駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『みんな我が子』

2011年12月20日 | 観劇記/タイトルま行
 新国立劇場、2011年12月16日マチネ。

 第二次世界大戦後のアメリカ。ケラー家の主ジョー(長塚京三)は立派で強い父親として妻のケイト(麻実れい)、息子のクリス(田島優成)とともに暮らしていた。ある日、かつてジョーのビジネスパートナーだったスティーブの娘であり、戦争で行方不明になったままのクリスの弟・ラリーの恋人だったアン(朝海ひかる)がケラー家を訪れる…
 作/アーサー・ミラー、演出/ダニエル・カトラー、翻訳/伊藤美代子。1947年初演、トニー賞受賞作。

 新国立劇場はバレエなどよく観に行きますが、小劇場の方は初めてでした。お洒落で素敵なホールですね。椅子もなんか可愛らしかったです。

 さて、評判は聞いていましたが…うむ、重かった(^^;)。
 でも役者の演技というものに圧倒された、久々のストレート・プレイでした。
 演出家は、この作品はこの時代のアメリカの物語であることが重要なのであり、大きなモチーフとなっている戦争の対戦国であった日本で今、上演することに動揺というか抵抗というか…があったようなことをプログラムで語っていますが、戦争よりもっと大きなモチーフ、「家族」というものは本当に普遍的なので、問題なかったように見えました。
 それでいて、演じる日本人の役者たちは、ちゃんとこの時代のアメリカの人々に見えました。
 本当の彼らの姿なんて知らないけれど、あんなにしゃべってあんなに舞台に出ているのに、素でいるのではなく、ちゃんと役として生きてそこに立っているように見えた。
 すごいなあ、としみじみしました。

 私の悪い癖で、オチというかテーマというかを求めてしまうので、幕切れに
「え!? これで終わり? これオチてる!??」
 と思ったのは確かです。
 でもすぐに納得したのも確か。まあこうやってすぐケリをつけてしまうのも私の悪い癖かもしれないのですが。

 私はラスト、これで終わりなら、クリスとアンはやっぱり結婚するの? それってジョーがあまりにもかわいそうじゃない? とか思ってしまったのです。
 どちらかというとジョーに肩入れしてドラマを観ていたと思うし、それからするとクリスの欺瞞というか偽善というかが許しがたく感じられたからです。
 でも、要するにそれがテーマなんですよね。つまり「人間は嘘をつく」ということです。
 個人とか家族とかの外にある社会に対しては、もちろん嘘をつき外面を取り繕う。
 そして、家族に対してはそれ以上に、無意識的であれ、より嘘をつく、それが人間だ、ということです。
 だからもちろん自分に対しても人間は嘘をついている。そういうふうにしか生きられない存在なのだ、という話なのではないでしょうかこれは。
 だからジョーは最後の自死するのです。もう嘘をつけなくなったから。嘘をつく必要がなくなったから。
 恐ろしい物語です…

 一幕にアンが着て出てくるブルーのワンピースは禍々しいまでに鮮やかでした。
 「事件」から数年して、みんながみんな、疑いを持ちながらも一応の形で落ち着かせて平穏な生活を保っている振りをしているところに現れた、都会の美しい女。凶兆そのものでした。
 アンもまた自分に嘘をいろいろとついているのですけれど、それでもクリスとの結婚を考えていたのは何故なんだろう…
 もちろんそれほどクリスを愛していたのだ、というのは簡単なんだけれど、この時代の女性は社会的にはまだ男性ほど責任を負わされてはいなかったので(女性に対するこうあれかしという社会的要請はむしろ現代より強かったかもしれませんが)、その分は自由で正直でいられた、ということなのかなあ。
 それともそこにもやっぱり打算や、復讐みたいな感情もあったのかもしれません。
 人は家族には嘘をつく。夫婦は最初は他人で、時間をかけて情を重ねたり子供を持ったりすることで「家族」になっていき、やがてその間でも嘘をつくようになる。
 だからクリスとアンも、今はまあまあきれいな恋愛をしているように見えても、結婚するならやがてはジョーとケイトのようになるのでしょうね。
 確かにふたりは愛し合い労わり合っていた。でもやはりまずは一番に自分の都合のいいように考え、行動していたのです。
 ケイトのころころ変わる態度なんかその典型でした。行方不明のまま生死が知れない次男ラリーの生還を信じて、ほとんどおかしくなりかけている母親。
 ラリーの失踪の原因にはジョーの「事件」のことがあったのだと明らかになると、ではラリーのためにジョーを責めるのかというと、それは棚上げにして、ジョーを責めるクリスからジョーをかばおうとする。
 ジョーがクリスに責められて自殺すると、ジョーのためにクリスを責めるのかというと、今度はクリスをかばって大丈夫よなんて言ったりする。
 一番大切なものがころころ変わる。というか目先にある一番大切なものに次々飛びつく。そういう形でしか自分を支えられない。そこに真の愛なんかない…
 それでも人間はそうやって生きていくしかないし、それができなくなったときには死ぬしかない…
 そんなお話なのかな、と思いました。
 
 話戻って、役者は全員素晴らしかったけれど、特に隣家の医者の妻スーを演じた山下容莉枝の存在感たるやものすごかったです。
 田島くんは大柄で舞台姿が映えるなーと思ったけれど、わざとなのかとても顔を地味に作っていてやや残念でした。プログラムの写真はもっとカッコいいんだけれど…
 アンの兄ジョージ(柄本佑)との対比がもっと出た方がいいかな、とも思ったので。
 ところでアンがジョージと会ったときにガラッと空気が変わったのが本当によかったなー。ああ、家族に対してのちょっとぞんざいな感じとか甘えたりする感じってこうだよな、ってすごく鮮やかに感じられた。
 だからこそ逆にケラー一家のよそよそしい感じとか、アンとケラー家との距離感も感じられたし。
 あれがあればこそ、理解できた作品テーマかもしれません。

 チェンジのないセットも素晴らしかったです。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

宝塚歌劇星組『メイちゃんの執事-私の命に代えてお守りします-』

2011年02月25日 | 観劇記/タイトルま行
 毎度迂遠かつ胡乱な論議で申し訳ありませんが…
 おつきあいいただけば幸いです。

***

 漫画には二種類ある。
 もっと言えば、少女漫画には二種類ある。
 批評の対象になりやすい作品と、そうでない作品だ。
 もっと言えば、評価されやすい作品と、そうでない作品だ。

 手塚治虫文化賞とか、文化庁メディア芸術祭とか、「このマンガがすごい」とか、あるいはコミック誌の版元が出している賞、講談社漫画賞とか小学館漫画賞とか(集英社、白泉社は自前の漫画賞を持っていない)の、ノミネート対象にもならない作品群、というものが、この世の中にはあるのだ。

 漫画なんてそもそも高尚な文化じゃないし、サブカルとして崇めたてられるのもなんか間違っている気がするし、別に賞とかもらわなくたって関係ないよ、という考え方はもちろんある。
 賞をもらおうがもらうまいが、読者にウケていればいい、売れていればいい、というのは、メジャーな、大衆的な商業作品の在り方としては健全で正しいとも言える。

 しかし、こういう作品群は、単純に売り上げ順に並べたときにも、決してトップには出ないものなのだ。全ジャンル統一で並べたときには、ベスト20にすら顔を出さないだろう。

 ベスト20に顔を出すような作品群は、さすがに売れ方が桁外れなのだ。だからさすがに誰でもタイトルくらいは聞いていたりする。存在は認知されているのだ。
 しかし一般の人はまた、売り上げベスト100にも顔を出さないような作品のタイトルもまた耳にすることが多いものだ。このあたりに、あるいはもっと下に、いかにも評価されやすい、批評の対象になりやすい、結果的になんらかの賞を取りやすい作品群というものがあるからだ。

 それは、 ちょっとセンスが良く見えて、ニッチで、男性にも読みやすい、少女漫画だ。掲載誌は成人向け女性漫画誌であることが多く、青年誌であることも多く、版元が三大出版社以外の雑誌であることも多い。コミック誌ですらないことも多い。
 こういうタイプの作品群は、実際の部数に比べて(もっと言えば、作品の実際の出来に比べて)、ずっと高い評価をされがちだ。大人の、男性にも読みやすいからだ。だから批評の対象にしやすい。結果的になんらかの賞を取りがちなのだ。
 だから一般の人も、きちんと読んだことはなくとも、タイトルくらいは耳にしていたりする。
 そして「いいんだってね」「おもしろいんだってね」程度のことを語ったりする。
 それくらい、世の中は、まだまだまだまだ男社会なのである。

 文芸書の「本屋大賞」のような、書店さんが実際に売れているもの、売りたいものを推す賞みたいなものは、漫画においてはまだない。
 そして、文芸作品はいざ知らず、漫画については、書店さんは放っておいても普通に売れる作品にはあまり手をかけてくれない。熱心な書店員さんというものはまた熱心な漫画ファン、漫画マニアであることが多く、すでにある程度売れているものではなく、今はあまり売れていなくても自分が仕掛けたらもっと売れそうなもの、に手をかけがちだからだ。ここでもまた、ちょっとセンスが良くて、ニッチで、サブカルっぽいものに注目がいきがちだ。
 だからこうしたところからも、前述の作品群が日の目を浴びることは、今後もおそらくないだろう。

 批評の対象になりづらく、しかし批評の対象になりやすい一部の作品群よりもはるかに売れていて、しかし万人がその存在を知るというほど売れているわけではない、という作品群。
 それがローティーン向け少女漫画だ。
 このジャンルのヒット作は、この世代の読者の半分かそれ以上、下手したら大半に認知され、絶大な支持を受けている。だから尋常でなく売れている。
 しかしそもそも読者の絶対数が限られているため、世間万人がその存在を知る、というほどの部数は売り上げていない。そして読者は成長しこの世代を過ぎるとこのジャンルの作品を読むことを卒業していき、その存在を忘れていく。彼女たちがそのまま漫画ファンであり続けても、これらの作品を再び取り上げて語ることは非常に少ない。まして大人の男性の批評家がこのジャンルの作品群について言及することはまずない。読んですらいないだろう。
 かくて、凡庸な作品に比べてはるかに売れているにもかかわらず、また批評されやすいサブカル的作品群より売れていることも多いにもかかわらず、これらの作品群はまったく批評の対象になっていないのだ。

 もちろん、この作品群そのものが、そもそもこの世代の読者を対象にしてのみ作られており、その世代の読者の支持を得ることを最重要課題として作られていることがほとんどなので、その世代でない読者にはその魅力や価値がそもそもわかりがたい、という問題がある。
 だから世間の批評の対象にならないことはそもそも想定内なのである。そんなことを望んで作られてはいないのだから、当然のことなのである。
 冒頭で言ったように、この作品群は、別に批評されることを望んでいないのだ。別に賞なんかいらないよ、と負け惜しみでなく言えることはあるものだ。
 だからそれはいいと言えばいいんだけれど、でも。

 でも、ある程度正当な評価は欲しいよね。
 存在くらいはもうちょっと認知されていいのではないか、とか。
 こういう作品群を実際に読んで育ったどうかは別して、少女でなかった女性はいないはずなのだが。
 「少女」の感性を持った男性だっているはずなのだが(それで言うと「少女」の感性をかつても今も持たない、という女性ももちろんいるものなのだが)。
 過去のこととはいえあまりに黙殺されすぎでないかい?と、ちょっとつっこみのひとつも入れたくなるよな。

 まして、偏見が嫌だ。
 無関心は仕方ない、無理解も仕方ないかもしれない。
 でも読んでもいないのに悪く言うのはやめてくれ。
 それは天に唾するのと同じだよ? 過去の自分を貶めるのと同じことだよ?

 「少女」だったころの自分たちと同じように、現に今、なう、「少女」である読者層が存在していて、そこに、そこにのみではあるのだがしかし確実に、絶大な支持を受けている作品群というものが、この世の中には存在しているのである。そこになんらかの意味や価値がないわけないだろう?
 それを、無視したり誤解したりするのは百歩譲って許すにしても(そんなに譲っていいのかいな)、知りもしないでただ悪しざまに言うのはやめてほしいのだ。
 それは批評ではない。批判ですらないのではないか?
 発言するならきちんと現状を踏まえた上でしてほしい。素人の感想であっても、知らずに言うならイメージでのみ語っているという自覚を持ってほしい。でないと当人が浅薄に見えるだけだ。まして批評家においておや、である。

「私が読んでいたころの『りぼん』は良かったのに」
 とかね。
 「のに」とつけるなら今の「りぼん」を読んでから言ってほしい。昔の(昔っていつだよ)「りぼん」今の「りぼん」がちがうのはあたりまえだ。読み比べて、それで良し悪しが言えるなら言ってくれ。
 ちなみに「りぼん」は今も昔もローティーン向け少女漫画誌ではないが。そして現在その対抗誌で最も部数が大きい雑誌は「ちゃお」だが。
「私が読んでいたころの『少コミ』は…」
 も同様。
 今の二十代、あるいはアラサー、アラフォー、アラフィフが読んでいたころの「少女コミック」と今の「少コミ」はちがう。そもそも誌名が「週刊少女コミック」でかつ実際に週刊だった時代もあるし、混同している人も多いが「別冊少女コミック」とは別の雑誌だし、現在の誌名は「Sho-Comi」だし、いわゆる「別コミ」は現在は正式には「ベツコミ」だ。
 そういうことをきちんと把握していない人が論評するなんざちゃんちゃらおかしい。
 普通の人がイメージで語ってしまうのは仕方ないけれどね。悲しいけれどね。

 現代のローティーン向け少女漫画誌に掲載された作品群から、100年後でも読み継がれているであろう名作が生まれることは、おそろくないであろう(宝塚歌劇で舞台化された『ベルサイユのばら』は「マーガレット」掲載の作品だったが、そして100年後も読み継がれているであろう不朽の名作少女漫画のひとつではあることは言を俟たないが、連載されたのは現代のことではないし、極めて特殊な事例なのでちょっと別におく)。
 それは、編集部が、そういう編集方針で作品を作っていないからである。
「100年後にまで残る偉大な作品なんか、ここではいらない。万人に愛される普遍的な名作なんか、ここでは作ろうとしていない(作ろうとしていて作れるもんでもないということとはまた別の問題である)。今、なう、思春期の入り口に差し掛かった、14歳前後の繊細で多感な時期の少女たち、彼女たちの心に響く、今の彼女たちが必要とするもの、今の彼女たちだけが必要としてしまうものを、届けたい、与えたい。ここでしか与えられないものが絶対にある。ここでしか得られない支えが絶対にある。それを作りたい。時が来れば彼女たち成長し、卒業していく。我々は読み捨てられていく、忘れられていく。それでいい、それでこそ本望である。そういうものに私はなりたい」
 …あれっなんか後半感じちがっちゃったかしら…
 それはともかく。
 とにかくそういう方針でああした作品群は作られているのである。少なくとも、とある当該誌のとある最盛期の一時代を築いた編集長がそう発言していたことを私は知っているし、当該編集者も漫画家もその心意気で作品を作っていたことは事実である。おそらくは今もなお。

 中2病でけっこう。というか中2病上等である。
 義務教育が行き届いた現代日本において、かつて中2でなかった人間などいないのだ。人はみな中2を経て大人になるのだ。むしろ中2を経ずに大人になってしまう方が問題だ。
 そしていい大人になった今、中2だったころの自分を必要以上に否定するのも不自然だし、今の中2を必要以上に否定したり心配したりするのもナンセンスだ。

 大丈夫、大丈夫。みんなそうやってきたんだから。
 思春期特有の暗黒面はあって当然、誰しもが経験してきたことで、今も誰かが経験している。しかしだからってみんながみんなダークサイドに落ちないでしょ?
「今までは大丈夫だったけど、これからはそうじゃないかも」
 なんて言う人は、どれだけ自分を特別視しているのかと問いたい。人類は生まれたときから、といって言いすぎなら少なくとも文化文明なるものが出来上がってからこっち、ずっと中2病とは折り合ってきて、とりあえず滅びずに来てるんだから大丈夫なのだ。自分の世代までは大丈夫であとが心配、なんとことは逆に言えばみんなが言ってきたことで、でも今までもなんとかなってきたんだから。
 ホント、大丈夫だから。おちついて。あらなんかどっかの都知事に言いたいことみたいだわ。

 要するに、ちょっとだけ客観性を持てばいいだけのことですよ。
 あるいは、人間に対する信頼を持てば。自信を持てば。

 脱線を直して…


 そんなわけで、世間の評価を求めることもなくコツコツと作られているある作品群に対し、でももうちょっと評価されてもいいのになあと思うのは業界人の身びいきってことでおくとしても、とにかく根拠のないイミフな悪口はやめてんかー、ということで、さてやっと本論に入りたいと思います。
 が、実はまだまだ山あり谷ありなんだけどさ、この話(^^;)。


 というわけで宮城理子『メイちゃんの執事』である。というかその宝塚歌劇版について、である。


 「マーガレット」(しつこいようだが「別冊マーガレット」とは別の雑誌である)に現在も連載中のこの作品は、ご存じのようにいわゆる「月9」でテレビドラマ化もされたのだが、そのときにも思ったのだが、実はそんなには売れていないのである。
 (ちなみにジャンルを問わず少女漫画で最大部数を売り上げた『花より男子』はこれまた「マーガレット」掲載作品である)
 つまり、ローティーン向け少女漫画作品で、私がもっと評価されてもいいんじゃない?と言ったときに想定していた対象作品にはぶっちゃけ入っていなかったのである。もっと売れていてもっと一般的な意味でも出来がいい作品は他にもたくさんあるのである。
 ちがう意味で部数と評価は一致しないので別にいいのだが、そもそもテレビドラマのプロデューサーは何を持ってこの作品を原作に選んだのだろうか…

 もちろんオタク業界より一般社会の流行はかなり遅れてくるので、ああやっと執事っつーモチーフの存在に気づいたのね、というのはあるだろう。
 テレビドラマなんて遅れてやってちょうどいいくらいのところがあるもんね。
 イケメン俳優をたくさん揃えて執事の格好させて並べられるんだから、そら視聴率も見込まれよう…ってなことだったのだろうか。
 私はあくまで原作視点というか原作周り視点でいたので、原作ファンのこの読者層はテレビと言えばアイドル番組やお笑い、歌番組は見るが、意外に連続ドラマを見ていないんだけれどな、だからそこらへんの視聴率は期待できないはずなんだけれど、それはいいってことなのかな…とかいうことばかり心配していた。
 実際、ドラマ版を見ていたのはやはり原作の読者層とはちがう、主に20代以降の女性だった模様だが、トータルの視聴率としては可もなく不可もなかったのだろうか?
 当たれば第2シーズンとか映画化とかが今の流れだから、そうならなかったということはそこそこ程度だったということなのだろうか。

 そして、その流れに乗ったとも思えない、まったくナゾのタイミングでの宝塚歌劇化の報を聞いたとき、私はまたまた思った。ナゼ?と…
 聞けば編集部側に宝塚ファンがいるとかなんとかいう話もあるが、そんなことで簡単に動く歌劇団でないことはいろんな意味で知っている(笑)。
 イヤ重い腰を今やっと上げたからこそこんな謎のタイミングになってしまったのかもしれないが、まあそれはいいや。

 『ベルばら』はもちろん、木原敏江や萩尾望都の漫画を原作にした宝塚歌劇はいくつかある。
 今まで原作に選ばれてきたのは、どちらかと言えば文芸路線の漫画だったのに対して、今回は大衆路線というか現代路線というか、要するにローティーン向け少女漫画誌に今まさに連載中の作品という極めてホットスポットにきたワケだが、これまた先ほど言ったとおり、この作品がこのジャンルでナンバーワンの作品というわけでもないので、
「何故コレ?」
 と思ってしまったのである。

 しかし執事の制服・燕尾服はタカラジェンヌの制服でもある。いや嘘です、タカラジェンヌの正装は緑の袴、黒の燕尾服は男役の象徴ですね。
 とにかく似合わないわきゃない、少女漫画の三次元化が宝塚にしくはないのはほぼ自明なのだ。いいんじゃないですかねえ…みたいに考えるようにいつしか私はなっていた。

 仕事柄ざっと読んではいたが、イメージで語るのは問題だし、観劇前に予習もしたかったので、先日、コミックスを読み直した。舞台化されるという第一部、ルチア編の7巻までである。
 そのころにはすでにバウ公演の幕は開いていて、ツイッターなどで好評は聞いていた。演出家が漫画の世界を再現することに傾注し、台詞も漫画から抽出して構成していること、役者も漫画を読みこんでいること、装置や映像に工夫が凝らされているらしいこと、などもスカステ番組などから見えてきていた。
 しかし原作漫画には、このジャンルの作品群に特有の無茶さとか非現実感とかがあるワケで、それ故にその世代の読者に絶大な支持を受け、しかしそれ故に普遍化はならないものだから一般に評価され難く批評の対象にすらならずに来ているわけで、そのあたりはどうなの? みんなオールオッケーなワケないよね?とも思っていた。
 そうしたら、ちゃんと
「引っかかる点もある」
 という意見も聞こえてきて、安心した。
 しかしその「引っかかり方」に、いやちがうよそこが問題なんじゃないんじゃないかなー、と私が引っかかる(笑)ものも出て来て、これは心して観て、そして考えてみなければ、と思ったのだった。


 …はっきり言ってここまで前振りです。
 つきあってくださっている方、本当に申し訳ありません。でも引き続き読んでいただけたらうれしいです。

 というわけで、いつもの観劇記スタイルにここから切り替えますと…

***

 日本青年館、2011年2月18日マチネ。

 初めまして、私、柴田理人(紅ゆずる)と申します。容姿端麗、文武両道に秀で、何事もそつなく完璧にこなす、完全無欠のSランク執事でございます。いつか世界一のお嬢様にお仕えし、その方の幸せの為に自分の能力のすべてを使ってみたいという夢を持っています。そんな私の望みを叶えてくださるであろうお嬢様、それで今お仕えしている東雲メイ(音波みのり)様でございます。私がメイ様の執事になったのは、メイ様のご両親が不慮の事故で亡くなられたのがきっかけでした。私は日本の政財界を牛耳る本郷グループの創始者、本郷金太郎(汝鳥怜)様の命を受け、四国までメイ様をお迎えに上がったのです。メイ様のお父様は金太郎様のご長男でしたが、駆け落ち同然で本郷家を出られて以来、行方がわからない状態でした。メイ様は本郷家の血筋であることをご存じないまま、ごく普通に暮らしておられたのです。メイ様と仲の良い同級生の中に、私の愚弟・剣人(美弥るりか)がいたことは私の関知せぬところですが…金太郎様は本郷家の跡取りとしてふさわしい教育を受けてもらいたいと、メイ様を究極のお嬢様学校・聖ルチア女学園へ転校させますが…
 原作/宮城理子、脚本・演出/児玉明子、作曲・編曲/玉麻尚一、tak、振付/AYAKO。

 開演アナウンスにサブタイトルが入っていなくて、
「せっかくなのにさびしいじゃん」
 と思ったら、その台詞とともに主役登場!という演出になっていたので、満足&テンションアップしたプロローグでした(^^)。
 聞いてはいましたが装置や映像の使い方が斬新で小気味よく、ワクワクしました。
 映像のバラの花つぼみからが開ききたったらベニーが現れて、映像の花びらが飛び散って…花が飛ぶ少女漫画の世界を完全に再現してくれています(^^)。
 映像に扉が現れ、シルエットが現れ、そこからお嬢様たちが現れ、専属執事に迎えられる…またそのキャラクター三次元化がハンパなくて、楽しい!

 メイのクラスメイトたちは、まず華やかで勝気なリカ(音花ゆり)と美形の青山(芹香斗亜)のツンツンコンビ。
 お姉さん役に回ることも多いコロちゃんは、今回水を得た魚のようにイキイキしてて楽しそうだったけど、キキちゃんはあと一歩と言わず半歩、はっちゃけられたんじゃないかなあ。
 背もあるし美形だし「モジャ毛」パーマヘアも似合ってるんだけど、なんかキャラに対してテレが見られた気がして、ちょっと残念だったかな。最初のデュエロの顛末はとてもいいエピソードだと思うんだけど。

 メイが寮で隣室になるのはナゾのやんちゃ娘・多美(妃海風)と神崎(汐月しゅう)のバトルコンビ。
 話題のシュウシオツキは…あれはポニーテールとは言わないよね、長髪ってのもちがうよね、なんて言うのかな、長い髪を首の後ろで束ねているのですが、その髪型と、クールなメガネ姿、すらりとした立ち居振る舞いでビシバシとお嬢様とバトル…たまらん。こらファンが増えたことでしょう(^^;)。

 不二子(紫月音寧)と根津っち(漣レイラ)のお色気コンビは、不二子ちゃんにはぜひ胸を増量させてほしかったなー。男役は体型を補正するんだから、娘役だってこういうキャラの時には極端なくらいにナイスバディにするべきだよ!(^^)。
 根津っちは無精ヒゲとゆるめた襟元がだらしなくて実にいい感じで、
「そんな執事いるかい!」
 ってつっこみたくなる感じが正しくて実によかったです。ゆるいおっさんっぷり、たまらん。

 私が原作で好みだったキャラクターは泉(夏樹れい)で、男前の優等生で涼やかな美貌…ってのが好みだったので、娘役ちゃんがクールに素敵に演じてくれるのを楽しみにしていたのですが、わりと顔の濃い男役さんが扮していたのでちょっと残念。
 しかし見てみてわかった、これならドジっ子執事の木場ちゃん(如月蓮)より背が高くできるのです。すばらしい!
 そしてニコニコしているだけなんだけど輝いていたれんたはさすが若手スターだと思いました。短い髪もとてもよかったです。

 天才児でスキップしていて歳は幼いみるく(紫りら)と大門(礼真琴)のコンビもよかった。

 娘気分を失っていない学園長シスター・ローズに美穂圭子、さすがの歌声。その無口で控えめな執事・桜庭の海隼人も過不足なし。
 ものっそいヅラのゆうちゃんさんもこれまたさすがでした。

 「ルチア」の称号を持つ詩織役は白華れみ。もちろんさすがの存在感。美しさ、華やかさ、台詞の明晰さと怖さ、抜群。
 医者の資格を持っている執事だけに許される白装束の忍さまは、真風涼帆。怪しげで素晴らしい。でも最後のデュエロで黒い服になったときがより素敵だったかな。そういうキャラだよね。
 しかし、本当に、歌がね…コレ多分こういう音程の歌じゃないよね、って感じだったもんねえ…レバンガだ!

 それでいうとぺニーも、素敵なプロローグもシメのフィナーレも、歌が…音程は取れているんだけど苦手意識が見え見えだし、カマす癖がここぞというときに出るので、せっかく萌え萌えで観ているのにずっこけるという困った事態になりました。レバンガだよマジで!!

 そしてヒロインのハルコ。
 あんなシンプルなおかっぱ姿が可愛いし、制服姿はどっちも可愛いし、デュエロの盛装も舞踏会のドレスも可愛かった、お姫様抱っこもよかった!
 ただし、芝居がうまいのかどうかということは実はよくわからなかった…というのは、台詞が原作漫画のまんまだったからです。
 これは脚本のせいなのだけれど、やはり舞台のセリフは舞台用に書き出した方がよかったと思います。漫画のネーム(台詞やモノローグ、ナレーション)は漫画のために進化・洗練されてきたもので、そのまま舞台に使っても聞き取りづらかったりわかりづらかったりするものなのですよ。耳で聞くには不自然な台詞も多く、それが役者の演技がダイコンなせいに思われては気の毒です。

 そして、まさに少女漫画から抜け出してきたような、てか素で少女漫画な目の大きさを誇るミヤルリですよ。
 学ランですよ! 幼なじみ、悪友、ツンデレの鉄板キャラクターになりきってくれていました。女装姿がちゃんと成立しているのはまさに宝塚ならではですかね…
 でもとにかく楽しそうになりきっている感じに好感が持てました。
 ミヤルリは歌がまあまあなんですよね、もっと聞きたかったかな。

 第2場はちょっと漫画まんまにやりすぎなんじゃないの、と思いつつも、自転車の回想シーンやミニチュアの街の使い方、ヘリコプターの演出やパペットなどアイディアも良くテンポも良く、全編、原作漫画の世界を再現していきます。
 そして、怪しく恐ろしいルチア様と忍で、第1幕、幕…

 おもろしい、よくできている、萌える、鮮やか、漫画まんま。
 でも、本当に漫画を三次元化しただけ、という気もしました。それでいいのかな?って。それは学芸会と一緒じゃない?って。
 綺麗なだけが宝塚じゃないよ、少女漫画を三次元化できるのは宝塚だけかもしれないけれど、宝塚歌劇は少女漫画を三次元化するためだけにあるんじゃないんだよ、なのにこれだけでいいの?とも思ってしまったのです。

 そんな幕間をすごして、2幕…

 理人さんの内面が出る芝居になってきて、私は俄然おもしろく感じるようになりました。
 『リラの壁の囚人たち』でもそうだったけれど、ベニーのこもる感じの演技が好きだ、というのもある。キャラクターの内面、心理が出てくる、お芝居らしいお芝居の展開になったから、というのもある。
 しかし、もしかしたら、男役トップが演じる男性主人公視点のドラマ展開になって、見慣れた宝塚歌劇の世界に戻ってきたと私が感じられたから、俄然おもしろく感じられたのかもしれません。
 逆に言えば、1幕はどうしてもヒロイン視点で物語が進んでいたので、その違和感があったのかもしれません。
 少女漫画の主人公は、女性キャラクターです。ヒロインです。物語はヒロイン視点で進み、読者はヒロインに感情移入して物語を追っていきます。
 対して、宝塚歌劇の主人公は、男性キャラクターです。男役トップスターが扮する役が主人公であることが絶対の決まり事だからです(オスカルとかスカーレットとかは特例としてここでは除きます)。
 ヒロインはたいていの場合は主人公の恋愛ドラマの相手役であり、娘役トップスターが扮します。観客の多くは女性であり、男役トップスターとの疑似恋愛を楽しむために、ヒロインに感情移入して舞台を観ますが、一方で物語の主人公は別にいて、それは男役トップスターが演じていて、視点はそちらに置かれ、物語を追うためには観客は主人公に共感し、主人公視点でドラマを観るのです。
 もちろん舞台の視点は少女漫画よりずっと客観的で、観客はキャラクター視点で観るというよりは、もっと単純に観客として、言うなれば外野視点、ないし神様視点で観ることの方が多い。小説の文体で言えば三人称的なのです。
 対して少女漫画は、その対象読者年齢が低ければ低いほど、ヒロイン視点、ヒロイン一人称の世界観になるのです。

 2幕で理人と詩織の過去のいきさつが明らかにされ、理人とメイの恋愛の問題点も明らかにされ、さてどうなる、という展開になったことも大きいのかもしれません。
 この作品の根源にもかかわることなのですが、ここには大きな問題点があることを、みんなうすうす感づいているからです。

 お嬢様、そらなれるものならなりたいわー。
 執事、そらいたらいいわー。
 でもほんとはお嬢様って、執事って、そういうもんやないやろ、ってことですよ。
 ましてお嬢様と執事が恋愛って、そらあかんだろー、ってことですよ。
 似非関西弁ですんません。

 ローティーン向け少女漫画は、対象読者の嗜好に沿うように作られます。その方が読者にウケるから、売れるから。
 メジャーとして、というか商業作品として当然ですね。顧客の嗜好に合わせて商品は作られるものですし、そうした商品が売れるわけですから。
 そして誰しも記憶があるでしょう、
「実は私はここんちの子供じゃなかったりして。パパにもママにも不満はないけど、でももしかしたら私はもらわれっ子か拾われっ子で、本当はもっとなんかすんごい大金持ちのお館の子供で、いつか迎えが来て、『おかえりなさいませお嬢様』って言われるのよ!」
 とかなんとか、夢想した記憶が…
 大人になっても人は時折疲れると「ここではないどこか」を探してしまうものですが、思春期前後の少女はことにこの妄想にふけるものです。
 だから、そうした少女たちを顧客とする少女漫画の作り手たちは、作品のヒロインにそれを体現させます。『メイちゃん』もソレです。
 そして誰しも一度は思ったことがあるでしょう、
「イケメンでなんでもできて素敵な人に傅かれたいわー。そんでいろいろやってもらいたいわー」
 とかなんとか。
 実際には他人どころか自分のことすら自分の意のままにはならないものなのですが、しかし人間の他人への支配欲というものは意外に暗く根深いものです。そして否定しがたく万人にある。大人になると隠すことを覚えたり、正しくないなと理解できたりしていくものですが、そうでない困ったバカもまたいて他人を言うなりにできると思い込んでいたりして事件を起こしたりするのですがまあそれはまた別の話ですがしかし…

 そんなわけで少女漫画は、ポイントを集めるとクラスが上がるお嬢様と、その専属で忠誠心がハンパないイケメン執事、でもデュエロでやり取りできちゃう、とかなんとかいう世界観を作り上げてみせるわけです。
 リアリティがなくとも。
 お嬢様の仰せのままに…いや読者の仰せのままに。

 それをおかしい、というのはおかしい。
 すべての商品は顧客の嗜好に合わせて作られる。その方が売れるから。売れないと商売にならないから。
 リアリティがない、と指摘するのはわかります。しかしリアリティを重要視して作っていないのだから、言っても仕方ないのです。
 商業漫画は売れるために、喜ばれるために、作られているの賞品なのですから。
 フィクションなのだから、物語なのだから、哲学的で形而上的であるべきで、世俗の商売とかかわるべきではない、卑しい嗜好に合わせて低きに流れて作られるべきではない、なんて言われても困るんです。
 というか、そもそもこうした嗜好は、本当に恥ずべき、隠されるべき、誤ったものなのか。
 ある時期限定とはいえ、その時期のほぼ万人が一度は持ってしまう妄想なら、否定してなかったことにしようってのが間違っているのでは? ユー認めちゃいなよ、みたいな? だってどうせいつか夢は覚めるものなんだからさ。覚めるからこそ夢なんだからさ。だからこそ、夢は夢で、存在くらい認めていいんじゃない?ってことですね。

 お嬢様になってみたい。うん、いいんじゃない?(脱線するが「お姫様」ではなく「お嬢様」であるところがいかにも現代的である)
 イケメン執事に傅かれたい。うん、いいんじゃない?

 お嬢様ってものはポイント集めてランク上げてとかいうもんじゃないし、なんて言うのは野暮。
 執事ってそんなもんじゃないよ、普通に優秀なら一家丸ごとの家政の面倒を見るもので、お嬢様ひとりにつくなんておかしいよ、しかも妙齢の女性に妙齢の男性なんて危ないに決まってんだからその家の主人がそうするわけないじゃん、とかつっこむのも野暮。
 そんなことはわかってんの。描いてる方だって作ってる方だってわかってんの。それでもなお、この世界はこういうものだとして作ってんの。その方が読者にウケるから。
 読者だって幼くはあってもバカじゃないんだから、それくらいのことはわかっていて、それでもこのお約束の元に、楽しんでくれているの。
 お嬢様だったら、イケメン執事に傅かれたら、楽しいに決まってるから。
 現実を教えるのは、こういう作品の役割ではないから。

 だけど、そんな楽しい暮らしには、そら恋が生まれてしまいますわな。主従関係と一線引こうが、疑似恋愛と牽制されようが、ときめくものに待ったはかけられませんわな。

 理人はかつて詩織の執事だった。そして詩織は理人を愛してしまった。
 それは詩織の一方的な想いだったのかもしれない。理人にはそんなつもりはなかったのかもしれない。
 しかし今、理人はメイの執事で、メイは理人を愛し始めている。詩織と同じだ。
 そして今度は理人も、メイを愛するようになっている。ただの仕えるべき主人、お嬢様とは思えなくなっている。
 しかしそれは許されない恋なのだ。
 さて、どうする?

 で、あのラストですよ。私は感動しました。
 原作は連載中ですし、ぶっちゃけ言ってこの問題に解決策を見つけられないでいる。というか解決する気はおそらくないのではあるまいか。
 でもまあそれはいい。あの作品はローティーン向け少女漫画であって、読者は夢が覚めることを望んでいないからです。
 しかし宝塚歌劇でやる場合では、そのままではいけない。少なくとも未完にするわけにはいかないんだから、なんらかの決着をつけなければなりません。
 それが、苦肉の策だったのかもしれないが、あのラストに結実されたのではなかろうか、と思うのです。

 理人の時間巻き戻しという大技のことではない。あれはギャグです。
 そうではなくて、メイがデュエロの末に、理人も剣人も執事として持つことを選んだことです。
 イヤそれも原作どおりなのですが、なんというか、ニュアンスがちがって感じられたのです。

 ひとりのお嬢様につき、専属の執事がひとり。
 しかし執事はデュエロによってやり取りされて、取り上げられてしまうこともあり、逆に言えばふたり以上を抱えることもあるのである。
 だからメイはこれから、ルチアを集めてランクアップしていって、どんどん素晴らしいお嬢様になっていき、好みの優秀な執事を何人でもバンバン抱えるようになればいいのである。
 いやそもそも優秀な執事なんだったらお嬢様ひとりにつくなんて仕事なさ過ぎて暇だと思うよ、普通は一家の家政丸ごとを見るものだしね、とかつっこんでも仕方がない。これはそういう世界の執事の話ではないのだ。

 メイは理人だけでなく、剣人をも執事として抱えることを決意した。
 ふたりになるなら、あとは3人でも4人でも100人でも同じことである。
 執事はお嬢様の手駒である。優秀な執事を何人でも抱えて、素晴らしいお嬢様になっていけばいいのである。

 一対一なんかでつきあっているから、疑似恋愛が生まれるのである。しかし何人も抱えるようになれば、いちいち恋愛なんかしていられなくなる。そうやってお嬢様は、執事を真に使用人として見られるようになっていき、執事に仕えられるべき主人として成長していくのである。
 執事を恋愛対象として見ているようではお嬢様としては下の下なのだ。

 そうして多数の執事という名の使用人を抱えるようになったお嬢様が目指すべきは何か。
 お坊ちゃまとの恋愛であり結婚である。
 そうしてふたりは結ばれて、一家だか一企業だか一国家だか知らないが、とにかくふたりが持っているものを運営し経営し富ませ儲けさせ発展させていけばいいのである。
 それがお嬢様の務めである。セレブリティの生き方である。
 メイは三度のデュエロを経て、その第一歩を踏み出したのである。

 …私には、これはそんな物語に、見えました。

 多分、そう見たくて見たのかもしれないけれど。
 でも、こんなふうなオチになるんだろうな、と思って見ていた、ということはありませんでした。
 ただ、あのままでは剣人がかわいそうだったし、恋愛としても決着がついていなかった気がしたし、執事をひとりしか持てないなんてルールはないんだからとりあえずふたりもらっときゃいいんじゃないの?とは思って見ていました。
 それがこういう道筋すら含むものなのだとは、観てから初めて気づいたのです。

 もしかしたら、演出家にそういう意図はないのかもしれませんけれどね。
 でも、これなら納得できるんじゃないですかね?

 だって、こんな執事いるかい、とか、こんな執事がいたら好きになっちゃうに決まってんじゃん、とか文句言う人たちに対する、これは回答というか解決策になっていますよね?
 こういうことも見越したうえで、世のお金持ちは、自分たちの子女にメイドとか執事とかをつけているんじゃないですかね? だとしたらある程度の整合性があるんじゃないですかね、この世界は。原作とはちがって、中2ワールドを脱却できているんじゃないですかね?

 原作の第一部ラストにあった、忍と詩織のドロドロ部分がカットされる形になったのもよかった。舞台の詩織はヒロインとの対決に敗れたライバル役として、わりとあっさり引っ込められました。
 原作にあった忍のゆがんだ愛情とか詩織のその後の顛末とかは、それこそローティーンの少女特有の妄想の産物です。自己を完全に捨ててまで他者に愛されたい、愛したいと願うような愛情、純愛、純情…そういう絶対性にこの時期の少女たちは憧れるものです。
 自己が捨てられるくらい絶対的なものでないなら求める他者もまた絶対的なものではありえないのだよ、とかなんとか言ったって彼女たちの耳には届きません。この時期の彼女たちは、ただただそういう絶対的なものに憧れるものだから。
 楽しい妄想に、今は浸らせてあげておいてくださいよ。いずれ夢が覚めるときがくるのは、彼女たちにだってわかっているのですから。繰り返しますが、彼女たちは幼くはあってもバカではないのです。

 詩織はデュエロに敗れてルチアの称号を失い、執事の理人も失いました。本郷家の跡継ぎという地位も失い、一般庶民になるのでしょう。それでも忍は仕えてくれるでしょうが、詩織が愛しているのは理人です。
 しかし長い目で見れば、詩織は理人を恋人として手に入れることもありえるのではないでしょうか。
 なぜならメイはお嬢様として次のステージへ上がっていってしまったからです。
 メイはひとりの専属執事と疑似恋愛にふけるのをやめ、ふたり目の執事を抱え、さらに多くの執事を抱えるお嬢様に成長していくでしょう。理人はメイを愛しているかもしれませんが、恋愛はひとりではできません。それは詩織だけが理人を愛していた昔に恋愛が成立していなかったのと同じことです。メイはやがてどこかのお坊ちゃまと恋に落ちるのでしょうし、理人の恋は破れます。
 そしてそのとき、理人と詩織は、執事とかお嬢様とかの立場を離れて、ただの男と女として、再び恋をすることも可能なわけじゃないですか。ふたりはもうお嬢様と執事ではないのですから、誰はばかることもありません。
 忍が言うとおり、お嬢様と執事の恋愛は絶対の禁止事項です。理人は詩織に恋されてしまって時点で失点1なのです。メイに恋してしまった時点で失点2、メイに恋されてしまった時点で失点3ですよ。何がSランク執事やねんって感じです。
 理人はお嬢様との恋愛という失敗を繰り返すべきではないし、その意味でも理人とメイの間に恋愛が成立してしまってはいけないのです。

 だから、メイは、理人との恋愛を飛び越えて、さらに先へと進んでいくことにした。それがあのラストです。理人も剣人も自分の執事にする。これからも気に入ったものはバンバン自分の手下に加える。
 いやあ、頼もしいですよねえ。でもそれがボスの心意気ってもんですよ!(あれ?)

 ホントは、作っている方としてはそんな意図はないんじゃないかって、もちろん思います。
 今の夢のようなウハウハ三角関係を壊したくないの、素敵なふたりの間で永遠に揺れていたいの、どっちかなんて選べないの、どっちも欲しいの。
 だからあの選択なのだ、とね。

 でも、本当は、恋愛にはどっちかしかないんですよ。一対一でしかないの。ふたりにしたら半分ずつになるの。減るもんじゃないしってのは嘘なんです、減るんです。
 だからあれは、両方取ったつもりでいて、やっぱりちがうものを選んだことになっているんです。それはつまり、執事を捨ててお坊ちゃまを取るってことですよ。この先で会う、まだ見ぬお坊ちゃまとの恋を選んだということですよ。今の執事の理人はその相手ではないということですよ。
 正しい選択だと、私は思う。

 だから私は、とても満足して、おもしろく感じて、舞台を観終えました。
 そんな感想です。
 私は平日昼間に一度見ただけですが、週末はリアル「マーガレット」読者らしき少女たちの姿も客席には多かったとのこと。
 宝塚歌劇はあまり文芸路線に走ることなく、もっと大衆的な少女路線をやってもいいんじゃないかしらん、と思いました。
 そして、主な観客層であるアラサー、アラフォーの女性たちも、少女心を思い出すといいと思う。自分にダークな少女時代なんかなかった、というような顔をするのはやめた方がいいと思うんですよね。
 そういう嘘のつき方は良くない、否定することはない、蓋をすることはない。
 素直に認めて、開き直るくらいでいいと思うんですよね。
 それが結局は世の中を明るく健やかな方向へ開かせていくことになると、私は思います。



コメント (0) |  トラックバック (0) | 

宝塚歌劇花組全国ツアー公演『メランコリック・ジゴロ/ラブ・シンフォニー』

2010年11月26日 | 観劇記/タイトルま行
 神奈川県民ホール、2010年11月20日マチネ、ソワレ。

 ジゴロのダニエル(真飛聖)はレジーナ(花野じゅりあ)という金持ちの女性をパトロンに持ち、大学に通いながら気ままな生活をしていたが、田舎娘アネット(月野姫花)との浮気がばれて、アネットと別れたもののレジーナからも縁を切られた。生活に困ったダニエルは、ジゴロ仲間のスタン(壮一帆)の儲け話に飛びつく。それは、預金者が死亡したり行方不明になったりして放置されたままの銀行口座「睡眠口座」の金を、相続人になりすまして手に入れようという詐欺の計画だった…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城。1993年に安寿ミラ・真矢みき・森奈みはるの花組で初演、2008年に中日劇場で真飛聖のトップお披露目公演として再演されたものの三演。

 93年5月、ひょんなことから旧・東京宝塚劇場にこの演目を観に行って(併演は『ラ・ノーバ!』)、私の宝塚観劇歴はスターとしました。
 懐かしい、記念すべき作品です(^^)。
 実況CDは聞き込んでいて暗記しているようなものですし、数年前に復刻版dvdが出たときには飛びついて買いました。
 再演時にはかなりライトで間遠にしか観劇に行かないファンになっていましたが、もちろん名古屋まで駆けつけましたとも(^^)。
 このころ裏ではユウヒの花組への組替えがあったわけで、『太王四神記』の舞台化とセットで、私をディープファンに引き戻す(というかより深いところまで成長させる)きっかけとなったなあ…

 それはともかく。
 再演時は、やっぱりヤンミキとまとえりはキャラというかニンがちがって見えて、フェリシア(当時のトップ娘役・桜乃彩音)はまあいい感じなんだけれど…と、いろいろモヤモヤしたことを思い出します。
 今回は、それよりは落ち着いて迎えられたかと思いますが、集合日前日にまとぶんの退団発表があったり、初日があいてすぐ次期トップには宙組からまゆたんが異動してきて就任すると発表されて、まゆたんとえりたんは同期なんですけれど!?みたいな動揺騒動もあり…それはそれでなんだかなあ、な気が…
 いやまゆたんは花に合うと思うし花育ちだし(いやうりたんも花育ちなんだが)、ぶっちゃけ組替えは噂レベルでは聞いてはいましたが、それはつまりえりたんの組替えとセットだと思っていたんですよね…
 あああどういうことなの?
 そしてこれによって、ユウヒの卒業が延びることがあるなら、それはそれで私はもちろんうれしいんだけれど、はたしてどうなの!?というのはまた別の話…

 さて、で、再演ですが。
 全国ツアー公演だから仕方ないけど、セットがずいぶん簡略化されて寂しかったなあ。
 あと横浜公演はずいぶんと音響がよくなかった…カフェの場面での店内のBGM音量があまりに中途半端で、外からの音漏れか心霊現象かと思いました…

 あと、ソワレは久々の宝塚観劇だった母親を同伴していたので、彼女に設定や展開が理解できているんだろうかと心配してしまいました。
 あんまりわかりやすいダイレクトな説明がないからさ…このあらすじにあるような初期設定はわりと台詞の重ね方によって表現されてくるので…
 いや、
「僕、ダニエル! ジゴロさ。そしてこちらはパトロンのレジーナ」
 みたいな台詞が欲しい訳じゃないんだけれど、ナチュラルすぎる芝居って、観客をその世界に誘い込みづらい場合もあるからさ…ってことです。
 もう少しだけ保管したり交通整理したりすると、より練れてわかりやすくて何度でも再演していい楽しいコメディに仕上がると思うんですけれどね…

 まとぶんのダニエルは、ヤンさんとはまたニンがちがいますが、もともとジゴロとか詐欺師とかにはなりきれなさそうないい人っぽい感じが似合っていて、ハートウォーミングで、素敵でした。ときどきMr.YUになってたけど(^^)。

 対してスタン。ところでスタンはパンフレットでも「ジゴロ仲間」となっていましたが、ティーナ(華月由舞)というステディ?な恋人もいるし、別にほかの女性をエスコートしているようなシーンがあるわけではないので、ジゴロというよりはただの詐欺師なのかしらんとか思っていましたすみません(^^;)。
 えりたんはこれまたミキちゃんとはニンがちがって、ホントはもっと酷薄なタイプが似合う役者なんじゃないかなとか思ったりしているのですが…こちらの思いこみでしょうがやさぐれ感もあり、それはそれでいいスタンでした。
 でもアネットの平手打ちの跡をフェリシアにされたものだと誤解するくだりで、スタンがダニエルの頬に触る演出は、なくす理由は何もないと思うんだけれど…

 今回のフェリシアは蘭乃はな。歌が格段に上手くなっていて(ショーの方はまだあやしかったけれど)、ニンにも合っていて、よかったです。
 ただ、これは脚本の問題だけれど、
「恨んでないから」
 というせりふはいつも引っかかる…こんなこと、恨んでいる人間しか口に出さないものですよ? そんなことヒロインにさせない方がいいと思うんだけれど…

 気弱な弁護士マチウはめお(真野すがた)。楽しそうに演じていまし(^^)。
 フォンダリは再演と同じく愛音羽麗。これま楽しそう。
 フォンダリの息子バロットはみつる(華形ひかる)で、こちらも楽しそう。ま、もうちょっとだけはっちゃけてもよかったかと思いますが。
 その妻ルシルは初姫さあや。とてもよかった!

 スタンの恋人ティーナはゆまちゃんで、ダイナマイトバディは堪能しましたが、芝居はよくわからなかった…華陽子、野々すみ花とも、「ティーナはおばかキャラ」として演じてきていると思うのですが、今回はそういうところがなかったような…
 もちろん、スタンが詐欺師であることもマチウに口説かれることも、わかっていて流すオトナの女にすることだってできると思うし、それでもカーニバルの買い物をしてしまうくだりはありえるのでいいのですが、だったら泣き方だってもっと変わってくるはずだし…なんかちょっとよくわかりませんでした。
 期待していただけに残念。こんな通し役、もらったことないからなのかな? この先、変化があるなら期待したいです。

 フォンダリを追う刑事ベルチェ(夏美よう)の台詞をためる芝居というか演出はナゾ。ギャグなら不発。

 他にはセラノ(浦輝ひろと)がちょっといい感じだったのと、レジーナじゅりあがさすがだったのと、ヒメカの台詞はだいぶ良くなっていたけれど早口でまだまだ芝居にはなっていなかったこと、カティアあまちゃき(天先千華)がやりすぎなくらい大人の女っぽく作っていたけれど好感が持てたこと、イレーネ(仙名彩世)が「ちゃっちゃとしていない」というのがギャグなんだとしたら中途半端で改善してもらいたかったこと…が印象に残ったかなあ。

 あ、ジゴロ仲間なのかいつもカフェにいるあきら(瀬戸かずや)、目立ちました。目がいきます(^^)。


 しかし。
 何故、ラストの
「おまえが好きだ!」
 の台詞を変えちゃったの!!??
「おまえが好きだ。俺はジゴロで、文無しで宿無しで詐欺師で、だけどおまえのためなら…」
 この台詞のどこが問題なの?
 そして変えて何をしたかったの!?
 はっきり言って変更台詞の記憶がないのですが、なんかくだくだと言い訳していませんでした?
 「俺はジゴロで…」
 の言い訳とそれはワケがちがうよ!
 あるいは、ズバリと
「おまえが好きだ!」
 と言ったあとだからこそ、くだくだした言い訳が効いてくるんだよ?
 トランク引っ張り合って告白し、そのままヒロインが抱きつくまでのくだりは、歴代名場面に数えられていいシーンなんだと思うんだけど…
 あああああもったいない、寂しい、意味不明。
 四演があるならゼヒ戻して!!!


 グランド・レビューは作・演出/中村一徳。
 出来云々はとともかく、こんな短期間で再演ばっかりで生徒に新鮮味がなくてちょっと残念…とは言っておきたい。

 スペインの歌手はめおではなく扇めぐむで見たかった。めおって別に歌うまさんではないのでは…

 全ツってスター以外はわりとみんな出ずっぱりになるので、そこを見るのはとても楽しい。てかじゅりあとゆまちゃんとあきらくんばっかり見ていた。ロケットボーイあきらの輝きっぷりはすばらしかった!

 さあやのエトワールもとても聞かせました。よかったです。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

宝塚歌劇花組『ME AND MY GIRL』

2010年04月09日 | 観劇記/タイトルま行
 梅田芸術劇場、2009年7月6日マチネ。

 1930年代のイギリス。ロンドン近郊の高級住宅地メイフェアにあるヘアフォード伯爵家では、当主が亡くなったため、妹のマリア公爵夫人(京三紗)が家を切り盛りしていた。遺言により当主の一人息子が世継ぎとされたが、ヘアフォード卿の落とし胤である世継ぎは長年行方がわからなかった。ある日、伯爵家の弁護士パーチェスター(未沙のえる)が彼を見つけ出し、屋敷につれてくることになる。伯爵家の財産をアテにしていた公爵夫人の娘ジャッキー(朝夏まなと)とその婚約者ジェラルド(愛音羽麗)の心中は穏やかではない。遺言では公爵夫人とジョン卿(壮一帆)が、世継ぎが当主にふさわしいか判断することになっていた。だが現れた世継ぎ、ウィリアム・スナイブスン(真飛聖)はロンドンの下町ランベスに住むコクニー訛り丸出しの粗野な青年で、同じランベスに住む恋人サリー(桜乃彩音)まで連れてきた…作詞・脚本/L・アーサー・ローズ、ダグラス・ファーバー、作曲/ノエル・ゲイ、脚色/小原弘稔、脚色・演出/三木章雄。1937年初演のロンドン・ミュージカル。宝塚では1987年初演、6演目。

 初めての劇場でしたが、コンパクトで見やすく、16列目でしたが東宝や大劇場より近く、ド正面の席で堪能しました。ランベス・ウォークもすぐ近くまで来てくれましたしね。
 ただ、オケピットがなくてテープだったのは残念でした。
 ごくシンプルでしたがカーテンコールがあったのは、地方公演の常で良かったんですけれど…
 花組の別動体の下級生か、ジェンヌさんがたくさん観劇していました。

 ずっと月組のみで講演してきた演目でしたが、まとぶんのニンでもあり、よく沸いていたと思います。
 ただしやはりサリーがいい。
 ビルを上手く演じるのは意外に難しいんじゃないかなー。今回も私ははしゃぎすぎ、走りすぎに思えました。ギャグは早口になりがちで聞き取りづらくなるし、ビルがホントは真面目にサリーを愛しているところとか、そうは言っても教育が進んで別人のような紳士になっていってしまうところは、きちんと見せるのは意外に大変かと…もう少し、落ち着いて、ハートウォーミングなこの舞台をいつか観てみたいものです。
 パーチェスターはすばらしい。ジェラルドもボンボンっぷりがぴったりだし、役替わりのジョン卿は挑戦でしょうがいいことでしょう。ジャッキーはデカ!って感じでしたが(なのに腕はめちゃ細い!)これまたニンですし、マミだのジュリちゃんだの観てきているので怖いものはないです(^^;)。役替わりでジェラルドもいいでしょう。
 ジョン卿も手堅いですが、役替わりはなんとジャッキー…評判を聞きたいところです。
 しかしマリアは絵莉千晶とかでよかったのではなかろうか…歌もつらかったし、ジョン卿と釣り合いがなあ…
 ヘザーセットは夏美よう。渋く締めてくれて良かったです。
 半分の人数なのでパーティーシーンやランベス・ウォークが寂しいのは仕方がないかなー。フィナーレもやはり大階段がほしいところでしたが、まあ我慢。

 ううーむ、それでいうと芝居巧者のキリヤンのビルを観ておくべきだったか…去年のアサコ版もサリーだけをほめた記憶が…むむむ。
 しかし結局のところこの物語は、教育の機会の不均等をあげつらっているのであり、それさえ公平になれば生まれとか育ちとか階級とかには意味なんかない、ということを言っているのでしょうかね…やはり、階級差別というものが本当の意味では存在しない日本人には、ピンと来づらいところではあります…
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

『MATERIAL』

2010年03月08日 | 観劇記/タイトルま行
 銀河劇場、2010年2月26日マチネ。

 入り口に大きな柳の木がある骨董屋「雨柳堂」に集まるのは、様々な想いを秘めた骨董たちと、それに引き寄せられた人々。今日も、母を亡くし、祖母に溺愛されて育ち、髪を伸ばし着物姿で女性として生きることを強要された少年・由貴哉(川原一馬)とその遠い親戚で家庭教師の須永(石井一彰)が訪れる。応対に出たのは、主人(植本潤)の孫で、物に秘められた想いを見聞きする力がある蓮(朝海ひかる、三浦涼介)…原作/波津彬子『雨柳堂夢咄』、構成・演出/荻田浩一、音楽/斉藤恒芳、青木朝子、振付/川崎悦子、麻咲梨乃。原作の「蜃気楼」「春の寺」「おもかげ行灯」「夜の子供」「新月の客」「霊果」「大晦」「雛の宵」などをモチーフにしたダンス・アクト。

 原作未読ですが作者の作風は知っているので、淡々とした幽玄の世界をミュージカルに仕立てる、というのはアリな気がしました。
 オギー節全開でしたね。尺を詰めて頭数を増やして宝塚歌劇のショーでやってくれてもいいのよ…

 主人公は一人ニ役ならぬ二人一役で演じられ、内面というか霊魂部分というか、「あっちの世界側」の部分をコムが演じています。「こちら側」役の三浦さんは、原作っぽく男とも女ともつかない感じにやろうとしているんだろうなとは思いましたが、やはり男優さんが演じると「なんでこんなふにゃふにゃしてるの?」ってなるんだよなー。いっそ男役がそのままやってもよかったのでは…

 須永の歌が聴かせました。
 アンサンブルのダンスもとてもよかった。
 アンコールのフラメンコ衣装で踊る道成寺は、スパッツ脱いで生足見せてもらいたかったです。
コメント (0) |  トラックバック (0) |