駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『めんたいぴりり』

2019年09月28日 | 観劇記/タイトルま行
 明治座、2019年9月24日12時。

 昭和34年。日韓併合後の釜山の街で生まれ育ち、夫婦となった海野俊之(博多華丸)と千代子(酒井美紀)は、第二次世界大戦後に命からがら日本に引き揚げ、博多で食料品店「ふくのや」を営んでいた。青春時代に釜山の市場で食べた思い出の味を博多で再現しようと明太子作りに奮闘しながら、従業員たちや町の人々らと貧しくも賑やかな日々を送っていたが…
 原案/川原健、企画原案・監修/江口カン、脚本・演出/東憲司。ふくや創業者夫妻をモデルに2013年に製作されたテレビドラマをもとに、2015年博多座で初演。2019年に「未来永劫編」として再び博多座で再演されたものの続演。全2幕。

 博多座からの続演も納得で、明治座って博多座と似ていていいですよね。あんなふうに街中にはないし客席までの導線も一階分多くて微妙だけれど、ロビーの売店の賑わいとか、観客の年齢層の高さや着物姿の女性の多いこと、ストプレもミュージカルもやらないこたないけど演歌歌手の座長公演が似合う空気、花道と、こういう劇場の在り方もいいよな、と久々に来てしみじみ楽しみました。
 お芝居も、斬新さとかはまるでない、紙芝居形式なんだけれど、それこそ上手く花道が使われていたし、緞帳をスクリーンにして映像を使うのなんかは楽しかったし、ちゃんと盆が回っての舞台変換もありましたし、なんなら大空さんパートはちゃんとミュージカルでした。楽しかったです。
 辛子明太子がこうしてできたものだとは知らなかったので単純に勉強になりましたし、いわゆる戦後の細腕繁盛記ものというか人情ものというかで本当にベタベタな芝居なんだけれど、よくできているしおもしろいし笑って泣けました。古いとかではなく、永遠の、不朽の真実が描かれていました。家族とか、人情とか、努力とか、信頼とか、希望とか、幸福とか、平和ということです。改めて、大事にしていかなければいけないことだよな、と思いました。ことさらに言わなければならない時代になりつつあることがむしろ悔しいです。

 さて、ところで大空さんはいわゆるマドンナ枠なんだと思うんですが、どういう起用だったんでしょう(オイ)。イヤなんかもっとわかりやすく若くて美人な女優さんでなくてよかったのかしら、私はファンだから十分可愛く見えるし実際本当にラブリーでキュートで良かったと思うんだけれど、もっとわかりやすくネームバリューのある美人女優にやらせるような役だったのではないのかしらん、とちょっとモゾモゾしました。顔とか薄すぎるやろ、とモンペなので心配で…いや宝塚歌劇とか全然知らない観客のみなさまにも「なんぞかわええおなご先生やったな」とくらい思ってもらえていればいいのですが。
 ただ、なんせ明治座ってでかいので、単なる美貌みたいなビジュアルに頼ることなく、全身で、そして芝居できちんと「可愛らしさ」を表現できる女優、となるとやはり意外に宝塚歌劇の元トップスターってのは適任だったのかもしれません。そんな大空さんの技と、そもそもちゃんとある(オイ)可愛らしさを堪能できて、楽しい観劇になりました。なんせ三つ折りソックスですよ赤ジャージにリュックですよ、グレーのツーピースは音校生の制服かと思いましたよ! そしてちゃんと歌えていた(オイ)味のある「ケ・セラ・セラ」…チャーミングでした、みんなで歌いたくなりました。歌うことの幸せ、喜びをちゃんと伝えていて、客席丸ごと巻き込んで抱きしめていたと思います。とてもとてもよかったです。

 ラストが意外や『20世紀号に乗って』みたいだったのにもウケました(笑)。ラインナップも素敵だったなあ。いい座組の素敵な公演でした。いろんな世界を見せてくれる大空さんに感謝です。OGを追っかけ続けるのは難儀なことも多いけれど、やはりなるべくいろいろなものを観ていろいろなところに出かけていろいろ吸収したい、より良い人間になりたい…と改めて思ったのでした。


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宝塚歌劇宙組『追憶のバルセロナ/NICE GUY!!』

2019年09月24日 | 観劇記/タイトルた行
 梅田芸術劇場、2019年8月31日15時半(初日)。
 市川氏文化会館、9月23日12時(前楽)。

 1800年代のスペイン。バルセロナの街がカーニバルで賑わうころ、フランスがスペインに宣戦布告する。知らせを受けた有力貴族アウストリア家の長男フランシスコ(真風涼帆)は祖国を守る使命感に燃え、婚約者のセシリア(華妃まいあ)に別れを告げると、親友のアントニオ(芹香斗亜)と共に勇んで戦場に向かう。だがスペイン軍の必死の抗戦もむなしく、フランス軍はピレネー山脈を越え、フランシスコは重傷を負う…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城。2002年に雪組で初演。 

 初日の感想はこちら。初演の感想もこちらからどうぞ。
 ほぼほぼここで書き尽くしていますが、やはりお芝居の方は二度目に市川で観たときにはだいぶ仕上がっていて、緩急やリズムも出ていて、いろいろアレなんだけど私はやっぱり好きな作品だなー、と思ってしまいました。
 なんと言っても私はハリー作品がけっこう好きなのと、ハリーがやるラブがわりと古典的な少女漫画な感じなのがツボなんですよね。今回のまどかイサベルの「惚れてなんかないからねっ!」みたいなのくらいなのはまあわりに他でもあるとは思うのですが、そこにあきもエンセナダがああいうふうに絡む感じとか、まいあセシリアが来ちゃうタイミングとか(ここの「あんたを助けたの、あたしなんだからねっ!」も愛しすぎる…!)、そもそもずんちゃんロベルトのイサベルへのスタンスとか、そういうのは本当に芝居として上手いと思うし、イサベルに「甘え」ているゆりかちゃんフランシスコの在り方なんかも、それこそ男優にやられたらホント「ケッ」って感じになりそうなんだけれど、宝塚歌劇の男役にああいうふうに、ちょっと朴念仁気味にちょっと卑怯にちょっと優柔不断にやられると、許してしまうわけですよ…! あと、こういう役にゆりかちゃんは絶妙にハマりますよね。そこがとてもとても良くて、何度でもリピートしたくなりました。甘酸っぱさにニヤニヤし出すのを奥歯噛みしめて耐えながら観る、のが本当に楽しかったです。はー、早くDVDが欲しい、存分にニヤニヤしながら見まくりたい。
 ル・サンクが欲しいな脚本読みたいな、とも改めて思いました。もちろんあちこち赤字を入れたいです。足りない言葉がいっぱいある。でもそれとは別にト書きを読みたい。あと、こういう芝居の演出というか演技指導をやってみたい(笑)。楽しいだろうなー。
 全体としては、やはり盛り上がりやカタルシスに欠けるところを、もう少しだけ手を入れればもっといい作品になると思うんですよね。たとえばフランシスコが記憶を取り戻すきっかけになる酒場の乱闘シーンには、録音と合わせるのは難しいのかもしれないけれど剣の音のSEを入れてもっと迫力を出したら、だいぶ印象が違うんじゃないでしょうか。あと大詰め、アントニオの代わりに「黒い風」のフランシスコが処刑されそうになって、そこをフランス兵に扮していたロベルト?がりんきらクリストフ(これまた市川では美形悪役のいけすかなさっぷりが増していて満足しました) を刺して形勢逆転、市民たちも味方してくれて目くらましの手伝いしてくれてみんなして一気に脱出…というような仕込みだったということなんじゃないかと思うのですが、そこがわかりづらいのが最大のネックだと思います。あのフランス兵は帽子取って顔見せて、正体を観客にバラさないとダメなんじゃないの? 今のままだと何が起きているのか正直よくわからなくないですかね?
 そのあたりがきちんとクリアできれば、オチはこのままでもいいと思うんですよ。「フランスを追い出すぞ、徹底抗戦だ!」とかの勇ましさもなく、「フランスを追い出した、勝ったー!」とかの喜ばしさもなく、「まずは地下に潜って好機を待とう、それまで待機、ハイ解散!」なのでかなりショボくはあるんだけれど、現実的だし、フランシスコの演説自体はちゃんとカッコ良くみせられていると思うので、ちゃんと成立していると思うのです。そしてわりと武闘派で抗戦一筋、火の玉特攻!みたいなことばっか言っていたフランシスコが大人になって戦略的撤退を選択できるようになれたというのもいいことなら、非戦派で恭順派で逆に言えば意気地なしの卑怯者に見えていたアントニオがやっぱり戦い続けよう独立回復を目指そう、と転向できたのも前進でいいことだと思うので、そういう、好転している、未来に(やたら出る「将来」という言葉はなんかちょっとニュアンスが違う気がして個人的には引っかかるのです)希望が持てる結末で、ちゃんとハッピーエンドだし、それで十分だと思うのです。
 何よりそのあと、フランシスコとイサベルがちゃんとくっつく。これが大事! ただフランシスコがイサベルにキスするだけでなく、そのあとイサベルがフランシスコに抱きつく、そしてお互い見つめ合ったりなんかしちゃったりしてイチャイチャする、これが大事!! もっとそのラブラブを見せてから幕を下ろしてくれ、5秒、いや2秒早い!と思いましたけどね(笑)。
 というわけで、まだ『バレンシア』や『神土地』や『黒い瞳』の記憶が新しいのに何故この組でこれをやる、というのを別にすれば、いい座組、いい公演だったな、と満足できたのでした。そらが役不足なのには目をつぶりましょう…というかショーもずんちゃんがガンガン歌っちゃうとそらには歌手枠が回ってこなくてかわいそうだったなー…そういう辛抱公演ってどうしてもあるものですが、ランボーに言うとずんちゃんとそらって「歌えて踊れて芝居もできる、だが少し小さい」ってのが丸被りなので、この先起用には苦労するんじゃないですかね…てかホントもう一組替え考えた方がいいんじゃないですかね劇団さん、と不穏なことを言ってみます…

 さてショー(作・演出/藤井大介、2011年宙組で初演)は、やっぱりおもしろすぎました。同じことやってるのに大空さんとゆりかちゃんの持ち味が違いすぎて…なので次のウィスキーショーは、ゆりかちゃんならではのスーツものになっているといいですね。
 大空さんのスーツの持ち味や男臭さ、色気、芸風は、やはりあのときのあの『NICE GUY!!』にしかないものだったんだなー、としみじみ思いました。ゆりかちゃんがダメだってことじゃなくて、ただただ「違うなーおもしろいなー」と感じた、ってことです。さらっとしてて湿り気がなくてスマートでした(あら、Sが揃った)。ゆりかちゃんはやっぱりもっとハードというかドライというかダークなものが似合うんじゃないかなー。ナイス・セクシャルもやっぱり違いましたもんね、淫靡な方向でももっと違うものの方がハマるんですよきっと。
 でもだからこそ、変な幻に惑わされることもなく、ただただ「わー違う」と思いながら本当に楽しく観ました。市川で観たら拍手や手拍子も綺麗に入るようになっていましたしね。個人的には、このあたりにいそうと思って見るとりんきらかまりながいる…みたいなことはまったくしませんでした。それも初日日記に書いたとおりです。てかホント出てたらそこしか見ないので、こんなふうに全体を比較して観て「わー違う」と楽しむ、なんてできなかったと思う。なので、これでよかったです。というかそんなたらればを言う生き方を私はしていないのでした。
 そうそう、変身が微妙じゃない?と思っていたファンキー・キンキー・ティーチャーが市川ではちゃんとわかりやすくカッコ良くなっていたのには安心しました。あと、観た人の多くが俺たちのひろこシホミズネを発見してくれたようで嬉しかったです。
 まいあちゃん、ご卒業おめでとうございます。まだまだ美声を聴きたかったし美脚を拝みたかったし笑顔を見ていたかったです。でも、ご本人のご決断ですから、笑顔で見送ります。でもぜひサロンコンとかやってください…!


 集合日はもう土曜だとか? あいかわらずブラックだな劇団…! いいオリジナル作品に恵まれますように。
 そして美穂圭子サロンコンサート『Dramatic Rose!!』第一ホテル22日回に行ってきました。30周年、おめでとうございます。本当にドラマティックな歌唱ができる人で、貴重な存在ですよね。ラストの「The Rose」が沁みました。40周年も期待しています。
 てかりおかなこがホントいい仕事していて、これは正しい布陣! やるな劇団!! と感心しました。彼女たちの今後にも期待しています。



 
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シス・カンパニー『死と乙女』

2019年09月22日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタートラム、2019年9月20日19時。

 独裁政権が崩壊し、民主政権に移行したばかりのある国では、反政府運動に対する旧政権の弾圧や人権侵害の罪を暴く調査委員会が発足した。かつて反政府側で戦っていた弁護士ジェラルド(堤真一)は新大統領からその中心メンバーとして指名を受けている。妻のポーリーナ(宮沢りえ)も共に学生運動に身を投じていたが、治安警察に受けた過酷な拷問のトラウマに苛まれ、心身共に苦しんでいた。ある嵐の晩、車の故障で立ち往生したジェラルドは、偶然通りかかった医師ロベルト(段田安則)に助けられるが…
 作/アリエル・ドーフマン、翻訳/浦辺千鶴、演出/小川絵梨子、美術/松井るみ、照明/原田保。1991年ロンドン初演、全一幕。

 大空さんポーリナで観たときの感想はこちら
 いい感じに細かいところを忘れて観たので、「ああ、そうだった」とか「わあ、そうだったっけ」とか忙しく、またとてもおもしろく観ました。
 たとえば『ロミオとジュリエット』に関して、「最後ふたりは死にますが…」とか語ってもそれを「そんなネタバレするなんてひどい!」と騒がれることはないと思いますが(騒ぐ方の常識というか教養を疑われて終わるだけの話だと思いますが)、今回のプログラムを読んで思ったのは、この作品に関しても、劇中で真相が明かされることはないというのは自明、というのは言葉が違うけれどなんと言えばいいのだろう、織り込み済みというか、それは言ってもネタバレにはあたらないとされている、というのがおもしろいなと思いました。もちろんそれがわかっていても十分おもしろい、というかわかっているからこそおもしろく観られる演目なのですが、私は初観劇時に戯曲を読んで「明かされんのかーい!」と思った幼稚な人間だったので(笑)、人は経験を経てまた年月を重ねてちゃんとオトナになるものよのぉ、とか思ったりします。
 「真実」は現実にはなかなかクリアになることがないものなので、だからこそ物語の中でくらいは…と思わなくもないですが、むしろ、物語の中ですら真実がクリアになることはなく、それは現実がそういうものだからそれを踏まえているだけのことなのであり、これはその上で人はどうしていくか、どうしていくべきかを考えさせる「物語」になっているのだ、ということに、前観劇時より少しオトナになったつもりの私は激しく心打たれたのでした。
 また、ラストの演出が、戯曲のように鏡を使ってはいませんでしたが、ニュアンスはかなり戯曲のものに近く、ジェラルドの表情といい、ああ女性の演出家によるいい芝居だな、と本当にしみじみ感動しました。決して何かが解決されるようなハッピーエンドとかではないのですが、おぼろな記憶ながら比較するとクリエ版のラストはやはりちょっと違うんじゃないかと思ったのと、全体に明らかに頭のいい(とされる)若い男性演出家の手によるものだったよな、とこれは私の偏見が半分あるかもしれませんが、感じました。
 セットなどもクリエ版とイメージとしてはほぼ同じで、でも今回の方がよりシャープでモダンで、逆に言うといっそ近未来ですらありそうな、いつの時代のどこの国のものとも思えないものになっているのも印象的でした(ポーリーナがごくシンプルなブラウスとスカート、という衣装(前田文子)も含めて)。もちろん、パンクだとかカセットレコーダーだとか、一般家庭に電話がないといったあたりから、時代の想定はできるのですけれどね。部屋が舞台に対して斜めに置かれているのもとても効果的だと思いました。クリエはまっすぐじゃなかったかな、違ったかな…
 去年サンモールスタジオでも違う座組で上演があったそうですね、これも観てみたかったです。でもこのときはアンテナにかからなかった…今回はキャストのネームバリューがあったかと思います。まあどこかで見たような組み合わせなんですけれど(笑)、3人ともさすがで、さすがでした(語彙消失)。そうそう、元の戯曲は3幕で、クリエは2幕でしたが、今回は100分の1幕に仕立てていたのもとてもよかったと思いました。
 ところで「死と乙女」というのはもちろんシューベルトの弦楽四重奏のタイトルなのですが、「死を拒否する乙女と、死を永遠の安息と説く死神との対話を表す」んだそうですね。おおお…乙女ってのは要するに女のことであり、死とか死神とか世界とかそういったもの全部が男ってことですよね、わかります。説く男と抗う女、わかりみしかない。
 と、今回改めて私はそういうごくフェミっぽい解釈をし、納得し、憤り、感動したのでした。

 最初に大空さんで観たから、というのもありましたが、私は女だから、やはりごく自然にヒロインの味方をして、というかヒロインに感情移入する立場で観ました。だからロベルトが怪しく見えて仕方ない(笑)。後ろ暗いからこそ真夜中に戻ってきたんでしょ、ずうずうしくも泊まったりするんでしょ、としか思えませんもん。逆に男性の観客はジェラルドないしロベルトの立場で観るのでしょうか、そして「なんで女って人の話を聞かないんだろうなあ」とか、ポーリーナにイライラしながら観るのでしょうか。そこから最終的に何をどう考えるようになるのでしょうか。語り合ってみたいです。
 私は軍事政権下に生きたこともなければ拉致されて監禁されて拷問された経験も強姦されたことも幸いにしてありません。けれど女だからというだけの理由で男に話を聞いてもらえなかったことはある。数限りなくある。人生その連続だったし今もそうだと言っていい。だからポーリーナに共感するのです。そのことを、男性の観客に、世の男性にもっとよく考えてもらいたいです。
 ジェラルドは妻のポーリーナの話より、ロベルトを信じますよね。ロベルトが男だから、医師だから。一晩かそこらちょっと関わり合っただけの相手にすぎないのに。医師だなんて自称にすぎないし、本当はどんな殺人鬼か偏執狂かもわからないのに、何年も共に暮らしてきた妻の話より彼のことを信じます。このいかにも世の男性が普通にやりそうなことに、女としては絶望的になります。
 拉致監禁されたのも拷問されたのも強姦されたのもポーリーナです。ジェラルドじゃない。だからジェラルドはポーリーナの話を聞くべきです。当事者の話が本当に決まってるでしょ? 事実、ロベルトが縛られて今回の被害者、当事者になれば、ジェラルドはロベルトの訴えに耳を貸すんです。でもポーリーナには耳を貸さないんですよ。拉致監禁拷問強姦の被害者、当事者であるポーリーナの話を聞かない。それはポーリーナが女だから、事件の加害者が男だから、ポーリーナが自分の妻だからです。女に「当事者」である権利を認めたがらないようなところが男には、ある。すべての権限を男が握っていたいからです。自分に把握できないものがある、コントロールできないことがあるという「真実」に向き合う強さがないからです。でもそれは間違いであると、一刻も早く男に認識してもらいたい。でないと世界はじきに終わります。
 最近でもたとえば妊娠とか生理とか、男が当事者たりえないものに関してすら、男が女よりわかったふうな口を利かないでは済ませない事態が頻発していますよね。ホントちゃんちゃらおかしいです。自分をなんだと思っているんでしょうね? 神か。だから死神で「死と乙女」なんですよ。猛省してほしい。誰に産んでもらったつもりでいるんでしょうね。なんでそんなに全能な気でいられるんでしょう。ホント不思議。阿呆か、と言いたい。
 そんなわけないでしょ? だから人の話を聞いて? 女も人だと認めて? それだけで世界はずっと美しいところになるのに、それができていないから、世界はゆっくり傾いて、沈みかけているのです。違う死神が友達面して近づいてきちゃうよ??
 ポーリーナは冷静です。だってずっとずっと考えてきたのだから。自分を拷問し強姦したあの医者ともしも再会したらどうしてやろう、とずっとずっと考えてきたのですから。妻のつらい過去を話半分に聞いただけで丸ごと受け入れ飲み込んで忘れて、懐のでかい夫のつもりでいるジェラルドなんかとはワケが違うのです。ポーリーナは「当事者」なのですから、一瞬たりとも忘れることなどできはしないのです。たとえ当人がどんなに忘れたいと願っても、です。同じ当事者でも加害者なら、気持ちよく忘れることもあるでしょう。たとえばロベルトが本当にその医師で、自分に都合よく忘れる、ないし記憶を改竄している、ということは十分ありえることです。でもポーリーナには、被害者にはそんなことはできません。むしろより苦しい方に自分の記憶を改竄してしまう、ということはあると思います。被害というのはそれほど大きい。
 それでも、彼女が望むのは単なる復讐などではありません。そりゃ口では言いますよ、拷問し返してやりたい、強姦し返してやりたい、と。自分ではできないからジェラルドにやってもらおうか、箒の柄をつっこんでやればいいか、と言いますよ。でもそれは口先だけのことというか言葉の綾で、彼女がしようしていることはもっと全然人道的なことです。単に相手に真実を告白させ、その記録を取り、保管したい、というだけのことなのですから。いたってまっとうなことです。というかジェラルドが任されようとしている調査委員会だかなんだかが本来はすべきことです。あるいは国とか国連とかなんとかの裁判所が。ポーリーナが寛容なのは、たとえばそうした公の機関が動いてしまうと裁きとか罪の償いとかなんとかいったことまで発生してしまうのだけれど、彼女はそこまでは望んでいないということです。ただ真実を明らかにし、記録しておきたいだけ。ただそれだけなのです。
 ポーリーナを「寛容」と言いましたが、もちろんそれも言葉の綾です。けれど彼女が真に欲していることはこの世では達成されないとわかっているから、妥協としてこう提案しているのです。その意味で彼女はやはり寛容だし優しいわけですが、そんなことに世界は、男は、甘えていてはいけないのです。
 彼女が真に望んでいることは、拉致監禁拷問強姦などされずに生きてきたかった、とということです。ごくあたりまえのことです。男なら男だというだけでほぼ安全でしょう。しかし女はただ女だというだけで、いつの時代でもどこの国でもこれに近いことを生まれてから死ぬまで何度でも経験させられます。そんなことは本来あってはいけないことなのです。男だろうと女だろうと人は尊重されるべきであり、決して傷つけられ侵されてはならないはずなのです。ポーリーナが本当に望んでいるのはそういうことです、世界平和です、ごくあたりまえであるはずのことです。けれどそれがなかなか達成されない世の中よ…なんでそんなことが夫に、男にはわからないのでしょうね? 本当に絶望的な気持ちになります…
 完全に同じことを相手にやり返すことはできない。やれたとしても意味がない。またやり返される復讐の連鎖を生むだけだし、やり返しても気は済まないし救われないだろう。やられたことは何をもってしても埋め合わせできないのだ。本当に望むのは、そもそもやられないことであり、明らかに最も悪いのは最初にやった者、やったことなのである。やったら取り返しがつかないのだ。だからやるべきではないのだ…そのことに人は、というか特に男はもっと自覚的であるべきなのです。
 ポーリーナは「寛容」なので、やり返すことなど望みません。取り戻すことなどできないことも知っているのです。だからただ記録を取る、そして保管する。あったことはあったことで、それが「真実」。なかったことになど決してしない、そんなことだけは許さない、ということです。
 この「寛容」の恐ろしさについて、人は、特に男は、もっと考えるべきだと思います。この演目を観て、もっと怖いと思ってもらいたいですマジで。なのに過去のあらゆる記録が安易に破棄され改竄される今のこの国よ…ああ、考えるだに絶望的な気持ちになります。

 ポーリーナは銃を撃たなかったと思います。ロベルトは解放され、ジェラルドは委員会を立ち上げ、成果を出し、顕彰され、ポーリーナと共にコンサートに出席する。そこにロベルトもたまたまいて、ポーリーナと視線が合う。ただそれだけのラストです。
 ロベルトは怯えるというよりはほぼ無表情のように見え、動揺を表すのはむしろポーリーナです。周囲に笑顔を振りまいているジェラルドは、原因はわからずとも妻の動揺は察知してその手を取る。でも本当のところは未だ何もちゃんとわかっていないから、適当な、有名人特有のスマイルを浮かべて開演を待つ。
 そして音楽が始まり、芝居は終わる。その絶望感たるや…
 そうそう、そもそも話がジェラルドの「浮気」について波及したときに、ポーリーナは相手の女を淫売呼ばわりするんだけれど、本当に悪いのはジェラルドなんだから本当はポーリーナはその場で踵を返してジェラルドの家から立ち去り、二度と彼と会うべきではなかったんですよね。けれど彼女は相手の女を詰り叩き出し、ジェラルドは彼女に謝って、ふたりはやがて結婚した。そこがもうそもそも負けているんですよね。
 私は今回改めて自分がよりフェミっぽい見方でこの舞台を観ているなと思ったけれど、それは自分が本当にシスへテロな女だなと改めて自覚した、ということでもあります。ポーリーナのこの行動がわかるからです。これはLGBT差別などとは別レベルで、要するに数だけ言ったら異性愛者が多い世の中でここにこそ問題があるんだよなと改めて感じた、ということです。つまり、男はこんなに馬鹿で女はそれを十分にわかっているのに、それでも女は男がけっこう好きなのだ、ということです。その甘さ、愚かさこそが罪なんですよね。だからこそせめて男にもう少し賢く優しくなってもらいたいのだけれど、それは責任転嫁なのでしょうか。
 前観劇時に私は「女が男を見放したら世界は終わる」というようなことを書いているのですが、当時私には恋人がいて今はいないのに、今の方がより「ああ女は男が好きなんだな、見放すことなどできないんだろうな」と思ってしまいました。けれどそのままだとホント何も前進しないし変わらないので、ホントどうにかしないといけないよな、ということをこれは訴えている作品なのだ、と感じました。なので、何も解決されていないしハッピーエンドでもなんでもないラストなんだけれど、感動したというか、ここから始めるしかない、がんばっていくしかない、と改めて身が震える思いがした、いい観劇になった気がしたのでした。気持ち良く拍手させていただきました。おもしろかったです。










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劇団メリーゴーランド『誘惑のクミンシード』

2019年09月16日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 文化シャッターBXホール、2019年9月13日19時(初日)。

 20世紀初頭。砂漠の中に宝石のごとく存在するサラーブ王国は二千年の昔より蜃気楼に守られ、未だに魔神が存在する国であった。ある日、ヨーロッパから飛び立った考古学者キース(斎桐真)の飛行機が王国の地場に囚われ、サラーブ王国の青年サイード(華波蒼)の「アジト」近くに墜落する。その衝撃で、王国を守ってきた「精霊の壺」の最後のひとつが割れてしまい、魔法の王国に戻し得ない歪みが現れ始め…
 脚本・演出/平野華子、俵ゆり、作曲/内海治夫、振付/俵ゆり、千泥遙。女性だけのオリジナル・ミュージカル劇団10周年記念公演、初の2幕もの。

 もう5年ほど通っている劇団の本公演で、前回公演の感想はこちら
 つい先日、楽園で飛行機でどうのというバウとか植物で精霊がどうとかいう大劇場公演を観た気がしましたが、単なる偶然の一致でしょうがむしろ先取り感が素晴らしい。だってほぼ一年かけて準備しているんですものね? というか、ここは単なるなんちゃってタカラヅカ劇団なんかでは全然なく、脚本のクオリティはマジで毎度「これまんまバウでやればいいのに…」と思うクオリティの高さで、劇団の若手もマジで見習ってもらいたいです。てか勉強して!
 もちろんみなさん別にお仕事を持ちながらの団員生活、公演なのでできていないこともたくさんあるんだけれど、あたりまえですが素人では全然ない芝居とダンスのレベルにも毎度感動します。ちょっと好きなくらいではあんなことは絶対にできなくて、ちゃんと日々お稽古で鍛錬している証が発揮されているのです。その姿勢にも本当に感動します。
 そして何より単純に楽しい、おもしろい、よくできています。今回も、力業と言っていい怒濤の大団円突入に笑うやら泣くやら感動するやら、大変でした。なんせキャストが増えてできることが増えて、でもちゃんとみんなキャラが立っててかつストーリーに絡んでいて、なんなら話をガンガン広げるので、それをまたガンガン畳み回収し愛と友情を寿ぎ人類愛を歌い上げる大ハッピーエンドにまとめるんだからたいしたものです。
 本当を言えば、たとえば観客が感情移入するのは、というか立場を同じくするのはキースなので、彼をもっと上手く使って、この国の在り方やや女王姉弟のことをもっと早く上手く説明してくれるともっと物語り世界に入りやすいのにな、とは思いましたし、サフィア女王(妃桜みおん。毎度圧巻の歌姫っぷりと優雅なドレス捌き、身軽いお衣装になってからのフィナーレのダンスの美しいことよ…!)と大富豪ジャウハラ(月夜見翔。毎度ニンすぎる一見悪役チックなでも実は主人公の良き親友で…みたいな役どころ、たまらん! あと乳母とはなんなのラブなのキャー萌える!!)が何をどう対立しているのかももっと事前に上手く説明してほしかったなと思いました。ジャウハラは、もちろん自分の儲けが一番なんだろうけれど、開国推進派なのか、それとも閉ざされていた方が独占できていいと考えているのか、私にはよくわからなかったのです。だから壺が割れたことを歓迎しているのかなんなのか、よくわからなくて…ここの利害と、仮にも王弟である(笑)サイードと幼なじみであることなんかが上手く絡むと、ドラマとしてもうひと盛り上がりしたはずですよね? フルム(清花紗海。生腹ごちそうさまでした鬘が素晴らしすぎましたあんな靴であんなダンスどういうことなんだすごすぎました)のこととかもさ…スッキリ萌えたりせつなくなったりできる道筋がもっとわかりやすくできてるといいなのにな、ともったいなく感じたのです。
 でも、サイードとコーカリー(羽良悠里。毎度燦然と輝くすっとんきょうヒロイン力が素晴らしすぎました)のラブコメっぷりとかホントにやにやさせられましたし、キースの座持ち力?に感心しワトワート(紗蘭広夢)のもはや卑怯なまでの存在感とラスボスっぷりに感動しその弟子ロクサーヌ(米原恵)のキュートでややへっぽこな弟子っぷりに萌え魔神がそれぞれ素敵で蛇の精霊のモダンバレエっぷりを愛でていたら、歴代公演タイトルを回収しかつタイトル出オチみたいなラストにまさかの大感動をさせられるという、類い希なる観劇体験ができたのでした…!
 真面目な話をすると、人が希望を持つことを「欲望」と表現し、かつそれを全面的に肯定している世界観に感動しました。女神さま(精霊だけど)がおっしゃるんだから間違いない。
 なのでもしかしたら、王弟だけど半分しか人間でなく半分しか魔神でなく魔力はない、ということにコンプレックスを抱いてちょっとモラトリアムっぽくなっていた主人公サイードが、健全な「欲望」を取り戻し成長する…というのがそもそもの主軸のストーリーだったのかもしれませんが、それは残念ながらちょっとわかりづらかったかもしれません。あれこれ他にも描かなくてはいけないキャラクターやエピソードが多くて、サイードの出番が単純に割を食った感じがするというか、エピソードがないというかしどころがないというか、でちょっと求心力がない主役に見えた気がしてしまったんですよね。役者はいつものヘタレ巻き込まれ美形っぷりをいい感じに発揮してはいたと思うのですが…このあたりのバランスが、メンバーが増えてきた今後の課題かもしれません。別に宝塚歌劇なみのスター制度を取らなくても全然いいんだけれど、物語ってやっぱり主役が動かす構造になっているべきものだと思うので、たとえ巻き込まれ型だろうとでんと主軸でいなくちゃいけない、観客の気持ちが主役に沿って話を追っていく形に誘導しなきゃならないんだと思うのです。
 あとは劇場の仕様でしょうがないんだろうけれど、照明にもう一段階凝れるといいですよねー。プロローグとフィナーレは特にもっとピンスポ欲しかったです。あとマイクも数がないのかな? まあ生声で十分なハコではあるのかもしれませんが…
 そうそうフィナーレ、カッコ良かったなーちゃんとしてたなー! トップスタァの周りで四組デュエダンとかあるんですよすごくないですか!?
 狭い舞台でお疲れ様です、残りの公演もご安全に、より盛り上がり練り上げられますよう祈っています。次回公演も楽しみにしております!



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宝塚歌劇宙組『リッツ・ホテルくらいに大きなダイヤモンド』

2019年09月14日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚バウホール、2019年9月10日11時。

 アメリカの大学、セント・マイダス校では恒例の学生公演が上演されている。華やかに歌い踊る学生たちの中心にいるのは、ジョン・T・アンガー(瑠風輝)。活力にあふれ、誰の目にも魅力的に映る彼は仲間たちから絶大な人気を得ていた。ジョンの親友で公演の出資者でもあるパーシー(鷹翔千空)も、彼に強い憧れを抱くひとりである。終演後ジョンは、公演の成功も君の寄付があればこそだとパーシーに感謝する。パーシーはお金の価値について実体験をもとに語り合おうと、自分の故郷に遊びに来るようジョンを誘うが…
 原作/F・スコット・フィッツジェラルド、脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/長谷川雅大、手島恭子。フィッツジェラルドがデビュー間もない1922年に発表した中編小説を原作にした夢物語、ファンタジー。全2幕。

 原作は未読。「いかにもキムシン」みたいな評判を聞いて、楽しみに出かけてきました。
 私は好きです。ただこれは、ファンタジーというよりは寓話だな、と思いました。そしていかにもあの時代のあの年頃のフィッツジェラルドが書きそうな話だとも思いました。もう少し前に、むしろバブル末期に上演していたらもっと響くんじゃないかな…でも宝塚歌劇は、というかその客層はそこまで世間の空気に左右されないのかな。ラストは改変されているとも聞くし、かなり宝塚ナイズされているのかもしれず、もしかしたらけっこう別物になっているのでしょうか?
 私はこれは、大きすぎる富は不幸をもたらすとか富が幸福を保障するものではない、みたいな、まあよくある、ごく普通のことを言っているにすぎないお話だよなと思いました。なので今の日本で真面目に上演すると「そんなおためごかしはどうでもいいから富をくれ」ってなっちゃうだろうな、と思ったんですよね。そのあたり、宝塚歌劇の観客はどうなのかなあ。ちなみに私は富が保障できる幸福も確実にあるよ、とも思いますけれどね…経済的な余裕があるから観劇もできてとときめきを得られて精神的に安定する、だから仕事もがんばっていける、みたいなサイクルが現状あるので。
 それはともかく、次代を担うスターの大事な初主演作、いい作品であるに越したことはありませんが肝心のスターの魅力すら生かせていない例も多い中、これはもえこや夢白ちゃんの良さを発揮させることができている、いい作品だったんじゃないかなと思いました。
 もえこはとにかく歌えるし、スタイルがいいし(個人的にはちょっと良すぎるのが心配なくらいではあります…)、弱点にもなりかねないんだけれど明るくまっすぐでいたって普通な、スマートさと素軽さが持ち味のスターさんかなと私は思っているので、ジョンには適任だったかと思います。
 そして夢白ちゃんは、美貌と声と芝居の質が不思議にアンバランスなところがある娘役さんで、路線の枠にはめづらいところが魅力なんだけれどなと私なんかは考えていたのですが、なので今回の浮き世離れした深窓の令嬢キスミン(夢白あや)役が合っていたと思います。鬘が素晴らしく、なんか素敵な靴を履いていたのにドレスの裾でチラチラとしか見えなくて歯噛みしました!
 パーシーは、どうなのかな…こってぃもそんなに暗かったり歪んでそうだったりするところがない人だと思うので(というかそういうのが萌えや熱狂的人気につながるタイプのスターがいなさすぎるのがいからも宙組であり弱さの原因なんですよね…)、もっとそういうタイプのスターが演じた方が爆発力を持ったりしたんじゃないでしょうかね?
 てか結局パーシーの「僕のジョン」発言ってなんだったんですかね? だって毎夏誰かを招待しているんだったらそのたびに「僕のジョー」「僕のマリー」とかなんかそんなだったってこと? それじゃジョンが特別だったことにならないからしょぼんなんですけど…もえこの長ーい脚にしがみつくこってぃ、ってのが美味しかっただけでさ。てかこの招待って、たまには外の風を入れないと中が淀むから、ってこと? けれどまた外に帰しちゃうと秘密が漏れるから殺すってこと? すごい短絡的…まあお話なんだからそれでいいのかもしれませんけれど…
 飛行士たち(りっつとわんたのいい仕事っぷりよ…! あとやっぱキョロちゃん押しなんですねとしょぼんとするなつ派の私…あ、沙羅ちゃんもとてもよかった!)への仕打ちの回収もありますし、楽園の崩壊は当然かなとも思いますが、ここで飛行士たちのやり過ぎにも触れているところはなかなか憎いですよね。
 ともあれジョンとキスミンはなんとか脱出できました。周りは砂漠、というか荒野でふたりは身ひとつ。でも、そこから始めるしかないのだ…ということですよね。ふたりが見つめているのは未来のようでもあり燃えさかり崩れていく楽園のようでもある。ふたりは夢と希望に満ちあふれているようにも、後悔と不安に苛まれているようにも見える…いいラストだなと思いました。

 ただしフィナーレはこってぃセンターの男役群舞から始めようよ、もえこ板付きで始めたいい気持ちはわかるけど再び幕が開くまでの間が長いよ事故かと思うよ拍手し続けるのつらいよ配慮がないよキムシン…今の形はトップになったらやればいいの、トップになるまでやっちゃ駄目な形なの贅沢なの!
 しかし久々にダンサー同士のデュエダンをがっつり観られて幸せではありました。リフトも素晴らしいけれど、終盤の、男役が腰のあたりに娘役を乗せてくるりと回して娘役は脚を大きく広げてスカートを翻させる振り、素晴らしすぎましたね!
 そしてなんとバウなのにエトワールから始まるパレードよ…! どんだけ重宝されてるのせとぅー。てかさよちゃんの美声が本編でがっつり聴けたのも幸せでした。
 学生から(大学生は「生徒」ではないよキムシン…タカラジェンヌと違うんだよ…)楽園の男女から先祖、飛行士と大忙しの下級生たちもいい意味でいいアンサンブルぶりで、とても良かったと思いました。客入りがあまり良くないとも聞きますが、終盤仕上げていってくれるといいな…期待しています。






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