駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『パガドスカファン』初日雑感

2023年09月30日 | 日記
 宝塚歌劇宙組『PAGAD/Sky Fantasy!』大劇場公演初日と翌11時公演を観てきました。
 キキさくお披露目です。まぁみりもまかまどもまかかのもプレお披露目も本公演お披露目も初日に行きましたし、『エクスカリバー』も初日を観ましたが、やはり本公演お披露目初日には格別のものがありますね…! 開演アナウンスの名乗りへの拍手はまあ通常かなと思いましたが(ショーも指揮者挨拶がないのに開演アナウンス終わりに謎の拍手が沸いていました…!)、冒頭セリ上がってきたキキちゃんが振り返って!顔が見えて!ライトが当たって!拍手!!のときの拍手の音量はハンパなかったですし、それがそのままずっと続いて、キキちゃんが下手に移動して銀橋に出て歌い出すまでたーっぷり続いたのでした。こんなの、私は初めてだったなあ(2日目もやったのはどうかと思いますが、まあ週末でそこが初日というファンも多かったろうからなあ…でも逆に変な習慣になってしまわないことを老婆心ながら祈ります)。ショー中詰めの客席降りでのキキちゃんのはしゃぎっぷりや大サービスっぷり、客席の大喜びっぷり、そしてカテコのご挨拶と客席からのすすり泣きも、感慨深いものがありました。
 まずはめでたい。長く待たされてしまった形になりますが、良作に恵まれ、充実したトップ期となりますよう、心よりお祈りしています。

 さて、いわゆるカリオストロ伯爵が主人公のミュージカル・ノワールは、デュマ・ペールの小説を原作とした『BLACK MAGIC』なる映画が元、とのこと。パガド、とは奇術師、転じて詐欺師、山師、錬金術師…のことだそうな。トップになったのに黒い役、ピカレスク・ロマンでお披露目、とはいかにもキキちゃんですね。まあでも私はこの人はフツーに白い真ん中役が十分保つし逆にその方が魅力的なのでは、と思っていますけどね…二番手時代にさんざんやったような役回りをせっかくトップになったのにまたやらされるのはどうやねん、ってのと、どうしてもいろいろ既視感があったので、そこは残念だったかな。
 でも、田渕先生の作劇は非情に手堅くオーソドックスかつスマートで、ストレスがありませんでした。アンサンブルの扱いなども上手いと思います。予算の関係かセット(装置/川崎真奈)はややショボく見えたかな…またお衣装(衣装/澤井香菜)にもやや見慣れたものが多かったのは残念でした。でも意味不明でつながらない会話とか日本語の誤用がなかった、それだけでもたいしたものです(皮肉です。こんな低いハードルで満足している場合ではない。劇団は脚本に少しも早く校閲かドラマトゥルクを導入してください)。
 マリー・アントワネットの首飾り事件は池田理代子『ベルサイユのばら』なんかにも出てくる有名なものですが、どうつながるのかな、と興味深く観られましたし、ストーリーテリングとしても楽しかったです。
 どこまでが原作小説、ないし映画準拠かわかりませんが…『ベルばら』にもオリバだっけ、アントワネットのそっくりさんが出てきましたし、このあたりは史実なのかな? さーちゃんはロレンツァとアントワネットの二役を務めて、立派なものでした。ゴージャスなドレスを着るとちょっと花組トップ娘役だったゆきちゃんを彷彿とさせますね…ダミーも上手く使えていたと思いました。
 キラキラ担当のずんちゃんジルベールがまたちょっと既視感あるお役だったのが残念でしたが…でも、あいかわらず手堅く上手いです。トップコンビが結ばれるのでなければこのパターンがいいと思うので、私は楽しく観ました。
 なので、おもしろかったんですけど…でもこのキキちゃん、というかジョゼフというお役って、カッコいい…ですか、ね…?(>_<)ちょっと…なんか…アレじゃないですか……?

ピカレスク・ロマンって、主人公がアウトローだろうが犯罪者だろうが悪漢だろうが、それは時の政府から見たら、とか当時の社会から見ると、というだけの話で、本人には彼なりの愛や正義や理想があって、それは一本筋が通っていて、観客なり読者なり視聴者なりもそれに共感できる…というのが基本だと思うのです。でも今回…苦しくないですか?
 ロマだと差別され、母親を魔女だと決めつけられて一方的な裁判で絞首刑にされて(しかし薬草の知識などがあって子供の死期が診断できただけ…とかにした方が良くはないかな? 未来を読める、とかになるとオカルトだし、そら魔女やね、ってなっちゃうじゃん…)、不当だ、ひどい、復讐してやる…となるのは、わかります。でもまっぷーギターノはじめきよちゃんデラムやこってぃアントニオ、ブッキーのゾロイダと、家族同然の仲間がいるのに、ジョゼフはちょっとかたくなすぎだしこじらせすぎだよね…とは、ちょっと思っちゃうかな。同じように両親を亡くしているロレンツァが、すくすくまっとうに育っているだけにね…もちろん彼女の親は病死か事故死か、くわしくはわからないいけれどまあジョゼフの母親のケースとは全然違う、多少は納得しやすいものだったのでしょう。でもその後の彼女は、親戚の家にでも引き取られているのかもしれませんが、乳母ないし侍女のりずちゃんグレースがついているだけで、そこそこ肩身の狭い思いをしてきたのかもしれないわけじゃないですか。でもけなげに、というかいたって健康的に育って、恋にも素直に落ちていて(ここ、ちょっとイージーなんでなんかもっとエピソードがあってもいいのでは、とも思いましたが…まあ脇筋と言えば脇だからな)、過去にこだわることなく今を生き、より良い未来を夢見ているわけです。それがジョゼフにはまぶしかったのかもしれないけれど…というかそういう描写があれば彼がロレンツァを愛すようになるのもわかるし、過去や復讐の念に囚われている彼の情けなさのフォローにもなったかな…彼も復讐なんて虚しいかも、って気づいてはいるんだよ、でも切り替えられないんだよ、みたいな感じがもう少し出れば、もっと観客も同情しやすく、感情移入しやすいかと思うのです。
 ひょんなことから母親の仇のもえこモンターニュ子爵と再会し、王太子妃アントワネットと瓜ふたつだとという娘ロレンツァと知り合って、これは使える、ととりあえず仲間になる…のはわかるんだけど、その後のジョゼフのプランが明かされないので、観客はちょっと共感の筋を見失うんですよね。単に隙見てグサッと刺し殺す、とかだけではつまらない、と考えているならそれはそれで、そう言ってくれないと。急に「復讐よりも野望が…」とか言い出されても、どんな?とハテナ?なんですよ。あとでじゅんこさんメスマーが、庶民を虫けら扱いしてしたい放題という権力そのものが憎いので、逆にその権力を得て世の中に腹いせしようとしたのだ…みたいなことを言うくだりがありますが、エッそうだったの?感がハンパなかったです。しかもモンターニュをハメたあとは、また目的は復讐、みたいに戻っちゃってるし…野望、どこ行った?
 また、その復讐なり野望なりのためにロレンツァを利用しよう、というなら結婚する必要はないわけで、でも花嫁衣装なんか作らせちゃって(ゾロイダへの仕打ちはオレ様男とかS系男子とかっていうより、単に非道で胸糞悪いモラハラ男仕草じゃありませんでした…?)、つまりそんなにロレンツァのことが好きってこと? いつ? なんで? ロレンツァが「ジョゼフ、かわいそうに…」みたいなことを言ってくれたのって、催眠中じゃありませんでした? 彼女は正気のときには常にジルベールのことを想っているし、そうでないときにはアントワネットの替え玉として職務をまっとうしている(?)ので、ジョゼフのことなど好きでもなんでもないようなんですけれど…? 相思相愛の若い男女の間に一方的に割り込んでワガママ三昧って、なんてインセル仕草なの…?ってちょっと、かなり、ドン引きしません…?
 ゾロイダがしていることは正しくて、単なるやっかみだけならロレンツァの命を助けたりもしないので、私は非情に好感が持てました。こういう女性が描けるんだから、もうちょっと考えようよ田渕先生…私はラストはあの天幕の奥で彼女が待っていてもいい、と思いましたよ? 彼女は今はセラフィーナと名乗り、カリオストロ伯爵夫人としてジョゼフとともに旅をしているのである…というのは、悪くないオチだと思うんだけどな。
 明言されてはいないけれど、ジョゼフはロレンツァに母親の面影を見て恋した部分もあるようですが(それで一目惚れ、ということなのか? でも演出がヌルくてよくわかりませんよねえぇ?)、これは女性観客にはまったくウケないネタなので、むしろ完全に却下した方がいいです。たとえ自身が母親である女性でも物語は娘時分の視点で観るものだし、人は誰でも誰かに似ているという理由で愛されても嬉しくもなんともないに決まっています。自分が自分だから愛してもらいたいんですよ…なんで男性作家ってこのネタ描くのかなー、自分は自分だってだけでは愛される自信がないってのの裏返しなのかなー。ホントやめてほしいわー…
 ギターノに諭されたあと逆ギレして銀橋で歌う歌も、せつなさマックスのハイライト!というよりは、ちょっとしょーもなく感じられるんですよね…でもここは「俺はもう後戻りできないんだ!」(みんな大好きヨン・ホゲ@『太王四神記』)じゃなきゃダメじゃん。ううーん、なんか惜しいんだよなー…
 あとモンターニュの悪事が意外とショボいのも悲しい。まあジョゼフに比べたらしょせん彼は小悪党、ということにしたいのかもしれませんが…彼の懐刀っぽいナニーロのシャンボールはクール・ビューティーで素敵だったので、彼が主を脱獄させて手に手を取って逃げ落ちる薄い本を脳内で紡いでおきますね。
 あとあと、じゅっちゃんのデュ・バリー夫人はすごーくよかったんだけれど、しかし彼女は国王の公式な愛妾として富も権力も何もかもを手にしていたので、結婚して王妃になりたいなんて考えていなかったんじゃないのかなー…最後にジルベールにいいこと言って去っていくのは、つまりは彼女が真に望んでいたのは国王との愛、みたいなことになるんだろうけど、そんな話だったか?という気もしましたし、ううぅーむ。あと、アントワネットとの宮廷の覇権争いに敗れて去っていく、という描き方は、実際に下級生にトップ娘役に就任されて組替えしていく中の人の立場をなぞりすぎているので、ファンは観ていてお尻がちょっとモゾモゾすると思います。近く組替え先での次期就任が発表されでもするのなら、見え方が違ってくるとは思いますが…というかこれまでもまあまあ手厚かったけれど今回はショー含めて完全な別格扱いで、組替えの餞別ってのもあるんだろうけど、文春案件の劇団からの謝罪ないしフォローが入ってるんですかね…?とかちょっと邪推したくなるレベルでしたよね。芝居ではさーちゃんも渡っていない銀橋を(ソロを長くして歌って渡らせろよ…)堂々歌って渡って去るのは、さすがに、どうも、なあ…古い話でアレですが、ミハルが就任したときのヨウコちゃんみたい…(>_<)
 と、こうまでうだうだねちねち語りましたが、逆に言うとこのあたりがもうちょっと整うと、ものすごくおもしろい、せつない、しかし楽しい傑作になるのでは?というくらい、わりとちゃんとした作品だったと思うのですよね、私。『フリューゲル』とかにはそんなこと言えないもん…(おっと)
 また王国作って王になるとか言い出しちゃったよ、とか建物の屋上でチャンバラ始めたら落ちるぞ落ちるぞ、ってなっちゃうのは、もう仕方ないですしね…(^^;)そうそう、ここの回想の親子は手前のセリの上げ下げで出した方が良くないかなあ、奥に出すと遠近感が狂うんですよ…
 ああぁどうしよう、もっと褒めねば。
 えーとえーと、サラちゃんクララ(この時代にあんな眼鏡が?とは思うが)となるくんヨハンがよかったなとか、ジルベールの部下のりせくんニコラもよかったなとか、宿屋の女将役の沙羅ちゃんがさすが芝居が上手いよなとか、ましろっちやるのくんがやっぱいい仕事するよなとか、なっつやまなちゃんの手堅さがホント貴重だなとか、嵐之くんが起用されて嬉しいなとか…でも新公ヒロインに抜擢するくらいなら夢風ちゃんがやったサクラの娘は花恋こまちにしてちゃんと客に認識させてくれよ、とは思いましたかね。あっ、またつっこんでしまった…
 でもまあ、ファンは楽しく通うのでは?と思う出来かと…フォローになってなかったらすみません……

 ショー・スピリットはなんと宙組本公演担当が15年ぶりというBショーで、もうもうまさに待ってました!という感じでした。
 イヤまったくいつものBショーで、構成なんざそれこそ既視感ありまくりなのですが、宙組でやってくれるということが貴重なんです! これまで銀橋に出るスターの数の少なさに定評がありすぎた宙組で! あの子もあの子もあの子も、こんなにも出してもらえて歌まだ歌って…ともうそれだけで楽しかったです。減るもんじゃないしいいんだよ大盤振る舞いで!
 プロローグの赤と金、なんか最近れいこちゃんとかで観なかった?とか思うのですが、いいんですいいんです。長いけど楽しく手拍子しましたよ!
 個人的にはプロローグの次の、雨のタンゴの場面が好きです。モノクロ縛りのお衣装(これもよく観るヤツだけど)と、もえこの場面かと思いきやトップコンビが出てきちゃうところとか、意外と尺が長くていろんなバリエーションが展開されるところとかも好き。でもその次の、ずんちゃんブッキーなんだけどじゅっちゃんが虹のラスボス、みたいな場面もよかったです。
 そこからは中詰めなんだけど、とっぱしが上手スッポンセリ上がり背中、振り向いたらナニーロ!で「キャーッ!」となりました私(笑)。いやぁいいよね若手あるあるで。まだまだ保っていなくてあわあわしていて、そしたら下手から女子四人が助っ人に現れましたが(笑)(みんな女子です)(翌日三人しかいなくて、終演後に確認したら有愛きいちゃんの休演が告知されていました…)。
 さらには客席降りがあって、キキちゃんが先頭切って中通路まで爆走して、ハイタッチもありで…このご時勢に…ありがたいけどいいのよそこまでしなくても…まだまだ感染が怖いんだから…でも21列目だったので振り返って手を出しましたすみません、キキちゃんの手はひんやりしていました。
 さらにさらに中詰めのシメがこってぃひろこセンターの若手場面でさあ、なんとひろこまで歌っててさあ、いやぁハラハラしたね!(爆)
 からの、なんとまっぷーなっつが上下スッパンセリ上がりで宙組25周年を寿ぐ歌なんか歌っちゃって、胸アツでしたね…そこから白いお衣装にサークレットのよくある場面なんだけど、みんなが学年ごとかな?キキちゃんと絡んでいって、さらにはこれで退団のきよちゃん沙羅ちゃんシンメの爆踊りターンがあって、もううるうるしました。
 ロケットもよかったなあ、歌手がいるのもよかったですね。
 そしてまたまた別格じゅっちゃんのターンからフィナーレへ。でも次にさーちゃんセンターで娘役場面を作ってくれたのが嬉しかったです。てかBのフィナーレのちょっとバグってる大盤振る舞い、ありがたいですね。
 黒燕尾、男役全員出てるんでしょ? 景気よくていいね! さらに歌い継ぎと、きよちゃん沙羅ちゃんの銀橋デュエットまで…ありがたや。娘役も花道まで使って全員ズラリと景気よく、そしてデュエダンは組カラーの紫。オーソドックスな振りでリフトもないけれど、お初だろうさーちゃんがそつなくこなしていて良きでした。カゲソロは葉咲うららちゃん、素敵でした。
 エトワールはサラちゃん、これも良き。ずんちゃんも立派な二番手大羽根を背負って万雷の拍手、ショートの鬘のさーちゃんがザッツ・プリンセスで、お辞儀からのキキちゃんのスタンバイに若干間に合ってない感じも愛しかったです。ラインナップはナニーロは組長のまだ外で、そこは線を引くのね、と思いましたが…まあバウ主演も控えているし、これからかな! おかゆもスチール入りしたし、キョロちゃんが戻ってくればさらに手厚くなっていきますし、新生宙組、期待しかありません!


 衝撃のニュースについては、今はまだなんとも、なので…
 みんなが心身ともに元気で健康で、楽しくハッピーに公演し続けられますように……
 いろいろ心配だし憤ることも多いけれど、私はファンをやめるとか観なくなるとかは考えていなくて、観て文句を言いたい派なので…イヤ別に文句を言うために観ているんじゃなくて、あくまで改善を求めて、良かれと思って、愛あればこそ言うのですけれど…
 どうぞ、そんなファンの想いに応えていただきたく…でないと200年とか150年どころか、110周年だって完走できるか怪しいんだからね! 自覚せーよ劇団!!















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『ラグタイム』

2023年09月28日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日生劇場、2023年9月27日17時45分。

 ユダヤ人のターテ(石丸幹二)は娘の未来のために移民となり、ラトビアからニューヨークにやってきた。黒人のコールハウス・ウォーカー・Jr.(井上芳雄)は才能あふれるピアニストだが、恋人のサラ(遥海)は彼に愛想を尽かして、ふたりの間に生まれた赤ん坊をある家の庭に置き去りにしてしまう。その家は裕福な白人家庭の母親マザー(安蘭けい)の家だった…
 脚本/テレンス・マクナリー、歌詞/リン・アレンズ、音楽/スティーヴン・フラハティ、翻訳/小田島恒志、訳詞/竜真知子、演出/藤田俊太郎。E・L・ドクトロウによる同名小説を原作にしたミュージカルで、1996年カナダ初演。98年のトニー賞受賞作。全二幕。

 脚本家のテレンス・マクナリーは20年3月にコロナで亡くなったんですよね…『蜘蛛女のキス』『フル・モンティ』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』そして『アナスタシア』…私もいろいろ観させていただきました。合掌。
 この作品に関しては私はなんの予備知識もなかったのですが、メンツがいいのでいそいそとチケットを取りました。が、なんでこんな後半日程を取ったんだろう…今月前半はいろいろ忙しかったんだっけなあ? たいてい平日夜を取るので、そこの予定がもう埋まっていたか、あまり上演回数がなかったのかな? でもとにかく初日以降、聞こえてくる評判が絶賛ばかりで、早く観たい!と気ばかり焦っていました。
 ケチってA席にしたんですが、日生劇場は二階も観やすく、左右から出てくるごくシンプルなセットがそれでもとても効果的で(美術/松井るみ)で、役者たちのミザンスも堪能できて、コスパいいな!と感動しました。そりゃ役者は遠目に観ることになりますが、みんな姿形と声で誰が誰だかすぐわかりますし、私は宝塚歌劇以外ではオペラグラスは使わず表情の演技より全身の芝居を観る派なので、まったく問題ありませんでした。
 高級住宅地に暮らす裕福な白人たちと、貧しいユダヤ系の移民たち、さらに差別されている黒人たち…のみっつのグループの1900年代の交錯を描く、オペラチックなミュージカルでした。ブロードウェイ版とはだいぶ違う演出になっているそうです。今回のメンツには多少の多様性がありましたが、毎度ほぼほぼ日本人、黄色人種でこうした作品を演じるのに生じがちな人種の見分けがつかない問題(しかも黒塗りなどはもうしない方がいいとされている…)は、各グループが特徴的な衣装(衣裳/前田文子)を着て演じ分ける、というアイディアで見事に乗り切られていました。裕福な白人たちは全身白を着て、ユダヤ系移民たちはグレーがかったくすんだ色目の服ばかり着て、黒人たちは赤や黄や青や緑の原色の服を着ていました。アンサンブルはバンバン着替えて人種を横断していました。こういうことは逆にブロードウェイや欧米諸国の座組ではできないことかもしれません。実に鮮やかで、わかりやすく、そしてもちろん役者はみんなただ衣装に頼るだけでなく、仕草や音楽に合わせて刻むリズムなどをすべて変えて、見事に演じ分けていました。素晴らしかったです。
 オープニングで、みっつのグループはみっつに別れて佇んでいます。というか紗幕にそうした絵が描かれていて、その絵を割って役者たちが出てくるような作りになっていました。そもそもその前にターテが出てきてその絵を眺めるようなところから始めるので、これはのちに映画監督になった彼が作った映画の物語なのかもしれない、と思わせる構造になっています。そして主要人物たちがそれぞれ、自分のことを三人称で語り出します。だから余計に客観視というか、俯瞰的というか、あとから眺めた物語のようにも思える。素晴らしい歌唱で大曲が紡がれ、芝居は要所に入るだけで、非情に叙事詩的にも思える。でもドラマチックでないとか共感できないとかいうことはない。絶妙なバランスのもとに作られている作品だなと感じました。
 そして最後に、ターテとマザーが再婚し、ターテの娘(この日は嘉村咲良)とマザーの息子(この日は大槻英翔)、そしてリトルコールハウス(この日は平山正剛)が5人家族になって、物語は終わります。プロローグでみっつに綺麗に別れていた役者たちは全員、ランダムに、白もグレーも原色もバラバラに混ざり合い一列になって並び、エピローグのラグタイムを合唱する…
 舞台奥には大海原の映像がホリゾントいっぱいに広がります。それはアメリカにやってきた人たちが(我こそアメリカ人、みたいな顔している裕福な白人たちだって、たかだかこの3、400年前に移民としてこの大陸にやってきたにすぎないのですから!)渡ってきた海であり、これはザッツ・アメリカな物語なのでしょう。でも人種も含めてさまざまな差別がまだまだ解消されていない今、融和よりも分断が顕在化されがちな今日、この作品は極めて現代的であり今日的であり、今なお上演される意義があると感じられました。これはこの海、青く美しい水の星に生きる我々地球人すべての物語であり、滅びの瀬戸際で踏みとどまれるかどうかがかかっている今こそ観られるべき舞台なのだ、と私はダダ泣きしました。気持ちよくスタオベしちゃいました。

 ラグタイム、という音楽は20年代にジャズが席巻するまで人気だったものだそうです。聞けば、ああ、こういうタイプの、こういうジャンルのアレね、と思います。それこそ宝塚歌劇のショーの一場面なんかでも観てきたようなシーンもあり、自然といろいろなものを吸収させられてきたのだな、と思います。あちこちで観てきた役者さんたちの新しい表現も観られたりして、個人的にもいろいろなものの融和が感じられた舞台でした。好き! 好み!!
 マザーの息子にはエドガーという名があるようですが、正式にはリトルボーイという役名だったり、その夫はファーザー(川口竜也)だし弟はヤングブラザー(東啓介)、父はグランドファーザー(畠中洋)で、原作小説でもそうなのでしょうか? なんというか、わざと抽象的な扱いになっています。ターテ、というのも現地の言葉での「父」らしく、ファーストネームではない模様。コールハウスとサラにはちゃんとした名前がありますが、しかしコールハウスってのはファーストネームとしては変わっている気が…当時の黒人さんにはよくある名前だったのでしょうか?
 まあ、ある種の、誰でもあるような人たちの物語…とされているようでもある一方で、実在の人物がちょいちょい出てくるのもおもしろい構成の作品でした。
 驚いたのがエマ・ゴールドマンの土井ケイトで、何度か観ているしミュージカルでも観ていると思うのですが、メインどころではなかったし歌の記憶も全然なかったので、パンチのある歌唱に度肝を抜かれました。上手い! そして役もカッコよかった! ヤングブラザーが惚れちゃうのもわかる!
 そのヤングブラザーの東啓介も何度か観てきて、タッパがありすぎるので役柄が限定されてしまうのでは、みたいな要らぬ心配をしていたのですが、こういうひょろっとした若者としての見せ方もあったか!とこれまた感動しました。彼がコールハウスに親近感を持っていくのはわかるんだけど…そうじゃない、そうじゃないだろうおまえ!と首根っこ引っつかんで揺さぶってやりたかったです。その後の半生の語りも…くうぅ。
 お初の遥海が、あくまで彼女が素晴らしいのであって血だのなんだのと言ってはいけないのはわかっているのですがそれでも、日本人離れしたエモーショナルでソウルフルな歌声が素晴らしかったです。だからなんでも上手いヨシオが、さすがに比べると黒人さんには思えないかな、とは思いましたかね…ちょっとスマートすぎる、理知的すぎる気もして。でもコールハウスって人はベタに喧嘩っ早いアグレッシブなキャラとかではなくて、ものすごくクレバーで、世界を信じ理想を持っていた人なんだと思うので、これくらいでちょうどよかったのかも、とも思います。
 たまたまかもしれませんが、カテコでホリゾントが外されて奥にいたオケが見えたときに、コールハウスの車がそこにあったのは、あえてなのかな、と私は思ったんですよね。特にライトを当てられていたわけではないけど、袖に片付けることもできたんじゃないのかな、なのにあえて見えるように置いておいたんだよね、と思ったので。
 この車は、富とか名誉とか財産とかプライドといったものの象徴なのかもしれないけれど、単なる道具なのであり、総じて文明というものの象徴でもあるのではないかな、と私は考えたのです。火と言語と文字と道具と…そうしたものを使うことで、我々人間は野生動物とは違う生物になったのです。だからこうしたものを否定できない。
 妬まれるんだから、悪目立ちするんだから、こんな車を買うべきではなかったのでは、乗り回したりするべきではなかったのでは…とコールハウスに言うことは、不当なことです。フォード(畠中洋の二役)は代金を支払う者には誰にでも車を売ったでしょう。代金が支払えて、その物が欲しいのであれば、誰でも買っていいのです。たとえ人種がなんであろうと。それが自由の国アメリカでしょう。たとえ建前であろうと、コールハウスはそういうことを信じていたのです。だから、あえて、2度目にあの消防団の「私有地」に行ったのです。彼は礼儀や信義といったものに重きを置いて応対した。悪いのは明らかにコンクリン(新川將人)たちの方なのです。この暴走、騒乱とその顛末…もう本当に絶望しましたよ……
『ムーラン・ルージュ!』で、愛、美、真実、自由のうちどれに重きを置くか、みたいな話で、私は真実か自由だな、とか考えたんですけれど、もっと言うと私は正義とか理想とかを世界に求めていて、そうしたものの実現のためには真実とか自由とかが大事だと考えているんだな、と改めて認識させられました。コールハウスは正当な対応を、公正な裁判を望みました。彼は正しい。彼のその後の行動はエスカレートしてしまって間違ったものだったかもしれないけれど、だからってあんなふうに扱ほれていいわけは決してない。でも今なおこうした不当な事件は日々、世界中で起きていて(50万筆越えの署名が受け取られないとかも、同様の事件です。不当です、正しいことじゃない。それが嫌)、それでなおさら絶望的な気持ちにさせられるのでした。百年以上前の話なのに、私たちは一歩も前進していないのではないか…と思わせられるからです。
 なのでヨシオの優しさや知性は、やはりこの役に似合いだったのかな、とも思うのでした。
 そして今は忘れ去られた、当時は時の人だったイヴリン・ネズビット(綺咲愛里)のあいーりがまた素晴らしかったんです! てかどっから出てるんだあの「ウィーーー!」って声は! いやぁ現役時代はまったく歌の人ではなく、特にトップになる前なんざ何度も椅子から転げ落ちそうになるほどのアレでしたが、人ってホント上手くなるもんなんですね!という、このメンツに入って遜色ない歌唱、そしてもちろん素晴らしい華と愛らしさ、感動しました。思うに娘役さんってホント無理して高いところを歌わされるので、それがつらくて本当より下手に聞こえがちで、退団して外部のミュージカルで普通のキーで歌うようになるとなんの問題もないっての(そして逆に歌上手と言われた男役が卒業後に苦労しているのを見ることもある…)、あるあるですよね…
 石丸さんやトウコさんが上手いのはもちろん知ってる、うんうん、という信頼…トウコさんのキャラもいいバランスの在り方で、素敵だったなー。
 マザーが帰らぬ過去を思って、「あの日は戻らない」みたいに歌う歌があるのですが、すぐに「あの日には戻らない」と続いたんですよね。「に」という助詞があるだけで意味が180度違ってしまう…過去を美しいものとして懐かしみ惜しみ嘆いているのではなく、苦しかったものとしてもう要らない、戻らない、ここから違う場所へ進むんだ、という意志の宣言になる、その鮮やかさにシビれました。訳詞者もプログラムで語っていました、わかりますわかります。
 てかみんな上手くて安心で、イヤ本来こうあるべきなんだけれど、ホント素晴らしかったです。なんか、またすぐ観たい、わかって観てもおもしろかろう、と思えたな…てか素晴らしい楽曲に再度浸りたい、と思えました。
 仕事が忙しい中に行ったにしては集中できて、良き観劇でした。ありがたい体験でした。



 





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『橋からの眺め』

2023年09月18日 | 観劇記/タイトルは行
 東京芸術劇場プレイハウス、2023年9月18日13時。

 アメリカ、ニューヨーク。ブルックリン橋の海側の湾に面した労働者階級が住む街、レッド・フック。物語は弁護士アルフィエーリ(高橋克実)によって語られる。イタリア系アメリカ人の港湾労働者エディ・カルボーネ(伊藤英明)は、妻のビアトリス(坂井真紀)と17歳になる姪のキャサリン(福地桃子)との3人暮らし。そこへ、ビアトリスの従兄弟マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の兄弟が、同郷のシチリアから出稼ぎ目的で密入国してくる…
 作/アーサー・ミラー、翻訳/広田敦郎、演出/ジョー・ヒル=ギビンズ、美術・衣裳/アレックス・ラウド。1955年に韻文の一幕ものとして初演され、不成功に終わって56年に2幕ものに書き直されて上演された「現代の悲劇」。全1幕。

 95分の、シンプルと言っていい戯曲です。なのでもう少し小さいハコでも、という意見も見ましたが、この舞台の大きさが要ったんだろうな、とも思いました。横に細長く、奥行きは全然なくて、それが彼らが暮らす地下の窮屈さ、密閉っぷりをよく表現していました。また、アルフィエーリが客席登場で物語を始めたように、これは現代社会に通じる客席と地続きの物語で、なので客席もまあまあ大きいものであった方がいい、ということだったのだろう、と考えたのです。まあ確かに客入りはそう良くはなく、満々席ではなかったのは残念ですが…
 でも、私はおもしろく観ました。『セールスマンの死』もよかったけれど、そしてそこまでの衝撃度はなかったかもしれないけれど、50年代のブルックリンに限った話ではなく、今なお上演される意義がある作品だと思いました。
 また、プログラムで役者や翻訳家や演出家が語るこの作品像や主人公像がけっこう違っているようでもあり、そういう意味でもおもしろい作品だなと思いました。
 私はキャサリンが変なファムファタールみたいに描かれているならイヤだな、などと考えていたのですが、そんなことはなくて安心しました。福地桃子はこれが初舞台だそうですが、ドラマではいい女優さんだなと感じてきましたが舞台でも遜色なく、しっかりきっちり、魅力的でしかしだらしなかったり甘えていたりズルかったりといったところもある、ギリギリの、ナチュラルなキャサリン像で、小悪魔すぎていたり娼婦めいていすぎたりしていなくて、とてもよかったです。声はちょっとキンキン感じられて、これはそれこそハコがデカいからでもあったかもしれません。
 エディに関しても、アルフィエーリも作家自身も多分に同情的な感じ方をしているようですが、露悪的すぎず、しかし「しょうがないよ、男だもの」みたいな空気もなく、ちゃんとマッチョで愚かで不正直で乱暴で、だからこういう顛末になるよね、という冷徹な、しかしクールすぎない淡々とした視線を感じた仕上がりになっていて、これも好感を持ちました。ただ伊藤英明は、これが13年ぶり3度目の舞台だそうですが、台詞が棒なのはわざと…なんですよね? つまりエディが心にもないこと、とおりいっぺんの常識的っぽいことをおためごかしに口にしているのだ、ということを表現するための棒読み…なんですよね? それにしては後半、激昂して本音が出だしたな、というあたりでもそう抑揚がついたり感情が乗ったりしているようでもなかったんだけれど…うぅーむ。なのでこのキャスティングはちょっと謎だったかもしれません。
 坂井真紀は初翻訳劇ということでしたが、こちらも問題なかったです。ビアトリスに関しても、むやみに同情的にも、また実は彼女が悪いのだ、と悪女扱いする感じもない公平なスタンスで作品は作られていると感じました。実際には、エディのことが好きだし、エディの危険さを感じて歯止めをかけつつも、ときには見ない振りをしてやりすごそうとしていた部分もあって、キャサリンに対しても我が子同様の扱いで育て社会に出してあげようとする一方で、若い女性に対するある種の不当なやっかみがなくもなかった…みたいなのは感じられましたが、そこがまた絶妙だったと思います。あと、ビアトリスがエディと共犯めいた部分があるにしても、それは男社会で女が生き延びるためのひとつの手段でもあるので、簡単には責められないよな、と思います。あとは、キャサリンが就職したあたり、あるいは兄弟たちが居候し出したあたりからセックスレスだったようですが、それを夫にきちんと要求するところがいかにもアメリカの妻だな、と感動しました。こういうところを逃さず描く男性作家にも、偉そうな言い方ですみませんがホント非凡なものを感じます。
 しかしエディは…ほとんど赤ん坊のころから育ててきた姪に性的な衝動まで感じるとは、それはもうロリなのでは…男として女を支配するためにセックスを手段として用いる、というのとは違う情欲を持っているようでしたもんね。立派に病気ですよ。妻の姉の娘であって血縁ではない、といったって本当に小さいころから知っている子供を、それなりの歳になったからってそういう対象に考えるのはおかしい。そしてロドルフォに対してもまさかのホモフォビアっぷりで、それはつまり自分の中のホモセクシュアル要素に怯えていることの裏返しなので、本当に哀れです。彼はいろいろな意味で真実を知らなさすぎる。その頑迷さが迷惑だし立派に罪なのです、だから罰せられるべきなのです。これはそういう物語だと思いました。
 彼が死ぬのは当然として、マルコがこのあと服役することになるのはやや気の毒な気がしますが、彼もまたマッチョはマッチョなので、まあ仕方ないやね、と冷たいでしょうが思っちゃいます。ロドルフォとキャサリンがトラウマに悩まされることなく幸せな家庭を築き、ビアトリスを義母として優しく迎え一家の輪に入れて平穏に暮らしていってほしい…と願わないではいられません。「適当に収め」るな、と言われそうですが、エディのような男たちが起こしてきた事件が、それこそギリシア時代の昔からずっと、適当に収められ続けてきたから、今なお世界は全然良くなっていないし、本邦においては滅びの道を一直線、という事態になっているのでしょう。自民党のあそこらへんのおっさんたち、この舞台を観たらエディの何がどう悪いのが皆目理解できず、話の展開に怒り狂うんじゃないかしらん…
 それでも、アルフィエーリが言うとおり、人類は法を作り、なんとか社会を作り回してきました。エディのしょーもない訴えと、それをきちんと法に基づいて返しアドバイスするアルフィエーリのまっとうさ、しかしその法にすがりつくようでもある弱さに、頼もしいやら逆に絶望的になるやら…でもありました。人類は、法律や平和憲法を作る賢さはあるのに、何故それを守れないしその域に達することができないのでしょうね…
「イギリス人演出家として、日本の俳優が演じるアメリカの戯曲を上演」するおもしろさももちろんあったんでしょうけれど、それよりも古今東西おんなじ感、を感じた舞台でもありました。






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宝塚歌劇雪組『双曲線上のカルテ』

2023年09月16日 | 観劇記/タイトルさ行
 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、2023年8月28日15時(初日)。
 日本青年館ホール、9月13日15時。

 イタリアのナポリにある個人病院、マルチーノ・メディカル・ホスピタルに勤務するフェルナンド・デ・ロッシ(和希そら)は、外科医として優れた腕を持ち、かつては大学病院で将来を嘱望されていた。その彼が約束されたエリート・コースを捨て、何故民間の病院で生きる道を選んだのか、その経緯は謎に包まれていた。今も第一線で活躍し、患者からの信頼も篤いフェルナンドだが、夜勤中の飲酒行為や女性との火遊びを繰り返す姿が問題視されていた。特に、医師としての理想に燃えるランベルト・ヴァレンティーノ(縣千。序盤の代役は眞ノ宮るい)は彼に反発し、何かにつけて衝突していた。一方、院長の愛娘で秘書を務めるクラリーチェ・マルチーノ(野々花ひまり)は、フェルナンドの良き理解者として批判的な同僚たちから彼を守っていた。新人看護婦のモニカ・アッカルド(華純沙那)もまた、数少ないフェルナンドの理解者のひとりだったが…
 原作/渡辺淳一、監修・脚本/石田昌也、潤色・演出/樫畑亜依子、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。渡辺淳一の医療小説『無影燈』をイタリアに舞台を移してミュージカル化し、2012年に雪組で早霧せいな主演で上演された作品の再演。全二幕。

 初演の感想はこちら
 当時も全然、まったく、評価しない作品でした。むしろ怒り狂った記憶があります。なので再演の報にも「は? なんで? たとえばどうしてもそらでチギちゃん作品の再演を、ということなら『ニジンスキー』とかの方が良くない? すわっちとかディアギレフができそうじゃない?」とかまで考えたのですが…なのでそらファンの親友と、初日に観てわあわあ腐そう、と意気込んで出かけたのでした(嫌な客…)。
 …ら、なんか…よかったんですよね…ちゃんとしてたんですよ…どういうことなの、カッシーマジックなの…?
「イシダは『死んだ』と思って自由にアレンジして下さいとお願いしました」と言うダーイシが潔かったのかもしれないし、当時の悪評ないし再演発表時の「は? アレを?? なんで???」の大合唱がさすがに届いてのことなのかもしれませんが、イヤしかしこの態度は立派です。某植Gにも是非『ベルばら』に関してこの姿勢を見せていただきたいものですが…ホント頼むよ……
 それはともかく、それを受けてカッシーが本当に絶妙な微調整、ブラッシュアップをしてきたんだと思います。探せばスカステの録画ディスクがうちのどこかから出てくるとは思うのですが、わざわざ初演を見直したりはしないので、どこにどう相違が、というのは検証できていないのですが、一幕はほぼママだったと聞きますね。二幕はチャリティー場面始め、かなり改変されているそうです。
 私が覚えているのは、モニカとクラリーチェのキャットファイトめいた場面が不快だったことと(何故男は女にこういう喧嘩をさせたがるのか…)、そのクラリーチェの病気が判明し移植できる骨髄を探そうってところにアントーニオ(咲城けい)の存在が発覚して、院長(夏美よう)がちょうどよかった、みたいな反応を見せて話が進んだところだったんですよね。父親として医者として人として、ホントどうなんだ、こういうキャラクターを描いて平気な作家って人としてホントどうなんだ、と絶望的な思いがしたことを覚えています。このあたりは、微妙に順番を変えたり会話の言い回しを変えたりして、いたってナチュラルかつちゃんとしたものに改変されている気がしました。イメージだけで語っていてすみません。でもクラリーチェがモニカに喧嘩売っちゃうのも共感できる流れでしたし、それに対してモニカが毅然と対応していたこと、あとでフェルナンドとその話になったときもきちんと対応していたことにすごく好感が持てました。そしてマルチーノ家の家庭争議に関しては、これもロザンナ(五峰亜季。『カルト・ワイン』のときはだいぶ痛々しかった脚が全快していて、安心しましたよ…)の好演もあって、すごくまっとうな対応、展開になっていたと思いました。
 もちろん、アニータ(希良々うみ)、ちゃんと養育費はもらいなさい、当然の権利だよ、お金は大事だよ、とかのつっこみはある。というかカッシーマジックをもってしても話のおおもとは変えられないのであって、たとえばモニカみたいなヒロイン像の在り方とかフェルナンドの生き様、というか死に様はどうなんだ、というつっこみはもうつっこんでも不毛で、変更するならそもそももうお話ごと全取っ替えした方がいいようなものなのでした。なのでどんなにそらが素敵でも、かすみちゃんが大健闘していても、作品自体がモヤるしクソだし嫌いだ、という意見が多いのもうなずけます。まあ渡辺淳一の昭和ロマンだからさ、それをイタリアに移しても作ったのはダーイシだしさ、そりゃそこからの挽回は無理ですよ…
 でも、私は、宝塚歌劇でやっている分、ギリギリ成立しているかなー、と思いました。リアル男優のフェルナンド、リアル女優のモニカは受け付けなかったろうけれど、この作品はつっこみはつっこみとして、それとは別にうっかり感動したしじんわり泣いちゃったりなんたりしちゃったな…というのが本音なのでした。

 とはいえ本当に男のドリーム満載の作品ではあり、ホント「ケッ」の連続ではあります。フェルナンド、自身の病気を知ってそりゃショックだろうし、けれど研究に使って未来の医療に生かそうという志は高潔で素晴らしいですよ。でもそう決めても心が乱れるときもある…というのも、わからないでもない。だから酒や煙草には逃げてもいい。だが他人を利用するな、玄人だろうが何をしてもいいわけではない。カタリーナ(莉奈くるみ)もそこまで本気ではなかったかもしれない、でも気にかけ心配してはいたでしょう。人の心をいたずらにかき乱す権利はたとえ末期癌患者だろうとない。そこは作家はわかっているべきです。
 末期癌患者にも恋をする権利はあります。でも恋とはそもそも権利とかなんとかよりただ落ちてしまうものなのであり、本人にも、誰にも止められるものではありません。だからフェルナンドがモニカに惹かれたと思うなら、それは真実の恋なのでしょう。
 でも、黙っていることはできる。想いを告白したり、抱きしめたりせず、つきあいを進めないこともできるはずです。大人なんだし、自分が遠からず死ぬとわかっているならなおさら、相手のことを考えてそこで踏み留まることもできたはずなんです。ましてセックスしないことは選べたはずです、本能だなんて言わせません。チェーザレ(桜路薫)が死ぬのが怖くて看護婦にしがみついちゃうのはとわけが違います。避妊もできたはずだし、けれど百%の避妊手段はないんだから(セックスするためにパイプカットをする、とまで言うのならむしろ推奨しますが)セックスしないに限るんです。もちろんモニカの同意はあったのかもしれない。彼女は彼との未来を夢見ていて、結婚も子供を持つことも望んでいて、順番なんか多少どうでもいいや、と避妊なしのセックスを受け入れたのかもしれない。その上での、納得の、希望した妊娠なのかもしれない。でも、フェルナンドが早晩死ぬことは知らされていなかったわけで、未婚の母になり父なし子をひとりで育てる覚悟まではできていなかったはずなのです。フェルナンドが死んでもモニカの人生は続き、普通に考えてそのあとの方がずっと長い。それを、自分の子供を育てさせることで縛る権利はフェルナンドにはない、それだけは断言できます。
 この大人げなさ、男のエゴを、男の可愛さなどといって許すようなことはできません。もうできない。これまでさんざん許し譲歩してきちゃったからこそ、今、世界はこんななんです。特に本邦。男の悪いところが全部出て、滅びかけているわけじゃないですか。その道連れにされるのはごめんです。ダメなことはダメと言っていかなければなりません。フェルナンドの弱さもわかるよ、愛しいよ、でもダメです。
 あと、自殺もどうかと思うけれど、自殺するにしてもせめて遺体は残して献体しろよ、とも思いました。てか真の死に際まで記録させてこその研究だろう。さんざん研究云々言っておいて、最後だけナニ綺麗にバッくれちゃってんの?と思います。こういう男のロマンチシズムも、令和の世には撲滅していきたいですね。そらの、湖の水底でらしきダンスが素晴らしい、というのとはこれは別問題です。そらの色気と上手さにホントやられそうになり、見ている間はつい許しちゃうわけですが、しかしダメなものはダメなのです。ホント、リアル男優にやられたら途中で席を立つレベルでしょう。
 モニカも、このキャラクターをカマトトにも白痴にも見せずに可憐に演じきってみせたかすみちゃんの娘役としての技量は素晴らしかったですが、そもそもこのキャラクターがどうなんだ、という問題がありまくりなワケです。飛行機にも乗ったことがない、おそらく田舎育ちの、若く純粋な、明るく優しい、ひまわりのような少女…幻想です。というかいないことはないんだろうけれど、そうした存在は男に都合良くつきあってなどくれません。男たちとは関係ない領域にひっそり生息している存在なのです。みだりに触るな。
 こういう女性に母親や聖母や神を見てすがる…気持ちはわからなくはありません、だがやるな。仕方ないもの、むしろ美しいものとして描くな。そこをこそ戦え。そこに人間の尊厳はある。死に際なら何をやってもいい、ということなどないのです。かすみちゃんは可愛い、我々だって抱きつきたい、しかしそれとこれとは別問題なのです。もともと歌抜擢だった印象の新進娘役さんですが、新公ヒロイン経験も経て、芝居も立派に務めていました。コスプレ感ある、設定いつなんだ?とアタマかきむしりたくなるナース服も可愛かったからいいですが…これまたリアル女優にやられたら「すぐやめろー!」と席から立ち上がって叫ぶレベルだと思いました(観劇マナーとは)。

 …というように、根本的に解決困難な問題がある作品ではあるものの、役者がみんな大健闘していて、セットがお洒落で(装置/稲生英介)、歌はやや昭和チックなメロディが突然始まる感じがあり、ダンスも二幕冒頭とかお洒落なものもありつつ手術室ダンスとかちょっとおもしろすぎで、二幕は細切れの暗転も多くてもう一歩工夫が欲しいところではあると思うものの、五年後の場面の清々しさや、ラストシーンのほぼ卑怯なんだけれど美しい演出に、うっかり泣かされ満足させられてしまうものに仕上がっているな、と私は感じました。カッシーマジックというより、宝塚歌劇マジック、といったものなんでしょうね。女性がやっている男役がやっているフェルナンド先生だから、ギリギリ受け入れられる。彼女が他者を妊娠させその後半生を縛ってしまうことは決してない、という担保があるからです。女性でも女優でもない娘役というフェアリーがやるモニカだから、すべて受け入れて微笑んでくれるんだ、と思えるのです。欺瞞かもしれない、けれど宝塚歌劇でしか描けないこうしたある種の愛の形、というものもあるんだと思います。だが「※個人の感想です。」と常に付け加えるように、これは現実ではなく観客の真の理想のロマンスでもなく、「※宝塚歌劇においてのみ成立する世界観です。」という注意書きが必要だな、と感じました。
 ところで本編のラストシーン、私が『1789』の本編ラストにやってもらいたかったのはこれなんですよね。かりんちゃんはどこかのインタビューか何かで、ここはすでに全員死んだあとの死後の世界の場面なのだ、と語っていたそうですが、フツーの解釈では白いお衣装でセリ上がってきたこっちゃんロナンだけが蘇った死者の魂で他は全員まだ生者、ただしこんなふうに一堂に会するわけはないからイマジナリー集合…という場面だと思うのです。だからそこで最後にロナンがひっとんオランプをバックハグしてしまうのは違う、と私は思う。ロナンからはオランプが見えていて、オランプもロナンの存在を感じているかもしれない、けれどふたりは存在する次元が違うんだから、ふたりの視線が合い手が触れ合うことはないはずなのです。湖畔のモニカとフリオ(清羽美伶。これがまた必ず男児なんですよ、せめてこれが女児なら…でもそういう発想が男性作家には本当にないのでしょう)はフェルナンドの存在を感じ、なんなら超自然的な力(笑)で転びかけた体勢を支えてもらったりします。でも、見えない、触れない。伸ばした手はすれ違う。でも、感じる、愛してる。涙、笑顔、幕…これが正しい。相手が死んでも愛は残る(こともある)、しかし肉体はもうないのだから物理で触れ合うことは二度とない…そういうものでしょう。政府が科学を軽視しても、創作は科学を軽視してはいけません。

 というわけで、俺たちのソラカズキは素敵でした。確かに男役としてはやや小さいんだけれど、スタイルは良くて脚も長いのでスマートで美しい。そして声もいい、歌も芝居もダンスも上手い。メガネ姿も事後姿(笑)も注射打つ様も見せてくれる、素晴らしいですね。『夢千鳥』『心中~』とクズ男の役で作品はいい、という、なかなかの作品運を持ったスターなのかもしれません。フィナーレもホントかっけー!のひとことでした。ちゃんとリフトもあって、小さくても男役さんなんだなあ、と感動しましたよ…本公演でのますますのご活躍を期待しています。
 かすみちゃんも初・別箱ヒロイン、かつ東上とめでたいがデカいところをしっかり務めていて、とても好感を持ちました。なんかもっと顔がデカい印象だったんだけど(すみません)、鬘が似合っているのか可愛くてそらともお似合いで、よかったです。初めてだろうデュエットダンスもとってもよかった! 青年館で私が観たとき、床に座り込む振りでそのまま片脚がつるりと滑って体勢を崩しかけたときがありましたが、ちょうどそらが手を伸ばす振りでさっと引き上げていて、お互い満面の笑顔で、もうきゅんきゅんしました。雪娘の二番手格争いもはばまいちゃん一辺倒じゃないところがいいし、厳しくもありますよねー…がんばれー!
 そしてまさかの、アタマ数日が代役上演となったランベルト先生ですが…あがちんももちろんよかったし素敵だったけれど、はいちゃんの上手さが際立っちゃったかなー、と個人的には感じました。てか本役だとはいちゃんはほぼモブの看護師じゃん(オペダンサー〈…ってナニ?〉Aはあるけど)、もったいないよ…初日のソロこそ震えていたように見えましたが、芝居はしっかりしていて役作りがくっきり見えたし、そらとの相性が、ちょっとタイプが似すぎているかな?とも思ったんですが、むしろ芝居が揃っていてすごくよかったのです。あと、フィナーレのセンターで踊るパートもめっちゃよかった! やっぱやらせればできるんですよ、ホント『CH』新公主演ははいちゃんがよかった、とは私は一生言っていきたいと思います。
 あがちんも、クールとまでは言わないけれど真面目でお堅くちょっと朴念仁なランベルトをすごく上手くやっているなと思いましたが、やはりニンって出ちゃうものなので、ちょっとだけうるさいかな、と感じたんですよね…初演ともみんなんで正しいとも言えるランベルト像でしたけど。でもはいちゃんランベルトは五年後、クラリーチェかモニカと結婚していてもいいかも…と思ったけどあがちんランベルトだとナイな、と感じちゃいました(笑)。あとフィナーレ、楽しそうに踊りすぎ!(笑) まだまだ楽しいだけでやっていて、ファンや観客に見せる感覚がないのかな、と最近やっとそのあたりのスイッチが入ったように感じるかりんさんと比べて思いました。イヤ楽しそうでいいんだけどね、でもそれだと「素敵ッ!」とはならないでしょ…? もちろん本人比で上手くなっているとは思うんだけれど、そもそもさっさと真ん中に置いちゃった方が粗が目立たずハマるタイプのスターかな、とも思います。あーさトップのあがた二番手時代なんて、どうなることやら…(そらはどこかでやめちゃうんでしょ?と私は考えているので)
 クラリーチェのひまりは、素晴らしかったー! 描かれている以上に役を魅力的に演じていて、でももちろん作品の邪魔はしていない、むしろ作品の質を深めていて素晴らしい、と感じました。ヒロインじゃない女性キャラクターってどうしてもこうした悪役令嬢チックな役回りにされがちなんだけれど(それはあくまで男性作家の引き出しのなさのせいなんだけれど)、クラリーチェは単なる意地悪お嬢様みたいな女性じゃないところがよかったと思うのです。そもそも母親が病院の家付き娘で、でも当人が女医になるという発想はまだない時代だったのだろうし、それで医者を婿養子を取っていて、旦那は院長で自分は社交に明け暮れていて、旦那の火遊び浮気も知っていて放置黙認しているような、さりとて冷め切っていていがみ合っている夫婦というわけでもなく、まあまあ仲の良い家族なんだと思うんですよねマルチーノ家って。そこに一粒種として育ったクラリーチェも、だからきちんと愛され育てられていて、決してただのワガママお嬢様なんかにはなっていないのです。母親同様に女医にはなっていないんだけれど、病院の仕事はしたいと考えて院長の秘書をやっているのは、おそらく単なるお嬢さん芸ではなく本当に有能なのでしょう。婦長(愛すみれ)始めスタッフからも煙たがられるどころか信頼されている感じがちゃんと出ている、素敵な役作りでした。父親とは腕を組んでハケるくだりもあったけれど、ないだけで母親ともちゃんと仲が良くて、やや派手めな私服とかもお揃い感がある、姉妹みたいな母娘なのでしょう。ロザンナはおっとりしていて、クラリーチェはもう少しシャープでスマートだけれど、とにかく素敵な女性です。
 フェルナンドとの交際がどう始まったのかは語られていませんが、クラリーチェの方は単なる大人の関係にする気はなく、ちゃんと彼を能力も性格も愛し、もっと知りたい、支えたい、ともにいたい、信頼されたい愛されたい…と願っていたのでしょう。変にプライドが高すぎず、黙って察されるのを待ったりしないところもよかった。ぶつからないと得られないものってありますしね。その流れでモニカに嫌味を言っちゃうところもとても自然だったんですよね。いじらしくて、可愛くて、悲しかった…
 五年後、親元を離れてバリバリ働く姿のまぶしいことよ…! 彼女の今の幸福を願わないではいられません。
 そのクラリーチェとの車椅子の芝居も絶品だった愛すみれ、役姿でやられてちょっとエッ?となるエトワールをすぐさま納得させられる力量もさすがでした。変にオールドミスとか、院長の愛人とかの面ばかりで描かれていないのもよかったです。
 にわさんのクレメンテ教授(奏乃はると)もマルチーノ夫妻と同様に初演からの続投だそうですね。慈愛あふれる父親代わり役のおじさま像、素敵でした。あすくんがアニータの兄でレントゲン技師のジョルダーノ(久城あす)を演じていて、これは新設された役だとか。技師がレントゲンを読めないはずはないとのことなので、ここはなんらかのフォローをしてあげてもよかったかと思いますが、要所を押さえるいいサポート役でさすがでした。アントーニオがあんなにいい子に育ったのは、この伯父の導きもあったことでしょう。そのさんちゃんも、『ボニクラ』ではちょっと足りてないなと感じてそれこそはいちゃんテッドで観たかったと思ったくらいだったんですが、今回はちょうどいい感じでした。ちゃんといい子に見える、というのも立派な強みです。
 桜路くんはいつでもなんでも上手いけれど、その妻ボーナ(杏野このみ)もよかったなあぁ。単なる美人娘役さん、ってだけでなくて、上級生になるとホントいい仕事をし出しますよね…パレードにしか出てこないピザ屋のエプロンを夫とお揃いできて出てくるのも良きでした。
 あとはモニカの同僚のサンドラ(千早真央)がキュートで、彼女も本公演だと歌起用ばかりですが、芝居もできるぞと見せていて吉。歌起用のアマーリア(白綺華)も、台詞もちゃんとしていてよかったです。りなくるもちょいちょい使われていたし、男役さんはマフィアたちも飲酒少年たちも(ジェッツのスタジャン…!)みんな台詞や演技が明瞭で、しっかりしていました。おそらく最下級生にまで台詞があったんじゃないかな? 全ツ『愛短』もそうでしたが、別箱公演はそうあるべきですよね。よかったです。

 三連休明けまでの公演ですが、どうぞご安全に。カッシー、新作期待しています。ダーイシは別の再演があるならそれも是非お任せで…(嫌いになりきれない作品はたくさんあるので)あがちんも次はまた別のタイプの主演作が来ますように。
 見守っていきますね…!






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『新・水滸伝』

2023年09月14日 | 観劇記/タイトルさ行
 歌舞伎座、2023年8月8日18時(八月納涼歌舞伎第三部)
 南座、9月7日11時(九月花形歌舞伎)。

 時は十二世紀初め、広大なる中国大陸。北宋の国は乱れていた。梁山泊に根城を構え、悪党を束ねて暮らす好漢の晁蓋(市川中車)は、役人たちの不正に憤り、「こんな国はぶっつぶそう」と思い立つ。牢を破り悪人たちを解放することで、毒をもって汚い国家を壊してやろうというのだ。そんな中、かつて兵学校の教官まで務めながら、数多くの罪で牢につながれた天下一の悪党である林冲(中村隼人)の噂を聞いた晁蓋は、彼を仲間に引き入れようと李逵(中村福之助)らとともにその牢を訪れ、今まさに打ち首の刑に処されようとしていた林冲を助け出す。林冲は襲い来る警護兵たちを容易くあしらうと、後日の再会を約束して、晁蓋に言われるまま逃げていくが…
 作・演出/横内謙介、演出/杉原邦生、スーパーバイザー/市川猿翁。中国の歴史小説「水滸伝」を原作に、2008年に二十一世紀歌舞伎組により初演された三代猿之助四十八撰の内、5度目の上演。全二幕。

 番付(歌舞伎では、特に関西ではプログラムのことをこう呼ぶそうな)の猿翁丈のコメントによれば、「新作・スーパー歌舞伎十番」でもあるそうな。「明治以降の“新歌舞伎”が歌(音楽的要素)と舞(舞踊的要素)に乏しい伎一辺倒になって楽しくないと感じていたので、“新・新歌舞伎”をつくろうと思った。隈取りなどの扮装やツケ入りの見得や立廻り、黒御簾的な音楽の使い方を積極的に取り入れたのだが、それが“スーパー歌舞伎”と呼ばれることになった」のだそうで、なるほどね、と思います。古典も勉強したいけれど、私のようにビギナーでミーハーな者にはやはりとっつきやすくわかりやすく、何よりエンターテインメントとして楽しいので、上演があればまずはここから観ていこう、と考えていて、お初のハコにも行ってみたかったので南座遠征までキメてきてしまったのでした。
 おかげさまでお友達にお誘いいただいて、先に歌舞伎座1階上手真ん中くらいの列のサブセンターブロックで観て、南座は二等席3階正面前方列どセンターを取りました。いいバランスだったと思います。南座の方がコンパクトで、芝居も密に仕上がっていて、音の抜けも良く、歌舞伎座ではくぐもって聞こえたりよく聞き取れなかった台詞も明瞭で、ややバタバタしていた芝居もまとまっていて、こちらもおちついて楽しく観られました。まあお隣がお茶の間感覚でちょいちょいボソボソしゃべるおばさま3人組だったのには閉口しましたが…薄暗い中でチラシと付け合わせて誰が誰かを確認しようとずっとしていましたが、だったらちゃんと番付買って? それか識別できるようになってから来て? てかその役を誰がやってるかなんて、作品を観る上ではあまり関係なくない? あとで、あの役をやってた人がよかったわ、誰だったのかしら、とか復習するんじゃダメなの? ボソボソガサゴソやってて台詞聞いてないじゃん、話の展開についてきてる? お話がわかんなきゃおもしろくなくない? …と、脳内でずっと呪いをかけていました。もうちょっとうるさかったら「静かに観てください」と言ってやったんだけどなあ…
 まあ私だってまだまだ誰が誰とか全然わからないし血縁関係もてんで覚えられていませんよ、でもキャラとストーリーはわかったし、楽しめました。とてもおもしろかったです。
 スーパー歌舞伎の何がいいかって、台詞がテレビドラマの時代劇程度のほぼ現代口語でわかりやすいとか、キャラクターやストーリー展開や演出がキャッチーで派手でわかりやすいとかもありますが、一番はその精神性なんだな、と思いました。根底にある、人間観とか、世界観といったもののまっとうさが、心地良いのです。そこが猿翁さんの素晴らしいところなんじゃないでしょうか。
 もっとスピーディーで鮮やかな場面展開をする舞台とか、複雑なキャラ、ドラマが絡み合う深遠な展開をする舞台とかは、外部にももっとたくさんあります。そのあたりは、比べれば正直、チャチだなとか拙いなとか子供っぽいなとかは感じなくもないわけです。暗転多いな、単調だな、とかね。でも、この精神性のまっとうさが本当に素晴らしいのです。
 原作小説にももしかしたら、多少はその素養があるのかもしれませんが…どうだろう? 私は多分、子供用の詳録版みたいなものも読んだことがない気がします。お上に逆らう悪党たちだけど、義侠心がある正義漢揃いで、腐敗したお上に逆らう荒事をやってみせるピカレスク・ロマン…なんだよね?というのが私のイメージです。たくさん出てくるだろうキャラクターや有名なエピソードから取捨選択し、上手いこと翻案したのが今回の舞台の脚本なんだろうな、という理解です。で、その取捨選択とかそもそもの作品の方向性とかには、脚本家の特性ももちろん出るだろうけれど、やはり猿翁さん自身のものの考え方が反映されているんだろうと思うのです。
 たとえば、お頭の晁蓋が、偉そうでふんぞり返っているようなタイプじゃないのがまずいいんですよね。もちろんリーターシップはあるし面倒見が良くて、みんなに慕われ懐かれているしみんなをよく束ねているんだけれど、それでいい気になっちゃうようなところはないし、むしろしょっちゅうみんなをおいて次のスカウトの旅に出ちゃってる、気ままなところがある人、という描写です。その自然体な好漢っぷりがとてもいいんですね。
 で、彼が留守居を頼んでいくのが姫虎(市川笑三郎)なんです。もとは居酒屋の女将、今は女親分という人ですが、彼女は晁蓋と義兄弟の契りを交わした、れっきとした腹心でありナンバーツーなのでした。単なる女房役、とかじゃないの。この時代の男性に女性と兄弟分になる、という発想があるとは思えないんですが、晁蓋はいいと思ったら相手の性別なんかに頓着せずただ仲間になる、そういう男だ、と描こうとする猿翁さんの性根が、たまらなく素晴らしいと思うのです。
 梁山泊には他にも女性の仲間たちがたくさんいて、それぞれ世間では悪人なんでしょうが、腐った世の中を嫌い晁蓋の理想に心酔してここに参加しているのは男性と同じなのです。腕力は男性には敵わないかもしれないけれど、気が強くて弁が立って、元気な女性たち揃いです。男たちに負けていないし、男たちの面倒を見たりもしていません。つまり煮炊きや掃除、洗濯をやってあげているような描写がないのです。ここでは男も女も自立して、自律してかつ自由に暮らしていて、同じことだから一緒にやるとか人の分もやるとかはあっても、性別で家事を役割分担しているようなことはないんだなと感じました。でも家事なんてそういうものです、大人になったら男でも女でも自分のことは自分でやるのが当然なんです。女たちは子供たちの面倒は見ているようでしたが、別に育児が女の仕事とことさらにされている感じもありませんでした。成人までは共同体全部で面倒を見る、という、あるべき社会の姿が梁山泊にはある、というだけのことなのです。
 この清々しさがたまらないのです…!
 梁山泊の対岸の村、独龍岡の女戦士・青華(市川笑也)も素敵なキャラクターで、跡取りの祝彪(市川青虎)の許嫁ですし、本来はいいところのご令嬢なのでしょうが、くわしくは語られないものの纏足がされていない、という設定です。なので祝彪は彼女を女のなり損ないだ、家同士が勝手な決めただけの縁組みだ、などと口さがなく言います。この男がまた、武芸は素晴らしいのですが朝廷の重臣・高俅(浅野和之)の腰巾着みたいな男で、いい悪役設定なのです。で、青華の方は、言い返すこともなくおとなしくしている…たとえば生理が来ない、あるいはいわゆる石女といった、妊娠・出産機能のない女性が男性と同じく戦士として働き手側になる、という文化の集団がかつては世界のあちこちにあったものだと聞いたりしますが、纏足はもっと小さなころからするものだろうから、青華の父親には何か娘の育て方に関して思うところがあったのかな…だから青華の身体にどんな事情があったのかなどはくわしくは語られないのですが、とにかく纏足されていないので、小さな歩幅で楚々と歩き歌い踊り宴席にはべるような女性の生き方をしていません。それで祝彪はそんなものは女じゃない、などと言うわけですが、しかし青華は男同様に大股に歩けるし、日々武芸を磨いていて男勝りの凄腕で、でも美人で、でも寡黙で、婚約者に悪し様にされるのに耐えている、美しく悲しい女性なのです。そんな彼女に一目惚れしてしまうのが梁山泊の山賊上がりの王英(市川猿弥)で、彼は髭モジャの豪傑で決して二枚目の色男ではないのですが、真っ赤になりつつ真摯に口説く、いじらしい恋心を展開させていくのです。たまらん!
 王英の恋を冷やかすやら応援するやら、と動くのが梁山泊の美貌の殺し屋・お夜叉(市川壱太郎)です。ピンクのべべ着てぴょんぴょんしてて可愛いんだけど凄腕で、これがもじもじへどもどする王英を焚きつけるやら唆すやらで、この男女の友情がまたいいんですよねー! ここでどっちがどっちかを好き、とかは全然ないの。対等な友人同士なんですよ。こういう設定ってなかなかないし、でもアリでしょ?って入れてくる猿翁さんの感覚が本当に好きだし信頼できるのです。
 少年漫画っぽい熱い仲間意識や敵とのバトルから、少女漫画的きゅんきゅんラブ、男女の友情、差別や貧困の問題、衣食足らないと礼節なんて知らないよという社会問題、権力の腐敗、本当に望ましい政治や社会の在り方、天に恥じない生き方、志、義侠心、友愛、勇気、理想…そういったことが真面目に描かれている作品です。その感覚がいちいちまっとうで、ツボで、「そう! そのとおり!!」と膝を打ちたくなるもので、清々しく気持ちよく、ノーストレスで観られるのです。
 現政権批判の視線ももちろんあります。エンタメですもの、そうでなくっちゃね! なんにも考えないでアタマ空っぽで観られておもしろおかしい…ってのがエンタメじゃないんですよ、おもしろい中に批評性があってしかるべきだと私は考えます。ニヤリとさせられるし、フィクションで観ているだけで満足するんじゃなくて現実を戦いがんばらにゃいかんな、と奮い立たされます。エンタメの力って、そういうことだと思うのです。
 そういうテーマを浮かび上がらせていくストーリー展開、そのためのキャラクター布陣とその造詣が本当に的確です。朝廷の重臣で、そのくせ裏で軍用金を着服し私腹を肥やし、それを見とがめた部下の林冲が邪魔で、濡れ衣を着せて処分しようとし、逃げられてどうにか捕らえて口封じせねば…とわたわたしている高俅の小悪党っぷり、たまりません。それに踊らされる祝彪も愚かで哀れだし、でも悪チームがそれで終わらないところがまたいいのです。高俅の側近・張進(中村歌之介)はまた素敵なキャラクターで、凜々しくもみずみずしい若武者っぷりが素晴らしく、ちょっと前までは高俅のお稚児さんだったのかな、とかも思わせます。でもやっと歳がいってそこからは解放されて、そんなことがなくても有能で敏腕で主君のために役に立ちたいと考えていて、本当はその主君が実はどうもたいしたことのない小悪党であるっぽいところも気づいていなくもないんだけれど、「俺はもう後戻りできないんだ!」(『太王四神記』@ヨン・ホゲ)とばかりに林冲と斬り結んでいく圧巻のクライマックス、素晴らしい…! 次の再演では團子たんにココやらしてください…!と思いましたよね…!! いやぁいいお役、いいお芝居でした。
 その團子たんは林冲のもと教え子・彭玘(市川團子)で、朝廷の兵士として働きつつも、かつての師の変節が信じられず、梁山泊に忍び込んで真意を質し、さらには師の窮地に飛び込んで身替わりとなって命を落とす、これまた美味しい役どころです。一幕も二幕も幕開け仕事を任されていて、今なら月組でわかがやらされるようなあたりですよねちょっと前ならありちゃんねわかります上げたいんですよね、ってなもんです。でもまた似合うんだこういう青いお役が! これまでは弘太郎だった青虎がやっていたお役、というのもまたたまりません。
 彭玘に慕われることといい、晁蓋に一目置かれむやみに悪党仲間に引き入れられないと遠慮されることといい、姫虎たちからは武術指南役になってくれと懇願されることといい、みんなから総受けのビッグ・ラブを向けられる林冲は本当にザッツ・ヒーロー!な主人公です。脱獄の際に素晴らしい立廻りを見せますが、あとは基本的にグレてスネて飲んだくれているだけの役なので、カッコよく見せるのがなかなかに難しいお役だとも思いますが、隼人さんはさすがでしたよね。タッパと華があって、いかにもセンターが似合うんだよなあぁ。これは誰でも惚れちゃいますよね。姫虎との友情や、李逵にむやみと懐かれるところなんかも微笑ましく、とてもよかったです。てか福之助さんはまたこういうお役が上手いですよね。
 盆も回るし、一幕ラストはイケコばりの全員集合で歌まで歌っちゃうし、正しい和製ミュージカルで、「歌舞伎」とは本来こういうものなのである、という主張も確かにビンビン伝わります。
 宙乗りは梁山泊の七つ道具・飛龍という大凧に乗る、という趣向。そこからの怒濤の、これでもかと言わんばかりの大団円と、パレードまでついたゴージャスさが本当に大満足でした。
 偉そうな物言いで申し訳ありませんが、中車さんは南座では格段に良くなっていたと思います。
 あとは青華の新しいお衣装が、桃や橙色だと姫虎やお夜叉と被るんで避けられたのかもしれませんが、それでもそういう娘っぽい色味、せめて山吹なんかがよかったかなと思いましたし、青や緑にするにしてももっと濃く鮮やかな色のものにしてほしかった、とは思いました。今の薄いライムグリーンみたいなお衣装だと、怪我の治療の間に着ていた寝間着みたいなお衣装とあまり差異が感じられなくてもったいなかったので。細かいところにうるさくて申し訳ない…
ヤマトタケル』の発表もありましたし、コロナで全公演中止となった『新版 オグリ』もどこかで上演の機会を探っていることでしょうし、これからもたくさん観ていきたいです。松竹座にも行ってみたい! 御園座でも歌舞伎が観たいし、あちこちの小屋に出かけてみたいです。夢が広がるなあ…
 千秋楽までどうぞご安全に。私も引き続き感染予防対策して、健康にすごします!






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