駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

アレクシス・ホール『ボーイフレンド演じます』(二見文庫)

2021年08月31日 | 乱読記/書名は行
 ロックスターを両親に持つせいで常にパパラッチに追いかけられ、酔ったあられもない姿を写真に撮られ続けてきたルーク。おかげで勤務する慈善団体は多くのパトロンを失ってきたが、ある夜またしても醜態をさらしてしまい、上司から「まともなボーイフレンドを見つけ、生活態度を改めるように」と最後通牒を突きつけられる。相談に乗った親友が白羽の矢を立てたのは、真面目で堅物の法廷弁護士オリヴァー。彼の方もある理由から恋人を探していたのだ。こうして性格も対照的なふたりは期間限定の恋人同士を演じることになり…

『赤と白とロイヤルブルー』と同じレーベルですね。もともといわゆるハーレクイン小説を出しているところかと思うのですが、いわゆるBLものは2作目になるのかな? 「いわゆる」がしつこくてすみません、でも要するにこれが現代のロマンス・ジャンルってことですよね。LGBTQ文学とかいうよりは、基本的にはシスヘテロ女性の女性による女性のためのBL、だと思いました。
 786ページ、税込1518円という大部の文庫でしたが、ワクチン2回目接種療養中にさくさく1日で読んでしまいました。帯の推薦文みたいなのに「部屋でひとりで読んで大声を出して笑」った、というコメントがありますが、私もまさしく「ぶほっ」と吹いちゃう箇所がいくつもありました。「ブリティッシュ・ユーモアをちりばめた楽しいロマンティック・コメディ」というコメントにも同感です。
『赤と白~』同様、主人公の一人称小説です。アレックスは学生時代にソレっぽいことがなかったわけではないけれど基本的には女好きの青年で、相手役と恋に落ちることでバイセクシュアルだという自覚もできるという展開でしたし、ヘンリーはなんせプリンスですからゲイであることを隠している設定でした。今回の主人公ルークはハナからゲイで、オリヴァーもゲイであることをなんら隠していない設定でした。それでまず、昭和の古いオタクである私は「あら、ノれるかしら」とちょっと思ってしまったんですね。
 私もご多分に漏れずシスヘテロ女性で、アロマンティックでもアセクシュアルでもないのですがモテないし惚れっぽくもなくて恋愛経験は数で言えば少ないし結婚にも結びついていません。でもだからこそなのか、フィクションの恋愛ものを大変に愛好しているという読者です。ゆえにBLも嗜みます。要するにフィクションの恋愛はファンタジーとして、ドリームとして愛しているんだろうな、と思うのです。だから異性愛でも同性愛でも非現実的なのは一緒、ということです。そして物語というものは総じて、困難に遭い障害を克服してハッピーエンド、というパターンが多く、その障害はたとえばヒストリカルなものなら身分差とかが多く、BLなら当然ながら同性だから、ということが障害になってきたわけですね。それらを乗り越えて真実の愛に至る、そのジレジレの過程を私は楽しんできたわけで、そこには障害の大きさに悩み、嘆き、泣き、けれど抗い戦い、羞恥や世の規範といったものを乗り越えようとあがく現実の自分を主人公たちに重ねて、自分を奮い立たせよう自分に明るいゴールを信じさせよう、という心理が働いていたんだな、とも思うのです。だから障害が必要なのです。フィクションのスパイスです。
 でも、今や時代は21世紀なのでした(この作中には今現在を20世紀だと言うオトボケなキャラがジョークのように出てくるのですが)。同性愛はもはや障害ではないのです。少なくとも、障害であるべきではない、差別されるべきではない、とされており、それをきちんと表明し周囲にも要求するキャラクター、というものが描かれるようになっているのでした。この作品のルークもそうです。惰弱な私は当初そのまっとうさに当初ちょっと腰が退けてしまったわけですが、すぐにこれは、以前よりも時代が進んできて、私たち女性もただ泣き寝入りするのではなく「それ、セクハラですよ」と指摘し正当な扱いを求めることができるようになってきたようなことを、彼らのようなキャラクターに重ねることができるんだな、と気づいたのでした。実際、ちょいちょい「それ、差別ですよ」と言い続けるルークのタフさには感心します。梵天丸もかくありたい。
 そして、ゲイであるということを除けば、ルークもオリヴァーも実に典型的な、つまりベタなキャラクターなのでした。つまり同性愛が障害でないとしても、彼らはアレコレとウダウダ悩み嘆き泣きジタバタするタイプの人間だということです。そしてどんなものであれ、恋とはそもそも障害多きものなのでした。
 ルークの、両親がロックスター、という設定は確かにちょっと特殊だけれど、要するにネグレクト気味で育った子供で、それはまがりなりにも成人して自立して28歳になっても彼が未だ引きずっている、引きずらされている問題なわけです。この部分に共感する読者も多いでしょう。そしてオリヴァーの方も、真面目で堅物ってのは彼の性格だし特徴だし魅力でもあるはずなんだけど、それを歴代彼氏にダメ出しされてきてかつそれでフラれてきたようで、自分で自分を「おもしろくないダメなヤツ」と思い込みすぎちゃっているきらいがある、本来のスペックはスパダリなのに自己評価がめっちゃ低い、めんどくさい男なのでした。そして彼もまた、医者一家の家族からおミソ扱いされていて、カミングアウトはしているもののやっぱりうっすら差別と無理解、ゲイフォビアに脅かされているということがだんだんわかってくる構成になっています。
 この、ちょっとアダルトチルドレン気味の、自己肯定感が低い、スマートかつスムーズに社会生活が送れていない、家族との関係に問題を抱えているキャラクター、という在り方が、いかにも少女漫画的というか少女小説的というか、要するに女性向けコンテンツっぽいなと私は思うのです。この作品が、いい悪いとか評価の上下とか高等か下世話かという意味ではなくて、ゲイ文学ではなくBLだと私が言うのはそのためです。男子は甘やかされて無頓着に育つから、家族との関係に問題を感じない(問題がないわけでは決してない)ことが多く、こういうモチーフやこういうことに思い悩み煩うキャラクターが男性作家による少年漫画その他の男性向けコンテンツで描かれることはほぼないでしょう。でも、女性作家は、女性読者はそうではないのです。
 ならなんでそのまま女性キャラクターでやらないかというと、そりゃ近すぎてうんざりするからです。読者が幼いころは、主人公と境遇が近かったりすると嬉しいものでした。同性の方が感情移入も共感もしやすいですしね。でも大人になってくると、そして多くの女性はそれでも少女漫画や少女小説から離れないでいるものなのですが、それでも主人公が自分同様に未だイジイジオタオタしているのを見るのは今度はしんどくなるわけです。読者の方は大人になるにつれて仮面を被ることを覚えたり精神的な武装をしたりして実社会になんとか対応していって、それでもときにしんどいからフィクションを求めるのに、フィクションの中でも似たような女主人公がウダウダしんねりやっていたら、ちったぁしっかりしろよとイラッとするのです。なのにそれはフィクションだから、都合のいい出会いや展開があって、そんな女主人公がスルスル幸せになっていってしまう。そんなわけあるかい、となおイラッとする…
 でも男性主人公なら、女性読者にとって性別というヴェールが一枚介在してファンタジー、ドリームに化けるのです。かつ基本的にシスヘテロ女性だから基本的に男に甘い、というのがある(笑)。それで応援しやすくなるのです。同様に、女性主人公で異性愛ドラマを展開されると、現実の男のしょーもなさも身に染みてわかってきている大人の女性読者はまた「こんなワケあるかい」ってな気持ちにさせられるわけですが、男性キャラクター同士の同性愛ドラマにされれば「こういうこともあるのかも」と夢が見られて、酔えるわけです。だからBLってシスヘテロ女性の女性による女性のためのエンタメ、もっと言えばポルノなんだと思います。そしてそれでいいんだし、そこにこそ存在意義があるんだと思います。ゲイのゲイによるゲイのための、とかの同性愛文学とかが欲しいなら、それは男さんたちがどうにかすればいいんです。not women’s buisinessです。
 そんなわけでこの小説は、ゲイである男性キャラクターふたりによって、とても典型的に展開します。そこがイイ。大部なのはディテールがねちねちしているからで、私はそこも好みで楽しくジレジレ読みました。
 そして、恋とはとても面倒で厄介なものだけれど、それを通してしか得られないものがある、ということを描いているところが好きです。ふたりは相手に向かってそれぞれにおずおずと踏み出し、その過程で自分自身を改めて受け入れたり発見していったりします。そういう変化や成長をもたらすことがあることが恋愛のいいところだと私は信じているので、こういう物語を私は愛好しているのです。昨今流行らないのかもしれませんが、そして別に他人に恋愛はいいよとか絶対に恋愛するべきだよとか強要する気はさらさらないのですが、私はここには豊潤な泉があると信じている、古い昭和の犬なのでした。
 さて、こういう物語は、反発しあっていたふたりがやがて理解を進め合い、恋に落ち、上手くいき、でもトラブルその他があって一度別れて、それが解決されてハッピーエンド、と決まっています。もう絶対にそうなのです。鉄板のパターンです。『赤と白と~』もそうでした。さらに偽装恋愛からの本気になっちゃってキャーどうしよう、なんて展開、これまでに少女漫画で一兆万回(アタマの悪い単位の表現)描かれてきた展開です。だがそこがイイ。
 どアタマの先走り的なキスを除けば、初めてきちんとキスするまでに約450ページかかります。だがそこがイイ。そして濡れ場に関しては、朝チュンとまでは言わないまでもわりと描写があっさりめです。そこもまた少女漫画的であり、かつ大人の女性の読者はセックスの真実はリアルにしかないことがわかっているので、そこはBLには求めていないんだと思います。それに男性同士の肉体的な性愛とか、女性にはホントわからないことなんだしさ。だからこれが正解なんだと思います。
 残念だったのはオチの弱さです。ルークの一人称小説なのでオリヴァー側の心理や事情は描きにくい、というのはあるんだけれど、物語との都合として一度オリヴァー側から別れることになるのとそのリカバリー、がはっきり言って全然意味不明でした。ページも全然足りなかったし。ラスト10ページのお粗末さとか、ひどすぎました。どーしたんだ電池切れか!? 私だったらラスト70ページを200ページに増やしていいから書き直せ、と言ったな…ただこの作品、現在続編が執筆されているとのことで、22年8月刊行予定なんだとか(タイトルは『Husband Material』とのこと。ちなみに今回の原題は『Boyfriend Material』)。訳出はさらにもう数年後になるのかなあ? それと通して読んだらまた印象が変わるのかもしれません。
 ルークの元恋人トムの現恋人であるブリジットのキャラクターが素敵でした。こういう親友との友情ってのも残念ながらドリームなのかもしれませんが、でも、夢見たいですよね。『赤と白と~』のヘンリーにも姉や親友のキャラクターがいたように、オリヴァーにも誰かしら設定するべきだったのかもしれません。兄嫁のミアはいいキャラクターだったのにな。それか、もうちょっとオリヴァーの仕事を絡めるか…オリヴァーはルークが自分の仕事を愛するより遙かに強く自分の仕事を愛しているはずなので。

 ともあれ、この路線でまたいい原作を拾ってきて、訳出していってくれるといいなと期待しています。イヤ真性BLレーベルの小説にもいいものがあるとは聞いてはいるのですが、サイズが大きかったり挿し絵が入ったりしていてぶっちゃけ外で読みづらかったりしません? よくわかっていないままに語っていてすみませんが…それでもオススメあったらぜひ教えてください!



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ケムリ研究室『砂の女』

2021年08月27日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタートラム、2021年8月24日18時。

 原作/安部公房、上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ、音楽・演奏/上野洋子、振付/小野寺修二、美術/加藤ちか。全2幕。
 女/緒川たまき、男/仲村トオル。

 ケムリ研究室というのはKERAさんと緒川たまきのユニットだそうで、第1弾は『ベイジルタウンの女神』で、今回が第2弾とのこと。
 私は原作小説は未読、有名らしい映画も未見で臨みました。お話のだいたいの設定を知っている程度。
 で、舞台というものを上手く使った、おもしろい作品だと思いました。そしてこういうお話ってホント、ラストのカタルシスのためだけにすべてを積み重ねていく…みたいなところがありますよね。良きオチでした。このオチに対してカタルシスって表現は変かな? でも私はそう感じました。そうなるよね、という納得と、それはもちろん解放でも解決でもなんでもないんだけれど、その閉塞感、どん詰まり感そのものがオチであり、カタルシスでした。
 もともと本当にこういうお話なのだとしたら、小説よりも映像よりも演劇が一番説得力を感じられる気がする…と思いました。舞台って、お客の目の前で本物の役者が演じるんだけど、でも嘘という、不思議なファンタジーがあるから。だからこの頓狂な設定やストーリー(というほどのものではないけれど)、オチに逆にリアリティが生み出せるのではないかと思うのです。映画だと私は「なんだソラ」となったのではないかしらん…ま、機会があればとりあえず小説を読んでみようかな。名前を知っているだけで、一作も読んだことがない気がします、私。近現代日本文学にまったく疎いんですよね…お恥ずかしい。
 女なるものを体現したかのような緒川たまきと男なるものを体現した仲村トオル、よかったです。
 音楽も美術も素敵でした。あとプログラムも素敵。どうぞこの公演も無事予定どおり完走できますよう…

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『スキャンダル』~韓流侃々諤々リターンズ31

2021年08月24日 | 日記
 2003年、イ・ジェヨン監督。ペ・ヨンジュン、イ・ミスク、チョン・ドヨン。

 ラクロ『危険な関係』を18世紀李氏朝鮮に移したもので、ペ・ヨンジュンの初主演映画として当時話題になったものでした。『冬ソナ』で優しげだった笑顔がこの映画では好色に見えるんだから、たいしたものです。
 宝塚歌劇でいうところの『仮面のロマネスク』ですが、原作とはちょいちょい違っていて、ペ・ヨンジュン演じるチョ・ウォンがヴァルモンにあたりイ・ミスク演じるチョ夫人がメルトゥイユなわけですが、ふたりはいとこ同士となっています。チョ・ウォンは独身ですが妻を亡くしたことになっていて、チョ夫人は未亡人ではなく夫がいます。その夫にセシルにあたるソオク(イ・ソヨン)が側室として嫁いでくるので、夫の鼻をあかすためにソオクの処女を奪ってやってくれ、とチョ夫人がチョ・ウォンに持ちかけるところからお話は始まります。そのころチョ・ウォンはチョン・ドヨン演じるチョン・ヒヨンに夢中で、これがトゥールベルになります。ただし未亡人で、しかも婚礼前夜に夫が亡くなったので処女、という設定です。ダンスニーにあたるのがチョ・ヒョンジェ演じるイノですね。
 私は『危険な関係』の翻案ではさいとうちほの漫画『子爵ヴァルモン』も大好きなんですが、総じて『仮面のロマネスク』というのはかなり大胆に翻案して宝塚歌劇化しているよな、と改めて感心します。ヴァルモンがトゥールベルに本気になってしまい、メルトゥイユは結果的にフラれて終わるのが原作のミソだと思うのですが、そこを両想いにしてトップコンビに演じさせるわけですからね。
 しかしイ・ミスクはラストシーンの化粧っ気のない顔が一番美人に見える…あとはやはり年増に見えて、そもそもヒロインではないように見えるのが残念です。といってヒヨンがヒロインに見えるかというとこれまた微妙なキャラクターなわけで、といってではチョ・ウォンが主人公でヒーローかというともちろんそれも苦しいわけで…
 でも、その死に方といい、チョ夫人のラストといい、エンドロールのラストはソオクがより若い側室を迎えて終わっているところといい、欺瞞にあふれた貴族社会の中で愛と自由を求めて足掻き、敗れた者たちを悲しく美しく描く…といった映画として、よくできてはいるのかなと思います。そういう意味ではやはり原作の強さをも痛感しますね。
 セットやお衣装、小道具などにもきちんとお金がかかって見える、良き一本です。


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宝塚歌劇花組『銀ちゃんの恋』

2021年08月22日 | 観劇記/タイトルか行
 KAAT狩野川芸術劇場、2021年8月20日13時。

 ここは京都撮影所。折しも、映画『新選組血風録』の撮影たけなわ。土方歳三に扮するのは「銀ちゃん」こと倉丘銀四郎(水美舞斗)。銀ちゃんは自分が主役じゃないとダメな性格で、役者としての華もあり人情もあるが感情の落差が激しいのが玉に瑕。恋人の小夏(星空美咲)や、銀ちゃんに憧れ慕っているヤス(飛龍つかさ)は気の休まる暇がない。そんなとき、小夏が妊娠。自分を大スターだと思い込んでいる銀ちゃんは、スキャンダルを恐れて、ヤスと小夏を無理やり結婚させようとするが…
 原作/つかこうへい、潤色・演出/石田昌也、作曲・編曲/高橋城、甲斐正人、高橋恵。80年初演、82年直木賞受賞、83年の映画版も有名な『蒲田行進曲』の宝塚歌劇版。96年月組初演、08年花組、10年宙組で再演されて4度目の上演。全2幕。

 私は初演も観ていますが、前回の宙組版のときの記事はこちら
 …結論から言いましょう、私は全然いい観客になれませんでした。
 再演のニュースを聞いたときには、「お、いいんじゃない?」と思ったんですよね。ただ、だいぶ昔の話だけどな、そもそも前回の公演いつだっけ? じゅ、十年前…?? い、今この内容って通じるのかな…とは、心配になりましたけど。
 ヤスはつかさっちかな、ほってぃーも上手いと思うけどな、なみけーってのもあるかな、小夏は音くりちゃんに任せたいところだけれど、都姫ちゃんってのもアリかもしれないな…とか、いろいろ楽しみにしていました。
 実際の配役は、ヤスはつかさっちで、これは任せて安心。ただ星空ちゃんが小夏というのは…『POR』はがんばっていたけれど、あれはああいうお姫さま役だからなんとかなっていただけなのではあるまいか…そりゃ花組の頃のスミカも似たような学年だったけど、キャリアというか場数が全然違ったし、何よりニンが違うじゃん。スミカはお姫さまってより北島マヤ、芝居の鬼ってタイプだったからハマったんであってさ…だいたい星空ちゃんをどういう娘役に育てる気でいるの? もちろん花組の下級生路線娘役が全然育っていないって問題はあるんだけど、華ちゃんの後任にまどかが来たんだからしばらくはそれでつなぐんじゃん、だからそんなに急ごしらえしなくてよくない? 小夏の「営業年齢」25歳に全然届いていないだろう下級生に、あまりに酷では…と、私はかなりどんよりしました。
 KAATってのも出かけるには億劫なんだけれど、『ほん魔法』『マノン』と来ていて多少慣れたのでよいしょっと出かけて、会場でプログラム買って、開いて、またどよよんとなりました。
 マイティーのスチール、なんか笑顔が優しすぎません…? コレ、銀ちゃんか…? つかさっちはちゃんとヤスなのに…そして星空ちゃんの硬直した笑顔に絶句しました。舞台では緊張してこういう表情しか作れないのだとしても、スチールなんだからウソでも偶然でももっと笑った顔が撮れるでしょう? てか小夏は変わらず「売れない女優」という説明になっていましたが、正しくは「売れなくなった女優」で「かつては売れっ子だった女優」の役なんですよ。だからもっと艶然と笑うべきだし、素の、意外と純真な小夏って方でいくならもっとニッコリ可愛く笑うべきなのでは…? なのにこの、まったく笑っていない目、引きつって上がっただけの口角…
 しかも私、頬骨大好きで、たとえば珠城さんの顔でも一番好きなのは頬骨なんですけど、娘役の顔には求めていないんだな、ということに気づかされました。そもそもちゃぴに似ていると話題になった娘役ちゃんだと思いますが、ちゃぴはそんなに頬骨が目立つタイプじゃないしなあ…
 そんな感じでだいぶどよよよんな気分で席につきました。ただ、前方通路側のとても観やすいお席で、みんなが歌う蒲田行進曲と中山(美風舞良)ちゃんのあおいちゃんの開演前アナウンスにアガり、ちょっと気を取り直したところで開演。専務(航琉ひびき)と中山ちゃんの会話から始まりますが、すでにアレコレ変更されていて、ほほう手を入れたのねと見守っているうちに銀ちゃん登場。あとは前回ママの撮影シーンで、ここはまあまあだったかな。てからいとの助監督がほぼモブで悲しいわ…
 銀ちゃんにお弁当を持ってきた小夏は、一応ちょっとやつれた大人の雰囲気が出せていたと思いました。そのまま橘(帆純まひろ)とのダンス場面、橘のポジションが上がっていたのでそうキタかとちょっと苦笑い。プログラムでも扱いが小さかったもんね小夏…でもちゃんとヒロイン扱いしてもらわないと、この話の構造としてしんどくなるんだけどな、とまた心配に。
「主役は俺だ!」でダンスパートが増えていたのにはさすがマイティー銀ちゃんだよコレはいい改訂だわと笑い、そのままヤスのアパートの場面へ…やはりヤスの芝居はよかったです。

 …ま、でも以後も全体にこの調子で私はどうしても記憶と比べて観てしまい、キャラクターや物語に没頭できなかったのでした。また申し訳ありませんが私はマイティーが、別に好きでも嫌いでもないんですよねえ…そしてどうしても銀ちゃんにしてははっちゃけっぷりが足りなく見えて、本人がいい人なのがにじみ出ているような気がしたので、「おお、これがこのスターの魅力だったか! 開眼したよ今まですまんかった!!」みたいな発見には私は至らなかったのです。てか華ちゃんやあきらご卒業後の新生花組のおそらく正二番手に就任するんだと思うんだけど、劇団はどういうスターとして売っていくつもりなのでしょうね? どうもプログラムの石田先生のコメントからすると(私がアンチすぎるせいかもしれませんが、毎度ホント意味不明の文章だと思う)マイティー主演で台詞劇をやらせる意図があって、それで今回の演目セレクトになったようですが…うーん、別にものっすごく口跡がいいとかいうタイプではなくない? それともそこを鍛えたいということ? でもそれよりもっといいところを伸ばした方がいいスターなのでは…?
 で、キャラクターに感情移入なり共感なり、せめて愛嬌を感じて親身になれないと、このお話ってかなりきついですよね。恋愛というよりは共依存みたいな、女性を潤滑油にしたホモソみたいな、嫉妬と愛憎みたいな、でもやっぱり純愛と義理人情のお話なんだけど(この純愛というのはプラトニックという意味ではなく、純粋なとか真実の、という意味で、です。ちなみに原作にあるのかもしれませんが「恋はやっぱりプラトニックがいいなあ」という台詞は、私はどうにも引っかかります)、やはりかなり特殊な関係性のドラマなので…それはセクハラパワハラDVめいた台詞や動きを多少手直ししたからってどうにかなるものではないと思うので。それを、こういうことってあるよね人間だもの、という説得力を持たせて泣かせる…ってのはかなり力業のいることだと思うのです。ま、結果的にはメタなんだけどさ。
 なので…とにかく私はちょっと、ダメでした。多分舞台や出演者のせいではないと思うんですけれど…ホントすみません。
 今回初めてこの作品を観て、こういう作品だったのか、いいなおもしろいなってなっている方々の好評なんかも聞きますし、そうやって四十年前の作品でも受け継がれていくならそれはいいことだと思うので、ちゃんと愛されているならよかったです。以前も観たけど今回もいい、と言っている方も多いようですしね。近い昔の話って難しいんだけれど、続けていけばチェーホフやシェイクスピアになるのかもしれませんしね。なのでホント私がいいお客になれなかっただけです、すんません。
 それにしてもダーイシはホントろくなこと書かないよね…「ご助言」ってなんだよ、このカギカッコはなんだっつーんだよ。なのであれこれ細かく論評する気が失せた、というのもあります。そうそう、「現金」発言で客電点けるの、私は以前から嫌いだったなー…「え? ナニ? 操作ミス?」ってきょとんとする観客ももちろん多いんだろうけどさ。
 あ、糸月雪羽の玉美がよかったです。慣れないハイヒールのカクカク歩きが上手かったというのもあるし、要するにブスキャラなのでおてもやんメイクなんだけど、それでも元の顔がうっすらわかるし可愛く見えないこともなくて、絶妙な愛嬌がありました。ダンちゃん同様ここからハネますように! スカステニュースもカワイイよ!!
 ここまで三作連続登板だったヤス母の邦なつきは京三紗に替わってしまったんですよね、これは残念でした。
 あとは愛蘭みこちゃんチェックとかしたかったんですけれど、ちょっと気が回りませんでした。
 フィナーレはないバージョンでしたね、そして電飾は大空さんのより派手になっていた気がしました(笑)。セットの奥の映像も精緻になっていて、進化を感じました。しかし『卒業』パロディってホントもう通じないんじゃないのかなー…
 ポスターやプログラムの公演期間の、初日と楽の間のマークがカチンコになっているのがカワイイ。DC大楽まで無事の上演を祈っています。


 



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こまつ座『化粧二題』

2021年08月21日 | 観劇記/タイトルか行
 紀伊國屋サザンシアター、2021年8月19日19時。

 作/井上ひさし、演出/鵜山仁、美術/堀尾幸男。
 市川辰三/内野聖陽、五月洋子/有森也実。

 二年前にも同演出、同キャストで上演しているそうです。私はそのときは何故、行けなかったのだろう…記憶がナイ…
 そしてタイトルは、そもそも女座長の一幕ものの『化粧』という作品があり、それを二幕仕立てにして『化粧二幕』とし、それをさらに改訂して男座長の物語を加えたのが『化粧二題』となるそうです。休憩なし一時間半の舞台で、前半は女座長の、後半は男座長のひとり芝居。間にうっすら暗い中で黒子がセットチェンジをします。大衆演劇を舞台とした、いわゆる母子もの…と言ってしまえるかと思います。そもそも、ひとり芝居で母ものを、という趣向で書かれた作品のようです。その勝利かな。
 前半は90年代なかばの設定らしい…とプログラムの寄稿にあるのですが、私には昭和の物語に思えました。でもそれは、私が実際の大衆演劇にミリも触れたことがないからだと思います。梅沢富美男は知っているけれどチビ玉三兄弟ブームについては「はて…?」で、今も早乙女兄弟は客演舞台で観ていても、彼らの母体?の劇団での公演は観たことがないからです。ところでこの寄稿のラストは大衆演劇と大衆文化の関わりについてということで宝塚歌劇と大衆演劇の相同性に触れているのですが、これも個人的にはピンときません…私はSNS絡みとはいえヅカ友がざっと二百人はいると数えていい気がするのですが、大衆演劇にもハマった、という域に達している人はひとりしか知りません…観に行ったことがある、という域でも数人程度かも。もちろん単に話題に出ないだけで私が知らないだけなのかもしれないのですが…そんなわけで私としてはだいぶ遠い世界の出来事のような気がするのですがしかし、実はバブル前後の物語でありその時期に書かれ初演されたものなのだ…というのは、言われてみればそうかもな、と思わなくもないのでした。それくらい、混沌とした過渡期だったのだと思います、あの時代は。
 しかし私は貧しいながらも都会の共働きの核家族に育ち、まあまあ親の情愛をちゃんとかけられて育ったので、ぶっちゃけこういう母子ものにはピンとこないのでした。こういうのの「子」ってたいてい息子のことだから女の身としてはそこもピンとこないし、そして私は今やいい歳の女なのですが「母」にもなっていないのでそっち側もピンとこない。どの立場で観ていいのか、どう共感していいのかよくわからず、よりファンタジックに感じてしまうのかもしれません。
 でも、開演前の楽屋が舞台で、役者が化粧や衣装の支度をしながら、共演者と芝居を合わせたり代役に口立て稽古をつけたりそこに来客を迎えたり…といった形で進むひとり芝居には、なのでどちらかというとバックステージものとして魅了されました。
 女座長は男役として、母子ものの「子」の立場になる主人公として舞台に出ようとしている。でもその芝居に、自らが幼い息子を捨てたことを重ねているのではないか、とテレビ記者につっこまれる。一方で男座長の方は、やはり男役として母子ものの子の立場になる主人公として舞台に出ようとしていて、しかしかつて身を寄せていた孤児院の院長に、母親が客席に来ていると告げられる…
 前半と後半には確かに時代の差、年月の経過が感じられなくも、ありません。でも洋子の捨てた子が辰三だ、というダイレクトさも、どうもない、気がしました。イヤ私がなんか見落としていただけだったらすみません。でもねじれているような、パラレルワールドのような、そんなふうに観てとれました。あるいは辰三は、洋子が息子を預けたのと同じ孤児院で育っただけの、全然別の孤児であるような? けれど要するに、それくらい普遍的に、女が子を捨てなければならない現実というものはあり、それでも母も子もお互いを忘れたことなどなく生きていくものでしょ、という事実だけがただこの舞台に横たわる…というような。そこに、化粧をして、別人になって、けれど舞台で真実を演じる、という役者の業が絡むような…そんな物語なのかな、と思いました。
 そして女座長は、記者の言葉を振りきって舞台に出ていく。一方で男座長の方は、舞台を放り出して客席にいる母親の方に飛んでいく…という話のように、私には見えましたが、それもなんか違っていたらすみません。男座長が楽屋を飛び出していくのと同時に、楽屋の後ろの壁のようだった垂れ幕が落ち、その向こうにちょうど裏表になった女座長の楽屋が覗けて、そこに呆然としたように佇む女座長の姿が見える…で、幕、です(イヤ幕は降りず暗転でしたが)。そういう舞台でした。
 装うこと、偽ること、演じること、けれどそれが常に真実を伝えてしまうこと。そういうことを描いた作品なのかな、と思いました。
 有森也実は私のふたつ上、内野聖陽はひとつ上です。ふたりに歳の差がほぼないのもミソ。普通にしていたら別に親と子になんか見えないふたりで、だからこそ前半と後半にタイムラグがあるのかなとも感じさせる、でも決してスムーズにはつながらない、そういう構造の物語なのかな、と思いました。ちあきなおみの歌がまたいい仕事をしています。
 そしてそういう、子を捨てた過去があってもいいくらいの歳の私でも、子の立場で考えたらもし親を知らなければ未だ知りたいと思い続けていることだろうと思いますし、今ふいに「おまえの本当の親は別にいるんだよ」とか言われたらものすごく動揺するだろうとも思います。そういう意味で、いくつになっても親は親で子は子なのでしょう。とても重い関係なのだと思います。
 そして結局、産みの育てのといったときに常に問題になるのは結局のところ常に母親です。種だけの父親なんて問題にもなりゃしません。だからこそ、この場合の「子」は息子なのでしょう。娘はもう別の子の母になっているかもしれないのですから。娘はそれで違うフェーズに至れる。けれど息子はたとえ別の子の父になっても、そんなこととは別に常に自分の母を求め続けるものなのでしょう。「お腹を痛めた」というのはそれほど重い。あまりにも動物的すぎる行為だからこそ、なお。
 フェミニズム的にいえば、女が子を捨てざるをえない社会が変わらない限り繰り返される悲劇だね、早くどーにかしてくださいよ男社会の男さんたちー(棒)、という呼びかけをするより他にできることはないな、という感じではあります。そんな男さんたちがこういう作品を観て酔ったり泣いたりただしているだけなのかと思うと思わず「ケッ」と言いたくなります。そして残念ながら初演から三十年がた経っても世の中はどうも良くなっていないのです。若い女が望まない妊娠をさせられて産んで死なせて罰せられて種の男の罪は問われず、女が病に罹って国に見捨てられ自宅で早産させられて赤ん坊を死なせて国からなんのフォローもない、そんな現実です。さすがの作者もそんな未来を想定してこの物語を書いたのではありますまい…実に不幸なことです。
 もうちょっと前の、一瞬豊かになりかけた時代であれば、プログラムの対談にもあった、武装としての女装とか、そうやってのびのび生きる地平を切り開く女たちの姿が舞台から見えた…かも、しれません。でも、今、残念ながらそれどころじゃないよね…
 ただ、マスクのおかげで化粧をしなくてすむようになったとか、リモートワークで通勤しなくなったので社交辞令的なハイヒールとかも履かなくなった、着るものが俄然カジュアルですまされるようになった…という瓢箪から駒、みたいなのは、あります。このあと無事に生き延びられたら、そしてヘンなバックラッシュがなければ、女たちにとっては良き前進であった…と総括されることになるのかもしれません。
 そういう、たまたまでも、あるいはゆっくりでも、良くなっているのだ、進化しているのだ、いつかみんなが幸せになるのだ…ということを、信じたい、という想いはあります。そういう願いを見つけるために、あるいは再認識するために、私たちは常に舞台に、小説に、漫画に、映画に、つまり物語なるものに触れようとしているのかもしれません。

 あたりまえですが役者ふたりはとても達者で、色気も愛嬌もあって素敵でした。
 次は「雨」を観ます。今度は世田パブだし、大芝居なのかな? 楽しみです。







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