駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『永遠の片想い』~韓流侃々諤々リターンズ5

2020年05月31日 | 日記
 2002年、イ・ハン監督。チャ・テヒョン、ソン・イェジン、イ・ウンジュ。原題『恋愛小説』。

 これまた内容を綺麗さっぱり忘れていて見返しました。まさしく昭和でスローでリリカルで退屈ギリギリで、これで成立するんだからすごいな!?と思いながら見ていたら、まさかのギミックが…! いやあ、やはり侮れませんでした。
 チャ・テヒョン演じるジファンの妹がムン・グニョンで、貸本屋さんかな?の店員に憧れていて、恋愛小説ばかり借りに行っているエピソードがあるので、タイトルはそのあたりに引っかけたものなのかもしれませんが、どちらかというとむしろ『恋愛写真』みたいなタイトルの方がふさわしいのかもしれません。そんな言葉がないだけに、ね。もちろん、ジファンの趣味がカメラであることには引っかけているわけですが。
 いやあしかしこれはチャ・テヒョンとソン・イェジンのキャラクターなしでは成立しない作品かもしれないなあ。チャ・テヒョンって、二枚目とか色男系ではない、簡単に言っちゃうと不細工だけど愛嬌があって親しみやすくチャーミングで…ってタイプの男優さんでしたよね。今はいいおじさん役者になっているのかなあ? そしてソン・イェジンは幸薄げな、儚げな、清楚な美人女優さんでした。でもあたりまえですがともに演技力の底力がある、素敵な俳優さんで、映画もドラマも当時たくさん観たなあ…

 もはやなかなか観る人もいない作品かと思うので、以下完全にネタバレで語らせていただきます。
 ソン・イェジン演じる病弱そうで内気な美少女スインと、その親友でイ・ウンジュ演じる快活でおしゃべりで社交的なギョンヒと偶然出会ったジファンは、スインに一目惚れし、すぐ告白し、すぐ玉砕し、時間を1時間戻した時計を持っていって「この1時間はなかったことにしよう、さっきの告白は忘れてくれ、次に会うときは友達で」と言い、3人は仲良しになる…というのがお話の始まり。女子ふたりは高校卒業後特に何もしていなくて、べったりで、ジファンはバイトに明け暮れる大学生ですが、以後どこに行くにも何をするにも3人一緒でとにかく楽しくて…ということが淡々と描かれて、映画は進みます。
 やがてジファンは、むしろギョンヒに惹かれていきます。清楚な印象や見た目でスインに一目惚れしたけれど、つきあってみたらギョンヒの方が楽しくて可愛く見えてくる…というのは、すごくありそうで、わかります。ジファンは、スインに当ててギョンヒとの仲を取り持ってくれ、と手紙を書きます。スインがその手紙を読むときギョンヒが必ず覗き込むであろうことを想定して、です。そういう形でジファンはギョンヒに告白しようとしたのでした。そしてその手紙を、スインに渡すようギョンヒに言付ける。けれどギョンヒは、彼女もまたジファンに惹かれてはいたのだけれど、ジファンは未だにスインのことが好きなのだろうと思い込んでいたために、その手紙をこっそり破り捨ててしまうのでした。
 そして、ジファンの前からふっつりと姿を消すふたり…いつも彼女たちが彼のバイト先に遊びに来ていたので、彼はふたりの住所も電話番号も知らないのでした。
 失意の5年後、差出人不明の、写真だけが同封された手紙がジファンのもとにポツポツ届くようになります。写真は、3人の思い出を想起させるものでした。誰が、どこから送っているのか…ジファンはふたりが卒業した高校を訪ね、卒業アルバムを借り受け、連絡先を探ろうとします。しかしそこで彼は、彼女たちの同窓生から、ギョンヒが亡くなったこと、スインの病気も悪くなっていることを知らされるのでした。
 スインは明らかに身体が弱そうでしたが、何故ギョンヒが? スインの現住所に向かうジファン。そこにいたのは、スインのように髪を伸ばし、スインが好んだような服装の、病気で面やつれしたギョンヒでした。
 そう、これはいわゆる(?)『君の名前で僕を呼んで』だったのです! スインとギョンヒは子供の頃から病弱で、入退院を繰り返してきた親友同士でした。ギョンヒは性格として快活で明るかっただけで、病状としてはスインと似たり寄ったりだったのです。そしてふたりは幼い頃にゲームとして、お互いの名前を入れ替えて呼び合うことにしました。そうすれば、やがて離れてしまっても、親友がそばにいる気持ちになれるだろうから、と…
 スインの本当の名前はギョンヒで、ギョンヒの名前はスインでした。ギョンヒが死に、ひとり残ったスインは、ジファンに手紙を書きます。かつて預かった手紙を破ってしまったことを告白し、ギョンヒが死ぬ間際に自分に言付けたジファン宛の手紙を同封し、私のお葬式に来てね、と綴ります。ジファンがギョンヒの手紙を開けると、「ギョンヒのことをよろしくね、彼女はきっとあなたのことが好きよ。あなたもでしょう?」と書いてある…
 恋愛って、なんでしょうね? これは誰の誰への恋を、誰と誰の恋を描いた映画なんでしょうね? ひとりの男とふたりの女。女ふたりは魂で結び合った親友同士で、でもどちらもそれぞれ男を好きになる。男は最初一方の女を愛し、やがて他方の女を愛すようになる。しかしやがて女はふたりとも死に、男だけがひとり残される…3人がそれぞれを大事に想い合い慈しみ合い、しかし死によって引き裂かれる、残酷で甘美な物語…
 そんなものを、ごく恬淡と描いた、美しい宝石のような作品なのでした。

 ちなみに、スイン本名ギョンヒのお葬式のあと、ギョンヒ本名スインが会場の時計の針をグルグル戻して、時間を戻そうとするくだりがあります。こういうのが韓国映画は本当に上手いのでした。満足。



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青池保子『アルカサル-王城-』

2020年05月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名あ行
 秋田書店プリンセスコミックス全13巻。

 14世紀のスペイン、奔放な情熱と冷酷な策謀で荒々しい時代を駆け抜けたカスティーリャ王ドン・ペドロ1世「残国王」の波乱の生涯の光と影を、中世戦国時代のパワー・ゲームの中に描いた歴史大作。

 外伝が1巻まで出て、そこからもう10年が経っている作品ですが、忘れた頃にまた続巻が出ることでしょう…キャリアの長い漫画家さんですが、未だ元気に他の作品を連載中ですからね。外伝の続きは気長に待つことにして、まずは本編の感想を、これまた長く愛蔵してきたのにまとめていなかったことをコロナ再読で気づいたので、上げておきます。
 ちなみに宝塚歌劇で舞台化されたときの感想はこちら。まったく褒めておりません! 原作に謝れ!と思う二次展開は残念ながらよくあることなのですが、このときも本当に本当にそう思い、観劇中ずっと座席で怒りに震えのち脱力した記憶があります…

「描きたい心」に捕らわれて、情熱のままに資料をかき集め取材旅行もし、コツコツじりじりと描き進められた、壮大な歴史絵巻です。婚姻含め血縁関係が入り乱れていたり、国の内外ともに不安定で敵味方がコロコロ入れ替わったりする中での、政治と戦争と人間ドラマを時に重厚に時に軽妙に描いていて、とてもおもしろい作品です。魅力的で多彩なキャラクターたちがきちんと描き分けられ、また愛情を込めて描かれているのがいい。過酷な時代ではありますが、女性キャラクターが生き生きしていて虐げられるばかりでないのもいい。
 連載はドン・ペドロがセビリアの王城を完成させる絶頂期で一度中断され、13年後に再開されて完結させたパートは駆け足の説明とまとめ、みたいな構造になってしまっていますが、凋落期を描くにはかえって良かったのかなと思います。しかし王妃と王太子のペストによる死がそのきっかけとなったのだなと思うと、今やとてもしんどいものですね…
 この時代の王権は一にも二にも血統によるもので、ドン・ペドロは庶兄のエンリケと陰に日向に戦い続け、最後はその手に討たれ、しかしのちに彼らの孫同士が結婚してカスティーリャ王家をつないでいく…という歴史の綾に心打たれます。物語としても綺麗な終わり方だと思いました。
 セビリアには20年ほど前に旅行したことがありますが、まだ初夏なのにとにかく暑かった記憶…スペインはまだまだあちこち行ってみたい国のひとつです。ゆかりの地も巡ってみたいものです。



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窪美澄『たおやかに輪を描いて』(中央公論新社)

2020年05月29日 | 乱読記/書名た行
 結婚20年、主夫・絵里子の人生は穏やかに収束するはずだった。だが次々つきつけられる思いがけない家族の「真実」。大きな虚無を抱えた絵里子に再び命を吹き込むのは、整形した親友、乳癌を患った老婦、美しい風俗嬢…?

 読み始めたときにはしょっぱい話だなーという印象しかなかったのですが、意外や最後にはおもしろく読み終えてしまいました。ドリームともファンタジーとも言えてしまうかもしれませんが、連載されたのは「婦人公論」だし、勇気づけられた読者も多いのではないかなあ。ていねいな描写でリアリティを積み重ねていて、安易にご都合主義だとは言い切れない力強さがある作品になっていたと思いました。
 何作か読んだことがある作家さんだと記憶しているのですが、また気になったら作品を手にしてみたいと思います。

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『デイジー』~韓流侃々諤々リターンズ4

2020年05月24日 | 日記
 2006年、アンドリュー・ラウ監督。チョン・ジヒョン、チョン・ウソン。

 これまたどんな話か綺麗さっぱり忘れての再見でした。さすが『インファナル・アフェア』のアンドリュー・ラウ、さすが全編オランダ・ロケ、なんたるロマンチック、なんたるハードボイルド、なんたる異国情緒、なんたる美しさよ!
 そしてきっとサントラも買ったのだろうな、家のどこかにあるのだろうな、いいところで流れる主題歌はバッチリ覚えていましたよ、さすがすぎます…!
 キャラクターはすべて韓国人俳優さんたちで韓国人役ですが、彼ら彼女らが何故この国にいるのかは語られていません。なんならこの国がどこかも語られていません。ヨーロッパのどこかかな?とは思いますが、オーストラリアとかかもしれないしな、とも思う。カナダとかね。そういう「外国」での韓国人のお話を日本人の自分が見る…というエキゾチックさ、みたいなものはあるのかも、しれない。でも別にものすごく民族的な話とかではなくて、別にどこの国の人の、どこの国での話でもいいような、インターナショナルさもある。ただ、母国ではないということでファンタジックさが際立つ、という効果はあるのかもしれません。全体を大人のお伽話に見えさせる効果、というか。余白の多い物語でもあるし、「いやいや、ナイでしょ」って言っちゃったら終わり、みたいなところはあると思うので。
 でも、素直にその魔法にかかったら、ものすごく美しく、静謐で、繊細で、せつない夢が見られるのです…! 堪能しました。
 チョン・ジヒョンはもっときついメイクをした美人女優タイプの扱われ方で人気が出た人だと思いますが、おちついたナチュラルな芝居も上手いんだよ、ということを見せたかった映画なのかな、と思いました。カジュアルな、なんでもない服を着こなすスタイルの良さが浮かび出るんだよねえ…! あと、イ・ソンジェもホントいい俳優さんだってことは知っています。でも彼の似顔絵はわりとリアルに似ていて、チョン・ウソンのはちょっと少女漫画風味であまり似ていない…のは良くないぞ、と思いました(笑)。それで言うともちろん、チョン・ウソン演じる男がチョン・ジヒョン演じる女を描いた似顔絵が最も素晴らしいです。
 これはキャラクターや設定やあらすじなどを解説したくない作品です。みなさまにも機会があればぜひノーネタバレ、ノー予習で見ていただきたい、素敵な映画なのです。私もまた忘れるまで、大事にDVDを愛蔵し続け、また見たいと思います。




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高橋留美子『犬夜叉』(小学館少年サンデーコミックス全56巻)

2020年05月21日 | 乱読記/書名あ行
 四魂の玉に導かれ、現代から戦国時代にやってきた少女・かごめ。封印されていた半妖・犬夜叉と出会い、砕け散った玉を集めるふたりが織りなす冒険活劇。

 私は『うる星やつら』と『めぞん一刻』はコミックスを愛蔵しているのですが、あとは人魚と1ポンドと毎年「ビッグコミックオリジナル」に描くキレッキレの読み切りの短編集を何作か…くらいしか読んでいなくて、電子で読むチャンスがあったのですが『らんま1/2』はまあまたいずれね、という気分だったので、今回はこちらを読んでみました。
 iPad-miniを横にして見開きでガンガン読み進めたのですが、いやぁ読みやすいこと読みやすいこと、感動しました。あだち、高橋、青山氏のこのネーム・スキルの素晴らしさは尋常じゃありませんよね。見開きの中で計算し尽くされた、流れるようなコマ割り、コマの中の絵の構図、フキダシの位置、台詞の分量や改行がもう完璧オブ完璧で、ちょっとくらい読み流してもどこがどう大事なのかちゃんと際立ってくる構成になっているのです。このものすごく高等なテクニックを、完璧に身につけて、息をするように自然に、自由自在に駆使している…今やこの基本的なスキルが残念ながら怪しい漫画家がたくさん量産されていること、おそらく指導するべき編集者のレベルが低下していることを私は本当に心配しています。もちろん、今に縦スクロール、フルカラーのデジタルコミックが主流になっていってしまい、こうしたコマ割りのテクニックは不要になっていくのかもしれませんが、それでも台詞を縦書きで表記するなら右上から左下への視線の流れを意識することは大切なことなはずです。勉強していってほしいなあ…
 それはともかく、そんなわけで、七宝、弥勒、珊瑚や桔梗、殺生丸、奈落といったキャラクターが出揃ってしまえば、あとは毎回手を変え品を変え妖怪とチャンチャンバラバラするだけの漫画なのですが(オイ)、毎回さまざまなキャラクターの妖怪を作り人間のドラマを作り必殺技を作り、その中でメインキャラクターたちの心理ドラマをじりじり展開させ、ラブコメパートもきっちり萌えさせる巨匠の技には感服しないではいられません。楽しく読み進めました。
 なので、あとは、こういうタイムスリップものというか異世界転移ものみたいなものは、本来は違う時空に生きていたふたりが出会い恋に落ちてしまうものなので、ではそのゴールは? ラストはどう落とす? というのが焦点になってきます。桔梗がどうの奈落がどうの兄がどうの刀がどうのというのは、まあまとまるところにまとまるんだろうけれど、結局かごめと犬夜叉ってどう結ばれてどう終わるの? それとも結ばれないパターンなの…? ということを心配して、私は終盤を読み進めたのでした。
 犬夜叉は半妖で、それを兄を始め妖怪たちからは蔑まれ嘲笑われていたので、本人としては完全な妖怪になりたかったのだろうし、それが四魂の玉のなんちゃらで叶う、みたいな展開もあったのかもしれませんが、逆に同じように、ただの人間になる、ということもできるのかもしれなくて、それでかごめと添い遂げる…というのもアリだよな、と私は思っていました。やはり種族が違う、というのは添い遂げるにはなかなかしんどいことだと思うので。なので犬夜叉が戦国時代でやりたいことは全部やって、満足して納得して人間になって、現代に来てくれたら、かごめもいろいろ教えてあげられるだろうし、それでふたりは末永く幸せに…というハッピーエンド、というのはわかりやすいゴールではなかろうか、と思っていたのです。
 が、意外にも…物語は、かごめが戦国時代で生きることを選ぶ形で終わりました。わりと、珍しい形かなと思います。この形は、どうしてもヒロインが捨てるもの、失うものが大きすぎるように見えて、ハッピーエンドに見えづらくなる危険があるからでしょう。
 でもこの作品はとてもよくできていて、かごめが現代と戦国時代を行き来していることをかごめの母親も弟も知っているし、犬夜叉も現代側に来たときは弟と遊んだりかごめの母親の手料理を食べていたりする。家族ぐるみのおつきあい、みたいなものがいつのまにかできているんですね。さらに、かごめは中学卒業とともに戦国時代での犬夜叉との旅を一度終えて、その後は現代側できちんと高校時代を過ごし、その上で、卒業と同時に、ちょうど大学進学とか就職とかの進路を選ぶように、戦国時代に帰ることを選択するのです。これはすごくいい流れだと思いました。
 会えない時間が愛をさらに育てたのかもしれないし、会えずに離れていても結局忘れられないということがわかって、いろいろちゃんと冷静に考えて、大人として選択した結果、かごめは再び井戸を潜るのです。この場合の18歳は確かに成人なのでした。
 人は何もかもを手に入れることはできなくて、何かを選んだら何かを捨てざるをえない。かごめはいやいや何かを犠牲にしたのではなく、犠牲を強いられたのでもなく、自分で考えて自分で取捨選択したのです。確かに現代より戦国時代の方が生きづらい、かもしれない。だからそれはしんどい選択、なのかもしれない。それでも、かごめは犬夜叉と共に生きることを選んだのでした。犬夜叉は半妖のままだけれど、今はもう妖怪になりたいとかは考えていないし、妖怪だから人間とは相容れないもの、という考え方もしていない。だから、そのままで大丈夫なのだ、共に生きていくのだ…という、オチですね。素敵ですね。感動しました。
 私はこの手のもののラストだと、『ふしぎ遊戯』と『漂流教室』のラスト、落とし方が好きです。また読み返したいなあ。そしてたとえば『王家の紋章』なんかは、メンフィスがキャロルの兄とそっくりってところに何かキモがあると信じていて、これは現代側でハッピーエンドになるのでは(だってメンフィスって史実では若くして死んじゃう王様なんだろうから…)、と想像しているのですが…頼むから死ぬ前に完結させてくれ、それは作家としての義務だよ細川先生…
 とまれ、終盤ちょっと巻きが入った感じはありますが、綺麗にまとまったお話で、よかったです。新しいアニメの展開があるんだそうですね、そういうのもまたいいものですね。
 次は『らんま』を読もうかな、どうしようかな…

 ところで『鬼滅の刃』の漫画家さんが女性だったと判明して何やら騒ぎが…とかなんとかがあったそうですが、はっきり言ってどうでもいいしちゃんちゃらおかしいことですが、翻って高橋氏は女名前、どころかペンネームですらない本名でデビューし、半世紀近く少年漫画界で活躍してきたわけです。当人の才能云々はもちろんとして、しかしこれはどういう事情だったんでしょうかね。当時の編集者が男性名のペンネームをつけるよう指導した…というような話はまったく聞きませんし、そういう妙な考えやこだわりは編集部側も当人も特になかったということなのでしょうか。
 また、女名前だからといって女性性を売りにしていた、というようなこともまったくありませんでした。なんせデビュー作が『うる星やつら』(というかその前身の『勝手なやつら』ですが)で、絵も話もキャラクターもノリも女性作家ならでは、なんてものでは全然ない、むしろそういうものをまったく超越したまったく新しく特異なセンスの作家で、それが売りで、とにかく作品がすべてで作家の性別なんか誰も気にしちゃいない、というのが当時の空気だったと実感として私は記憶しているのですが、さて真相はどうなんでしょう…
 ただ、これは本当にたまたまな、レアケースで、それ以外はわりと、作家さん本人が、また編集部が、変な気を回して、中性的な、あるいは性別がわからないペンネームをつける・つけさせることは多かったと思います。残念なことですが、事実でしょう。そして今のこの騒ぎ(というほどのものでは全然ないのですが)を見るにつけ、昭和より令和の読者の方が狭量だというのは、本当に残念なことです。人はなかなか進化できないものなのですねえ…
 高橋氏にしたって、たとえばこの作品は、最終話に記載されたアシスタントさんは全員女性で、担当編集は全員男性の名前です。性別のバランスは偏っているわけです。少年漫画、少女漫画は性差に立脚したジャンルだから…というのはもちろんありますが、しかし極端すぎるとは言えるでしょう。
 素晴らしい少年漫画を描く女性漫画家は現役でも10指で足りないほど名を挙げられますが、少女漫画を描く男性作家は今や片手に収まるほどでしょう。こういう偏りはどう考えたらいいのでしょう。
 物語本筋とは関係ないのですが、ちょっと考えさせられてしまいました。

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