駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『建築家とアッシリア皇帝』

2022年11月29日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2022年11月27日13時。

 絶海の孤島に墜落した飛行機から現れた男(岡本健一)は自らを皇帝と名乗り、島に先住するひとりの男(成河)を建築家と名付けて、近代文明の洗礼と教育を施そうとする。お互いの存在を求め合いながらもぶつかり合うふたり。そのうちふたりはいろいろな人物の役を演じ始め、数々の「ごっこ」遊びを繰り広げながら、心の奥底にある欲望、愛憎、そして罪の意識をあからさまに語り出す。その行為はやがて衝撃的な結末へ…
 作/フェルナンド・アラバール、翻訳/田ノ口誠悟、上演台本・演出/生田みゆき。1967年パリ初演、74年日本初演のグロテスクでエロティックな「パニック演劇(テアトル・パニック)」。全2幕。『毛皮のヴィーナス』に続く「トラム、二人芝居」第二弾。

 スペイン内乱後のフランコ独裁政権下に育った作家で、権力者への抑圧に対する抵抗とキリスト教による魂の支配への反駁、自らを支配する母性への反発が根底にある作風、なんだそうです。母性って子を持つ母である女性が持つものかと思っていたので女性作家なのかと思ったら息子側なわけで、そのあたりの過剰さは母ではない女性である私は正直「知らんがな」とちょっと思いましたが(このあたりを意識的により大きなものへのメタファーとして演出した、とプログラムで語る演出家はさすがお若い女性だなと感じました)、まあ人はみな母親から生まれるのだから多少のこだわりは仕方あるまい、とも思いますし、それを含めてもとてもよくわかる、おもしろい作品で、大興奮で観ました。
 不条理劇と分類されるものだそうですが、全然そんなふうには思わなかったなあ。ちゃんと作品世界にルールはあり、だから途中オチが予想ついたし、そのとおりになって、完璧な円環が閉じて物語は終わりました。素晴らしいと思いました。エログロ含めて私は好きです。すごく好きと言える演劇作品にまたひとつ出会えた、という喜びに震えています。
 翻訳家は今回、「『不条理劇』『68年の演劇』と言ったイメージからいかにアバラールという作家、『建築家とアッシリア皇帝』という作品を解放し、現代日本の文脈に着地させるかが焦点」と考えていたようですが、それはすごく成功していたんじゃないかしらん、と思いました。今回は直訳台本を演出家と役者が稽古の中で上演台本にしていくクリエイションがあったそうで、その効果かすごく出ていたと思います。台詞がとてもいい日本語で、それは単に聞きやすいとか理解しやすいとかではなくちゃんとざらりと引っかかるところも残しつつ、いい感じにアップデートされていてナチュラルで今っぽいのに普遍的な言葉になっている。今やるから今の風俗の言葉を足しました、なんてものじゃなくて、原作の精神にあるものをちゃんと今のものに置き換えることができているんだと思うんです。ストレスがなく、しっかり笑えて、ざらりと引っかかれて、とてもよかったです。
 別の回のポストトークのレポツイートで知ったのですが、当初は世田パブの芸監の白井晃さんと長塚圭史さんでやろうか、みたいな企画だったそうですが、体力的なこともあってお若いキャストとしたようで、さもありなんだし結果よかったのではないでしょうか。だってコレ本当にタイヘンだと思う…「身体性が極めて重要な本作」に今の岡本健一と成河は必要だったし、ベストだったのではないかしらん。セット(美術/堀尾幸男)も素晴らしかったし、わざとベタなんだろう音楽もすごく効果的だったと思いました。これは演出家が音楽の素養がある人だそうなので、その効果かな。
 人はひとりなら神で万能で、逆に言えば無なんだと思います。もうひとりと出会って初めて、「自分」と「他者」が生まれる。それが滅びへ突き進むしかないのは、やはり同性同士だからなのかなあ。性愛は生まれても子供は生まれない、世界は広がっていかない。収縮し、またひとりになり、次の「他者」の訪れがあってまた世界が始まる…その円環。ふたり芝居の企画は男女、男優ふたりと来たんだから次は女優ふたりの作品をやってもらいたいところですが、流行りの性別入れ替え翻案をしたら、たとえばこの作品は女性ふたりの物語になりえるのかしらん、とか考えるのもまたおもしろかったです。それを考えると女は男よりはひとりで自己完結して満足していられるような気もするけれど、どうかしらん…
 関係性萌えみたいな視点で言えば痴話喧嘩プレイのいちゃいちゃBLでしたし、清水玲子『22XX』も想起したけれどロボットにこれはできないわけで(いや人間でも本当はできないのだけれど、それができる演劇の凄みを感じましたよね)、やはり人間の、人間らしい、人間だからこその物語なのでした。
 日本初代の皇帝役は山崎努だったんだそうな。それはまた…ところで私はこの作品はタイトルだけは知っていて、上演を知って絶対観たい!と手を尽くしたのだけれど、どこで、なんで知ったんだったかな…
 立ち見も出る満員盛況でした。ちなみに開演直前に全館停電が起き、すぐに非常電源で非常口ランプなんかが点灯したのですが、急な暗転だな、非常灯を点けてやるのも珍しいな、とかのんきに考えていました…ら、技術スタッフさんが出てきて停電と、システムチェックに15分ほど開演が遅れるアナウンスをし、その後はプロデューサーさんが出てきて、停電の原因は調査中だがチェックは済んだしなんとか始めたい、途中何かあったらそのときはキャストともども乗り切ろう、みたいなスピーチをして客席から拍手喝采、そして本ベルとなったのでした。でも滞りなく上演されて、よかったです。
 そういえば幕間に成河が舞台の片付けをずっとしていて、休めないじゃんとか思ったんだけどその直前の30分くらいは岡本健一のひとり芝居ターンだったんでした。おもしろいなあ、お洒落だなあ。絶妙な客席いじりがあったのもさすがでした。
 しかしこれを昼夜二回公演する日もあるとはなんとタフな…千秋楽までどうぞご安全に。どうかたくさんの人に観てもらえますように。完走をお祈りしています。



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宝塚歌劇月組『ブラック・ジャック 危険な賭け/FULL SWING!』

2022年11月28日 | 観劇記/タイトルは行
 梅田芸術劇場メインホール、2022年1月18日15時(初日)、19日11時半。
 市川文化会館、11月26日16時半。

 1980年代中頃、かつて英国領だった南米のとある小国で軍事クーデターが勃発する。エンリケ将軍(春海ゆう)がヴィクトリア女王(麗泉里)を暗殺し、全世界に向けて独裁を宣言したのだ。しかし、謎の外科医の治療によって女王は奇跡的に一命をとりとめ、状況は一転。クーデターは失敗に終わる。天才的な腕で女王の命を救った医者の名前はブラック・ジャック(月城かなと)。彼は一躍注目を浴び時の人となる。そのころ、英国でもクーデターの様子は報道されていた。国際情勢の分析に優れていると評判のブックメイカーのケイン(風間柚乃)は、このクーデターを賭けの対象にして売り出していたが、相棒のジョイ(礼華はる)とともにほとぼりが冷めるまで外国に逃れようと空港へ向かう…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、作曲・編曲・録音指揮/高橋恵、振付/謝珠栄。手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』よりオリジナル脚本で舞台化し、1994年に花組で上演されたものの再演。

 初日の萌え萌え日記はこちら
 その後市川で観ると、開演アナウンスからもう本当に素敵で沁みて(声があたたかでいい、発音がクリア、人柄と作品の世界観が表れている)、会話のテンポや間合いはさらに良くなり、れいこちゃんブラック・ジャック先生はさらにハートフルにヒューマニティ全開の素敵な先生に仕上がっていて、くらげちゃんアイリス(海乃美月)は職務にドライなところとケインの心配をするウェットなところとの差がちょっとだけ出るようになっていて、おだちんのケインもミキちゃんの天性のチャラさみたいなものはどうしても出ないんだけどより砕けて素軽くなっていて、ぱるジョイとまのんローラ(花妃舞音)の別マ度が上がっていました。病院のロビーで、ケインが気にしていないとわかったくだりの視線での「ね? な? 大丈夫だったろ?」みたいなイチャイチャ会話がわかりやすく、また熱くなっていて、キャッ!でした。そらケインも「なんだ、俺は邪魔か」って言うよね(笑)。あとブラック・ジャックの影(みんながあれは誰だったの?と調べ出す一輝翔琉、月組期待の新進ダンサー。私には初演のチャーリーが非常に思い出深く…役がない作品なので救済措置のひとつだったんだろうけど、非常に演劇的でいい役だと思うし、大好きな役です)の歌の最初の音がもう少しだけ出るようになっていました、偉いぞ! ダンスはあいかわらずキレッキレの体の利き方で目を引き、芝居としての佇み方も絶妙で、ホント磨かれてきているな、と思いました。
 というか脚本がどうしようもないと私が二度目の観劇をやめた『エルピディイオ』同様、月組子の演技力、芝居力は素晴らしく、それがないとダレて支えられず空中分解しかねない作品だよな、とは改めて思いました。長い台詞の応酬が何度もあるし、長台詞もある。そこで言葉として訴えられていることとそのときのその台詞を発している登場人物の感情、その発言に至る過去のいきさつや想い、それらを通して作品が発しているメッセージ…それらがすべて上手く伝わらないと、観客に届かない、響かない、ダレるシーンになりかねないと思うのです。それを緊密にきっちりやって客席に届けている、作品として成立させている月組子がすごい、としみじみ思いました。あの原作漫画からこういう物語を構成しこういうメッセージを作り出すハリーもすごいが、それを漫画キャラの頭身や空気感まで醸し出しながら体現し演技してみせる月組子の技量は本当に本当に素晴らしい。
 作品そのものも、派手さはないしわかりにくさと紙一重だと思うけれど、ちゃんとエンタメに仕上がっていてかつ残るものがある、私はとても好きな作品だ、と改めて思いました。ある種の当て書きをされていたにもかかわらず、当時の花組より芝居としては良くなっているのではあるまいか…まあでも再演たるもの、そうあるべきですよね。本当によかったです、好き!

 よくよく考えると、英国情報部がいつ何をどこから知っていてどこで介入したのか、というのはけっこう謎だし闇が深いです。つまり、女王の手術を依頼したのが英国情報部なのはその手術料を負担しているからそうとわかるわけですが、そしてそれは世界平和のためとか英国と友好な関係を構築してきた小国の民を救い民主政治を続けさせるため、軍事クーデターをつぶすため…ではあるんだろうけれど、そもそもクーデターの計画を知っていたなら起こさせないことはできなかったのか、クーデターは女王暗殺とセットだったのだろうけれどせめて暗殺だけは未然に防げなかったのか、とかが怪しくてキナ臭いわけです。英国情報部は彼らの考える利益のために動いているのであり、クーデターが起こり女王が銃撃されしかし死なせず救った方がいいと判断したからその「危険な賭け」に出たわけであり、それが英国にとっての最大の利益を生むと考えたのでしょうが、ブラック・ジャックの奇跡の腕があっても女王は助からなかったかもしれないし、すぐ平定されたとはいえクーデターで多少の死傷者は出ているのかもしれないわけです。そういうことは大義の前には目をつぶる、とスノードン(凛城きら。素晴らしい専科仕事でこれからも全組に出るべき)は言っているに等しく、それに対してブラック・ジャックは「そもそもあんたたちの名前だって俺は知らないよ」と喧嘩を売ってみせるわけです。俺は大義のために人を救ったのではなく、依頼されたから手術しただけで、それが敵方だったとしても引き受けたろう、誰にとっての敵方なんだ、悪人と善人の命に差はあるのか、善悪は誰が決めるんだ、俺は命に区別はつけないよ、みんな平等にひとりひとつしか持っていないもの、それが命だ…という、彼の信念は「わからなくてけっこう」だけど冒頭にまず披露される。そこがもう、いい。ニクい。素晴らしい。
 金をもらえればどんな手術でも請け負うけれど、生死を分けるような「危険な賭け」にはおいそれとは乗らない、のがブラック・ジャックでもあります。ケインの銃創は手術するにはあまりにも危険で、日常生活を気をつけつつ送れば十分生きていけるんだからその方がいい、と判断できるし、そうする。まして依頼人が当人ではなく、当人の今の暮らしや居場所も知らないような「他人」ならなおさらです。元「恋人」でも、当人と同じところに降りていけていないなら(この上下の表現は差別的ではあるかもしれませんが、リアルだとも思うのです)、その心配や配慮は相手より自分のためではないのか?と突きつける。それが愛した女と同じ顔をした女なら、なおさら。かつて自分たちは悩みに悩んで苦渋の決断をし、その選択を引き受けて今なお苦しみを抱えながら生きている。同じだけの覚悟はあるのか、自分は何も捨てる気がないようなのに、相手にだけ賭けに乗れと言う権利はないんじゃないか、と彼がアイリスに突きつけるのは、明らかに恵との思い出に揺さぶられ過剰にムキになっているからでもあり、その弱さやもろさ、人間臭さがにじみ出ちゃうくだりでもあります。全然クールでも冷酷でもないの、ホントいい。
 アイリスが知らなかっただけで、ケインが未だ情報部の機密にアクセスしていることをスノードンは知っていて、泳がせていた可能性だってあります。武器商人の一網打尽の計画は一朝一夕にできたものではないかもしれないのですから。アイリスはケインの被弾と退職後も組織に残り、それは世界平和を目指す大義や職務への誇りを感じていたからだろうけれど、そうした想いが利用されている面は確かにあり、その点もブラック・ジャックは突いているわけです。
 アイリスは最後にはケインを取って職を辞します。利用されることから降りられて、よかったのでしょう。ブラック・ジャックに詰められた結果でもあると思います。一方でケインは、武器商人をお縄にできるとっかかりが作れそうだとなると、もはや情報部の人間でもないのに命を捨ててでもスノードンに協力しようとする。彼もまた世界平和といった大義に目がくらんでいるのです。ただしアイリスは来させない。愛情ゆえに彼女を危険から遠ざけたかったのかもしれませんが、自分を置いてバリバリ働いていた彼女への意趣返しでもあるのかもしれません。そのあたり、男は幼稚だから十分ありえると思うんですよね。「これは俺の仕事だ」という無駄な線引き、男のメンツ。でもその後の病院ロビーの場面で、アイリスの手術を待って身を引き裂かれるような思いをして、やっとアイリスが自分に向けてくれた想いに気づく…
 れいこちゃんは梅田2回目でしたっけ?のカテコで「いつでもみなさんの心を手術します」と上手いんだかなんだか微妙なご挨拶をしたものでしたが(笑)、ブラック・ジャックは確かにふたりの心の病をも治したのでした。
 ところで初演プログラムの脚本をざっと読み返して気づいたのですが、最後の空港ロビーで、ケインを看病するアイリスの献身を「あの彼女が意外と女性らしく」みたいにスノードンが冷やかして言う台詞があったのが、今回はカットされていましたね。正しいアップデートだぞハリー! どちらも似たような手術の大変さで回復具合も似たようなものなのでは、と思うし、おじさんはこういうしょーもないセクハラ冷やかしをしがちだしそれはキャラ立てとして有効でもあるけれど、ここでわざわざそうまでスノードンを下げなくてもいい、という判断が効いたのでしょう。当然そういうしょーもない親父ギャグみたいなのを聞かされてきた客席のストレスも減る、素晴らしいことだと思います。りんきらファンもほっとしたことでしょうしね。
 ブラック・ジャックは天才外科医だけれど、スーパーマンではない。でもせめて関わりになった人は見捨てない、その命を無駄にはさせない。そういう暑苦しいポリシーを持った好漢なのです。それをれいこちゃんは余すところなく演じてみせてくれていたと思います。ベリンダ(結愛かれん。ホントこーいう役も上手い!)に認めてもらって、全然どこ吹く風みたいな顔してなくてニヤニヤ嬉しそうなの、ホント可愛いし、ホント原作漫画っぽいと思う。けっこう顔を崩した喜怒哀楽があるんですよね、昔の少年漫画ですからね。そういう感じが本当によく出ていた舞台だったと思いました。手塚先生にも観せてあげたかった…!
 そんなわけで、もちろんもっと観られるだけ観たかったけれど、大満足の観劇でした。


 ジャズ・オマージュは作・演出/三木章雄。
 本公演の感想はこちら
 プロローグの次のありちゃんセンターだったところはぱるセンターの新場面になっていて、初日はぱるも客席も緊張気味であましが絡みに来てくれて助かった!みたいな空気がありましたが、その後あましセンターで若手男役と踊ったあと上着を替えたぱるが再度出てきて、「わあぁこういう出方ってホントにスターさんみたい!」とたぎりましたよね私…! 上着も最初のよりこっちの方がいいし、ここからはバリバリ踊るし。2回目は度胸がついたかもう歌もしっかりしていたし、市川では「スターですが何か?」って顔して踊れるようになっていました、偉いぞぱる! ガンガン上げられてるけどやっとハートが追いついてきたんじゃないでしょうか、このスタイルは絶対に武器になるので生かしてがんばってほしいです! 一輝くんはここでもやはりダンスで目を引いていました。
 続くちなっちゃんとはーちゃんのジゴロとマネージャー?だった場面はおだちんとゆーゆ。ビューティーズにまのんたんが入って、あましと羽音ちゃんがお姉さんっぽいからぷりっぷりで可愛くて、私はもうウハウハでした。というかプロローグ始め群舞のまのんたんもすべてチェックできましたが(だいたい最後列端にいた…ラインナップは一列目最下手)、表情の作り方が月娘はみんな強いので、まのんたんのぶりっ子っぽい可愛さはホント目立ちます。そのまま純粋かわい子ちゃん路線でいってほしい…! ここのおだちんは初日はさすがに後半ハアハア言って見えましたが、すぐものにしてきてさすがでした。ゆーゆのダンスはもちろん絶品。
 そのあとのジャンゴ、本公演から引き続き「蝶」って役がプログラムにあるんだけど結局出てなくないですか? 歌手が泉里ちゃんになってまた違ったパンチで良き。
 中詰めはぱるセンターからの若手一列ずらり一線、みたいな場面からで、ここのぱるはハナから歌えていてよかったなあ。おだちんの指差しも決まり、れいこちゃんのシナトラも歌は変えて出てきて、華やかでした。シメはおだるねぱる。
 その後の巴里はちなっちゃんのところはおだちん。くらげちゃんが鬘を変えてきて、私はこちらの方が好きでした。ここのゆーゆの髪型もよかった…!
 フィナーレはぐっさん、蘭くん、泉里ちゃんにいちごちゃんの四人口で始まり、みちるだったところはあまし。ありちゃんのジャズマニアがるねっこになっていて、これが絶品でした! からのロケット、ふたり目に出てくる一輝くんがやはり目立ちますが、私は一瞬センターになったあと走って下手に行くまのんたんをずっと観ていましたよ可愛いよ!
 このあとのれいこちゃんのラテンジャズ、優雅で色っぽくて似合っていて大好きでした。輪っかをひょいっと飛び越えるところが大好きだったので、残っていて嬉しかったです。男役群舞になってからも好き。3組デュエダンだったところはシンプルにトップコンビのみとなっていて、手堅く素敵でした。
 エトワールはりりちゃんいちごちゃんを従えておだちんが引き続き務めたものだから、くらげちゃんの前がぱるという階段降りになっていましたが、要するにるねっこより後に降ろしたということがここでは重要です。プロローグといい、三人で出るときは常にぱる、るね、おだちんという順を守ってきたのに…まあでも新場面もあったし、スター人事としてはしごく順当だと思います。逆にここから、こういう別格スターをさっさと辞めさせない努力が劇団には求められていると思います。そこはちゃんとしていただきたいです、今どこの組も男役も娘役も上級生がいなさすぎよ…?
 カテコのれいこちゃんのご挨拶は毎回軽妙で、ほっこりしました。福岡の千秋楽まで、どうぞご安全に。 


 そうそう、久々に行った市川文化会館は座席がリニューアルされていてフカフカでお尻に優しく、私はトイレが遠いので行ったことがなかったのですが悪評高かったトイレも綺麗になって数が増え、幕間にできる行列はすぐ解消されていたそうです。全ツが関東で使う神奈川県民ホールも相模大野グリーンホールもトイレは評判悪いと思うので(県民ホールは座席も…というかもうホールそのものが古くて音響その他もつらい)、ゼヒ参考にして改修計画を立てていただきたいですね! 善処を待つ!!






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新国立劇場バレエ団『春の祭典』

2022年11月27日 | 観劇記/タイトルは行
 新国立劇場中劇場、2022年11月25日19時(初日)。

 前半は20分ほどの『半獣神の午後』、初演。演出・振付/平山素子、音楽/笠松泰洋、クロード・ドビュッシー。出演のソロは福田圭吾、この日のデュオは奥村康祐、中島瑞生。
 休憩を挟んで後半は『春の祭典』。演出・美術原案/平山素子、振付/平山素子、柳本雅寛、音楽/イーゴリ・ストラヴィンスキー。出演はこの日は米沢唯、福岡雄大。2008年に『古楽とストラヴィンスキー』で初演されたものの再演。

 私は普段は上野の三階か四階からか、オペラパレスの二階からごくごくクラシカルなバレエ・ブランをぼーっと眺めるようなミーハー・バレエファン・ライフを送っているので、中劇場の端とはいえ一階前方席からモダンバレエをバリバリ踊るダンサーさんたちをこんなに間近に見るなんて…というのがまずなかなかショッキングでした。でもさすが中劇場でないと、という舞台の使い方で、とてもおもしろかったです。
 時空を飛び越える旅人、重なり合い答えを探す存在、輝く肉体の交錯、それらを通して肉体に宿る官能性と獣性をあぶりだし、境界をにじませる…らしき一幕、視線にさらされるふたつの肉体と柔らかな皮膜の融合、生成される爆発的接触が音の洪水と交錯し誕生する生命美を描き出す…そうな二幕とも、ワケわからなかったけどおもしろかったです。そういう言葉にされるとそうなような、違うような、ですが、まあなんかそういうようなものは確かに感じられた、と思いました。まあ音楽への知識とか予断とか、そういったものはあるかもしれませんが。
 神話の世界のようなお衣装から急にモダンなお衣装に変わり、でも踊りは変わらないような、でも印象は変わるようなやっぱり変わらないような、根底で訴えられているものはやはり同じなような…と脳味噌を揺さぶられる感じが、とてもおもしろかったです。ワケわからなくても、舞踊ってそれこそ「考えるな、感じろ」なんだと思うので、こういう作品も観てみることができてとても楽しかったのでした。




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『管理人/THE CARETAKER』

2022年11月26日 | 観劇記/タイトルか行
 紀伊國屋ホール、2022年11月24日18時半。

 ロンドンの廃屋のような部屋。そこへ、きちんとした身なりの青年アストン(入野自由)と宿無し老人デイヴィス(イッセー尾形)がやってくる。デイヴィスは住み込みで働いていたレストランをクビになり、偶然知り合ったアストンの厚意でこの部屋へ連れてきてもらったのだ。ふたりの会話はまったく噛み合わないが、デイヴィスはこれ幸いとこの部屋に居候することになる。だが翌朝、いきなり現れたアストンの弟ミック(木村達成)に不審者扱いされ…
 作/ハロルド・ピンター、翻訳/小田島創志、演出/小川絵梨子。1960年ロンドン初演、ピンターの名が広く知られるようになったきっかけの作品。全1幕。

 ピンターは『背信』(こちらこちら)『昔の日々』『温室』と観ていて、なかなかキャストのいい3人芝居に思えたし、出かけてみたのですが…「追いつめられた人間をめぐる不条理を、恐怖とユーモアのうちに描く独特の作風」が有名な作家なんだそうですが、うーん、そ、そうなのかな…? まあ少なくともこの舞台は、ぶっちゃけなんかワケわかりませんでした。
 くだくだウザい老人よりも、一見ちゃんとして見えた青年の方がなんだか怪しいというのが露わになっていき、その弟も乱暴そうに見えて実はまともそうで…と見えてやっぱりなんだか怪しくて…みたいに転がっていくお話、と言えば言えるのかもしれません。結局人は誰しも自分の居場所を確保すること、守ることに必死になり、そのためなら嘘もつくしなんでもするし…というようなことを描いているのかな、とは感じたのですけれど…まあでもやっぱりワケはわからなくて、こんな脈絡ない膨大な台詞を覚えさせられる俳優さんたってホントすごいなタイヘンだなー、とかが一番の感想でした。
 でも、オチは、ああこれがオチだ、とわかったんですよね。すごいな、作品って(笑)。
 今何故、この座組で上演を、というのはホント謎だし、私の中では若手イケメン役者枠のふたりが何故キャスティングされ何故受けたのかも謎でした。でもちゃんとしてるんだからホントすごいよなあ…でも、やっぱり謎でした。すみません。
 おもしろくなかったわけではないのですが…うぅーん、すみません。



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宝塚歌劇月組『ELPIDIO』

2022年11月25日 | 観劇記/タイトルあ行
 KAAT神奈川芸術劇場、2022年11月23日15時半。

 20世紀初頭のマドリード。大航海時代には「太陽の沈まぬ国」と言われるほど隆盛を極めたスペイン帝国も、今や植民地は次々と独立、国内においても分裂が続き、かつての栄光は見る影もなくなっていた。国を憂える男たちが集う酒場に、仲間たちからロレンシオ(鳳月杏)と呼ばれる男の姿があった。死に直面しながらも命を取り留めた過去を持つ彼は、度重なる戦争や民族紛争、軍の制圧によって市井の人々が被る悲哀や怒り、孤独といった感情に寄り添うような詩を紡いでいる。だがある夜、何者かに襲われたロレンシオは、軍の大佐でもあるアルバレス侯爵の館に連れていかれる。侯爵の秘書官ゴメス(輝月ゆうま)と執事アロンソ(蓮つかさ)の目的は、侯爵と瓜ふたつのロレンシオを、怪我をした侯爵の替え玉とすることで…
 作・演出・振付/謝珠栄、作曲・編曲/玉麻尚一、小澤時史、フラメンコ振付・指導/蘭このみ。「希望という名の男」を描くミュージカル・ロマンティコ、全2幕。

 …すみません、一回の観劇だけで語ります。それは私が、今年のラスト遠征とするつもりだったDCのチケットを、幕間にはすでに手放すことを考え始めていて、終演後さくっとお友達に譲り新幹線をキャンセルしたからです。以下はそういう感想の記事です。これから舞台をご覧になる方や配信を楽しみにしていらっしゃる方、萌え萌えで通っている方はご留意ください。

 さて、私は、わりと評判があまり良くないらしい『眩耀の谷』をめっちゃ高く評価しているんですよね。思えばその後再演続きのこっとんコンビのトップお披露目に新作オリジナル当て書き作品が書き下ろされたことがまずよかったと思うし、スーパーヒーローが似合うと思われがちなこっちゃんにまさかの戦わない、逃げるという選択をする主人公を当てたのもよかったと思っているし、物語が争いや戦いをモチーフにする上で避けて通れないと考えられがちな勝つの負けるのといった顛末からまさかの戦わない、争わない、だから負けることもない、という解決策を提示して見せたこの作品って本当に新しいと思いましたし、それを女々しいとか情けないと思わせずに凜々しくやってのけた主人公のこっちゃんの姿に私は本当に唸らされ、今でも高く評価しているのですよ。謝先生は演出や振付はいいけど脚本は…と言われがちだったと思うのですけれど、私は外部の作品もわりとそんなに悪いイメージがなく、この作品も本当に好きだったので、今回も期待していました。
 ただ、「歌劇」とかを読んでも作品のイメージが全然湧かないこと、ナウオンを見ても何がキモの作品かよくわからなかったこと、初日の感想ツイートが軒並み微妙だったことは引っかかっていて、なんとなくそういう覚悟はして劇場へ向かいました。生徒の小芝居を褒めるツイートが目についたり、ツイートに主人公の名前が全然出てこない作品はハズレだ、というのは私調べとして、あります。
 そらそうだ、だってロレンシオですら主人公の名前じゃないんだもん。でもそういうネタバレを避けるため、という配慮ももちろんあるのでしょうが、主人公のことが言及されないのは要するに語ることがないからですよね。本名が明かされるのは最後の最後で、かつ明かされてもなお語るべきことは特にない、という…それまで主人公の真意がずーっと明かされないので、私は『フィレンツェ』以上に「…で、いつおもしろくなるの?」って思いながら観るハメになったわけですが、でもあれは私は二度目は萌え萌えだったので、やはり我慢してちゃんとDCにも行くべきだったのかもしれません。でもまだ新幹線のキャンセル料がかからなかったから…このところ忙しくてノー予定の休日がなかったし、ついサボりたくなって日和ってしまいました。すみません…なので本当は私には語る資格はないのかもしれません。だが語る、ここは私のブログだから(^^;)。

 さてしかし、ホントどこからつっこんだらいいものか…てかまさか謝先生が、ちょっと前の景子先生みたいな、ちょっと勉強しただけのことをそのまま作品に書いちゃうような脚本を書くとは思いもよりませんでした。
 スペインって今は一応ひとつの国になっているけれど、地方ごとの特色もいろいろ違うし歴史的にもいろいろあって全然一枚岩じゃない…くらいの知識は私にもあります。だからそんなデリケートなネタを、ちょっと前の時代の設定の話だからって、また本物のスペイン人が観ることはまずない極東の小さなミュージカル劇団の芝居だからって、ちょっと調べた程度で安易に扱っちゃいけない、ということは私にだってわかります。イヤちゃんと調べた、とかくわしい知人が身近にいる、とか先生はおっしゃるのかもしれませんが、狭い見方で部外者がホイホイ扱っていいネタじゃないと思うんですよ。つーかまずネタって言うなって話なんですが。
 どうしてもこういうことがやりたかったのなら、『眩耀』のときのように、せめて架空の国の話にすればよかったのでは? なんか地方の名産の歌とか、「横浜は焼売で大阪はたこ焼き」くらいのノリじゃなかったですか? 横浜と大阪を同列にするのか?とか、お好み焼きじゃないのか?とか、つっこみ出したらキリがないくらい雑じゃなかったですか? でも現地の人はガチで争いなんなら流血になるくらいのネタじゃないですか、これって? また、だから国家としてはまとまりにくい、そもそも個人主義の空気だし…みたいなことも歌ってましたけど、それ、ストーリーに関係ありました? 
 植民地が次々独立していって、スペイン人もいろいろ戦ったのに国土は削られる一方だ、みたいなことも歌ってましたけど、現代に生きる我々観客の目からするとそれって当然では?とかそもそもそこはスペインではなかったのだからして…とか言いたくなるわけでさ(てか大日本帝国の比喩なのか?とか思いますよね…)。そこになんか謎の王政復古があって? でも庶民の暮らしは貧しいままで? それは現代の我々の社会にも似たところがあって世相批評としてアリなのかもしれないけれど、あまりに剥き出しで芸がないし、最終的には民主化運動の物語ではありませんでしたよね、これ? だって主人公はイタリア貴族の妻と結婚して爵位をもらって終わるんだもんね? そら彼ら夫婦はいい人だからノーブレスオブリージュも発揮するし富を社会に還元してくれるのかもしれないけど、でもそれって根本的な解決になってませんよね? 同じく圧政に苦しんでいる我々の救いや希望に、全然なってくれていないんですけど…?
 あと2番手ポジションのあみちゃんセシリオ(彩海せら)は反政府運動なのか革命運動なのかはたまた単なる労組活動なのか、とにかく反権力みたいなことで動いているっぽかったけど、その仲間のフランシスコ(彩音星凪)たちは、もちろん崇高な目的のための活動資金が欲しかったのかもしれないし崇高な目的のためには暗殺やむなし、というやや過激な思想の持ち主だったのかもしれないけど(てか「過激的」って台詞があったけど、そんな日本語あります?)、あまりきちんと描かれることもなく雇われヤクザみたいな荒くれ仕事をする三下扱いになっていたけど、それでいいの? 彼らこそ庶民の立場を代表し最前線で戦う勇者、ヒーローたる立場の者たちだったんじゃないの? こんな雑なテロリスト崩れみたいな描き方をしていいものなの?(あとぺるしゃにもっといい役書いていい仕事させてやってくれよ、というのもある)
 同様に史実としてこのころそういう運動があったのか、はたまたこれも現代世相批評として入れているのかわかりませんが、さちか姐マグダレーナ(白雪さち花)たち女権運動家の描写はあれでいいの? てかこれも話の本筋となんら関係なくない? あと女の権利を主張するのと男を下げるのは同じことじゃないよ? だからマグダレーナがマルコス(千海華蘭)とくっついても別にいいんだけど、でもソレ要ります? あと、しょうもない男たちが結局理解せず冷やかしている、というだけの台詞だとしても、「行かず後家」って台詞、本当に要ります? 百万年ぶりに聞いた気がするんだけど…独身女性が団員を務める宝塚歌劇の舞台において、女性の脚本家が! しかもなんらストーリーに関係ないのに、観客までもがわざわざ聞かせられるんですよこんな言葉を…この絶望たるや!!
 影武者を頼まれて、周りの人にバレそうでドキドキ、みたいなお話は珍しくないし、それがやりたいならそれでお話を作ればいいじゃないですか。みちるはそれはそれはいいヒロイン役者に仕上がっていて、素晴らしかったですよ。パトリシア(彩みちる)という役も、まあやや頭でっかちな貴族のお嬢さんってところはあるけれど、十分魅力的な、おもしろいキャラクターだったと思います。本当の夫とは不仲で、でも影武者をしているロレンシオとは気が合っちゃって…みたいなトキメキ・ラブ・ストーリーを作ればええやん。今までも別れなかったんだからなんらかの事情があったんだろうし、そこで何かせつないドラマを作ればええやん。
 主人が愛人に撃たれて人事不省だからといって、わざわざ影武者を仕立てようとする秘書と執事の真意もよくわかりませんでした。別に風邪で寝込んでいて軍務を休みます、って周りにアナウンスすればいいだけじゃん。そしてどうもこの侯爵はろくな人間じゃなかったような描かれ方だし、秘書も執事も特に尊敬して仕えていたようでもなく、ならそんな主人のためにこんな奔走することもなかったんじゃないの? いかにもお話都合の展開で、何か裏があるのかと思えば何もなく、結局ふたりは侯爵家の仕事を辞めるんだし、ならもっと以前に辞めてたっていいのでは、としか思えませんでした。
 そもそもの構成として、最後に主人公の本名と本当の人となりが明かされる…というのがミソの作品、というつもりだったのかもしれませんが、いくらちなっちゃんがなんでも上手くても、あんなしどころのない長台詞の大芝居、保ちませんよ…てかこういう作品は基本的に主役のファンが観に来るものですが、それでも主人公が魅力的でないと作品そのものにつきあいづらいものです。なのに、途中でロレンシオという名前すら偽名だとわかり、でもその過去は闇の中、彼の真意も何もかも明かされず、ただなんかポエミーなポエムを新聞に投稿しているだけの詩人ですって言われても、そんな主人公像を好きになるのはファンでも至難の業でしょう。キューバ、とだけ言われても、現代日本人の我々にそこから何を連想しろというのでしょう…はあ、スペイン領だったんですか、へえ…で?ってなもんじゃない? そこからなんの想像も共感も親近感も湧かせられないのって、別に私たちの罪じゃなくないですか?(それか、大日本帝国の例で考えるなら、日本に併合されていたころの韓国で育ち、政治の腐敗を見せつけられて絶望し流れ流れている日本人…みたいなのを想像すればいいということですか?)それでこの主人公を好きになれ、興味持て、応援し彼の行動に注視せよ、って言われても、それは無理ゲーというものです。少なくとも私には無理でした。ちなっちゃんがどんなに顔が良くて声が良くてスタイルが良くて脚が3メートルあって笑顔が素敵で歌が上手くても、このノー情報のキャラクターには萌えられない。だからつまらない、しかも話そのものも破綻しているというか意味不平で不発なんだもん、そらつらいですよ…
 なんだかなー、私は『出島』は嫌いじゃなかったんだけど、でもせっかくの主演作としてそのスターの魅力を引き出し倍増しファンを喜ばせ増やしたかというとどうだろう、とも思っていて、『スターダム』といいどうもここまで主演作に恵まれていない気がするのですよちなっちゃん…なんかもっと古典的名作の再演か、文芸原作のクラシカルなものの方が似合うんじゃないの? なんかこの人に自分探しさせちゃうのもうやめてくださいよ先生方…アンタたちの仕事はまずスターを輝かせることであって、ファンに浅薄な思想や好みを押しつけることじゃないんじゃないの?
 まゆぽん、れんこん、からんちゃんにヤス、うーちゃんみーんな無駄遣い。おはねちゃんも蘭世たんも。みんなのせっかくの演技力も華もセンスも、不発でした。でも絶対に投げ出さず、手を抜かず、ちょっとでも良くしようとして舞台に立っているのは観ていればわかる。すごいです、頭が下がります。ホントもったいないお化けが出るよー…
 大団円がそのままフィナーレに、ってのはお洒落ですけど、ストーリーがアレレな上にこのハッピーエンドもかなりアレレなので、盛り上がらないこと甚だしい。最後にしょーもない侯爵の二役をきっちりやってきっちり笑いを取るちなっちゃんだけが見どころだなんて、悲しすぎますよ…

 どうしようホント褒めるところナイ…あ、扇や波のモチーフっぽいセットはとても素敵でした(装置/國包洋子)。何度でも言いますが生徒に罪はなく、あくまで作品の問題です。脚本、演出がダメダメだという話です。
 大好き、激おもしろい、超萌え萌え、という方にはすみません…もしかしたら私の目が何か曇っているのかもしれません。それくらい不安になる程度には、笑いが沸きキャッキャとウケている客席だったとも思っています。イヤみなさんがいいならいいのです、私はダメだったというだけです、ホントすみません…
 次の『応天の門』は原作もあるしそう大ゴケはしないやろ、と思っていますが『ディミトリ』も私にはやや不発に思えただけに油断は出来ません。キャラクターやエピソードは原作漫画にちゃんとあるにしても、どう抜き出してどういうドラマを組むか、が結局のところ勝負ですからね…油断できません。来年はこんなイカイカ怒らせることなく、心平穏な一年を送らせてくれよ、と切に願います…
 DC千秋楽までどうぞご安全に。無事の完走をお祈りしています。













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