくわからず、イヤわかるんですけれどだからどーしたという気持ちにしかなれず、ノリきれないまま眺めているだけの観劇になってしまいました。
 思ったのですが、この作品に足りないのは「海賊王に!おれはなる!!」ですね。つまり、別にダーク・ヒーローだかダーティー・ヒーローだか知りませんが、野心や野望があってそのためにならどんな非道なこともする冷酷な男、が主人公でも別に物語は成立すると思うんですよ。その野心に観客が共感できなくても、それはそれで問題ない場合もあります。でも、この作品は彼の野心や野望が何かをまったく提示してくれないのです。そりゃ共感も何もあったもんじゃありません。だってわかんないんだもん。それじゃ話についていけませんよ。
 ティリアンは己が野望についてまったく語りません。何をどうしたいのか、何故そうしたいのか、作中でまったく語っていないのです。だから観客は彼の意図が何もわからず、ただただ彼の行動が不可解で、ついていけなくてボーッと眺めるだけしかできなくなってしまうのです。なんかやたらとモノローグの録音台詞がありましたが、そんなものよりこの脚本に必要なことは「主人公の目的が何かを語ること」です。冒頭のあらすじはプログラムから書き写したものですが、終演後に帰京の新幹線でプログラムのこの部分を読んで私は仰天しましたもん。「ティリアンってスペイン海軍のトップになりたかったの!? そんなこと言ってたっけ!?!?」と。七つの海がどうしたこうした、ということはしつこいくらいに歌っていましたが、ただ海が待つとか空が誘うとか言ってただけじゃないですか。彼自身が何をしたいどうしたいとは全然言ってくれなかったじゃないですか。翼がどうとかはばたいてどうとか、そんな抽象的なことじゃなくて、もっと具体的に言わせなきゃダメなんだよヨシマサ…それが敗因ですよ。必要だったのは「海賊王に!おれはなる!!」だよ、と言ったのは、そういう意味です。
 少年ティリアン(二條華)はイギリス貴族の父親(朱紫令真)に「スペイン人め」と罵られている。母親がスペイン人の愛人との間に産んだ子だから…と私は解釈していて、血が半分だけでも外国人扱いなのか、この時代の人種とか国籍とかのこだわり具合がよくわからんなー、とか思っていたのですが、どうやら母親がそもそもスペイン貴族だったそうですね(プログラムにはありましたが、脚本にありました?)。ならなんにせよ自分の子供が半分スペイン人になるのは結婚前から自明のことだったのでは…でもそうやって貶めておきながらも嫡子扱いはしていたんですね、パーシモン卿よくわからん…
 というのも私はプリマスの場面で海軍士官として現れたティリアンを、ああスペインの海軍に入ったのね、父に疎まれ本当の父かもしれないジェラードに憧れて、自意識としてはスペイン人として成人したんだもんね、と思ったのですよ。そしたらイギリス軍人だった…で、なんで? この人いったい何がしたいの? となっちゃったんですね。だからこのあたりで野望を語らせておいてくれたらよかったと思うのです。父親のことは嫌いだけれどその家名はありがたく利用する、それを足がかりにまずイギリス海軍でのし上がってやる、そしてそれを土産にスペインに亡命し、無敵艦隊の大提督になって世界を制覇し君臨してやるのだ…とかなんとか、さ。その一言があるだけで全然違ったと思うんですよね。でもクールビューティーを装ってんだかなんだか知らないけれど、ティリアンは全然言わないじゃないですか。いくら誰にも本心を明かさない、自分自身しか信じていないようなキャラなんだとしても、舞台作品としては主人公の意図や心情を観客に明かさないでどーする、って話ですよ。それこそ録音モノローグでもなんでも使えばいいじゃないですか。それか歌ですよ、歌詞で語らせるんですよ。さすがに原作漫画にはちゃんとあった…んで、しょ? 知らんけど。
 一方、わかりやすかったのはルミナス・レッドで、父親が冤罪で死刑にされた復讐で…ってのはとてもよくわかります。ちゃんと台詞で言ってるしね。それでなんで海賊になるのか、正義の海賊ってなんなんだ、ってのはつっこみたいけど、そこは目をつぶってもいい。てか久々の白い役をキラキラがんばる愛ちゃんが美しくて目がつぶれました(笑)。
 でもこれが唯一わかる例で、あとはたとえばヒロインのギルダ・ラバンヌ(舞空瞳)もよくわかりませんでした。プログラムによればフランス貴族だそうだけれど(しつこいけど、脚本にありました?)、なんで貴族の令嬢が女海賊なんかやってるの? それとも領地がなんちゃらいう島だそうだから、単に領地と領海をイギリスだのスペインだのの他国から守るために船で巡視してるってこと? それは海賊とは言わないのでは…海賊と言われるからには客船とか貨物船を襲って積み荷を奪って、転売するかそれで食うかを生業としているってことでしょ? 違うの? でもそれって貴族のすることか? てか海賊の定義って何…??
 とにかく、こういう曖昧さや誰も目的を語らないという脚本構成上の問題が、最後まで大きく尾を引いていると思いました。
 そしてもうひとつの大きな問題点は、ティリアンの女性問題(笑)です。いや「(笑)」なんて書いていいことじゃないんですけれどね、男性の下半身問題を女性問題と呼ぶなって話ですけどね。
 イヤこの時代も、なんなら今も、女性の立場は未だ弱くて家庭内レイプもデートレイプも告発されていないだけでめちゃくちゃたくさん起きていて、まあでもそれは単なる事実でしかないとは言えるんですけれど、でもそれを当時の少女漫画で、また初演当時の宝塚歌劇でそして今の宝塚歌劇でこう扱うことの、フィクションの功罪という問題があるじゃないですか。で、ペネロープ(有沙瞳)はティリアンに気があったんだからええやろとか、ギルダに関しても特に今回のこっちゃんティリアンはけっこうマジでひっとんギルダを好きっぽく見えたからええやろとかギルダの方も好きで最後は受け入れてティリアンを抱き寄せてるんだからええやろとか、とにかくそういうロマンティック・フィルターかけてごまかそうとしていますけれど、でも要するにレイプじゃん、というふうにしかもう見えなくなってきていると思うのですよ、たとえゆっくりとではあっても世界は進んでいるので。同意なき性行為は暴力です、犯罪です、人権蹂躙です。しかもペネロープに至っては殺されちゃうじゃないですか、しかもティリアンに。これってけっこうひどくないですか? 私はけっこうショックでした。
 だから私はラスト、レッドがティリアンを斬ってくれて安心しましたもん。そりゃそうだよね、正義は勝たないとね、悪人は罰されないとね、それが物語だよ、と思いましたもん。初演時、観劇した青池先生はティリアンがかわいそうと泣いたそうですが、それはこの志半ばで倒れたことについて言っているのでしょうか。でもじゃあペネロープはかわいそうではないのか。主人公だからといって他人を罠にはめ強姦し殺し殺させた報いを受けなくてもいいというのか。女性もまたこのミソジニー社会で育つので女性嫌悪を内在化させてしまうことは多く、少女漫画だからといってフェミニズム的にダメなものも残念ながら意外に多いのが現状です。特にいわゆるフツーの異性愛ラブロマンスをあまり描かない作家には、その根底に複雑な女性嫌悪があることが多いと私は考えていて、読むには実はけっこう注意が必要です。そこに繊細な留意ができない男性演出家に、宝塚歌劇として舞台化される恐ろしさたるや…!
 このラストは物語として正しい帰結、美しい決着だったと私は思います。さらには、レッド自身は実はティリアンの死を確信できていなくて、でももう父親の復讐とかそういうことは忘れて、ただ仲間たちとさらなる大海原へ漕ぎ出そう、と笑って終わるのが、いい。ティリアンはスペインの大提督になりたい、故郷に錦を飾ってみせる、いじめた周りを見返してやる、みたいな野望を抱いていたわけですが、それって実はけっこうみみっちいレベルのことで、より大きな意味ではここではないどこか、もっと広いところでもっと大きな何かを成し遂げたい、みたいなことを望んでいたわけであって、それは今に生きる全人類にも通じるようなある種普遍的な想いですよね。そしてそれをレッドが継ぐのです。皮肉なようで、美しい帰結です。そして彼の傍らには、港で泣いて待つ女ではなく、ともに仲間として生きる女であるジュリエット(桜庭舞)がいる…美しい構図です。白いお衣装になったティリアンとギルダが歌い踊って幕を下ろすのは、天国の幻想としても、宝塚歌劇のお約束としてもまた美しい。せめてもの救いです。実によくできたラストではないですか!
 でも、もう、これで気がすんだでしょう、もういいでしょう。海賊というモチーフに人気があるというのなら、ピカレスク・ロマンをやりたいというのなら、次はオリジナルで、現代の感性と演出家の個性で新作を作ればいいのです。トウコからチエちゃん、こっちゃんというのはまさしく「星を継ぐ者」の正統な系譜ですが、今回のレッドは愛ちゃんです。トップスターより上級生の二番手スターという逆転が起きている、ここで堰は止まっているのです。もう下へ、先へと流していかなくていいのです。よしんば今客席でこれを観て感動して入団せんとする若き乙女がいるのだとしても、彼女のためには彼女のための新しい作品を用意しましょう。再演に耐える作品とそうでない作品、という区別は絶対にあります。
 みっちゃんの『大海賊』もそうでしたが、トップ就任のご褒美に当人の希望の作品をやらせてあげるってのは、いいっちゃいいけどでも、一番に喜ばせるべきなのは観客だからさ…あれも発表時に再演するほどの作品じゃねーだろと思ったし実際に再演の出来もその程度だったし、今回もやはりプロデューサーその他劇団側がもうちょっと熟考すべき案件だったのではないでしょうか。生徒は若くてその視野は狭いんだからさ、オトナがなんとかしてあげないと…てかどんだけ人気なんだ海賊。わからん。ショーでならアリな気はしますけどね…
 こっちゃん、ひっとん始め生徒はバイト含めみんな大活躍大熱演で、楽しそうだったのでそれはよかったです。公演期間がずいぶんと短いのは、まあ残念ですが仕方ないところでもあり、次の本公演を楽しみに待ちたいと思います。

 ショーの本公演版の感想はこちら。まるっと変わった場面も、部分的に改変された箇所もけっこう多く、新鮮に楽しめました。しかし『シラノ』側に娘役があまり出ていないこともあって、こちらは目が足りなかったなー。みんな鬘も変えてきてるしさー、はるこもくらっちもまめちゃんもにじょはなもきらり杏ちゃんも都優奈ちゃんもミズノちゃんも俺たちのるりはなも星咲希ちゃんも観たいんだよ忙しいんだよ!
 そしてひっとんの進化は目覚ましいですね! もともとなんでもできる人だったけれど、霊夢の場面の身体の利きっぷりがすごかったし、霊鳥とっぱしの歌もすごく立派でした。強いて言えば今までは歌が弱かったと思うけれど、もはやまったく問題なくなりましたよね。でも新ギリシャ場面は、あのお衣装にはロングヘアの方がよかったかも。ちょっとスポーティーすぎませんでした? フィナーレの娘役群舞のときのピンクのドレスが大好物なんですが、ここも鬘を変えてきてめっちゃキュートだった! そしてめっちゃ振りの多いデュエダンをキビキビと、でも情感もこめて踊れて、ホントすごい!! ジュリエット楽しみだなー、がつんと芝居が観られるといいなー。
 男役はこっちゃん愛ちゃんあかちゃんぴーあまとくんと、みんなタイプが違って良きでした。咲城くんや湊くんや夕陽くんも推されてるんだな、とは感じましたがなんせ忙しくて目が足りず、まだちゃんと認識できていないかな…ごめん…今後がんばります。
 年内は『シラノ』がラスト遠征予定です。引き続き感染予防に努め、さくっと日帰りしてきたいと思っています。みなさまもどうぞご安全に…!





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『Beautiful』

2020年11月25日 | 観劇記/タイトルは行
 帝国劇場、2020年11月23日18時半。

 ニューヨークに住む16歳のキャロル・キング(この日は水樹奈々)は、教師になることを勧める母親のジニー・クライン(剣幸)を振りきって、プロデューサーのドニー・カーシュナー(武田真治)に曲を売り込み、作曲家としての一歩を踏み出す。やがて同じカレッジに通うジェリー・ゴフィン(伊礼彼方)と出会い、恋に落ちたふたりはパートナーを組み、キャロルが作曲しジェリーが作詞を担当するようになる。ほどなくキャロルは妊娠、結婚したふたりは必死で仕事と子育てに奮闘するが…
 脚本/ダグラス・マクグラス、音楽・詞/ジェリー・コフィン&キャロル・キング、バリー・マン&シンシア・ワイル、オリジナル演出/マーク・ブルーニ、'17年版演出リステージ/ジェリー・バトラー、翻訳/目黒条、訳詞/湯川れい子、演出リステージ/上田一豪。キャロル・キングの楽曲で彼女の半生を綴るジュークボックス・ミュージカルで、2014年ブロードウェイ初演、2017年日本初演の再演版。

 初演時に食指が動かなかったのは、キャロル・キングの名前と「ロコモーション」くらいは知っているけれど親世代くらいのアーティストだよね?と思ったのと、ミュージカルとして架空の物語をやるのかアーティストの半生ものなのかよくわからなかったこと(そして私はこの人はこういう名前の黒人男性歌手かと何故か思っていたのでした)、そしてタイトルが漠然としすぎていて今ひとつイメージが湧かず興味が持てなかったからでした。思えば曲名だし、もともとそういうタイトルのミュージカルなんだから仕方ないんだけれど、でも日本では「Beautiful Life」でも「Beautiful Days」でもなんでもいいんだけれど、何かもうひとつ単語がついていたら、もう少し何かがイメージしやすかったのではなかろうか、とか思ってしまいました。とにかく宣伝がわりとふわっとしていたと思うんですよね…なのでそんなに当たった印象もありませんでした。
 なので再演の報を聞いて、そんなに評判が良かったのか、と驚き、よく見たらメンツはやたら豪華で歌える芸達者揃いだしな、と心惹かれ、そして再演も開幕したら好評ばかりが聞こえてきたところに、知人に誘われたのでホイホイ出かけてきました。
 水樹奈々も私は「なんか人気の声優さん」という程度の認識でした、すみません。だから自分でチケットを手配していたら平原綾香回を選んでいたと思うけれど、ご縁で出会えてよかったです。多分どっちも歌はめっちゃ上手くて、でも役作りはけっこう違ったんじゃないのかな? 両方観た方の感想がうかがいたいです。
 セットがとても素敵(オリジナルセットデザイン/デレク・マクレーン)で、あと衣裳(裏切らない前田文子)もとても素敵でした。この時代、いいですよね。アンサンブルもみんな歌が上手くて素晴らしかったです。意外に知らない曲ばかりだったんだけれど、それでも楽しかったのは歌唱がしっかりしていて歌謡ショーとして楽しく観られたからだと思います。
 ご存命の人物の半生記ものなので、もちろんそれなりにドラマチックではあるんだけれど、たとえばものすごく深い心理描写があるドラマとかいうよりは、ああなってこうなってという筋が転がるタイプのストーリーで、ドラマはライトに、歌唱はたっぷり楽しく、というバランスがいい舞台なのかな、と感じました。タイプとしては『オン・ユア・フィート!』に近いのかな? 私は重くて濃いものの方が好みなんだけれど、それでも楽しかったのは、とにかくみんな歌が上手くてノーストレスだったからだと思います。
 ところで、黒人を演じる際のブラックフェイス問題はその後どうなったのでしょうね…この作品では黒塗りはしていませんでしたが、ちょっと濃いめの地肌にしているようには見えました。あと縮れ毛の鬘でしたよね。人種を表現することにはそんなには意味がないストーリーだったかとは思いますが、この作品に限らず日本で日本人が日本語で外国ものを演じる際には、人種の区別を表現する必要がある場合はどうしても肌の色を白くないし黒く塗らざるをえない場合があると思うのですが、それが人種差別に当たるのかどうかは、どう考えていったらいいものなんでしょうね…

 さて、そんなわけで水樹奈々のキャロルはとても真面目で一途で一生懸命で、可憐でいじらしく、応援したくなるヒロイン像を見せてくれて、歌はパンチのあるものもしっとり聴かせるものも自由自在で、素晴らしかったです。夫、親友夫妻ともみんな歌ウマで楽しかったです。武田真治もウタコさんももっとバリバリ歌ってほしかったなー。
 そして私はソニンが好きなので、キャロルが夫との関係に悩んでシンシアに愚痴ったりするくだりでは、「うん、キャロル、シンシアにしとけ?」と念じながら観ちゃいましたよ(笑)。ライバルで戦友で親友、みたいなシスターフッドがとても素敵でした。
 アッキーも久しぶりだったので、シンシアとバリーのカップルにはかなりキュンキュンして観ました。好きだから結婚したい、と言うバリーと、好きだけど関係性が変わっちゃうのが嫌で結婚を渋るシンシア…でも「ふさわしい相手と結婚しないのは、ふさわしくない相手と結婚するよりダメなことよね!」みたいな感じでやっと決断する。少女漫画チックなラブコメっぷりにニヤニヤしちゃいました。でも芸術家同士のカップルってのはホントはけっこうタイヘンなんじゃなかろうか、とも思いました。

 「君は友だち」の「Winter,spring,summer or fall/You just call out my name/I’ll be there/You’ve got a friend」というのはすごく英語っぽい言い回しだけれど、すごくわかるし、いいなと心震えました。「呼んでくれたらいつでも行くよ、だって友達じゃん」みたいな意味ですよね。
 あと「Natural Woman」の「You make me feel like a Natural Woman」というのもすごくわかります。何がどうナチュラルで生まれながらの、生まれつきのなのかはいろいろと議論があるところですが、でも私は所詮シスヘテロ女性なので、男性との恋愛やあれこれでこういうことかと実感した経験はあるので、響きました。
 日本語の歌詞も全体に過不足なくよかったけれど、なんせみんな歌が上手いので歌詞も明瞭に聞こえて意味やイメージがよく伝わり、でもストーリーにすごく絡んでいて意味を取り考えることが必要、みたいなこともなくて、聞いていてすごく楽でストレスがなくて、よかったなあと感じました。イヤ最近だと『アナスタシア』の歌が、キャラやストーリーに直結しているのに歌詞があいまいで理屈が通っていなくてブレていて、キャラやストーリー解釈の根幹に揺らぎが出ていることにストレスを感じたので、つい…
 舞台の奥にバンドがいて、カテコでは顔が見えて客席から拍手が送れたのもよかったです。クリエはコロナで残念なことになってしまっていますが、こちらは千秋楽まで無事完走できますよう、祈っています。




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『Gran Tango 2020』

2020年11月23日 | 観劇記/タイトルか行
 イイノホール、2020年11月22日17時。

 第1幕は「EVITA y LAMARQUE」、構成・演出/石丸さち子。水夏希がエパ・ペロン大統領夫人を、凰稀かなめがタンゴの女王リベルタ・ラマルクを演じるタンゴ劇。タンゴ界の大スターにして男装の麗人アスセナ・マイサニ役として姿月あさとも特別出演。第2幕は「Tango Espetacuro」、究極のタンゴショー。

 最近だとしろきみちゃんとかもそうらしいですが、宝塚歌劇団を卒業したあとアルゼンチン・タンゴに傾倒するOGってけっこう多いそうですね。ミズもそうだと聞いていましたが、卒業後の舞台をあまり観るチャンスがなく、今回やっとタイミングが合って出かけられました。初めてのホールでしたが、とても素敵な会場ですね。室内楽やリサイタルにいい空間なのかな? 席はまだ千鳥の売り方で、とても快適でした。
 1幕は芝居のような、歌と台詞があってキャラとストーリーがあるミュージカルのような、小品でした。ズンコが黒のスーツにハットで、ミズが赤いドレスで、テルは白のドレスと鮮やかでした。ミズもテルも踊りますが、とにかくリーダーの男性が上手いんですよね! 体幹がものすごくしっかりしていてみじんも揺るぎがなく、パートナーの体と踊りを見せること、支えてサポートすることに徹していて、タキシードだしそれこそ黒子のようなんだけれど、でもつい目が行く上手さと鮮やかさがありました。シビれる!
 2幕は純粋なショーで、ズンコとテルが歌い、ミズ含む3組が素晴らしくアクロバティックな技も含めたタンゴをバッチリ踊って見せてくれました。堪能しました!
 私はソシアルダンスのお教室にちょろっと通ったことがある程度で、アルタンについてはまったくの素人ですし、スペイン旅行のときにタブラオを覗いたりはしましたがこういうショー用のダンスを見るのはほぼ初めてで、技術的なことやレベルやクオリティなんかは全然わかりませんが、でもすごーく感動しました。アンサンブル…という言い方はしないのかもしれませんが、ダンサーとして天緒圭花と美翔かずきが出ていて、これもまた素晴らしかったです。天緒さんは私は現役時代の記憶があまりないのですが、みっしょんは縁あってお茶会のお手伝いをしたりもしたんですよね。1幕は黒、2幕は赤いドレスで素敵でしたし、まったく危なげなくかつ色っぽくカッコ良く、難しげな振りを踊っているように見えました。心からの拍手をしちゃいました。
 残念ながらバンドの来日がかなわなかったそうで、音楽は録音のようだったのですが、踊りはともかく歌だと歌よりちょっと早い気がして、それは残念だったかな。難しいものですね。
 でもとにかく楽しかったです。何度かやっているシリーズなのかな? また観たい! そしてお教室通いも再開したい、と改めて思いました。元男役たちはみんなタッパもあって高いヒールも履いているので、外国人のリーダー男性と背の高さがほぼ同じで、それもダイナミックで素敵でした。スリットがあるとはいえあんな長い裾のドレスで、よくもまあああ踊れるものだなあ。見せる踊りをすることには慣れているのかもしれませんが、単に振りを覚えただけではとてもすまない立派なタンゴを立派に踊っていて感動しました。見習いたい、見守りたい…OGにはミュージカルだけでなくダンスやショーももっとやってほしいなー、と思ったりもしました。


コメント (3)
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『JSA』~韓流侃々諤々リターンズ22

2020年11月22日 | 日記
 2000年、パク・チャヌク監督。ソン・ガンホ、イ・ビョンホン・イ・ヨンエ。

 『シュリ』とこの映画が韓流の幕開きでしたよね。私はまだ『愛の不時着』を見ていませんが、もちろんこの作品とは全然テイストが異なるのでしょう。そして実際の板門店の今の現実もまた全然違うものなのでしょう。私が親友のたっての希望でソウル旅行中に板門店を訪れたのは、いつのときだったかな…いろいろなことを感じた記憶があります。世界にはいろいろな紛争や内戦や戦争がありますが、顔を合わせればすぐ普通に話ができる、同じ人種の、同じ言語の、同じ文化の、同じ歴史のひとつの民族が、人工的に引かれた線でこんなにも分断されていることに違和感しかありません。それほど国家とは、政治体制とは強固なものなのでしょうか…
 今回改めて見てみて、『藪の中』ものとして、男の子映画として、南北分断ものとして、戦争ものとして、未だ不朽の名作のひとつだな、と感じました。多分、人間も、世界も、ここから今もあまり変われていないのだと思います。良きにつけ、悪しきにつけ。

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『NINE』

2020年11月18日 | 観劇記/タイトルな行
 赤坂ACTシアター、2020年11月16日13時。

 チャップリン以来の天才と称えられ、世界的な名声を欲しいままにしてきた映画監督のグイド・コンティーニ(城田優)は、常に華やかな女たちに囲まれ、繰り返されるスキャンダルも次回作へのインスピレーションになっていた。だが今や、撮影が迫る新作映画のアイディアに行き詰まり、苦悩の日々。あげく、元女優の妻ルイザ(咲妃みゆ)に離婚を切り出されてしまう。追い詰められたグイドは妻との関係修復とスランプ打開のため、ルイザを連れてベネチアのスパ・リゾートへ逃亡するが…
 脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、翻案/マリオ・フラッティ、演出/藤田俊太郎、翻訳・日本語字幕/小田島則子、訳詞/高橋亜子。1982年初演、全2幕。

 別所哲也グイドにOGのジュンちゃんやナツメさんで観たときの感想はこちら。のちにG2演出、松岡充グイドでも上演があったそうですね。このときはクラウディアがかしちゃんでラ・フルールがリカちゃんだったらしいので、私のアンテナにかかりそうなものですが、観ていないということはもしや、ハコが銀河劇場で行くのをやめたのかもしれません。アートスフィアで観ておいてなんですが、私はあそこが劇場としては大好きなんだけれどモノレールに乗らないと行けないという立地が大嫌いで、よっぽどのことでももう行かないことにしているのでした。でもいい演目やりますよね…そして確か最近は地下鉄が通るようになったんでしたっけ…? 最近でもなかったかも。なら、思い込みを捨てて今後は行くようにしようかな…
 ともあれ、内容に関しては例によってあまり覚えていないまま、でもなんかよかった記憶がうっすらあったので、今回も出かけてきました。

 ところでこのコロナ禍で在宅勤務時間が増え、ぶっちゃけ1日8時間みっちり自宅パソコンに張りついて仕事しているわけでもないので、テレビで放送している昔の洋画なんかをちょいちょい録画しては見ていて、それで『道』も先日見たんですけれど、まあ昔はこういう映画が名作とされていたんだよね…という歴史的な意義しか私には感じられませんでした。おそらく『8 1/2』は見てみてももっとピンとこないだろう気しかしません。
 この作品は、そんなフェデリコ・フェリーニの9本目の映画(処女作が共同監督だったので1/2としたそうな)で自伝的作品だった『8 1/2』をミュージカル化したもので、主人公は映画監督です。彼が母親(春野寿美礼。さすがの、変わらない美声でした)の9人目の子供だったことと40歳を過ぎても精神年齢が9歳くらいなことがタイトルの由来で、『モーツァルト!』のアマデみたいな9歳児リトル・グイド(この日は大前優樹)が舞台にいつもちょろちょろいるのがミソです。映画には他にも男性の登場人物がいるそうですが、ミュージカルは主人公と8人の女たち、の9人にほぼ絞ってしまっているところもミソ。今回はさらに女性アンサンブル8人が元カノになりマスコミ記者になり映画の端役たちになり、DAZZLEの9人(実際にはひとり休演していましたが)が黒子になったり心象風景を踊ったり撮影スタッフに扮したりしていて、とても粋でした。
 そして盆を生かした美術(松井るみ)が素晴らしくスタイリッシュで、8人の女たちの衣裳(前田文子)は素晴らしく色鮮やかで、本当にお洒落で素敵な舞台に仕上がっていました。
 バイリンガルやトリリンガル、かつハーフというかミックスというか、どちらもあまりいい言葉ではないように思えますが要するに日本以外にルーツを持つキャストが多かったこともあったためか、英語やフランス語やイタリア語やドイツ語が台詞にも歌詞にもガンガン出てきて、その日本語字幕は映画の吹き替えのように紗幕に映写されるという、これまたとてもお洒落で多国籍でインターナショナルな雰囲気の作品になっていました。でも字幕はもしかしたら端の席では見づらかったりしたのかしら…でもとても秀逸なアイディアだと思いました。
 オケは舞台の上手袖にいました。私はセンターブロック下手寄りの席で観たのでベストだったかなと思いましたが、上手席では聴こえ方が違ったかも。あと、マイク音量などずいぶんと上品というか、ぶっちゃけ小さすぎない?2階席とか聞こえてる?と気にはなりました。が、総じて何もかも好みの舞台でした。幕間にずっと波音のSEが流れていたのも素敵でした。

 完全にぶっちゃけて言うと、40歳も過ぎて功成り名遂げてそれでも9歳児みたいなオコチャマだった、才能はあるのかもしれないけれど人としてなってなくてだらしなくてどうしようもなかった男が、やっと9歳児の自分に別れを告げて大人になる、あるいはなろうとするところで終わる、お話です。だから私が「ケッ」とならなかったということは、私はけっこうしろたんが好きなんだろうなあ(笑)。別にグイドがものすごくチャーミングな男に思えた、ということは全然なくて、それでいったら今も昔も人の妻であったことはないがゆうみちゃんがやっているというだけでルイザに共感する気満々で観るんですから、こんなにも愛と誠意を捧げてくれるちゃんとした妻をこんなにもないがしろにするサイテー夫、としか思えないわけです。でも、しろたんの見目の良さと、的確な演技によるダメさが、「ああ、こういう事態にもつれ込むのはわかる、仕方ない」という説得力を持ったのです。なので観ていて嫌な気にならなかった、それが大きいと思いました。
 でも、スランプでアイディアは全然沸かず、でも契約しちゃったから撮影チームは準備を始めちゃうし、プロデューサー(前田美波里。ダルマ姿も素晴らしい。でもダンスが危なっかしかったのは、やはり美脚やスタイルを保っていることと筋力や運動能力があることとはまた別なのでしょうか…そりゃさすがにいいお歳ですものね。もう少しお若い、50代くらいの女優さんがやっても全然いい役だとも思うし)は脚本を読ませろと迫るし、批評家(エリアンナ)はハナから酷評する気満々だし、愛人(土井ケイト)は夫と別れたからあんたも妻と別れて結婚してくれと迫ってくるし、母の幻は自堕落を責めてくるし、主演女優(すみれ)は役の説明をしてくれなきゃ出演しないと言うし…ともうわやくちゃなのも、すごくよくわかる(笑)。そらそうだ、だって仕事人としては今はホントしょうもない男なんだもん。
 そういう意味ではラ・フルールやネクロフォラス、クラウディアたち「働く女」に私は一番共感できました。もちろん私自身が妻より愛人より母よりまず働く女だからです。
 ラ・フルールはかつてはショースターで今は辣腕プロデューサー、グイドと組んで何作もヒットを経験していて、でもここ三作は外していて、それでも信じて資金を集め企画に乗った、アイディアも出す。ビジネスだけじゃなくエンタメへの愛もあり、ちゃんと仕事をしている女性です。ネクロフォラスも単に悪口を言っているだけなわけではなくて、冷静に問題点を上げてくれているのだし、これまた改善点やアイディアを提示しています。グイドが聞かないだけなのです。彼女たちの、新作映画につぎこんだ資金を回収するためにはグイドに自殺でもしてもらってその生命保険金を当てたい、と考えるクールさにはシビれました。そしてクラウディアは、おそらくグイドの処女作でスターダムにのし上がった女優で、けれどその後のグイドが同じような役しかくれないので自分のキャリアに悩んでいる。ものすごく美人で、それをもてはやされているスターなんだろうけれど、当人はもっと演技の仕事がきちんとしたいとあがいていて、ちゃんとレッスンも受けている。決して綺麗なだけのお人形ではないのです。私はすみれは『エニシング・ゴーズ』『二都物語』なんかで観ているのですがプロポーションが悪目立ちしていてあまり良かった記憶がなく、今回もちょっと身構えていたのですが、もうすごーくすごーくよかったです。もしかしたら役の幅を狭めるその美貌もスタイルの素晴らしさも、今回はこの役である説得力を強力に持っていたのはもちろんですが、ほとんどボソボソと言っていいくらい低く早くしかもけっこうつっけんどんにしゃべるのがもう本当に、女優さんのプライベートの口調、という感じがしてめちゃくちゃ説得力がありました。かつてはグイドのミューズだったのかもしれないけれど、そしてグイドは今でもその幻想にしがみついていて彼女を撮れば自動的にインスピレーションが得られると思っているけれど、でもそんなことはなくて、彼女はひとりの女優で、監督がいい役を書いてくれなければ今以上には輝けないし、実生活ではひとりの女性でちゃんと愛し合いともに暮らす人がもう別にいるのです。そういうことがグイドには全然わかっていない。それで自作の焼き直しか、万人が思いつきそうな思いつきのアイディアしか出せなくなっている。クリエイターとしてどん詰まっている男の周りで、女たちは働き、待ち、うながし、せっつき、手を差し伸べ…そして、どーもならんと判断してさっさと去っていくのです。まあ、あたりまえですよね。せつないとも、ざまをみろとも思えませんでした。そのスッキリさがとてもよかったのです。
 男で、白人で、イタリア人で、カトリックで、9番目の子供であることの生きづらさ、なんてこの舞台の観客のほぼ誰にもわからないことでしょう。でも私たちも私たちの生きづらさは抱えていて、それをどうにかやりくりして、そして観劇に来ているんですよ。なのにアンタはなんなの?と舞台上の人物ではありますが、舞台を観ていてグイドに言ってやりたくなるわけです。あるいはこういう作品を嬉々として作っているフェリーニに、世の男どもに。女は9歳ならもう子供ではないでしょう、というか子供でいさせてもらえないのです。女はそう育てられてしまう、なのに男はいつまでグダグダ甘えたことを言ってるんだ?とそりゃ言いたくもなりますよ。
 でも、グイドは今度こそ、ちゃんと、大人になることを決意する。そして物語は終わる。だから、まだただスタートラインに立っただけなんだけれど、まあいいか、と思えて、優しい気持ちで観終われる。そんな舞台になっていた気がしました。
 ラストシーン、それまで色とりどりの服を着ていた女たちはみんな黒を着て現れます。1幕で黒のスーツだったグイドは2幕では白のスーツになっている。他に白を着ているのはルイザだけです。グイドがリトル・グイドに別れを告げると、女たちの列からルイザだけが離れて、グイドに近づいてきて、そこで舞台は終わります。
 ブログを読むと、私は前回の観劇ではこれを妻だけが戻ってきて許してくれる、と捉えて、でもその甘さに怒り妻のために悔しくて泣いたようです。でも今回はそうは思いませんでした。ルイザは確かにグイドのそばまで来たけれど、それは特に何を意味しているとも思えなかったのです。ルイザがグイドを許したということではない。でもグイドがこのあと悔いてルイザに許しと再びの愛を請うたなら、ルイザは応えるかもしれない。あくまでそういう可能性、未来、希望を提示しただけのものに見えて、でもグイドが本当にそうするかはわからないしルイザが拒否することもありえるだろうし、でもいずれにせよそれはまた別のお話、と思えて、ただとにかくグイドがリセットしてやっとゼロ地点に戻ったこと、あるいはやっと達せたことを寿いで、ちょっとすがすがしく観終えられたのでした。
 それは男の甘えを許すこととは違います。でも、男がやっと女のレベルまで来たのなら、そこから一緒に考えてやらんでもない、というような感覚でしょうか。所詮私はシスヘテロの女でラブストーリーが好きなので、そんなふうに感じて、作品全体のスタイリッシュさへの好感もあいまって、とても気持ち良く観ちゃったのでした。

 色には意味があると聞きますが、ルイザの緑は自然とかのイメージもあるけど確か嫉妬の色では? カルラが赤なのはわかりやすくて、情熱ってことですよね。下着イメージの服でもあるし。クラウディアのソワレはコーラルピンクでしたが、もっと赤とははっきり違うとわかるピンクでもよかったのかも。ラ・フルールのスーツの青は知性かな? ネクロフォラスのオレンジ、スパのマリア(原田薫)の黄色、サラギーナ(屋比久知奈)の紫はなんでしょう? 母親の黒は喪服かな、すでに亡くなった人というイメージかもしれません。それか、カトリックとか神性?
 しかしゆうみちゃんは素晴らしかったなあ! 『窮鼠』に続いて妻の役でしたが、芯があって、含みもありそうで、もう別の恋人がいてお腹に子供が宿ってる、とか言い出しそうな気迫も感じました。母親役は別にいるから、というのもあるけれど、ただの聖母みたいな妻でも耐えるだけの辛気くさい妻でもないところがよかったです。元女優という華もあり、けれど今は夫を支える影に徹している強さ、賢さもきちんと感じられる女性像でした。カルラのことも把握していてクラウディアには電話もできる、すごいキャラクターをゆうみちゃんは的確に体現しきっていました。イタリア語も上手かったし、何より歌がものすごーく良かった! どっちもものすごく難しい歌だと思いましたが、それをただ朗々と歌うんじゃなくて、芝居歌として1幕はものすごく丁寧に、2幕は圧巻の情熱で歌ってみせて、ハートにビンビン響きました。
 グイドが、神学校に進んだのに海岸にいた娼婦に性を教えられて人生を狂わせた…ってのはまあわかるんだけど、それより大事なのは映画との出会いだったはずで、そこは語られないんですよね。でもそこに前後してルイザとの出会いがあったはずなんです。新進の映画監督と女優、そして恋…だからこそ彼らは結婚したのです。グイドがそこを思い出せるのなら、まだ映画監督としてやっていけるしルイザの夫としても生きていける、ということなんじゃないかな、と思いました。だからそこが語られないのがむしろミソなのかもしれません。

 アンサンブルにはあみちゃんとしーちゃんがいて、ことにあみちゃんはラ・フルールのアシスタントか秘書みたいな役どころもやっていて印象的でした。
 いい作品だったので、自分があらかた筋を忘れたころにまたいい配役で観たいな、と思いました。



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