駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』

2020年04月23日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 集英社ジャンプコミックス全23巻。

 ある日、小六のヒカルは祖父の家の蔵で古い碁盤を見つける。その瞬間、碁盤に宿っていた平安の天才棋士・藤原佐為の霊がヒカルの意識の中に入り込んだ。佐為の囲碁に対する一途な想いが、ヒカルを徐々に囲碁の世界へと導いていく…

 引き続き愛蔵コミックス再読をしているのですが、これも久々に読み返しました。細かいところを綺麗に忘れていて、ものすごくワクワク読みました。絵が上手いというのはもちろん、ネームが抜群に上手い。原作者のオマケ漫画にもありますが、たくさんの人の手にかかってブラッシュアップされていることがビンビン感じられる仕上がりになっています。連載当時もワクワク読んでいたのですが、完結時に感想をまとめていないことが発覚したので、今回書いてみました。ちなみに緒方さんに関する萌えコラムは書いていて(笑)、前後が長いというか一連のメガネくんコラムの中にあるのですが、一応こちら。
 さて、読んでいて、「その後、漫画家が別の原作者と組んで『DETH NOTE』『バクマン。』といったヒット作を出したこともあってか、当時あんなに人気で一世を風靡したのに、今はあまり言及されることのない作品になっちゃってるかもなあ。なんでかなあ?」とか思ったのですが(ちなみに私は『CYBORGじいちゃんG』のこともわりとちゃんと記憶に残っていますけれどね…(笑))、読み終えてみると、さもありなんというか、大局的にはストーリーに失敗しているというか、特に締め方、終わり方が良くなくて、それもあって全体に印象に残りにくいというか語りにくいというか…な作品になってしまっていたのだな、と感じました。それで私も完結当時に感想をまとめてていないのかもしれません。ホントに囲碁ブームを起こしたし、たとえ囲碁がわからなくてもみんな夢中になって読んでいたんだけどなあ。私はファミコン初期に弟につきあってちょっとシューティングめいたものを触った以外はゲームにまったく興味がなく、RPGもときメモみたいなのにも全然触れてこなかったのですが、このときはゲームボーイを買ってやったもんね! 覚えたもんね囲碁! みんな忘れたけどね!(笑)
 でも、優れたジャンル漫画がそうであるように、この作品も囲碁漫画ですが別に囲碁がわからなくても十分おもしろい構造になっています。それはすごい。ただ、物語的にはやはり17巻で終わっていて、18巻は番外編集だから別にしても、19巻以降はぶっちゃけ蛇足なんですね。そしてこの第二部(?)は人間ドラマが薄まり、碁の手合いのゲーム、勝負としてのおもしろさ、すごさを描くことにややシフトしていて、それだとやはり読者は引っ張っていけないんだよな、という感じです。たとえばスポーツものなんかでも、ずぶの素人が興味を持ち競技を始めまずは部活から、やがて大会に出て全国区になってやがて世界へ…みたいな流れのものはあって、国内トップになったところが第一部完、第二部はワールドワイド編、みたいな展開をするものもあり、そこでギアが上がってさらにパワーアップすることも多いものです。そのスポーツに興味がない読者も、展開の派手さを楽しんでついていけたりします。でも、『ヒカ碁』はそれには失敗していると思います。欧米でもたしなむ人は多いけれど囲碁はやはり東洋のゲームで、組織だって競技としてやっているのが主に日本、韓国、中国だということもあり、第二部で扱われる「ワールド」はその3国です。だからあたりまえですが増えるキャラがみんな東洋人なんですね。なんせ絵が上手いから描き分けもものすごく上手いし、美形キャラなんかもちゃんと投入されているのですが、やはり広がり、派手さに欠けます。また、当時すでに日本の囲碁界の地盤沈下はあったのでしょうが、そういう危惧や未来への希望を描くために「囲碁界の話」にシフト気味で、ストーリーのダイナミックさに欠けてしまい、それはやはり囲碁そのものには本質的にそんなに興味がない読者にアピールしなかったろうと思うのです。この失速感が印象を悪くしていたと思います。まあ、人気作が完結を引っ張られるのはよくあることですし、ものすごく冗長になっていたり迷走していたりすることはないので、そこは立派なんですけれどね。ただ、このバートが芯を食っていなかったことだけは確かだと思います。
 また、17巻までで綺麗に終わっていたとしても実はちょっと消化不良だったろうことも、問題ではあるでしょう。
 ここまでヒカルは着実に成長・前進していて、読者も一緒になって楽しんでこられたのだけれど、ぼちぼち「ところでこれって最終的には何を目指す話? 何がどうなったらゴールの話?」って思われないうちにそれを読者には提示すべきところでできていなくて、終盤になったらなんとなく佐為が消えそうだってことだけが臭わされ始めて…って感じになっちゃってるんですよね。でも、なんで消えるの? そもそもなんで現れたの? って感じになっちゃってる。
 本当はもっと最初から、これはヒカルとアキラのふたりの天才の物語で、佐為はふたりを出会わせるために、ヒカルをアキラのレベルに引き上げるためだけにこの世に現れたのであり、ふたりをともに戦い競わせ磨かせることで囲碁界をまた一歩前進させたらまた次の機会のために消えることは必定の、孤高の神なのである…みたいな作りにするべきだったのはないてじょうか。だから、かつては一平安貴族にすぎなかった佐為が、多少の囲碁の才はあったとはいえ何故そんなふうに運命づけられてしまったのかというドラマや、秀策時代に本当は何があったのかといったドラマをもっと掘り下げるべきだったのかもしれません。また、アキラに関してももっともっと描き込まれてよかったのでしょう。でもそうなっていないので、ヒカルとアキラが三度、そして真の意味で手合うのがゴール、そしてそのとき佐為は必然的に消滅して終わり…というラストが提示しきれないままにストーリー的には話がゆるく進んでしまい、あれれれ?という印象になってしまったのでしょう。そこは残念ながら一歩、「神の視点」が足りなかったのかもしれません。タイトルはいいし、少年漫画なんだから主人公の成長に焦点が当てられるのも当然です。でも、それでももっと大いなる運命や宿命、物語を描くことはできたはずですし、その方がこの作品に関しては据わりがよかったはずなのです。それくらい、佐為の存在は大きかったとも言えます。最終的に囲碁界への愛を語るならなおのこともっと大きくすべきだった、とも言える。ズルされて負けて落ち込んで自殺して無念だったから…というだけのお化けじゃ、卑小すぎたんですね。神様にすべきだったんです。それくらい囲碁は深遠なゲームなのでしょうから。そしてそれは囲碁ならずともどんな競技でも、あるいは競技ですらなくても、そういうものなのでしょうから。真剣であるということは、常に神とともにあるということなのでしょう。無宗教でもそういう神様観ってあるじゃないですか。そういう「大いなる物語」にできていたら、囲碁というマイナーでニッチなモチーフのジャンル漫画だったとしても、もうちょっと今でも読み継がれ語り継がれる作品になりえたと思うのです。1巻刊行からまだ20年しか経っていないのになあ…忘れ去られた、とまではもちろん言いませんけれど、でもやはり同時代のジャンプ作品(がまたお化け作品ばかりなので一概に語るのもアレなんだけれど)に比べると言及がないというかきちんとした研究や批評がない気がして残念なのですが、今回再読して改めて、そのあたりが原因かなあとか思ったりもしたのでした。まあ現代は漫画作品が飽和気味であるとかいろいろ歴史が継承されていないとかはあるかもしれないし、でも電子で一気再読で人気再燃再評価なんてことも起こりえるのがまた現代だし、まだまだ断定するには早すぎるのかもしれませんけれどもね。
 なんせ多彩なキャラクター造形が素晴らしく布陣も素晴らしく、人間ドラマがよくできていて、特に中盤までは主人公を成長させるストーリー展開も素晴らしく、さらに何度でも言いますが絵が上手いのもあるけれどとにかくネームがめちゃくちゃ上手くて、どの話を取ってもここのここがこう素晴らしいと語りたくなる箇所があるくらいです。このクオリティははっきり言ってなかなかない。カバーイラストもデザインもいいし埋め草もいい。素晴らしいコミックスだと思います。
 私は引き続き愛蔵し続け、また忘れたころに読み返し、緒方さんに悶えまくりたいと思います。はー、好き!(笑)

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『Do Da Dancin’!』再読

2020年04月18日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名ま行
 おかげさまで会社が在宅勤務させてくれていて、これがまたけっこうみっちり働いちゃうんですけれど、勤務時間外は買い物に行くでも外食に行くでも映画に行くでも観劇に行くでもないので暇があり、読書と愛蔵コミックスの再読にせっせと励んでいます。
 コミックスは連載中で追っかけている、というもの以外は、好きで持っていたくてこの先も何度も読み返すであろう、というものだけ手元に残すようにしているのですが、本当に何度も読み返していてほぼ全セリフ全コマ暗記しているというものもあれば意外に読み返していなくて細かいところをけっこう忘れていて何度もおいしいなみたいなものもあり、なかなか楽しく再読しています。今読むともう響かないなー、いざとなれば電子書籍でもなんでも入手できるだろうからもう手放してもいいか、と思ったものもあったし、やっぱりいいわー好きだわー、と改めて心震えたもの、以前よりさらに好きかも刺さるかも、と思えたものなどもありました。
 で、この作品です。完結時の感想はこちら
 私はこのとき書いたことを自分でもわりとよく覚えていて、つまり作家がヒロインのビジュアル、要するに容姿の造形に手を抜いたことにかなり怒っていた記憶があるのですが、今読むとそうでもないな、とまず感じました。時代が作品に追いついた…というより私が、少女漫画のヒロインたるもの(この作品は少女漫画誌に連載されたものではありませんが…ううーむ今になっても青年漫画の対抗になるいい名称がなくてとりあえず女性漫画としか呼びようがないのはつらいな)十人並みの容姿ないし理想的な美人として描かれるべきである、という固定観念ないしルッキズムに囚われていたのだな、と思い至りました。確かに天パのヒロインってあまり描かれてこなかったと思うのだけれど、それこそ良くないバイアスで、実際には割合としてけっこうナチュラルにいるはずなので、そもそも忌避されがちだったことの方がおかしいんですよね。もちろん『凪のお暇』のヒロインみたいなのはまた別の例であり、別の描かれ方なのですが。
 そして今読むと鯛子のキャラクターはむしろごく古典的な少女漫画のヒロインに近く、そこを以前の私が嫌がらなかったないし気づかなかったのが不思議だな、と感じました。愛されてまっすぐに育ったが故の強さを持つ、という特性というのはヒロインが持つものとしてとてもありきたりなタイプのものだと思うのですよ。それこそ『キャンディ・キャンディ』とかね。キャンディはもちろん孤児だけれど孤児院のシスターたちには愛されて育っていて、それで培われた素直さやまっすぐさがアニーもイライザも怯ませたわけじゃないですか(テリーもですが、ラブパートはまた別なのでここでは除く)。こういう、何も特別な才能とかはなくても、普通に愛されて健全なことが強いし最大の魅力だ、という在り方はわりと古い、なんなら古すぎるものだと言っていいと思うのです。でもこの作品は鯛子のそういう部分を最初からはあまり強く提示していないので、そこが気づかれにくい構造になっている、というのはあります。なんせ愛してくれた母を失って停滞しているところから始まる物語ですしね。でもヒロイン自身がまずそれを受け入れて乗り越えてからは、それが彼女の武器になり、出会う人はみんな彼女のそこに惹かれるか敗れるかしていくわけです。そういう構造の物語で、そこは古いと言えば古いと言える。ライバル像の多彩さはさすがだなと思いますけれどね。
 とにかく私が嫌いそうな点なはずなんだけどなー、あまり引っかからなかったようです。それより全体の雑さとか、情熱や執着があまりなく描かれているような感じ、未だに十分上手いだけどベテランの手癖でさらさら描き流されちゃっているようなことへの反発や残念さが勝っていたのだろうし、それでもなお描かれている世界、描いてみせちゃっている物語が好きで好みで、そちらを語るのに忙しかったのかもしれません。私自身にはまったく素養がないのですが、だからこそなのか、昔から音楽とか舞踊とかの芸術や技能がモチーフになっている物語が好きで、この作品もズバリそれだと思うからです。当初は「もう未成年ではない、つまり少女ではないヒロインがそれでもバレエをする物語」として新しい切り口だと感じ感心していたのですが、要するにそれは、成人なので職業とか金銭とか経済とか社会とかも絡む問題だということになるし、大人なので当然、恋愛とか性愛とかも絡む問題になるよね、それを描いた物語だったよね、ということなのです。
 音楽や舞踊はスポーツと違って男女で競えたり争えたりするので、同好の士なのにライバルになったり、嫌い合っていても組むといいコンビになったり、逆に愛し合っているのに組むと上手くいかなかったり組めない事情があったりというドラマが起きたり、もちろん相乗効果で倍どころか万倍も良くなる、みたいなドラマも描けたりするところに私は心惹かれるのです。最近再読したものだと『のだめカンタービレ』がまさにそれで、これまた絵は特に初期は雑というかちょっとセンスがない感じでしんどいのですが、結局全編通してのだめと千秋の恋愛と音楽がテーマになっているところが私はものすごく好きなのです。ふたりがそれぞれ恋愛と音楽を混同して混乱し、すれ違い、最後にやっと上手くいく、という展開なのが個人的にもうたまらないんですね。あとはこれまた近く再読したいと思っていますが『パートナー』とかね。これは競技ダンスの物語で、それこそダンスのカップルとして上手くいくことと恋人同士として上手くいくこととが違っていて…みたいなことが全編を通して描かれている作品です。あるいは『アラベスク』とかも。
 だから逆に言うとそこをもっとネチネチ描いてほしかったなー、という不満はやはりありますね。というか今回改めて強く思いました。もっと深めて、わかりやすく描いてもよかったと思うのに、そもそもあまり興味がないのか、あまりネームで表現していないんですよね。まあそれはわりと『のだめ』もそうなんですけれど。でも本当は全編通してそこにこそドラマがある物語だったのになー。
 だって鯛子と三上が出会って結婚するまでの物語じゃないですか。なんとベタな! でもベタは大事です。で、ふたりは、まあ一目惚れとかそういうドラマチックなことはなくて、それはお互い大人だしバラバラに仕事しているので頻繁に会えないし境遇が違いすぎるので、恋愛としてはゆっくりというかほぼなし崩し的に始まるわけですけれど、一方で「ふたりで踊りたい」という想いは双方にわりと最初からちゃんとあって、でもそれこそ境遇とか技能とか才能とかが物語のスタート地点では違いすぎるので組めなくて、それが整う、揃うところまでの物語、なんじゃないですか。なんならプロポーズだけで組んで踊る部分は描かれないで終わる、バレエ漫画なのに(笑)。まあでもその部分は「ふたりは幸せに暮らしました」の部分だからそれでいいのでしょう。
 で、龍ちゃんなんかはわりと恋愛についてもバレエについても描かれるのに、三上の恋愛はあまり描かれていないのが弱いんですよね。つまり彼が鯛子の何をどう好きでどうしたいどうなりたいと思っているから今こういう行動をしてしまうのか、という説明や描写が足りない。トートツで浅く見えて、ご都合主義に見えて盛り上がりに欠ける。ホント言うとミーシャもそうで、彼に関しては逆にバレエについての説明が足りない。アンヌ以外のパートナーを探す意味があったはずなんだけれど、描かれていないのは不満だし物語として手落ちだと思います。自分のバレエ人生のために最後にもうひとり、もっと若いパートナーが必要だったということだと思うのだけれど…
 だから恋愛的にもバレエ的にも鯛子を欲していた龍一王子が一番ちゃんとしていたんですよね。そして私は結局フラれるこういう当て馬キャラが大好物なので龍ちゃんファンなのですが(でも静香さんとの未来は悔しいが認めよう…きっと愛子先生も喜ぶし)、だからこそ描かれ方がまた雑だったのには腹に据えかねているのでした。てかまずビジュアルがそれこそ悪役キャラすぎる…というかモブ悪役の描き方なんだよね。あれはクールではなく冷酷に寄っていて、人好きしませんよ。ひどすぎる、キャラに愛がなさすぎる。ホントは龍ちゃんに人気が出ちゃって、それでもそれよりよく三上を描いてねじ伏せる、ってしなきゃいけなかったヤツなんですよ。ちょっと形は違うけど『花より男子』みたいなものです。
 三上に関しては、親兄弟とかもほぼ出てこないし、前の恋人もダンサーだったんだから鯛子はそう特別ではないはずで、だからこそどこにどう惚れ何を不安に思いどんな未来を描いていたのか…はもうちょっと描かないと、ホントは説得力ないんですよね。それはバレエとセットでもいいんです、鯛子となら新しい日本のバレエが作れる、でよかったんだと思う。それが鯛子の個性なんだから。でもちゃんと描かれていなくて、特に後半はただのやきもち男かお節介男に見えかねない描かれ方になっちゃって、せっかくのリアリティがなくなりました。世界を股にかけているダンサーが遠距離交際に今さらガタガタ言うはずないんだもん。でも三上が不安に感じていたのはそういうことじゃないじゃん。鯛子が「今のままでは三上くんと踊れない」と不安になって必死に努力したように、彼は彼で別の意味で「今はふたりで踊れない」ってことに不安を感じていたはずなんじゃん。ああ、もったいない…
 次々現れるライバル女性キャラクターたちが多彩かつ魅力的で説得力にあふれまくり、かつちゃんと鯛子と勝負して去って行くのに対して考えるに、そもそも作家自身に残念ながら男性にあまり興味がない…というのはあるかもしれません。実際の男性が、とか男性とどうこう、とかではなくて、キャラクターとしてドリームを抱きづらくなる、という意味です。成熟した女性作家には実はありがちなことだとも思います。自然なことですらある。
 でも、ドリーム商売だからさエンタメって。そこは興味なくてもがんばらなきゃならないわけです。で、こういうときに絶対的に必要なのが若くフレッシュな編集者なんですよ。そのアイディアとかこだわりとか嗜好に寄生しないと、作家は老成と言えば聞こえはいいけれどただ老化しかしてしかない、場合が残念ながら多いと私は思う。これまた自然かつ当然なことですが。
 だからそこでよそからエキスを吸えるかどうかが分かれ道なんだと思うのです。編集が口出せてたらネームだって絶対もっと違っていたろうと思うんだよなー、いい意味でも悪い意味でも人の手が入っている感じがしないのがもうダメなんですよ…そういうの、絶対、出るから。演劇で役者の人柄が舞台に全部出る、みたいなのと同じで、作家の人間性は全部作品に出るんです。精神や生活が閉じてるか開いているかも表れる。人柄、人間性、暮らしぶりって結局同じひとつのことですからね。
 最新作もパラパラとは読んでいて、またおもしろそうなことはやっていそうなんだけれど、まとめてきちんと読んでいないからどうなのかな…あとソロ競技の話だからな。しかしタイトルが良くないのとかもホント編集不在を感じるんだよー、もっとちゃんとプロデュースしてもらいなよー、もったいないよー。
 …というのが再読の感想でした。もちろんこのまま愛蔵し続けます。しばらくしてまた細かいところを忘れたら、また読み返したいです。

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朝井リョウ『発注いただきました!』(集英社)

2020年04月15日 | 乱読記/書名は行
 有名企業からタイアップやコラボ企画の依頼を受けて執筆した二十作を、依頼の内容、本編、感想戦という名の解説、の順に並べて収録した、デビュー十周年記念本。

 『桐島、部活やめるってよ』『何者』『スペードの3』は読んだかな、『武道館』も読んだかもしれません。ものすごくファン、とかいうことはない作家さんです。帯のキャッチは「これが本当のお仕事小説だ!」ですが、まさにお仕事小説の短編集かと思って買いました。
 もちろん、おもしろくなかったわけでは全然ないです。コンセブトはおもしろいと思いましたし、そのとおりにおもしろく読みました。
 ただ、気がついたのですが、なんとなくどの話も主人公というか指点人物が、なんかあんまり感じがいい人間じゃないんですよ。少なくとも私は、読んでいてあまり好感が持てたり共感したりすることがなかったのです。それは、ここに収録された物語がいずれも依頼のお題に応えることに眼目が置かれていて、キャラクターはそれを展開する要素でしかないから、でもあるのでしょう。「自分から書き始めるような小説」とはキャラクターの重要度も違うのでしょうし、作品全体としてのノリも持ち味も違ってくるのでしょう。
 でも、逆に、作家の本質的な部分がにじみ出やすいところなのではないかしらん、とも思ってしまいました。それは、感想戦のいじましいほどのてれやっぷりとか言い訳がましいところとかからも感じました。なんかこう…人間性が出ますよね…あえて言いますが、残念なことに、です。
 別に比べるものでもないし年齢はまったくすべてではないのだけれど、著者は私より二十歳も若くて、要するにまだ小僧なんだろうなー、と思うのです。こんなに有名に、おそらくまあまあの小金持ちになっているだろうにね。それか、業界ではまだまだ小僧扱い、若者扱いされている、ということなのかな。それでこういう、やたら嘯いたりつっぱらかったりする仕草になるのかな、とか思うと、微笑ましいやら気の毒やら、です。
 でもまあこの本がちゃんと売れているのなら、ファンはいるということなのだから、それを支えにがんばっていっていただきたいです。あるいはファンがいまいが商売にならなかろうが書きたいものがあって書いてしまうのが作家なのだろうから、そうなのであればがんばってください、と祈るのみです。私は友達じゃないからさ、一読者にすぎないからさ…すまん、こんな言い種で。イヤおもしろく読んだんですよホントに…ただ、若者の韜晦にはつきあいきれないなーとちょっと思ったという、正直な感想を書いただけです。おしまい。




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愛してるよ宝塚歌劇団

2020年04月09日 | 日記
 政府が火曜夜に緊急事態を宣言して、水曜から発効して、なのに休業要請を2週間見送るとか言い出す大臣だかがいたりして、そもそも補償がないなら生活のために休めない人は働き続け外出し続けるので感染拡大防止なんかできないよそこんとこどう考えてるんだよボケカスとか思っていた木曜の朝に、宝塚歌劇団は現状の公演中止期間を6月末まで延長することと、今後の公演スケジュールを見直すことを発表してくれました。
 合わせて、発表済みの退団者の退団日も、組替えの生徒の異動日も、組長・副組長の就任日も変更されることも発表してくれました。
 世の中に不穏な空気が漂い出して、不要不急のエンターテインメントは自粛を、なんて理不尽なことを言われ出してからずっと、ちょっとずつちょっとずつ、ファンにも生徒にもスタッフにもあらゆる関係者にもなるべくいいように策を講じ、公演を中止するにしても少しずつ期間を延ばすだけで、どうしても上演したい千秋楽はあらゆる対策を取ってきっちり公演し、実際そこからはひとりとして感染者を出さず、ファンでも観客でもないような人間たちからどんなに心ない非難や罵声を浴びせられようと静かに潜行し続け、ついには「当面の間」と言っていつまでとも言わず公演中止を宣言したのち、不死鳥のように鮮やかに、未来へ向けて前向きな発表をしてくれたのでした。
 そりゃ健康第一です、安全第一です。でも人はパンのみにて生くるにあらず、たとえ不要不急のものであろうと、文化や娯楽がなければ心が死んでしまいます。心が死んで、文化も文明も手放してただ生きながらえるだけの動物になってしまったら、人間なんてあっという間に滅びます。それくらい動物としては脆弱な生き物なのです。
 もちろん人類なんか滅んでしまった方が自然のためには、地球のためにはいいのかもしれません。ウィルスがあらゆる動植物を軒並み薙ぎ倒し死滅させ、その星の主となった惑星なんてこの広い銀河にいくらでもあるのかもしれません。
 でも、私たちはそうはなりたくない。だから戦うのです。無能な政府を批判し続け、抗議と要求をし続ける。テレワークやリモートワークができる職種なのにその環境を整えようとしない怠慢な社長にも抗議し要求し続ける。社会インフラを担うためずっと働き続けている方々、医療関係者には感謝の意を捧げ続ける。署名でも寄付でもできることはする。家にいられるなら家でおとなしくしている。最低限の買い出しや運動のためにしか外出しない。
 なんせ政府が補償してくれないので飲食店などの経営が心配なので、なるべくそうしたお店のテイクアウトを購入するか、換気して席の間を空けているようならそこでたまに外食もしてお金を落とし経済を回す。
 キャトルのオンラインショップで買い物し(配送の手間暇は増やしてしまってすみません…!)、スカステを見まくり、過去のDVDやCDに浸りまくる。新作に思いをはせる。ウィルス付着の危険もあるかもしれないけれど、想いを伝えたいからお手紙を書く。劇団には感謝と励ましのメールをする。
 そして何より、心身ともに病まないように努める。がんばりすぎない。家族と、周りの人々を労り、甘え、支え合う。身近なところから、できることから。
 そうして、明るい未来を信じて待つ。明けない夜はないのだから。これはこういうときにこういうふうに使うのはいいと思うのである!!!

 実際、電車会社が母体であることや自前の劇場を持っていることはとても大きいことだと思います。たくさんの小さな劇団や小さなプロダクション、小さな劇場、たくさんの役者さんやスタッフさん、演劇関係でなくてもパフォーミングアーツ業界の方々はみんな、完全な中止や先の見えない延期ばかりで、その先の新規のお仕事の目算もそう簡単には立てられず、さぞかし苦労していることでしょう。
 先が見えないのは歌劇団も同じで、こればっかりはウィルス次第というか、その対策としての政府の施策次第なわけで、いつからなら大丈夫、とかいつから再開、とかが現時点で言えたわけではありません。それはあたりまえです、誰も神様ではないのだから。
 でも、確かに希望がある。とりあえず今は中断しただけで、スライドしてリスケ、という未来が見えたからです。
 少なくとも本公演なら、再開できるとなったら大劇場公演は花組の『はいからさん』から、東京公演は星組の『眩レイ』から、まるっとスライドして始めてしまえばいいんです。なのでみつるの退団日もスライド。そしてれいちゃんもこっちゃんも、お披露目公演を完遂するのです。
 そのまま月組も宙組も雪組もスライドしていく。だからだいきほもたまさくも退団日はスライド。
 バウホールは中止になった公演はないけれど、それこそ自前の小劇場なので空けておいたままだってかまわないのです(採算などの問題はあるにせよ)。良きときにほのかバウから再開すればいい。
 宙組の赤坂、青年館&DCと雪組の文京&神戸、星組の赤坂&DCは別箱なので、かなりの調整が必要かもしれません。でもはつひちゃんの退団日のスライドも発表されているので、どこかでなんとかする気は満々なのだと思われます。
 雪組の全ツと星組の全ツがもっとも微妙かもしれません。月組の全ツも控えていますが、この先大きな移動を伴う興業ってどうなんだ…というのはあるかもしれないからです(他の公演もたいていは東西で大きく移動しているやろ、というのはあるにせよ)。でも、本当に事態が収束に向かい、新たな感染者がほぼ生まれず、罹患した人が治るのを待つのみ…みたいな状態になったら、むしろ今後の経済的な活性化などのためにも地方巡業は大事だろう、となる気はするんですよね。こっとんはともかく咲ちゃん、れいこは次期トップスターへの試金石めいたところもあるのだろうし、これまたしっかりやりたいやらせたいと劇団も考えていると思います。
 DS、MSも系列ホテルが会場ですから、スライドを謀るに問題は少ないと思われます。 まるっと半年とか、大事を取るならもしかして丸一年とかでもいい。早くからそういう要望はファンの中にもありました。もちろん退団者にはすでに卒業後になんらかのプランがあった方もいるかもしれません。でもまずは、きっちりやりきってから卒業したい、と思ってくれたんだと思うのです。だから退団日の変更を了承してくれた…ありがたいことです。
 ファンも、中の人も、みんながみんな宝塚歌劇を愛して、信じて、良かれと思ってできることをしようとしている。だから未来に希望の灯が点る。素晴らしいことだと思います。愛情と敬意が確かにそこにある。実は今の世の中にこれはなかなかない事態なのです。私たちファンは誇りに思っていい。何より生徒さんたちと劇団が誇ってくれると、私たちもなお嬉しいです。

 私個人のことで言えば、2月末の雪組東京公演のチケットを持っていて、まずはなんとかそこまでは…!とか小ずるいことを思っていたものでした。幕間に、翌々日からの中止が発表されたことを知って膝の力が抜ける思いをしたものです。
 千秋楽のスカステ生中継は、我が家でお友達と4人で見ました。まだそこまで群れるの禁止、みたいな空気はなかったのです。みんなでわいわい見たかったし、できてよかったし、テレビ越しでもだーだー泣きました。
 花組大劇場公演も星組東京公演も、ちょっと初日が遅れるだけだよ、とずっと思っていました。取れていたはいからさん新公チケットがパーになってもまだ東京があると思えたし、眩耀東京新公まで中止になっても大劇場で観ておけてよかったとしか思いませんでした。水星にもオスマン帝国にも行く気満々でした。のぞコンもボレロもシラノもエル・アルコンも、友会で当たったチケットがありました。
 外部なら大空さんの『お勢断行』からまっつのコンサート、劇団メリーゴーランド、ずっと観てきたチェーホフ・シリーズの『桜の園』にあっきーがまんちゃんやゆうりちゃんとやる舞台、向江さんのバースデーワンマンライブ、こまつ座『雪やこんこん』にまぁ様の『モダン・ミリー』、ぐるぐるデビューの『WSS』と、まだこれから延期・中止の発表が来るかとドキドキしているものもあるのですが、現時点でトータル40枚以上のチケットが飛びました。1月に10回、2月に12回観劇している私が、3月は今となっては奇跡の『アナスタシア』1回のみ、4月は0回の予定です。贔屓が卒業して観劇回数もやや控えめに…とは予想していましたが、こういう理由は想定していませんでしたし、何より嫌です。悲しいです。
 でも、仕方ない。未だ健康で、しょんぼりしたりジタバタできるだけありがたいと思わなくてはいけないかもしれません。弊社でも罹患した社員は出ているし、実家の弟はリモートできない仕事で未だ毎日出勤しているし(車でだけど)、心配は尽きません。自分が今まだ健康でいられるのは奇跡のようなことなのかもしれません。
 なのでそこは感謝して、引き続き気を引き締めて、慣れないリモートワークにもお籠もりにも前向きに立ち向かい、がんばりすぎずがんばるのみですね。
 チケット返金手続き作業はきっちりやって、お小遣い帳もつけて、コロナ日記もつけて(記録は大事だと思うのです)、そして戻ってきたお金はまた必ず散財します! 健康第一、だからこそそのあとの娯楽も文化も大事で、そこには引き続きお金をかけていくつもりです。宵越しの金ならぬ死に越しの金は持たねェぜ!の心意気です。そしてみんなが幸せに生きられる社会を目指して、次の選挙にもきちんと行きます。てかぶっちゃけ政策で選ぶんでいつも共産党の候補者に投票してるんですけど私…

 最初か、二度目の中止発表のときに心が折れかけて、誰かもっと脳天気な、贔屓の好きだけを語るようなツイートしない? 誰かなんか素敵なタグ作ってくれない? みたいなことを私はつぶやいたのですが、だからということではなくてごく自然発生的に、「愛してるよ宝塚歌劇団」というハッシュタグがすぐできて、みんなが想いの丈を語り、マスコミの記事になりおそらく中の人にも届いたかと思うと胸アツです(私が最初に作ったタグだ、という方がいらしたら、すみません)。今回、記事のタイトルにさせていただきました。
 改めて、劇団さんありがとうございます。いつもいろいろ言っていてすみません。でもそれは今後も続ける(笑)。コンプライアンスとか人権意識とかアップデートしてないのホントにヤバいし、トンチキクオリティもプロとしてどうなのよって限度がある。それはなくすために、良くするために引き続き、何度でも、私は言い続けます。単なる一ファンの批評にすぎませんが、「それが俺の愛なんだ!」(台詞バロりました)。無関心ではないから、愛しているから、指摘するのです。てかこっちだってわざわざネチネチ言いたかないよ、文句のひとつもつけられない、ぐうの音も出ないような完璧な作品出してこいっつーの!
 私が仕事で完璧なものを作れている、ということではありません。私の仕事への批評は仕事でちゃんと受けています。同じことです。
 そういえば卒業したヒメも「娘役という仕事」と言っていましたよね。プロ意識、大事です。たまたま政治家の家に生まれただけで政治のプロでもなんでもない人間が、プロへのリスペクトも何もなくただ政治ごっこしている事態に国民が殺されそうになっている今、なおさら強く感じます。「責めるな」だと? どの口が言うよ。責め続けます、批評し続けます、選挙で選ばれてしまった人たちだから監視し続けます。それは私たちの義務です、仕事です。国民のプロたらんとしているのです。
 同じように、あきれて嫌になってファンはやめるのは簡単なことかもしれないし、そういう人を責めたりはしません。でも私はファンだから、ファンのプロでありたいから、言い続けます。ファンの仕事をし続けます。それだけのことです。
 愛しています。重くてごめん。






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永江朗『私は本屋が好きでした』(太郎次郞社エディタス)

2020年04月06日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 副題は「あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏」。仕事だからつくる、つくられたものは流通させる、配本が多いから書店は平積みする、そんなしくみに忠実な労働が「ヘイト本」を生み、本屋の一角で憎悪を煽ることを「普通」のこととした…と訴える、「本屋にとってヘイト本とはなにか」を考える本。

 この著者は著作の書名を編集者につけてもらっているそうですが、そこにまたこの本のちょっとおもしろいところがあるよなと私なんかは思ってしまうのでした。だってこのタイトルだと、「好きだったけれど嫌いになるまでの本」「その理由としてのヘイト本について語る本」に見えるじゃないですか。でも、著者は最終的には別に書店を嫌ってもいないし、書店員にも書店経営者にも取次にも出版社にも編集者にもライターにもあきれかえったり絶望したりはしていないように私には見えました。むしろ彼らからものすごく真面目にていねいに話を聞き、経緯や現状を真摯に受け止め、あきらめず投げ出さず絶望せず、問題点を捕らえ対策を提示して終えていました。いい本だと思いましたし、業界の人間として真摯に受け止め考え行動したいなと思いました。
 そして、ちょっとズレた話ではあるのですが、著者はヘイト本がその後ろめたさとかだけど商売になるとかの観点から言ってポルノに近いと述べていて、でもポルノよりはるかに害があるというような話になっていくのだけれど(ヘイト本に関する本であってポルノを語る本ではないので当然かもしれませんが)、私はどっちもどっちというかどっちも同じ害悪を持つものだと思ったので、そこはやはり男性・女性の違いというかむしろ加害・被害の立場の違いで見えるものが違うんだろうなと感じました。現行のポルノはほぼ男性向け、つまりシスへテロ男性向けのもので、女性への差別や搾取や加害や犯罪と完全に地続きなものです。『Will』を買う女性がほとんどいないという話もあるとおり、もしかしたら女性はヘイト本には鈍感でポルノの方に敏感かもしれません。ほぼ確実に被害を受ける側だからです。
 そして最近の私は、出版社の社員としてヘイト本の仕事をしたことはなくても、青年漫画誌で水着グラビアを扱っていたことはあるし(正確にはグラビアを担当したことはなく、その写真を流用して作成していた表紙を担当していた)、少女漫画誌でたとえば女子高生と男性教師の恋愛漫画を担当していたことはあるわけで、そういう責任についてちょっと考え始めていたりしたので、いい読書になりました。それは今から10年前とか20年前とかの時期の仕事だったのだけれど、そのときより世界は良くなっているのだろうか、悪くなっているとしたらその一端はそういった私の仕事のせいでもあるのではなかろうか、今なお続行されたりむしろ悪化している部分もあるそうしたものにNOと言わなければならないのではなかろうか、でも言いづらいというより今の自分の仕事じゃないしなとかつい思っちゃうんだよなー…とか、これでも考えているのでした。
 こういう時期だからかもしれませんが最近ちょっといろいろ考えていて、なので引き続きちょっと自分語りをさせていただきますと、私はこのまま行けばあと10年で定年退職なんですけれど、ではその10年をどう働くかとかそのあとも働くのか働くとすればなんの仕事か働かないなら何をするのか、みたいなことを最近考えるようになっていて、そもそも本が好き、本を通して何かを発信し誰かに読んでもらい幸せになってもらいたい、それを通して世界をより良くしたい、みたいな思いで就職活動し運良く入社し働いてきたつもりなのでそれは続けたいと思っていて、でも作家とかクリエイターになれる気はしないしあんまりなりたいとも思っていなくて、編集者やプロデューサーみたいな仕事の方が向いてるしちょっとはできる気がするんだけれど、では定年後にフリーでピンで商売できるかと考えると私の今までの仕事は会社や雑誌の看板(ブランドイメージとか実際の部数とか流通経路とか)ありきのものだったろうからぶっちゃけ無理じゃね?としか思えないのですよ。
 で、まあそれはともかくとするとして、そんな中でこの本を読んだときに、本当はそんな先の漠然とした話より今、なう、ここでできることがあるんだろうなと思ったということです。たとえば今は営業として担当しているライトノベルのカバーイラストの目にあまる煽情っぷりに社内で何か申し立てする、とかね…煙たがられようとなんだろうと、誰かが何か言わないとなあなあで低きに流れるのがこの業界の常なのかな、とも思いますしね。
 そんなようなことを、いろいろと考えさせられたのでした。
 今や人種や国籍などを問わない新型コロナウィルスが全世界を震撼させていることもあり、人類がそれを学習していけばヘイトに関してもまた風向きが変わっていくのかもしれませんが、人は常に志高く理想を追い求めていかないと常に低きに流れ易きにつきがちで、そのしわ寄せは常にマイノリティにいきがちです。変に楽観せず注視していかないといけない、というのは平時と変わりないのかもしれません。
 みんなで、がんばっていきましょう…!



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