駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

鳥野しの『アステリスク』(祥伝社onBLUEコミックス)

2018年03月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 大学生の澤は家庭教師先の高校生・七央に片思いしていた。七央は将来有望なバレエダンサーで、傲慢で甘え上手な少年。いつも彼女がいて、澤は振り向いてもらうなど考えてもいなかった。しかしある日、澤の色気に気づいた七央が…

 雑誌でポツポツ読んでいたのですが、まとまったというので読んでみました。
 まず、絵がいいですよね、線に色気があって。デッサンがしっかりしているところも好みです。BLなんてセックスを描くに決まっているんだから(暴言)、身体を正確に描く画力がない漫画家とかマジ勘弁、なのです私は。あと、ちゃんと男性の肉体が描ける漫画家がいい。女体と見分けがつかないようでは、これまた私は萎えるのです。その点、この作品は片割れがバレエダンサーの設定なので、バレエシーンもちゃんとしているし普段の描写の中での筋肉も身体そのものも綺麗に描けていて、見ていて気持ちがよかったのでした。
 総じて好きな話だっただけに、でももうちょっとページを取って描き込んでほしかったかなーという部分もありました。倍とはいわないけれど、1.5倍のページをかけてもいい作品だったのではなかろうか…でも最初から1巻本にする予定だったのかなあ。
 たとえば冒頭、できればふたりの出会いから見たかった。曜一が七央のどこにどう恋するのかを見たかったんですよね。まあでもこれは、恋しているんです、ってところから話を始める手もあるので、我慢します。
 で、そのあと、七央はヤリチンといってもいいくらいにガールフレンドを取っ替え引っ替えしている、まあある種健康な異性愛者の男子高校生なんでしょうが、曜一は生来の(?)同性愛者で、のちに「はじめて好きな相手とセックスしちゃった」みたいなことを言っているので、いわゆる2丁目なんかでゆきずりみたいな性体験しかなくて…ということだったのかなとか思うのだけれど、そういう前提条件みたいなものをきちんと描いておいてもらってから、それから、だけどこのふたりのこの恋がこう始まり…と展開してほしかったのです。
 あと、基本的に視点人物は曜一とされているのに、ふたりが初めてするに至るくだりだけ一瞬、七央視点になるのは演出のミスです。これは編集者が直させなきゃダメ、両方の気持ちを描いちゃダメ。それじゃ読者は神になり他人になってしまう。曜一の身になって、七央の気持ちがわからないままで、それでドキドキしながら読みたいんだから。
 あと、七央にしてもおそらく同性相手のセックスはさすがに初めてだったと思うので、もうちょっととまどったり手こずったりのちに葛藤してほしかったりはするかなー、とは感じました。要するにもっとネチネチ丁寧に進む物語を楽しみたかったのです(^^;)。
 でも全体としてとにかく好きな物語でした。年齢差萌えとか体格差萌えとかは私には特にないのだけれど、アーティストの恋愛って題材にわりと興味があるんですよね。だからそのあたりももう少しネチネチ描いてほしかったけれど、それもページがない印象でそこは残念でした。
 ふたりはそのままちょっと都合のいいセフレみたいな関係になっちゃうんだけど、曜一は自分が愛されるはずなんかないという自己肯定感の低さだし、七央のことをスターと崇めすぎちゃっているのでなかなか素直な恋愛にならず…みたいなのが、もっとウジウジ楽しめると私としてはなおよかったですね。七央の方でも、確かに彼はバレエが一番でそれ以外のことは二の次で、まして曜一にはどれだけ甘えてもいいと思っていて、そういう意味でも実は特別ってことなんだけれどそれにはなかなか気づけなくて、でも曜一のバイト先の女性には嫉妬したりすることもあって…とかがあってもよかったかなと思うのです。
 ともあれ、曜一はとにかく七央のことが好きすぎて自分のことは低く見過ぎていて、七央の邪魔にならないように、また自分が傷つかないように先回りしすぎていて、一方の七央は傲慢で周りが見えてなさすぎで曜一に甘えている自分に無自覚でだけど安心毛布は必要で…っていうのがすれちがいの原因になる恋愛の物語で、間にどかんと12年も時間をとばしてしまう、というのもなかなかいいなと思いました。そのまんまあっさり上手くいく恋愛なんてありえないんだから、別れて、再会して、再燃して、それでもどうにかなるなら、するなら、やっと本物、みたいな、そういうドリームが見たくて人はBLを読むのではないかしらんと思うのです。12年の間に何かあったか、それで今どんな大人になっちゃっているか、の描写ももうちょっと掘ってほしかったですけれどね。
 プロポーズのアウティング疑惑、というつっこみも現代的でよかったです。
 ふたりともメガネのかけ方が流動的なのは、リアルなんだろうけれどキャラ立てとしては曜一だけにした方が、わかりやすかったかもしれません。それでいうとふたりとも黒髪というのも珍しい。まあ描き分けができていないわけではないので、混同するようなことはないからいいのですが。
 やんちゃな少年とソフトな雰囲気の青年だったふたりが、ギラギラした中年と変わらず若く見えるやややさぐれた青年、みたいに見かけが逆転した成長・変化をするのもおもしろい物語でした。オチは、あとがきにあるように外国でふたりで暮らすところまで描いた方がよかったとは思いますけれどね。
 と、何かと注文が多い感想ですみませんが、それくらい、もったいなく思えるところが多々あったけどとにかく好みの、素敵な作品だった、ということを書き付けておきたかったのでした。BLってやはり性癖との細かい合致が重要だから、愛蔵して何度も繰り返し読むに足る作品に出会うのはなかなか大変ですよね。でも私はこれは愛でていきたいです。過去作も読めたら読みたいと思っています。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『宙赤』こうすりゃ委員会

2018年03月26日 | 観劇記/タイトルさ行
 『天(そら)は赤い川のほとり』の原作漫画について、私は「天河」と略して「てんかわ」と読む派なのですが、こう略して「そらかわ」と読む派もいるようですし、「天赤」と略して「てんあか」「そらあか」と読む派もいるようですね。かつて宝塚歌劇で韓国ドラマ『太王四神記』が舞台化されたとき、一部で花組版が「花ペ」、星組再演版が「星ペ」と呼ばれたりしたことがあったのですが(一応説明しますと、韓国ドラマの主演俳優がペ・ヨンジュンだったからです)、その流れからか今回の宙組での舞台版を「宙赤」(読みは「そらあか」かな?)と呼んでいる方がいらっしゃるようなので、それもいいなと思って今回のタイトルはそこに乗っかってみました。
 要するに、原作ファンは「どうしてこうなっちゃったのかな…?」と思い原作未読ファンは「細かいところがよくわからない…」といずれも脚本に不満を感じている方が少なくないようなので、言っても詮ないことではありますが、個人的に「もっとこうだったらよかったんじゃないのかなー」と思ったことをねちねち語りたい、という回です。よかったらおつきあいください。

 演目発表と、トップトリオの配役発表はセット…でしたっけ? それとものちにまずトップトリオの配役が出て、あとは集合日発表でしたっけね?
 ともあれ、カイルがゆりかちゃんでユーリがまどかにゃん、ってのはあたりまえだとして、二番手男役のキキちゃんがラムセス、というのもごく順当な配役ですよね。もちろん原作漫画の長い物語のどこを切り取るか、という考え方次第でキキちゃんの役をどこに持っていくかにはいろんなアイディアがありえたかと思いますが、フツーに考えて、敵国の武将でありカイルの良きライバルであり恋敵、というキャラクターとしてラムセスを取り上げ、二番手に演じさせる、というのは宝塚歌劇として正しい配置だと思います。主人公の仇役としてのナキアをピックアップしてキキちゃんに女装させる…とかの変化球も、まあ発想としてはなくはなかったと思いますが(^^;)、組替えデビュー公演でもありますし、まずは男役として正統派にきちんとカッコよく、おいしいところをさせてあげるのが当然でしょう。
 そのあとの配役は、それこそ原作漫画からどうエピソードを切り出しどう物語を紡ぐか、というプランに深く関わる問題かと思います。生徒の持ち味や組でのポジションなんかをいろいろ考えると、たとえば私だったら、三番手の愛ちゃんをザナンザ、四番手のずんちゃんをルサファ、あっきーをキックリかイル・バーニ、黒太子はりんきらあたりにした…かなあ? ナキアやウルヒ、三姉妹はママ、りくはカッシュかな? 
 で、ザナンザやルサファがユーリに惚れちゃって一悶着、というエピソードを拾う。要するに、このあたりをもっと主役カップルにきちんと絡む大きな役にします。カッシュについては、ウルスラを出す尺まではない…とやはり判断するかと思います。
 逆にマッティワザってちゃんと描こうとするとかなり尺を取るキャラクターだと思うので、あえて脇に下げたいです。ネフェルティティはゆいちゃんにして、ふたりの子役も使わず、ネフェルティティはマッティワザの回想シーンに出る程度にします。

 現行の配役で行くなら、やはりまずは愛ちゃんマッティワザをもっと大きな役にしたいです。なのでやはりナディアはいてほしいところだけどなー、ららたんとかにやらせたいなー。。あと、ナキアとウルヒの子役はともかく、こってぃの子役マッティワザと夢白ちゃんタトゥーキアはやはりなくして、回想場面をあき愛でやった方が俄然盛り上がると思います。舞台の手前に愛ちゃんマッティが立っていて、姉との日々を思い出す、ないしユーリやナディアに語るような場面があって、舞台奥の石段の上、なんなら紗幕の向こうにあっきーネフェルティティが立っていて、「愛しているわマッティ、私を忘れないで…!」「姉上…!」ってやるだけで、ファンは萌えるしある意味満足するしあとは勝手に補完すると思うんですよね(イヤ実際にやられていたらせめて幕上げろって騒ぐ自分しか見えませんが。でも演出としてはこれで正しいと思うし残念ながらコレ、至極やりがちですよね?)。
 ネフェルティティの出番は本来ならこれだけでもおかしくないくらいなんですよ。後半も、もし出すなら、今のようにユーリと対峙するよりもむしろ、ラムセスを鞭打つ場面を入れた方がよかったんじゃないかなー。キキちゃんを鞭打つあっきー! たぎるね!! ってのもあるけれど、トップ娘役相手ではなく二番手相手の場面にした方が、演目全体のためによかったろうと思うのです。そこになんかうまいことカイルをやってこさせて、ヒッタイトに立ち向かうためにはネフェルティティとしてもラムセスに戦ってもらうしかなくて彼を解放せざるをえなくて…っていうような流れにして、あとはカイルとラムセスの銀橋一騎打ちになだれ込む!とかでいいんだと思うんです。胸像の話は、なくしても話の大筋には問題ないんですよ残念ながら。この彫像が今なお現存し、片目の謎は解明されていない…ってことは舞台では描ききれていないのですから、人によっては今だって「それがなんだっつーの?」ってなっちゃってると思うんですよね…(><)
 宝塚歌劇なんだから、女性キャラクターをあれこれ立てるより、まずは路線スターが演じる男性キャラクターをしっかり立てるべきなんです。何より主役ね! それができて初めて、周りのキャラに手を広げてもいい。
 キキちゃんラムセスに関してはとてもいいと思うのです。だからあとは原作の、たとえばザナンザがナキアに操られてユーリを襲ってしまい…みたいなくだりも、ルサファがユーリにあこがれるあまりに…みたいなくだりも、なんとか尺を作って入れたいところです。とにかく三番手、四番手スターの役の出番、活躍の場をもう少し増やしたいし、主役のカイルやユーリともう少し絡む、しどころのあるものにしたい。
 そのために、ネフェルティティの出番が減っても仕方ないと思います。主人公の仇役としてはナキアがいるんだから、もうひとりの女王としてのネフェルティティをあんなに立てなくてもいいのです。ナキアとはまた違った生き方をしてきた女として、彼女をさらにキャラクターとしてきちんと描くことは、どちらとも似ず新たな道を切り開くユーリ、というヒロイン像を立てることにもちろんなるのですが、何度か言っていますが少女漫画を宝塚歌劇化する場合はヒロインではなくとにかくヒーローを立てるように改変しないといけないのです。大多数のファンが観たいものはそれなのですから。
 もちろん両方できるのが理想に決まっています。でもまずは、トップ娘役ではなくトップスターが、ユーリではなくカイルが常に目立つように、素敵に見えるように、カイルが活躍するように展開を変えないといけないのです。
 ティトに関する改変は素晴らしいなと思ったんですよね。あれは要するに、原作でウルスラがユーリに対してやったエピソードをティトがカイルに対してやるよう移しているのです。これは正しい。タロスから鉄の生成法を伝授されるのも、ユーリからカイルに変更しました。これも正しい。
 同様に、主人公としてカイルを立てライバルとしてはナキアひとりを立て(ラムセスとは最終的には講和を結ぶので)、だからラストでユーリがナキアに礼を言うくだりもカイルがナキアに言う…とした方が、効果が出ると思うんですよねー。自分を殺そうとし続けてきた女を許し、愛する女と出会わせてくれたことに礼を言う…それは彼の度量の広さや潔さ、人間としての大きさを示す、印象的な場面になったと思うのです。
 これだけでもかなりスッキリして、でもワケわからんってことはなくて、舞台だけでも楽しめるしかつ原作漫画も読みたくなる…みたいになったと思うんだけどなー。どーかねなーこたん?

 私がこんなに言うのは、期待していたからです。間に月組の『カンパニー』という小説原作の演目を挟むとはいえ、この短期間にほぼ連続して同一版元の、しかしかなりタイプの違う少女漫画原作の演目が舞台化される…!ということに、とても大きな意義を感じていたからです。
 私自身は、世代的にも『ポー』派です。でも、みりおの少年性とかリアル・エドガー感を別にしても、宝塚歌劇版のあの家族押しとか愛押し、「未練」というワードや大老ポーを死なせたこと、その霊魂があるとしたことなどのイケコ脚本・演出の解釈違いには疑問点も多く、完全無欠の舞台化だったとはとても言えないと個人的には思っています。でもまずまずちゃんとしていたし、おもしろかったし、美しかったし、一般受けもいい。各界の評判も上々です。
 私は原作者自身が友人知人の作家やいわゆる文化人枠の人々をアテンドしているらしいのをとても微笑ましく見ていました。そうでもされないと意外と宝塚歌劇を観ない人って多いと思うし、ポーだから、原作者に声かけられたからってんで重い腰を上げて、「意外といいじゃん」って思ってくれてよかったよって吹聴してくれる、その効果たるや絶大のものがあると思っています。なんとはなしの食わず嫌いや女子供の学芸会と馬鹿にする風潮が弱まるだろうと思うのです。
 もちろん彼らの中にも、たとえ一度観ただけであっても、宝塚歌劇の豪華さや美しさに流されることなく、イケコ版ポーの瑕瑾に気づき、内心眉をひそめた人もいることでしょう。そりゃいるよ、クリエイターをなめたらあかん。
 でも原作者に同伴されてたらそんなこと公言しないし、まずは目新しい体験ができたことを喜んでみせている、ということもあると思うのです。とにかく宝塚歌劇というものの認知が広がることはめでたい。自分の作品も舞台化してもらいたいとか、いつか舞台化してもらえるような作品を書こうとか、そういう夢がクリエイターたちの中に芽吹いているかもしれないわけでしょう? それは宝塚歌劇の未来や可能性が広がることにつながると思います。
 もちろん本来は宝塚歌劇は当て書き新作オリジナル脚本・演出主義で行くべきなんですけれどね。でもいろんなものを巻き込み飲み込み、より大きくなっていってもらいたいとも思っているのです。だからポーが一部にかもしれないけれどディープ・インパクトを残せたのだとしたら、それはとても大きいことだと思うのです。

 そしてそれ以上のことを、私は『宙赤』には望んでいたのです。
 「花とゆめ」はちょっと別にするとして、「Sho-Comi」と「マーガレット」という月二回刊の少女漫画雑誌は、主に中学二年生の女子をターゲットにした作品を量産していて、たとえ100年後にも読み継がれているというタイプの名作は産まなくとも、今このときこの世代の女子の大多数の心を捕らえ、彼女たちのニーズにフィットするということに腐心した作品作りをして、この層の読者の絶大な支持を集めています。
 多くの人がその世代でそうした作品群に心奪われたことがあるにもかかわらず、残念ながら大人になると卒業し、そうした作品の存在すら忘れていってしまうものです。そして今、世の評論家はほとんどが男性で女性は少なく、そして彼ら彼女らは今でも「週刊少年ジャンプ」を読んでいることはあっても、女子中学生向け月二回刊誌を読むことはほぼないでしょう。だからこれらに掲載される作品群は、どれだけ売れていようとどれだけ年若い読者の支持を集めていようと無視されることが多い。
 『天河』もそんな一作です。「読んでいました、大好きでした!」と声を上げるのは今の30代前半かな? でも彼女たちですら、かつて愛読した掲載誌の今の人気連載タイトルをひとつとして挙げられないでしょう。それは当然かもしれない、でも評論家にとっては違うだろうと私は言いたい。目くらい通せよ、存在くらい知っておけよと言いたい。巻数が違うこともあるけれど、発行部数で言ってたら『ポーの一族』より『天河』の方が断然売れています。なのにスルーで恥ずかしくないのか?と言いたい。
 だから、舞台版に関しても、『天河』の方が『ポー』よりものすごーくよくできていて、従来からの原作ファンにもそうでない人にも大ウケして、人気大爆発!となってほしかった。やっぱコレだよね、タカラヅカって少女漫画ってエンタメってメジャーってこういうのだよね!となってほしかったし、なんでこういうのがオリジナル脚本でできないの? 宝塚歌劇ってホント駄目だよね! とまでなってほしかった。世間一般の人は未だタカラヅカと言えば『ベルばら』、ってなイメージなのでしょうがそれだって漫画原作なワケだし、一般的なミュージカル・ファンに知られているところでやっと『エリザ』『スカピン』『ロミジュリ』? それは全部海外ミュージカルの翻案ですから、借り物にすぎませんから!
 精神的な親和性として、エンターテインメントの志向として、昨今の流行り廃りとして、直近の可能性として、『ポー』より『天河』の舞台化の方が宝塚歌劇として優れていた、となってほしかった。その可能性は全然あったと私は思っています。
 なーこたんにはそれだけの期待をかけていいと私には思えた。『アメリカン・パイ』から観ていますが、そういうこととは別に。『アリスの恋人』に心震えてすげー暑苦しいお手紙を書いちゃったこともありますが、そういうこととは別に。
 でも、何故、こうなっちゃったんだろう…?
 劇団から依頼された仕事であり、本人がやりたい!と言い出した舞台化ではなかったとは思っています。台湾公演の準備で忙しかったのかもしれないとも理解しています。
 でももっとできたやろう…というがっかり感が否めない。手抜き感、やっつけ仕事感を正直感じる。そこが私は悲しいのでした。贔屓がフィーチャーされるのは嬉しいけど、かえって作品を壊しているだろーが、その責めを負わせるとか勘弁してくれよ…とかいうのともまったく別に、私は憤っているのです、悲しいのです、残念で仕方がないのです。こんなはずではなかったと言いたいのです。今からでもなんとかなるならしてくれと言いたいのです。
 …という、恨みつらみの話だったのでした。オチがなくてすみません。でもきっとそれとは別に楽しく通っちゃいはするんですよコレがまた。節操なくてホントすみません。まあ贔屓公演に関してはつまらないなら観なきゃいい、って選択肢がないからな! そこがつらいところではありますよね。
 でも好きだから、期待しているから、より高みを目指せると思うから、ごちゃごちゃ言うのです。
 役者の演技はどんどん進化して芝居を埋めています。でも大元の脚本・演出が変わらないとどうにもならない部分は大きいからさ…
 今回がダメなら、次から、もっと完成稿にする前に誰かに見せて広い視野や客観的な意見を取り入れるシステムを構築するとか、組織として考えていっていただきたいです。単純な事実誤認や言葉の誤用とかももっとチェックできるはずです。クオリティを上げる努力をしてほしい。生徒はあんなにも真面目に、必死に、日々上手くなろう美しくなろうとしているのだから。
 応えてあげていただきたいのです。より良い作品を、切に願っています。







コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーナルデュル・インドリダソン『声』(創元推理文庫)

2018年03月23日 | 乱読記/書名か行
 クリスマスシーズンで賑わうホテルの地下室で、ひとりの男が殺された。ホテルの元ドアマンだった男は、サンタクロースの扮装でめった刺しにされていた。捜査官エーレンデュエルは調べを進めるうちに、被害者の驚愕の過去を知る…2016年翻訳ミステリー大賞&読者賞受賞作。

 シリーズ3作目だそうですが、そうとは知らずに、帯や表4のあらすじに惹かれて読みました。第1作から順に読んでいたら、また印象が違ったかな?
 というのも、作風ももちろんあるんだとは思うんですけれど、主人公をほとんどわざとのように魅力的に描いていない気がするんですよ。まずもってファーストネームが出てこないしね? それでいうなら同僚刑事たちの名前も名字しか出てこないので性別すらわかりづらく、キャラクターとしてもとても捉えづらいです。でもわざとなんだろうなあ…
 探偵や刑事、警察官が主人公の推理小説で、でも事件の解決そのものよりその過程での主人公の人生の描写や境遇、心境の変化を描くことに主眼があるもの…というのは多いと思います。パズルっぽいミステリーよりそういう社会派っぽいものの方が最近の流行りだとも思いますしね。
 でもこの作品は、主人公が人生に行き詰まっているんだとしても、何故なのかとか今まで何があったのかとかがそう明瞭には語られないままだし、なのにやる気もなく覇気もなくただなんとなく捜査に従事しているようで、共感しづらいし読んでいて疲れるというかイライラするというか、いっそなんなのこの人?と不思議になるくらいなのでした。
 たいていこういう小説には、さっさと解決させて自分のポイントにしようとする署長とか、さっさと立件させようと捜査に口出ししてくる検事とかが出てくるものなのですが、そういうキャラクターもいない。ただ現場の3人だけが黙々と、しかしやや行き当たりばったりに捜査しているようで、焦っているとか急いでいるとか、正義感に燃えるとかがない。淡々と右往左往しているのです。その空気がものすごく不思議なのでした。
 あと、欧米人ってわりとそういうところがあるのかもしれませんが、犯罪ってホントは昼夜待ったなしに起きるものだと思うのですけれど、だからって主人公たちが捜査を昼夜なしに続けるってことは全然なくて、夕方になって退勤時間になったら聞き込みが途中でも帰宅しちゃうし、週末もがっつり自宅で休養しちゃうし、クリスマスシーズンになるとそわそわし出しちゃって仕事どころじゃなくなっちゃうんですね。なんかそういうメンタリティもおもしろくはあるのですが、解決を待っているであろう被害者が無念でこれじゃ成仏できないよとかわいそうに思えたり、おそらく追い詰められることを望んでいる犯人が放ったらかしにされているようで哀れに思えてくるくらいで、そんな自分の心理がおもしろいです。
 そう、全体に小説としておもしろくないわけではなくて、だから読み進められたんですけれど、それはこの作品が最近流行りの北欧ミステリーの中でもよりマイナーなアイスランドという国が舞台のせいもあって、異文化を眺める感じがおもしろいとか、そういう観点があるからなのです。さらに、そんな外国でも日本と似たようないじめってあるんだねとか、昭和みたいな同性愛差別があるんだねとか、そんな卑近なおもしろさ、興味深さだったりもあったりします。最近読んだ別の作品はスウェーデンが舞台だったかな? あれはまたずいぶんとドライでクールで大人で個人主義でリベラルな社会の空気を感じたのだけれど、作風の違いなのかな国の違いなのかな…
 しかしオチというか真犯人に関しては、なんかあっさり描写されすぎではあるまいか。これはもっと大きな悲劇だと私は思うのですけれど…
 著者の名前を覚えられる気がしませんが、遡って1,2作目も機会があれば一応読んでみたいと思います。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふたりなら飛べる、果てのない天…祝・新生宙組! 『天シト』初日雑感~澄輝日記9.2

2018年03月20日 | 澄輝日記
 宝塚歌劇宙組『天は赤い河のほとり/シトラスの風-Sunrise-』宝塚大劇場公演初日と二日目11時、三日目11時を観て帰京しました。あらためて、ゆりかちゃんまどかにゃん、新トップ就任おめでとうございます、お披露目おめでとうございます!
 さて、原作漫画に関する記事はこちら、『シトラスの風Ⅱ』についてはこちら、『シトラスの風Ⅲ』についてはこちら
 原作漫画は確かに長大ですが、宝塚歌劇との親和性は高いと思いましたし、なーこたんの手腕に期待していました。ヒロインのユーリがとにかく動いて引っ張って、周りを動かしていく構造になっている原作から、ヒーローであるカイルが引っ張る形になんとか変えて、まずはトップトリオ、そして三番手、四番手スターくらいまでのキャラクターのエピソードとドラマをうまく拾ってストーリーを展開して、戦闘場面はダンスでうまいこと処理して、結婚・戴冠ハッピーエンド目指して突き進み、舞台を広々使って風吹き渡る広大な大地と明るい未来を感じさせて、新しい国を作るふたりに新しい組を担うふたりを重ねて…贔屓の出番はしょっぱかったけど、いいタカラヅカ・グランド・ロマンになったよね!
 …という感想になる気、満々でいました。
 …いたんですけれど…あれ、れ?
 どうも…なんか…これ、原作漫画ファンは「えっ、アレもコレもソレもやらないの!? そんでココはやるの!?? そんでココはこうしたんだ!???」ってなりません? で、原作未読の宝塚ファン・組ファンは「えっ、何がどうしてどうなって今こうなってるの? 主役ふたりがくっついたのはわかったけど、細かいところはなんかあちこちよくわからなかったんですけど…??」ってなっていませんかね…?
 あと、なーこたんとしてはあえて、わざと、意図してやっているんだと思いますが、お伽話ふうというか物語絵巻ふうというか、古典的お芝居感が出るのを狙ってこういう舞台作りをしているんだと思うのですが、私には単にやや古くさい、安っぽい書き割り芝居に見えちゃいましたし、ぶっちゃけ学芸会感を強く感じてしまいました。あのずっとある石段、邪魔じゃない!?
 ただこれは好みの問題なだけかもしれません。私は直近ならだいもんのお披露目の『ひかりふる路』とか、同じ漫画原作でも『ポーの一族』の舞台の使い方の方が断然好みで、別になーこたんの『ルパン三世』だってどちらかというとその方向性だったと思うので今回あえてこうくると思わず、とまどってしまっただけなのかもしれません。『はいからさんが通る』に私が感じた悪い意味での2.5次元臭(と語れるほど実は私は2.5次元ミュージカルをたくさん観られてはいないのですが)は別箱公演で盆とかセリとかの装置が多用できないので平板に感じるせいかなと思っていたのですが、今回はこの石段の装置を出しっ放しにしているために舞台が狭く、せっかくの大劇場の大きさを生かしていない気がしたのも残念でした。でも、こう作りたかったということなんだろうなあ。うーむ…
 三回観てさすがに脳内勝手補完はできるようになったのですが、やっぱりちょっとイロイロ引っかかったりもったいなく思ったりすぐにも改善できるんじゃないの?といくつか提案してみたくなったりしたので、以下、例によってごくごく個人的な現時点での所感ですが、ネタバレ全開でねちねち語らせていただきます。未見の方、予習して予断を持つのがお好きでない方はご留意ください。

 アバンは素晴らしいなと思いました。いい改変だと思うのです。ラストに、カイルが泉に刺した鉄剣を氷室くんが発見する、という回収がちゃんとあるのも個人的には超ツボ。てかわんた氷室くん(とつい呼びたくなりますがこのとき彼はまあまあ中年の教授なのかな?)、脚なっが!
 で、そこからのザッツ・ゲーム音楽によるアニメのオープニングイメージ(原作漫画リアル世代のお若いお友達によれば2000年代アニメ感ハンパないそうです。そうなのか…(^^;))な、綺羅星のごときスターたちがそれぞれ扮する多彩なキャラクターたちが次々出てきて決めポーズ、つなぐソロ、勢揃いして主題歌!のプロローグも、まあ好みは別れるかもしれませんがワクワクさせてくれて、とてもとてもよかったです。強いて言えば主題歌の終わりに、「ジャ~ン」みたいな尻尾の後奏をつけるか、今のまま歌の「♪河のように」でキックリ違ったキッパリ終わりたいならもっとパッと照明を落として暗転させないと、拍手を入れるタイミングがわかりづらい、ってことだけが問題かなと思いました。
 そのあとのせとぅー、さよちゃんメインの六人の姫がカイルの人となりを歌うくだりが、私はやや長く感じました。ゆりかちゃんカイルのお衣装替えの時間を捻出しなくてはならなかったのだろうし、コロス的なつなぎとして宝塚歌劇あるあるな場面ではあるのですが、早くもちょっと学芸会感を感じたんですよね…なんか芸がないというか、工夫がない気がしたのです。
 また、ここで姫が「私の純潔を奪って」みたいなことを言うのは、私はやや下品に感じました。カイルが、皇太子としてモテモテだけど意外に真面目でこのあたりの手近で野心満々の女たちに安易に手を出すようなことはしない男である、ということを表したいのだとは思うけれど、それと姫が処女かどうかはまた別問題だろう、と思っちゃったんですよね。イヤこの時代のこの地域の性風紀の基準を私は知りませんが、処女じゃないと嫁に行けないところもあればそんなの関係ないところもあるわけで、百戦錬磨の床上手が皇太子妃の座を狙って手ぐすね引いてることだってありえるんだし、いちいちこんな言葉を出してこなくてもよくない?と引っかかったのです。あと、このあとカイルが生け贄としてのユーリに対して純潔云々と言うので、その前に同じ言葉を出しちゃわない方がいいというのも単純にあります。そのあとユーリが「純潔!?」と聞き返すのもくどいかな。この言葉にそんなに意味を持たせない方がいいと思うんですよね。
 さて、そんな姫たちをちょっと迷惑に感じながらカイルが再登場して本編が始まるわけですが、ここでソロでまず一曲歌ってもいいのかもしれないけどなー、とはちょっと思いました。それだとちょっとロミオっぽすぎ? お衣装もそんな感じですしね。でも、国や未来やまだ逢わぬ恋人を想い、星を眺めるような歌があってもいいのかな、とは思いました。まあこれまた宝塚歌劇あるあるすぎるかもしれませんが。風の大地で空の下、星風さんの訪れを待つ真風さんの歌…よくない?
 でもまあ歌はないままに、小姓のあられちゃんティトが登場して、泉からまどかにゃんユーリが現れて、ナキアの私兵がやってきて、せーこナキアとマギーのウルヒも現れて、カイルがナキアの手からユーリを救う…という展開は、スムーズでいいですね。ティトの悲鳴にはちょっと感心しなかったのですが、その後の演技はすごく良くて、あられちゃんはこんなに大きい役は初めてだと思うけれど、こうやって若手をどんどん起用していくのはいいことだよねと思いました。
 ゆりかちゃんが、キスから壁ドンからお姫さま抱っこから、相手役に「エッチ! スケベ! ヘンタイ!」と罵倒されるまで一気にやってのけるところに、頼もしさを感じましたよね(笑)。いい新トップスター、いい新トップコンビだと思います!
 カイルとユーリとティトが銀橋を渡る中で、ユーリがここが古代オリエントであるらしいと知る流れも鮮やか。「ツタンカーメンってまだ生きてるの!?」みたいな台詞に初日は客席から笑いが沸いたことなども、とてもほほえましく思いました。まどかにゃんのナチュラルさがいいんだよね、カマトトに見えないところもいい。ただ、ショートカットにパンツスタイルでこの時代の人からしたら少年としか見えなかっただろうに、「娘」と見抜いたカイルの眼力ってすごいなとは思いました(笑)。
 続くカイルの居室の場面でカイル・フレンズを並べて見せます!みたいな流れには、すみませんが私はちょっと笑っちゃったかなー。みんなコスプレ再現度は高いし、原作ファンなら誰がどのキャラか外見からすぐわかって楽しいし、スターの顔見せ場面として重要だとは思うんだけれど、基本的には十把一絡げの扱いだし、狭い空間でただ一列に並んで歌うってのがやや間抜けに見えました。これまた芸がない。似たところで言うとたとえば『銀英伝』の元帥府なんかでの見せ方は、もっと工夫があったと思うんだけどなあ。それともイケコの舞台構成の方が私には好みだというだけのことなのでしょうか…?
 で、着替えて出てくるユーリですが、原作イメージからするとスカートはもっと短くていい気がしました。それにいくらボーイッシュなタイプとはいえ、現代女子高生のユーリがあの程度のスカートの短さを恥ずかしがったりしない気がします。スミレコードと言ってもショーではもっと脚出してるじゃん、って気がしたなあ。
 そこにミタンニ来襲の知らせが入る。ナキアはユーリを豊穣神に捧げる生け贄として呼んだと言いましたが、実は自分を呪うための形代だろうと見抜いたカイルが、ナキアから遠ざけるためにユーリも連れて参戦する、というのもうまい展開です。ただ、カイルが一年後にまた泉が満ちたら元の世界に帰してやる、と言う前に、ユーリの方から一度は日本に帰りたがってみせた方がいいと思いました。ユーリがちょっと早くこの事態になじみすぎな気がしたのです。この帰る・帰らない問題はもう数回繰り返しておかないと、クライマックスの銀橋ラブシーンが効いてこないと思いました。

 マラティア戦線での愛ちゃんマッティワザの登場の仕方のカッコいいこと! 愛ちゃん、原作ファン冥利に尽きるのでは!? 長髪も凜々しく、顔の傷も美しい飾りのよう。女子供にも容赦はしない「血の黒太子」っぷりが素晴らしい。
 で、初めて目にする戦場に震えるユーリ、いつも泣かされるのは市民、特に女だという描写、すでに王としてのカイルの理想や信念を聞かされているユーリが義憤に駆られ、おとなしく人質になどなっていずに立ち上がってしまう…という展開もいいのだけれど、マッティワザとガチンコでチャンバラしてしまってはダメだろうと思いました。最初の一撃だけ、とか、隙を突いて剣を奪う、というのはアリだと思う。でもそのあとは、現代日本の女子高生と古代オリエントの武人が剣術で勝負になるわきゃないワケで、それなのに互角に戦っちゃうと、そもそもこれってお芝居だもんね中の人は女同士だしね、って嘘臭さが出ちゃうわけですよ。てかこういう殺陣はそもそも上手く見せるのがかなり難しいし、すっごくちゃんとできないとカッコ悪いだけだと思います。今どきみんな外部の舞台で男性のもっとすごい殺陣を観てるんですからね。迫真の迫力なんか絶対に出ないんだから、ダンスに逃げた方がいいと思うんだけどなあ…
 せっかくずんちゃんザナンザとかりくルサファとかそらカッシュとかがいるんだから、最初に立ち上がったのはユーリなんだけど、それをきっかけに、彼女の勇気に心打たれた男たちが立ち上がって、せとぅーやエビちゃんたち(十分強そう)一般市民女子たちも立ち上がって…というふうにすればいいんだと思うんですよね。そういうふうに男を動かす力があるからこそ女は怖い、馬鹿にできない、ということを、ここに登場してくるキキちゃんラムセスが言うワケだからさ。
 それに対してマッティワザが、かつての姉の豹変から来る女の醜さを語る中二っぷりは個人的にはツボですが、残念ながらややトートツかなー。そのあとも、最終的にはカイルがマッティワザを追い詰めて、そばにいる女がそうして男を動かすことに感心したマッティワザが女というものをちょっとだけ見直してやってもいいと思い、それでユーリに黒玻璃を渡し姉への想いを吹っ切る…まで、本当はここでなんとかきちんと描きたいところです。まあまあ大きな改変が必要かもしれませんが、愛ちゃんは三番手スターさんなのでもう少し立ててあげていただきたいのです。

 一方ハットゥサでは、これまたややトートツにまいあの子役ナキアが美麗ソロを歌い出すのでいよいよトートツなミュージカル感がハンパないのですが、上手いんだからまあいいか。しかしヒロインすらまだこの時点で歌っていませんよね…(^^;)
 まなの子役ウルヒもとてもいい。そこに重なる大人ナキアとウルヒですが、ウルヒは専科さんの特出、かつこれで卒業というわりには全体にちょっとしどころがなくて、もったいなかったかもしれません。でもだんだんふたりの間に情感が漂っていけば、お芝居としては成立するのかな。
 続く三姉妹ソングもまあまあトートツなんだけど、じゅりちゃんひろこちゃんさらちゃんが可愛いからいいか(^^;)。絡む男役たちも可愛い。で、宝塚歌劇あるあるのお祭り場面に突入するわけですが、残念ながらここがまた感心しませんでした。というかあの石の階段は沈めたり真ん中で割って左右に動かしたり、できなかったのかな? 結局一度も本舞台を広々使っていないんですよね…祭りでも圧迫感ハンパない。また時代考証的に仕方ないのかもしれませんが、踊る民衆たちのお衣装に彩りがなくて目に寂しく、祭りの高揚感があまり出ていないと思いました。
 また、皇太子や皇子がホイホイ街中に出ては騒ぎが…ってのもわかるけれど、せっかくのスターのダンス場面に仮面なんて無粋だし、いいじゃん庶民的な皇子さま方で民衆も慣れててみんな騒がず一緒に楽しんでて愛されて人気者で…ってことにしても、と思いました。
 祭りの場面があるあるなのは高揚感に浮かされて主役カップルの心の距離が縮まる演出に使えるからなのですが、そういう描写もやや足りないかなー。まあこのあと一応ふたりでしっぽり語り合ったりはしているのですが。あと、できればここでザナンザがユーリにもっとぐっと心惹かれちゃう、っていうのが入れられるといいんだけれどなー。ずんちゃんがちょいちょい演技で漂わせてきていますが、本当は具体的なエピソードが欲しいですよね。それがあってから、カイルとユーリが語り出したのでザナンザはそっと消える、とできるとせつなさが増せていいんだと思うのです。
 ハートマークのくだりは可愛らしいんだけど、ここの台詞は脚本をあちこち細かく修正したいです。わかりづらくて中途半端でもったいない…
 続いて王宮での宴会場面になるので、祭りイメージがダブっているとも見えるし、これもうーむと引っかかりました。モンチかなこまりなというカイルの兄弟たちスターの顔見せも必要ですし、正室や側室たちに扮した娘役ちゃんたちが華やかなので、こっちの場面だけでいい気もしなくもないですしね。盛装したユーリと踊るカイル、というのも「踊るふたり」という同じことを繰り返しちゃっています。
 カイルからの祝いの酒に毒が入っていたとされて、すっしぃ王が落命し、ナキアはカイルを逮捕する。カイルはユーリとザナンザを逃がす。だがもえこシュバスときよゾラの裏切りに遭い…というのは原作終盤のエピソードをここにぶっ込んできたんだ!?とちょっと仰天でしたが、まあつながってはいます。ザナンザも落命し、ユーリはラムセスに拾われる。一方でティトが命に替えてカイルを助け、カイルは地下牢クルヌギアに送られる…あられちゃんが素晴らしい。そしてかけるパイセンのタロスがまたいい仕事しちゃいますよね! なっつ、ナベさん筆頭に囚人たちの歌も素晴らしい。
 これで製鉄技術を伝授したことになるのはかなりランボーでしたが、まあ細かいことはあまり気にしていられないのかな。これはもともとユーリのエピソードですが、カイルのものと改変したのはいいと思います。ただ、あまりカッコ良くは見えなかったかな…潔く謝ったりできるのは人間としての度量の大きさを見せていていいのですが、わかりやすいヒーローっぽさとは違うので、場面や演出としてやや地味に感じました。
 そのあと、展開として仕方がないんだけれど、しばらくカイルの出番がないのも地味につらいところです。

 ららたんネフェルトを筆頭にラムセス・シスターズが可愛子ちゃん揃いなのは素晴らしい。そしてラムセスの妻問いソング(と勝手に名付けます)が素晴らしい。でもここがまたヘンにザッツ・ミュージカルなんだよねえ…でも宙組デビューのキキちゃんラムセスは二番手スターのキャラクターとしてがっちり過不足なく描いてもらえていて、困ったな人気出ちゃうなと思いました。てか来てくれてホントありがとう!
 ただ、ヒッタイトとエジプトとミタンニは状況によって戦争したり同盟したりいろいろしていると思うので、ヒッタイトがエジプトに「赤い獅子」討伐協力要請?をしただけで両国が内通している、国への背信だ…とするのはちょっとランボーではないか、とエジプト王太后派の者としては思いました(><)。
 こってぃ子役マッティワザと夢白あやちゃんタトゥーキアの回想場面のあと、15分間のルドルフ・ターンもかくやという怒濤のあっきーネフェルティティ・ターンが展開するわけですが、細かいことは別途後述するとして、気になったのはこのくだりのラストにユーリが「人間は政治の道具じゃない」みたいなことを言うときの論旨がわかりづらいのと、ここで「私はきれいごとでやってみようと思います」みたいな宣言をしちゃう点。この時点でユーリにここまでの覚悟ができていることにすると、以前にも書きましたがこのあとの銀橋ラブシーンが効いてこないと思うのです。
 もちろんここで女ふたりの生き方の違いを表したいという意図はわかるし原作漫画もそういう趣旨なワケですが、宝塚歌劇ではなるだけ話をカイルに寄せた方がいいので、ユーリはネフェルティティに、世の中ダメな男ばかりじゃないよ、私はきれいごとでがんばろうとしている人を知っているよ…と言い返す、とかにしてもいいのかもしれません。
 ユーリはそのままラムセスの口説きを吹っ切ってカイルとの合流を目指しますが、ここで「無理だよ」と断るのも、もちろんラムセスよりカイルの方を好き、というのもあるけれど、そもそも私は日本に帰るんだもん…という想いや揺れがもっとあってもいいと思うんですよね。で、カイルと無事再会して、でもカイルはユーリにハットゥサに帰って泉から日本に帰れと言い、ハートマークの粘土板を愛の証として渡し、それで初めてユーリは帰らない、ここに残る、カイルのそばで生きていく!と決心し宣言する…という流れになった方が、感動的になるはずなのです。キスシーンが素晴らしいのとは別に、このあたり、脚本や演出にもう少し丁寧さが欲しい。まかまどはラブコメ度を上げて芝居で埋めてきていますが、生徒にできることには限界があるのです。大事なのは脚本です!
 あと、ここでユーリがカイルに跪いちゃうのは、原作ではタワナアンナになる前に近衛長官を務めるくだりがあるからなんだと思うんだけれど、知らないで観るとフェミ的にちょっと引っかかる気がするので、なくしちゃった方がいい気がしました。

 エジプトとの決戦にミタンニのマッティワザが友軍として参加しているのは、台詞では説明されているんだけれど観客にちゃんと伝わっていない感じがしましたねー。
 ともあれ役者は揃って最後の戦闘、カイルとラムセスは全裸にこそならないものの(笑)銀橋で素手の一騎打ちという原作漫画の名場面をきちんと再現。でもじゃじゃ馬は慣用表現だとしても、女を馬に喩えて乗りこなす云々という台詞を女性であるタカラジェンヌに言わせるのはやめてくれ。なーこたんは気に障らないの?
 マッティワザの支えもあってユーリが兵の心をよくまとめて善戦し、捕らえた将軍に投降を勧める。虐殺することなく、略奪することもなく…ヒッタイトとエジプトは講和を結び、これがカイルの治世での最後の戦争となる。これからは平和あるのみ…美しいですね。
 ネフェルティティもナキアも、幽閉という処罰を下されて表舞台を去ります。でもナキアとウルヒは、身体が結ばれることはなくてもずっと一緒にいたんですよね。それに対してネフェルティティは…それが彼女が選んで貫いてきた生き方とはいえ、あまりに悲しい…
 ここの歌場面はイメージ・シーンでもあり、子役二組も登場しているので、マッティワザもここは姿だけでも見せていいと思いました。大団円まで愛ちゃんの出番はないんだから、出られるじゃん!
 そしてその前、ユーリがナキアにお礼を言うところは、私はカイルがナキアにお礼を言うことにしてしまってはどうかなと思いました。全体にどうしてもユーリが活躍しすぎに見える気がするからです。ここも原作漫画ではもちろん重要なエピソードなのですが、再三言いますが宝塚歌劇では男性主人公に話を寄せていくべきなのです。
 カイルとナキアは皇位継承を巡ってずっと対立してきました。けれどことがこうなって最後に、カイルがナキアにユーリを呼んでくれたことについて礼を言う、というのは、皮肉に聞こえちゃうかもしれませんが、それでも感動的になると思うのです。憎み合った敵が最愛の運命の相手との絆を結んでくれた…みたいなのって、ドラマチックで素敵じゃないですか。そんな改変、どうかな?
 それからプロポーズ場面ですが、改めてきちんと言葉にすることはとっても大事です。でも結婚とか夫婦とかの持つ意味が現代日本とは違う世界の話なので、「結婚しよう」とか「妻になってくれ」じゃダメなんだよなーこたん! 側室は持たないってことと、何よりズバリ「愛してる」って一言が絶対に必要なんだと思うの! 次の回からでも足してくれ、なんならゆりかちゃんが勝手に入れて言ってくれ!!!
 大団円の結婚式と戴冠式の場面が、うろ覚えですが『白夜伝説』とか『エクスカリバー』『鳳凰伝』みたいな、お披露目公演で王子様と王女様のお話となるとなんかみんなこんなお伽話ふうの平板な絵面で終わるのはいったいなんでなんですかねえ…やっぱり薄く漂う学芸会感にややしょんぼりしました。もっとお洒落なラストシーン演出なんていくらでもあるだろうに…あとやっぱあの毛皮のお衣装はヘンです。でももう何もかもあえてなんだろうと思うので、拍手して幕を閉めることにします。

 
 ロマンチック・レビュー第20弾に関しては…宙組20周年だから『シトラスの風』をやる、という企画ありきだったんでしょうね。八代目トップスターのお披露目公演でもあったわけですが、その個性は無視ってことですよね。そこがとにかく残念でした。
 ロマンチック・レビュー自体は、そのコンセプトも理解できるし私も嫌いではありません。でもあくまでスターの個性を見て作品を当ててあげていただきたいんですよね。『シトラス~』はやはりズンコの歌唱力ありきのレビューだったと思うんですよ、だからダンスらしいダンスがなくて(まあ「明日エナ」はあるけれど、あれは歌パートも大きい場面ですし)、揺れているだけでも保ったんだと思うのです。でもゆりかちゃんは歌とかダンスとかに特化したスターさんではなくて、ハッタリとか男くささとかカッコ良さで魅せるタイプだと思うんですよね。だからミキちゃんとかワタル(まあワタルは踊れたけど)系のものが合ったと思うんですよ。なのに、私にとってはどちらもミキちゃんの歌である「PARADISO」も「DRIFTER IN THE CITY」もそれぞれキキちゃん、マギーにあげちゃうんだもんな…(><)スターがひとり歌いながら銀橋を渡って保たせる「間奏曲」というコンセプトは私は嫌いじゃないし、今回のキキちゃんもマギーもとてもよかったと思うのですけれど、でもそれじゃゆりかちゃんにやらせることがなくなっちゃうじゃん、というのが引っかかったのでした。新場面にはもっと工夫が欲しかったです。中詰めは『ネオ・ダンディズム!』のチャイナ祭りにする、とかにしても罰は当たらなかったと思いますよ…
 まして従来の場面については、私ですら一昨昨年の全ツでけっこう観ていて「もう一生分観たなー…」って気分になっているワケですよ。贔屓の出番がほぼ同じ&なんなら立ち位置も同じってのはありますが(すっしぃさんがメインの新場面…というと語弊があるけれど、とにかくあのダンサー場面には呼ばないっていう認定なんですねへー、としか言えない…(ToT))、初演からさんざん観ている組ファンという方も多いと思うので、やはりもう少し知恵を使って手を入れてもよかったのではないでしょうか。
 とにかく、このタイトルを名乗る以上はプロローグと「明日エナ」は不可欠だったとは思うのですけれど、それ以外をどうするかってのはもうちょっとやりようがあったと思うし、同じ場面をやるならスターの起用をがらりと改変していただきたかったです。はっ、それとも私が贔屓しか見えてないだけで周りのメンツはけっこう入れ替わっているんだったらすんません…(><)
 しかし客席降りがないのは我慢するとしても、中詰めにスターの銀橋渡りは入れてほしかったです。宙組はただでさえ他組に比べてそのあたりがしょっぱいのに、今回ほぼ誰も渡っていない勘定になってしまっています。残念すぎる。娘役ちゃんも全然おいしくないし、退団者ピックアップもないし…寂しいこと限りありません。
 「花占い」はもともとは『シトラス』のものではないので微妙だけれど、私はまどかで観たかったなー。ただ長いのでやるなら尺は巻いてほしいけれど。
 「ステート・フェアー」は私にとっては『ラ・カンタータ!』の場面なんですよ、だから今回なくしても個人的にはかまいませんでした。あとフレッドってゆりかちゃんのニンじゃない…カンカン帽のフレッシュな青年ってタイプじゃないじゃん、目深にハットかぶってスーツにコートにロングスートルのマフィアのドンみたいなのが似合うんじゃん! というかフレッドは、初演のマリコも続くテルもニン違いだったと思うのですよ。丸顔のまぁ様が若々しくやってくれてやっと成立したんだから、それで打ち止めにしてもよかったんだと思うなー…あと、やるならメインが前回のまぁみりからまかまどに変わった、だけでなくヤングボーイやヤングガールの顔ぶれもどかんと変えてほしかったです。周りのカップルは前回はわりと上級生口だったんだから、今回はもっと下級生でやる、とかさ。それだけで全然印象が違うはずです。あおいちゃん、せーこ、きゃのんとか、申し訳ないけどそろそろ苦しいよー、もっと違う仕事があるよー。
 代わりにここを抜けた上級生たちを上手く使ってバリバリ踊るような新場面があればよかったと思うんですよね。まあすっしぃさんの場面(違)はそういうコンセプトだったんでしょうけれど、ダンサーを集めたわりにはそんなにバリバリ踊っている印象はなかったかな…まあプラズマダンサーみたいなのを私が期待しすぎていたのかもしれませんが、うーむ…(ここの振付は謝先生)
 今までの中詰め「そよ風と私」は、いわゆるてんとう虫と呼ばれるお衣装のトンチキさも含めてある種の名物となっていたと個人的には思うので、むしろ続行してもらいたかったけれどなー。代わりに「アマポーラ」をただひたすら歌うだけのやや単調な中詰めになってしまって、優雅だけど眠い印象です。まったり美しくていいっちゃいいけど、ぶっちゃけ退屈では?
 ここでのまかまどのデュエダンも今ひとつ映えないんだよなー。まどかにゃんはこの頭飾りならかつてハナちゃんが着た白銀のダルマでよかったんじゃないかししらん。あと彼女はもっとバリバリ踊れると思うんです、単純に学年だって若いんだしさ。ちゃぴみたいな身体能力とはまた違うだろうけれど、なんかもっと他に見せ方使い方があるだろうと思うのです。岡田先生、生徒の個性が見えてますか? お稽古場やレッスンの様子を観察してくださいましたか? 近年のこの組のショーを観てますか?(><)
 愛ちゃんを娘役に囲ませてずんちゃんが歌う、ってのはよかったです(フィナーレでゆりかちゃんを娘役に囲ませてキキちゃんが歌う、というのも正しい)。でもいいのはそこだけかなー、退団者ピックアップも入れようと思えばこのあたりでやれた気がするんだけどなー…
 「ノスタルジア」は、やっと初演のトップトリオ構成に戻ったことはよかったと思います。まどかにゃんの歌唱力をきちんと生かしているのもいい、ショーでもこういう大人っぽい役どころができると見せられているのもいい。
 でもここも、周りの士官と令嬢をもっと若手でやりましょうよ。だってもうみんな見たことあるもんマジで。飽きるって! まぁみりの間を無表情で突っ切る役どころをまかまどに対しても再び贔屓にやらせていただけた点は嬉しいのだけれど、それでも!(><)
 ロケットも、センターのメンバーにじゅりちゃんが加わったくらいで、他はやっぱり新味はありませんでした。娘役ちゃんなら心ちゃんや夢白ちゃん、男役ならきよにあられ、こってぃと、スター起用が前回までとほぼ同じなんですよね。
 「明日エナ」では、今まで出たことがなかったトップ娘役を出す、というのはいいと思いました。メンバーの数も増えて当然迫力も増しているので、贔屓は最初の板付きからは漏れましたがそれには目をつぶります。ノリノリで踊っているし髪の遊びが増しているし、何よりボタンかけるのが上手くなっているしね! これこそ守り受け継がれるべき伝統の場面なのかもしれません。
 でもフィナーレは…せっかくの新トップコンビのお披露目なんだから、まずデュエットダンスはもっとがっつり踊っていただきたかったです。リフトも欲しかった。銀橋でお辞儀するのがゆりかちゃんだけってのも寂しかったです。
 白燕尾はスタイリッシュでお洒落で、組のイメージを踏襲していてよかったかなと思いました。でもゆりかちゃんとキキちゃんにも、上着だけでも着せ替えてあげたらよかったのでは…?
 パレードは、エトワールにはトップ娘役ではなく別の歌姫をむりやり発掘してでも起用していただきたかったです。組替え直前のショーから連続になるけどじゅりちゃんでもいいし、まいあでもさよちゃんでもいいじゃん。あるいはもっと他に誰かいるかもしれないじゃん、オーディションしたっていいじゃん。そしてまどかにゃんはちゃんとゆりかちゃんの前で階段降りさせましょうよ。ここまで肝入りで100期生の先頭を走らせてきたくせに、なんでここで祝福してあげないの?
 あと、宙組は階段センター降りが毎回本当にしょっぱすぎます。プロデューサーの意向なのかもしれませんが、誰も得楽しくありません。こんなに数を絞るのはやめましょうよ…だってこれだとあーちゃんももえこも今回はめでたいけど、いずれまた外されるんでしょとしか思えないじゃん。あきりくをセンターで降ろしても四番手はちゃんとずんちゃんですよ万人がわかっていますよ大丈夫ですよ、何を気にしているの?
 あ、主題歌がテンポアップしないのでラストの銀橋ラインナップに手拍子が入らない、ってのはなかなかおもしろかったです。その分、生徒が銀橋に出てきたときに自然と拍手がわきましたし、これはこれでいいなと思いました。
 総じて、ロマンチック・レビュー・シリーズはレトロでスローで優雅なところがもちろん持ち味なのでしょうが、過去にはもっと攻めた趣向の作品があったことも知っているだけに、今回はやや手抜き感を感じたというのが本当のところ、かな…それが作家の老いのせいなのであれば、残念ながらそろそろ引退していただいた方がいいかと思いました。新しいことを勉強しない、取り入れないならもう創作家ではありません。再演ありきの企画だっだとしてもゆりかちゃんにはシトラスよりもっと他の似合うものが別にあるやろ!?としか言えないので、シトラス再演ってのが先にあったのならそもそも企画としてしんどかったのかもしれませんが、しかしこれはあまりにも…ううーむ…
 まあ、組やスターの個性なんて考えないビギナーをアテンドする分には、華やかで観やすくていいのかなとは思います。フォーメーションも本当に綺麗ですしね。なんとか通う楽しみを見つけていきたいです。


 では、最後に澄輝日記を。というか暑苦しいネフェルティティ萌え語りです、毎度毎度すんません。
 さて、「歌劇」の座談会によればなーこたんの推しキャラはナキアだそうですが、セットでネフェルティティもかなりお好きなんでしょうね。というのも、普通に原作漫画のどこをどう切り出して舞台化するかだけを考えれば、ネフェルティティなんて全カットしても話はいくらでもまとめられるはずなです。むしろマッティワザやザナンザやルサファやカッシュのエピソードをきちんと拾って扮する男役たちを活躍させて物語を展開するべきなのです。ネフェルティティを出すにしても、あくまでマッティワザの姉として、またラムセスの上司としてのチョイ役扱いでいいはずなのです。それで、ちょっと言い方がアレかもしれませんが、今回でご卒業のゆいちゃんを配する、とかさ。
 でも、なーこたんはこのキャラクターをがっつり出した、終盤だけとはいえかなりの比重で出した。しかも男役に演じさせるということで必要以上のインパクトを出した。それだけここに彼女の萌えがあって、やりたいこと表したいことがあったということです。そんな大役を贔屓は今回仰せつかっているワケです。わあタイヘン。
 なのに、中の人はそれがわかっているのかいないのか、むしろ14年目にして初の女役ということに動揺しまくり、私は行けなかったのですが初日の楽屋入り待ちでは「あんまり見ないでください」みたいなことを言ったとか言わないとからしいじゃないですか、ホントもうテレだとしてもそんなこと言っちゃダメなんですよこういう仕事をしているんだからスターなんだからなんであろうとどんな役であろうと俺を見ろ俺だけを見ろくらい言わなきゃダメなんですよ役の性別なんか関係ないんですよ役者なんだからその役の人生を生きてみせてくれればいいんですよファンはそこを観に来ているんですよ作品の中で与えられたこの役の意味、大きさをホントにわかっていないねもう!?と首根っこひっ捕まえて揺さぶってやりたいくらいです。イヤもちろんしませんけど。こういうこと言っちゃう情けないところも好きなんですけれど。そういうとこ全部丸ごとが贔屓その人なんですけれど。わかっているんですけれど!

 でも、実際に観てみて、本当にいろいろ仰天しましたしこちらも動揺しまくりました。
 まずプロローグね、そりゃ全員集合だろうから出るだろうとは思っていましたがそんなにすぐとは思っていなくて、また探すまでもなく目に飛び込んでくる格好で出てこられて暗い中でのシルエットからもうわかっちゃってギャーッてなってライトが当たってちゃんと見えたら肩が! 腕が! 胸が! 出てる!! ってなって。着るのはアムネリスのお衣装だろうとは思ってはいましたがこの最もド派手な金ピカでくるとは思っていなくて、だけど全然お衣装に負けていない高貴な美しさと輝きを放っていて、もう一瞬でアタマ真っ白になりましたし、あのガチャガチャした(笑)主題歌が一瞬耳に入らなくなりましたよね。
 しかも引っ込んだと思ったらまたすぐ出てくるんだ忙しいなオイ、そのたびにこっちの心臓はヘンな動悸を打つんですけどマジで生命の危機なんでやめてもらえますかね!?と動揺し、一方でこのハケてすぐ出だと裏ではけっこう走ってるんじゃないのでもチョコチョコ小股でしか走れないんじゃないの階段をよいしょよいしょと懸命に上がってるんじゃないのと思うともう愛しくてたまらず、ホントもう大忙しです。あと一緒にいてくれるまっぷートトメスが『王家』のサウフェのお衣装を着ているのがツボすぎますデジャヴすぎます! カマンテだったときソレさんざん並びで見たから!!
 三度目の観劇で心を鬼にしてノーオペラで全体を観たときに、やっとなんとか、場面トータルでどういう構成になっているのか理解できたのですが、最初の出番はとりあえずのメイン・キャラクター総登場みたいなもので、次はキキちゃんラムセスが二番手スターとして銀橋に出たときに本舞台がエジプト・ターンになっていて、そこで女王として一番上のどセンターから登場するワケですね。で、しゃなりと降りてきて、普段から目障りに思っているラムセスをちらりと見やって、上手に移動して、すっと下手に視線を流すと、その先に下手袖から登場してくるマッティワザがいる、という演出なのです。で、ネフェルティティがハケると愛ちゃんマッティワザとずんちゃんザナンザがシンメになってソロパートを歌い継ぐのですが、マッティワザの部分の歌詞は「♪失くした夢と砕けた愛を抱いて」なんですよ。この愛って姉への愛ってことなんですよギャー萌える!
 で、最後にもう一回、全員勢揃いのために出る、のかな? ああ、これだけでライフがかなり削られます…

 そのあとは一時間くらい出番がないんだけど、ルドルフで慣れていますからわりと大丈夫です(笑)。途中、マッティワザやラムセスにかなり悪し様に言われたあとに、わりとスッと涼しげに登場するのがまたツボです。てかアレ、椅子ごとセリ上がっているんですよね? キャー、セリで登場だなんてスターさんみたい!!!(とだんだん壊れていくのですすみません…)
 でもこの登場場面も、よくよく考えるとその直前が子役ふたりの回想場面で、要するにネフェルティティは今も弟マッティワザとの思い出に捕らわれていて、トトメスに胸像を彫らせているのにもかかわらず気もそぞろ…なんですよね。ああ泣ける…てか記憶で勝手に作れとかひどいよ陛下…お仕えしたい…きっとすんごい厳しい、嫌な女主人なんだよ、ううぅ……
 婚約者を連れてきたラムセスとのここの会話は私はめっちゃ好きで、こういう皮肉や当てこすりの応酬がものすごくツボなのです。初日から良かったけれど、芝居として今後さらにより落ち着き深まっていくといいなと思います。でもそれはそれとして王宮の警備は早急に増やしてください(笑)。しかしここも女官たちはスゴツヨだし兵士たちのお衣装はどれかがケペルのときに着ていたものだったりしないの?と、デジャヴが過ぎます、見覚えのありすぎる柄の青い槍よ…!
 形勢不利となるとあっさり国ごとさっさと捨てようとするのもツボだし、さすがにエッとなる周りの兵士や女官たちも可愛いんだけれど、でもキャラクターとしてのこの人の背景はここでもここまでもまったく描かれていないままにものすごい存在感で登場しものすごい勢いで退場しようとして見えちゃうので、原作未読だと中の人ファンでもハテなんなのこの女?ってなっちゃうみたいですね。また、ナキアみたいにわかりやすく悪役とも描かれていないとも思うので、作品の中の立ち位置がつかみづらいキャラクターになってしまっていると思います。全体にちょっと不親切だし、そこを演技だけでなんとか埋めろと役者に言うのは私はちょっと酷だと思います。
 でも、補完する材料はいろいろとあります。ナキアは皇子を産んでいるのでカイルを廃し我が子を皇位につけたい、そして国ごと乗っ取ってやりたい、それがこの国にいやいや嫁してきた自分のこの国への復讐だ…みたいな生き方をしているわけです。そういう意味では野望も希望も未来もある。
 でもネフェルティティには娘しか生まれず、自分の夫の死後に王はすでに三代も替わりました。それでも王太后として君臨し続け、贅沢もし放題だし国政も我が物にし放題、王を王とも思わず人を人とも思わぬ傍若無人ぶりで、王を中心に民を慈しむ国を目指したいラムセスなんかからしたらそらとんでもない悪女、毒蛇みたいな女なんだけれど、でも当の彼女はそういう今の暮らしを別に望んでもいないしましてや楽しんでもいないわけです。だって彼女の心はまだ故国に、弟の元にあるのだから。片方を弟の手に渡して分かれてしまったイヤリングのように、自分の心もふたつに引き裂かれてしまったから。嫁いだ敵国で命さえ脅かされながら必死で生き抜いてきたうちに、疲れて人間らしい温かな心を失いもう片方のイヤリングもいつしか失い、すっかり空っぽになってしまったから。王位を継がせる息子も持たず、夢も希望もなくただゆっくり老いていくだけの日々を送っている、そんな悲しい女なのです、彼女は。だからいろいろ投げやりなのです。
 …ということを、まあ長さとしてはけっこうあるけれど情報量はそんなにないあの台詞を言ううちに演技で見せてみろというのはそらさすがにしんどいだろうとは思うのですよ。でも私は勝手に見られます。中の人にもそのあたりをちゃんと理解してそう演じてほしい。ほっそりしすぎなのは歳をとって痩せてきた中年女にちょうど見えていいというのもあり、それも武器です。年老いてなお美しさを失っていない、エジプト一の美女と言われる女、でも当人はそんなことを望んでも喜んでもいない女…それは、もっと表現できると思うんですよね。

 ナキアとはまた違った形で、ヒロインの前に立ちふさがる女。最後にユーリに捨て台詞のように言う言葉が、それは原作ほぼママなんだけれど、ユーリの立ち位置とか心境とかが原作とこの舞台ではこのときちょっといろいろ違っちゃっているので、その整合性という意味でちょっとスッキリしないのが本当にもったいないです。でも初日は自分がそのあたりに気づかなかった分、最後の引っ込みに拍手を入れたいくらいに感動しちゃいましたけれどね私は。本来なら、これで卒業する別格二番手娘役みたいな生徒(たとえばアリスとか、最近ならわかばとか)がやるような、そして千秋楽に惜別の拍手が客席から入っちゃうような役なんじゃないのコレ!?と震撼する一方で、いやいや実際にそんなだったらむしろかわいそうすぎてやらせられないわ、理想論で未来を語るトップ娘役にやり込められ追われる役まわりなんだもんな、とも考え直しました。でも今の配役なら、あんたにはできるかもしれない、私にはできなかった、老兵は死なずただ去りゆくのみ…みたいな空気が漂うお芝居が成立させられるんですよね。なーこたんはそれを描きたかったんじゃないでしょうかね。だからそれをやってみせなきゃダメなんですよね。

 幽閉されることが決まって、侍女たちが金目のものを持ち出して逃げ去って、それでもトトメスがいてくれて、歴史に残る胸像が後にできて…かつて弟に渡した黒玻璃がユーリを介して戻ってきて、胸像の片目に使って、そしてもう片方は空のまま…泣けます。
 ナキアはそんなでもないのにネフェルティティがかなり大仰な時代劇口調なのは、まあ原作ママでもあるしそれだけ高齢の女性だということの表現でもあるんだけれど、それをたっぷり聞かせる大芝居が今できているかと問われればアレかもしれません。でもこれもできると思う。てかやんなきゃダメ。それくらい大きな役だし大きな機会です。単に女役をやって綺麗で目立ってたねよかったねとか、そういうことではないんです、役者としてスターとして、飛躍のチャンスなんですよ。りんきらアレクサンドラは初日からできていた、うちは正直そこはまだ怪しいかもしれない、そういうところも全部含めて本当にこの人らしくて、最初っから全部できるようだったら今までこうも苦労していないし違うジェンヌ街道を歩いていたことでしょう。それでもそのこの人に今ここで回ってきたこの役なんだから、チャンスなんだから、なんとかものにしていただきたいのです。少なくとも何かをつかんでもらいたらい。そりゃカツラだのドレスだのなんだの大変だよ、不慣れでバタバタしていると思うよ、転んだり大きなトラブルなくやりおおせているだけですごいことですよ、でもそういうことじゃないの。もっとできるはずなの。やんなくちゃダメなの。絶対できるの。信じてるし、それを見たい。見せてやりたい。

 昇天したかと思ったらさらに歌まであるんだから、本当におおごとです。「♪ただひとり生きてきた、苦しみもその罪も私の作ったただひとつの人生」…やっぱここマッティ出てきてあげてよただそこにいてくれればいいよ遠くからぼんやり見ていてくれるだけでいいの、でも微笑んでくれたりしたらネフェルティティだって笑みを返せると思うの…(ToT)もうこのときのマッティワザはユーリと出会いカイルと出会い黒玻璃を手放し違う人生に踏み出しているのだから、もうそう頻繁には姉のことを思い出さない人になっているのでしょう。それでもいいの、ここは幻想の場面なのだから。お願い…
 そもそも配役発表時にはそういうあき愛を想像して悶えていたわけですしね!? なんなら回想場面も子役にやらせず当人同士でやらせますしね!?
 歌のあとはひとりで退場…なんかもう、あとはエルゼリみたいになっていくのかなネフェルテイティは…と、愛が過ぎて作品が混乱する域になって参りましたワタクシ…

 よくよく考えると、役者はどんな役でも演じればいいのに何故役の性別と役者の性別が普通は同一、とされているんだろう?とすら考え始めますよね。まあ外見の問題もあるから同一の方がそう見えやすいし演じやすい、ってだけなんでしょうけれど、男性の役しか演じない男優さん、女性の役しか演じない女優さんというのもそれはそれで不自由な気もします。宝塚歌劇の男役や歌舞伎の女形はそれとはまた違った意味での不自由さを抱えているところがまたおもしろいし魅力でも可能性でもあるわけですが、男役はこうして女性の役も演じることがまあまああるものなので(周りの近い学年の男役がみんなしてお稽古スカートを貸してくれたというのは、みんなそれだけすでに経験を積んでいるということだしとっくにすませている通過儀礼みたいなものでもあるってことなんですよ、なんでこううちの人はいちいちスローというか…イヤ遅いんじゃないんだこの人の場合は、実は意外に頑固で本人が納得しないと周りに何を言われようが受け入れられず前に進めない人なんだって知っている。でもついに機会は巡ってきちゃっんたんだから、やはりとことん戦ってものにして糧にして乗り越えていくしかないんだよ、きっときっとできるよ。だから見ないでくださいなんて言ってる場合じゃないんだよ、と話は戻る)、実は意外と自由度の高い役者なのかもしれません。それって素晴らしいことですよね。もちろん本来男役である人がやる女性キャラクター、ということである種の色を求められたり意外に役幅は狭かったりするのかもしれないけれど、とにかく作品の中でおもしろい存在になることが多いワケですよ。こんな挑戦はなかなかさせてもらえませんよ、できると思うからやらせてもらえているんだし、再三言いますがもっと若い頃にさっさとやっていてもおかしかないのに今までしてこなかった方が問題なのかもしれないくらいだし、でもたられば言っていても仕方ないし今まで来なかったものは来なかったもので今来たものは今来たものなんだからそこでがんばるしかないわけです。がんばれていると思いますし、もっとがんばれるとも思っています。応援しているんです本当に。こんなに口うるさくてこんな言いようで、ホントにアレなんですけれども。
 初日の楽屋出待ちでの弁からすると、みんなは男役としての自分のファンなんだろうからこういう役ってファンをがっかりさせちゃうのかなあ…というようなことを心配しているような節があったのですが、ぶっちゃけグループ芝居で埋もれて目立たない、これまでも何度かしてきたようなポジションの男性キャラクターより、ワンポイントでもキーパーソン女性キャラクターの方がインパクトでかいし新鮮だし普段見られないものが見られるし(肩とか腕とか胸とか)嬉しいし楽しいし期待しているし、それにアナタは十分応えてくれているんだって、なんでみんなしてこんなにこんなに言っているのに伝わらないのか本当に謎なんですが、本当に実は頑固で自分のアタマとココロに染みてきて理解と納得ができないと本当に前に進まない人だと思うので、もうしつこさの限りを尽くして素敵だよできてるよファンだよ大丈夫だよって言い続けます私。モンペ上等。でも褒めてるのは嘘じゃないもん、本心だもん。しかも褒めるだけじゃなくてもっと求めちゃうんだもん。ファンなんて強欲なものですよ、タイヘンな存在なんですよ。でもそういうものに好かれちゃったんだから覚悟して応えてください。今でも綺麗だけれどでもお化粧ももっと綺麗にできるよとか、演技だって深められるよ歌だってもっと良くできるよ、胸元の隙間は夢と希望で埋めようなって言うもん言えるもん言ってるもん言っちゃうもん。ホント、こんなんを相手にするんだからスターさんって大変ですよね。でもそれはいうても上級生、さんざんやってきたことなんだし意外に図太くてあんま荷重に感じていないっぽいのも知っています。だからこっちも甘えて言っちゃうんだけど。今でもお稽古場の隅で泣くこともあるのももちろん知っているけれど、でもそれくらいがんばってほしいから、みんながんばっているはずだから。ホントごめん、でも好きなんだ我慢してくれ通える限り通うから観るから観続けるから!としか言えない。それだけがファンができることだから。他は何も替わってあげられないから。ファンじゃないなら観ないだけのことなんだから。
 ファンを信じて、甘えて、安心して、自分のやりたいようにお仕事をしていただきたいです。それで輝いていてほしい、楽しんで、幸せでいてほしい。おそらく現役のときでしかできない、有限の関係性なのだろうから、関わらせてほしい。好きだから。
 めんどうですみません、だが謝らん。そんな、心境です(笑)。

 …と、ここではホント読んでくださる方が気の毒なくらいウザいですが、実際のお手紙とか発言には一兆倍くらいに薄めているのでそこは安心してくださいね。ポスカなんてせいぜい200字くらいしか書けないし。生徒を不快にさせたりしたくはないと思っているのです、これでも。
 でも、ご卒業する生徒さんは、卒業を発表したとたんに惜しむ声が急に膨大な数で寄せられて、驚くやらとまどうやららしいと聞くので、やはり普段からきちんと伝えなきゃ伝わらないよね、と思うのです。そんなに愛されていたって知ってたんなら辞めなかったよ…なんてことは実際にはなくて、卒業はその方がちゃんと考えた上でそのとき決断したものではあるのでしょうが、やはり寂しい思いや残念な思いはさせたくないじゃないですか。
 誰にでも、卒業のときはいつかは絶対に来るので。そのときまで悔いなく応援しまくりたいと改めて思うのでした。
 というのも、『WSS』のリフ役の発表をぶっ込まれて舞い上がるやらなんやらで忙しい一日だったからです。宙組にしては珍しく早い発表で、しかし本来ならこれが普通であるべきで、でも振り分けだけでなく主な配役まで出していただけたことがありがたいし、そこに名前があることもありがたすぎました。
 ここで何度か書いてきましたが、あきりくバウの夢はそら主演のダンス公演に破れ、まさかそちらにサポート要員として呼ばれることはないだろうけれどキキちゃんが巴里祭かDSをやるのならそちらに呼ばれる可能性はあるな、でも本人が以前から再演を望んでいたんだよ出演させてあげてよ『WSS』に…!とずっと思っていて、でもチノとかドクとかだとアレだしなとか贅沢なことを考えていたのです。リフで本当に本当に嬉しい!
 だってあんまりアピールさせてもらえてないけど、歌えますから踊れますから! 『NW!』だってなんとかしてみせたワケじゃん。イヤなんともなってなかったよと言われたらそれまでなんですけれど。
 ど金髪にして北欧系の移民かな?って見えるくらいにしちゃうのもいいですよね、どんどん冒険してほしいなあ。そしてやんちゃで無謀な熱い不良少年を楽しく演じていただきたい。絶対にできます。
 まかあきってのも嬉しすぎます。ここには扉がありますよみなさん…!
 ゆいちゃんが卒業しちゃうけれど、ヴェルマはエビちゃんのママかな? ならあきエビも堪能できちゃいますね。
 あの大評判だったそらのあとにアニータをできる・やらせられるのはずんちゃんしかいないと思っていましたし、愛ちゃんベルナルドも楽しみすぎます。周りも少し変わってくるとさらにおもしろいでしょうね。
 ワクワクしながら、しかしマンハッタンの前にまずはヒッタイト、エジプトに通いまくりたいと思います。お芝居では早くも多少の改変があったとうわさに聞きますが、改善されていくならいいことです。見守りたいと思います。
 いつにもまして長くて、失礼いたしました。懲りずにまたいらしてくださいませ…

 




コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かしらかしらご存じかしら? ~遅れてきた私の『少女革命ウテナ』論~

2018年03月13日 | 日記
 しつこく少女漫画の話からしますが、そんなワケで私はさいとうちほに関しても通らないままに育ってきたワケです。大人になって仕事で読んでいいなと思ったのは『花冠のマドンナ』や『花音』あたり? きちんとリアタイしたのは最近完結した『とりかえ・ばや』くらいでしょうか。これは鉱脈を引き当てている気がしましたね、次の新作も楽しみです。それまでは、人気がある息の長い作家であることも知っていたし流麗な絵柄か美しいしロマンチックでドラマチックな作風で素敵で、でもなんか意外に萌えや情熱が感じられないというか、手慣れて器用に描いてしまっているだけでもの足りなく感じることがあるというか…私にとっては、残念ながらそういう漫画家さんだったのでした。
 『少女革命ウテナ』についても、どこかで一度読んでみたことはあったと記憶しているのですが、ファンタジーでも全然いいんだけれど私には世界観が把握できないというか作品内ルールがうまく解読できない印象で、「よくわからん…」という認定をした気がします(今アニメ版と比べて読み返してみると、漫画版の方がだいぶ整合性があると思われるのですが。あとあたりまえだけどアニメより作画ブレがなくてイイ)。その後も、テレビアニメや劇場用アニメともども一時代を風靡したらしい、ということは知識として認識していても、世代じゃないしなあ…という思いで棚上げというかなんというか、にしていました。
 でも去年、テレビアニメ20周年ということでイベントがあったりなんたりと世間的な盛り上がりがあって再びちょいちょい私のセンサーに引っかかってきて、しかもフェミ的にあれはそれこそ革命的だったのではみたいな話がチラホラ聞こえてくるにつれ、勉強してみたい、というかむしろ単に気になって仕方がない!と無視できなくなり、そこへ優しく心広く歳若いリアル世代のお友達がいたので、甘えてコンプリート・ブルーレイ・ボックスをお借りするに至りました。
 たまたま時間にも恵まれてほとんど三日間で一気見みたいなことをしたら、恥ずかしながらまあこれがハマりにハマりましてですね! 合間に新装版コミックスも再度読んだりしたのですが、これがまたある種のバージョン違いなんだけどアニメ版を上手く補完してくれているようでもあり、でもイマジネーション先行のアニメ版にワケもわからず溺れること含めて、本当に「エウレカ!」だったのです!!
 企画としては、さいとうちほ含めビーパパスという集団の創作したもの、という知識はありました。ちょうどゆうきまさみが仲間内で企画ごっこ遊びとして始めたものがヘッドギアとしての『機動警察パトレイバー』として結実したような?みたいなイメージはあったのです。当初は単に男装した美少女戦士グループが悪の組織と戦う、みたいな企画イメージだった時期もあったそうで、そら単なる『セーラームーン』の亜流みたいに思われても仕方ありませんよね(ちなみに私はセラムンもちゃんと勉強できていません。いかんですよね…(><))。でもそこからみんなしていろいろディスカッションして紆余曲折あって取捨選択していって、それでもあふれるドリームやイメージはあまり理屈づけせずにいい意味でそのまんまにして、かつ進行的にもけっこう行き当たりばったりでやった部分もあって、そうしてあのテレビシリーズ全39話になったんでしょうね。
 創作活動って本当にダイナミックで不思議なものです、狙って傑作が生まれるとは限らない。でもスタートになんらかのこうした熱い情熱がなければ、それは決して生まれないのです。幾原氏のどこにどこから何故、最初のこの情熱が芽吹いたのでしょうね…? それもまた不思議です。
 主人公が女子中学生であり、漫画版が小学校四年生を読者ターゲットとした「ちゃお」に連載されたことからもわかるように、アニメ版もメイン視聴者ターゲットは小学生女児だったのでしょうね。実際にはもう少し上の世代も見ていたのかもしれませんが。しかしすごいよなあ、よくこんな話数を完遂できたよなあ。周りの普通の大人からしたらホント、ナゾ企画だったと思うけれどなあ。
 今でも愛されている作品であることは明らかですが、でもたとえばこれが『エヴァ』なんかと同じ熱量で語られ論評され評価されているか?と考えるとどうもそうでもない気がしますし(私が知らないだけかもしれません、すみません)、それこそが男女格差の表れなんじゃないの?それこそ世界が未だ革命されていないことの証なのではないの?と思ってしまいます。遅れてきたファンとして、だが遅すぎるということはないはずだ、このままにしておいてはいけない、少なくとも私のハートが納まらない!と愛用のポメラに熱く向かってしまったのでした。
 豊かなイマジネーションに彩られた作品でもあり、いちいち解釈したり理屈をつけたり言葉にして語るのは野暮なのかもしれませんが、私はこうしないと消化できない質なのです。よかったらおつきあいくださいませ。ちなみにネタバレはしていますが、あくまで私なりの解釈で書いたものでしかないので、興味ある方は是非ゼヒ一度ご覧になってみていただきたいです。今だと配信とかもありますしね。
 当時のリアル視聴者は今は30代前半の世代でしょうか、当時はどんなものとしてとらえていたのかな、今また見直すことはあるのかな、どんな大人になったのかな、彼女たちの胸に根付いて咲く薔薇はあるのかな、それはどんな香りを放っているのかな、輝いているのかな…そんなことにも、想いはせたり、します。

 さて、私は自分自身が性格的には男っぽいというか、少なくともあまり女らしいタイプではないのだけれど、外見的にはたとえば髪が長かったり(面長でショートが似合わないこともあり、また日々のセットが要らないからという無精な理由にすぎないのだけれど)胸が大きい方だったり自分のお尻があまり好きじゃなくてパンツよりスカート派だったりするので、そういう意味では女っぽいと思っています。男になりたいと思ったこともないし、来世は男に生まれ変わりたいと思ったこともありません。いろいろ面倒ではあっても、女である自分が意外に好きなタイプの人間です。また残念ながら(?)性的志向としてはヘテロセクシャルなので、ジャンルとして根強くある、男装するユリ少女、とかにずっとピンと来ないでいました。てかそれはユリじゃなくてトランスジェンダーの異性愛じゃんね? 私も女子は好きだけど、たいていの女は好きな男以外の男は嫌いで女の方がむしろ好き、というヤツです。だからウテナに関しても、ビジュアルのぱっと見とかそこから受けるイメージだけからすると、どう解釈していいのかよくわからないでいました。
 でも改めてちゃんと見てみると、この作品の主人公・天上ウテナは、確かに男子の制服を着ているんだけれど、それは活発で活動的でスカートが邪魔だからズボンを履きたい、というだけのことなんですね。胸をつぶしたりはしていないし、髪も長い。なのでこれは厳密には男装とは言えないのです。
 また彼女は「王子さまになりたい」と公言してはいるのだけれど、それは「男の子になりたい」という意味ではないんですね。一人称が「ボク」なのもなんというかおそらくたまたまで(これまた私事ですが私は弟がいたためにものごころついて最初の一人称は確か「お姉ちゃん」で、その後「わたし」と言うのがなんかすごく恥ずかしくて思えて、ひととき「ボク」と冗談めかして自称していた時期があったので、男になりたい、男として扱われたいというのとは違うんだ、というのは理解できるのです)、男の真似をしているとか、男になりたがっているとかではないのです。「こう見えてもボクは健全な女子なの、健全な男子にしか興味ないの!」と自らごく初期に明言してもいます。「普通」「健全」という表現には問題があるとわかっていますが、ここではあえて台詞のママに引用します。これがのちに心折れたウテナがセーラー服を着てきた回で、「そんなの、ウテナの”普通”じゃない!」という若葉の台詞につながる部分もあるので。
 彼女は女の子のままで王子さまになりたいと言っているのであり、この場合の「王子さま」とは「大人になっても強さ、気高さを失わない人間」ということであって、実は男だ女だという性別とは無関係の、人間としての在り方、生き方の問題です。「守られるお姫さまよりも、王子さまになりたい」と言う彼女はだから、周りに親切で義に厚く情が深く、だから人気者なのです。それは男女問わずに対してであって、女の子のみをただむやみと庇護しようとするようなものではありません。誰に対してもまっとうに向き合おうとするまっすぐな人、それが天上ウテナなのです。
 彼女はかつてとある男の子に出会い、彼が王子さまに見えて、彼が今の強さと気高さを失わなければいつかまた会えるよと言って去ったので、彼女としてはただ守られるお姫さまとして王子さまを待つだけでもよかったのかもしれないけれど、彼にあこがれるあまり自分も彼のような王子さまになりたいと思うに至った、ちょっと行動的な、でも至って普通の女の子だったということです。だから王子さまになろうとしつつも王子さまを愛し続けていて彼との再会を待ってもいる、そういう意味ではいっぷう変わった女の子なのかもしれませんがあくまで異性愛者なのであり恋に恋する少女であり、女の子が好きな女の子であるとかそういうことではないのでした。
 それがわかったら、この作品のこの主人公像が私にはすんなり理解できたのでした。

 そんなウテナがひょんなことから出会う姫宮アンシーですが、これまた以前の私がよくわからないと感じたのは、まずは名前です。
 たとえば「ウテナ」という名前は「蕚」とか「台」を単にカタカナ表記しただけだろうからやはり日本人の名前なのだろう、ウテナは日本人なんだろうと思えるからいいとして、「アンシー」という名前は明らかに外国語なんだけれどでは彼女は日本人ではないのだろうか? またアンジーならエンジェルの愛称だろうけれどアンシーとは聞かない名前で、たとえばエレンとかキャサリンとか、なんでもいいんだけれどとにかくメジャーな欧米圏の名前ではないようだけれどではいったいどこの国の人なんだ?ってところにまずつまずきました。
 漫画版では肌にトーンが張られているんだけれどこれは黒人だとかそういうことを表しているんだろうか、外国人だとしても何故白人ではなく褐色?の肌の人種設定なんだろうか。それは何を表しているのだろうか、なんの記号なんだろうか?ということが解読できなかったのです。
 またメガネっ娘というのは一般的には地味であるとか優等生であるとかいう記号なんだけれど、彼女はどうもそれに当たらないような…ということにも混乱させられたのでした。
 でも、たとえば漫画版を読んでみると、こちらはディオスと暁生の設定がアニメ版と違うというか膨らませてあることもあって、この兄妹(と一応しておきますが)は外国人とか異人種というより異星人というかむしろ異世界人、なんなら神?というような種族?のキャラクターなので、そういう特殊さの記号としての肌の色なのかもしれないな、と思えました。SFで青とか緑の肌色の異星人とか出がちだけど、ソレ?みたいな。
 また名前に関しては、ハイ・ファンタジーではシーないしシーリーとは妖精種族のことで、アンシーリーは悪い妖精のことです。たとえばそのあたりから想起された名前なのかもしれません。
 またアニメ版はそういう神様めいた色合いはあまりないんだけれど、逆にやはり単純に外国人というか、単にこれが日本だけの話ではなくダイバーシティとか多様性というか、すべての人種の女の子たちの物語なのである、ということを表現しているのかな?とも思いました。コミックスの巻末おまけにあったさいとう先生の初期ラフなんかを見ると、そうした意味づけより単に『機動戦士ガンダム』のララァあたりからなんとなく、みたいなイメージも覗えるので、厳密にはあまり意味はないのかもしれません。でも私はそう解釈することで一応納得がいったのです。
 メガネに関して言えば、優等生の亜流イメージである参謀、もっと言えば悪の参謀、黒幕、みたいな記号から来たものなのではないかな?と、アニメ版の特に終盤、メガネが光って目の表情を見せない、素顔や本心を明かさないという演出から感じられました(だからやはりメガネのない劇場版はいろいろ違うと思うのだ…!)。
 何より、地味でおとなしいキャラクター、という記号としてはとてもわかりやすいです。しかして彼女はおとなしいどころか実は空っぽの生き物だったのですが、これはそこから始まる物語であり、私はこのふたりのキャラクターの記号が解読できて初めて、ストーリーのスタートラインに立てたのでした。

 そんなわけでウテナはアンシーと知り合い、彼女が邪険に扱われているのに憤慨して、事態に巻き込まれていきます。彼女は王子さまとしてお姫さまのアンシーを守ってあげたいと思う一方で、ごく単純に女の子同士として友達になりたい、と思ったのです。同性愛要素はまるでなくて、むしろこれはシスターフッドの話、女子同士の共闘の話、女の子の居場所を巡る物語なのです。守られるだけのお姫さまとは自分がなってしまったかもしれない姿であり、でもそれがなんの自主性もなく空っぽでいることを見過ごせず、ちゃんとしよう、させようとする。そんなウテナと、それを受けるアンジーの物語…その構造がつかめたとき、私の違和感や拒否感は雲散霧消し、俄然おもしろく感じてこの作品にのめり込み出したのでした。

 ウテナは西園寺がアンシーをいいように扱うのに怒って生徒会だの決闘だのなんだのに関わり始めたわけですが、当のアンシーは「薔薇の花嫁」を名乗って平然とエンゲージ相手の言いなりになっています。自己主張がなく心がなく、空っぽなのです。ウテナはそんなのはおかしいと思うわけですが、ではアンシーをそうさせてしまっているものはなんなのか、「薔薇の花嫁」とはそもそもなんなのか、デュエリストとは、薔薇の刻印の指輪とは、「世界の果て」とは…ということで、ウテナはアンシーを今の状態にさせているこの世界そのものに対して戦いを挑んでいきます。アンシーが自身の意思も持たずただ「薔薇の花嫁」としてだけ存在するようなこの世界はおかしい、人は人であるべきだ、男であろうと女であろうと人としてきちんと立たなくては、世界が人にそうさせないというのならそんな世界は革命で変える必要がある…という流れです。実にちゃんとしてますね! 決め台詞は「今こそ示せ、世界を革命する力を!」。ここで「革命する」という聞き慣れない動詞を持ってきたことがまた素晴らしい。
 これはウテナがアンシーと友達になろうとする物語です。ひとりの女の子がもうひとりの女の子の居場所を作ろうとする物語、と言ってもいい。決してこのふたりが恋愛する話ではなく、だからユリではなくてシスターフッドの話なのです。
 でも、ウテナが戦うものは生徒会メンバーだったり「世界の果て」だったりするのだけれど、それがイコール「男」とは言いきれないところもまたミソなのです。ウテナが戦い殻を破ろうとし革命しようとする世界とは実は、結局アンシーその人だったりもしてしまうのです。アンシーは単なる守られるべきお姫さまなどではなく、王子さまたろうとする主人公のパートナーにして戦う相手そのもの、ラスボス、というものすごい構造になっているのです。そして確かに女自身が、女を差別するものを助長していたり依存していたりそこに安住していたりすることって、ある。ウテナはそういうものとも戦うことになるのです、だからフェミなのです。
 王子さまを助けた女を魔女と呼んで排斥した世界とは、魔女になってまでも王子さまを独占しようとした女と表裏一体でもあったりする。アンシーは空でありかつすべてであろうとしている。ウテナはそんな彼女に、それじゃダメだよ、それはムリだよ、そうではなくてただ自分自身でありさえすればいいんだよ、と訴えたかったのではないでしょうか。ヤダ、「ありのままに」と先取りだったのか!?
 暁生たち男たちが求めるディオスの力とは、権力といったもののことなのかはたまた核兵器とかそういったものの暗喩なのか、それはわかりませんが、ウテナはそんなものを望んだことは一度としてありません。ただ、アンシーと友達になりたかった、彼女と共に輝きたかっただけなのです。だから彼女が最後に叩いた門はアンシーが隠れ住む柩になったのです。そしてアンシーはついに目覚めて、ウテナに手を伸ばしたのでした。これこそ革命だったのではないでしょうか。
 アニメ版最終回で、学園はウテナを忘れ暁生たちもまたそのままだったとしても、アンシーは彼の元を去り、ウテナを探して旅立ちます。暁生が再び誰かを薔薇の花嫁に仕立てて同じことを繰り返すのだとしても、それと次に戦うのは残された私たちなのです。私たちこそが世界を革命せねばならないのです。アンシーはそこから抜け出した、ウテナの革命はなされたのです。
 ウテナがアンシーを見つけた、今度はアンシーがウテナを見つける。そこでまったく逆の形でまったく同じことが繰り返される…のでは、ありません。これはそんなグルグル話ではない。アンシーがウテナを見つけて、そこから紡がれる物語はまた別の話であり、次のステージに進化したものであるはずです。だって世界は革命されたのだから。
 けれど私たちにはその物語は語られない。私たちはまだここにいて、この世界を革命せねばならないからです。次のステージに進化したウテナとアンシーを追うために、いつかそこにたどり着いて共に輝くために、世界を革命して新たな世界を創造するためにこの『少女革命ウテナ』という想像の物語は存在しているのです。
 想像の先は私たちが創造するものなのです。今こそ示せ、世界を革命する力を!

 ウテナは女の子だろうが、男の子に恋をしようが、お話の途中で処女でなくなろうが、強く気高くあり続ける。そしてアンシーと関わり、友達になりたいと思った。彼女の幸せを願い、行動した。その優しさ、共感性の豊かさこそが人としての「気高さ」なのではないでしょうか。でもそれが普通にできることが「王子さまだから」とされる世界はおかしい。それは単に人として普通のことであるはずだから、性別とは関係ないはずだから。なのにそれをわざわざ「王子さま」とする世界は、実はウテナと同じく強く気高くもあるアンシーを、王子さまを守ったのに魔女と呼び空っぽの薔薇の花嫁として利用しようとした世界と同じくらいおかしい。女を花扱いし、脇役にし、その尊厳を認めず、不当に貶める世界はおかしい。だからそんな世界は革命する。これはそういうお話です。
 そして世界とは単に男のことではなく、アンシー自身を含む女をも含めた世界丸ごとのことです。男も女も世界ごと革命されなければ、次のステージへ進化できないということです。
 これは単なるユリ作品ではないし、フェミ作品ですらないのかもしれません。実は性別は問題ではなくて、あくまで人間の尊厳の物語だからです。でもそれをさいとうちほのザッツ・少女漫画の絵柄で、この主人公とこのヒロインの物語としてあえて展開したところがミソ。そしてあくまで女子向けに、もっといえば女児向けにテレビアニメとして製作したところがミソ。
 そんな奇跡的な作品なのだと思います。樹璃があんなにも求めていた「奇跡」は、実はここにあったのではないでしょうか。

 奇跡、永遠、輝きというキーワードに心震えました。
 またリミテッドアニメの無限の可能性にも。宝塚歌劇、舞台を意識しているというのも今考えるとおもしろい。あの印象的すぎる挿入歌が、そもそも演劇の音楽だったとは…!
 それから、メイン・キャラクターではないかもしれないけれど、若葉と七実というこのふたりの女性キャラクターの存在意義もとてもとても大きい、と思っています。

 劇場版『アドゥレセンス黙示録』はまたバージョン違いと言いますか…私にはオトナのお遊び版に思えました。女児は映画館に行かないもんね。予算その他ビジネスとして大きくなっていて、ちょっとテーマがブレている気がしたのです。
 ショートカットにして胸をつぶしているウテナは私にはウテナじゃないし、髪を結わずに下ろしていてメガネをかけていないアンシーはアンシーではないと私は思う。車は男子アイテムだからアキオカーはよくても、ふたりがこの世界の殻を破る手段として選ぶとは思えない。何よりユリの話ではないはずなんだから、ふたりが裸で抱き合う必要性などあるはずがない…
 なので、ちょっと「ムムム?」なのでした。
 
 新作舞台も上演中で、こちらは好評のようですね。でも私は日程的にもう行けそうにありません、無念!
 また「月刊フラワーズ」にさいとうちほの新作漫画が掲載中で、こちらはもうすぐコミックスにまとまるそうなので、また読んでみたいと思っています。
 とりあえずサントラCDとか欲しいなー、もう流通していないのかなー。音源DLとかはできるのかな、進化できてなくてアナログ人間ですみません…
 ともあれ、出会えて本当によかったです。少女たちよ、自分のために咲く薔薇たろう。この「少女」とは女の子たちのことだけではありません。「青少年」が若き男女をまとめて呼ぶ言葉だというのと同じ辞書で、性別問わずにただ若き男女に「少女たちよ」と私は呼びかけたいのです。
 少女たちよ、自分のために咲く薔薇たろう。周りがそうさせないというのなら、そんな世界を革命しよう。今こそ示せ、世界を革命する力を!

 



コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする