駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『奇跡の人』

2019年04月26日 | 観劇記/タイトルか行
 東京芸術劇場、2019年4月23日17時45分。

 1832年、アメリカ南部アラバマ州タスカンビア。ケラー家では、かつて南北戦争で大尉を担った“キャプテン”アーサー・ケラー(益岡徹)とその後妻ケイト(江口のりこ)が、熱病を患った1歳半の愛娘ヘレン(鈴木梨央)のベッドを囲んでいた。一命を取り留め安堵したのも束の間、ケイトはヘレンが視覚と聴覚を失っていることに気づく。5年後、ヘレンは何ひとつ躾をされず、自分の思いどおりにならなければたちまち癇癪を起こす手の負えない少女になっていた。救いを求める手は、北部ボストンのパーキンス盲学校で優秀な成績を修めたアニー・サリヴァン(高畑充希)へ…
 作/ウィリアム・ギブスン、翻訳/常田景子、演出/森新太郎、美術/二村周作。実話をもとに1959年ブロードウェイ初演、1962年には映画化。日本初演は1964年。全3幕。

 実は美内すずえの漫画『ガラスの仮面』でしか知らず、そのイメージだけで大空さんのサリヴァン先生にスミカのヘレンがいつか観たいな、なんてことを考えていた作品だったのですが、やっと実際に観られました。日本初演の演出は菊田一夫でアニー・サリヴァンは有馬稲子とのこと、さもありなん。歴代アニーだと大竹しのぶが有名でしょうか。今回の高畑充希はかつて二度ヘレンを演じているんですね。鈴木杏もヘレンからのアニーを演じているようです。そういうの、素敵ですよね。そのままケイトもやる流れになるといいと思うけれどなあ。ケイトっていいお役ですよね。
 史実だと、アニーが二十歳でヘレンがむっつのときのお話だそうです。ケイトは後妻で再婚時22歳とのことなので、このとき30手前くらい? そしてジェイムズ(須賀健太)はケイトのふたつしか歳下でなかったようですが、これは作品としてはもう少しだけヘレンに近い歳の義兄となっているのかな。これはすごくいい改変だと思いました。

 舞台としてはとてもシンプルでストレートな作りで、それもとてもよかったです。
 私はちゃんと観劇して初めて知ったのですが、これはマッチョな家長がいる南部の家庭に、北部の職業婦人が乗り込んでくる構造になっていたんですねえ。実際にはさらにさらに大変なことで、まさに奇跡的なことだったんでしょうねえ。というかタイトルロールって実はアニーのことだったんですねえ。というかとにかく素晴らしいアニーでした。
 若くてちゃっちゃいのももちろんお役にぴったりだと思うんです。だけど高畑充希は年齢とか見目なんかでは全然はかれない素晴らしい女優だと私は思っていますし、テレビドラマもいいけれど舞台でこそ輝く女優だとも私は思っているので(というかテレビドラマで見ると、やはり熱すぎ上手すぎ浮いていると個人的には感じています…)、この配役は本当にいいと思いました。
 私が観た回はたまたま学生団体が入っていたのだけれど、普段テレビで見るような女優が生で、その場でリアルタイムで演技をしていること、それを目撃できることに感動してくれたらいいな、と思ったりしました。また、舞台ならではのマジックに感動、感激してくれるといいな、とも。
 ワンパターンのセットでも、たとえば照明の効果やちょっとした小道具のチェンジで食堂にも寝室にもガーデン・ハウスにも変化すること。手前が庭で奥が屋内だと、壁なんかなくてもわかること。時間や空間が過去にも、夢にも、自在になること。パペット使いが目に見えていてもなお、操られるパペットがケラー家の愛犬ベルにちゃんと思えること…みんな、映像作品ではありえない、舞台演劇ならではのマジックで、もちろん不自由な部分もたくさんあるんだけれど、でもだからこそできること、見せられることがあるんだ…ということに覚醒してもらえたら、未来の舞台演劇ファンが増えるでしょうから、嬉しいです。
 私も、子供の頃に『ガラスの仮面』で読んでいただけでは理解できなかったであろう、感じられなかったであろうことをいろいろ読み取れて、楽しい観劇でした。
 この時代の南部の家庭でマッチョな夫に対するケイトの在り方とか、障害のある妹にかかりきりになられてないがしろにされがちな長男ジェイムズの不満とか寂しさとか、もうもういろいろたまりませんでした。益岡徹の口跡の悪さには閉口しましたが、他のキャストは子役含めみんな素晴らしかったです。
 見えない、聞こえない(話せない、というのはそこから付随するものでヘレンの発声器官そのものには問題がなかったのかもしれませんが)中で育った人間が、世界をどう捉えるのか…そりゃ比喩でなく暗黒の中にいるんだろうよと、想像するだに恐ろしいです。でも、知性はあるんですよね。あるいは育つというか。その人間として、というか生き物としての強さに感動し打ち震えます。
 ジェイムズは、ヘレンがアニーから教わった指文字を示すのは単なる猿真似にしかすぎず、意味なんかわかっていないのだと言います。ほとんど生まれたときから見えず聞こえず暗黒の世界に生きてきた人にとって、物に名前があること、そのスペル、それを表す文字、というものがひとつながりになるまでには、確かにたくさんのハードルがあるのだろうと私なんかでも想像できます。
 でも、ヘレンが覚えた指文字を犬のベル相手にしてみせるところで、すでに私はダダ泣きでした。ジェイムズは、犬相手にするなんてそれこそ意味がわかっていない証だと言います。でも、子供って、お人形遊びで真剣に人形に話しかけます。人形から応えがないことはわかりながら、自分でその分も担当しておままごとを続けたりします。それは犬相手でも同じだと思うんですよね。実際に返答があるかどうかとは別で、というかないと承知していてなお、大人にやってもらったことを今度は自分が下位の相手にする、という行為は、まあ動物でも似たことはあるんだろうけれど、とても人間くさい行動のように私には思えるのです。相手からはかばかしい反応が返ってこないことまでセットで、人に自分がやってもらったことをヘレンはベルに対してやっているだけなのです。人形や犬にそういう知性はない、ということはもしかしたら子供にはまだわからないことなのかもしれないけれど、だからって当の子供自身に知性がないということにはなりません。だからこのときのヘレンも、こういう行為ができるからこそ逆に白痴でもなんでもない、ってことを立派に表現しているんですよね。
 でもそれはこのときのアニーには伝わりませんでした。それで私はダダ泣きしたのです。
 このまま理解されないなんてつらすぎる…でもこれはお芝居だからうまくいくのだし、もっとすごいことにこれは実話なのでした。
 『ガラスの仮面』でもあった、いわゆる「ウォーター!」の場面をどう表現するか、というのはさすがに難しいテーマだな、とは感じました。熱病にかかる前の赤ん坊のヘレンがすでに「ウォーター」という言葉の意味をわかっていた、とこの作品ではされていますが(というかヘレン本人もそう言ってはいるそうですが)、うーんどうだろう。人の脳内で、しかもこういう境遇だった人の脳内で、物の名前とスペルと指文字、というものがひとつにつながった瞬間、なんてものはどんなふうにしても表現しきれないものなのではないでしょうか。私は正直ちょっと肩すかしだったのだけれど、そこは演出がどうとか表現がどうとかいうこととは別に、実際にある程度こうした経緯で本当にヘレンは目覚めたのである…という事実に、打ちのめされるように感動したのでした。そしてその前後の家族のエピソードも素晴らしい。そういうものが全部ひっくるまっての「ウォーター!」でしたよね。
 セット内の小道具を片付ける役として舞台に現れ、そのまま使用人一家として居残るキャストもすごく効果的でした。
 水を理解して、地面を理解して、ドアを理解して、お母さんとお父さんを理解して、そしてヘレンはアニーの胸を叩きます。この「物」の名前をヘレンは知らなかったからです。今まで聞いたことがなかったんだろうし、そもそもアニーも言わなかったのでしょう。
 アニー、と名前を綴るのかなとも思ったけれど、アニーは「先生」と綴りました。それは役割というか職業の名称にすぎないし、そのあとヘレンがさらにそうした職種とその当人を区別するルールの理解に苦労するだろうに…と思わなくもないけれど、名前より何より「先生」を自称するアニーの矜持に泣けました。そしてそんな新たな単語を習得したヘレンは、そのスペルを繰り返し、アニーの頬を撫でて確認し、そしてキスをする…
 これが泣かずにいらりょうか!!!

 その後のヘレンは史実によれば大学進学も果たし、婦人参政権獲得や黒人差別廃止や死刑廃止に向けて運動する社会運動家になっていった…というのも素晴らしいことですね。アニーも結婚したり破綻したりしながらもヘレンとともに歩んだのだとか。すごいなあ。
 先日書いた記事の舌の根も乾かぬうちに言いますが、再演するならアップデートを、みたいなことをこの作品に対して私が言わないのは、これが史実を基にしたものであること、また当時こうだったし今ならもうちょっと違ったかもしれないけれどとりあえずそれはまた別の話になりそうなので、といろいろ振りきってなお、心に響く普遍的な物語が残るからこそ、現代においてなおシンプルでストレートに演出し上演するのに耐えうる力がある戯曲だからこそ、だと考えています。
 子役がいるせいかもしれませんがソワレがやたら早い開演時刻で難儀しましたが、しかしいい観劇でした。満足です。

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宙海11初日雑感~カウントダウン澄輝日記

2019年04月22日 | 澄輝日記
 宝塚歌劇宙組大劇場公演『オーシャンズ11』を初日から四回連続観劇して帰京しました。
 星初演の感想はこちら、花再演の感想はこちら、外部版の感想はこちら
 原作映画は、私は映画にはまったくくわしくないのですが、ちゃんと映画館で観た記憶はあります。でも、まあこういうオールスター企画としてのハリウッド映画としてはまあまあよくできていたんじゃないの?という程度の感想で(何様だよ、ですよねホントすんません)、その世界初ミュージカル化となったこの演目に関しても、まあさすがイケコで手堅く舞台化しかつ上手くショーアップされてはいるとは思ったものの、そう何度も再演されるほどの価値がある秀作かどうかは私は疑問だけどな…という評価だったのでした。だから今回の三演決定にもあまりアガりませんでした。
 テスの職業の設定をキュレーターから歌手に改変するのは、ミュージカルとして妥当かなと思います。ホテルとなると環境破壊ないし環境保全とセットになるのはイケコの業なので、それはもうつっこみますまい。でもイレブンを揃えただけで1幕が終わり2幕はただバタバタして終わる、という構成の難にはつっこみを入れたいですし、泥棒行為に関して映画と同じことはできないにしても、手段として使用されるラスベガスのショーってこういうんじゃないんじゃないの?とは行ったことのない私ですら思うので、そこが私は何より嫌なんですよね。マジックとか、箱に女の子入れて剣を刺してアラ不思議でも生きてます、とかガラスの箱に入ったはずなのに1、2の3で消えちゃって…とかって、はたしていつの時代のイリュージョンなの? これまた観たことないんでイメージだけで言っていますけど木下サーカスとか、なんかそんなノリのショーとかマジックとか雑伎団とか、みたいですよね?
 怪傑ゾロ(笑)がそれこそゾロゾロ客席降りして目くらまし…というのも、まあある種のファンサービスとしては成立しているんでしょうけれど、これがマジック、イリュージョンとは片腹痛い…ぶっちゃけとてもダサく思えて私は気恥ずかしいんですよ、それが嫌。
 また、ピカレスク・ロマンとなると当然仇役がもっと悪いヤツでないと成立しづらいわけですが、宝塚歌劇はいうてもスターが悪役を演じるのでこの点はかなり不利ですよね。しかも今回ちゃんと観てみて改めて感じたのですが、ダニーもベネディクトも本質的には同じタイプの人間なんじゃないでしょうか。世の法律とか良識とかとは別にマイ・ルールがあって、それを良しとしているタイプ、という点で同類のアウトローなのです。手段を選びたい女であるテスには実はどちらも合わないのでは…テスがそれでもダニーを選ぶのには、だからもっと強い理由が演出できないとつらいんじゃないのかなあ。トップコンビだから、以上の何かが、まだ足りなくないですかね? ベネディクトがかわいそうに見えちゃったり、テスが調子いい女に見えちゃうんじゃダメなんだと思うんですよね。でもこの点は突き詰めすぎちゃうと、テスがどちらの男も選ばない、というのが正解、となっちゃいそうなので、難しいところではあるかなとは思います。
 でも、再演に関しアップデートしていくということなら、そういう選択肢も本当は考えなくちゃいけないはずなんですよね。イケコは今回のプログラムで、初演当時ご母堂を亡くし「軽口だが元気の出るエンターテイメントを求めて」この作品を創作した、というようなことを語っていて、そのコンセプト自体はもちろんまったく正しいし悪くないと思いますし、「ネバーギブアップ!」とか「ジャンプ!」というメッセージはいたって普遍的なものなのでそれはそれで素晴らしいのだけれど、でも一方で再演するなら時代に合わせたアップデート、ブラッシュアップは必ず必要なはずなんですよ。合わせた改変ができないなら、もう新作を考えていくべきなんですよね。
 テスは、現代に生きる若い女性なのだとして、エコロジーを学んだ大学生上がりの歌手の卵で、かつては夫が証券詐欺で稼いだ小金からライブの経費やデモテープの作成費を捻出してくれていたようですが、芽が出ず、あげく夫は逮捕され投獄され、そして次に現れたホテル王が今度は自分のホテルのショースターとして起用してくれようとしているわけですが、要するに男の庇護がないと何もできないってことなんじゃないのかとかそもそもホントに歌の才能あるのかなとか地球環境のためにする尽力ってそれで正しいのかなとか、アレコレつっこみたくなっちゃうじゃないですか。そんなリアル持ち込むなよ野暮だよって言われても、創作と現実は地続きなはずなので、まったく無視することはフェアリーが紡ぐファンタジーだとしても無理だと思うんですよね。
 でもそういう発想そのものがイケコには残念ながらないんだろうな、と思われるだけに(一方的に勝手に断じていてそれはすみませんが)、ちょっと、なんか、しょんぼりするんですよね…
 今なら、テスが違う道を選ぶとか違う男を選ぶとかの新たな物語が考えられるべきなのでは、ないのかな…
 そういう意味も含めて、再演するほどの、あるいは再演を重ねていくべき作品なのかなコレは?とは、私はちょっと言いたいのでした。

 でも、ゆりかちゃんダニーはそらカッコいいです。やっと来たスーツ姿の映える大人の男性の役、かつチョイ悪、でも惚れた女には一途で、仲間想いでもあるいい男。それは勝利。ただちょっと、想定内ではあるかもしれません。
 そしてこのダニーは、確かに女には不自由していないで来たかもしれないけれどテスにはちゃんと惚れていて、今後はもしかしたらテスのために変われる男であるようにも見えます。それはゆりかちゃんの実直さや優しさといった持ち味なのかもしれないけれど。ダニーが詐欺稼業から足を洗って額に汗して植林とかする男になれるなら、テスとの幸せな未来も想像できようというものです。
 そんなまどかにゃんテスですが、私はものすごく期待していただけに今のところ肩すかしで、やや残念な出来に思えるのでややしょんぼりなのです…先行画像もポスターもキリッとバリッとしていてともて素敵だと思ったんだけれどなあ。
 丸顔だし宙組にいると背が小さめに見えるしトップ娘役としては下級生だしで可愛子ちゃんタイプに見られがちなんだけれど、実は声も低いし芝居ができるし、ヘンにブリブリした役より強い女やしっとりした演技がハマるタイプだと思うので、テスは当たり役、一皮剥けてみせられる役になるだろうと期待していたのですよ。でも、なんかわりと、平凡だった…
 お衣装の改変がことごとく悪い方に出ているせいもあるかもしれないんだけれど、普通にやっちゃうとテスってホントしどころのない役になっちゃうんですね。そしてダニーもベネディクトもこの女のどこがいいの?ってなって作品そのものが崩壊しかねない気が今のところ私にはしちゃうのでした。今後の確変に期待したいです。まどかはデキる子、ジャンプだまどか!
 キキちゃんラスティーも想定内だったかなあ。主人公の親友、相棒役のちょっとチャラ目のいい男、なんてそりゃできるに決まってるし素敵に決まっていて…要するにもはや役不足に見えちゃうんですよ。そのあたりも、脚本がすでに甘くてスターの進化に追いついていないんじゃないの?と思える、この作品の弱点なんだと思うのです。
 ずんちゃんベネディクトは達者で素晴らしいだけに、何故「夢を売る男」を新バージョンにしてくれなかったのか、その手抜きも激しく疑問です。劇団はこの役を買っていて、ルキーニ以上のトップスター・メイカーだと捉えていると私は考えているのだけれど、だからこそ愛ちゃんをどかしてでもずんちゃんにやらせたかったんだろうと踏んでいるんだけれど、でもそうまでするなら新曲作ってあげてくれよと言いたいんですよね。ベニーからだいもんのときには変えたのに、ずんちゃんはだいもんママでいいんだ?ってなっちゃうじゃん、失礼だなあ。
 こういう雑さ、丁寧に仕事できていない感じ、手抜きが最近とみに散見される気がするのが、嫌なんです。やはり先日ちょっと提言したように、公演期間を伸ばして作家が新作にじっくり取り組める時間を捻出していかないと、先細りしていくだけなんじゃないのかな…本当に本当に心配です。
 あ、でもこのベネディクトはテスのことなんか全然愛していなくて利用価値があると思っていただけで、ネバーギブアップで次の利用できる存在を探すでしょうし、一夜の稼ぎくらいくれてやるよと嘯いて立ち直りそうなので、その懲りなさがいいし、作品を明るくしハッピーエンド感を強くしていていいなと思いました。


 さて、ここまで散々くさしてきましたが、それはそれとして今回のこの作品は、私にとっては贔屓の卒業公演なのでした。だからチケットが取り次いでいただける限り、通わないという選択肢はない公演です(ま、厳密には嘘で、あんま好きな演目じゃないしどうせチケ難で取り次がれにくいだろうと踏んで、最初からあまり申し込まず、遠征するのに観るのは梅芸星組公演、なんて連休もありますすみません)。その観点からの話をしますと、これはかなりありがたく、観甲斐のあるものになっていたのでありました。それに関しては本当に本当に感謝したいと思っています。
 以後、そんなお話です。

 フランク・カットン、かつて身内を勝たせすぎてラスベガスから追放された辣腕ディーラー。ともみん、あきらが演じてきた役。黒塗り、長髪、ナンバーあり。
 なんせあまり作品を買っていないので手元に録画を残しておらず、結局復習ができないままに初日に臨みましたが、その時点で私が持っている情報としてはだいたい以上のようなものでした。

 プログラムを読んで、まずプロローグに「FATE GUY」として出番があることは把握していたわけですが、まずは銀橋のゆりかちゃんダニーが囚人服から引き抜きでスーツ姿になるところに拍手を入れなきゃね、と思っていたところに、上手から本舞台にもうスタスタ現れるものですから、初日はもう気が気じゃありませんでした。初日は私は友会が当ててくれた上手サブセン席にいたので、ぶっちゃけド正面だったのです。出てくる順番とか立ち位置とかで類推できるというのもありますが、暗い中でもシルエットで、そして歩き方で、贔屓だとすぐわかるわけです。でもまだ暗い、だからオペラグラスで覗きたい、でもダニーに拍手しなくちゃなんないから手を空けておかなくちゃなんない、ゆりかちゃん早く脱いで!と気ばかり焦りましたすみません。
 で、引き抜き、拍手、本舞台にもライトオン! そうしたら!!
 黒タキシードに渋く光るブルーのベスト、浅黒い肌にリーゼント、ニヤリと笑うと白い歯が光る! まあセクシー!! まあタイヘン!!!
 一度引っ込んでまかキキが踊ったあと、再度あきりくが上下から出てきてシンメになりましたありがとうございますありがとうございます。その後はズラリ並んでバリバリ踊る男役さんたちが壮観! アガるプロローグはやはりいいものですね素晴らしいですね!!
 からの、プログラムでは「観光客(男)」の役名であきりく(とすっしぃさんときゃのんとららたん)のバイトがあり、ラスベガスの観光客ってまさかこんクレ!?と滾りましたがさすがにりくがピンクのワンピに着替える時間はなかったですね(^^;)。ドレスコード違反でカジノを追い出される田舎者の観光客のツアコンとして、アフロヘアにヘンな服着て、でも『王妃』のときのツアーフラッグ持っての登場でした。玲子さんはやめちゃったけど、戸川くんが金沢さんの資金援助であの会社を建て直したりしたのかしら…(笑)てかここ、千秋楽が白アフロだったら泣いていいですかね…?
 で、やっとフランクとしての登場ですが、確かカードテーブルごとセリ上がってきてライトついたら拍手だよねと身構えていたら、セリ上がりじゃありませんでした舞台奥からスタスタ歩いて出てきました、でもそのシルエットがもうすでにカッコいい…ホント贔屓目ですみません。初日は歌い終わりだけの拍手でしたが、以後の回ではすぐ登場時にも拍手が入るようになりましたありがとうございますありがとうございます。
 てか顔の素敵さにうっとりし歌声の素晴らしさに酔い身のこなしの美しさとダンスに震えてはわわわわとなっているので歌詞の意味がさっぱり頭に入ってこないのですが、男も女も理性を捨てて全額全人生貢げばいいってことでファイナルアンサー? はー、いいナンバーをありがとうございますありがとうございます。見えてませんが周りのダンサーたちもいいですよね、縁の人たちを並べてくれていますよねありがたや。
 うなじでひとつに結ったウェービーな長髪、額に落ちる一房、ヤラしい! イイ!!(笑)
 で、ダニーが現れて。「つまらん山には登らない」って言った端から「どんな山だ」って聞いちゃうのがなんかちょっといい人っぽくて微笑ましいです。むげに断りきれないのね、てかまあ退屈していたんでしょうねフランクさん。人生には恋と冒険が必要ですよね!(^^)
 並んで引っ込むときにダニーがフランクの背に当てる手が、紳士的なのがちょっとキュンとします。まかあきの微妙な距離感を感じるとも言う(笑)。だからもっとがっつりヤラしく肩抱き寄せてくれていいですよダニー!(笑笑)
 続いてエル・チョクロでの作戦会議場面、出たよ微妙にダサい私服姿…でもあきらのときにあったネッカチーフ?がなくなっただけでずっと良くなった気がします。てかデニムがホントすっきり細くて脚が長いので、むしろなんかちょっとお洒落に見えますよね。というかこの謎のウェスタン・スタイルなフランクさんは、アフリカン・アメリカンではなくてむしろネイティブ・アメリカンなのではないかしらん? ラモーン・エスカランテというのはヒスパニック系の偽名なのかもしれませんが、なんかインディアンっぽい本名も持っていそうです。
 椅子をソールに取られて憮然としつつ、もうひとつ取りに行く様子もいじらしいし、ラスティーに電気を消してくれと言われて身軽に立つ姿も愛しいし、そらライナスが入ってきて椅子につまずいて転んだらさっと電気をつけるのもデキる男っぽくてキュンキュンします(笑)。てかもうなんでもいい、肩すくめるのも苦笑いするのももうなんでもカッコいい。
 ここからの「JUMP!」の流れは、要するに男の子たちのわちゃわちゃ、ってだけなんですけど、やはり胸アツになりますね!
 パラディソのディーラーとして働き始めたらベストが銀と黒になって、これまたお洒落。胸元の名札すらお洒落。てかコレ缶バッジにして会販していただきたい。
 そこからはちょいちょい舞台に出ていてお客役の下級生たちと絡んでいるんですけど、どんな話をしているんでしょうねときめくわ。とても営業スマイルなだけとは思えないめっちゃいい笑顔してますよね。てかフランクさんと仲良くなる掃除のおばちゃんになりたいわ(お姉さんと言わせなさいイケコ、とは思うけれども)。テスが離婚届の話をすると動揺してカードばらまいちゃうのも超キュート(笑)。カードテーブルとセットのアクリルスタンド作ってほしいです(笑笑)。
 ソールの演技指導を経て、実際の演技の機会はそらライナスが変装した賭博委員に摘発されるくだり。別れた女房と養育費を払い続けている子供というのは、はたして実在するのでしょうかヤダわときめくわ!
 そのあとはりんきら、りく(ともえこ)とでオケピットから顔を出して、地下に潜るキキちゃんラスティーをからかうんだが励ますんだか、なくだり。懐中電灯がちゃんと真下から当てられていなくて、全然ホラーにできてないのもまた愛しいです。
 怪傑ゾロの客席降りは上手から。てかどなたかがつぶやいていましたが、ファンだと「俺だ!」の一言台詞で顔が隠されていてもだけが誰だかすぐわかるので、「ダニーはどれ!? わからないわ!」なんてならない、ってのがむしろおもしろいですよね。銀橋でベネディクトに順に首実検されていくときに、トランプ片手にめっちゃいい笑顔してみせるのがツボです。そんなキャラじゃないはずなんじゃないのフランクさん…
 あとはもうラストかな。りくバシャーがチャラくまどかテスを迎えて、でもフランクさんは品良くニコニコしているだけなのがいいですよね。やはり別れた女房に操を…(^^;)ダニーが離婚届にサインしようとするのを本気で心配して焦るようなのもいい。分け前、何に使うのかしら…別れた奥さんに会いに行って謝るのに遣うのでしょうか、ああ萌える。


 そしてフィナーレですよ!!!
 オーシャンズあるあるだったヘンなヒップホップは今回はないと聞いてはいましたが、娘役群舞のラストに大階段を下りてくる男役たちのセンターがずんあきでおおおおぉ、と震えましたよね。ここもプロローグと同じ髪型で(まあいつもの定番とも言える)、でも浅黒い肌にピンクのジャケットが映えて(全体としてはやや微妙に思えなくもないお衣装なのだけれど…なんかオーバーサイズの流行りの取り入れ方が違うんじゃないですかね???)、ニヤリと笑うは口開けるはのけしからん仕草で「FEVER」に乗って粋にまた気だるげにでもカッコ良くバリバリ踊ってくれて、大満足です。
 ゆりかちゃんが抜けてキキちゃんセンターになってからは、上手グループのトップをりくが下手グループトップをあっきーが務めるピックアップがあって、これは前楽から拍手入るヤツ、千秋楽はピンスポ当たるヤツ…!とさらに震えました。
 からの、宙組では最近意外となかった男役銀橋ズラリ! 上手先頭にしていただいていて本当に感無量でした。
 さらにさらにパレード、歌手メンバーにいるのはプログラムで確認していて、でもひとりではさすがに降ろしてもらえないだろうなせーこあきりくかなと思っていたらそのとおりで、でもせーこが先にお辞儀して一拍置いてからのあきりくお辞儀で、ここでもう一段階拍手のギアが上がるようになっていて、もうもうありがとうございますありがとうございます、です。
 さらにさらにさらにラインナップ、一度袖に引っ込んでいたあっきーがずんちゃんと並んでスタスタ戻ってきたな思ったら、お辞儀を終えて戻るすっしぃさんのさらに先へ、なんと内側へ入るじゃないですか…! そしてすぐ、降りてきているゆりかちゃんを見上げる、その横顔の美しいこと!!
 さすがに涙腺決壊しかけましたね、結局しなかったんですけど。やっぱりまだ泣いてないんですよ泣けていないんですよ、でも本当に本当に嬉しかったです。なんせしばらくずっとこの扱いをしてもらえていませんでしたからね。下手ではせーことりくがあおいちゃんの内側にちゃんといました。それでこそ、ですありがとうございますありがとうございます。
 ここでもピンクのタキシードが浅黒い肌に映えて、そういえば『王家』の黒塗りのときもフィナーレの変わり燕尾はピンクだったな、と懐かしく思い出に浸りました。
 ショーのある公演での卒業して餞の場面があるのが理想だったけれど、今回の枠の中ではまずまずきちんと扱ってもらえていて、とにかく安心しましたし本当に嬉しかったです。当然だろう、とかは言いません。本当に本当にありがたいです。
 ま、でもやっぱり四回続けて観ると穴も本当に見えてきて飽きを感じる場面もあって、エンドレス・フィーバーなだけでもいいなとか思っちゃったりもするんですけれど、このあとはダブルもしないし長逗留もしないし、そのたびに新鮮に楽しく通えそうで、一安心ています。中の人はまだまだバタバタで卒業をきちんと噛みしめる暇もなさそうに見受けられましたが、とにかく身体を大事にして、がんばって楽しんで幸せに走り抜けてくれるといいなと切に願っています。
 私にできることがあれば、できるだけするつもりです。引き続き、ここでうだうだ語るのにおつきあいいただけたら嬉しいです。






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とある提言をひとつ、ふたつ。

2019年04月18日 | 日記
 明日以降ドタバタしてしまうだろうから、そしてそれ以降はライトなファンになってしまってもううるさいことを言わなくなってしまうかもしれないから(愛の反対は無関心なので。ちなみに自分と世間とで「ライト」の辞書に乖離があるかもしれない、ということは意識してはいます。あと「うるさい」についても(^^;))、今、書いておきます。

 まず、本公演の上演期間を延長し、現行の4週間から6週間ないし7週間にしましょう。
 休演日を増やし、現行の週に1日から3週間に2日にしましょう。
 2回公演日を減らし、現行の週10回公演から週8回公演にしましょう。
 全国ツアーを減らし、現行の年3回から年2回にしましょう。
 年1回の博多座公演は続行し、中日劇場に替わる名古屋の劇場をどこか見つけて、年1回の名古屋公演をしましょう。

 働き方改革を言われるご時世です。エンタメ業界は勤務時間で仕事量を計量しづらい分野ではありますが、見直していかなければなりますまい。
 今、病気や怪我による生徒の休演が明らかに増えています。資本であるはずの生徒の身体に多大な負担がかかりすぎている証拠です。芸術だろうとなんだろうと、何はなくともまずは健康第一、なはずです。
 また、公演サイクルが短すぎて、めまぐるしすぎ、上演する作品の数と質が足りていないように思えます。新しく演出助手も雇っているのでしょうが、デビューに至るまでに時間がかかり、作家の数は絶対的に不足していて、なのに公演数はこなさなきゃならないからか、結果的にマンネリか駄作か再演か輸入翻案ものか、と目も当てられない状況です。早急に改善が必要だと思います。
 ひとつの組がふたつやみっつに別れて違う演目のお稽古にかかっていることが多いため、お稽古場も慢性的に不足していると聞きます。満足なお稽古ができなければ演目のクオリティが下がるのは当然です。
 なのに、公演チケットは初日前に完売し、ことに東京公演は連日立ち見が出る有様です。舞台がどんな出来、どんな内容であろうと、です。こんなことははっきり言って異常です。決して健全ではありません。
 他の舞台はともかくとして、宝塚歌劇はただチケットが売れればそれでいい、というものではないはずです。小林一三翁が目指していた、清く正しく美しく朗らかに演じられるべき国民劇は、そんなものではないはずです。
 収益ということなら、席料を上げてでも、客席稼働率85%程度で充分賄えるようにするべきなのではないでしょうか。たとえ演目の出来が悪いせいだったとしてもガラガラの客席は寂しいものですが、それはそれで甘んじて引き受けるべきものですし、そうではなくても常にある程度の座席の余裕はあるべきです。当日券も始発で行って並ばないと買えない、なんて状態は異常です。開演一時間前に暇ができたのでふらっと覗きに来た人が買える、くらいが正しいはずです。
 評判を聞いて初めて来た人がふらりと観られるような余裕が、常にあるべきです。でないと新規顧客は増えません。また、初日近くに観た人が、おもしろかったから公演終盤にもう一度観ようと思い、帰りしなにチケット窓口に寄って、希望の日時の回を席を選んで買えるくらいであるべきなのです。今回が1階席だったから次は2階席で、とか上手で観たから次は下手で、とかとか。豊かさって、成熟って、そういうことだと思います。そういう状態を作り出せるよう、早め早めに手を打って、変化していっていただきたいです。
 150年、200年を目指していこうというのなら、変化を恐れず、前進していかなければなりません。

 また、近く95期生をトップスターに揃えようが100期生を並べようがそれはそれでいいですが、それとは別に、トップスターは研10くらいで就任させて研12,3で卒業させた方がいいのではないでしょうか。
 もちろん男役の成熟には時間がかかります。けれど退団したときに40歳近いというのでは、その後のセカンドキャリアの可能性がかなり狭まると思うのです。進学しようが資格を取ろうが就職しようが遅すぎるということはありませんが、出産には肉体的な限界年齢があります。30歳そこそこでネクストステージに羽ばたかせてあげる流れにしていった方がいいのではないでしょうか。
 逆に娘役トップは、もちろんあらかじめある程度できあがっている子を受験時から採用しているのでしょうが、それでも娘役は単なる可愛子ちゃんではないので、娘役芸の習得に時間も場数もかかるはずなのであり、研2,3などで抜擢するのはやめてせめて研6,7まで待って就任させ、研10くらいで卒業させてあげるといいのではないでしょうか。
 また、娘役の方が上級生のトップコンビがいてもまったく問題ないと思います。そんなことで理想の男女の恋愛が演じられなくなるというような柔なことはありえません。そんな心配はスターの力量とファンの愛情を見くびりすぎていると思います。もっと柔軟に考えていいはずです。
 また、恋愛をテーマにしていないのであれば、トップ娘役の主演公演はもっとあっていいのではないでしょうか。おそらく集客も問題ないはずです。『愛聖女』がどうしようもない出来の作品だったのはかえすがえすも残念なことでしたが、すべての責任はもちろん作家にあるのであって生徒にはなんの罪もありません。娘役スターに関してはまだまだ探れる可能性があるはずです。変革を恐れてほしくありません。

 ごく個人的な提言です。
 でもすべてわりとマジです。
 でもここで言っているだけで特になんのアクションも起こしていません。そんな権利もないかなとも思いますし。
 でも真剣に考えています、だってファンだから。すみれの苑の永遠の繁栄を祈るからこその、ごくささやかな訴えをしないではいられなかったので、ちょっとまとめてみたのでした。






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宝塚歌劇花組『CASANOVA』

2019年04月18日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚大劇場、2019年2月18日13時。
 東京宝塚劇場、4月11日18時半(新公)、16日18時半。

 ロココ文化華やかなりし18世紀。ヨーロッパ諸国を跳梁し、世界中の女性たちを虜にしてきた稀代のプレイボーイ、ジャコモ・カサノヴァ(明日海りお)の、新たな冒険がアドリア海に面した水上の都ヴェネツィアを舞台に幕を開ける…
 作・演出/生田大和、作曲/ドーヴ・アチア、音楽監督・編曲/太田健。生田先生の一本立てデビュー。

 まず、二点。

 千人の女とやる男よりひとりの女と千回やる男の方がいい男なんじゃないかと私は思うのですが、どうなんでしょうかね。
 毎日違う女をナンパしてコトに持ち込めばたかだか3年で達成される数字ですし、逆にパートナーと週2でやって10年です。どちらもわりとリアリティがある数字なのではないでしょうか。
 カサノヴァは実在の人物のはずですが、そして手記だかなんだかが残されていたようですが、だから千人斬りみたいなのは単なる伝説というか噂に尾ひれがついた程度の与太話であって別に事実ではないのではないかと思うのですが、生田先生があえてそこを正面から取り上げているということはそこに先生の萌えがあるということですよね。ホント男性ってプレイボーイが好きだよね。というか自分がモテモテになることに憧れているというか、とにかくたくさんの女とやってみたいという願望があるんでしょうね。
 イヤ主語を大きくしすぎるのは良くないとわかっているんですけれど、それでもそう思わざるをえませんよ。そりゃ女だってプレイボーイは好きですよ? でもたとえ自分が最後の女になるんだとしても、それまで千人とやってきた男とかフツーにノーサンキューだと思うんですよね。だって人間としておかしいもん。それに時代はモテモテ志向よりも、好きな人に好かれる小さな幸せを噛みしめたい…みたいな方向に来ているじゃないですか。というかそれすらもういらないかもね、みたいなところに向かいつつあるのに、男は千年一日のごとく同じことを考えてるんだなーと思うとちょっとしょんぼりしますよね。ホント男って成長しないよなー…
 あまり細かくは覚えていないのだけれど、でも「サヨナラ公演に名作なし」という言葉の意味を私が初めて知った作品だったという記憶はあるのでおそらく凡庸な作品だったんだろう、四半世紀前にイケコがやらかしたオリジナル作品『カサノヴァ 夢のかたみ』と今回と、カサノヴァ像がちっとも変わっていないこと、その同じさ加減にとにかく萎えたのでした…
 もちろんこの作品は生田先生にとってエポックメイキングだったようなことはプログラムで語られているので、あえて、わざと同じにしているのかもしれません。けれど、史実とか実在の人物とかを扱うときに、そのままやったらただの歴史の教科書か偉人伝にしかならないところを物語に生まれ変わらせるためには、作家の個性や萌えや嗜好や考えが反映された改変が必要なものだと思うのです。なのにふたりとも、千人斬りで、でも真実の恋をして、でも恋人を置いて去って行く、ってところがまんま同じなカサノヴァを描いている。つまりソレがカッコいいって思っているってことでしょう? だから私は、男ってみんな同じでバカだな、言っちゃなんだけどちゃんちゃらおかしいわ、と言いたくなっちゃったのです。
 ヒロインとの恋が本当に真実のものなら、『エルベ』のトビアスよろしく船を下りて陸の人間になるって選択肢だってあるんじゃないの? それじゃ史実と異なるってんならバルビ(水美舞斗)にカサノヴァの名を譲って冒険を引き継がせる、でもいいんだしさ(この場合『CASANOVA』ではダニエラ(桜咲彩花)をどうするんだ、という問題はさておくとする。『夢のかたみ』にもバルビはいたけれど、恋人役がいたかどうかは覚えていません)。スパイなんて男の一生の仕事じゃねえぜ、って言わせるような発想は、たとえば、ないの?
 それか、千人斬りなんてのは尾ひれのつきすぎた噂にしかすぎなくて、確かに美男子でモテモテであることは変わりがないしそれを利用してきたところもあるんだけれど、本当にしてきた恋愛の数は常識的なもので、むしろそのプレイボーイであるという風評を隠れ蓑に各国を渡り歩き祖国のために諜報活動に勤しみ外交を影から助けている、本当は真面目で誠意ある聡明な男なのである…みたいなキャラクター像にすることはできないの? 別にこれは単なる一例で今思いついて書いているだけで決してこうしろとかこうした方がいいという意味ではありませんが、でもたとえば私ならこうしてみます。私は愛を軽んじ恋と戯れるだけの人間より、使命や生きがいをもって働いている人間の方が好きだからです。そのために多少の不自由があっても、やせ我慢して笑顔でがんばっちゃうような人間の方が好きだからです。
 ソレ全然カサノヴァじゃないやん、って言われたらそうですよ?としか答えられないし、だから私はカサノヴァを題材になんか選びません。でもカサノヴァでなんかやれと言われたら、たとえばこういうカサノヴァ像にしてもっと違う物語を構築します。自由に生きたいとかヌカすモテ男に私は萌えないんだもん。あと、そんな男、宝塚歌劇の観客にウケなかろう、納得してもらいづらかろう楽しんでもらいづらかろう、と考えるからです。
 でも、生田先生はそうは考えなかった、ということですよね。でも、それで本当によかったの?
 生田先生は作家として、何故カサノヴァなのか? この題材のどこがどういいと自分は思っていてどう惹かれていてどう作品にしようとしていて、どう観客に感じてもらいたいのか? ということを、一番最初にもっともっと考えるべきだったのではないでしょうか。俺はとにかくモテることにロマンを感じるんだ、と言うならそれは作家の主張であり個性だから仕方がないけれど、でもそれが観客に受け入れられるものなのか、観客が求めているものなのか、を問う感覚は持っているべきなんじゃないでしょうか。
 ま、宝塚歌劇の場合は、言うてもトップスターがやればそりゃ千人なんて楽勝だよね今劇場にいる二千五百人が夢中なんだもんね、って説得力が出てしまうわけだし、トップスターは本当はトップ娘役の相手役であるべきなんだけれど逆のことばかり求められがちでこちらは免除されがちなのでひとりで自由に旅立っていってしまっても黙認されることも多く、この演目に関してもそこはまあまあ容認されるというかむしろ好評な部分もあるのかもしれませんけれどね…(しかし一時期東西ともに主役がヒロインおいて旅立って終わっていたんだな、と思うとちょっとしょんぼりしますよね…まあおつうと違ってベアトリーチェ(仙名彩世)はある程度自分の意思で別れて残ったのではありますが)
 でも、みりおだもん素敵だもんしゃーないやん、だけではあかんと私は思うぞ、とは言っておきたいのでした。

 もう一点。
 宝塚歌劇の本公演の基本は、あくまで芝居とショーの二本立てであるべきだと思うのです。もしもショーを手放すのなら宝塚歌劇に未来はないと思います。二幕もののミュージカルをやっている劇団は他にもたくさんあるからです。
 だからまずは90分一幕の芝居を作ることが基本であって、よっぽど意味がある場合にのみ二幕ものは許されるべきなのだと思うのです。なので今回、何もないのに「二幕でなんかやって」と生田先生に依頼した劇団が間違っているのだと私は思います。
 実際には何もなかったわけではなく、ドーヴ・アチア氏の招聘が決まっていたから、なのかもしれません。でも、だったら彼に90分一幕ものの楽曲を依頼するべきだったのです。海外の作曲家だから、いつも二幕もののミュージカルを作ってきた人だから、と忖度しても仕方がないでしょう。だって宝塚歌劇をやってもらうんだから、そこは先方に合わせてもらいましょうよ。依頼する宝塚歌劇の方が海外ミュージカルの仕様に合わせることはないのです。それはアップデートとかポリコレ準拠とは話が違います。宝塚歌劇が出演者を独身女性に限っていることが男性差別ではないように、とあるルールでやっているというだけのことなのです。招聘するなら外の者に合わせてもらうのは当然です。
 また、ショーは通常1時間です。二幕でショーをやると休憩とフィナーレを別にしたら実質2時間15分くらいでしょうか。まあ長いよね。どんなにショーアップしても間延びするし集中力が切れるし退屈するのではないでしょうか。だから、ちょっとしたストーリー仕立てのショーみたいな体でこの演目を押し切るのにはやはり無理がありました。この時間を保たせるためにはもっとちゃんとしたキャラクターとストーリーとドラマが必要だったのだと思います。
 生田先生は、やるからには「祝祭喜歌劇」に逃げるのではなく、もっと緊密なストーリーとドラマのある作品に仕立てることを目指すべきだった、と私は思います。たいしたストーリーはなくても立派に成立していた『20世紀号』ほどのパワーやポテンシャルを作り上げるのはけっこう大変なことのはずだから、ドラマに逃げていた方がまだよかった、と言ってもいいかと思います。
 私は『ひかりふる路』をけっこう評価していて、しかもあれを一幕でやったところをわりと高く評価しているんですね。もっといろいろ足したり深めたりしてちょっと構成を変えればもちろん二幕ものにできたグランドロマンだったでしょう。でもそうしなかったことをとてもとても評価しているのです。だから生田先生にはとても期待していたんだけれどなあ…
 一方で、一幕にするのはどうにもこうにもムリやろ、というタイプの二幕ものがあるとももちろん思っています。そういうものは堂々と二幕でやればいいのです。要するに中身と釣り合っていることが大事です。そこはイケコにはやっぱり一日以上の長があると思っています。
 別に『AfO』だってたいしたことはやっていないんですよ。でもキャラクターがきちんと立っていたし、葛藤や障害のドラマがちゃんとありました。今回も、プレイボーイって実のところ何か、運命の恋って何か、自由って何かというあたりにドラマがひとつきちんと作れれば、その上で全体としてはライトなラブコメ、という体で充分におもしろく成立したと思うし、たとえ主役ふたりが別れて終わってもすがすがしく気持ちよい、という作品になったと思うんですよ…残念です。
 ともあれ、悪いのはそんなザツでランボーな依頼をした劇団です。猛省していただきたいですし、自分たちの劇団の強みや利点というものにもっとプライドを持っていただきたいです。


 …というわけで、私はこの演目を基本的にはあまり買っていません。マイ初日は当然ですが物語をつかもうと中心のキャラクターたちに注目し話の展開を追って、あまりの話の始まらなさ進まなさにとまどい、あげくしょーもなくまたあっけなく終わるのに仰天して「つまんねー、なんもねーじゃん!」となって終わってしまいました。
 ただ、東西1回ずつ程度しか観ないのであれば、話のなさやドラマのなさに目をつぶり、ただ楽曲の素晴らしさに浸り、お衣装の美しさを眺め、バイト三昧のスターたちをあれこれチェックしていれば目は足りないくらいであっという間に終わってしまうので、いいっちゃいいのかな…とも思いました。でも、贔屓がいたり、リピートせざるをえない人たちは、どう観てどう楽しんでいるのかな…とは、ちょっと案じられちゃったんですよね。余計なお世話だったのならいいのですが…すみません。

 というわけで(つなぎが繰り返しで芸がなくてすみません)、みりおはそりゃチャーミングで綺麗で歌が上手くて軽やかで艶やかで素敵でした。ゆきちゃんの集大成の美しさ上手さもさすがでした。
 れいちゃんは辛抱役でちょっと残念だったかなー、もっといろいろできるししなきゃ駄目な時期なんじゃないかなー。あきらも役不足だったんじゃないかなー、そしてちなつがいろいろできるのはもうみんな知ってるんだけどこういうことでいいのかなー、ところでこの組替えってどうなのかなー。マイティも出番は多くて目立つっちゃ目立つんだろうけど、これでいいのかなー。
 じゅりあもべーちゃんも、もっと見合った餞の役は書いてあげられなかったのかなー。華ちゃんも役としては全然埋もれちゃってるけど大丈夫なのかなー。並みいる男役若手スターたちもみんなこんなくらいのお役でいいのかなー。しかし咲乃深音ちゃんの顔は一度覚えちゃうと見分けがつけやすくてついつい見ちゃうな! ひっとんはもちろん可愛くて目立ちます、しかしそれはお役とはあまり関係がない…
 あたら逸材ばかりのこの組を、こんな役不足ラッシュでいいのかしらん…と、ついつい心配になってしまったのでした。みんなもっとずっと仕事できると思いますよ…

 お友達のおかげで新公も拝見できました。
 なんと言ってもせのちゃんがよかった! 私には臆せずのびのび舞台の真ん中に立ってキラキラ輝いているように見えました。そりゃ歌を始め足りないところはたくさんあったとは思います、でもとにかくカサノヴァっぽかった、自由で好きなようにそこにいるっぽかった、それが何よりよかったです。
 華ちゃんも、ゆきちゃんの物真似ではなくて自分の個性に引き寄せたような、よく考えられた役作りのベアトリーチェに私には見えて、感心しました。どんどん綺麗になっていきますよね。次期トップ娘役就任、がんばっていただきたいです。
 ほのちゃんはさすがの安定感で、でも収まりきったりはしていなくてちゃんとチャレンジしていて、上手さと美しさに磨きをかけていて、これまた感心しました。そしてひっとんがまた、男役が扮する女役の新公を新進娘役が演じるのはけっこうハンデだと思うのですが、素晴らしくやりきっていて殊勲賞!といった感じでした。
 バルビの愛乃くん、ダニエラのおとくりちゃんの手堅さが光り、ミケーレ伯爵に扮したはなこの渋さ上手さ色気が光り、メディニの侑輝くんとモーツァルトの希波くんの美貌に痺れました。あとアンリエットの咲乃ちゃんの色っぽさに震え、にゃんこ最下の美里ちゃんのすぐ発見できる愛らしさにも震撼しました。
 仮面舞踏会など大胆にカットされていましたが、十分な展開で(新公の演出は指田珠子先生)ラストはいっそドラマチックだったように感じました。とはいえ下級生で回すのは大変な演目だったろうとは思うので、良い経験になったのではないでしょうか。観られてよかったです。

 下級生からバトンを引き継いでトップ娘役に就任したゆきちゃんでしたが、本当になんでもできる達者な娘役さんで、髪飾りやアクセサリーへの並々ならぬこだわりはファンならぬ身にもビシバシ伝わってきました。組んだみりおもやりやすかったのではないかしらん。同時退団ではなく、ひとりスポットが当たるサヨナラショーもやって退団していけるのは幸せな巡り合わせでしょう。退団後もサロンコンサートとかをやってくれるならぜひ行きたいな。でもまずは大楽のその日まで、さらに美しく進化していき、そして続く娘役さんたちを鍛え導いていってくれることでしょう。頼もしい…その道に幸せの降り注ぐことを、お祈りしています。





 
 
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『まほろば』

2019年04月15日 | 観劇記/タイトルま行
 東京芸術劇場シアターイースト、2019年4月14日12時。

 とある田舎の本家、藤木家。かつては大勢の来訪者を迎えた客間は、使われなくなった家具が片隅に積まれ、埃を被っている。この家を切り盛りする母・ヒロコ(高橋惠子)は代々続く「家」の行く末を憂えていた。長女ミドリ(早霧せいな)は東京に出て行き仕事を理由に結婚をせず、次女キョウコ(中村ゆり)は未婚のまま子育てを終えて未だに実家に住み着いている。地元の名家として知られた藤木家はこのまま絶えてしまうのか。そんなある日、ミドリが突然帰ってくる。さらにキョウコの娘ユリア(生越千晴)までが前触れもなく現れる。年齢のわりにませている近所の子供マオ(この日は八代田悠花)、今は隠居の身の姑タマエ(三田和代)を合わせて六人、男衆が留守の間に女たちの赤裸々な会話が始まる…
 作/蓬莱竜太、演出/日澤雄介、美術/土岐研一。2008年に栗山民也の演出で新国立劇場で初演、翌年の岸田國士戯曲賞を受賞、2012年に同キャストで再演されたものを劇団チョコレートケーキ主宰の演出で再々演。全一幕。

 再演を観ているお友達がおもしろかったので、と誘ってくれたのと、チギちゃんが初めてストレート・プレイに出るというので、出かけてきました。先日の俳優座観劇のときも言いましたが、劇団チョコレートケーキも観たことがなかったので。
 とてもおもしろく観ました。でも、授賞当時もけっこうあれこれ言われた作品だったそうですが、さもありなんとも思いました。劇団モダンスイマーズもこれまた私は名前しか知らず観たことがないのですが、かつては男性だけの劇団だったそうですね。その座付き作家で「男芝居の蓬莱」と呼ばれた人が「女性だけの芝居を書いてみないか」と言われて書いたという作品だそうです。そして初演は十年前。しかし当時でもすでにリアリティとファンタジーは半々くらいだったのではないかしらん…
 思えば私は戦後の高度成長期に急速に核家族化したサラリーマン家庭の子供として育ち、両親とも実家とあまり折り合いが良くなかったこともあり、子供のころの私がいわゆる「田舎のおばあちゃんち」に行く機会はそう多くはなく、またその田舎も八王子と横浜の外れだったので、要するにこういう、襖を開け放つと大広間になるような座敷のある家、三世代も四世代も同居する家、本家とか分家とかがある家、野山に囲まれて夏祭りがあるような暮らし、というものを実体験としてはまったく知らず、ドラマとか映画とか本とかで見聞きした知識としてしか知らないので、そういう意味では私にはこの世界はもうほとんどファンタジーなのでした。また私には姉妹もいないし、甥も姪も今のところおらず、妊娠も出産もしたことがありません。こういう生き方、家族の在り方は、やっぱりある種のファンタジーのようにも思えるのでした。
 でも、ひとり暮らしではありますが家族の中の、働く妙齢の女です。まだ生理もあります、手帳に付けてます(笑)。結婚を考えたこともあります。だからいろいろわからないでもないし、こういうこともあるだろうなあとか、自分だったらどうするかなあとかは、いろいろ考えながら観られたのでした。
 ただ、私は記憶をなくすほど呑んだことはありません。そんな怖いことはできません。ちょっと知恵がある女ならそれくらいセーブできるんじゃないでしょうか。そしてもし、自分が泥酔してセックスした記憶もないのに妊娠していたら、相手を少しばかり憎からず思っていようがなんだろうが、自分が嫌で堕胎か自殺するんじゃないかと思います。それくらい、私は自分の身体を大切に思い自分で自分の身体を支配することに血道を上げているんですけれど、この作家は登場人物たちをそうは描いていないんですよね。
 あるいはニッタにしても、泥酔している女に対して避妊もしないでセックスして、かつその後三か月かそこら彼女に対してなんのアクションも起こさず知らんぷりしていられる男として描かれていますけど、それでいいんですかね。もし彼もまた記憶がないくらい泥酔していたのである、ということなら、そもそも勃起も射精もできないだろうと私は思いますけれど、そのあたりはどういうことにされているんですかね。というか一体に男は自分の孕ませ力を過信しすぎていると思うんですけど、どうなんですかね。
 ミドリがもしニッタを本当にただの上司でむしろ仕事ができないしょうもない男だと思っているんなら、妊娠したことを理由にほだされることがあるとは私にはまったく思えません。それは女のことも赤ん坊のことも馬鹿にした展開だと思う。このご都合主義にはそりゃ永井愛は噛みつくよ、と思います。
 だからこんなことを、男なんかに書かれたくないよな、と思ってしまうのです。どんな顔して書いたんだろうとか、今この芝居を観て大声で笑っているおじさんってどんなつもりでいるんだろうとか、不思議に思ったり意地悪く考えたりもしました。こんなんじゃないよ、男に女の何がわかるんだよ、こんなふうに描くなよ、と思った部分も多々あります。こんなこと書いてる暇があるなら、もっとやんなきゃいけないことがあるんじゃないの?とかね。あんたたちところでちゃんと子育てしたの?とかさ。
 プログラムの、再演に関する徳永京子氏のコラムにはまったく同感です。だから次にこの作品が再演されるときには、もっと登場人物の年齢設定に見合った実年齢の女優を起用して、女性演出家がもっとウェットに作ってみてもおもしろいんじゃないかな、と思いました。

 ミドリやキョウコ(名前がカタカナ表記なのもある種のファンタジーさを表しているのだろうと思われますが、それもまた逃げのようで業腹でもあります)がキャラクターの実年齢よりだいぶ若く見えてちょっと混乱したせいもありますが、細かい設定が見えなかったりよくわからなかったりしてリアリティが感じられなかった部分があったのもちょっと引っかかりました。キョウコが未婚で子供を産んで、でもその子供が成人して東京に出て行くくらいには時が経っていて、今なおキョウコは実家にいて、それが認められてるんだったらもうそれは完全なる既成事実で今さら周りの誰も何も言わないんじゃないの?という気もするし、でもそれはあくまでキョウコが次女だからであって、長女のミドリが婿養子を連れてくればチャラになることだからそれをずっと待っていたのである、というなら、初演が十年前で当時も物語の世界は現代ではなく少し前だったのかもしれないけれど、そんな時代に女が四十になってたらそれはもうもっと全然以前にもっと問題になっていたのではないかなあ、とか、ミドリは大学はどうしたのかなあ、いつ上京したのかなあ、仕事は堅そうではなさそうだけれどなんなのかなあ、本当に結婚する気があるのならもっと手段はいろいろありそうだけどなあ、とか、つっこみ出すとわりとキリがないのでした。
 あとさ、おしっこかけたスティック、人に見せますかね? たとえ家族でも?? 洗っても拭ってもなんかヤじゃない? もちろん私もあの手の妊娠検査薬は使ったことがあって言ってるんですが。あ、「チェックワン」なんて商品名が出てきたところはおもしろかったな。ヤクルトが出てくるのとは意味が違いましたよね。でもだからってこれがリアルだって単純な話ではないとも思いますけれどね。

 私は当初ヒロコはすでに未亡人なのかなと思ったくらいなんですけれど、姉妹の父親はまだいるんでしたね。でも何も言わないらしい。でも周りの女たちが忖度して動いて回っているわけですね。あーヤダヤダ。そしたタマエも今は理解があるふうだけれど、かつてはヒロコが女の子しか産まなかったことをやいやい言ったに違いないし、ミドリが東京に行くことにもいつまでも結婚せず帰っても来ないことにもやいやい言った時期があったろうよと思うんですよね。だから、男社会が悪いと一方的に言うつもりはなくて、荷担する女も悪いんだし、でも一方で人は変われるし、また別にむりやり強いられているばかりじゃなくて自分だって家族のためにそうしたいと願うこともあるわけです。だから家族は難しいし、好きに生きるのもままならない。自由が増えて選択肢が増えたようでも、ままならないことはある。愛があるから、生き物だから、難しくて、せつなくて、愛しい。
 男たちは女を孕ませることはできるけれど、自分の子供ができたことも知らされないままだったりもする。そしてただ神輿を担ぐことしかできない、させてもらえていない。女たちは妊娠、出産を引き受けざるをえないけれど、男に知らせないこともできるどころか、子供の生殺与奪権を握っている。両方いないと世の中回らないんだから、男はこんな芝居書いたり観て笑ったりしている暇があるなら自分の女にもっと気を遣うところからやれよとホント思いますが、こういう芝居を観てそう思える女の私はつまりは男を愛しているということだし、ならばまだ希望はあるということだよ、とも思いました。真に女に絶望される前に目を覚ました方がいいよ男性諸君、とはホント言いたいですけれどね。

 そして、観ていて私はオチの予測がそのちょっと前からついたんですけれど、そのとおりになって、そしてそのときのマオの様子がとてもとても良くて、ミドリの言葉がてらいなく染みて、うっかり泣いてしまいました。
 ちょっと前に、初潮を迎えたときにお赤飯を炊いて祝われるのが嫌だ、恥ずかしい、あれはアウティングであり家庭内の人権侵害だと思う…みたいな話題がありましたが、私は昭和の娘なのでお赤飯を炊かれた記憶がありますし、でも特に誇らしいとも恥ずかしいとも思わなくて、そういうものだとして済ませてしまった気がします。父親が嬉しそうだったとか気恥ずかしそうだったとか嫌がっていそうだったとかもあまり記憶がありません。
 私自身は、赤ちゃんに歯が生えた、とかハイハイした、立った、歩いたと成長を祝うのと同じことで、肉体的な成人というか成育というかひとつの到達点なのであって、充分に寿がれるべきことだと考えています。健康で自然なことだと思います。いろんな事情でそうならない体を持つ人が不健康で不自然だということではもちろんありませんが、そこから考えればやっぱり、祝っていいことだと思うのです。面倒だとか不自由だとかなんで女ばっかりとか、そういうことはそのあとのこと、また別の問題なのだと思うのです。そして一方で閉経は、祝われることでもないかもしれないけれど、だからもう女として終わりだとかあとは死ぬだけだとかいうことではもちろんないと思います。
 女は女の体を持って生きていく。人は自分の身体から離れて生きていけない。男同士が愛し合うことも女同士が愛し合うこともあるし、男でも女でもない性別もあるのだけれど、今のところ男と女の間でしか子供はできず、子供は女が産むしかない。そうして命をつないでいくしかない。
 まほろば、という言葉は、家庭を最小単位とする国の、人の世の、美しい理想的な在り方の場所、を指しているのかもしれません。だとしたら、今のこの舞台の、女だけしかいない空間は、確かに道半ばなのでした。

 長崎出身のチギちゃんが、東京弁をしゃべって鼻白まれるようなミドリを演じているのがなかなか楽しかったです。あと、かつてヒロコを演じた三田和代が今回タマエをやっている、というのはとても素敵だと思いました。
 私は主にミドリかマオの気持ちでこの物語を観ていましたが、そして戯曲の主人公はミドリだけれど今回はヒロコとして演出しているようなことが語られていましたが、そんな単純なものでもなかったように思えたので、観る人がそれぞれいろいろ思い至るお話なんだろうなと思いました。男はお呼びでないところも含めて、おもしろい作品だなと思いました。楽しい観劇でした。

 
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