新国立劇場、2011年12月16日マチネ。
第二次世界大戦後のアメリカ。ケラー家の主ジョー(長塚京三)は立派で強い父親として妻のケイト(麻実れい)、息子のクリス(田島優成)とともに暮らしていた。ある日、かつてジョーのビジネスパートナーだったスティーブの娘であり、戦争で行方不明になったままのクリスの弟・ラリーの恋人だったアン(朝海ひかる)がケラー家を訪れる…
作/アーサー・ミラー、演出/ダニエル・カトラー、翻訳/伊藤美代子。1947年初演、トニー賞受賞作。
新国立劇場はバレエなどよく観に行きますが、小劇場の方は初めてでした。お洒落で素敵なホールですね。椅子もなんか可愛らしかったです。
さて、評判は聞いていましたが…うむ、重かった(^^;)。
でも役者の演技というものに圧倒された、久々のストレート・プレイでした。
演出家は、この作品はこの時代のアメリカの物語であることが重要なのであり、大きなモチーフとなっている戦争の対戦国であった日本で今、上演することに動揺というか抵抗というか…があったようなことをプログラムで語っていますが、戦争よりもっと大きなモチーフ、「家族」というものは本当に普遍的なので、問題なかったように見えました。
それでいて、演じる日本人の役者たちは、ちゃんとこの時代のアメリカの人々に見えました。
本当の彼らの姿なんて知らないけれど、あんなにしゃべってあんなに舞台に出ているのに、素でいるのではなく、ちゃんと役として生きてそこに立っているように見えた。
すごいなあ、としみじみしました。
私の悪い癖で、オチというかテーマというかを求めてしまうので、幕切れに
「え!? これで終わり? これオチてる!??」
と思ったのは確かです。
でもすぐに納得したのも確か。まあこうやってすぐケリをつけてしまうのも私の悪い癖かもしれないのですが。
私はラスト、これで終わりなら、クリスとアンはやっぱり結婚するの? それってジョーがあまりにもかわいそうじゃない? とか思ってしまったのです。
どちらかというとジョーに肩入れしてドラマを観ていたと思うし、それからするとクリスの欺瞞というか偽善というかが許しがたく感じられたからです。
でも、要するにそれがテーマなんですよね。つまり「人間は嘘をつく」ということです。
個人とか家族とかの外にある社会に対しては、もちろん嘘をつき外面を取り繕う。
そして、家族に対してはそれ以上に、無意識的であれ、より嘘をつく、それが人間だ、ということです。
だからもちろん自分に対しても人間は嘘をついている。そういうふうにしか生きられない存在なのだ、という話なのではないでしょうかこれは。
だからジョーは最後の自死するのです。もう嘘をつけなくなったから。嘘をつく必要がなくなったから。
恐ろしい物語です…
一幕にアンが着て出てくるブルーのワンピースは禍々しいまでに鮮やかでした。
「事件」から数年して、みんながみんな、疑いを持ちながらも一応の形で落ち着かせて平穏な生活を保っている振りをしているところに現れた、都会の美しい女。凶兆そのものでした。
アンもまた自分に嘘をいろいろとついているのですけれど、それでもクリスとの結婚を考えていたのは何故なんだろう…
もちろんそれほどクリスを愛していたのだ、というのは簡単なんだけれど、この時代の女性は社会的にはまだ男性ほど責任を負わされてはいなかったので(女性に対するこうあれかしという社会的要請はむしろ現代より強かったかもしれませんが)、その分は自由で正直でいられた、ということなのかなあ。
それともそこにもやっぱり打算や、復讐みたいな感情もあったのかもしれません。
人は家族には嘘をつく。夫婦は最初は他人で、時間をかけて情を重ねたり子供を持ったりすることで「家族」になっていき、やがてその間でも嘘をつくようになる。
だからクリスとアンも、今はまあまあきれいな恋愛をしているように見えても、結婚するならやがてはジョーとケイトのようになるのでしょうね。
確かにふたりは愛し合い労わり合っていた。でもやはりまずは一番に自分の都合のいいように考え、行動していたのです。
ケイトのころころ変わる態度なんかその典型でした。行方不明のまま生死が知れない次男ラリーの生還を信じて、ほとんどおかしくなりかけている母親。
ラリーの失踪の原因にはジョーの「事件」のことがあったのだと明らかになると、ではラリーのためにジョーを責めるのかというと、それは棚上げにして、ジョーを責めるクリスからジョーをかばおうとする。
ジョーがクリスに責められて自殺すると、ジョーのためにクリスを責めるのかというと、今度はクリスをかばって大丈夫よなんて言ったりする。
一番大切なものがころころ変わる。というか目先にある一番大切なものに次々飛びつく。そういう形でしか自分を支えられない。そこに真の愛なんかない…
それでも人間はそうやって生きていくしかないし、それができなくなったときには死ぬしかない…
そんなお話なのかな、と思いました。
話戻って、役者は全員素晴らしかったけれど、特に隣家の医者の妻スーを演じた山下容莉枝の存在感たるやものすごかったです。
田島くんは大柄で舞台姿が映えるなーと思ったけれど、わざとなのかとても顔を地味に作っていてやや残念でした。プログラムの写真はもっとカッコいいんだけれど…
アンの兄ジョージ(柄本佑)との対比がもっと出た方がいいかな、とも思ったので。
ところでアンがジョージと会ったときにガラッと空気が変わったのが本当によかったなー。ああ、家族に対してのちょっとぞんざいな感じとか甘えたりする感じってこうだよな、ってすごく鮮やかに感じられた。
だからこそ逆にケラー一家のよそよそしい感じとか、アンとケラー家との距離感も感じられたし。
あれがあればこそ、理解できた作品テーマかもしれません。
チェンジのないセットも素晴らしかったです。
第二次世界大戦後のアメリカ。ケラー家の主ジョー(長塚京三)は立派で強い父親として妻のケイト(麻実れい)、息子のクリス(田島優成)とともに暮らしていた。ある日、かつてジョーのビジネスパートナーだったスティーブの娘であり、戦争で行方不明になったままのクリスの弟・ラリーの恋人だったアン(朝海ひかる)がケラー家を訪れる…
作/アーサー・ミラー、演出/ダニエル・カトラー、翻訳/伊藤美代子。1947年初演、トニー賞受賞作。
新国立劇場はバレエなどよく観に行きますが、小劇場の方は初めてでした。お洒落で素敵なホールですね。椅子もなんか可愛らしかったです。
さて、評判は聞いていましたが…うむ、重かった(^^;)。
でも役者の演技というものに圧倒された、久々のストレート・プレイでした。
演出家は、この作品はこの時代のアメリカの物語であることが重要なのであり、大きなモチーフとなっている戦争の対戦国であった日本で今、上演することに動揺というか抵抗というか…があったようなことをプログラムで語っていますが、戦争よりもっと大きなモチーフ、「家族」というものは本当に普遍的なので、問題なかったように見えました。
それでいて、演じる日本人の役者たちは、ちゃんとこの時代のアメリカの人々に見えました。
本当の彼らの姿なんて知らないけれど、あんなにしゃべってあんなに舞台に出ているのに、素でいるのではなく、ちゃんと役として生きてそこに立っているように見えた。
すごいなあ、としみじみしました。
私の悪い癖で、オチというかテーマというかを求めてしまうので、幕切れに
「え!? これで終わり? これオチてる!??」
と思ったのは確かです。
でもすぐに納得したのも確か。まあこうやってすぐケリをつけてしまうのも私の悪い癖かもしれないのですが。
私はラスト、これで終わりなら、クリスとアンはやっぱり結婚するの? それってジョーがあまりにもかわいそうじゃない? とか思ってしまったのです。
どちらかというとジョーに肩入れしてドラマを観ていたと思うし、それからするとクリスの欺瞞というか偽善というかが許しがたく感じられたからです。
でも、要するにそれがテーマなんですよね。つまり「人間は嘘をつく」ということです。
個人とか家族とかの外にある社会に対しては、もちろん嘘をつき外面を取り繕う。
そして、家族に対してはそれ以上に、無意識的であれ、より嘘をつく、それが人間だ、ということです。
だからもちろん自分に対しても人間は嘘をついている。そういうふうにしか生きられない存在なのだ、という話なのではないでしょうかこれは。
だからジョーは最後の自死するのです。もう嘘をつけなくなったから。嘘をつく必要がなくなったから。
恐ろしい物語です…
一幕にアンが着て出てくるブルーのワンピースは禍々しいまでに鮮やかでした。
「事件」から数年して、みんながみんな、疑いを持ちながらも一応の形で落ち着かせて平穏な生活を保っている振りをしているところに現れた、都会の美しい女。凶兆そのものでした。
アンもまた自分に嘘をいろいろとついているのですけれど、それでもクリスとの結婚を考えていたのは何故なんだろう…
もちろんそれほどクリスを愛していたのだ、というのは簡単なんだけれど、この時代の女性は社会的にはまだ男性ほど責任を負わされてはいなかったので(女性に対するこうあれかしという社会的要請はむしろ現代より強かったかもしれませんが)、その分は自由で正直でいられた、ということなのかなあ。
それともそこにもやっぱり打算や、復讐みたいな感情もあったのかもしれません。
人は家族には嘘をつく。夫婦は最初は他人で、時間をかけて情を重ねたり子供を持ったりすることで「家族」になっていき、やがてその間でも嘘をつくようになる。
だからクリスとアンも、今はまあまあきれいな恋愛をしているように見えても、結婚するならやがてはジョーとケイトのようになるのでしょうね。
確かにふたりは愛し合い労わり合っていた。でもやはりまずは一番に自分の都合のいいように考え、行動していたのです。
ケイトのころころ変わる態度なんかその典型でした。行方不明のまま生死が知れない次男ラリーの生還を信じて、ほとんどおかしくなりかけている母親。
ラリーの失踪の原因にはジョーの「事件」のことがあったのだと明らかになると、ではラリーのためにジョーを責めるのかというと、それは棚上げにして、ジョーを責めるクリスからジョーをかばおうとする。
ジョーがクリスに責められて自殺すると、ジョーのためにクリスを責めるのかというと、今度はクリスをかばって大丈夫よなんて言ったりする。
一番大切なものがころころ変わる。というか目先にある一番大切なものに次々飛びつく。そういう形でしか自分を支えられない。そこに真の愛なんかない…
それでも人間はそうやって生きていくしかないし、それができなくなったときには死ぬしかない…
そんなお話なのかな、と思いました。
話戻って、役者は全員素晴らしかったけれど、特に隣家の医者の妻スーを演じた山下容莉枝の存在感たるやものすごかったです。
田島くんは大柄で舞台姿が映えるなーと思ったけれど、わざとなのかとても顔を地味に作っていてやや残念でした。プログラムの写真はもっとカッコいいんだけれど…
アンの兄ジョージ(柄本佑)との対比がもっと出た方がいいかな、とも思ったので。
ところでアンがジョージと会ったときにガラッと空気が変わったのが本当によかったなー。ああ、家族に対してのちょっとぞんざいな感じとか甘えたりする感じってこうだよな、ってすごく鮮やかに感じられた。
だからこそ逆にケラー一家のよそよそしい感じとか、アンとケラー家との距離感も感じられたし。
あれがあればこそ、理解できた作品テーマかもしれません。
チェンジのないセットも素晴らしかったです。
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