駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』

2023年06月30日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京文化会館、2023年6月28日18時半(初日)。

 振付/ケネス・マクミラン、音楽/セルゲイ・プロコフィエフ、美術・衣裳/ニコラス・ジョージアディス。
 ジュリエット/サラ・ラム、ロミオ/スティーヴン・マックレー、マキューシオ/ジェイムズ・ヘイ、ティボルト/ギャリー・エイヴィス、ベンヴォーリオ/カルヴィン・リチャードソン、パリス/ニコル・エドモンズ。
 指揮/クーン・ケッセルズ、オーケストラ/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。全三幕。

 直近だとこちらなど。ロイヤルは前回来日時も観ていて、そのときもジュリエットはサラ・ラムだったようです。読み返さないと何も覚えていないワタクシ…
 前回と通しチケットで、前回と同じ席。観やすく快適、かつ今回は5階の端の端まで満々席で、さすがの人気を思わせました。高額転売なんかに関してもかなり厳しいアナウンスが出ていましたしね。
 さてしかし、そういう演出なんだとは思うのですが、全体的に妙に照明が暗くて、いわゆるひばり場面のパ・ド・ドゥなんかはふたりの輪郭がよく見えませんでした…夜明けの室内、というシチュエーションなのはわかるけど、もっと横からでも人物に照明を当ててくれ…それ以外は、音楽が流れるままに暗転の間にセットチェンジがスムーズにされて、ノンストレスな舞台だったのですが。でもやはり演劇的(?)にはちょいちょい省略されているので、お話を全然知らないと「???」な部分はあるのかもしれません。
 今回も仮死状態のジュリエットのものすごい脱力っぷり、死体っぷりにおののきました…あとは全体に、やや芝居がぼやんとして感じられたかもしれません。私はもうこの演目を一生分観てしまったということなのでしょうか…もっとテクニックバリバリのバレエを観たい気分だったせいかもしれません、すみません。 





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『SUNNY』

2023年06月29日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京建物ブリリアホール、2023年6月26日18時半(初日)。

 何不自由なく暮らしている主婦の奈美(花總まり)だが、出張の多い夫とは気持ちがすれ違い、娘も反抗期で、ふたりの世話をするお手伝いさんのような生活に満たされないものを感じていた。そんなある日、入院している母の見舞いで病院を訪れた奈美は、高校時代の仲間だった千夏(瀬奈じゅん)と再会する。千夏から癌で余命2か月と打ち明けられ、最後に人生で一番楽しかったころの仲間たちに会いたいと頼まれるが…
 脚本・演出/西田征史、振付/akane、音楽監督/扇谷研人。香港、ベトナム、インドネシアなどで映画やドラマにリメイクされた2011年の韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』を、日本を舞台にジュークボックス・ミュージカルとして舞台化。全二幕。

 2018年に『SUNNY 強い気持ち・強い愛』という邦画にもなっていたそうで、主演は篠原涼子と広瀬すず、90年代と現在の物語にしていたそうです。今回はもともとの韓国映画と同じ80年代と現在の物語、ただしバブル全盛の日本と違って韓国の80年代は民主化運動が熱い時代だったそうです。でも、学生時代の仲良し女子グループと、大人になった彼女たち…という構造は同じ、ということなのでしょうね。
 私はいずれも未見で、ハナちゃんとアサコと80年代ジュークボックス・ミュージカル、というので観に行ってみました。私にとっては11歳から20歳までの10年間、ということで、ミュージカル・ナンバーはすべてソラで歌える歌謡曲、ヒット曲揃いでした。そしてハナちゃんもアサコも実年齢は私のちょっと下くらいなはずで、「現在」の姿にもきっといろいろ感じるところがあるだろう…と思っていたのですが、いろいろなズレも感じられて、なかなかおもしろく観ました。
 はっきりした台詞はなかったかと思いますが、奈美や千夏は50歳手前、40代なかばくらいの設定に見えました。とすると高校時代のこの荒れ方はちょっとズレがある気も、個人的にはします。私は中二で転校しているのですが、転校した先がキョンキョンの母校で(笑)まさしくこんなで、つぶした鞄と長いスカートがカッコいい、みたいな空気でした。なので友達も一応できましたが、塾の方が楽しかったし、高校は進学校だったのでもうこんなでは全然なくて、こうしたブームはもっと地方に去ったのだと思っていました(イヤ私も東京ではなく神奈川県育ちなので地方と言えば言えるのでしょうが)。なので私より若い設定で東京でコレ?とは感じなくはなかったし、プログラムのキャスト座談会でも、まあハナちゃんとかアサコとかは中卒かそこらでスミレの花園入りしちゃっているので世間一般とはやや違う育ちをしているのでしょうが、当時の流行歌であるナンバーに対してもだいぶタイムラグがあるようで、アレレと思ったのです。まああまり厳密でなくてもいいっちゃいいんだけれど、バブルとロスジェネの差とかはかなり大きいわけだし、このあたりは作家の認識にもよるのかなと思いますが、いくつくらいの人なんでしょうね…? 
 今なら探偵を雇うとかじゃなくてSNSとかで芋づる式に探せるのでは、とかも感じたので、現在部分もものすごく厳密に、リアルにやる感じはなくて、逆にいつの時代でも、いつの世代でもあるあるっぽいドラマを作ろうとしているのかな、とは感じました。芝居の方向性といいセット(美術/伊藤雅子)の感じといい、なんか明治座とかでやった方がいいノリかな、とかね…それにしては歌謡ショー部分のパンチが足りなかったので、まあたとえばクリエとか、もう少し小さい劇場で渋くアットホームにやってもよかったのでは、ということです。関西公演はドラマシティだそうなので、これはちょうどいいかもしれません。
 でも、そのノリが理解できると、意外に楽しく観られました。ハナちゃんとアサコのユリユリしい場面が観られるなんて…というのもあったけど(笑)、シスターフッドというより女子の世界、みたいなものががっつり描かれている感じなのもよかったのです。それこそ意地悪な女子に仲良しを「レズかよ!」とかクサされる感じとか…夫や上司、部下、憧れの先輩など男性キャラクターも登場するんだけれど、そっちの関係が描き込まれることはなくて、あくまで女同士の世界のあの空気が描かれる感じが、意外とないよなと新鮮に思えておもしろかったのです。そんな中で、ちょっといい子ちゃんなところがあるフツーの主婦、みたいなヒロインをハナちゃんが嫌味なく演じているのがよかったし、昔から背が高くてカッコよくて頼れるリーダー役で今は女社長のバリキャリででも癌で…みたいなキャラのアサコもとてもよかったです。あと、その高校時代を演じている若者チームもみんなめちゃくちゃ上手くて、感心しました。ハロプロとか日向坂とか、みたいなメンツのようでしたが…たいしたものです。
 ただ、ハナちゃんのアイドル歌唱が意外に下手だったのがちょっとおもしろかったです。あれは別に役でやっているんじゃなくて、単に本人が下手、苦手なんだと思いました。もうすっかりミュージカル・スターさんになってしまってこういうカラオケはダメなのかしらん…アサコはバラードだったこともあってまあまあ聞かせてくれましたが。プロの舞台としてはここは玄人はだしでバリバリに上手くてもよかったろう、とは思いました。
 ただ聖子ちゃんの「SWEET MEMORIES」とか明菜の「飾りじゃないのよ涙は」、ユーミンの「あの日にかえりたい」とかはもう曲も歌詞も完璧で、ほとんど卑怯でした。どんな使い方をしても刺さるだろうけれど、よかった…!
 ラストは千夏の葬儀にみんなで喪服で「SUNNY」を歌い踊り、遺影から鮮やかな色のパンツスーツで出てきたアサコがバリバリ踊るというこれまた卑怯な展開。そしてフィナーレ、若者チームのバブリーダンス振付で「ダンシング・ヒーロー」、男性キャストがメインの「2億4千万の瞳」、そして全員で鉄板の「青い珊瑚礁」と、大盛り上がりのうちに終わるのでした。よかったよかった。
 結婚したりしなかったり、子供がいたりいなかったり、仕事が成功したりしなかったり、病気したりしなかったり、いろいろあるけど、明るく元気に生きていこう、日々を大事に、家族や友達や回りを大事に生きていこう…みたいな、言葉にしちゃうとそういうことなんでしょうけれど、改めて思い起こさせてもらって、ほっこりさせられる、良き舞台でした。
 でもそんなに売れてないのかな…? まあ大作ミュージカルじゃないから売り方が難しいのかもしれないけれど、エンタメの多様性としてもっと作品の幅は広がっていいと思うし、届くべきところに届くといいのにな、と思いました。千秋楽までどうぞご安全に…




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英国ロイヤル・バレエ団『ロイヤル・セレブレーション』

2023年06月25日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京文化会館、2023年6月24日18時。

 B席4階1列目で観ましたが、手摺りは低く、遠いだけで全体が観やすくてオケの音も良くて、とても快適でした。
 まずは日本初演の「FOR FOUR」、振付/クリストファー・ウィールドン、音楽/フランツ・シューベルト。シンプルなお衣装(衣裳デザイン/ジャン=マルク・ピュイッソン)の男性四人が次々とフレーズを踊るような、目で見る音楽のようなバレエでした。私は普段バレエ・ブランばかりを選んで観るようなミーハー・ファンなのでコンテンポラリーは全然わからないのですが、とても楽しかったです。音楽の四重奏も素晴らしかったです。
 続く女性四人の「プリマ」は振付/ヴァレンティノ・ズケッティ、音楽/カミーユ・サン=サーンスで、コンセプトとしては同じようなものなのですが、こちらは何故かピンとこなかった…色味といい切り替えのデザインといいお衣装(衣裳デザイン/ロクサンダ・イリンチック)はとても素敵でいいなと思ったのですが…しかし何故ひとりだけがロングスカートなの? あれがプリマだったということ? でもすごく目立つとかいう振りにはなっていなかった気が…うぅーむ。
 休憩を挟んで『田園の出来事』、振付/フレデリック・アシュトン、音楽/フレデリック・ショパン。あらすじはネットで予習しましたが、田舎でのどかに暮らすナターリヤ(マリアネラ・ヌニェス)が息子コーリャ(アクリ瑠嘉)の家庭教師ベリヤエフ(マシュー・ボール)と恋に落ち、養女ヴェーラ(アナ・ロース゜・オサリヴァン)に邪魔されてはかなく終わる…というようなことでしょうか。セット(美術・衣裳/ジュリア・トレヴェリアン・オーマン)が優雅で、振りもあわあわと美しく、たわいないようなせつないようなしょーもないようなひとときを詩情たっぷりに魅せていただきました。ピアノがケイト・シップウェイ、指揮がシャルロット・ポリティで、カテコで舞台にこの黒衣の女性ふたりが上がるのも華やかで素敵でした。
 再度休憩を挟んで、シメは振付/ジョージ・バランシン、音楽/ピョートル・チャイコフスキーの「ジュエルズ」より「ダイヤモンド」全編。4部構成になっていて、まずバレリーナたち、次いでトップ・コンビ(違)のデュエダン…じゃないパ・ド・ドゥ、さらに16組のカップル・ダンスから総踊りのクライマックスへ…と大変ベタに、しかし怒濤のフォーメーション変化と構成で盛り上げに盛り上げ、キメて終わるという素晴らしいカタルシスで、最高でした。
 指揮はクーン・ケッセルズ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。
 三時間弱の楽しいガラ・コンサートで、大入りでしたし歓声もよく飛んでいました。もちろん超久々の来日でしょうしね…来週の『ロミジュリ』も楽しみです!




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宝塚歌劇月組『DEATH TAKES A HOLIDAY』

2023年06月24日 | 観劇記/タイトルた行
 東急シアターオーブ、2023年6月20日11時半、23日11時半。

 第一次世界大戦の戦闘、飢餓、そしてスペイン風邪の流行によって人類史上類を見ない犠牲者を生んだ未曾有の脅威が、去ってから4年の1922年7月。ある金曜日の深夜、ヴェニス北部の山道を猛スピードで飛ばす一台の車があった。座席に立ち、クレイジーな真夏のドライブを楽しむ令嬢は、イタリア貴族のランベルティ公爵(風間柚乃)の一人娘グラツィア(海乃美月)である。運転しているのはその婚約者コラード(蓮つかさ)で、グラツィアの両親と、公爵夫妻の亡き息子ロベルト(ヤングロベルト/七城雅)の妻アリス(白河りり)、グラツィアの親友デイジー(きよら羽龍)、公爵家の使用人兼運転手ロレンツォ(一星慧)も同乗している。彼らはグラツィアとコラードの婚約をヴェニスで祝った帰りだったが、突如現れた「闇」に車が覆われ、コラードがハンドルを取られた瞬間に、グラツィアは車から投げ出されてしまい…
 脚本/トーマス・ミーハン、ピーター・ストーン、作曲・作詞/モーリー・イェストン、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健。アルバート・カゼーラの戯曲を元に製作され、2011年にオフ・ブロードウェイで初演されたミュージカルの日本初演。映画『明日なき抱擁』『ジョー・ブラックによろしく』などにも翻案された、死と愛の超克を描く名作。

 映画は未見。舞台もドラマディスクアワードにノミネートされただけのようなので、楽曲の出来は評価されてもあまりヒットしなかったのでしょうか? でも、もちろん生田先生の潤色の手腕もあるのかもしれませんが、とてもお洒落でリリカルでポエジーあふれる、ザッツ・海外ミュージカルな宝塚歌劇に仕上がっていて、私は満足しました。ハコとの相性もよかった! 関係者の感染で初日が遅れて手持ちチケットが二枚とも飛びましたが、お友達のおかげで二度追加できて、マイ初日は1階後方どセンターから、二度目は3階てっぺん端っこから観られてどちらも堪能できて、とても良かったし助かりました。一度観ただけでももちろんだいたいのことはわかるんだけど(あたりまえですがすべての作品は一度の観劇で十分楽しめるように作られるべきだと考えいていますし)、一度だけでよかったかな、とはならなかったし、ちゃんと二回観て楽しめたのです。そういうのも大事なことだな、と思いました。
 何かいい邦題をつけてもよかったんじゃなかろうか、とは思うし、こういう楽曲先行っぽい作品にはいつも台詞が足りない!とか芝居を足せ!とイキるのが私の定番ですが、今回はあまりそういうことは感じませんでした。とっぱしの車の装置が素晴らしく(装置/國包洋子)バックの映像(映像/石田肇)も素晴らしく、その後もむりくり作った盆含めた丸い板の上で多彩に動くセットが素晴らしくて(これは人力だそうですがバトンはさすがに電動ですよね…? これも素晴らしかった。そして『ディミトリ』にあったように黒衣のスタッフさんがちょいちょい見えるなんてことがまるでなかった、素晴らしい)、流れるように美しくあえかに展開される物語絵本を見るような、そしてその物語も「死神が休暇を取る」というまさしく大人のお伽話のようなものだったのでなおさら、その世界にやわやわと誘われ楽しく眺めていられた…のかもしれません。難しい楽曲を軽々と歌いこなす月組子たちの力量や、歌詞の翻訳の明瞭さも、引っかからせずよかったと思います。
 確かにいうなれば『エリザベート』であり『ファントム』であり『美女と野獣』であり『シザーハンズ』かもしれませんが、こうしたテーマ、モチーフで人口に膾炙された物語というものにはすでに一定のパターンがある、というだけのことかと思います。そしてこれは要するに、若く健康で裕福な女性でも交通事故で死ぬときは死ぬ、というだけの、ただそれだけの物語である、と私は解釈しました。だから今生きていられる人は日々を大事に生きていこう、という、そういう意味での生命賛歌、人生賛歌の物語かな、と感じました。
 この死神は、シシィに「私を帰して!」と強く要求されて一目惚れしちゃったトートみたいなんでは全然ない、と私は思います。グラツィアは、最後の一滴にすぎなかったのです。戦争、飢餓、病気で人はバンバン死に、そのたびに神様か何かに命じられて彼はその人間のもとに赴き、「せめてあと一日、あと一晩、あと一分だけ…」と言われつつもその生命だか魂だかを奪い連れ去る、のを仕事としてきたワケですが、最近の過重労働にそれこそ死にそうに息も絶え絶えで、我慢や苦渋がコップに満々と満ちていて、そこに最後の一滴が落とされたのでもうあふれてしまって全部イヤになってしまって、「休暇を取らせていただきます!」とばかりに48時間のストライキに入ったわけです。で、人間がそうまでこだわり死の間際に抗う要因となる、命とは、人生とは、愛とは何かをちょっと知りたくなった…ということで、モンテカルロで死にかけているロシアの王子ニコライ・サーキの姿を借りて、ランベルティ邸ヴィラ・フェリーチタの週末のお客になったのでした。
 彼が主人公として愛や人生を知って変化していく…ような物語でもある一方で、彼は単なる狂言回しにすぎず、むしろ他のキャラクターたちの愛や人生がオムニバス的に語られることが主眼となっているような構成でもあります。明らかに死神/サーキ視点ではない場面が、特に2幕には多く、そのせいでメインのストーリー展開は遅くなっているので、それを中途半端に感じた人もいるかな、とは感じました。
 でも私は、それを言ったらこんな尺要る?みたいなパリ場面のタップもエリック(夢奈瑠音)が語る飛行訓練場面も、とてもミュージカルっぽくて素敵だなと思いましたし(日本のオリジナル・ミュージカルにはもしかしたらこういうナンバー重視のある種余剰だが豊穣なダンスシーンが足りないのではあるまいか)、何より私は幸か不幸かくらげちゃんがあまり好きではないためヒロインのグラツィアにこだわって観ることがなかったせいで、ふたりのラブストーリーとして中途半端だとかヒロインのこの選択はどうなんだ、とかをあまりうだうだ考えずに済んだのでした。
 グラツィアはどうやら、ロマンティストでちょっと浮き世離れしたところがあるお嬢さん、と設定されているようで、くらげちゃんもずいぶんと若く軽い発声で台詞をしゃべっていましたが、別にシシィみたいにそもそも死に惹かれるメランコリー気質の人で…みたいなことではないだろうし、特に特徴のない、若く健康で裕福なごく普通の21歳の女性、でいいのではないかと私は思いました。地元の伝説に残るような悲劇のカップルの話が好きだったり、隣の敷地に住む好青年とうっかり婚約するくらい、普通の若い娘なら普通にやるでしょう。そういう人間でも交通事故に遭うときは遭うし死ぬときは死ぬ、それが人生だ、というだけのお話なんだと思うのですよ、これは。彼女が死神と運命的な恋をして生よりも死を選び、それで死神が救われて天使になった…みたいな話では別にないだろう、というのが私の解釈なわけです。
 死神の方は彼女に恋したかもしれません。少なくともアリスにされてときめかなかったキスを、自分からグラツィアに対してはするようになったわけで、ある程度選択はしているんだろうけれど、それはグラツィアがものすごく特別な人間だったということではなくて、単にそこにいたからだと私は思う(意地悪な見方で申し訳ない…)。要するに恋なんてそんなものだということだとも思うし、つまりそれくらいグラツィアというキャラクターは平凡な設定でいいと思うのですよ、物語的には。平凡だけど、人間である、ということが死神にとっては非凡そのものなのであり、これはそうした「一人間」の彼女とのやりとりを通して彼が愛や人生や生きる喜びを学ぶ、というお話だからです。
 で、結局、公爵と約束しようがグラツィアが何を望もうが、世界からひとりも死人が出ないのは死神が休暇を取っていたからなだけのことであって、休暇が終われば元どおりで、グラツィアは運命のとおりに車から投げ出されて死ぬのです。それだけのことなのです。
 一度は望みを持ってしまったので、公爵夫妻たちはより傷ついたかもしれませんが、それはそれこそ彼らが死神との約束を破った罰、なのではないでしょうか。でもそれこそ、人は愛する家族や友人には秘密を持てない、たとえ死神と守ると約束した秘密であっても…というのが、とても人間臭いことでもあると思います。
 息子を戦争で失った夫妻が、娘を事故で失うのはかわいそうなことです。しかし残念ながらものすごく稀ということではないでしょう。彼らがものすごくいい人たちであったとしても、世界に対して何か素晴らしいことをしていたとしても、神は人の命を奪い残された家族を傷つけるものなのです。それが世界の真実です。それでも「愛は死より強い」というのは、残された家族や友人たちは、死によって奪われた亡き人をそれでも愛し続ける、ということかと思います。むしろ相手が生きていたらその愛は変質することがある…というのは不都合な真実なので、ここでは目をつぶりましょう。
 死神はグラツィアに恋をして、まずは彼女を共に連れていこうとし、次に彼女のためにおいていこうとしましたが、彼女の方が強硬に死ぬと言い募つのりました。でもそれで彼の姿が白く変わったのは、神がもうこいつには死神仕事はさせられないなと判断して、天使かはたまた別の何かかは知らないけれど、とにかく別の仕事をさせるべく生まれ変わらせたのかな、とか思いました。まあそれで天国かどこかでふたりで何かの仕事をさせられつつ永遠にラブラブハッピー、ならいいんだけれど、そんなことは我々下々の人間にはわからないことなので、ハッピーエンドでよかったね、というよりは、やはり残された家族たちのことなどを思ってざらりとさせられる余韻が残るし、それでいい、それがいい作品なんだと私は感じました。
 もっといえばこれは、車から投げ出されたグラツィアが死の間際に妄想、空想した勝手な物語かもしれませんよね。こんな素敵な白き王子さまが仕事を投げ出して自分と永遠に生きるべくやってきてくれる…くらいの妄想でもしなければ、死なんて受け入れられませんもんね。それくらい、死は無です。未来、可能性、変化や喜びのすべてを奪うものです。死んだらそこですべて終わりで、あとは無で、永遠の愛も何もありません。魂があろうとなんだろうと肉体が灰燼と化したらもう何もできないのです。生きている者としてはもう何がなんでも避けるべきものです。みんなおてんとさまに感謝して、犯罪や事故に巻き込まれないよう、病気に罹らないよう注意して、日々を大事に大切に、明るく楽しく暮らしていかなければなりません。それができれば、どんなに老齢になっても死にたい、死んだ方が楽なんて思わないで済むわけで、とにかく大往生のそのときまで人生に感謝し味わい尽くす、それが人間の生きる道というものでしょう。そういうことを訴えている作品なんだ、と私は捉えました。
 認知症というか、夫の戦死を受け止めきれず主治医のダリオ(英真なおき)を夫マリオだと思い込んでいる、というぶっちゃけ棺桶に片脚を突っ込んでいる状態のエヴァンジェリーナ(彩みちる。てかプログラムによるとコラードの祖母なのか、でもステファニーの母みたいな説明してなかった? でもそれもありえるのか、となるとコラードとグラツィアは従兄妹同士なのか?)の存在があるので、グラツィアの代わりに彼女が死神と逝く…というような展開になるのかな?とも思ったのですが(それで彼女が若返ったら『ハウル』だな…)、そういうことはなくてやっぱり死ぬのは最初から最後までグラツィア、というのもいいなと思いました。
 エヴァンジェリーナが歌う「Dicember Time」というのは人生を1年にたとえたら老境の自分は今12月にいる、というようなことだと思うのだけれど、人は誰も自分の死期を知らないので、自分が本当は何月にいるのかはわかっていないのです。これは味わい深いなと思いました。私も人生百年だしまだ折り返したばかりで宝塚歌劇150周年を観る気だし、まあ7月くらいのもうすぐ夏休みってあたりかなーヤダ一番ルンルンじゃーん、とか考えたのですが、ホントのところはわからないんだから日々大事に生きねば、と改めて考えたりしましたよ…
 そんな、笑いとペーソスのある、ドライな仕上がりが、いかにも海外ミュージカルという感じで、私はたいそう気に入った作品となったのでした。

 れいこちゃん、当たり役だったのではないでしょうか。美貌なのにすっとこどっこい(笑)、本領発揮でしょう。でも、触れた花が枯れないなんて! 浴びる日差しが温かいなんて! 目玉焼きが美味しいなんて! とピンクの縞しまパジャマでキャッキャするいじらしさに、じんわり泣けましたよ…あたたかなお芝居と素晴らしい歌声、堪能しました。
 くらげちゃんは上手いです、髪型もお衣装(衣装/加藤真美)もホントお似合い。しかしこれ以上のプリマドンナっぷりはたとえシシィでもアントワネットでもスカーレットでももうないので、そろそろ満足してご卒業していただけると、れいこちゃんの新しい姿が見られるのにな…と私はついつい考えてしまうのでした。くらげちゃんファン、れこうみファンにはホント申し訳ございません。個人の嗜好です。
 おださんはヒロインの父、副組長の夫って学年じゃないのにもうジェンヌ人生何周目?って上手さでホント脱帽…チャーミングなおじさまっぷりでさすがでした。
 そのさちかステファニー(白雪さち花)にも大きなソロが1曲あるのがいいですよね、こういうのも通常のオリジナル公演だとあまりないので…尺のためにカットされたりしなくてよかった、泣かされました。もちろんナンバー以外の佇まいもとてもいい、上手い。
 るねっこもれんこんもさすがで、そして素晴らしき白河りり劇場をかますりりとデュエットでも三重唱でもなんでもござれのおはねちゃんがまた素晴らしかった! 男役たちがダンサーに徹して娘役三人で歌う「とうとうわかったの!」も宝塚オリジナルではまず作られない楽曲かと思うので、いじらしさに泣いちゃいました。
 ヤスがいつなんどきでも上手いのも知ってるし、桃歌雪ちゃんのソフィアの塩梅がまた良くて、上級生娘役が卒業していなくなるとこのあたりにまたスポットが当たっていっていいぞいいぞ、となりました。るおりあとこありちゃんにも歌があり、特にこありちゃんはダンサー枠かと思っていたら歌も絶品で仰天しました。あとはみちるだよ、雪組時代からは考えられませんよこんなにまろやかな歌声で泣かせてくるなんて…! そしてじゅんこさんのあたたかな芝居が全体の良き重しとなっていたと思いました。

 短い公演となってしまいましたが配信もあるし、円盤もちゃんと出るようですね。良き財産になったかと思います。













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宝塚歌劇月組『月の燈影』

2023年06月23日 | 観劇記/タイトルた行
 宝塚バウホール、2023年6月15日11時半、22日14時半。

 江戸後期。幕府の市街拡大策に伴い「江戸」に加えられた大川(隅田川)の東岸「川向う」は、新興地ゆえに町奉行の手が及ばず、岡場所や賭場が人々を引きつけて独自の発展を続けていた。欲望が交錯し、利益にたかる人々が群がり、そして故あって「江戸」にいられなくなった人々が逃げ込む場所、それが「川向う」だった。二番組町火消ろ組の平人・次郞吉(彩海せら)は、ろ組の頭・丑右衛門(悠真倫)と共に、新川大神宮の境内で、川向うの通り者・伊七(真弘蓮)や端唄の町師匠・文字春(天愛るりあ)に賭場の借金の形として連れ去られそうになっていた火消仲間・伊之助の妹・お橘(澪花えりさ)を助け出そうとしていた。次郞吉はなんとか思いとどまらせようとするが、彼らは江戸の常識が通用しない川向うの流儀を振りかざし、ついには次郞吉に斬りかかる。そのとき、向両国の通り者を仕切る幸蔵(礼華はる)と呼ばれる男が助け船を出し…
 作・演出/大野拓史、作曲・編曲/高橋城、高橋恵、振付/山村友五郎、峰さを理。2002年花組初演のバウ・ミュージカル、待望の再演。全二幕。

 初演は未見。スカステで見たことがあるかもしれませんがまったく記憶がなく、長くファンに愛されている作品だという知識しかないままに観ました。
 初演はユミコとまゆたんのダブル主演で、でもまゆたん次郞吉が主人公の物語だったんだそうですね。それを今回はぱる幸蔵を主人公に、多少のリメイクをして(二幕冒頭が足された場面なのかな? 他にもちょいちょい場面の順番が違ったり足されたりしている、とも聞きました)再演したようです。
 なるほどなるほど、確かにね! なんせぱるよりあみちゃんの方がぶっちゃけ上手いので、目立つし出番もまあまあ多いし、お話としても次郞吉の方が視点人物になるよな、などと思いつつ観ていたのですが、事情がわかってくるとやはりこれは幸蔵の物語なのだな、となりましたし、タッパがあって目が効いて舞台姿が映えるぱるが、地味ながら耐えるいい芝居をしていることもよく伝わってきたので、納得の仕上がりでした。フィナーレもあって晴れやかに終われる、でもとてもせつなく悲しく美しく愛しい作品だな、と感じ入りました。これはファンの多い作品というのも納得です。スカステ、早く初演を放送してー! 見比べてみたい。あと脚本読みたい、粋な江戸言葉の素晴らしさを堪能したい、「ル・サンク」出してくれよー…
 期せずして紫陽花の季節に再演、というご縁も素晴らしいし、初演から続投のはっちさん、まりんさん(初演のお役は今回ぐっさんの同心・大八木)もさすがでしたし、若くても達者な今の月組のこの座組で再演できてとてもよかったと思います。観られてよかった、無事に幕が開いて無事完走できそうでよかった…!
 わかって二度目に観ると、冒頭の大八木さん(春海ゆう)の台詞からもういろいろぐっときますし、そこでピンで踊り出す喜の字(天紫珠李)は「現在」の姿なのではと思うのだけれど、それは最後の場面でもそうだけれど、結局彼女は自前の芸者なので今もひとりで立派に自活できているということだと思うんですよね。でも新助(一輝翔琉。ちょーっと足りなかったかなあ、当人比では前進していると思うんだけれど…大詰めの居方次第ではこの場面はもっと盛り上がり、この物語はもっと重くまた締まったと思うのですよね…)はどうだろう。もちろん髪結いとして一人前になっているかもしれないし、元吉(咲彩いちご)とめでたく所帯を持っているかもしれないけれど、でも身を持ち崩して、なんならもうこの世にいないからこの場面にはいないんだ、とも解釈できる嘘寒さ、現実の過酷さ冷酷さも感じるのでした。それくらい、シビアで悲しい、苛烈な、しかしよくある物語だとも言えるのでしょう。よくできていました、本当に良き舞台でした、さすが大野先生でした…
 また、形としてはホント『BANANA FISH』でした。淀辰(夏美よう)がゴルツィネで、父親の借金の形に売られた姉・お勝(麗泉里。よかったんだけど、でも天愛るりあと配役が逆でもよくなかったか?などとも思ったりするのでした…)を救うために人情沙汰を起こして江戸にいられなくなった幸を、親切ごかしに助けて、手懐け、なんならそれ以上の今を流行りのグルーミングまでして(! だってあの、わざわざぺたぺた触る手つきの嫌ったらしいこと、いやらしいことといったら…さすがははっちさんです)自分の手下にし、その後離反されて距離を取るものの、実は未練たらたらで…という構造です。幸/幸蔵がアッシュで、次郞吉は英二なワケです。ここはでっかくてシャイな兄貴分にちっちゃくてにぎやかな弟分がまとわりついているようなコンビに見えて、実は兄貴分の方がずっと相手を必要としていて依存していて、弟分の方は確かに気のいいわんこみたいなんだけれど、誰の痛みに対しても敏感ですぐ鼻つっこみ寄り添い世話を焼いて回り、あげくしんどいところを全部引き受けちゃうような人で…というコンビなのでした。
 ナンバーツーの粂八(大楠てら。毎度こういうポジションがホント上手い!)が言うなればショーターないしアレックスで、幸蔵の子分から淀辰側に寝返る伊七がオーサーです。三吉(彩路ゆりか。またホントこういう子分芸、三下芸が絶品なのよ…!)は死なないスキッパーかな…てか彼のような、ある種いじらしく可愛らしい弟分キャラでさえ、これまでどんなひどいことに手を汚すことを強いられてきたのだろうと思うと、もう爆泣きでしたね…
 新助はまあラオなんだけれど、要するにおまえが甘い考えで博打に手を出すのがすべての発端なんだよ!と言ってやりたいワケで、そりゃそれを悪用しつけ込む文字春たちが悪いんだけどでも、博打で当てた金で買った物を贈られたってフツーの女は喜ばないって学んで男子ー!とホント学級会を開きたいです。反省してー!!
 もちろん、最初に彼らを突っぱねなかった幸蔵も甘いんです。それは本人も反省している。痛い目に遭わせてでも追い払い、線を引かなきゃいけなかった。素人は相手にしない、ってのはそういうことです。賭場での遊び方を親切に指南してあげるなんて、そんな社会勉強の手引きはすべきではなかったんです。でもそれが人の情だから…幸蔵だって次郞吉との再会が嬉しくなかったはずはないんだから…それを、まあ妬いてるんだけどお壱(花妃舞音。日本物のメイクも似合う! カワイイ! 歌もいい! 好きー!!)にねちねち言われてしまうわけですが…ちなみに彼らのうち、他はみんな生まれたときから川向こう育ちなんでしょうかね? 江戸生まれで途中から川向こうに来た人たちとは、そんなに何かが違うものなんでしょうかね…でもそれだけこの環境が過酷だということなのでしょう。
 鼠小僧のオチは要らなくない?と言う人もいるようですが、私は初見はニヤリとしましたし、亡くした友の名で義賊となり世の悪しき権力者に喧嘩を売る生き方は、ちょっとカッコよすぎな気もしますが幸蔵の生き様としてアリだし、ひとつのアイディアとしてもとてもおもしろい、と純粋に思いました。それにそういうことでもないと、あのあと絶望した幸蔵は大川に身を投げるくらいしかできないだろうし、それで泳げちゃったら死ぬこともできないし、それはやはりつらかろう、と思うのですよ。死んだように生きるより、死に場所を求めて突っ走り、あえなく捕縛、打ち首獄門となっても本望…というのが彼の生き方だったのでしょう。
 季節は巡り、また紫陽花は咲き、お祭りの時期がやってきて、かつての幸と次郞吉のように三味線の手習いをする少年ふたりがいて、そこに幸が、次いで次郞吉が現れて、それは実はフィナーレの男SとAで、楽しげな連れ舞になって…そりゃ泣くでしょう! ずるい、ひどい、すごい、素晴らしい。
 そしてぱるが残って娘役ちゃんたちに囲まれ、次にあみちゃんとあまし氏のデュエダンでチューで締め(きゃー! てか簪の少女漫画シーンもホントよかったわー! 「あいよ」って応えたいわー!)、最後はぱるセンターの男役勢揃いで手ぬぐい片手に火消しの群舞、かーっこいーい! もう明るくニコニコ笑って踊るぱるがいなせで素敵で、配役が誰か知らないけど(るうさんか? ギリギリか? もういないからヤスか?)父親がバカやらなければそのままこんな頼れる火消しの兄さんになったろう、と思うとときめくやら泣けるやらで大変なのでした。
 そしてパレードとなり、晴れやかな終演となるのでした…大号泣。
 通り者たちの歌もよかったし、二幕冒頭のお祭り場面も鮮やかでしたねー。とっぱしのぱるターンは九年前で、あみちゃんターンはその五年後…って計算になるのかな? ともあれこういう時空の自在さが舞台の醍醐味だと思うのです。あと、花火をバウホールの壁やら天上やらに映す光で表現するのも素敵でした。
 逆に、セットが簡素だということもあるけれど、場面が江戸なのか川向こうなのかはよくわからないことも多く、人も頻繁に行き来していて入り交じっているわけで、そんなに違うこともないじゃん、とつい思っちゃうんだけれど、やはり何かのときに官憲が機能しない無法地帯なのだ、というのは何かのときにこそ差が際立つわけで、やはり怖ろしいものがあるのでしょう。
 それでも人は友達になるし、恋も生まれるし、情でつながれるというのに…ううぅ…せつない…結局のところうまい汁を吸って高鼾のワルはそのままなワケでさ…きいぃ…
 ぱる、いい演目、いいお役でのバウ初主演、おめでとうございました! 前回の本公演でもひとつ覚悟ができたかな?という押し出しを感じましたが、今回も立派な真ん中力、素晴らしかったです。歌声がヨレるのはご愛敬ですが、もう少し情感込めて歌えるようになるといいかもね。ま、これは場数かな。
 あまし氏は何度ヒロインをやってもバリバリのラブロマンスの相手にならないのが不憫なんだけれど、さすがに手堅かったです。でも歌は不安定に聞こえたな、苦手な音域だったのかな?
 そして雪組で日本物もバッチリやってきましたよお任せあれ!なあみちゃん、早晩彼女自身もバウ主演を果たせる逸材だと思っていますが、ホント上手いし華がある。きっちり助演、お疲れ様でした。
 あとは蝶之助の妃純凛姐さんがさすがええ声でよかったなあ。蘭くんはホントなんでも上手いんだけど、もう二の線はやらせないようなのももったいなくないですか…まひろんもホント上手いです頼れます。あと静音ほたるちゃんが前回から識別できるようになったので、まのんたんとニコイチで出てきてくれてありがたかったです。彼女たちは、未だ巾着切りという犯罪者ではあるけれど、身は売ることなく生きて「現在」にいるようだったので、ちょっとほっとしたかな…てか粂八はお壱を好きなの? ここも甘酸っぱい幼馴染みだったりするの? そこのスピンオフはないの!? 急いでいるからとはいえあのしっかりした手繋ぎとパレードの目配せにときめきましたよ!?!?
 そして新組長のみとさんのおゑん(梨花ますみ)がホント怖くて素晴らしかったです。我関せずみたいにしているけど、船宿のお内儀ってことは家付き娘で、辰五郎の方が婿なくらいなんじゃないのかしらん、いや淀屋って家号はあるワケですが…夫が地回りの元締めで、ってことはいわゆる極妻で、そんな夫がちょいちょい浮気もつまみ食いもしつつ女を売り飛ばして沈め死なせているのを冷めた目で見ていて…このあとも涙ひとつ流さずにさっさと夫の葬儀を出したことでしょう。大八木さんの上司が男のワルなら女のワルはこっちが頂点ってことですよね、くわばらくわばら…
 千秋楽のころには花のみちの紫陽花もさすがに終わりかもしれません。配信見ようかな、それくらい、ホントよかったです。タイトルは実はよくわからない雰囲気ものだけれど(「燈」ってのは行灯とかランプとかのことで、その灯りでできる物の影が「燈影」ですよね? 月光が作る影は月影で、あるいは月の欠けた暗い部分のこともそう呼ぶのかもしれないけれど、でもこれは月を燈に見立てている…のですかね?)、これからお月様を見たら、そして紫陽花を見たら、私の中で思い起こす演目になるのかもしれません。



 






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