駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

こまつ座『どうぶつ会議』

2019年01月27日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場、2019年1月25日19時。

 世界中のどうぶつたちが子どもたちのために立ち上がりました。「どうぶつ会議」の始まりです。だから人間の大人のみなさま、子どもの心になってご観劇ください…作/井上ひさし、演出/田中麻衣子、音楽・歌唱指導/国広和毅、美術・どうぶつ造形デザイン/香坂奈奈。エーリッヒ・ケストナーの児童文学を原作にした、3歳から100歳まで楽しめる音楽劇。48年ぶりの上演。全一幕。

 大空さん会のお取り次ぎのおかげでステージシートでの観劇でした。舞台全方の客席を一段低く囲って、役者が扮する動物たちがバンバン降りてくるスペースにして、この席に座った観客は舞台と一体になり、お話の中で動物たちが人間の大人たちへの交渉の人質にする「人間の子どもたち」の役になることを求められます。それはプログラムでも観客全員に対して求められていることですし、お話の始まりかたといい展開といい、ものすごく絶妙にそれはそうなされていました。
 …でも、私はダメなんです。童心がないタイプなんです。なんなら子供時代にすでに子供らしくない子供でした。そうは言っても子供にすぎなかった私の自意識にすぎないのかもしれませんが…少なくとも今はダメなんです、テレちゃうんです、アタマ固いんです。最前列だけど一番端っこだったので役者さんたちの目は意外と素通りで、子供になれていないことがバレずにすんだようで助かりました。最後の最後にサル(田中利花)に頭を捕まれてかまわれたけど(笑)。嫌な気はしませんでした、笑ってしまった。そして向こうもたまたま私の頭をつかんだだけで、私がノっていないからかまったとか揶揄したとかはなかってたかと思います。
 楽しくは観たのです、本当に。ただ、私は、ああいう場では歌えないタイプなのです。
 でも歌は覚えましたし(あれだけ繰り返されればね!)、むしろ動物たちと約束する側の大人でいたい、ならねば、と思いました。そういう大人になるという約束なら動物たちとできると思うのです。不甲斐なくてすまん。

 さて、やたら美声のネコ(池谷のぶえ)とかいろいろ印象的な役も役者もたくさんいましたが、大空さんはお兄さんライオンのアロイス役(大空ゆうひ)です。アフリカの王様で、どうぶつ会議の議長です。似合うわー(笑)。
 東京會舘のDSで客席降りをしなかった脚の怪我はまだ悪いのか、ライオンの脚に上手くカモフラージュした杖をついていましたが、たてがみも素敵、剥き出しになった二の腕はもっと素敵で見とれました。性別は特に意味はなかったのかなあ、立派なたてがみがあるから雄、程度だったのかも。大空さんの声ってまあまあ低いですしね。
 とにかくおおらかな王者の風格があって、正しい配役だと思いました。こういう作品を好んで選ぶのも大空さんらしいと思いました。
 美術や衣装も素敵な、いい舞台でした。
 この作品が上演されなかった半世紀の間に比べて、この作品がまた再演される意義があるとなってしまった今の世の中に、絶望しかないのが残念なところです。今の為政者たちは半世紀前にこの作品を観て育った世代であるはずなのになあ…悲しいです。
 だから、子供たちに負担をかけるのは申し訳ないけれど、でも、これを今観た子供たちに立ち上がってもらうしかありません。子供になってこれを観た大人の観客たちもまた同様に、立ち上がり、歌い、為政者たちに平和への要求を突きつけていくしかありません。私たちはみんな、地球に暮らす同じ仲間なのですから。別に私たちがみんないなくなっても地球はまったく困らないのだけれど、それでも。
 私たちはもと愛せるはず、戦えるはず、がんばれるはずなのです。そんな勇気を、もらいました。


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宝塚歌劇雪組 『ファントム』

2019年01月20日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2018年11月27日13時、18時(新公)。
 東京宝塚劇場、2019年1月17日18時半。

 19世紀のパリ、オペラ座通り。無邪気で天使のように美しい娘クリスティーヌ・ダーエ(真彩希帆)が歌いながら楽譜を売っていると、オペラ座のパトロンのひとりであるフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵(彩凪翔と朝美絢の役替わり)が通りかかる。彼女の歌声と美しさに強く惹かれたフィリップは、彼女が歌のレッスンを受けられるようオペラ座の支配人ジェラルド・キャリエール(彩風咲奈)を紹介するのだった。しかしそのころオペラ座ではキャリエールが解任され、文化大臣を買収したと噂されるアラン・ショレ(彩凪翔と朝美絢の役替わり)が新しい支配人となっていた…
 脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、潤色・演出/中村一徳、翻訳/青鹿宏二。1991年初演、宝塚では2004年宙組、2006年と2011年に花組で上演されたミュージカルを映像や舞台装置、衣装などを一新しての再演

 宙初演の感想はこちら、花オサ版は観ていなくてまゆたん版はこちら。外部だとこちらこちら、続編ならこちら
 個人的には『オペラ座の怪人』より好きな演目です。宝塚歌劇でやるには役が少ないのがネックだとは思っていますが、似合う作品だとも思っています。やっと、まさにやっとの歌上手コンビでの上演とあって、月『エリザ』以上のチケット難でしたが、一応両パターンとも観られたのでよしとします。
 大劇場で観たときには、だいもんが上手いのは知っていましたがきぃちゃんが本当に圧倒的だな、と感じました。でも東京ではだいもんがより進化していて、きぃちゃんはあまり変わっていない印象でした。なんにせよすごい、ふたりともすごい。もちろん声量があるとか音程が正しいとか歌詞が聞き取れるとかだけじゃなくて、歌で感情を伝えて芝居に溶け込んでいるのがすごい。でもとにかく音楽の話なんだから、歌唱力に説得力がないとやはり苦しいのであり、今後の上演はやはりそこを重視して企画してほしいよな、でなければこれをもう決定版として封印してもいいよ…とくらい思いました。
 しっかりした歌唱に裏打ちされた、ハートのある芝居に、とにかく泣かされました。
 幼くて、純粋で、まっすぐすぎてちょっと乱暴なだいもんのエリック。
 天使の歌声を持っている以外はごくごく普通の娘、という感じなのがとてもいい、きぃちゃんのクリスティーヌ。
 そして、ホントは無理して発声しているようで心配なんだけれど、深く低く渋い声が素晴らしい、咲ちゃんのキャリエール。歌も本当に良くなりましたよね、情愛がにじみ出る演技、包容力とも圧巻でした。
 シャンドン伯爵は私はナギショに軍配を上げます。クリスティーヌとのデュエットに危なげがなかったのに仰天して、「人って上手くなるもんなんだなあ!」と感心してしまいましたよ…(ファンの方、すみません)あーさの方が歌もいいだろうと心配していなかったのですが、意外に華がなく感じてしまったのです(ファンの方たびたびすみません)。ナギショはノーブルに作りすぎてなくて、やんちゃなボンボンっぽいチャラさと茶目っ気を感じさせて、キャラクターとして好感を持ちました。あとあーさはショレの困った濃いおじさんっぷりの方が上手すぎた(笑)。ホント芝居の人ですねえ…ともあれ私は伯爵には華やかさを求めているので、それで言うと実は新公のあみちゃんが素晴らしく良かったです。
 ヒメのカルロッタは大劇場ではチャーミングに見えましたが、東京ではやはり濃くなりすぎていたかな…きゃびぃのマダム・ドリーヌ、いいですよね! あと従者のあゆみさんひーこちゃんの大正解っぷりね!
 カリひとこあやなも目を惹きますが、やはり役不足なのは否めませんでした。みちるひまりりさちゃんかのちゃんあたりも可愛くてすぐわかるけど、同様。でも下級生たちでもすっごくがんばってコーラスにしっかり参加しているのがわかって、大作に参加できて嬉しいんだろうなというのが伝わります。いい舞台でした。
 最後にみんなしてエリックを見送る場面に、それが表れていたように思います。ファントムと呼んで恐れ怯えてきたけれど、音楽に関してはまっとうなことを言っている、というのはみんなプロだからわかっていたんじゃないかなあ。だから正体や何故そうなったかを知って(と勝手に解釈しますが)、共に音楽を愛した者として哀れみ、愛と尊敬を注いで見送る…という姿勢にみんながあるように見えて、泣けました。美しい舞台でした。
 だからこそ、映像に凝るより何より、脚本というか台詞の言葉、言い回しにもうちょっとだけ神経使って、キャリエールをもう少しうまくフォローしてあげてほしかったんですけれどね…
 エリックの不具っぷりについてまんまやれないのはわかってますけど、ホント「顔にちょっとくらい傷があるくらいでなんだっつーの?」とか思われないように、もっともっと注意深く積み重ねないとダメなんだと思うんですよ。外の世界にはすごい差別や偏見があって、見世物扱い獣扱いだろうから地下に隔離する方がいいと思えたんだよ、とか、母親が子供に注ぐ無償の愛は確かに狂気と紙一重かもしれないけれどお腹を痛めない男ってホントそういうところわかっていないよね、とか、顔の傷だけでなくあちこち悪くて短命なのがわかっていて、だからキャリエールにいつか眠らせてくれって言ったんだよね、とか、生け捕りにされて見世物として晒されるなんてあまりに哀れだから、人間として尊厳ある死を迎えさせてあげたかったから撃ったんだよ、とかがもっとすんなり腹落ちするように脚本がもっと上手く誘導することはできたはずなんですよねー。なんで手を入れないんですかね…
 映像もぶっちゃけうるさかったかな。オーバチュアで世界に引き込めるならプロローグの映像だっていりません。キャラクターの歌の効果をなんや知らんキラキラで見せるのもやめてほしかった。それは私たちが心で見るものです。「私を産んだ母」のバックの葉っぱや光の映像も余計でした。それは歌から充分伝わります。手をかけるべきはそこではない。
 逆に、台詞など従来のものとほとんど変わっていないのに、お芝居として全然違うものに見せただいきほはやはりすごいと思いました。ことに「私の真の愛」の暴力的なまでの歌の上手さ、心のこもり方は圧巻で、そりゃエリックも信じて受け入れられることを期待して子供みたいな顔で仮面取って見せちゃうよ、と思ったし、そのあとのクリスティーヌの悲鳴が高い女子っぽいものじゃなくて、本当にただうろたえ怯えた動物みたいな低さだったのもいい。本当にただただ驚いて怖くて動揺しちゃったんだ、ってのがわかる。どんなに覚悟しててもダメだったんだ、母親みたいに愛することなら自分でもできるってアタマでは思ってたけどそういうこととは次元が違った、って慌てたような悲鳴。でもだからこそ、ちょっと経ったらおちつけて、あれはひどかった自分が悪かった、もう大丈夫今度はちゃんと会える、会わなきゃ謝らなきゃ、ってなるのも納得の悲鳴。それに対して、それこそ子供のように泣き崩れるエリックと、息も絶え絶えに歌う「私を産んだ母」。そして泣きじゃくりながらのハケに、とても拍手なんか入れられないしそれが正解の、圧巻の場面でした。
 だい咲の銀橋の「お前は私のもの」(「You Are My Owm」はむしろ「おまえは私自身」、私の分身だ、みたいな意味だと思うけれど)前後のお芝居もとても良かったです。キャリエールが自分の父親なんじゃないかなとずっと思ってはきたけれど、それでも…という心情がビンビン伝わるエリックと、ここまできたら絶対に彼を守ろう、全部言おう告げようさらけ出そうと決めたキャリエールと。咲ちゃんの長い腕に呼び寄せられて、ぴったり抱きしめられる小さなだいもんエリックのいじらしいこと!
 ラスト、エリックと共にセリ下がるキャリエールは、罪の償いとしてこれで死んでしまうのかな…とも思えました。詮ないことではあったけれどやはり彼が発端だったのであり、ふさわしい罰なのかもしれないな、とか…息子が愛した女性を歌手として大成させることは、きっと伯爵がやってくれるだろうから、オペラ座の元支配人というだけの自分ではできることはもう何もないから、息子に殉じて自分も死ぬ…
 そしてクリスティーヌの「私の望みを聞いてほしい」という歌に応える者は誰もいない。残されたものはただ音楽だけ、彼がつけてくれたレッスンで鍛えられた彼女の歌だけ…彼女は歌い続けるでしょう、彼の音楽とともに生き続けるでしょう。彼女のその後の人生は、それはまた別の物語…

 フィナーレは少し尺が長くて、初見はちょっと脳天気すぎやしないかい?と思いましたが、二度目はコンパクトなレビューのおまけとして楽しめました。
 ただ、きぃちゃんセンターの場面はアレンジが甘くて、きぃちゃんもクリスティーヌふうの鬘で、でもクリスティーヌはこんなふうには歌わないんじゃないの?と微妙に感じました。黒髪ショートとか、鬘のイメージを全然替えてくれると良かったかもしれません。
 デュエダンでは私は大劇場では見られなかったリフトが東京では見られて、やはり嬉しかったです。あとロケットのあがちんの似合わなさがたまりませんでした! 急速に男役として仕上がってきている証拠だと思います。期待しかない逸材ですよね!

 最後に大劇場新公の感想も簡単に。
 担当は武田悠一郞先生。カルメンのリハ場面がばっさりなくなった他は、ナンバーを少しずつ短くしたりで上手くつないで、コンパクトに仕立てていました。
 あやなは歌も危なげがなく、だいもんとはまた違ったニュアンスの子供っぽいエリックで、いじらしくてよかったです。タッパがあってスタイルも良くて華があって、なのに子供っぽさが表現できる上手さに舌を巻きました。
 ひまりんも歌は心配していたんだけれど大健闘で、こちらはひまりんらしくちょっと強い感じのクリスティーヌでこれもよかった! 謝りに行かなくちゃ、の激しさがホントよかったのです。
 そして月のおだちんと同じ学年詐欺感を醸し出しつつあるあがちんキャリエール、こちらもしっかり包容力があってよかった! あみちゃんシャンドン伯爵もホント華があって鮮やかでよかった! タッパがないのが玉に瑕かなー。
 ショレのたわしが本当に上手くて、ご卒業とは残念です。はおりんのカルロッタもキュートでした、そして上手い! りさちゃんの従者、大正解。すわっちの警部がさすが手堅く上手かったです。妃華ちゃんのベラドーヴァはちょっと期待しすぎてしまったかな…幼いエリックの聖海由侑くんが達者で印象に残りました。

 連日大入り満員だそうで、きっと劇団の財産になる演目でしょうし、組子たちにも本当にいい経験になったことでしょう。だからこそ劇団は、歌唱その他レッスンの時間をよりたっぷり生徒に与えられるよう公演期間や回数その他を見直すとかの改革を、ゆっくりでもいいから進めていくべきですよ。今は生徒の負担が大きすぎますよ。チケットが売れているからいいやってことはないはずですよ。舞台の神様は見ていますよ、おごらず精進してください。頼みます。


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宝塚歌劇月組『ON THE TOWN』

2019年01月19日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京国際フォーラム、2019年1月14日11時。

 1944年ニューヨーク、夏。早朝6時のブルックリン海軍造船所では労働者と水兵たちが行き交っている。そんな中、24時間の上陸許可を得た海軍水兵のゲイビー(珠城りょう)が、仲間のチップ(暁千星)、オジー(風間柚乃)と共に波止場に降り立つ。初めての大都会に胸をときめかせる三人は、チップが父に持たされたという地図を頼りに観光に繰り出す。一日中遊び尽くそうと心躍らせる三人は、素敵な女性との出会いにも期待していたが…
 作曲/レナード・バーンスタイン、脚本・作詞/ベティ・コムデン、アドルフ・グリーン、原案/ジェローム・ロビンス、潤色・演出/野口幸作、翻訳/天沼蓉子、音楽監督・編曲・音楽指揮/甲斐正人。1944年上演のバレエ『Fancy Free』をミュージカル化しブロードウェイ初演、1949年には『踊る大紐育』として映画化、2014年にリバイバル上演されたものの
「宝塚歌劇バージョン」。珠城りょう、美園さくらの月組新トップコンビのプレお披露目公演、全2幕。

 バレエも映画も未見。
 私のタイムラインでは明るく楽しい作品だという意見と、古くて長くて退屈で差別的だという意見とが流れてきていたので、自分ではどう感じるかなーと楽しみに出かけました。確かに私も『雨唄』はちょっと退屈には感じましたし、差別に関してはさもありなんとも思えたので。
 でも、お友達のおかげで、下手端のオケピの上にステージを張り出して通路まで階段下ろしました、みたいな部分のほぼ正面3列目、みたいな良席で観られたこともあるし、月組は新公もけっこう観られていて下級生までまあまあわかるので楽しいということもあって、私は退屈することなく、楽しく観られました。長いなと感じるナンバーの間でも、バックの下級生までチェックしていたら目と尺が足りないくらいですからね。でも月と宙以外だったらダメだったかもしれません。「ナンバーはもういいから、早く話を進めてくれ」と思っちゃったかもな、とは感じました。ま、ザッツ・オールド・ブロードウェイミュージカル、でしたよね。
 権利関係の問題で脚本のアダプテーションは一切認められなかった、とプログラムにはありましたが、振付と演出は宝塚版として新しくなっているようですし、場面を入れ替えたり大きく改変することが許されなかったというだけだろうから、向こうの関係者には細かい日本語なんかわからないだろうと踏んでちょっと台詞足したりニュアンス整えたりしちゃってもよかったんじゃないのかなー、とは思いました。わかりにくいな、脳内補完が必要だなとかけっこう感じたので。
 あと、1幕ラストに幻想としてでいいからアイヴィ(美園さくら)を出してもよかったんじゃない?とかね。これは演出としての改変で話がつけられたと思うのだけれど…みんな出てるのにヒロインだけいないの、寂しいじゃないですか。みんながとりどりにカラフルなお衣装着て、水兵は白で、そこに真紅のドレスのヒロインがたたずんでいる…ってのはとても美しい構図だったろうにな、と残念でした。
 野口先生はたまさく場面をもっと増やしたかったそうだけれど、芝居をしていない、というか台詞がないだけでふたりが幻想として出会ったり踊ったりする場面はたくさんあるので、主役としてトップコンビとしての場面が少ないとは私は思いませんでした。

 総じて、水兵三人組の24時間の休暇のお話、三組のカップルとエトセトラのお話…という枠で、よくできている作品かな、という印象です。音楽とオケがいいのは言わずもがな。
 こんな状況なら、そりゃ羽根伸ばしたい遊びたい、もっと簡単に言えば風俗行きたい性欲満たしたい、ってなるのは当然だと思うんですよね。それを恋がしたいとか彼女が欲しいとか言い換えさせるから現代日本女性が観ると微妙に感じるわけでさ。漠然と気晴らししたい都会を観光したい、とだけ言わせておいて、そこにたまたま恋に(あるいはいわゆる「いい女」に)出会ってしまった…という形にすれば、そのあたりが引っかかる層に対しては入りやすくなったのでは、とか思いました。そういう繊細な配慮が、たとえ台詞の改変に関して制約があったのだとしても(というかそのあたりを踏まえて契約してこいよ、と思います。現代日本で宝塚歌劇で上演するのにそぐう形に改変できないのなら、単に海外で当たってるからとか人気だからというだけの理由でわざわざ高い金払って買ってくる意味ないよマジで…)足りなかった気はします。というかそういう観客目線の細かい配慮が足りない作品が意外と多いんだよ宝塚歌劇には…そのあたりはもっと精進してほしいです。
 そして女性キャラクター側に関しても、イケメンでかつ一夜限りで、となればかえって好都合!というメンタルはもっと認められていいと思うし、それをまあおはしたないとか眉をひそめるような層には宝塚歌劇は本来あまり向いていないのではないか、恋と情熱(要するに欲望)こそ至上、みたいな世界観でやってるところなんだからさあ…と私は思うのでした(清く正しく美しく、家族みんなで見られる国民劇を…という理想とそれは両立している、というかむしろ合致していると私は思う)。だから、ヒルディ(白雪さち花)もクレア(蓮つかさ)も普通の娘役にやらせるにはちょっと…という役だよね、という論にも私は与しません。役が少ないので男役の女役は仕方ないかなと思うけれど、それでもはーちゃんでも泉里ちゃんでもできたと思うし、梅芸ではぜひこのあたりの起用を考えていただきたいです。というか月組はすーさんが抜けたとはいえ上級生娘役が仕事しすぎていて、そりゃなっちゃんといいくれあ姐さんといい、いい仕事するのはわかっているんですがそれでも、もう少し譲っていかないと今度は中堅娘役に仕事がなくなってしまうので、そのあたりのバランスは考えていった方がいいんじゃないのかなと思います。とはいえ老け役ばかりさせるわけにもいかないだろうし、そういうことじゃないだろうとも思うので、難しいとは思うんですけれどね。若手ですがゆいちゃんじゅりちゃんシンメとかホント素晴らしかったけれど、基本モブとかやっぱもったいないじゃないですか。海外ミュージカルを輸入上演すると宝塚歌劇的には役が少ないという問題が常に出るので、やはり当て書き新作オリジナルが基本ってのは大本線ですよ劇団さん…! 雪のオーブが今から心配です。

 そしてクレアのオジーに対する人種差別的な行動についても、もともとの舞台版を観ていないのでなんとも言えませんが、たとえばリバイバル版ではどうだったんでしょうかね? おだちんオジーは肌を朝黒くしていたけれど、これまた現代日本女性観客からしたら単に性格がワイルド目なキャラという記号なのか、はたまたラテン系だとか黒人だとかということなのか、ところでラテンってナニ?みたいなものだと思うんですよね(私はまだ周りに外国人が珍しかった頃の昭和の育ちなので、このあたりがアップデートされていないのかもしれませんすみません。今やクラスメイトの半分が海外にルーツを持つ子供、という学校も多いんですものね。だとしたらこのあたりにはもっと敏感なのが主流なのかもしれません)。実際(?)のオジーはプエルトリカンとか、そういうことだったのでしょうか? この時代のこういう立ち位置の人が何に当たるのか、不勉強でよくわかっていなくて本当にすみません。
 そしてクレアはおそらくは金髪碧眼長身の、北欧系アングロサクソンの、女性の、人類学者、と設定されているのでしょう。そんなクレアがオジーを「原始人みたい(ホモサピエンスではなくピテカントロプスエレクトスである)!」と言って研究対象にしたがり、しかもやがて恋に落ちる…というところを白人男性観客が嗤う構造になっているわけですよねこれは。「嗤う」です、もちろん。
 でも、一周まわって、ということでもないけれど、私はこれはもはや女性差別にも人種差別にもなっていないんじゃないのかな、と思ったのです。白人男性は、名誉白人男性は今なおこれで笑えるのかもしれない。それはぶっちゃけ、性器がデカいだけの男に惹かれるなんて女ってホント馬鹿だよな、という笑いなのでしょう。ちょっと引っかかる層は笑えない、差別ではと眉をひそめる。でも私は、え、これってある種の真実ですけど何か問題でも?と思っちゃったんですよね。
 クレアはフィアンセのピットキン(輝月ゆうま)のことも、研究に理解があって共に学術的な話ができる尊敬できる同志、そして金ヅルとしか思っていません。要するに情緒的なこととか、人としての何かを男なんかに求めていない女、にも見える。だから財布としてしか見ない、あるいは張り型としてしか見ないという点でクレアはピットキンのこともオジーのことも同等に物としてしか見ていないワケで、別にオジーを人種的に下に見て差別しているとかではないと思うんですよね。男なんか全部一緒、粗チンはNO、ってだけのことで、私はいっそ爽快に感じたんですよね。だってひとつの真実じゃん。男がデカいおっぱいを好きなようには女はデカいペニスに執着していないとは思いますけど、デカい物だけができる仕事をしてほしいことだってありますよ。原始人でもゴリラでも猿でもかまいませんけど? あんたら男だってニワトリでもこんにゃくでもいいクセして、女が似たこと言ったら青筋立てるとかちゃんちゃらおかしいです。挿れることしか考えていない男と違って女はもっと繊細なコミュニケーションを求めているの、というのももちろん真実だけれど、それと両立する話ですよね? セックスに何を求めるかは人それぞれであり他人がそれを嗤うなんてあってはならないことなわけで、どんな欲望も肯定されるべきなのです(ペドとかはまた別の問題です、というか犯罪です。なんであれ他者の人権を侵してはなりません)。だからこれは今や嗤いとして成立していない、それを嗤える白人男性観客の感性こそ嗤えるわ、と思うのです。
 しかもそこにちゃんと恋も芽生えるんですよ、素晴らしいことじゃないですか。そしてピットキンにもルーシー(叶羽時)との出会いがちゃんと設定されているんですよ、素晴らしいことじゃないですか!
 『アンカレ』を不倫だ不純だと断罪できないのと同様に、1日だけだろうと身体目当てだろうとなんだろうと、恋と情熱(それはつまり欲望、ぶっちゃけ性欲)は自然なことで基本的には良きものだ、というメッセージが根底にあるこの作品を、私は認めたいのでした。

 というわけで私は引っかかることなく、楽しく観ちゃいましたし、なんならフィナーレの美しさには泣いたのでした。そこはやっぱり宝塚歌劇の様式美で、ロケットがあって娘役群舞があって男役群舞があってトップスターはそこから出ずっぱりでトップ娘役とのデュエダンがあって珠城さん大汗だな大変だなとか思っちゃって、でも珠城さんとさくさくが本当にキラキラしていて、そのことに泣けたのでした。
 恋と欲望を昇華した、愛と美しさがそこにはありました…『アンカレ』の今年初ムラ初宝塚もよかったけれど、これは別箱なだけに改めて「ああ、いい初観劇だった」と思えて、幸せでした。

 というわけで、以下、中の人の感想を簡単に。
 珠城さんの田舎出身の夢見る夢太郎、最高ですねぴったりですね! ちょっとダボッとした水兵さんのお洋服も可愛いし、ちゃんとありちゃんおだちんと同年配の青年に見えました。スケスケお衣装は聞いてはいてもやっぱりぶほっとなりましたが堪能しましたごちそうさまでした。
 フィナーレの男役群舞は野口先生の単なる趣味だろうし、本編の世界観とまったく統一がされていませんし、珠城さんもそういうタイプじゃないし趣旨とかよくわかっていなさげな発言をスカステニュースの突撃レポなんかでもしていますが、珠城さんはそれでいいですそのままでいてください。全然総受けなんかじゃない、ザッツ帝王な健全健康な男子! そしてホモソーシャルすぎず女子を愛し大事にする紳士! その線でいてください。もっと暗くて歪んで深くて広い隠微で困った愛が似合う人は他にもいます、野口の趣味につきあう義理はありません。
 むしろ、着替えて紫のお衣装になってさくさくを迎えてからのデュエダンの甘さ、優しさ、力強さや包容力にこそ真の魅力を発揮していました。盤石です、今後の月組も楽しみです!
 さくさくは、痩せて、でも痩せすぎではなく、どれもまあまあ露出の多いお衣装でしたが色っぽくてでも嫌らしくなくて、歌えるし踊れるしお芝居できるし、可愛くて輝いていました。
 ミス・サブウェイったって要するに月替わりのキャンペーン・ガールでしかなくて、大女優でもなんでもなくてまだまだそのタマゴで、レッスン代にも事欠くような修行中の身でポスターのプロフィールは全部ウソの宣伝文句、場末のクラブのショーガールとしてバイトして…なんですよね。ちなみにゲイビーたちはこのプロフィールを本物だと思い込んで、絵の勉強をしているという美術館に行けば彼女に会えるかも、とかになってそれぞれ散るんだけれど、私が台詞か歌詞を聴き取れなかったのかこのあたりがまるでわからず、彼らが闇雲にニューヨークの有名な場所に行ってみているだけに見えたので不思議でした。このあたりもフォローが欲しいぞ。あと、宝塚歌劇的に場末のショークラブのショーと華やかなレビューの差が出づらくて、アイヴィがショボくて恥ずかしいバイトをしている感が出ていないのも減点。アイヴィは恥ずかしがり、だけどゲイビーは気にしない、ってのがキモなのに!
 でもまあそれはさくさくのせいではないし、さくさくは本当にいいのでこの先も期待しかありません。昔はもっと素っ頓狂なしゃべり方をする人だったけれど、最近はおとなしくしすぎていて、口をあまり開けずにもしゃもしゃしゃべるのはあまり良くないと思うし、シャイで自分に関することはテレて上手くは話せないんだけれど、役や芝居の話は言葉の選択も明晰で深いし、お茶会のトークはもっとおもしろくて楽しいので、リラックスしてやっていってほしいなーと思っています。絶賛応援中!
 ありちゃんは、私は本当はこの人はこういう弟役というかバブい役とは違うところに持ち味があるのではと思っているので、チップはちょっと手の内すぎるかなーと思いました。でも安心して見られましたし、相手役のさちか姐さんともバランスはよかったかな。ダンスが本当に素晴らしかったです。
 おだちんの学年詐欺っぷりも本当に素晴らしく、今後に楽しみしかありません。
 れんこんも本当にうまいし絶妙でした!
 ゆりちゃんはもうちょっとなんとかしてあげたかったけどからんちゃんはさすがの活躍、まゆぽんもなんでも上手くてはーちゃんもときちゃんも任せて安心、ヤスもぱるくんも目を惹きました。
 これでご卒業のあちはフィナーレでさくさくを囲む群舞で最下手にいて、私には目の前で、きびきび踊る姿が本当に美しくて、ガン見してしまいました。もう少し餞別っぽいこともしてあげたかった気もするけれど、まだ下級生だからなあ…寂しいですが、今後に幸あれ。
 総じて本当に楽しく観たのでした。終演後の演奏も素晴らしく、オケがいいのは本当に感動しました。甲斐先生も海軍ふうのお帽子被って、お茶目でしたね。素敵でした!



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宝塚歌劇月組『Anna Karenina』

2019年01月16日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚バウホール、20年1月12日14時半。

 19世紀後半ロシア。母(五峰亜季)の出迎えのためにモスクワ駅にやってきた青年将校アレクセイ・ヴィロンスキー(美弥えりか)は、美貌の貴婦人アンナ・カレーニナ(海乃美月)と出会い、一瞬で心奪われる。アンナもまた、魅力的で洗練されたヴィロンスキーに惹かれていくのを抑えることができなかった。社交界の華と謳われ、政府高官であるアレクセイ・カレーニン(月城かなと)の貞淑な妻として平穏に生きてきたアンナは、ヴィロンスキーの激しく真摯な求愛を受け、内に秘めていた情熱的な自我が目覚めていくのを感じるが…
 原作/レフ・トルイトイ、脚本・演出/植田景子、作曲・編曲/吉田優子、甲斐正人。2001年雪組初演、2008年星組WSで再演されたミュージカルの三演。

 外部だとたとえばこちらとかこちらを観ているのですが、実は宝塚版は映像でしか観たことがありません。でも大好きな作品です。景子先生の傑作のひとつだと思っています。『舞姫』(これも生では観ていないのですが)なんかもそうですが、古典に近いような近代小説の舞台化、ミュージカル化がとても上手いですよね。このあたりの文芸作品の美意識や恋愛観、人生観なんかに景子先生は共感しているのでしょう。時代とともにだんだんとウケなくなっていってしまう価値観なのかもしれませんが、私も好きです。恋や情熱を美しいものと見る感性、恋こそ正義、けれど幸福に直結するとは限らない、むしろ悲劇に終わることが多い…そんな物語を私は愛しているのです。自分が恋愛体質ではないから、破滅体質ではないからなおさら、なのかなあ。憧れるというか、人間たるものあれるのであればそうありたい、と願う叶わない思いというか。でもなかなかそうはできない、と歯噛みするところまでセットで、ドラマを味わい尽くせる気がしています。
 今回も、美しさに泣きました。お話としては、もちろん筋はわかっているし、かわいそうにと思ってはらはら泣くというタイプの作品とはちょっと違うかなと思っていたので(たとえば私はヴィロンスキーとかホント卑怯でしょうもない、ザッツ「男」なキャラクターだぜ、ケッ胸くそ悪い、とか思っていますしね。それに引きずられて破滅するアンナを哀れんで、ヴィロンスキーへの怒りに震えて泣く、ならありえます)、自分でも意外でした。でもそれは、ああ、これがみやちゃんとくらげちゃんの集大成なのかもしれないな、次の本公演で卒業しちゃうのかもしれないな…と思ってしまうほどの壮絶な美しさ、緊密な芝居、集中具合に胸打たれた部分が大きかったのでした。そして残念ながらそうなった方がもろもろ美しいのではないか、とかも考えてしまいました。ファンの方々にはすみません。もちろん全然そうならないことも普通にありえると思ってはいます…

 みやちゃんが再演時にカレーニンがやりたくてオーディションに挑んで…というのはわりと有名なエピソードかと思います。当時、かなり背伸びして演じていたのかもしれませんが、映像で見てもちゃんとしていましたよね。
 美貌で、小柄だけれど低い声の持ち主で、男役としての資質にとても恵まれたスターさんだと思います。私個人はこういうタイプの美形にはあまり興味がないので、好きでも嫌いでもないのですが、珠城さんのトップ就任に関して、上級生二番手スターという微妙な立場にもかかわらず、とても優しく気を遣いトップだけでなく組全体のサポートをしているであろう様子に、本当に性格がいいんだろうな人間的に素敵な人なんだろうなと思わせられました。
 どこか場所が空くなら、トップスターにさせてあげたい。またなんの問題もなく務まるでしょう。けれどではどこが空く?というだけの問題で、そしてそういう運に恵まれずにトップにならずに辞めていく番手スターももちろん過去にもたくさんいたわけで…でもトップスターの歴史に残らなくても、代表作や当たり役があってファンの記憶に今も残るスターという方もたくさんいますし、逆にトップになっても作品運が悪くてなんだったの?なスターもいたわけで…こればかりはなんとも、ですよねえ。
 ともあれ、みやちゃんの今回のヴィロンスキーは当たり役のひとつになったと言って問題ないと思います。発表当時は、一度は若手のWS演目になったこともあってもう少し若い役者の方が…と思わなくもありませんでしたが、言い方がアレですがちょっとトウが立ったヴィロンスキーというものもまた正しいな、と思わされたのです。ヴィロンスキーは愚かな男ですが、それは若さゆえのものではなく、大人なのになお愚かな、まさしくただの男なのである、とした方が、物語として正しいのではないかなとも思わせられたからです。
 美貌で、伯爵の地位を持ち、軍人としても優秀で、財産も潤沢にあるのでしょう。そしてスティーバ(光月るう。こういう役がまた絶妙に上手い!)とアンナが似ているように彼と母親も実はよく似ていて、母の言うような貴族社会での生き方を彼は決してできないわけではないんですよ。その程度の器用さも酷薄さも彼は充分に持っている。ただ、それだけじゃつまんないな、なんかないかなとか思っている。それを愚かと言うのです。そこに、アンナが居合わせてしまった…
 ヴィロンスキーが、ただ愛のために何もかも捨てて生きたい、僕にはそれができるとかぬかすのは、彼がなんでも持っているからです。でもアンナは違う。名字も、息子も、家屋敷も家財道具も衣服も財産も、みんな夫のものなのです。美人で貞淑だという評判も周りが勝手にもたらすもので、彼女自身の持つものとは言いがたい。彼女は本当に身ひとつの、なんの所有もさせてもらえない存在なのです。当時のこの社会の女性には、父親か夫の庇護のもとにしか居場所がなかったのです。
 そういう相手にそうでない者が一方的に求愛するなんて全然対等じゃないし本当に乱暴なことで、それこそ死刑宣告に等しく、許されざることなんですよ。優しさも配慮も何もない。
 でも、舞踏会でマズルカを誘うために跪いてアンナの手を取るヴィロンスキーの美しさに、というかそれを満を持して美しく色っぽくいやらしく傲慢にしかし真摯に情熱的にやってみせる美弥るりかに、「あかん許すしかない。てかコレ孕むマジあかん」と白旗上げました私。
 ヴィロンスキーという男の愚かさ、鼻持ちならなさ、卑怯さは、タカラジェンヌが美しく演じることでしか購われません。『春の雪』の清さまと一緒で、美しくなければ許されない、成立しない役です。それを痛感した一瞬でした。オールバックを踏襲せず、やや現代的に揺らしたウェービーな前髪も罪深い。みやちゃんが出会うべくして出会った役でした。
 だから、たとえば、次の本公演でご卒業となったとしても、それはそれで悔いはないのではあるまいか…とまで考えてしまった、ということです。もちろんファンにとっては悔いがないなんてことはない、というのも承知してはいるのですが…

 さて、そんな美しくも強引で情熱的な男、これに堕ちなきゃ女じゃない。これはそんな物語です。
 それでもアンナは、カレーニンに追及されて、夫と愛の話をしようとしました。アンナは夫を愛していたからです。もっときちんと愛させてほしかったし、愛してもらいたかったのです。それがたとえめくるめくような情熱的なものではなかったとしても。
 でもカレーニンは、ヴィロンスキーとはまた違う意味で卑怯な男だから、自信のない分野からは逃げるわけです。彼はあんなにまっすぐ応えません。世間体とか体裁とか道徳の話ばかりする。もちろんそこには彼が孤児の育ちであり、愛を知らずに育ったのであろうことや、そこから勉学だけはがんばって政府高官の地位を得て、ずっと人に誹られぬよう侮られぬよう自分を律して必死に正しく生きてきたのであろうことなどの理由がのちに語られるのだけれど、とにかくこの夫婦はあまりにもコミュニケーションを怠ってきたので、もはや話が通じないわけです。だからアンナは、走り出したら何もかも失うまで止められないとわかっていても、走り出してしまうしかなかった。そしてこの何もかも、の中には、生命そのものも入っていたのです。
 産後の肥立ちの悪さに心痛が重なって…という状態は一度はカレーニンの理解と許しで回復したけれど、二度はなかった。彼女は自殺します。でもヴィロンスキーの自殺は未遂に終わる。職業軍人が自殺をミスるとか笑えます。ホント臆病で卑怯。死にたくなかったからに決まっていますよね。しかもアンナのためを思って会わずに去ることもできない、しない。ホント潔くなさすぎて怒りに震えます。会ったら火が点いちゃうのはわかっているのに。しかもイタリアで新生活を打ち立てることもできない、しない。腑抜けすぎます。戻れるはずなんかないのに、戻っても居場所なんかないに決まっているのに。失うものが多すぎるのはアンナの方だけだとわかっているはずなのに。
 オペラハウスにアンナが着て行った気合いの赤のドレスは、誰が選んだものなのでしょうね…
 アンナが死んで、ヴィロンスキーがすべきはセビリア戦線に死にに行くことなんかではなく、なんちゃらのお嬢さんと結婚してアーニャを引き取り育て、彼女やセリョージャ(蘭世惠翔)や、コスチャ(夢奈瑠音)とキティ(きよら羽龍)に生まれる子供たちがより望むように、幸せに生きられる新しい世の中を作ることですよ。それがアンナの供養ですよ。でなければむしろ、母親やベッツィ(美穂圭子)やナスターシャ(夏風季々)が望むように、この貴族社会に殉じて生きて、世の変わらなさに奉じることですよ。
 でもヴィロンスキーはどちらもできない、しない。自決すらできずに戦地に死にに行く。戦争の方がいい迷惑ですよそんな利用のされ方しちゃあ。どんだけ卑怯なんだヴィロンスキー!
 でも最後に彼の前に現れる、やっと「裸足のアンナ」になったアンナのくらげちゃんのダンスがまたまた凄絶に美しいので、許すしかないか…と私は泣いたのでした。これしかなかったか、これでいいんだと当のアンナが言っているのだから…とただただ、泣けたのでした。
 くらげちゃんは私にはやっぱり地味に見えたし、まひるとかまりもとかの明るくまっすぐでややウェットでとにかく情熱的なアンナ像が好みだったので、ちょっと辛気くさく見えるなーとか自分に酔ってるように見えるなーとかカマトトっぽく見えるなーとかいろいろ引っかかりはしたのですが、なんせダンスが素晴らしくて、このアンナもありだなと思わせられました。
 で、やはり美しすぎるように見えたので、ああ、次で一緒に辞めちゃうのかしら、と思ってしまったわけです。新公ヒロインも別箱ヒロインもこれくらいの回数やって、それでトップにならなかった娘役スターさんなんてそれこそたくさんいますからね。トップスター以上にタイミングの問題があるし、そこに相手役さんとの相性も関わってくるんだから、それはもう誰のせいというものではありません。ご本人が満足して卒業できることを祈っています。トップになろうとなるまいと、みんないつかは卒業するのですから…
 フィナーレのデュエダンのアンナのお衣装が赤で、オペラハウスの場面のドレスを思い起こさせ、また情熱的な真実の姿のアンナ、みたいなものも思わせてそれはそれは美しく、とてもよかったです。けれどラインナップがまた黒のドレス、というのもいい。この黒は決して地味ではないのです。ドリィ(楓ゆき)に赤を譲って自分は黒を着たけれど、凝った装飾があってとてもシックでエレガントなドレスで、ちゃんと勝負服なんですよね。だってアンナはヴィロンスキーも舞踏会に来ることを知っていたのですから、そこは自分が一番綺麗に見えるものを着ていきますよ、それが女ってものですよ。その最初のドレス(最初の出会いはコート姿でしたからね)こそが一番、それをラインナップでまた着るくらげちゃん…まぶしかったです。
 というか景子先生の美意識が全体に冴え渡り、実に素晴らしい舞台でした。
 ドラマシティくらいまでならこの緊密さは保てたと思いますが、バウがベストサイズと言えば言えるかな。せめてもう倍くらい公演期間があればねえ…観られて幸いでした。

 れいこちゃんカレーニンには私はもっと背伸び感を感じるかなとか心配していたのですが、『ラスパ』も経てさらに芝居が上手くなりましたよね。完全に杞憂でした。私がこのキャラクターを大好きすぎるというのもあるけれど、本当にキュンキュンしたし、アンナとの話の通じ合わなさには「そういう言い方じゃ伝わらないんだってアリョーシャ!」と心の中で叫び続けでした。ヴィロンスキーもカレーニンも同じアレクセイなのに、アンナは夫を愛称では呼ばないんですもん、私が代わりにナンボでも呼んであげますがな!てなもんです。
 フィナーレの男役群舞のセンターの色っぽさもたまりませんでした。ホント、スターとしての風格が出てきたと思います。
 もしみやちゃんが卒業して、ちなつが再び組替えして来ても、普通にれいこちゃんが正二番手に昇格するものだと思うんだけどなあ…同期のれいちゃんもまこっちゃんもすでに立派に務めているわけですし、劇団はこの期を揃えて上げたいんでしょうからね。でもちなっちゃんはれいちゃんの時代になっても別格スターとして花組にいてくれた方がいいのではと思うのですが、どうなんでししょう…最近ではきぃちゃんとかキキちゃんとか、組替えは基本的には栄転ですが二度目となると特にトップ直結人事であることが多いものだしそうであるべきだと私は考えているのですが(キキちゃんには未だ確約はありませんが)、はたして今回の人事の意図はどのあたりにあるのでしょうね…???

 コスチャも私は大好きなキャラクターであたりまえですがキーパーソンのひとりなのですが、るねっこにはもう一押し、前に出て欲しかったかなー。なんかもえことかに近いものを感じるというか、あまり私が私がってタイプじゃないんだろうけどスターとしてはちょっともどかしい弱さを感じたので。歌ももう一押しパンチが欲しい! 
 キティの話題の研1おはねちゃん、お化粧はまだまだでしたが確かに普通に芝居ができて歌は上手い! 怖いもの知らずなだけかもしれませんがクソ舞台度胸だけではなかなかこれはできないと思いますよ、期待のニューフェイスです! 首とデコルテが美しいのも素晴らしい。月組にはホントいい娘役ちゃんが配属されるなあ…!

 圭子姉さんはあまり変わらないしこういうお役はお手のものなんだけど(というか同じ役だし)、マユミさんがいい感じに口角が下がって貫禄が出てきていかにもな中年女性になっていて、お役にぴったりでした。
 ひびきちのキティパパも素晴らしく、キティママの清華蘭ちゃんがまた、この役も良かったんだけどサロンの嫌味な夫人が絶妙に上手くて、こういう派手顔美人の正しい起用法…!と奮えました。
 意外な出世役と言われる(笑)セルプホフスコイ(英かおと)も、もう少しパンチが欲しかったかなー。でもその恋人のナスターシャはとても良かった! こんな役あったっけ?というくらいの印象だったんですけれど、コスチャとキティのカップルがヴィロンスキーとアンナのカップルと対照的なように、セルプホフスコイとナスターシャのカップルもまたその位置にあるんですよね。私はラストのベッツィのシメ台詞をナスターシャに言わせるアップデートもありなのかもしれない、とかもちょっと考えました。ベッツィが言うのと、次の世代を担うナスターシャが言うのとでは意味が違って聞こえてくると思うのです。結局はその後滅んで今はないロシア貴族社会なのだけれど、中の人たちはそのことにどれだけ自覚的だったのだろうか…というのは、今上演して今に生きる人間が観るからこそ、ちょっと考えていい視点なのかもしれません。
 たんちゃんやアンヌシカ(香咲蘭)は手堅い。ぎりぎりや蘭尚樹くんもさすが目を惹きました。せれんくんの医者が美形だったなあ。

 個人的に気になったのは、こういういわゆる「不倫もの」のときはわりとたいていそうなのだけれど、主要人物に共感できないとか、恋に夢中になりすぎて周りが見えなさすぎではとかの、わりと否定的な、ちょっとピューリタン的にも思える感想を意外に多く聞くことです。なんか世の中の全体的な空気として、世知辛くなっているというかしょっぱくなっているというかロマンがなくなっているというか生真面目すぎるというかつまんなくなっているというか、なのかなあ? でもお話なんだからいいじゃん、とか私は思ってしまうし、現実に自分ではなかなかこうはできないからこそ、でも憧れないではない生き方だからこそ、舞台や映画や小説や漫画で見られると楽しい…ってのがあるんじゃないのかなあ?とか思うんですけれどね。それともみんなホントに「こんな生き方、1ミリたりとも憧れたりしません」とか言うのかなあ?
 恋こそすべて、恋こそ正義…みたいなのってある意味正しいし、動物的なパッション含めとても自然であたりまえなことだと思うんだけどなあ。もっと明るく肯定されていいと思うんですよね。
 そしてこの物語はそんな色恋以上に、「世間や社会に抑圧されて人が自由に生きられない、まっとうに幸せになれない不合理、つらさ」を描いているものだと思うので、それで古びないんじゃないかと思うんですよね。
 もちろん人が完全に自由気ままに生きようとしたら無人島へでも行くしかないわけで、でもおそらく人間は群れて暮らさないと生きていけない非力な生き物で、だから社会も形成されるしそこにはルールも生まれるわけですが、社会の成熟がすぎるとちょっと無意味にも思えるルールが増えすぎちゃったりするし、お互い抑圧しすぎがんじがらめになりすぎて誰のためにもなっていなかったりする。そのしわ寄せは特に女に来ます。本来男女は対等で平等に扱われるべきなのに、古今東西たいていの社会でそうはなってこなかったからです。
 この時代のロシア貴族社会でも、男に許されることと女に許されることは違っていました。男に望まれることと女に望まれることも。ただ愛し愛されたいという、人として生き物としてごく根源的なシンプルな望みを、女だけが叶えさせてもらえなかったりする。
 今もなお状況は大きく変わっていないと言えます。この物語が神話のような寓話のような、本当にこんなことがありえたのかねと思われるような、平等で公平で差別のない世の中はいつか訪れるのでしょうか…多分、ない。だからこそこの物語は不朽で、永遠なのだと思います。




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細川展裕『演劇プロデューサーという仕事』(小学館)

2019年01月04日 | 乱読記/書名あ行
 第三舞台や劇団☆新感線のプロデューサーをしていた(している?)著者の自伝。鴻上尚史との対談、いのうえひでのり・古田新太との鼎談も収録。

 演劇のプロデュースや制作の仕事を解説したり指南するものではなくて、あくまでほぼたまたまそうやって生きてきたと言う著者の自伝なのですが、おもしろくてほぼ一気読みしてしまいました。ちなみに私は舞台ファンとしては第三舞台も新感線もあまり観ていない方で、でも作品のタイトルくらいは知っているし役者の名前も当時のブームも(ブームは今なお、ですが)知っているので、「へー」とか「さもありなん」とか思えて、楽しく読めたのです。
 チケット代金と客席数の話は出てきますが、それ以上のお金の話は出てきません。もっと興業面のことを語ってもいい気もしますが、それは専門的すぎるとかおもしろくないとか差し障りがあると判断したのかもしれません。劇評が演目や役者しか対象としていない、興業としての側面を批評するものはほぼない、と指摘されているのは確かにそのとおりだと思いましたし、それは片手落ち(今この表現が問題とされているのは知っていますが他にいい言葉を思いつかなかったのでここはあえて。すみません)だとも思いました。だからこそもっとそのあたりを語ってもらいたかった、読んでみたかった気がします。学生演劇がスタートだろうと、お給料が出る、それで食べていける、というのは大事なことですし、劇団は役者だけでなく裏方さん、スタッフさんの技こそが大事であり新感線はそこも素晴らしいのだ、みたいな主張はもっとあってもいいのかなと思ったのです。でもそれこそ著者は俺が俺がと表に出たがるようなタイプの人ではないのだろうし、才能ある脚本家や演出家、役者が友達にいたので、制作面を引き受けた、それができた…というだけのことだと自分の仕事のことをまとめているのかもしれません。今は半引退なようなそうではないような…な状態のようですが、十歳ほど年上であることや両親の看取りの問題などもなかなかに人ごとではなく、そういう意味でもおもしろく読みました。先達の言葉は響きます。エンターテインメントって何か、といったことについても。
 また、劇評について、褒めるかスルーするかにしてくれ、という訴えもなかなかおもしろく感じました。私は評論家ではないし、このブログに書き付けているものはあくまで自分のための備忘録であり、もし読んでくれる人があるとすればそれはその舞台を観た人(ないし書いた人)を想定しているつもりだったのだけれど、この人は「劇評の多くは検証不可能」「観劇できなかった人にとって、劇評を正しく評価する手段はありません」「劇評は言いっ放しになりかねません」という危惧を抱いているのですね。これは「先生方」に「芸術」扱いされなかったことを憤っているのとはまた違う問題かとも思いましたが、何かトラブルがあったのでしょうか…ここまで売れてくればそれこそが評価であり、そうなればむしろ意味があるのは苦言の方だと思うのだけれど、どうなんでしょう?
 演劇のことは好きだけれど演目や脚本の中身に細かく口を出すことはしない、というスタンスの人なだけに、外野がまことしやかにあれこれ言うのが嫌なのかもししれませんね。
「人生は、飲み会・納税・墓参り!」というのは、わかるようなわからないような、です。遊んで、働いて、先祖を大事にする、というのは言われればそのとおりかなと思いますが、三つ目は「恩返し」みたいな言葉に替えたいなと思わなくもないですし、そういうオリジナルの座右の銘を作るためにがんばって生きていくのが人生だ、ということなら私はまだまだ甘ちゃん、駆け出し、素人なのかもしれません。
 そんなこともいろいろ考えさせられた、いい本でした。




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