駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ゲイル・ギャリガー『アレクシア女史、女王陛下の暗殺を憂う』(ハヤカワ文庫FT)

2012年09月30日 | 乱読記/書名あ行
 異界族と人類が共存するヴィクトリア朝ロンドン。伯爵夫人アレクシアは妊娠八ヶ月目を迎えていたが、お腹の子の異能を恐れる吸血族の執拗な攻撃にいらだつ。さらにゴーストが現れて女王暗殺をほのめかし、アレクシアは暗中模索の捜査を始めるが…英国パラソル奇譚、スチームパンク冒険シリーズ第4弾。

 おなじみの面々が、まだまだ知られざる設定を引っさげて上を下への大立ち回りで、ハラハラしながら楽しく読みました。
 もちろん私はナンバー・ツー好きなのでランドルフのファンなのですが、まさかのここへ着てのゲイ設定! しかも最後の恋人はヒロインの父親!! おもしろすぎます。
 お話はアレクシアの娘が生まれたところで最終巻へ。人狼とソウルレスの間に生まれたのはどうやらただの人間でもただの人狼でもただの吸血鬼でもないようで…?
 どうなることやら。ますます楽しみです。


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宝塚歌劇星組『ジャン・ルイ・ファージョン』

2012年09月30日 | 観劇記/タイトルさ行
 日本青年館、2019年9月26日マチネ。

 1794年、ロベスピエールの独裁による恐怖政治下のパリ。革命裁判所の法廷でひとりの男の裁判が始まろうとしていた。男の名はジャン・ルイ・ファージョン(紅ゆずる)、かつて王室御用達の香水商として名を馳せた彼は、王妃マリー・アントワネット(早乙女わかば)と深く親交を結んだとして、反革命派の嫌疑をかけられていた。ジャン・ルイは自由、平等、友愛を旗印に掲げる革命の理想を捨てたことはないと訴えるが…
 作・演出/植田景子、作曲・編曲/甲斐正人、青木朝子。

 徹頭徹尾ザッツ・景子先生作品。そして私はなーこたんでもこだまっちの世代でもなく確実に景子先生世代であるので、近親憎悪を感じるくらいに好きですよ。まして大劇場公演はハズレが多いがバウ作品はまず外しませんからねー、今回もいろいろと考えさせられました。
 一幕が展開がややスローでほぼ序盤、という感じだったのは残念でしたが、二幕は力技で押し、かつ泣かせてくれました。ちょっとずるくもあったけれどね。
 音楽がとてもよくて、ベニーもわかばちゃんもかなりがんばっていたし、危ないところはコロちゃんに歌わせるという技も効かせていて(^^;)よかったです。まっかぜーの歌はまだまだ危なっかしかったかな、ガンバレ!
 それからドレスも本当に美しく、景子先生のセンスの良さを感じました。個人的にはスミカのメルトゥイユが着た赤いスカートやピンクのお散歩ドレスがまた見られたのが楽しかったです。
 アントワネットのドレスも、回想のオペラ座仮面舞踏会場面であのベタな赤のわっかのドレスが出る他は、プチ・トリアノンでは素朴で清楚で愛らしい白のドレスで、それがまた美しかったこと! 眼福でした。
 ベニーやまっかぜーの宮廷服ももちろん素敵。シュウキサラギのショーヴラン・コスももちろん素敵。
 そして何より美城れんのバレル弁護士の演技がすばらしく、熱く胸を打ったのでした。
 しかし一原けいはさすがに存在感はあったけれど、せっかく出ていただいたならもうちょっと芝居をさせてあげてほしかったわ…
 もちろん京三紗のトゥルゼル夫人はさすがでした。
 あと大輝真琴のルイ16世が本当に素晴らしかったよ! この王様を、凡庸だったかもしれないけれど心優しき良き父良き夫だったこの人を、間抜けなボンクラに描いたりしないところがことに素晴らしかったと思いました。

 さて、なので、考えさせられたのはベニーの演技です。はたしてあれは脚本の役をきちんと体現できたのでいたのでしょうか。
 というか、この脚本が描こうとしていたのはなんだったのでしょうか。

 これはジャン・ルイとアントワネットとフェルゼンの三角関係の形を取ったドラマですが、通常の色恋の三角関係ではありません。
 アントワネットとフェルゼンは不倫ではありますが愛し合っている恋人同士です。
 そしてジャン・ルイにとってアントワネットは、どこかで聞いたようでなんですがインスピレーションだったのです。そしてミューズだったのです。

 裁判の場面から一転してプチ・トリアノンでの回想場面に移る鮮やかさは美しい。そして薄汚れていたジャン・ルイも少し若く、溌剌と美しく再登場します。それは輝くばかりで素晴らしい。
 さて彼はこの日注文された香水を納めるべくやってきて、初めて王妃に拝謁できるらしい。そして彼の笑顔は固まったままです。
 ここで私は、このキャラクターをどう捉えていいのかわかりませんでした。
 前情報として、貴族ではなく平民であることは知っていました。貧乏貴族なんかよりも金回りがいいくらいのブルジョワジーだとも。
 で、では彼は貴族階級をどう思っているのか? 自分の方が裕福なくらいだと見下しているのか? やっぱり位が欲しいと羨望しているのか?
 王妃に対してはどう思っているのか? 強欲で好色な外国人と憎んでいるのか? センスのいい貴婦人らしいと好感を持っているのか?
 好きで香水商をやっていて(のちに父親のあとを継いだものだとわかりましたが)仕事には自信があるようでしたが、認められたいとおたおたしている感じなのか、俺の仕事がわからんようなら買ってもらわんでいいくらいに考えているのか、そういうことも私には見えませんでした。
 主人公のキャラクターがつかめないうちにヒロインと出会って話が進んでしまうのは、ちょっと混乱させられたなあ。これは演出の足りなさなのか、はたまたベニーの演技の足りなさなのか…?

 わかばちゃんがまた素敵なアントワネットなんですよ。私は星組の若手娘役でははるこが好きで、『ダンセレ』の扱いの差なんかでは泣きましたが、でもあのときのわかばちゃんの役も決してニンではなくいいものではなかった。
 今回はとてもいい役だし、それをとても自然に演じこなしていて、久々の大型娘役登場、ってことなのかもしれないなあ、と思わせられました。
 わずらわしい宮廷が嫌いで、小さな離宮で気の合う人たちとだけのんびり過ごす、鷹揚でおおらかで明るく飾り気のない素直な女。のんきな少女がそのまま大きくなったような。
 のちに民衆や革命政府やいかにも悪し様に言うような、派手好きでわがままで淫乱で金遣いが荒い悪女、なんてところはかけらもないわけです。それをきちんと示している。
 だからこそ、このアントワネットの実像が、ジャン・ルイにとってどう響いたのかを見たかった。でも事前にそもそも彼が彼女をどう思っているのかが見えなかったから、それもつかめなかった。残念です。

 ともあれアントワネットにある種の感銘を受けたジャン・ルイは彼女こそ自分のクイーン、ミューズだと歌います。
 しかしそれはあくまで色恋ではなくて、仕事のインスピレーションを与えてくれる、そして自分の仕事を理解してくれるソウルメイトとしての思慕、であるらしい。
 何故なら、そのまま新たな注文に熱中してしまって結婚記念日のお出かけをすっぽかしてしまっても、後ろくらい悪びれ方はしないからです。だから妻ヴィクトワール(綺咲愛里)もいい気持ちはしないまでも、浮気だと騒ぎ立てるまではいかない。
 でもやはりいい気はしないというのは引きずるわけだし、ヴィクトワールの疑念は晴れないまま引きずられます。ここもなー、この子も『ダンセレ』よりずっといい役をやっていると思うし、可愛い顔なんだけど声は意外に低くてしっかりしているので、ヘンにお嬢さんっぽい役よりこういう役の方が合うのだと思います。
 しかしこのキャラクターは、仕事に没頭しているだけの夫にヘンにやきもちを妬く愚かな女なのか、あるいは夫のそういう仕事の仕方に理解を示している賢い女なのか、これまた私には中途半端に見えて、すわりが悪かったです…

 その後だったかどの流れだったか細かくは忘れましたが、ジャン・ルイにとってそもそもアントワネットはその輿入れ(「輿入り」と言っていたが変じゃないか?)のときから彼の憧れの存在であったらしい。それは何故なのか?
 そしてまた彼は幼いころから、当時としては開明的だった父親に革命思想を教えられて育っていたらしい。
 ということは王侯貴族は敵だ、ということに普通はなるものなんじゃないの? なのになんでアントワネットに対してはアイドルにあこがれる少年のようになっちゃうの?
 それとも彼はフランスとオーストリアの友好のためにやってきた若き王太子妃に、新時代の立憲君主を夢見ていたということなの?
 というか私だったらそうするけれどね。そうでないと整合性が取れなくないか?

 そしてだからこそ、革命が進んだときに、王権神授説にしがみついて民衆をあくまで見下したアントワネットに(ちなみにそんな展開はありませんが。でもオマージュを端々に感じる『ベルサイユのばら』ではそうやってオスカルとアントワネットが口論し物別れになっているのですよ)幻滅し絶望したときに、ミューズと崇めたものが幻だったと気づいて怒り憎み、だから逃亡計画を通報しなかったんじゃないの?
 通報しなくてもみんな計画は絶対に頓挫する、それは彼らの政治的寿命を(実際の寿命のことはジャン・ルイはもう少し楽観していたようだけれど)より縮めるにちがいない、ざまをみろ、くらいの気分だったんじゃないの?
 自分の敬愛を裏切ったアントワネットへの復讐の仕打ちだったんじゃないの? だからこそ彼は心苦しかったんじゃないの?

 そしてフェルゼンへの嫉妬も確かにあったのではないかしらん。
 ジャン・ルイは男として女であるアントワネットを恋していたわけではないけれど、ミューズであるアントワネットには普通の愚かな女のように色恋に溺れてほしくはなかったんじゃないの?
 だからフェルゼンを嫌ったんじゃないの? 普通に話せば話のわかる好青年だと知っているからこそ、なおさら。
 そういう、これはやっぱりねじれた、それでもある種の三角関係の物語だったんじゃないの?

 というか私自身がそういう話の方が好きだというだけのことなんですけれどね。
 私はどうしても理屈っぽくまた辛気臭く萌えてせつない展開にする方が好きなので。
 でも、でないと、そもそも革命思想に共感しているリベラルなブルジョワで、むしろ今の行き過ぎてしまった革命政府には批判的な、そんな開明的な青年が、王妃という地位を離れては考えられないアントワネットという存在を、どう捕らえていたのかというのが私には納得できないんですよ。
 プログラムで景子先生が稽古時間がいかにも足りなかったようなことを嘆いていますが、もしかしてそういう芝居に仕立てる時間がなかったんじゃないの?とついつい邪推してしまう私なのです。

 ロベスピエールの暗殺と前後してジャン・ルイの裁判は結審し、簡単に言うと「人間だもの」みたいな宣言で大団円で無罪となるわけですが、そしてもちろん私は泣きましたが、でももうちょっとだけスッキリして泣きたいのよ…と思ったのも事実なのでした。


 フィナーレは素敵でした。ベニーの肩先がグレーのグラデの白燕尾は『カサブランカ』のまゆたんのもの?(大空さんのものにしては飾りが少なかった気が…)堂にいっていてたいしたものでした。

 王弟たちもよかったなあ、子役もよかったなあ、マダム・ド・ランバル(やはりランバール侯爵夫人、と言いたい)もよかったなあ、スタール夫人もよかったなああ。
 ロザリーはサービスと言えなくもないけれど、これもよかったです。
 やはり『ベルばら』再演祭りをするなら演出はぼちぼち景子先生にやらせてはどうだろう歌劇団!
 まあそうでなくても、とりあえずチケットが取れる限りは行きたいと思いますよ『ベルばら』。やはり観ないという方はないし、未だ決定版を観て満足したことがありませんからね。
 重く期待とプレッシャーををかけておきたいと思います。


 そうだ、最後に。私ならサブタイトルをメインのタイトルにするんだけれどなあ…こういうちょっとした気の合わなさが、私が景子先生作品に性懲りもなく惹かれる理由かもしれません(^^;)。








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宝塚歌劇花組『サン=テグジュペリ/CONGA!!』

2012年09月30日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京宝塚劇場、2012年9月16日ソワレ、25日ソワレ。

 1930年。アトンワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(蘭寿とむ)はフランスの名門貴族の家に生まれながら、郵便飛行士として南米の大空を飛び回り、その合間に作家として執筆活動を行う忙しい日々を送っていた。ある時、仕事を終えた操縦士たちが羽を伸ばすクラブに、フランス人作家バンジャマン・クレミュー(高翔みず希)が喪服姿のコンスエロ(蘭乃はな)を連れてくる。エルサルバドル出身で中米マヤ族の血を引く情熱的な魅力を湛えたコンスエロに、サン=テグジュペリは一目で魅入られて結婚を申し込むが…
 作・演出/谷正純、作曲・編曲/吉崎憲治。
 サブタイトルは「『星の王子さま』になった操縦士」。

 大劇場公演時には「世紀の珍作」と聞いていたので、また私は当然「皆殺しの谷」が苦手なので、まったく期待せず観に行ったのですが…
 どうしてどうして、実によくできたミュージカルじゃん、としか思えませんでした。
 『星の王子さま』部分を抜いて、もっと主人公の人生のドラマを観たかった、という意見が多かったようですが、その主人公が作家である以上、書いた作品と人生は不可分だとも思うし、だからそれをなくしてしまうとすごく無味乾燥なものになりそう…と私には思えたんですよねえ。
 確かにブツ切りの場面とか、何がどうしてこうなったの?みたいな場面もあるのですが、類推できたり、そういう部分をお芝居ではなく表すダンスだったりしていたと思うので、私は本当に十分に楽しく観ました。泣きはしなかったけどほろりとさせられたし。
 ただなあ、『銀英伝』のときにも書きましたが私はもはや贔屓がいない人間なので、それでも宙組はだいぶ無心で観られなかったんだけど、今回は大丈夫だった、ということかな…
 私だってだいもんとかあきらとかきにりべーちゃんユキちゃんカガリリちゃんなんかが大好きなんですが、ぶっちゃけまだまだ本公演では役らしい役が回ってくる学年ではないこともあり、真ん中に関してはごくごくフラットに見られるから…というのが大きいのかもしれませんが。あと原作ファンだし。
 原作といえば、予習とかなんとかの問題以前に、こんなの常識なんじゃないの?という気もしましたが、それは私がたまたま知っている作品だったからなんだろうか…でもリベラルアーツのうちのひとつなんじゃないのかねえ…
 あと、きりまりなきあとのダンサーコンビの冠は蘭蘭コンビにこそ与えられるものなんだなあ、と開眼しましたし、ショーも含めてダンスは本当に観ていて楽しかったです。いやあ、うちの人が踊れなかったからねえ!(まだ言うか)

 プロローグは、私は長いと思いました。
 また、まゆたんの王子さまコスプレよりも星の精だか旅人だか、どっちがどっちかよくわかっていませんが、あれが耐えがたかった。あと『ダンロマ』だっけあの赤とオレンジの衣装? また2年たっていないよね? 今回は大勢口の衣装が近作に使ったものばかりで、そのデジャブ感はなんとかしてほしかった…
 あと主題歌が私にはつらかった…なんなの? ハウス世界名作劇場ふうなの? ファミリーミュージカル感がこそばゆすぎました…
 でもあった方がいいとは思いました。ないのはつまらないと思う。

 お話そのものは、1945年のリヨン郊外、レオン・ヴェルト(汝鳥伶)と孫娘ポーレット(桜咲彩花)のところにホルスト・リッパート(望海風斗)が現れるところから始まります。
 『星の王子さま』の愛読者だというホルストはあの有名な献辞を暗証し出すのですが、それを知らない人は早くもボカ~ンだったってことですよね。でもそれははたして作品の不備なのだろうか…うーむ。
 それはともかく浮かれた小娘を演じきって見せているベーちゃんが末恐ろしくてたまりません。

 というわけで舞台は回想に突入します…『銀英伝』に比べるとこういうステージングか本当にベタで古臭い。が、手堅いとも言えます。
 赤く塗られた愛機と共にスモークの中カッコよく第二主題歌を歌うまゆたん。目がハート、になるべきなのでしょう。私は失笑ギリギリだったけれど、いいの宝塚歌劇ってそういうものだから。
 で、わらわら現れる飛行士仲間たち。強風の中でも技を見せる恐れ知らずの男たち、仕事が終われば浮かれて騒ぐ楽しい男たち。新人の中には危険に及び腰の者もいる、そんな群像。
 ノーオペラでは声が識別できる人しか誰が誰やらわかりませんでしたが、若手男役たちがそれぞれ役を与えられています。

 そしてヒロインとの出会い。流れるような展開ですね。誰もがわからなかった「帽子の得の謎」を、コンスエロだけが象を飲み込んだうわばみだと喝破して怯えた、というエピソードもとてもいい。原作を知っている人には、これでコンスエロがサン=テグジュペリと同じ魂を持つ人なのだということがすぐわかるからです。これも知らないとポカンなんだろうけれど。
 しかし本当に本人がそういう人だったのかもしれないけれど、まゆたんが暑苦しく生真面目にやっているだけに、会っていきなりかなりシュールな口説き文句で求婚するこのく主人公には「で、電波?」とかなりビビりました…
 当然拒否するコンスエロ。で、本当だったらそこからくだくだあるはずなのですが、そのくだりをタンゴで表現したのは私は素敵だなと思いました。だって恋のなりゆきなんて本当はどんなにエピソードや台詞を重ねたって本当のことのようには表現できないのですよ。そういうときのためにもダンスはあるのだと思う。
 蘭ちゃんの類稀なる柔軟性と筋力の確かさに裏打ちされた美しいリフトが出色でした。

 情熱的に愛し合い結婚したふたりに、すれ違いが生まれる…というのは説明台詞で語られ、ここから場面はまたまた唐突に祈り踊るコンスエロになって戸惑う観客もいたということなのでしょうが、でもミュージカルってそういうものじゃない?
 私は全然理解できたし楽しんで観たんだけどなあ…
 そしてここでイブちゃんが『バロンの末裔』でユウコが着ていた緑のハイウエストのドレスを着ていてそれがもう目の覚めるように美しくて…釘付け。
 サン-テグジュペリの親友ギヨメ(壮一帆)の妻ノエル(華耀きらり)をきらりが演じていて、このあたりに台詞があるのですが、役としてはしどころがないと言うかどういうキャラクターなのか見えなくて、ちょっと残念でした。
 たとえばのちにちょっとだけ出るさあやのメイドなんかはあんな短い場面でもすごく印象を残すしいい演技しているし、本当にものすごいんだけれどもなあ。しかしきらりは鬘が本当に素敵でショーでも素晴らしかったからいいのだ、今や私が一番好きな娘役さんなのですデレデレ。

 というわけで祈り空しく夫たちは遭難し、砂漠をさまようサン=テグジュペリは星の王子さまと出会います。まあ、幻を見たと言うかなんと言うか。
 その王子さまを蘭ちゃんに演じさせる、そのアイディアが素晴らしい! そしてこのときの蘭ちゃんの少年性が素晴らしい!!
 ちなみに私は原作でこの羊の絵のくだりが本当に好きなのです。王子さまが好むように描いてあげられなくて、小屋(というか箱?)を描いちゃうくだりが。で、その中に好みの羊がいると想像しろと言うところが。想像しろと言うというか、「いるよ」って断言しちゃうところが。
 それは、見える人には見える、という話のようでもあり、結局人は自分の見たいように見るんだ、という皮肉のようでもあると私は思っていて、私は原作のこういう皮肉でニヒルな視点が好きなのです。
 でも、誰かに何か描いてもらわないと、真っ白のままだと、見えないんですよ。でも何かをちゃんと描かれてしまうと、「それは違う」としか思えないの。だから上手いこと箱だけ、とか入れ物だけ、とかを描いてもらえたときだけ、その中を好きに見ることができるのです。コミュニケーションの本質のようでもあって怖い…

 それはともかく、そんなわけでサン=テグジユペリは王子さまのというかコンスエロの幻を追って無事に生還します。そこで何故、正真正銘の駄作だった『愛と死のアラビア』を思い起こさせるアラブふうズルズルをまゆたんに着せるのか、は問いただしたいですが。
 そしてここで登場するネリー(桜一花)、これは確かに問題であるということは私も認めます。のちに説明されることを総合すると、どうやら良き理解者でありパトロネスのようなマネージャーなような、要するにビジネスの関係なんだけれどもでもとても親しくはあって、でも色恋ではなくて…ということらしいのですが、この時点でなんの情報も与えられていない観客にとっては、そらコンスエロ同様主人公の堂々たる浮気にびっくりどころかがっくりですよ。
 なんとしてでもここはこの会話にもう少し補足して、コンスエロが立ち去った後でもいいから観客のことは安心させてほしいです。いや実際に色濃いがあったんでもいいんだけど、それはコンスエロとの行き違いがあって寂しかったから、とか説明されるとか、とにかく何か明確な理由がないと、主人公の男を下げるだけです。どーにかして!
 そういう意味ではベルナール(春風弥里)にも説明らしい説明はありませんが、そしてまたみーちゃんがムダに(ムダに言うな)色っぽく暑苦しく演じるものだからきゃああなんなの混乱しちゃうわ困っちゃうわ、となるのですが、コンスエロはちゃんと拒否しているのだし観客はヒロインがモテたりヨロめいたりするのには寛容なのだからいいのです。しかし男性主人公はいかん。
 貴族を鼻にかけたじゅりあお姉さまもたまらんかったとですたい!(思わず訛る)
 そうだ、えりたんが銀橋でやたら暑苦しい友情の歌を歌うのはこのあたりでしたっけ? しかし『愛プレ』ではあんなにアヤしかったのにここには何もないなー、だからえりたんに何度も何度もまゆたん愛してる言わせても、そこにはなんの萌えもなくてちょっとおもしろいくらいだったなー。でもちょっとホントの男同士の気のおけない友人同士、という感じでよかったです。

 さて続いてさらに、私をしても擁護しづらい場面が登場するのでした。
 みわっちメルモーズ(愛音羽麗)とカガリリちゃんのコレット(華雅りりか)との謎の問答です。
 そもそもここまでにメルモーズのキャラクターというのはほとんど表現されていないので、なんで急に彼がここでこんなマッチョなことを言い出すのかそれこそポカンなんですよ。
 生きて帰れる保証がないから、幸せにしてあげられる自信がないから、あえてひどいことを言って愛想をつかされるようにしているのだ…ということなのかもしれませんがねまったくもって意味不明…
 みわっちの歌がいいだけに、別の意味で泣けます。こんな不可解な場面を与えられてしまって…という、ね。

 やがて戦争が始まり…『誰鐘』ラズロのデジャブタイムが始まります。これもつらかったわ…まゆたんはダブルのスーツを凛々しく着こなしているけれども! そういうことではなく!!
 アメリカに渡ろうとするサン=テグジュペリに対し、着いていけずに別れを考えるコンスエロ。そんな彼女の前に現れるのは、サン=テグジュペリの親友のギヨメが扮するキツネです。
 最初は戸惑うコンスエロも、ギヨメのキツネが意に介さないので、やがて王子さま役を引き受けて応じていきます。このえりたんのキツネ力(他にいい言葉がナイ)は素晴らしい!
 コンスエロは改めて、見えない愛の大切さを確信し、サン=テグジュペリと共にニューヨークに行くことにしたのでした。
 このくだりも、実際にどんなすれ違いがあったのかとかどんな別離の危機だったのかとかどうして思い返したのかそれで本当にうまくいったのかとかを、芝居で観たかった、という人も多かったのかもしれません。
 でもそれってくだくだしいし、ストレートプレイならそうかもしれないけれど、こういう形にするのがミュージカルでしょ? しかも現実と物語の世界を行き来するマジックを出現させられる場所といったら舞台はかなりのものですよ。こういう演出を楽しんでこそだと思うんだけれどなあ。私は楽しく観たんだけどなあ。

 でも私は、サン=テグジュペリが参戦を決意したときに、コンスエロのようには同意できないなとしか思えなくて、続く場面は、せつなかったけれど完全には感情移入できなかったかな。
 時代とかもあるかもしれないけれど、やはり愛する人を簡単には戦場になんか送り出せないよ。ちょっと蛇に噛まれて、死んだようになるだけ、星に帰るだけとか言われたって、実際は違うんだから。死はただ死なんだから。
 でももちろん、作品が生き続ける限り作家は死なない、という言い方もできるわけで。遺体が見つからないから、墜落した飛行機の残骸が見つかったわけではないから、政府によって死亡認定がなされようと、今も彼は大空を飛び続けているのだと思い込める。愛はなくならない。夜になれば星が輝くから。
 私は原作でも薔薇の花のことを女性とか恋人の象徴であると思ったことはなかったのだけれど(王子さまは薔薇の世話をしていたけれど…あれは愛でも恋でもなんでもなかったような気がする…)、だからプロローグでも蘭ちゃんが薔薇の花に扮していてもぴんとこなかったのだけれど、このお話を経てエピローグで蘭ちゃんの薔薇が現れたときにはぐっときました。
 白い王子さまふうの飛行服を着たまゆたんと、見つめ合い微笑み合い、そして美しいポーズを決める蘭ちゃんの薔薇の花…それはまさしく愛を象徴していました。
 星の精がやっぱり恥ずかしいと思いつつ、でもレアちゃんとユキちゃんのカゲソロは素晴らしいなと聞きほれているうちに、幸せに幕は下りたのでした…
 あ、サン=テグジュペリを撃墜したホルストのだいもんにヘビを躍らせるというのももちろん素晴らしいアイディアでした。


 ラテン・パッショネイトは作・演出/藤井大介。二回くらいじゃ全然全然目が足りなかった!!!

 とりあえず組長・副組長・タソというトリオが素晴らしすぎる。
 白黒対決場面(ブリガ・デ・ムズィカ、です)のえりたんが楽しそうすぎる。白みーちゃんの大空さんレッホッシーの幻が見えすぎる。てか蘭ちゃんのアンヘル、マジ天使! このイタさギリギリがたまらん!!
 でも海賊場面に台詞はいらない気がしました。たとえ名前の呼びかけだけでも。とりあえずじゅりあきらりのジョイアにもっと絡んでほしかったぞ。さらに百合百合しい場面を作れるショー作家を少しも早く養成してもらいたい。そしてここでもみーちゃんをガン見していましたよ…

 中詰め。
 イチカのジラファ、ホントお人形さんみたいだなー。イチカは確かに小さいんだけど、頭身バランスは本当に素晴らしいんだよね。
 そしてモンテス女がべーちゃんユキちゃんカガリリちゃんという悶絶の並び!
 ゼブラだいもんがじゅりあきらりに挟まれとる!!
 女豹は、悪い、パス。男役の女装(オイ)はどうしてもウェストシェイプが甘くてなー、特にこういうお衣装はなー…たとえば『アパショ』のきりやんの蘭とか私はダメだったので。
 みーちゃんとシンメのあきら、がんばれ! いろいろ学べよ!!
 「アイム・タイガー」とか歌っちゃうえりたんティグレに悶絶。続く蘭ちゃんのパボレアルってなんですか? すごい羽だよね、綺麗!
 そして君臨するラオンまゆたん…圧巻です。

 「ベルタデロ・アモル」、みわっちの歌が素晴らしい。
 エスクロというのは何かな? 影、みたいなものかな?
 よっちはいいけど、フェミニノがなー…地毛でやっているのかもしれないけれど、もっと女役らしくしてほしかった…
 それより何よりここはとにかく蘭ちゃんなのでした。鏡の効果も素晴らしかったです。またひとつ、白いお衣装のデュエットの名場面が生まれたねえ…!

 「バイラ!コンガ!」でも蘭ちゃんが素晴らしくて…もはや叶わないことなのだけれど、蘭ちゃんのブリーザが見たい!と強く思いました。本当に力強くしなやかな踊りでした。
 「パシオン・ノチェ」、通称紫セブンでもみーちゃんしか見ていなかったよ! 背が高くてスタイルがいいから目立つというのもあるけれど、やっぱりダンスが上手くて色っぽくて素晴らしい。この先、二番手は組替えで三番手は退団で、またさらに組替えがあるのかなとも思いますが、その中でポジション確保は大変だと思うけれど、大事にしてほしいしがんばってほしいなあ…
 しかしこのくだりの後半、5人が踊っているところからひとりずつハケていってそこに拍手が沸いて、ラストはトップコンビだけになる…ってちょっと珍しく感じました。増えていったり順番に出てきたりするのに慣れているからかな?
 だいもんのピンクドレスの美女が素晴らしい! マジ美人!!
 パレード、エトワールはみわっち。いかにも花組らしい男役さんでした。卒業、おめでとう…(ToT)
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宝塚歌劇星組『琥珀色の雨にぬれて/Celebrity』

2012年09月22日 | 観劇記/タイトルか行
 神奈川県民ホール、2012年9月19日ソワレ。

 1922年、秋のある朝。パリ郊外にあるフォンテンブローの森を散策していたクロード・ドゥ・ベルナール公爵(柚希礼音)は神秘的な美しさをたたえたひとりの女性と出会う。大勢の紳士淑女を相手に自由に振舞う森の妖精のような彼女に、一瞬にして惹きつけられるクロードに、ジゴロのルイ・バランタン(十輝いりす)が声をかけ、彼女はマヌカンのシャロン・カザティ(夢咲ねね)であると告げる…
 作/柴田侑宏、演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、吉田優子、寺田瀧雄。1984年初演。その5演目。

 私が生で観たのは2002年の3演目、残念ながらチャーリーの休演によるオサ代役版でした。そのときの感想はこちら

 いやあ、ネネちゃんのベスト・アクトではあるまいか。
 私はただただ彼女のスタイルの良さを愛でるというダメなタイプのファンなので、正直演技としてどうとかはあまり求めてこなかったのですが(^^;)、このシャロンはとてもとても良かったと思いました。
 男役10年とよく言われるけれど、娘役だって10年だよねえ、さすがでしたよ。
 登場シーンはまさに森の妖精。ふわふわの白いお衣装着て、はかなげで、でも美しさと朗らかさに満ち満ちていて。小さい頭が素晴らしかったこと!
 その後も列車の場面やフランソワーズ(音波みのり)とのやりとりや最後の湖畔の場面まで、本当に良かったです。
 そして当人もニンじゃないのではと悪戦苦闘したろうと思われるチエちゃんクロード、これも良かった。私がもともとキャラクターとしてこういうボンボンタイプが意外に嫌いじゃないというのもありますし、チエちゃんだって作るとしたらもっと骨太な男臭いタイプのキャラクターの方が得意だということはわかっていますが、要するに当人自身はこういう素直で普通の人間だったりするわけじゃないですか。そういう部分が嫌味なく自然に出せればいいわけで、それができていたと思いました。

 しかし、前回観劇の感想を読むと私はこれを「地味な大人のドラマ」だと感じたようですが、地味なんてことはまったくないよね、鮮やかな大人のドラマでした。
 逆に言うと、本当に本当に大人っぽいドラマで、今後ますます再演しづらくなるのではなかろうか、と思ってしまいました。だって私にはルイもミッシェルもシャルルも全然足りなく見えてしまったんですよ。この作品が求める大人の芝居ができる生徒は今後ますます減るだろうし…もちろん前回観劇のときの私のように、こうした作品を「地味」と感じる観客はますます増えるだろうし…
 ああ、問題だわ。
 フランソワーズとエヴァはまあまあに感じたんだけれどなあ。あとジョルジュは良かったと思いました。とにかく背が高いのがいいよね、要するに押し出しというか存在感があることが重要なキャラクターだからね。
 ところで主題歌は常にペイさんの声で再生される私の脳内ですが(CD愛聴しています)、エヴァの歌はみわっちのあのパンチのある歌声で甦るんだよなあ、不思議。
 ともあれチエちゃんクロードが佇むところにあの前奏が流れてきたとき、全身の毛穴がわっと開きました…

 プロローグは美しかったけれど(衣装の色目の構成が素晴らしい)、ちょっと長く感じたかなー。私が早く芝居を観たいタイプだということもあるかもしれませんが。
 このときのまさこルイの存在感は良かったんだけれどなー…

 続いて、「現在」の場面。
 このときのクロードはそうは言っても特に中年に作っているわけではなくて(たとえば『ダンセレ』のときのような)、ちょっとあれっと思ったのだけれど、その変わらなさがクロードなのかもしれないな、と観終えたあとには思えました。
 マオを褒めるような洒脱な口くらい、「ゴタゴタ」の前でもおそらくクロードは言える人だったんですよね。だからこれは彼の「成長」を表すものではない。
 このときのクロードが、まだミッシェルと仕事をしているのか、フランソワーズと結婚生活を続けているのか、あるいはひとりなのか、それはわからない、見えない。見せない演出になっているのだと思う。
 そして境遇がどうであれ、クロード自身はあまり変わるところがないのだ、ということを見せているのだと私は思いました。
 もちろんあの「ゴタゴタ」は今もなお彼の心に残っている、大きな出来事でした。彼のその後の境遇を大きく変えたものかもしれない。しかし人間はそう簡単には変わらないし、変わらないからこそもつれるのだなあ…という気がしました。

 そして回想へ、秋の森の朝へと場面は移ります。
 シャロンとタンゴを踊るルイがシャロンの首筋にキスしようとして拒まれるくだりに、私はちょっと驚きました。
 シャロンのパトロンはこの時点ですでにジョルジュ(十碧れいや)だとばかり私は思っていましたし、主人の目の前でその持ち物に手を出すような真似は普通は慎むんじゃないのかな、と思ったので。
 何よりルイはジゴロで、そりゃシャロンの取り巻きでもあったかもしれないけれど、要するに同業者というか同じ方向を見ている仲間で、お互い同士でくっつくようなことはしないんじゃないの?と私には思えたのですね。
 でもそのあとルイはクロードを牽制するわけですし(そしてクロードとの間に謎の共闘宣言と奇妙な友情が生まれる…柴田先生って本当にロマンテイストですよね。彼らが争うべきなのはお互いではなくたとえばジョルジュなのにね…若造ってバカだよなあ、可愛いよなあ)、やっぱりある程度本気で好きなんですよね。でもなんでなんだろうなあ?
 最後にシャルルとエヴァに頭を下げに来たときにやっときちんと出ますが、彼はジゴロでもありますが本業はダンサーというか、ダンスで身を立てるためにパトロネスを探してジゴロをやっているようなところがあったわけです。おそらくそれがちょっと行き詰っていたりして、彼も悩んでいたんでしょうね。それで見つけてしまったのがシャロンという逃げ道であり、だからこそふたりで逃げてしまうようなことまでしでかしてしまったのかもしれません。

 でもとにかくまさこの声というかしゃべり方には癖があるしさあ、私にはなんかちょっとアレレ?だったんですよねえ…

 そして場面はクロードの館へ。
 ここでアレレだったのはドイちゃんのミッシェル。ダンスが上手いのは知っていましたがそういえばちゃんとした台詞って私はほとんど聴いたことがなかったかも…
 もうホントに発声がダメで立ち居振る舞いが危なっかしくて、誰この下級生、と思ってしまったよ…(ToT)
 この時点では気のいい友人で兄貴分でフィアンセの兄、でいいんだけれどさあ、最後の最後に大仕事があるわけじゃないですかこのキャラクターには。
 出てこないけどこの人もとっくに結婚していて、それなりに家庭を上手くまわしていて、その上で浮気のひとつやふたつはしているのかもしれない。していなくても世間とはそういうものだと知っている。だからクロードとシャロンのこともそれで片付けようとする。
 大人の知恵です。そしてそれがクロードをなおさら傷つけた…
 あの場面、そんなふうに全然見えなかった! クロードより大人に見えなかったもん、年下の青年がきゃんきゃん言っているように見えちゃダメなんだよ~!(><)
 ソフィーと踊る一年後の団欒場面なんかは感じがよかったんだけれどなー…

 ちなみにタンゴを巡るクロードとフランソワーズを始めここでの四人のやりとりは本当に素晴らしい。柴田先生って本当にすごい。
 そしてフランソワーズは、もちろん貴族の令嬢なんだけれど、年配の人間は眉をひそめるような最近の流行のタンゴを習おうとしているようなところもある、今どきふうとまでは言わないけれど気概のある女の子なんですよね。そういう造詣も好き。
 だからただ泣いたりしていない。車運転してニースへ駆けつけちゃうわけです。
 アスカが好演だった記憶がある…スカステ放送かな?

 さて、フルールの騎士場面。
 シャロンとジョルジュはビジネスの話をしています。
 ジョルジュはパトロンというよりはやはりビジネスパートナーというか、単なる出資者に近いのかもしれません。要するにシャロンをただの愛人扱いはしていないというか。もう少し上品に遇している。のちのニースでも鷹揚にルイに譲ったりしているしね。
 でもだからって、ジョルジュがシャロンを搾取していないということではない。というか、彼もやはりシャロンを正当に、まっとうに扱ってはいないのです。それをしたのはクロードだけだった。だからシャロンはクロードを愛するようになったのです。

 シャロンは美しいだけの女です。
 だからこそ、その美しさを、ただそういうものとして扱ってくれる相手を望んでいた。
 でも、男は何故か、そういう美しさを汚そうとしますよね。たとえば金で囲って愛人にし、トロフィーのように見せびらかし、あげくやることはやって、そうして見下し、貶め、それによって自分の男を上げた気になる。
 酔って絡んだコルベールほどでなくても、一見紳士的に見えるジョルジュですら、結局は同じなのですよ。
 ルイは美しい人でシャロンと同類だから、違うかもしれないけれど。だからシャロンは彼と逃げたのだけれど。
 クロードは、シャロンの美しさをただそのままに捕らえ、愛し、賛美し、尊重しました。タンゴが踊れなかったから彼女の手を取らなかったけれど、踊れたとしても手を取らなかったのではないでしょうか。美しいから、素晴らしいから、侵しがたく、手も触れられない。ただ離れて見守る、崇める、愛する。
 美しさしか持たない者が本当に求めることは、その美しさと引き換えに地位や財産を得ることなどではなくて、ただその美しさを美しいと、それでいいのだと認められること、なのではないでしょうか。
 変質を強いられることなく、あるがままに受け止められること。それでいいのだ、それがいいのだと認められること。
 シャロンにそうしてくれたのはクロードだけだったのではないでしょうか。だから彼女は恋に落ちた…
 ただし私は、クロードがシャロンをコルベールから救ってくれたのはシャロンにとってはたいしたことではなくて、たとえばクロードがいなければルイが助けてくれていただろうし、だからこの時点ではシャロンのクロードへの好意は通りいっぺんのものだったのではないかと思いました。
 シャロンがクロードへの恋に落ちたのは、青列車の展望台で琥珀色の雨の話をし、琥珀の指輪を見せたときではなかったかしらん。だから幻想場面は展望台場面のあとに置くべきでは?とも思ったのだけれど、あれはクロードのシャロンへの恋心を描くものだからあれでもいいのか…
 とにかくだからエヴァの台詞にぴんとこなかったし、エヴァが何故クロードへシャロンとジョルジュの旅行をご注進したのかさっぱりわかりませんでした。
 フランソワーズに言伝したのは本当にたまたまだったのでそれはいい。でも彼女はそもそもはジョルジュの側というか、ジゴロをパトロネスに売る仕事をしているのだから、同じ業界の人間としてシャロンがジョルジュとデキた方が望ましいと考える人間なんじゃないの?
 シャロンの恋心を慮っての行動、ということらしいけれど、余計なおせっかいというか筋違いの行動というか、むしろ邪魔して楽しんでるの?というくらい、私には不可解に思えました。

 ニースのホテルの邂逅場面も素晴らしい。
 フランソワーズはクロードを追ってきて、クロードもフランソワーズを追い、シャロンはルイと逃げる…
 そして一年がすぎる。

 シャロンとルイの暮らしは半年ももたず、シャロンはまたパリで取り巻き連中と浮かれ騒ぐような生活に戻っている。
 クロードとフランソワーズは結婚し、楽しくタンゴを踊ったりもしている。けれど再会してしまったら、もう戻れない…「再会」というか、ここで初めてふたりはしたんだろうな、と思いましたが。美しい場面でした。

 そしてリヨン駅。マジョレ湖へ向かう列車を待つふたり。
 チエちゃんクロードがいいなと思ったのは、こんな状況になっても卑怯な男に見えないところです。妻を裏切り、愛人と旅に出ようとしている。思いつかなかったから、愛してもいる妻に嘘をつきたくなかったから、言い訳もせずに家を出てきた。旅から帰ってきたときのことは考えていない、どこへ帰るつもりなのかも考えていない。帰らないのかもしれないとさえ考えてもいない。
 愛人からしたら、「私と出かけるってことは妻を捨てて私を選ぶ覚悟をしたってことだよね?」とつめよりたいところですが、シャロンがクロードに事前に言う台詞はそういうニュアンスのものではありません。彼女はクロードにまっとうに扱われてそれが嬉しくて恋に落ちたのであり、だから身を引きルイと逃げて、でも再会してしまったのでここにこうして来ているだけであって、彼女もまた建設的な意味での未来など見ていないからです。クロードと結婚したいとか考えていないわけ。ただ彼への気遣いとして、家はどうしてきたの?と尋ねている。
 わからない、考えられない、ただ愛している…
 考えろよ大人なんだから!という茶々を入れさせない生真面目さ、真摯さ、必死さ、恋の情熱と喜び、輝きわたる幸福感を体現して余りある。
 だからこそ、フランソワーズが現れたときのやるせなさ、絶望感がものすごい。そして固まるだけのクロードに比べてシャロンがちゃんと動けるのは…シャロンが賢い女だからでもあるし、社会が彼女を、美しいだけの女を、ただそう扱わずに、大人になるよう賢く動けるよう強いて育ててしまったからでもあるんですよね。幸福なお坊ちゃん育ちであるクロードにはそういうことがない…
 そしてフランソワーズ。「またはないのさ」はルイの台詞ですが、フランソワーズだってそうですよね。今日はクロードは列車に乗らなかった。でもいつまた乗ろうとするかわからない。そして自分は今日は彼を追いかけてきた。しかし次は追いかけないかもしれない。またはないかもしれない。
 いつか壊れる予感に日々怯えながら生きていけるほど、人は強くない。クロードは平気でも、フランソワーズの方から、このあと、結婚生活から下りたかもしれませんね。
 フランソワーズはシャロンほど美しくない。だからこそある程度の賢さがあらかじめ備わり、だからクロードがシャロンに恋してしまうことも理解できるし、そんなクロードと結婚を続けることの苦しさも見えてしまうのでしょう。もちろん、ただ続けるだけならできる。それだけの賢さももちろん彼女にはある。でも…
 彼女の未来は、また別のお話です。

 シャロンが去り、ミッシェルに心ない話をされ、何かが終わると感じながらも、クロードはやはりそれで一気に老成するとか、そういうことはなかったんじゃないのかしらん。
 だからこその冒頭のマオへの軽口なわけです。
 ともあれクロードは、数日後にやはりマジョレ湖を訪れます。そしてシャロンと再会する…
 しかし、「もうゴタゴタはごめんだよ」がなくても、ふたりはやはり今度はもう、ひとつに戻れなかったのではないでしょうか。タイミングって、人生って、そういうものだと思います。
 ところで私はこの場面でシャロンを同伴しているのはジョルジュだとずっと思っていました。「ゴタゴタは~」の台詞はシャルルのものだと思っていた。
 違うんですね。より若い貴族のボンボンとより若い取り巻きジゴロ、なんですね。こうしてシャロンは落ちていくんだなあ…哀れだなあ、すごい話だよなあ…

 クロードがひとり琥珀色の雨にそぼ濡れて佇み、幕。
 残るのはただ、恋の残り香、余韻…


 ショーは…トヨコは決してものすごく上手い歌手というわけではありませんでしたが、その穴を埋めるのがまさこしーらんドイちゃんと、つらすぎた…!
 私はわかばちゃんよりはるこの方が好きなんですが、ヒーロー場面のヒロインはどうもぱっとしなかったな…
 ダイヤモンドハンターのしーらんはとってもキュートだったけれど。ネネちゃんも鬘をいくつか変えてきて素敵だったけれど。
 総じてもともとすっごい好きなショーとかではなかったので、なんかただ呆然と見送ってしまいましたよ(^^;)。
 トップ以外男役に羽を背負わせないお衣装だったため、まさこの二番手羽姿が見られなくて残念…ま、この先一回くらいはDC主演とかが来るよね? それまでお預けか。
 トヨレミ観劇の回で、会場中から大きな拍手が送られていて、それはちょっと感動的でした。



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久保俊治『羆撃ち』(小学館文庫)

2012年09月22日 | 乱読記/書名か行
 大学を卒業後、就職せずに狩猟のみで生きていくと決めた著者は、猟銃とわずかな装備だけを手に山を駆け巡る…北海道の大地で一人羆を追う孤高のハンターと比類なき才能を持つ猟犬フチとの感動のノンフィクション。

 これはマッチョとは言わない。人間と野生の動物との、自然との闘いの物語です。ただただ圧倒されましたし、通勤電車の中で読みながら何度も泣きそうになりました。

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