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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

百田尚樹『永遠の0』(講談社文庫)

2012年06月28日 | 乱読記/書名あ行
 「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」そう言い続けた男は何故自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。想像と違う人物像に戸惑いつつも浮かんできた、この謎の答えは…記憶の断片が揃うとき、明らかになる真実とは?

 私は女なので戦争ものにはあまり興味が持てないのですが(ランボーな物言い)、実はなんの話かよくわからないままに読み始めました。
 が、結果的にはおもしろく読みましたし、読んでよかったです。
 そして私はオタクなので、これは戦術と戦略の話でもあり、そのおもしろさは『銀河英雄伝説』にも通じるよな、てかそもそもあの作者はこういう戦記ものが好きで、自分でも書きたくなってそれでスペース・オペラの形であれを書いたんだろうな、とか、そんなことを思いました。

 現代に生きる若い姉弟が祖父の生涯を追う、というこの形は正しいと思いますし、それで考えると姉のキャラクターの扱いはいかにも残念で、まあこれがデビュー作だというので仕方ないのでしょうが、この題材に現代の女性の視点がもっときちんと入れられればより傑作になるのにねえ…と思いつつ、それは高望みかもしれないなともまた思いました。
 戦争になったら女は負けます。そんなことはわかりきったことですからね。だから女は戦争を起こさないようにするしかない。かつて起きてしまった戦争に対しては…もう、もって瞑すべし、としかできないのでしょうから、それもまた仕方のないことなのかもしれません。



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角岡伸彦『被差別部落の青春』(講談社文庫)

2012年06月28日 | 乱読記/書名は行
 差別はまだまだ厳しいという悲観論があり、一方で楽観論もある。その「間」はどうなっているのだろう…丹念な取材を通して語る結婚、ムラの暮らし、教育。しなやかな視線で「差別と被差別の現在」に迫るルポ。

 とても読みやすく、また勉強になりました。
 私が不勉強だったからか、関東育ちだからか、同和教育を受けた記憶もありませんし、近隣にがあるということもなかったように思います。私にとってはあくまで知識としてのちに知ったもので、体感的には全然ピンと来ない問題でした。
 ただ、社会人になってある程度全国のいろいろなところから社員が集まっている中で、やはり関西出身の人からそういう話題が出たりするので、そちらではやはり身近な問題なのだろうか…と漠然と思っていたくらいです。
 この本を読んで、漠然と知識として知っていたことの真実の姿、歴史的な経緯、そして現在の姿、というものがよく理解できた気がしました。

 ちょっと話が変わりますが、私の身近にあった差別といえば障害者差別でした。今は障碍者、と表記する方がいいのでしょうか…障がい、は嫌なので避けたいのですが、ちょっとわかりかねるのでこの問題は避けますが。
 ちなみにこれまた社会人になって、まだまだ会社というものは、社会というものは男性社会なんだなあ…とは思いましたが、わかりやすい男女差別には会ったことがない気がします。私が就職した会社はたとえば給与体系などに男女で差はつけていませんでしたし、均等法以後の就職でしたし。
 それまでも、家庭でも「女は大学に行かなくていい」みたいなことは言われたことがないですし、そもそも小さいころなんて女子のほうが利発で体格も良かったりするものだから、学校でもリベラルに伸び伸びと育ててもらった気がします。伸び伸びすぎて女子度が低い女になった、というのはあるかもしれませんが。

 私が通った小学校には、特殊学級がありました。これも今では表現が違うのかもしれません、くわしくなくてすみません。
 いわゆる知恵遅れの子供たちが通っていました。でも授業によっては普通学級で一緒に受けることもありましたし、放課後や学童保育ではいつも一緒になって遊んでいました。
 からかったり不当なちょっかいを出したり、というのはあったと思います。でもそれはいじめというほどのものではなくて、子供なりのかまい方だったように思うし、事実彼ら彼女らは私たちのことを好いていてくれて、常に一緒に遊んでいました。
 そうすべきだ、と教わったことはないように思います。それは子供たちにとってごく自然なことだったのです。

 ただ、トラブルやアクシデントがあったときにはそうはいかないことがありました。
 具体的に言うと、そうした子供たちが吐いたり粗相したりしたときのことです。
 みんなは、それこそ「汚い」とか言って冷やかして、遠巻きにするだけで誰も何もしなかったのです。
 で、そういうとき私は必ず、呼ばれた教師が来るより先に、さっさと雑巾やトイレットペーパーやバケツを取ってきて掃除していました。汚れたのなら片付ければ、掃除すればいいだけのことだからです。
 それは正義感とか、ええかっこしいのためではありませんでした。何か困った自体が起きたときに、何もしないで、何もできないで立ち止まっていること、その状態が悔しくて、その状態をなくしてしまいたい子供だったのです、私は。
 だから片付けた。みんな「偉いね」とか「すごいね」とか言ってくれましたが、そういうことではないのです。私は自分がカッコ悪い状態でいることに耐えられない弱い人間なのです。
 そういう理由で動いていることとは別に、アタマでも不当な差別は許しがたいものだ、ということも理解していました。こういう正義観とか倫理観とかがどこで養育されたものなのか、自分でもよくわかりません…
 教育的な家庭だったということはまったくなかったんだけれどなあ。本を読むのが好きな賢しらな子供だったから、いつの間にか学習したのでしょうか。
 成長するにつれさらに世界には人種差別とかがあるらしいとかも知って(これまたたとえば今なら多いアジア人とかイスラム系の民族が身近にいるということもまったくなかったので、体感的にはまったくわからなかった)、なんてくだらない、と驚いたものでした。すでにして理系思考だったから、同じホモ・サピエンスじゃんとしか思えなかった。ただ宗教の対立なんかには興味がありましたね。
 韓流づいてからは在日差別について考えるようにもなり、でもこれまたやっと隣の職場に在日三世の後輩ができたくらいででもそんなディープな話はしたことがないし体感的にはやはりよくわからない…ということが続いています。

 で、何が言いたいかというと、この本を読んでいて思ったのですが、出身者はのことを「ムラ」と呼ぶことがあるそうですが、宝塚歌劇ファンが大劇場周辺のことを「ムラ」と呼ぶのは似たニュアンスがあったりするのでしょうか、ということです。
 だったのかとかいうことではなくて、身内感の問題として、です。
 私は街育ちで、両親の田舎も地方ではなく、そういう意味で田舎らしい田舎を持っていない人間です。だからハストラルな幻想は抱いている。でもそれが幻想であることも知っているし、ぶっちゃけ低く見ている部分もあると自分で思います。
 それとは別にとにかく私はアタマでっかちな人間で、何ごとも形から入るようなところがあり、宝塚歌劇を初めて観ておもしろいと思ったらすぐ「歌劇」を買って読んでそれでシステムのことなどを覚えていったのですが、だからたとえば生徒のことを愛称で呼ぶといった風習はすぐ覚えて自分でもすぐ実践していったのですが、大劇場周辺のことをムラという愛称で呼ぶことはかなり遅くまで知らなかったのですね。これは公式の機関誌にはあまり出ないことだからだと思います。
 当時もっとネットが発達していれば、あるいは自分がそういうところにばんばんアクセスする人間だったら、またくわしい知人が身近にいるようだったら違ったかもしれませんが…
 だから私がムラという呼称を知ったのはけっこう遅かった。そして私はなんか嫌な呼び方だなと思った。実際にはこれはあくまで愛情にあふれた意味での揶揄やテレが含まれる言葉だということももちろんわかりました。でも私は嫌だった。私自身が結局のところ田舎を下に見ているせいです。だから好きな場所をそんなふうに呼びたくなかった。そういうことなのです。
 そういう意味でこれもまた地方差別というものがあるということなのだろうな…と思ったのです。
 でも生まれたときから身近な人は、てらいなく、また愛着を持ってそういうふうに呼んだりするものですよね。その感覚は素晴らしいと思いつつ、そういう空気の中に生まれつかなかったものには生涯得られないものなんだろうなあ…とか、思ったりしたのでした。

 かなり話が脱線しました、すみません。
 とにかく、そういうこととは別に、とてもいい一冊でした。



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『Cool!!』感想

2012年06月25日 | 大空日記
 「思い出の舞台集」は…
 未見だったので楽しみにしていた『LAST STEPS』のユウコとのタンゴが、楽曲差し替えだったのが泣けた…(ToT)
 『エールの残照』新公がけっこうがっつり映っていたのは感慨深かったな。私は当時本役の大鷹つばさがなんとなく気になっていて、新公は同期がやるんだ、へーとか思った記憶がうっすらあり…もちろん新公なんか観られなかったので、「歌劇」の新公評をがっつり読んだことを覚えているのですよ。
 『チェーザレ・ボルジア』全ツで番手が上がったのがすっごく嬉しかったのは覚えているので、このあたりからすっかりファンだったのだと思いますが、残念ながら全ツ映像はなかった…
 でも本当に思い出深い舞台がたくさんで、本人も楽しそうに思い出話を語っていて、いいパートです。
 本人はラストお茶会のときのようなオラオラふうリーゼントで男前にキメています。語る話は聞いたことがあるものも多かったけれど、また違った言い回しや新しい情報なんかもあって、何より本人のまとう空気が柔らかで、見ていてとても楽しいのもいいですね。

 「サヨナラショー」は…
 大劇場千秋楽入り映像から。
 今こうして見ても、なんかすごく豪華な幻を見た気がしたあの日の感覚が、なんだか夢のようです…
 楽屋での様子や組子との記念写真撮影なんかも映っています。本当にお祭りなんだよね、一大イベントだよね。
 でも公演はとにかくきちんとしっかり務めないと、それが主演の務め、と言う大空さんの凛々しさには本当に頭が下がります。

 ショーのカメラワークはとても綺麗でストレスはあまり感じませんでしたが、やはり暗い。
 生だともっといろいろ見えるんだけどなあ…とは、映像を見るといつも思います。
 でも電飾サイン、銀橋に出る大空さん、ブルーのYの字のペンライト場面にはやはりうるうるしました。席にも寄りますが、やはりこういう絵は逆に生では観られないので…

 尺の問題もありますが、階段降りやカーテンコールは編集せずノーカットで収録してほしかったかなー。
 緞帳前のゆひすみいちゃいちゃが入ってなくてちょっとしょんぼりでした。
 でもその後の楽屋での様子が良かったなあ。組子や退団した同期(ってかみんなもう退団しているんだけど)に見送られて劇場ロビーを出て、我々もさんざん通った劇場ホワイエを歩きながら、カメラに応える大空さん。
 あの薄化粧で、柔らかな笑顔で。「奇跡」の花言葉を持つちょっと非日常的な紫の薔薇の花束がもはやちょっと似合わないくらいの、ナチュラルな姿で。やっぱり楽しそうに銀ちゃんのことなんか語っちゃって。
 白い胡蝶蘭のアーチを通った後、「長めに手を振ってください」というマスコミに応えて斜めになっちゃって、間違いに気づいて笑って「ナナメになっちゃった」ってのもバッチリ入っていて。ああなんて愛しいの。
 ラストの車からのお手振りもたまらなく可愛らしかった…!

 残り一週間。
 またあのサヨナラショーが観られるのはとても嬉しい。「VICTORY」からの「ひき潮」、「アランチャ」や「幸せの鐘が鳴る日」、そして「蒲田行進曲」…
 出はあの狭い日比谷でどうなるのか、想像もつきません。フェアウェル・パーティーも参加予定ですが、まったく勝手がわかりません。
 でもとにかくすべてをなるだけ見逃さないよう、心に刻み込んでこられるよう、がんばってきたいと思います。
 タカラジェンヌ「大空祐飛」は存在しなくなってしまっても…どんな形であれ「大空祐飛」がいなくなってしまっても…中の人(笑)はいるのだし、どこかで元気で幸せでいてほしいと思っているし、そういう意味でこの愛は7月2日以降も続くのだと私は思っていますが、それでもまずは、区切りの7月1日最後までめいっぱい、愛し抜きます!

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『華クラ』DVD感想

2012年06月25日 | 大空日記
 「A Pretty Girl Is Like A Melody」が著作権的に使えないというので、割愛・差し替えが心配されていたDVDでしたが…
 覚悟していたからまあその範疇だった、とも言えるし、やっばり悲しかった、とも言えるし…でした。
 舞台はもちろん生物で、観劇するのが基本で、映像で見るのは邪道だとかあくまで補助手段にすぎない、という考え方はもちろんわかります。しかし記録として残るのは映像だし、生で観られない人もたくさんいるわけで…
 使用料を払ってでもこの曲を使えなかったのか、そうでないなら最初からオリジナル曲にすればよかったじゃん…とは、思わなくもありませんでした。

 ではまず『華やかなりし日々』から。
 冒頭のウォリスキー邸のパーティーで、ジミーがジョセフィンのお尻を触っていてジョセフィンにイヤがられるというかはしゃがれているのに私は最近気づいたのですが、この頃からちゃんとやっていたのですね(^^;)。
 ロナウド登場も、パーティーのアンサンブル終了からちょっと間を取って拍手が入れられるタイミングになってからの収録でよかった。私はここで拍手をしてからオペラで覗いて「うん、今日も綺麗」とか確認して、ニックへのウィンクまで見てからオペラを下ろすのですが、ウインク収録は角度がちょっと残念だったわ。

 ロイの乱入シーンについては大劇場バージョンなワケですが、ここでニックってロイを身を挺して止めていたりしたんだ…! まったく記憶にありませんでした(^^;)。

 そしてオーディション場面に移って…差し替え楽曲にがっかりするわけです…ガールズたちは完全に謎の口パクになっちゃってるし…(ToT)
 ジーグフェルドがフォーリーズのプライドを歌うときに、ジュディとポーラがぎゅっと手を握り締めあうのがツボだったのですが、この頃はまだやっていなかったんですね…!
 しかし楽曲差し替えはBGM使用にも通じますし、場面のブリッジ音楽に使われていた部分も差し替えなので、はっきり言って舞台リピーターとしては気持ち悪いこと甚だしい…!!

 フローレンツの事務所を訪ねたロナウドが「スポンサーにならせていただきたいのです」と言うときにさもビジネスマンふうにネクタイに手をやるのが好きなのですが、この頃はまだやっていないのだったか…!

 「スキャンダル」レビュー場面、ここへきてなお日々進化しているあゆみ先輩のヘディですが、調子っぱずれぶりもさることながら、ダンサーたちに姿を隠されちゃってからの「ちょっと!」のタイミングのずらし方が、今の方が圧倒的にいい。すごいよなあ…
 ロナウドとジュディの銀橋では、ジュディに「愛人になるのはお断りよ」と言われて一瞬天を仰ぐロナウドが好きなのですが、これもこの頃はしていないのだった…

 ところで以前から私の邪眼ではロスは警部のお稚児さんにしか見えず(^^;)、なんか最近では警部に信頼されているアーサーに妬いているんじゃないの、とすら思っていたのですが、この頃のロスは不通にアーサーに尊敬のまなざしを注いでいるように見える…ううーむ…

 ビリーが置いていった新聞からジュディの消息を知ったアーサーが暗転になるまでに笑顔を浮かべている、というのは私は最近ツイッターで知ったのですが(ヒドい)、ちゃんとこの頃からやっていたのですね…

 レッスン場面、「たるんでるんじゃない!?」に「怖っ!」って感じで肩をすくめるロナウドさんがギリギリで映っていない…しょぼん。
 ジュディを夜景スポットに連れて行ったときの「どう?」って感じのドヤ顔も捉えられてない!(ToT)
 キスの前の鼻が触れ合うととろも、カメラが微妙に正面じゃないのとこの頃意外とまだそんなに間を取っていないのとがあいまって、なんかすっごくあっさりしている…残念。

 ジュディの楽屋でのポーラとのいちゃいちゃ(笑)も演技が薄い!
 訪れてきたアーサーかポーラに対するペコリ、もない! 残念!!

 しかし「ル・サンク」と台詞が違っている「先日は失礼しまたね、私はこれで失礼しますよ」のアタマの悪い「失礼」2連発はこの頃すでにそうだったのか…(今「代々伝わるロシア貴族」と言ってしまっているところはこの頃はちゃんと「代々続くロシア貴族」と言っているのだが…)

 ジュディが落としたロナウドの花束のカードはこの時床に立って落ちた! だったらアーサーが拾いに寄るのもおかしくないよね…奇跡的だわ。

 初日直前、ジュディを抱きしめて「愛している」というあたりのロナウドの芝居が、今の方が全然いい…!

 東宝は大劇場より気持ち舞台が小さいので、初舞台生が抜けても意外に保つかなとか思っていた初日場面ですが、こうして観ると密度が全然違う…! 恐るべし。
 楽曲の差し替えはここでもしょんぼりものですが、モチモチのソロとかがイキでよかったよ…
 最後のロナウドさんの鼻歌は無音になっていました。いっそそれでいいさ…

***

 ショーは…実況CDとは同じ日なのかな? CDではプロローグ早い!早いよと思いましたが、DVDはスウィング感とか後ノリ感とかテンポとかがちょうどよく聞こえました。
 ハスラー場面は大空アングルがあるなら全体は基本的に引いて撮るべきだって…! ギャンブラーたちが肘ついてカウンターにザッと並ぶところが映ってないやんけ!!
 ラメントは初期はセリ上がっていませんでしたが、ここではすでにセリ上がり。
 ロケットも人口密度が今見ると圧巻ですが、映像にするには照明が足りない分、流れ星から大階段板つき、への美しい流れが終えていなくて残念。これは東宝でなくなっちゃっただけにDVDに残しておいてほしかった…

 フィナーレも、ザ・スターとザ・レディのデュエットダンスを邪魔しないようにひっそりと降りてくる黒燕尾の紳士たちが素敵なのに、そこも映っていない…(ToT)

 そしてパレード、銀橋でテルが振る扇に対する大空さんの返答フリフリがまったくない! 今やすっかりデレてフリフリでやってるのに!!
 ことほどさように時間というものは不思議な作用をするものなのだなあ…!

***

 まあ総じてライトな芝居なので、たとえば『カサブランカ』とか『誰鐘』に感じたような、現東宝公演とDVD収録大劇場公演とか全然違う…!という感じは少なかったかな。
 同封のDVD使用説明のカードの写真が素晴らしいのは特筆ものでした。

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『サンセット大通り』

2012年06月20日 | 観劇記/タイトルさ行
 赤坂ACTシアター、2012年6月20日マチネ。
 ジョー(田代万里生)は売れない貧乏脚本家。借金取りから追いかけられて、逃げ込んだのはサンセット大通りにある荒れ果てた屋敷。そこには世間からすっかり忘れ去られた無声映画の大スター、ノーマ(安蘭けい)が執事とともに暮らしていた…
 作曲/アンドリュー・ロイド=ウェバー、脚本・作詞/ドン・ブラック、クリストファー・ハンプトン、演出/鈴木裕美、修辞・訳詞/中島淳彦。1950年のビリー・ワイルダー監督による同名映画をミュージカル化し1993年ロンドン初演。オリジナル演出による日本初演。

 映画は未見で、だいたいの設定しか知らないで観に行きました。ターコさんがやりたがっていた役だとも聞いていたし、今は忘れ去られた往年の名女優、の役なんだからトウコさんでは若すぎないかと思っていましたが、どうしてどうして、とってもよかったです。
 私は常々思っていたのですが、宝塚OGって、特に元男役は痩せている人が多いので、女優としてはむしろ貧相に見えることがあると思うのですよ。ロマンスのヒロインを務めるにはふくよかさとかやわらかさとか色気とか女性らしさとかが必要だと思うので。ときどきそういうのが似合わなくてつらいと感じることが私は多くて。
 でもトウコさんのノーマはまずそれがいいほうに出ていたと思います。年をとって肉が落ちてしまった老境の女に見える。顔が細いのも頬がこけた年とった女にちゃんと見える。
 そしてあの自在の声色でちゃんと老けた声を作れていて、それがナチュラル。そしてそれがジョーとの生活によって華やいで若やいできゃいきゃいしたものに変わっていく様子がちゃんと表現できている。それもすごい。
 そして終始ぶっちゃけイッちゃっているギラギラした眼をしていて、それでもいじらしくチャーミングに見えるノーマを現出させる演技力がある。とてもよかったと思いました。
 逆に言うと、本当にノーマと同年代の女優さんが演じていたら、私はやっぱりイタいと思ってしまって、物語にのめりこめなかったと思う。甘いと言われればそれまでだし、映画版だってロンドン版だってブロードウェイ版だってそれなりの年齢の女優が扮していてそれが素晴らしいのでしょうが…
 私にはまだそこまで老いに対する心の準備ができていないのかもしれません。ノーマは50歳とされています。私だってそう違わない。デミル監督(浜畑賢吉)はノーマの親のような歳でも現役として働いている。でもそれは男だから、そして真の才能があったから。あるいは世渡りの上手さがあったから。この時代の女にはそういう選択肢はなかなかなかったということなのでしょう…

 プログラムによれば、あるいは原作映画がフィルム・ノワールだからか、本当はもっとノーマは狂気以上に凶暴さがあるキャラクターで、物語にはホラーめいたものが漂うはずだったのかもしれませんが、私にはそんなふうには読み取れませんでした。私はノーマに肩入れしすぎなのでしょうか。
 でもジョーがまたとてもよくて、これは確かにノーマの物語でジョーはただの狂言回しにしかすぎないのかもしれないけれど、ほとんど出ずっぱりの大変な役だし、これまたちゃんとしていないと成立しない役で、田代くんは『ボニー&クライド』も健闘していたと思うけれど、これで本当に一皮向けたんじゃないかなあ。
 才能がないわけではない、情熱もないわけでもない、でもなかなか上手くいかなくて、崩れ落ちるギリギリのところにいる、ごく普通の青年。もう純粋なままではない、でもグレて堕落しきってしまっているわけでもない。そんな冒頭の普通さがとてもよかった。
 それが、ひょんなことからであったノーマに絡め取られていくわけですが、プログラムにあるような、命の危険を感じて話を合わせるとか、怖いもの見たさでつきあうみたいなニュアンスは私は感じませんでした。
 なんかもっと純粋に、知識としてしか知らなかった大女優に会えて舞い上がって、興味もって、おつきあいして、甘えて…みたいな、人間としての優しさが見えた気がしたのです。最初っから打算ありきだったわけではないように見えたところがよかった。その方が、その後の展開が効くと思えたからです。

 一幕ラストに私は泣きました。
 今までふたりはひとつ屋敷に暮らしながらも、その関係に名前をつけないできていました。脚本に手を入れるただの共同作業者、ただの同居人、ただの気前のいいパトロネスとその被保護者、ただの友達…そのどれでもあってどれでもない、生ぬるい関係。
 でもここでノーマは一線を越え、ジョーはそれに応えてしまった。私はそこに、パテイ・ルポンをお姫様抱っこしたケヴィン・アンダーソンに見えたという「情熱のスイッチが」入った瞬間、「男が女に向ける欲望」、までは見なかったけれど、でもふたりの関係が一歩決定的に進み、かつその先に悲劇が待っているようにしか思えず、ノーマとジョーふたりとものために泣きました。

 何故私は泣いたのでしょう。
 何故ふたりの幸福な未来を想像できなかったのでしょう。
 ここでふたりは男と女になった。愛を交わした。ノーマの狂気や妄執をジョーの健やかな若さが癒す未来だって夢見てもよかったはずなのに、私にはそんなふうに考えることができませんでした。
 そしてそれが正しかったことを私は二幕冒頭でまざまざと見せ付けられます。
 主題歌を歌うジョーはすでにノーマの狂気に感染していました。もちろんメイクのせいもある。あんなに嫌がっていたあつらえの服を無造作に着るようになっていたこともある。
 でももうその目が違いました。暗く荒んで、やさぐれていました。セックスは愛を交換する行為なのかもしれないけれど、お互いの魂の毒もまた移し合うものなのです。
 変拍子の大曲が怖ろしい破滅の予感を掻き立てて見事でした。

 なのでわからなかったのはベティ(彩吹真央)です。というか単純にミスキャストではあるまいか。
 トウコもユミコも宝塚の元男役という点で同じです。同じ枠にいる女優なのです。しかも10も学年差があるならまだしも、そんなにないじゃん。下手したらユミコだってノーマは演じられるんですよ。
 でもベティはノーマの対極にあるべき存在なんだから、同じOGならアスカでもミホコでも、元娘役を起用するべきではなかったのでしょうか。
 要するに丸顔のもっと若く(あるいは若く見える)キラキラした女優にやらせないとダメですよ。これは演技力がどうとかいう問題ではありません。純粋に外見の問題で。そしてニンの問題で。
 ユミコはちゃんとしていましたよ。でもだからこそ真面目で地味で中途半端な歳の女にしか見えなかった。ジョーは彼女に、ノーマにはない若さや若さからしか出てこない輝きを見、かつての自分にあった情熱や才気を見るのでしょう? だから惹かれるのでしょう? その説得力がない。
 そしてプログラムによればベティもまた自分の野望のためにジョーを利用した…ということになっているようですが私には全然そんなふうには見えませんでした。確かに婚約者持ちなんだけれど、それとは別にハンサムで話が合う男性とであってときめき舞い上がってしまっているだけの普通の女の子に見えました。
 彼女にもまたずるいところがあったのだ、とした方がいいのか私には実際のところちょっと判断ができないのですが、とりあえずそういうことなら演出も演技も足りなかったと思う。
 そしてベティみたいなキャラクターはヒロインに対抗する役どころとしてのみ描かれることの多い、逆に言うと軽視されがちなキャラクターだと思いますが、本当はそんなふうに扱ってはいけない存在だと思うのですよね。
 観客の多くはノーマにはなかなか自己投影はできない。感情移入するのはむしろベティの方にだったりするでしょう。だからステロタイプにしてはいけないと思うんだよなー。
 ジョーがこのふたりの間でフラフラし、かつどちらもダメにして終わる(もちろん自身の人生も)、というところがキモの物語なのだと思いますからね、これはね。

 そう、ジョーは確かにベティにも惹かれていました。そしてノーマの家から出て行こうともしました。
 でもそれはノーマと別れてベティとやり直そうとかそういうことではないんですよね。彼はいろいろひっからまって二進も三進もいかなくなってしまったので、全部ぶちまけるだけぶちまけてパアにして逃げようとしたのです。
 男がとるこういう後先考えないろくでもない行動は、ヒステリーを起こした女のそれの比ではありません。本当にろくでもない結果にしかならない。それでもそれをやるのが男というものです。
 そして女はいろいろなものを失い、当の男は命すら失うのです。でもそこに軽重はない。

 ジョーを射殺し、錯乱したノーマは女優の最後の生命線でもある台詞すら怪しくなります。でも執事のマックス(鈴木綜馬。よかった!)に「撮影ですよ」と言われて正気に返ります。それは彼女にとっての正気、ではありますが。
 そのときのノーマは、たまたまショールが頭にひっかかっているように見えました。それは彼女が演じたがっていたサロメがまとうヴェールにも見えました。
 それが、彼女がゆっくりと階段を降りてくると、ショールが外れ、その下に真っ白の白髪頭が現れるのです。その衝撃たるや…!
 演出だったのか、と私は震えました。髪は女の命と言われますが、なんと残酷な…!
 白髪頭で、眼には今までとはまた違った光をたたえて、ライトの中に立ち尽くすノーマ…幕。

 ベタですよ。通俗的ですよ。でも泣きました。
 全体に芝居を重視した作りで、でもアンサンブル楽曲もたくさんあって、舞台としても上出来だったと思いました。

***

 残念だったのが、後列にいた無神経な観客のこと。どうやら田代くんファンの若いお嬢さん三人組でしたが、わざとらしく上げる感慨の声や言葉がことごとく的外れで悲しかった…てかそもそもうるさい、邪魔。観劇マナーがなっていない。思わずもれる感嘆の声、とかじゃないんだもん。わざとらしい。
 ノーマのいじらしさ、哀れさを笑う笑い方はそういう嘲笑いとは違うの。彼女のドレスは確かに派手だけれど、それは時代遅れのオートクチュールを着ているからなの。お笑いのちんどんやとは意味が違うの。
 失笑とか、シニカルな笑いとか、笑った後に嘘寒く感じることとか、そういうことが要求されているの。そういう鑑賞ができないのならせめて黙っていなさい、馬鹿がバレているだけでなく周りの迷惑です。
 一体何を観に来ているんだ、何をしに来ているんだ。悲しいね。


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