駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇花組『Dream On!』

2019年05月31日 | 観劇記/タイトルた行
 宝塚バウホール、2019年5月26日11時。

 「夢」をテーマに、第一部では宝塚レビューの歴史をメドレー形式で、第二部では歌とダンスで宝塚歌劇のショーの魅力に迫るショーケース。作・演出/三木章雄、作曲・編曲/吉田優子、竹内一宏。

 『New Wavw!』に続くバウの若手ショー企画で、全組回すのだろうな、と思っています。企画としてはもちろんいいと思うのだけれど、またミキティかよ、とは思わなくもありません。こういう企画こそ若手演出家に任せた方が、相乗効果で新しいものが生まれる可能性も高まるのではないの…?と思わないではないからです。ただミキティはあまりにマンネリすぎてもう本公演のショーを任せたくないとも私は思ってしまうので、なら、仕方ないのかな…とも思います。残念ながらクリエイターは、クリエイターだからこそ、老いるのですよ…
 あと、これも最近よくある後出し企画で、発表当時はあかちゃんとつかさっちのダブル主演! バウ若手企画! ワクテカ! みたいだったのに、マイティーが特別出演、せのちゃんとはなこも、そして先行画像もポスターもマイティーがどセンターなんだ…!? と、違和感というか、若干のしょんぼり感を感じましたよね。自分が事前に手配できていたのが前半の特別出演パターン回だけで、当初は、私はせのちゃんもはなこもわりと好きなのでラッキー!とか思いましたが、実際に観てみると、これは後半が観たいよ、というかそっちこそが本筋、企画の真髄だろうよ…!と思いました。
 今後各組回るとして、同様のことを行うつもりなのでしょうか。やらないと、またじゃああのときはなんだったんだ、ってなりそうだからアレだけど、ぶっちゃけ必要なかったと思いますよ? 特出の生徒にはお稽古の負担だし、劇団は客入りを心配したんだろうけれどそれは生徒とファンを馬鹿にしているし、たとえ集客が悪かったんだとしてもその赤字は劇団が謹んで背負うべきものです。それでも若手を育てる、次代につなげる、そのためのバウホールでしょう? 姑息なんだよ、やることが…
 でも、もちろん生徒はがんばっていました。また、パラパラした印象がないこともなかった『NW!』に比べると怒濤のメドレー攻撃で、あっという間に、楽しく観られたかな、という印象はあります。

 では、以下、主に生徒の感想を。
 スカステニュースでお稽古場映像を観たときから、なんか娘役の活躍の場がなさそう、…いうか男役比重が高そうだな…?と思っていましたが、なんのことはない人数の比率がそもそもそうで、娘役は6人しか出演していないのでした。
 春妃うららちゃんはもちろんわかる、そして前回公演くらいから咲乃深音ちゃんが一度識別できるようになるとそら特徴的な顔なのですぐわかるようになり、雛リリカちゃんはセンター場面ももらっていましたが、顔はホント糸月雪羽ちゃんが超好みで、とにかくオペラで追っかけちゃいました。詩希すみれちゃん、愛蘭みこちゃんも可愛らしく、識別できるようになった気はしましたが、常に端のシンメで使うのではなく、もっとそれぞれフィーチャーしてほしかったかなーとは思いました。ま、みこちゃんは「ブルー・ハワイ」でヒロインでしたが。
 男役陣は、やっぱマイティーが出ちゃうと格上スター感が出ちゃうんですよ。そりゃ今や組の押しも押されぬ3番手スターさんですもん、あかちゃんもつかさっちもそこは譲っちゃうよ、と思いました。でもそれじゃ、たとえばイシちゃんが本公演に出て主役を持っていくみたいなもので、他のスターのファンは納得しがたいじゃないですか。そういう据わりの悪さを私は感じたので、後半が観てみたかったな、この公演はそちらで評価されるべきだな、と思いました。
 とはいえあかちゃんの美声には磨きがかかっていて、「望郷の琵琶歌」も「アマール・アマール」も素晴らしかったし、つかさっちはやはり「六本木心中」のパンチが圧巻でした。せのちゃんの歌が良くなっていたのにも感動しましたし、はなこちゃんはこういうとき意外におとなしく綺麗にまとめてしまうタイプなのかな、そこが課題だぞでも期待してるぞ!とか念じたりしました。
 さなぎがさすが上級生、さすが座長の艶やかさ華やかさで、素晴らしいなと思いました。そして女装は意外や千幸ゆきが一番よかったですよ! 男役はやはりウェストを絞ることに普段関心が行っていないんだと思うので、ボディスが美しい砂時計形になっていないと仕方ないなと思いつつ私はがっかりするのですが、タンゴの女Sは体型が美しくもちろんダンスも素晴らしく、これまたさすが上級生…!と震えました。イヤせのちゃんもはなこも可愛いし綺麗でしたけれどね?
 あとはやっぱり侑輝大弥の下級生ながらすでにして充分花男っぽい感じ、同様に涼葉まれくんも…!に、センサーはビンビン反応しましたね。というかもうそういうピックアップなんだけれど。マイティーが歌う「MARIA」に乗って侑輝トニーと涼葉マリアが踊るとか、おかしいっつーかおもろいっつーかおいしすぎるでしょ!

 フィナーレ前くらいの場面の、金とブロンズ、みたいなお衣装が今後は各組に引き継がれ『DO!』のイメージになっていくのでしょうか。ぶっちゃけ路線は95から100なんだとしても、97,98,99あたりにももちろんいいスターはたくさんいるんだし、各組上手く回してほしいなーと思います。次の組の発表が楽しみです。月ならるねっこやれんこん…? イヤもうその下でやるのかな…? 若手の育成とパワーアップ、期待しています!


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宝塚歌劇星組『アルジェの男/ESTRELLAS』

2019年05月25日 | 観劇記/タイトルあ行
 梅田芸術劇場、2019年5月4日15時(初日)、5日12時。
 相模女子大グリーンホール、12日12時。
 札幌文化芸術劇場、22日16時、23日11時(前楽)。

 第二次大戦前、アルジェリアがまたフランスの植民地であった頃。総督府の置かれたアルジェの街に、ひとりの若者、ジュリアン・クレール(礼真琴)がいた。孤児として育ち、仲間たちと悪事に手を染めながら、暗くみじめな青春を送っていたジュリアンは、いつの日かアルジェを出てパリへ渡り、日の当たる場所へ躍り出るという大きな野望を抱いていた。革命記念日の夜、ジュリアンは仲間のジャック(愛月ひかる)から、アルジェリア総督ボランジュ氏(朝水りょう)の懐から財布を抜き取ることができるか否かの賭けを持ち込まれる。腕に覚えのあるジュリアンは、恋人のサビーヌ(音波みのり)が止めるのも聞かず、賭けに応じるが…
 作/柴田侑宏、演出/大野拓史、作曲・編曲/寺田瀧雄、入江薫、吉田優子、振付/峰さを理、平澤智。1974年に鳳蘭主演の星組で、83年に峰さを理主演の星組で、2011年に霧矢大夢主演の月組で上演されたミュージカル・ロマンを、次期星組トップスター就任が発表された星組2番手男役・礼真琴主演の全国ツアーで再演。

 月組版の感想はこちら、配役発表時の感想はこちら
 大好きな演目なので喜び勇んで初日の手配をし、腰軽く札幌を追加しました(笑)。ここにひっとんが来ることになろうとは正直意外でしたが(というか娘役が粒揃いすぎだろう!)こっとんコンビも楽しみです、プレお披露目も初日から行く気満々です。
 それはともかく、まずはプログラムの大野先生のコメントが熱くて、こちらも胸アツになりました。初演に立ち返ろう、初演当時の同時代性をもう一度再現してみよう、という意図はイイ、と私は思いました。こっちゃんは栄えある95期の主席ですし、押しも押されぬ星組の御曹司ですが、男臭く泥臭い芝居もできるタイプです。そしてジュリアンの、ここから抜け出したい、這い上がりたい、ここではないどこかへ行ってそこで一花咲かせたい((一山当てて…いや、一旗揚げて、か?」byボランジュ)…という想いは、月組上演時より今の時代の方がよりヒリヒリ(ピリピリ? それはショー)伝わるものなのではないかな、と思うからです。期待して席に着きました。
 座組やスター比重の兼ね合いもあるのか、全体に脚本がよりシンプルに、そして骨太になり、たっぷりと間を取れる緊密な芝居ができていて、いいな好きだな、と初日からしみじみ思いました。演出もまた細やかで素晴らしい。全ツ仕様でセットや装置はいたって簡素だし、暗転もカーテン前芝居も多いんだけれど、ブツ切り感がまったくないのは、前の場面の芝居が緻密で余韻が残ること、ブリッジ音楽にパワーがあること、照明などのつなぎが素晴らしいことなどが勝因なんだと思うのです。盆もセリも使わなくても芝居は打てる、という、演劇の基本、舞台の根本を感じる舞台でした。

 もうなんてったってプロローグがいい、というか開演前の音楽がもう素晴らしい。そこにこっちゃんの低く甘く静かな、ちょっとかすれたセクシーヴォイスでの開演アナウンス、スルスル上がる幕、港の突堤を思わせる階段と星空、その空の色が変わるだけであとは何も変化がないままに、たっぷり聴かせる主題歌のひとつ「ジュリアン・クレール」のメロディの一節…たとえばテレビでやったらもうチャンネルを変えられてしまうかもしれない、けれど劇場は観客を軟禁しているので(と大空さんが『どうぶつ会議』を踏まえてノマドで言っていたの、めっちゃ的確でした)観客は舞台に集中せざるをえない。ただ色を変えるだけの星空に見入ってメロディに聴き入っていたら、もうこの時代のアルジェに取り込まれているのです。すごい。
 こういう演出、なかなかできないと思うのです。尺の取り方が贅沢で、でもまったく冗長ではなく、無駄はなくて完璧に意味がある。すごい。
 ああ、脚本が読みたいなあ。三演のときにはまあまあ話題になった、愛ってヤツが俺の胸をガンガンと、みたいな台詞がなくなっていましたが、あれはあのとき追加された台詞だったのでしょうか。だから騒がれたのかなあ?
 でも、なくなっても、同じようなことが伝わるこっちゃんの演技だったかな、と思いました。それこそジュリアンの「ウォーター!」みたいな瞬間に、こちらの胸が震えました。
 まさおのときはあったジャックのソロがなくなって、ジュリアンとの愛憎や仲間、ライバルとしてのバランスもまた少し変わって見えたのもおもしろかったですね。もちろん演じているのがこっちゃんより上級生の、これが専科デビューの愛ちゃんだからこそ、の部分も確かにありました。そういう改変もとてもよかった。
 初演のアンドレ(極美慎)はもっと下男っぽい役どころだったと聞いていたのですが、アナ・ベル(小桜ほのか)の父親に世話になった元軍人、みたいな設定がなくなった他はほぼ前回のみりおアンリを踏襲していたように見えました。スーツだし、そんなに身分違い感はないんだけれど、でもシャルドンヌ夫人(万里柚美)からしたら単なる使用人で姪を任せられる相手ではない、ということなんだろうなあ…
 彼女が言う「女の幸せ」はいいんですよ。これは昔の時代の古風な物語なのだし、彼女はそういうふうにしか女性の、というか人間の幸福を考えられない浅薄な人間なのである、ということを表しているにすぎないのですからね。というか彼女がヘンに焚きつけなければ、ジュリアンはもっと優しいままにアナ・ベルに対したかもしれないのです。悪党というより下衆な人間しか意外と出てこない(ボランジュ夫妻は、まあ違うかな)、というひどい物語なのでした、これは。ああ、ひどいよせつないよ…

 とにかく私は変わらず大っ好きな話です。ドラマとしても古びていない、と思いました。すごいよなあ、柴田ロマン。
 ただこっちゃんはもう『赤と黒』ではないかな、と思いました。むしろ愛ちゃんやかりんちゃんで観たいね! というかそこからインスパイアされたお話だとしても、もう全然別の作品ですよね、ホントすごい。あ、あと、三演時にはすごく感じたプロローグのWSS味も、今回はそれほどでもなかった気がしました。これは私が本物の『WSS』(と言っていいであろう!)の観劇を経たせいでもあるのかもしれません。そもそも振付も変更されているようですしね。

 さて、こっちゃん。歌えて踊れて芝居ができて、本当になんでもできるし、そんなに小さく見えないときもあるし、期待の次期トップスターですね。ギラリとした目の、孤児でワルの、野心にあふれた、愛を知らない青年に、きっちりなりきってくれていたと思います。
 しかしジュリアンとサビーヌはでは、周りからカップルと目されているしお互いもその気がないわけではないのだけれど、サビーヌが本気じゃないなら嫌とつっぱりきっていて結局は実はプラトニックなカップル、なんでしょうかねえ。でもなあ、のちの「あれはアルジェ時代の女だ」みたいな言い方も蓮っ葉(って男性には言わない言葉かなあ?)でイイんだよねえ。あ、愛ちゃんジャックといーちゃんイヴ(音咲いつき)はちゃんとやることやってるカップルに見えました(笑)。
 朝水くんのボランジュ総督がまた大健闘でした。当初はオレキザキか、この振り分けならかなえちゃんだろうと思ったんですけれど、小男に見えかねない線の細いおじさまなところがむしろいい。こういう人との怒鳴り合いだからこそジュリアンは勝てる気がしないのだし、彼がのたれ死にしかけたことがある、泥にまみれたことがあると言うなら自分もやってみよう、と思えたのでしょう。こんな大きな役をやるのは初めてかと思いますが、色気と大人らしさがあって、とてもよかったんです。
 総督もまたジュリアン同様決して恵まれた生まれではなく、そこから這い上がって今の地位を手に入れているのだというようなことが語られますが、ルイーズ(白妙なつ)はでは名家のお嬢さまだったのかなあ。そこにも何かドラマがあったんでしょうかね、最初は愛のない結婚だったのかもしれません。でもこの夫婦にはそこから本物の愛情が育まれたんですよね。
 そして銀婚式を迎えるような夫婦にしては、娘のエリザベート(桜庭舞)は幼い。遅くにできた娘を溺愛し、娘は実にすくすくのびのび育っているということですよね。のちに総督が娘に向かって、妻の言うことを「お母様の言うとおりだ」という言い方をするのが、本当に好きです。この表現だけで見えてくることがたくさんありますよね、ホントすごい脚本です。
 ボランジュにはジュリアンの酷薄さや、彼が愛を知らないこと、エリザベートを愛してなどいないことが見抜けなかったはずはありません。でも娘と結婚させようとした、娘の愛がジュリアンを変えると期待し、信じていたのでしょう。彼はこの物語のなかでは珍しく、いい人間なのでした。
 総督の言う「野望おおいにけっこう、だがその手段は正当でなければならぬ」といった台詞は本当に正論だと思います。目的のためなら手段は正当化される、というのは詭弁というか、ずるくて嘘で駄目なことだと思うのですよ。今大劇場でやっている『オーシャンズ11』は、いくらピカレスク・ロマンだからといって私はそこがモニョるのです。相手が犯罪スレスレの悪事を働いている強欲ホテル王だからって、こっちもタタキコロシ以外ならなんでもやって復讐していい、っていうのはやはり、理屈としてはある程度成立しているのかもしれませんが人としてどうよ、と思ってしまうのです。証券詐欺は夫が自分に隠してやっていたことなんだから自分にはなんの弁済義務もないのに、指輪を売ってまで被害者に謝ろうとしたテスが、手段や過程を重んじるごく良識的な人間のはずのテスが、喜べる、あるいは許せる行為だとはちょっと思えない。そこをつついているとそもそも崩壊する話だし、宝塚歌劇だから愛あればこそ!でまとめあげちゃっていて、それはそれでラブラブハッピーエンドでいいんだけれど、でも、モニョる。だから、きちんと勉強して修行して一歩一歩階段を上がることを勧めるボランジュは正しいし、それを受けて立ったジュリアンは偉い、ダニーなんかより全然いい男だ、と私は思うのです。
 ただ、ジュリアンは本当なら、ボランジュから、この夫妻から、あるいはその娘エリザベートから、つまりこの家族から、もっと多くのことが学べたはずなのです。それは愛です。
 ボランジュに「あれの良さはおまえにはわからん」と言わしめたルイーズの優しさや賢さ、愛情深さ、夫妻の愛情の細やかさ、夫妻が愛し慈しみ育てている娘の賢さや心意気…絶対に身近に感じられたはずなのに、ジュリアンは目を向けなかったのです。上しか見ていなかったのです。その狭量さが結局は彼を破滅に導いたのです。彼は薔薇をつかんで、握りつぶしてしまった。でもそれでは薔薇は駄目になってしまうのです、そのことが彼にはわからなかった…人はお金や権力や地位や野心だけでは生きていけないものなのです、これはそんなことを描いたドラマなのです。その狭量さ、もっと言えば心の貧しさはジュリアンの生まれに起因するもので、それこそ「俺のせいじゃねえ」のかもしれません。だからこそ哀れで、かわいそうではあります。
 攻めて彼らもっと時間が与えられていたら…しかし、何もかも、ある意味で自業自得なのでした。
 ボランジュ総督についてパリへ渡り、着々と立場を固め、周りからエリザベートの夫にボランジュの婿にと見られていることに気づいていて、けれどジュリアンはエリザベートのことはまだまだ子供でまだこの先どうとでもできると思っていたのでしょう。そんなときにシャルドンヌ公爵夫人の夜会でアナ・ベル(小桜ほのか)に出会う。
 当初は本当に気の毒に思い、やや気まぐれかひとときの暇つぶしではあったのかもしれませんが、なんの気なしにごく優しく応対したのでしょう。口にした煙草に火をつけるのをやめるのがちゃんと紳士ですよね。ちょっと人疲れして、なんの利権も絡みもない他人とのささやかなひとときを持ってみたいだけだったのかもしれません。
 しかし彼女は公爵夫人の姪だった、公爵夫人は彼女を幸せにしてくれる男のためならなんでもすると言っている…ここで、こういうふうに水を向ける公爵夫人の悪さを、私はジュリアンのために憎みました。こんなふうに言うから、ジュリアンも反応しちゃうんじゃないですか。でも、そう言われて、これは利用できると思い至れてしまう卑しさが、もうジュリアンの中には立派に巣くってしまっていたのでした。
 のちにアナ・ベルの私室を訪れたときにも、頭を下げるアンドレに対して挨拶を返しつつも一顧だにしない。自分の上昇志向に関係のないものには一切の注意を払わない冷酷さは、優秀さより心の貧しさを思わせます。ジュリアンには人の心がわからないのです。真心には真心を持って返さないといけないよって、この間まであなたは言っていたのにフロリアン…!
 巡り巡ってエリザベートを落とせて(教会前の場面での「おひとり? …あら、ごめんなさい)という台詞の絶妙さよ!)、これからというときに再度ジャックが現れて、もう少しで手に入れられそうな光り輝く未来を邪魔されてなるもんか、と拳銃を手に待ちあわせ場所に行ってみたら、ちょうどサビーヌがジャックを撃ち殺したところだった…
 ここの、先に撃たれたジャックだけを見せて、そのあと撃ったサビーヌにライトを当てて、そこにジュリアンが出てくる見せ方の素晴らしさよ…!
 ジュリアンがアルジェで「愛はどこにいる」と歌っていたときからずっと、はるこサビーヌは「私はここよ?」というまなざしでジュリアンを見つめ、そばにいました。でも彼の瞳に自分が映っていないことにも気づいていて、戯れのキスなんか要らなくて、寂しくそっと離れていっていたのです。愛のための場所を空けておいて、と言って通じないのなら、せめて自分がそう言ったことだけでも覚えていて、と繰り返して…
 ジュリアンは愛がなんなのかわからないままに、サビーヌが言っていることの意味がよくわからないままに、それでも心の隅に場所を空けて、けれど空けたことすら忘れて、パリでの修行に余念がなかったのでしょう。そしてサビーヌはジュリアンを追ってパリに出て、けれどひとりで生きてはいかれず、ジャックと暮らしながら踊り子として生計を立てていく…
 はるこの名演もあって、今回のこっちゃんジュリアンは「愛ってヤツがガンガンと」の台詞がなくても、やっと愛というものがわかった、自分が愛されていることがわかった、大事にしなければならないものが何かわかったのだ、ということが表せていました。ジャックを撃って放心状態のサビーヌを立たせ、抱きしめたときにジュリアンは、心の隅に空けておいた場所にサビーヌがすっぽり嵌まったことに、やっとやっと気づいた、これが愛だ、ウォーター!…って感じがしました。だからこそ、でももう遅いだろう、という予感のなかでふたりは逃げ出し、アルジェに向かおうとし、そして…
 アンドレが舞台に出てくるのがかなり遅くて、ジュリアンが何発も撃たれてたたらを踏むところが見せ場になっているのがまたいかにもでイイですよね。そして拳銃を手に呆然と出てくるアンドレと、ジュリアンにすがって泣き叫ぶサビーヌと、で、幕…素晴らしい!!!

 サビーヌにはるこを配したことがまた絶妙でした。サビーヌは精神的にジュリアンよりお姉さんで、でもそれは実年齢とかではなくて男の子より女の子の方が早く大人になる、程度のことで、実際に中の人は四学年も上級生ですが変に姉さん女房めいたことにもならず、年増感もなく、とても初々しくて新鮮なヒロインっぷりでした。芝居とダンスはいいんだからあとは歌だけなんだけれど、そうだ新公ヒロインもバウヒロインも歌がアレだったんだよ…と初日はさすがに呆然としましたけれどね、あまりに下手で…(><)
 思えばあーちゃんだって歌は新公時代は惨憺たるものだったんですけれど、そこから場数を踏んで、もちろん本人も大変なレッスンをしたり努力したりするんでしょうし、今ではまったくあぶなげないです。でも路線でない娘役は歌う場がほぼなくなります。場数の踏みようがないんですね。まりもだって歌は全然上手くなかったけれど、いかにも自信なさげに歌うはるこは本当に痛々しくて、ここは開きなおらんかい!とも思いましたし、ここをこそケアしてあげてよ劇団!と思いました。2日目はだいぶマシになっていたので、慣れだよ場数だよと念じてはいましたけれどね。
 札幌ではほぼほぼ危なげないところまではいけていたかと思いました。
 生腹はさすがで、男役にゴロゴロ運ばれる振りがなくなっていたのは残念でしたが、わりと踊りがスポーティーなのもツボでした。こういうクラブの踊り子なんて客を取らされてるに決まってるんだけれど(なんせヒモがジャックだし)、汚れきっていない感じがまたサビーヌらしくて良かったです。
 単なる人事都合で降って湧いたヒロインだったのかもしれないけれど、はるこはそれに値する逸材ですよ。今後も大事にしていただきたいです。まあ幹部候補ってタイプではないかもしれないから、学年的にはこれが餞であってもおかしくはありませんけれどね。でも貴重な娘役さんですよ…!
 ジャックとのことは、馴れ合いでもなんでも、ある程度の情愛は湧いていたと思うんですよね。でも、ジュリアンへの愛は、もうそれこそずっと高く大きなものになっていて、絶対に絶対に汚されたくなかったのでしょう。だから撃った、殺した。自分が死刑になることも覚悟して。そして「ジャックとのこと、許してね」と泣き、最後に望んだのはたった一度のキスだけで、そして「憐れみは嫌」と言う女…悲しい、せつないよサビーヌ!
 そんなはるこサビーヌだからこそ、やっとやっとジュリアンが、心の隅に空けておいた愛のための場所を思い出せたのだ、とも言えるのだと思えました。
 物語としては、そりゃ悲劇で終わるに決まっています。私の親友は柴田ロマンのこういう、泣くのはいつも女、という形になるのが根本的に嫌いだと言います。まあね、わかるよ。確かにそれが古いんだとも思いますよ。そうじゃないドラマ、もっと明るく強くみんなが幸せになれるようなものも新しく作っていくべきだと思いますよ。でも、現状この古く悲しいメロドラマを越えられているものが残念ながら生まれていないんだと思うんですよね、だから柴田ロマンがこうも繰り返し繰り返し上演される… 

 そしてジャック! まさおはチンピラでしたが愛ちゃんはさすがのクズ! いやーもうたまらんかったです。股上の浅いパンツがまた素晴らしい、てかガタイが良くて押し出しがいいってのがいいんですよ、ジュリアンと両雄並び立たずって感じがすっごくするもん! 正しい!!
 ジャックのソロがなくなって、まさおジャックがきりやんジュリアンに抱いていたであろう愛憎を感じさせる要素は少なくなってしまったけれど、それで言ったら2番手格で出る上級生専科が下級生次期トップスターに思うところがないわきゃないわけで、そういうのもあいまって実に実にいいジャックだったと思います。男同士ってホントこういうところありそう、という感じ、というか。そういうの、貴重だと思うんですよね。
 「古い古い」って台詞! 「おまえは腕がいいんだろう?」という挑発! 「アルジェのシラミがもう一匹~」たまらん! 信用できるのかと聞かれて報酬の額による、と答えるクズっぷり! 依頼を受けて動いているくせして「頼まれたんで困ってる」という言い方をするクズっぷり! 「いい辻占だ」「こんな算盤、ガキだってできらあ」はーたまらん!! あとガチDV男っぽいとこね! 店の女主人にも平気で手を上げようとするもんね!! そこからのわりとあっけない死に様が、本当に劇的で、素晴らしいと思うのでした。

 そして私はエリザベートが大好きなんですよ、権高なお嬢様が大好物なんです。登場時のおしゃまさや再登場時の大人ぶり、たまりません。
「これが侮りでなくて何? これが辱めでなくて何?」
 はー、いい台詞だなあ…!
 教会前の場面でのジュリアンの様子がもう憎ったらしくてねえ! それこそエリザベートは、このときもまたジュリアンに侮られていることに気づいてもよさそうなものです。でも、両親の助言に自分の心を見つめてみて、愛に敗れることにしたんですよね。だから今度の「あなたを愛しています」は信じてしまう。そして本当に嬉しくなっちゃって、輝くような笑顔でほとんどるんるんとジュリアンに肩を抱かれて去って行く…
 アナ・ベルと結婚してシャルドンヌ夫人の後押しを受ける方が得策だったかもしれないけれど、ジュリアンはボランジュの娘を選んだのだと思います。その程度の義理は感じていたのではないかなあ。でもそれは全然愛ではないんですけれどね…
 でも、エリザベートはこのあともきっと立ち直ると思います。「私は、自分の夫は自分で探します」と言える女性ですからね。エリザベートは選ぶ、ではなく探す、と言っていて、それはジュリアンが金鉱を探すのと同じなんですよ。用意されているものの中からただ選ぶのではなく、自分の力で選択肢そのものを探していける。その姿勢、心構えは、結婚相手だけでなく人生そのものについて言えることでしょう。だから彼女は大丈夫、強く生きて幸せになれる、と信じたいです。なんせ命はあるのだから…!
 てかマメちゃんって謎ですよね…謎の組替えで、でも新公ヒロインをやらせてもらうわけでもなく、でも歌えるし踊れるからめっちゃ起用されている。どういうことなのこれは…
 あ、これまた柴田ロマンあるあるの「♪ジュリアンが~アナ・ベルと~」ってコーラスも大好物です!

 さて、一方で、命を奪われてしまったアナ・ベルです。
 前回の月組版では盆が回って奥へ遠ざかり、かつセリ下がりし、駄目押しのようにみりおアンリが歌って、アナ・ベルの入水自殺がこれでもかと描かれたんだと記憶していますが、今回はごくシンプル。それでもほのかちゃんの歌が絶品で、背中見せて震えているだけなのにかりんちゃんの芝居が熱くせつなく激しく、充分意味が伝わるんではないでしょうか。
 ピアノはツアーに本物が運べないので録音だそうですが、そもそもほのかちゃんが弾いたものの録音だそうで、お稽古場ではずっと本当に弾いていたとのこと。ジェンヌさんって本当にすごいなあ…
 ほのかちゃんは私にはちょっとおへちゃに見えて、苦手な顔立ちではあるのですが、上手いことは認めています。ホント戦国ですよね星娘…!

 で、そのおつきのアンドレです。はー、好き(笑)。下手したらしどころない役になりそうなところを、台詞がなくて表情や仕草、立ち姿だけでも、いい意味でうるさい、感情丸出しの演技でアナ・ベルへの敬愛やジュリアンへの猜疑心を表現していて、見事でした。こういう辛抱役の経験もきっと身になることでしょう。
 ラストの芝居は、梅田ではやや呆然としているように見えましたが、その後嘘寒い薄ら笑いを浮かべる回もあったり、狂気すらほの見えて、ああこの人はこのあとすぐ自分の頭を撃ち拭くか、山荘に戻って湖に身を投げるんだな…と思えました。はー、好き。
 あとお姫さま抱っこの素晴らしさね! しかも降ろすときにね、立て膝付いて腿に座らせてから降ろすんだもんね、素晴らしすぎましたよね! はー、好き(三度目)。イヤ大丈夫です、なんの利害関係(?)もなくただ無責任に下級生を愛でる喜びに浸っているだけです…

 逆にしどりゅーのミッシェルは、初日はなんかぼんやりした芝居に見えて、しどりゅーならもっとできるのでは?と思ったりしたのですが、ホントにボンボンに作って口だけでジュリアンに協力を申し出ているように見せるのもアリだし、本当に世の中の酸いも甘いもわかっていて、ジュリアンをまだまだ格下に見ているような大人びた友達、に作ることもできるおもしろい役だと思うんですよね。本当に親身な友達、というのはジュリアンがなんせああだから実はけっこう難しい気が私はしていて。ボランジュの大臣就任のくだりで固い握手をしてはいるけれど、そのあとジャックとのことが持ちあがったときに、ジュリアンはミッシェルに相談することなんて思いつきもしないわけじゃないですか。その友情の一方通行ぶりは、やるせないですよね。
 ところで回数を観たのでさすがに秘書官仲間たちも顔を覚えられました。エスケープくんだりの毎回のアドリブもお疲れ様でした、楽しかったです。

 他に印象的だったのはまいけるミシリューかな。「くだらんければくだらんほどいい」って言い方がホントいいよね。ジャックの報酬に関する見栄を喝破して笑うくだりといい、、前金を渡すときのわざとらしい溜め息といい、ホント下卑てるのがいい。政治家としては有能なんだとしても人間としてはこの人もクズ、ってのが脚本の示すところなんだと思うし、それをさすが上級生の芸達者ぶりで演じていたと思いました。

 あとはどこにいても綺麗ですぐわかる水乃ゆりちゃんや、可愛い澄華あまねちゃん、なかなか目立つ瑠璃花夏ちゃんもそれぞれ目を惹きました。あと華雪りらたんもホント美しいのよ麗しいのよ…!
 今回で娘役ちゃんたちもかなり識別できるようになったなー。本当に観甲斐のある演目でした。


 スーパー・レビューは作・演出/中村暁。定番の中村Aショーでほぼ『ビバフェス』って気もしたんだけれど、こちらも人数はぐっとコンパクトになっても変化も多く充分厚みも出せていて、楽しかったです!
 プロローグはこっちゃんとはるこ。はるこの歌が弱いのは難点でしたが、これはホント場数なんだと思うのでしゃーないです。2番手としてビシッとキメてくる愛ちゃんが頼もしく、かいちゃんとせおっちだったところにはしどりゅーとかりんちゃん、イイですね! 客席降りもあってつかみはバッチリ。
 こっちゃんのスタパレはかりんちゃんと天飛くん。梅田初日はかりんちゃんはともかく(決して上手かないがまっすぐ素直に歌うタイプでよき、と思っているので)天飛くんの声があまりに出ていないのに仰天し、緊張しているんだろうとは思うけれど励ましの手拍子入れて歌をかき消す方がいいですか…?って気持ちになっちゃいました。でもそこからグイグイ乗っていって、よかったです。ほのかちゃんと水乃ちゃんのコーラスとサポートもよき。
 かいちゃん場面だったところはまるっと新曲で、愛ちゃんあんるちゃんの同期コンビが紫のお衣装でセンターを務めて吉。
 星夢はこっちゃんとなんと瑠璃花夏ちゃんで、こちらも梅田初日は歌えていなくて何故抜擢した!?と冷や汗でしたが、どんどん仕上げてきましたねー。あとちっさくてもホントきびきび踊っていて気持ちがいいです。でもここのはるこのお衣装も鬘もたまらないのだ…!
 しどりゅーマメちゃんの間奏曲めいた場面も、充分埋められていて素晴らしい。ここの振付はモモサリ姉さん、イイよね!
 そしてBackを譲らないこっちゃん、ホントすごい。よりダンサー選抜になっているのもイイ。
 そこから中詰め、まずは愛ちゃんのHot Stuff。まぁヤラしい、イイね! 初舞台のときに愛ちゃんのお手伝いをしていたと聞くかりんちゃんが、愛ちゃんのバックでめっさいい笑顔で踊っているのもたまりません。そこからの娘役場面ははることあんるちゃんがセンターで、でもみんな色っぽくてイイ! さらにしどりゅーのSunny、かりんちゃんははること組んでねっとり踊っていてそれもまたよき。リベルタンゴはこっちゃんのソロダンスになっていて圧巻。からのチャンピオーネと客席降りの盛り上がりはホント毎回楽しゅうございました。
 ロケットは中高なので両端が華雪りらたんと瑠璃花夏ちゃんなの、もーたまらんかったとです!
 星サギは愛ちゃんジョバンニにほのかちゃんカンパネルラになって、シメに星サギSのこっちゃんが出てくる構成に変更になりました。これもよき。
 せおっちの銀橋ソロだったところはしどりゅーとかりんちゃん。からの黒髪ショートのあーちゃんが絶品だった娘役群舞はあんるちゃんがセンター、いーちゃんと水乃ちゃんがシンメで、本公演では一番下手で色気勉強中です!みたいだった水乃ちゃんがすっかり綺麗で色っぽいお姉さんが板に付いている成長っぷり、感動しました。
 そして黒燕尾の情熱大陸はこっちゃんと愛ちゃんがいい色の違いを出していて、星組らしからぬ揃いっぷりで圧巻。からのデュエダンは本公演まんまでしたが、はるこのえも言われぬたおやかさ、それを受け止めるこっちゃんの頼もしさよ…と、これが「尊い」ってヤツか!と震えました。はるこのお団子キャップのワイヤー芸がまた素晴らしく、上級生娘役の尊さを思い知らせてくれました。
 エトワールは白妙なっちゃん、パレードまで華やかで、よくできたショーでした。


 しかし3日ほどしかお休みがなくてすぐ集合日とは、くれぐれも身体に気をつけてがんばっていただきたいです。ひっとんの合流も楽しみですが、まずは悲しい卒業発表みたいなものがないことを祈ります。まあ悲しくない卒業発表なんてないんでしょうけれど…常にこれが最後かもしれない、と心して、大事に観ないといけませんね。改めて、肝に銘じたいと思います。

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イキウメ『獣の柱』

2019年05月23日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2019年5月21日19時。

 ある日、アマチュア天文家の二階堂望(浜田信也)は小さな隕石を拾う。その隕石は見る者に恐ろしいほどの幸福感をもたらした。夢中にし、思考を奪い、自分では目をそらすことができなくなり、ひとりで見たら最後、死んでしまうまで見続けることになるのだ。そして隕石が落ちたあと、空から巨大な柱が降り注ぎ、人々にあきれるほどの祝福を与えるが…
 作・演出/前川知大、ドラマターグ・舞台監督/谷澤拓巳、美術/土岐研一。2013年初演、全一幕。

 ずっとイキウメなる劇団の舞台を観てみたいと思ってはいたのですが、やっと念願叶いました。演劇でSFをやる、みたいなコンセプトの劇団だと認識しているのですが、乱暴かな?
 これは最もSF色が強い作品なんだそうですね。私は好きです、ビンビンきました。SFもまた世代によって好みとか流行りとかがかなり大きく違うものなのではないかと私は思っているのですが、この作家の年齢は私の5つ下。ですよね、という感じ。ドンピシャ具合を勝手に感じました。てかもうずっと怖くて怖くて怖かった!
 私は高校時代に天文部だったし小学校高学年からハヤカワ文庫SFと創元推理文庫のSFを読んで育ったSF者で、小説家になりたいと思ったこともあった、そして東京に暮らす街っ子なんですよ。田舎で農家で自給自足、みたいなたくましさなんか持ち合わせていないし、都市が壊滅したとき田舎に疎開してコミュニティを再生させて生き延びていく、なんてこともきっとできなかろうとしか思えないのです。といって「新人類」に生まれつけるとも思えない…もうもう、ただただ怖かったです。ユーモラスな部分では確かに笑うんだけれど、もうずっと震えながら見てました。
 役者がまたみんな異様に上手くてめちゃめちゃリアルでナチュラルで、そういう人にしか見えなくて、それも怖かったです。お芝居じゃないみたいだったし、みんなまったくキャラクター然としていないんですよ、みんなものすごく人間臭いのです。情けないところとか、悪いところとかもすっごくまんまで、あるあるで、リアル。だから望も桜(村川絵梨)も部長(安井順平)も、なんというかあまり主人公然としていなくて、だからなんか、この人が主人公ならこの人は最後まで生き残るだろう、みたいな信頼も寄せられなくて、いつ駄目になっちゃうのか死んじゃうのか、共感してたら引きずられそうだし、そういうのももう怖くて怖くて。
 物語そのものも、単なる中二っぽいディストピアものとは一線を画していると思いました。どうオチるのか、何を突きつけられるのか予想できなくて覚悟ができなくて、本当に怖くて。
 そして何よりおもしろかった…!
 2051年の世界があまり細かくは語られていないこと、でも充分類推できる感じがまた怖くて。「山田家」とかね、結局人類ってまた同じ馬鹿をやる…って感じで。でも新人類も生まれてて、桜がしっかりしていたようにここでも恵(東野絢香)の方がしっかりしていて、やっぱり女は強いないいなって思ったり。でもこんなふうに未来を託されても重いだろう、過酷だろうと思うと、彼らのために泣けてきたり…
 ちなみにみんな上手すぎて、あとで「ここ二役だったの!?」とかがけっこうあったのですが、次郞(大窪人衛)と和夫が同じ役者なのはすぐわかって、それはやはりあえて、なのかな…とか思ったりしました。物語の最初で死んでしまった次郞くんが…という、ね。ちなみに女優さんが少年役をやっているのかと思っていました。上手かったなあ…!
 でもともあれ、こんなリセット嫌ですよ。いや地球の身になったらやりたくなるのもわかります。身体から黴菌出すためにちょっと熱出してみるとか、くしゃみしてみるとかと同じレベルですよね。でも怖い。やめて。あと宇宙人というよりむしろ神、というのもよくわかりました。宗教って結局そういうことですよね。そして私たちは信仰があろうとなかろうと、実はあまり学べていない…
 さあ始めよう、と突きつけられて、舞台は終わります。自分に何ができるだろう、と思わないではいられません。そりゃ世界平和のために邁進したいけど、そんな…ってなるじゃん。怖い。そんなことを課さないでください、と泣きたくなります。
 ただ、私は、自分も含めて、人は幸せになるために生きているのだ、ということを疑ったことがありません。そして人はひとりでは幸せにはなれないから、自分が幸せになるためには周りも幸せでいてほしいし、だから周りを幸せにできるようまず自分からがんばる、くらいのことはしているつもりなので、それで勘弁してください、とも思うのでしした。幸せ成分だっけなんだっけ、幸福感? 別に隕石にもらわなくても得られているから、大丈夫だから。だから降らないで柱、と祈ります。
 しかし「獣」ってなんなんだ、人間のことですか? それとも柱を降らせる何ものかのこと? ああ、怖い…

 秋の新作は『オデュッセイア』がネタの、やはりSFとのこと。絶対観ます!!!

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扉座『新浄瑠璃 百鬼丸』

2019年05月19日 | 観劇記/タイトルさ行
 座・高円寺1、2019年5月17日19時。

 野心に燃える戦国武将・醍醐景光(高木トモユキ)は、天下盗りのために生まれてくる我が子の肉体の四十八か所を魔物たちに与える取引をする。四十八か所を失って生まれた赤子は川に流されながらも生き抜き、運命的に出会ったコソ泥の男・どろろ(山中崇史)を供とし、奪われた肉体を取り戻すために魔物を倒す旅に出るが…
 脚本・演出/横内謙介、原作/手塚治虫、浄瑠璃作曲・指導/竹本英太夫、三味線演奏/鶴澤慎治、振付/ラッキィ池田、彩木エリ、振付・所作/花柳輔蔵。2004年初演、2009年に再演した作品の十年ぶりの上演。全一幕。

 私は横内さんの後輩でして、前回観劇した『リボンの騎士』の感想はこちら。今回もとても刺激的で、おもしろい舞台でした!
 私は手塚読者としては幼いというか下の世代でして、リアルタイムで読んだのは『ブラック・ジャック』くらいで、他に愛読しているのは『火の鳥』だけです。大人になっていくつか読みましたが、お恥ずかしながら読んでいない作品もたくさんあります。『ジャングル大帝』とか『鉄腕アトム』とかね。『どろろ』は読んでみて、どろろが主人公ではないこと、どろろが少女である設定が回収されていないこと、というか物語そのものがオチていないことに驚いたことしか記憶にありません。アニメは未見、今も新しいものが放送中なんですよね。なにがしかの性癖に刺さるのだろうな、とは思っています。
 さて、で、この舞台は、『どろろ』ではなく『百鬼丸』と題されているように、単に『どろろ』を舞台化したものではなく、むしろ『どろろ』エピソード0、みたいなものでした。でもタイトルは『百鬼丸』だけれど。でも主役はやっぱりどろろかな、ファーストクレジットは少なくともどろろ役者です。そしてこのどろろは中年男性なのです。つまり、「あの」どろろとは別人なのです。これはどろろが代表する人間の人間らしさ、みたいなものを百鬼丸が手に入れるまでのお話、なのでした。
 今回の百鬼丸は、魔物にすべてを奪われたのっぺらぼうの状態でずっといるので、要するに普通の赤ん坊の半分くらいしかない、おくるみの中の赤子としているのです。ぶっちゃけ小道具です(笑)。それをどろろがずっと抱いています。そして百鬼丸の声を吉田美佳子が演じ、百鬼丸の影を三浦修平が演じています。
 声の役、というのは、ただ声を当てているのではなくて、まさしく「声を演じている」「声に扮している」んですね。黒子の格好で舞台にいて、誰の目にも映っていないことになっていて(冒頭の「この鮭!?」笑ったなあ、上手いなあ)、でも百鬼丸の心を表現しているのです。そして「影」は完全に黒子姿で、百鬼丸が心の力で動かすことができる、赤子の守り刀の百鬼丸を動かす役をやっています。これがミソ。
 百鬼丸には身体がなくて心しかなくて、だから人間ではなく、優しく清く正しく、恨みや憎しみを知らず、理想を夢見、語り、それはあまりに清浄すぎるのでした。身体がないから痛みも知らないし、なんなら死なない。ただただ父母を懐かしく慕い、母親にもう一度抱かれたい、父親の非道を諫めたい、とだけ願っています。自分を魔物に売った父を、自分を川に捨てた母を恨むことを知らないのです。そしていくつか魔物を倒して手が生え、内臓が宿っても、血は戻らず、「人間」にはなれないまま、清いままなのでした。
 それが、いろいろあって、どろろが命を賭してかばってくれ、また血を分けた弟の多宝丸(新原武)と斬り結び、その血を浴びて、ついに百鬼丸の身体に血が流れるようになり、同時に怒りや悲しみ、痛み、憎しみ、恨みを理解するようになる…そして三浦修平が青年の肉体を得た百鬼丸を演じ、心を演じていた吉田美佳子はおいていかれる…
 母と和解し、父は討たれ、百鬼丸は残りの身体のいくつかを取り戻すために再び魔物を追う旅に出ます。そこで私が思いついたオチは、そんな百鬼丸が浮浪児に扮した吉田美佳子に出会って終わる…というものでした。それがどろろなのよ、盗人で、実は少女なのよ、彼女は百鬼丸がかつて知っていた男と同じ名を名乗るのよ、そこから原作漫画が始まるのよ…!
 でも、そうではありませんでした。生まれたばかりの百鬼丸、両目を取り戻してやっと世界が見えるようになった百鬼丸は、竹とんぼが飛んできたのと同時に心を取り戻し、そして残りの身体を取り戻すのと同時に、この世にある美しいもの、優しいものをもっと見るために旅に出るのです。広い世界を知り、真の人間になるために…そんなすがすがしい形で、舞台は終わったのでした。
 少年役を女優が演じることはよくあるし、その対比として今回はどろろを成人男性としたのでしょうか。どこが発端となってこの舞台が生まれたんでしょうね、とても不思議です。でもとてもよくできていると思いました。

 さまざまなギミックもとても上手くて、効果的で、コロスも素晴らしく、お衣装なんかは最低限なんだけど全然十分でした。舞台って、演劇って本当に、自由だな無限だな魔法だな、と感動しました。
 阿佐比の伴美奈子や橘姫の砂田桃子も素敵でした。てか役者はみんな達者で立派でした。
「手塚というより水木」には吹いたなー。タケコプターとか、小さなギャグ、ユーモラスなところもとてもよかったです。
 いい劇団ですよね。『リボンの騎士』はまた再演するんですね、また行っちゃおうかなあ。楽しい観劇でした。

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宙海11中入り感想~カウントダウン澄輝日記

2019年05月13日 | 澄輝日記
 10連休は前半と後半に遠征に出かけましたが、この週末は遠征予定がなかったので、ちょっと中休みとしてまとめてみました。
 ちなみに初日の感想はこちら
 大劇場新公は観られませんでした。連休明けで仕事がどーもならず…東京でなんとかして観たいものです(><)。

 先日、WOWOWでまゆたんみっちゃんの副音声解説付きで花組版の放送がありましたね。お友達に録画してもらって見てみました。
 スターの比重の関係でちょこちょこ違いはあるものの、今回とは大きな違いはない印象ですね。外部版の新曲「オーシャンズ10」が加わったくらい?
 花組版ではイエンがみつるで、このときもう専科でしたっけ、まだ組子でしたっけ?ソロがあったけれど、今回はあきもなのでそれはカットされていたり、バシャーのみーちゃんもこのとき花組に移ったばっかりだったんでしたっけ?でフィーチャーされているのか、地下に降りていく銀橋ソロをもらっているんだけれど、今回はそこが2番手キキちゃんのラスティーになっていたり。ラスト客席登場のテスは前回は白菜ドレスで、だったんですね。その姿でガラスの箱に入ったんだから正しい気もするし、でも今回のまどかにゃんは彼女に一番似合うディナーのときの銀のワンピースで登場していてそれも良き、と思います。ちなみにまどかは今回の冒頭のドレスのことはキャベツと呼んでいるそうですけれどね…てかテスのお衣装はなんかどれもちょっとヘンに改変されている気もして残念でした。テリーのオフィスに行く場面での、あの黒ストッキングがホントにダサくて嫌なんですけどね…(><)
 フィナーレの歌手がベネディクトだっただいもんなのでテスへの想いを改めて歌うのは正しい気がしたけれど、今回はここもキキでちょっとヘンなので、歌詞から「テス」を取っちゃえばよかったのに…と思ったり、今回のエトワールはおそらくオーディションだったのではないかなと思うのだけれど、さらちゃんとはホントいい人選だよな、専科のみっちゃんをどう降ろすか難しかったんだろうけどエトワールってどうよ…とか、思ったりしました。

 「歌劇」の座談会によればイケコはやたらと「大人のおとぎ話」という単語を連発していて、まあ確かになんちゃってクリミナル・コメディとかピカレスク・ロマンみたいなものを想定して作ったんだろうとはわかるのだけれど、そしてその創作姿勢が後年『AfO』に昇華、結実していったのだなあとは思うのだけれど、やはり現代物だし、エコロジーとかNPOとかその脱税疑惑とか犯罪スレスレの地上げとか恐喝とか、やはりちょっと冗談ではすまないリアルさ、現実問題があるので、そのあたりとなんも考えないで楽しむような娯楽性とはやはり相性が悪いんじゃなかろうか…とは、私は感じてしまっています。
 インスタとか美肌アプリとかを出して初演時・再演時よりもさらに現代感を出してきているのに、「地図をメールする」とか「ホテルのインターネットに侵入する」みたいなパードン?なセリフが改善されないままだったりするザルさも、個人的にはとても気になります。いったい本気でアップデート、ブラッシュアップする気があるのか!?
 座談会からしてもウッズ夫妻は確かに不正に手を染めているとされているようなので、となるとそれを知らずに信頼しきってともに環境運動する気満々のテスは、まあもちろん被害者なんだけどちょっと間抜けで残念な子に見えかねないし、確かにまだ年若いんだろうけれどあまりに世間知らずでうかつすぎて、そりゃ百戦錬磨のショーステージの女王に「カマトト」呼ばわりされちゃうのも当然だよね、ってなっちゃうと、テスのヒロインとしての魅力に響くわけですよ。イヤ男性作家は女はこれくらいの方が可愛いよ、男に守られていればいいんだよ、男は好きな女のためなら悪にも手を染めるんだよそれが男のロマンだよ…とか萌えてこういう物語を書いてるのかもしれませんが、観るのは女ですしはっきり言って女をバカにすんなっつーの、ですよ。
 テスは「私は手段にこだわりたいの」(でしたっけ?)と明言しています。目的のためなら手段はなんでもいい、という考え方には与しない、正しいことを正しいやり方でしたい、というポリシーは、貫くことはつらく苦しいでしょうが立派なものだし、もちろん明らかに正しい。こういうキャラクターのこういう考え方が報われる物語であってほしいのだけれど、この作品はそうなっていません。ダニーもテリーもそういうふうには動いていないし、結局テスはそんなダニーを容認してしまうからです。好き合っていたふたりが元サヤに戻る、のはそりゃハッピーエンドでいいんですが、ダニーとテスの生き方の指針が実は意外と違う、という問題点についてはスルーでいいの?というあたりが、なんともモニョるワケです。
 そもそもウッズ夫妻が不正を働いているならそれをネタにちょっと脅迫しているだけのテリーはそこまで悪いことをしているわけではない、とも言えてしまいます。だからテリーがテスにフラれて、ダニーにお金も奪われて、勧善懲悪めでたしめでたし、とも思いづらい。そこも実はモニョるんですよね。ダニーがちょい悪なダーティー・ヒーローなら対するテリーはもっと巨悪でないと、本当は物語として成立しないのです。
 ま、私にはずんちゃんテリーはまどかテスには本気のラブは感じてなくて、あくまで利用価値があると思っていたから口説いていただけ、に見えたし、ラストの「ネバーギブアップ!」には一晩分の稼ぎくらいくれてやらぁオラ野郎ども次行くぞ次!みたいなポジティブさがあっていいなと感じているので、そこまでかわいそうではなくて、それはよかったかな…とは思うのですけれどね。
 そんなわけで、個人的にはいろいろモニョるし、それでもスターに見せ場はあるし組子はみんな小芝居も楽しそうにしているし、セットもお衣装も豪華で綺麗で観ていて飽きないし、単純だけどやっぱり「ジャンプ」には胸アツになるよね、「ジャックポット」のイレブンの後ろ姿ピラミッドのカッコ良さとかホント卑怯だよね、娯楽としてホント一定以上の水準にはなってるんだよね…とはなるので、まあいいっちゃいいんですけれどね。
 でも、東京公演はチケットがホントなさそうですし、なら、そんなにたくさん観なくてもいいか、な…という気持ちには、今、ちょっと、なっちゃっています。贅沢言って、偉そうなこと言って、ホントすみません。観たら観たで絶対楽しむんだけれど、あと私は絶対に寝ない派なんで観たらホントちゃんと観ちゃうんですけれど、それでも飽きるというか、もう考察することがなくて観ていて退屈するというか…なんですよ、ホントすんません。だって芝居が深化するようなタイプの作品じゃないからさ、何度も観ても同じじゃん…となってしまうのです。ホントにホントにすみません。

 でも、見えていないことはもちろんたくさんあって、贔屓の周りとかそりゃ何度通おうと最後まできっと見えませんよね。のちに映像で見て驚くことになるんでしょうね…
 フランク登場シーンのバックにカードの映像が出てるってホントですか? それが3(さ)、8(や)、10(と)で21のブラックジャックになってるらしいんですけど、素敵ですねありがたいですね! 顔しか見てないんで見えてませんけど!!(笑)
 そういえばPARADISOのディーラーの制服のベストは、花組版と違って黒フチが襟もとと裾に付いていて、よりシャープでスマートな印象になっていましたよね。ありがたいことです。
 カジノ客役の組子がとっかえひっかえディーラー台に来てゲームしながら談笑している様子なのも、眺めていてほっこりします。
 フランクはダニーとは以前どんな関わりがあったんでしょうね。知りたいわ、でも掘るところがないんだよなあ…残念。
 フィナーレはホントいい感じにチョーシ乗っててキレッキレのノリノリで、ごちそうさまです満足です。残念ながら楽屋入り出待ちでは舞台に出てる人と会えないんですけどね(笑)、別人のゆるふわな人が毎度現れますからね。ホント役を引きずらない人です…

 大劇場ラストお茶会は珍しくレポ禁でしたが、泣きわめいて暴走するとかいった事故はなく(笑)、レポ禁の必要もないくらいの、いたって通常運転の和やかさでした。
 前夜のりく茶が、これもレポ禁でしたが、これは暴走とか暴露とかいうよりもむしろごく率直で素直な泣き笑いにあふれたもので、それはそれでレポ禁に意味があったかな、と思ったのですが、今回の澄輝茶にはそういう面はなかったと思ったんですよね。
 でも、そういうところ、つまり最後だろうと普段どおりであろうとするところにこそ、人となりが表れているんだろうな、とも思いました。つまり、泣いたりわめいたりしたくないんだと思うんですよ、騒ぎたくないの、騒がれたくないの。卒業は自分でじっくり考えて決めたことで、それ以上でもそれ以下でもなくて、ことさらに扱ってほしくなくて、辞めるって決めたんだから辞めるの止めてとか言われたくないし、寂しいと泣かれたくもなく、いつもどおり楽しく、笑顔で、真摯に、真面目に公演し、それをいつもどおりに観て、楽しんでもらいたいのでしょう。そういう意思を、主張を、美学を私は感じました。意地っ張りだなとも思うし、でもそういうちょっと頑固なところがあるよね、優しい人だけれど決して弱くはない、むしろ強い人だよね、それでこそだよね、これが私の好きな人ですよ…!と、思ったのです。
 東京お茶会ではもう少し何か発言があるかもしれませんが、卒業については本当にさらっと、既定事実として語るだけでした。何故とか、いつとか、何がどうとか、語りたくないんだと思います。今はまだ語りたくない、のかもしれないし、ここでは語りたくない、ということなのかもしれませんが、とにかくそういう美学の持ち主なんだと思うのです。そういうスターさんなんだと思うのです。だから、受け入れて、見守りたいです。
 あとは、お歌が楽しみですね。ずんちゃんとシンメで銀橋でフィナーレの歌手、とかもあったけれど、あれはやはりスターとしての起用であって、もっと純粋に歌手として使われていいと本当にずっとずっと思ってきたんですよ。それは叶わなかったのだけれど、やはりそう思ったのは間違いではなかった、と改めて感じさせてくれた今回のお歌でした。名曲だし、けっこういろんなスターさんが歌ってきた歌だけれど、とてもとてもよかったです。そして、この人の歌にちゃんとなっていた。それがすごい、と思ったのでした。

 締めの挨拶で、珍しく芸名に言及するような部分があって、はっとさせられました。宝塚歌劇のスターって本当に不思議で、ファンとの距離も近いし、本名由来の愛称で呼んだりして本当に親しみやすくて、でも友達ではない。舞台でお芝居の役として生きる姿、ショーで芸名の存在として歌い踊る姿がまずあって、それと別にまた舞台の外での入り出なりお茶会なりスカステなりでの姿があって、そういうもの全部全部ひっくるめてその芸名のスター、生徒、ってものになるんだろうし、その存在は実は生徒本人とファンとで共有されていて、共に作り上げているところがあるんじゃないのかな、とか思ったのです。芸名という名のスターという幻想、幻影…というとまた儚くてまがい物みたいで、ちょっとアレなんですけれど。
 かつて大空さんは、芸名としての自分の存在が自然になったから、その粋まで達したから満足して卒業する、みたいなことを語ったことがありましたが、これってそういうことなんじゃないのかしらん、とか思ったのです。完成したら、ゴールで、ご卒業、というか。そういうときが来た、ということなのかな、と。
 もちろん退団後、宝塚歌劇の生徒でなくなっても、同じ芸名で芸能活動を続ける人はたくさんいて、芸名のアイデンティティとしての大きさを感じますが、やはりスターとファンの関係性はちょっと変質しますし、スター自身も現役生徒のときとは在り方が異なってきますよね。そして芸能活動を始めない人、本名に戻ってまったくの一般人になってしまう人もたくさんいて、そうしたらもうその芸名の存在は本当に永遠になくなってしまうのです。ファンはそれこそ友達じゃないから、もう二度と関われない。消息すら知ることができなくなる。
 それでも、記録にも記憶にも残るし、何より愛が確かにあった事実はなくならない、のだと思うのです。愛は、消えない。失われない。
 私はずっと、当人に贈るものや縁のものとして自分が持つものにAではなくSのイニシャルを選んできました。それは私のイニシャルもSなので(名字だけど)使いやすい、ということもありましたが、やはり知らず知らずのうちに、愛称ではなく、もちろんご本名ではなく、芸名を尊重し、そこに愛を捧げていた意識があったのかな、とか考えたりもしました。毎度ホント理屈っぽくてすみません…
 というかホント名は体を表す、じゃないけどいい芸名だしぴったりですよね! まあ当人はそんなさわやかなばっかりじゃなくて(オイ)、意外と意固地なところもある人だと思っていますが、本当に穏やかで、優しくて、しなやかに強くて、澄んでいて、輝いています。それを曇らせることのないよう、ご卒業のその日まで、心を込めてしっかりと、応援し続けたいと思っています。

 というわけで引き続き、私はまだあまり泣いていません。少なくとも泣きわめいたりはしていません。
 我慢しているつもりもないんだけれど、なるべく普通に、ちゃんと、見送りたい、とがんばってしまっている部分はあるのかもしれません。大空さんのときにも、最後の最後にだけ自分でもびっくりするくらい泣いたし、今後もそれは自分でもわかりません。上手く素直になれたらいいなと思うけれど、ダメかもな。素直じゃないからな。
 でも、とてもとてもありがたいことに、私にはかけがえのない友がいるのです。この澄んだ沼に同じように浸るお友達たちがたくさんいて、ことに私含めて5人で常に似たテンションで盛り上がり笑い泣き怒り愚痴りお揃いでやらかし、でも別にベッタリしすぎてもいなくて東西も仕事もファン歴も家庭の事情も年齢もバラバラなんだけど仲良し、というお友達ができて、本当にありがたく思っています。支え合って笑い合って、ともに健康に気をつけ合って、楽しく走り抜きたいです。それが私たちの愛なんです!(なんかそんな台詞あったよね…)
 今回はおしまい。オチがなくて澄みません、じゃなかったすみません。






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