駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『ANOTHER WORLD/Killer Rouge』

2018年06月30日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚大劇場、2018年5月4日13時。
 東京宝塚劇場、6月28日18時半。

 大坂の両替商「誉田屋」の若旦那・康次郎(紅ゆずる)が目覚めると、そこは「あの世」と「この世」の境にある幽明境の花園。実は康次郎は高津神社で出会ったどこの誰ともわからぬ嬢さんに一目惚れし、向こうもこちらを憎からず思っていると知るも、純朴ゆえに声もかけられないまま思いを募らせて寝込んでしまい、嬢さんが菓子屋「松月堂」のお澄(綺咲愛里)とわかるも、すでに彼女は自分への恋患いの末に身罷っており、それを知って自分も悲観の果てに「あの世」に来てしまったのである。せめて「あの世」で結ばれようとお澄を探し始める康次郎だが…
 作・演出/谷正純、作曲・編曲/吉崎憲治。落語の「地獄八景亡者戯」「朝友」などを散りばめたRAKUGO MUSICAL。

 楽しく観ました!
 私は笑いに厳しいというか素直じゃないというか、「コメディです」とか言われると「ホントにおもしろくなければ笑ってなんかやらないんだからな!」と身構えてしまうという、可愛くない人間です。まして落語には縁がなく、話がわからなかったり早口の関西弁が聞き取れなかったらどうしよう…とまあまあ後ろ向きに出かけたのでした。
 が、最初に吹いたのはなんのときだったかなー。康次郎と喜六(七海ひろき)とのしょーもないやりとりに対して、だったか、徳三郎(礼真琴)の「本当に死んだ女はいない」に対してだったか、とにかく一度素直に笑っちゃってからは、さてこの珍道中はどんな顛末になるのないな…と楽しく観ていけたのでした。
 谷先生の自由な作劇もいいなと思いました。最近流行りの決まりきったグランド・ミュージカルふう演出とか舞台転換とかとはまた違う舞台の進み具合で、でも確かにこれもまた宝塚歌劇だしミュージカルだし、舞台って本当にいろいろできるんだなと感心させられました。渡し船も歓楽街も冥土のスターやラインダンスも美人座もおもしろかったし、来年の話をして鬼を笑わせて勝つとか、鬼すら「鬼婆」と呼んで恐れる母は強しとか、いいアイディアだなと思いましたし素直に感動しました。はるこの使われ方も素敵でしたしね!
 ま、私は東西で一度ずつしか観ていないような非組ファンなので、贔屓がいる人からしたら、康次郎ご一行以外は意外と出番が少ないとか後半からしか出てこないとかの不満はあるのかもしれません。でも、何せみんなが総じて楽しそうにやっているように見えましたし、恋患いで死んだり現世がつまらないから死んだみたいな人に言われたかない気もしますが「命あっての物種だ!」みたいな結論は気持ちがいいので、よかったんじゃないでしょうか。
 谷先生の落語ものは出来が固いですよね。というかある程度原作があるのがいいんでしょうかね。ネモはなんだったんでしょうかね…というかこれで定年退団なんじゃないのという噂も耳にしますが、どうなんでしょうか。今こそ『秋…冬への前奏曲』を少し手を入れて再演していただきたいのですが、叶わないのかしら…

 タカラヅカ・ワンダーステージは作・演出/齋藤吉正。
 『シト風』にしょんぼりしていたあとに観たときには「いいなーっ!」としか思いませんでしたが、雪の『ガトボニ』も観てきた今となっては、あちらの方が好みかな…でもまあ、このザッツ・サイトーショーは今の星組のカラーに合っていると思いますし、台湾でもウケそうなのでいいんじゃないでしょうか。
 ただ、私が齋藤先生の選曲の趣味が合わないというのもあるけれど(西城秀樹と「薔薇は美しく散る」しか知らなかったし)、外部の既存の曲って意外に一本調子に聞こえたりするし、なんせまこっちゃん以外にいい歌手がいないもんだからどの曲もメロディラインも歌詞も不明瞭でノリきれない…という問題点もあったとは思いました。
 スター起用も一本調子でしたよね。『ガトボニ』ではたとえて言うならみっきぃとオレキザキが歌ってれんれんとまいけるが踊る一場面、とかシンキワミの左右にはるこなっちゃんあんるおとねりらいーちゃんとりさんかとりーぬを並べる銀橋、とかがあったんだもん。
 逆にれなちゃんの餞は残念ながらやりすぎだったのではないでしょうか…プロローグのセリ上がりと、フィナーレの群舞前にとりさんと踊ったりベニーと絡んだりしただけで十分だったのではないでしょうか。銀橋ソロ一曲歌って渡るほどの歌唱力は残念ながらないと私は思いましたし、そんな場数を今まで踏ませてこなかったじゃん、無理だよ今になって急にこんな扱いしてもさ…とその意味で泣きそうになりましたよ私。
 新公主演もバウのダブル主演もしているけれど、これまで決して扱いは良くなかったじゃないですか。路線として扱われたことも別格スターとして遇されたこともなかった、なんとなくずっとまおくんとコンビでただ置かれていただけじゃないですか。スタイル抜群でノーブルなムードがあっていい生徒さんだったと思うんですけれど、組がスターに育てきれなかったんだろうし、本人の性格的にもガツガツ前に出るタイプじゃなかったんだろうなと思うといろいろ悔やまれます。お茶会にはずいぶん前に一度行ったきりでしたが、ホントゆるくて可愛かったなー…
 というか最近このあたりの学年の生徒が卒業するたびに「うちのときは…」と考えないではいられないわけで、そしてうちならこれくらいしてもらってもええやろとか歌もっとちゃんとしてるやろとか思うのでむしろそういう扱いが来ないことの方を恐れているのですが、ともあれバランスというものはあるワケで、今回は私にはとにかく破格すぎに思えてぽかんとしちゃいましたし、ある程度組ファンでもそう感じるのではなかろうか…と、勝手かつ余計なお世話かもしれませんが私は心配になりました。つーか餞に何か、なんてもっと上品にやるものでしょう…そんなんなら卒業されちゃう前にもっとなんとかしてやれよ、とも言いたいしさ。

 ともあれ、ベニーがキラキラしていてあーちゃんが可愛くてまこっちゃんが上手くて、かいちゃんが美形でせおっちが垢抜けてきてしどりゅーに華が出てきてぴーすけがいい滝汗でシンキワミがとにかく可愛いので満足でした。あとはるこ大活躍! もちろんくらっちもなんでも上手い、たまらん!!
 と楽しかったので、満足です。台湾も行きますよ!!!




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劇団扉座『リボンの騎士』

2018年06月29日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 座・高円寺、2018年6月27日19時。

 県立鷲尾高校演劇部はほぼ女子だけの弱小演劇部。しかし今回の作品は手塚治虫の漫画を部員の池田まゆみ(吉田美佳子)が脚本化した『リボンの騎士』。おりしも暴力沙汰で取りつぶしが決まった応援団から、リーダー部長の男子(この日は白金翔太)が王子様役で参加してくれることになった。だが次々と襲いかかる困難に、部員たちは打ちのめされていき…
 脚本・演出/横内健介、原作/手塚治虫、振付/ラッキィ池田、彩木エリ。神奈川県立厚木高校演劇部で16歳のときに処女作を書いた横内健介が、進学校のショボい青春という実体験をベースに書いた戯曲で、1998年初演。今回は劇団の若手、研究生を総動員し、オーディションも開催しての何度目かの再演。サブタイトルは「県立鷲尾高校演劇部奮闘記2018」、全2幕。

 実はこの作家さん、まさに高校の先輩でして、8学年差なのでほぼほぼ同世代と言っていいでしょう。でも今まで死ってはいましたが観たこととがなく…この作品は新聞で紹介されていたのを読んで、学校名が架空のものになっていますがほぼ母校のことだろうしでも世代としてはむしろ『ブラック・ジャック』か『火の鳥』のはずなんだけどどういうことなのかなまさかミュージカルなのかな?とかいろいろ興味がわきまして、なら観ておくか!と出かけてきました。
 おもしろかった! おっくうがって見送らなくてよかったです!!

 もともと『リボンの騎士』の劇化を考えていて、それを高校の群像劇の劇中劇みたいな形にして仕上げた戯曲のようですが、それで正解だったと思いますし、舞台って、演劇っていろいろ制約はあるけれど工夫次第で本当になんでもできるし、その工夫も含めておもしろがれるもので、魅力は尽きないものだなあと改めて思いました。
 たとえば装置転換とか主役たちの着替えタイムのためとか、ダンス同好会(リーダーの彩木役はKAHO)がちょいちょい出てきてガンガン踊ったりするんだけれど、単に暗転するよりいいしアイキャッチ的にも効いているし、彼女たちの現代的なダンスがややダサくてモサい演劇部の女子たちといい対比になっているんですよね。そしてラストにはちゃんと彼女たちがチアリーディングをやる! コレ大事です!!
 いや、作者が高校生だったのは40年前、私が高校生だったのは30年前で、そしてこの作品そのものはガングロっぽいメイクした生徒がいたりつい一週間くらい前の流行り言葉が台詞に取り入れられていたりインスタを駆使する生徒がいたりと微妙にアップデートされている、というかいつの時代の高校生活でもあるように見えるように作られているとは思うのですが、しかし応援団があって対のようにチアリーディング部があった時代に私は生きていたので、そこはダンス同好会なんかじゃダメだしブレイクダンスとかじゃダメなんですよ絶対に!(笑)
 あと、この作品は正確にはミュージカルではないとは思いますが、ファンタジーとかドリームとかパワーとかを表現するためのダンスナンバーがあって、それもとてもよかったと思いました。役者さんってホントなんでもできないとダメだよねえ…

 『リボンの騎士』はヒロイン・まゆみの母親が愛読していた漫画で、母親は漫画家を目指していてプロのアシスタントもやっていて、でも結婚を機に断念し、けれど娘にサファイアのイラストを描いてやったりしていて、そこに並んで娘をキャラクター化したものも描いてあげて、それでまゆみはサファイアと親友のようなつもりで育った…という設定なのですが、きちんと説明されてはいないのだけれど(彼女が「池田まゆみ」だから「けだま」というあだ名で呼ばれている、というのも全然説明がなくて、私はかなり後半まで気づけず混乱しました…こういう愛称の付け方ってわりと近年のものですしね、おばちゃんですまんのう)、まゆみはハタキを剣に模してチャンバラをやっちゃうような男勝りのお転婆娘だったようですし、それで母親はサファイアと並べて娘を描くときに「まーくん」というキャラクターにしたのかな? それでサファイアたちはまゆみのことをそう呼んでいるのかもしれません。
 そういうジェンダーの問題とか、母親の世代は結婚でキャリアをあきらめることがあったけれど自分はがんばりたい、みたいなモチーフとか、まゆみは脚本も書くんだけれどヒロインも演じてみたいと思うとか、でも親友で美人でずっと主役をやってきたトーコ(加藤萌朝)がいて、役争いに敗れて…とか、そんなトーコはモテモテなんだけど実はちょっと男性嫌悪症みたいなところがあって…とか、ホントいろんなモチーフがあるお話で、みんなすごくおもしろかったです。かつ、変にライトでもまたディープでもなく、変に感動的にしたり説教臭くしたりもしていないのがいいなと思いました。
 当初私はこれは構造的にはまゆみトーコのユリだろうとか思ったものでしたが、実際に描かれたドラマはもちろんもっと広く深く、けれどトーコが部活に戻ってきたときにまゆみが「おかえり」と言ったのには「お、『おさラブ』…!」と思って悶えましたし、ファーストキスが舞台上で好きでもない男子となんて嫌だから、とトーコがまゆみにキスしちゃうのにはホントきゅんきゅんしました。でもそれがまた「男性作家が勝手に少女たちにドリームぶつけやがって」とかは思わなかった。役が人間として成立していて、役者がちゃんと役を生きていて、とても自然で好感度が高かったからだと思いました。
 あと、トーコも牧内くん(山中博志)も家庭の事情に振り回されていて、ああ高校時代ってそうだった、親の意向とか経済状況とかにまだまだ左右されちゃう子供だった、ってことも思い出しまして、泣けました。一般生徒たちのシラケ具合とか、生徒会長(山川大貴)の能吏な感じとか、部長の中里さん(小笠原彩)のおかんっぷりとか、三年生なのに引退せず部活にいる花本先輩(伴美奈子。初演でも同じ役だったそうな…! すごい…!!)とか、なんかもうみんなわかる、わかりみがすぎる…!って感じで、でもそれは別にこの時代のこの高校に通った者でなくても、高校生だったことがある人には多少とも肌で感じられるんじゃないかなと思いましたし、もちろん今の高校生にも伝わるだろうと思いました。
 そういえばさすがに客層が若くて観劇に物慣れない空気が開演前の客席にはめっちゃ漂っていて、ああ出演者の友人だから来たみたいな子たちばかりなんだろうなとややうんざりさせられるくらいのはしゃぎっぷりも見えたし、開演しても最初のうちはわざとらしくウケたり笑ったりするのには本当に閉口したのですが、すぐにみんな芝居に集中し出して余計な反応をしてみせなくなったことには感心しましたね。やはり伝わるものがちゃんとあるんだと思います。

 『リボンの騎士』チームは一貫して芝居の中では浮いていて(笑)、でもしっかりとそのキャラクターたちであり続けるのですが、サファイア(砂田桃子)がちゃんと宝塚ふうというかやや大仰なブルーのシャドウのメイクをしたり立ち姿も踵合わせてすらりんとしていたりしていたのに対し、フランツ(松本旭平)は気を遣っている感じは特にしなくて、ホントそういうところだぞ…!と思いました。長身なのはいいけどさあ、ホント男って…イヤある程度わざとなんだと思うんだけれど…
 というか実は私は『リボンの騎士』をきちんと読んだことがなくて(それを言うならアトムもレオもちゃんと読んだこととがありません。教養としては押さえておいたしかるべきものなのかもしれませんが、リアルエンタメの世代としては本当はズレているんだと思うんですよね…)、何度か連載されているので基本的な設定ややっていることはほぼ同じでもいろいろストーリーラインがあるような知識はあるのですが、こういうハッピーエンドになる話なんですか? 天使のミスだか悪戯だかで男の心と女の心を両方持ってしまう、だか心が入れ替えられてしまう、だかだったと思いましたが、しかしものすごい設定ですよねえ…でもこれでトーコと中島くんの間に恋が芽生えるとか、中島くんとまゆみの間に恋が芽生えるとか、そういうんじゃないのもよかったです。
 個人的にはヒロイン争いに敗れたまゆみがジェラルミン大公(高木トモユキ)の胸で泣くところにうっかり泣きました。悪役に慰められる作者とは…!
 あとヘケート(河北琴音)がキュートでとても印象的でした。

 いい意味でも悪い意味でも小劇場っぽい戯曲をあえてやっているんだろうな、とも思いましたが、とにかく楽しく観たので差別する気はまったくありません。いろいろもっと観ていきたいな、と思わさされました。いい経験になりましたし、同窓として励みになりました。もっと観てもらえるといいなー!



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フォースター『モーリス』(光文社古典新訳文庫)

2018年06月25日 | 乱読記/書名ま行
 凡庸な少年時代から、モーリスは自分の願望を知ってはいた。ケンブリッジ大学の学舎で知的なクライヴと懇意になり、戯れに体が触れ合ううち、彼の愛は燃え上がる。クライヴもまた愛の言葉を口にするが…欲望のままに生きることが許されない時代に生きる、青年の苦悩と選択を描く。

 映画に関しては大昔に見たことがある…気でいたのですがあのポスタービジュアル以上のイメージが浮かばず、話もまったく覚えていないので、単に知識として存在を踏まえているだけにすぎないのかもしれません。30年ぶりの新訳が出たということなので原作小説をきちんと読んでみようかな、と手に取ってみたのですが、こんな話だったんだ!?という新鮮な驚きに打たれ、また著者はしがきや解説、訳者あとがきなどによる丁寧な経緯説明からいろいろ勉強できました。
 この小説の執筆が1913年から14年にかけてなされていたにもかかわらず、同性愛がイギリスの法律では1967年まで犯罪とされていたために、フォースターの死後の1971年まで刊行されなかったこと、1987年製作のアメリカ映画が興行的に成功したのちに日本でも広く知られるようになったこと…100年かけてやっとここまで、とも思い、またまだまたやっとここなのかとも、どちらの感慨も受けました。
 いいなと思ったのはこれがハッピーエンドの物語で、フォースター自身もそこはこだわって書いていたと知れたことです。こうしたジャンルの作品はどうしても悲劇的な結末に終わるものが多く、それは神から下される罰みたいなイメージからどうしても逃れがたいから故なのかもしれませんが、近年になってやっとそうでもないもの、異性愛となんら違いのないひとつの恋愛の帰結として幸せな結末を描かれるものが現れてきたことを寿ぐ言説を私は最近よく見ていましたが(もしかしたら『おっさんずラブ』もそこに当てはまるのかもしれません)、こうしたものが以前からちゃんと存在していたのだ、同性愛が口にするのも憚れるほどの罪とされていた時代においてもこうした結末の物語が書かれていたのだと思うと、なんだか勇気が湧いてくるように気がするのでした。
 内容自体は、古いというか、くだくだしいというか、不明瞭でわかりづらいというかで、萌え萌えで読めるBLっぽい読みやすさやわかりやすいストーリー展開みたいなものはなく、かといってものすごく文学的で哲学的で高尚だということでもありません。著者が、作中人物に自身を投影しないようにと努めるあまりに、キャラクターが変に露悪的だったり愚鈍に描かれていたりして好感度が低くなってしまっているのももったいない気がしました。でも作品の成り立ちとしては仕方がないところもあるのでしょうし、終盤の鮮やかさは胸がすくようでした。これは映画化なりなんなり、誰かが手を入れて蘇らせたくなるよな、と思いました。
 訳注はちょっとうるさいなと感じました。でも『インドへの道』も読んでみたいなと思わせられました。また別種の差別問題に直面させられるかもしれませんけれどね。

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『グッド・バイ』

2018年06月23日 | 観劇記/タイトルか行
 中野ザ・ポケット、2018年6月21日19時(初日)。

 妻と子と穏やかに暮らすため、田島周二(池下重大)は絶世の美女・永井キヌ子(大空ゆうひ)を引き連れて、愛人たちに別れを告げにゆく…死の直前に書かれた太宰治(池下重大)の小説『グッド・バイ』を元に、妻・津島美知子(原田樹里)、愛人・太田静子(永楠あゆ美)、共に入水自殺を図った山崎富栄(野本ほたる)など、次々と浮かび上がる現実の女性たちとのグッド・バイ。そして人間・津島修治(大空ゆうひ)はどのように作家・太宰治になり、この世とグッド・バイせねばならなかったのか…
 原作/太宰治、脚本・演出/山崎彬、美術/土岐研一、音楽/岡田太郎。未完の遺作『グッド・バイ』を巡る、もうひとつの物語。全2幕。

 私は近代文学に疎くて、お恥ずかしながら太宰も全然読んだことがなくて、著名な作品のタイトルとだいたいのあらすじ、自殺未遂やら心中事件やらをたびたび起こして最後は妻でない女と死んだこと、本名が津島修治であること、くらいの知識しかないままに臨みました。
 初めての劇場でしたが、密な空間でよかったです。でも雨の効果音がまあまあ大きくて、後方席だと台詞が聞き取りづらかったのでは?とはちょっと心配になったかな。
 それはともかく、めっちゃおもしろかったです! 今年上半期ももうすぐ終わりますが、今のところのマイ・ベストかもしれません。というか単純に好みでした。『ラスパ』が再演されている今この時期にこうした作品に出演している大空さんの大空さん感たるや、脱帽です。
 作家の人生と、作家本人をモデルにしたような主人公が登場する作品世界とをそれぞれ交互に展開する、しかもその二役は同じ役者が演じる…というのは演劇の趣向としてはよくあるとは思うのですが、切り替えが見事で、ちゃんと違っていてでも当然似てもいて、観ていてとてもスリリングでおもしろかったです。
 田島周二が愛人たちと手を切るために妻だと偽って連れ歩くキヌ子は、絶世の美人だけれどわがままで口が悪くて大喰らいで守銭奴です。そして実際の太宰にはそんな女はいない。だからキヌ子は、太宰のドリームというか田島の半身というか、な存在なのです。だからふたりはいつもわあわあ口喧嘩しても離れないし、それは痴話喧嘩のようにも独り言の応酬にも見えるのです。そしてそんなキヌ子を演じている大空さんが(真紅のドレスと濃い化粧が似合うこと! 舞台上でバクバク焼き鳥やらコロッケやらを食べる様子の愛らしいこと!!)、二役で津島修治を演じている、というのがおもしろいのです。作家・太宰治としてデビューする前の太宰、太宰というキャラクターを得る以前の太宰ってことです。
 この、大空さんが津島修治を演じる、という情報は事前にあって、男役をやるってこと!?みたいなときめきと興味もありましたが、実際はそういうことではありませんでした。声を低くするようなこともなかったし、男っぽい仕草をするとかいうことでもなかった。強いて言えばお酒の飲み方、グラスの持ち方に『カサブランカ』のリックの姿が一瞬よぎったくらい? ともあれ、シャツとズボンみたいな男装にはなりますが、胸はあるままだし髪も長いままで、声も低くしたりはしていない。もちろん子供時代の場面も演じるから、というのもあるけれど、なんかもっと素の、性別以前の、あるいは人間以前の、頼りない妖精のようでもある美少年というか美青年というか…に化けたのが、ものすごく見事だったのでした。役や役者の性別になんの意味があるんだろう?とかまで思っちゃいましたよ、いやホント。
 そして、キヌ子だった大空さんが舞台上でその化粧をガシガシ落として、素顔になるようでいて津島修治になっていく…それを見せちゃう演出が本当にスリリングでぞわぞわして、おもしろかったです。
 太宰は田島、田島はキヌ子、キヌ子は修治、修治は太宰。すごい。
 そうしてあぶり出されていくのは、いかに母・夕子(異儀田夏葉)に愛されなかったからだろうと乳母・たね(荻窪えき)に甘やかされたからだろうと女中・トキ(春山椋)に初恋を抱いたからだろうと、太宰ってサイテーの男だなってことです。最初の妻・初代(中西柚貴)がいようとあつみ(飛鳥凛)と心中事件を起こしかつ相手だけを死なせ、二度目の妻・美知子を持ちながら秘書の静子を孕ませ、あげくに富栄と心中する…
 そのどこにも真実の愛はないように私には見えたけれど、8人の女たちの中ではやはり妻の美知子が立てられているようにも見えたので、なんだ結局は妻なのかよケッ男の劇作家が作る話だな、とか思いながら観ていました。私が、強いて言うならば自分は静子タイプっぽいというかこういう恋愛をしそうだな、こういう立場になりがちだなとか思えたから、というのもある。イヤ妊娠も結婚も心中もしたことないんで知らんけど。
 それはともかく、ではそれでこの芝居はどうオチるんだろう…と行く末を見守っていたら、太宰と富栄の心中場面で、太宰は相手に目をそらすな、俺だけを見ろみたいなことを言うんだけれど、観ていて私は「でもおまえは目をつぶるんだろう、ホント卑怯な男だぜケッ」とか思っていたのです。そうしたらそれまで太宰を見つめていた富栄が、最後の最後に目をそらしたんですよね。そのままふたりは入水したんですよね。もう喝采を上げたい気分でした。
 もちろん巻き込まれた富栄を哀れに思う、というのはあります。でも太宰が最後に女に背かれたこと、そもそも最初の心中相手も最後に太宰ではなく夫の名を呼んだこと、が本当に痛快でした。男だからって甘えんな、誰からも選ばれないってことだってありえるんだよざまを見ろ、ってな気持ちになりました。
 だから自分で自分を選んで、生き続けるしかないんじゃん。偉大な文学者だかなんだか知らないけど逃げてんじゃないよオイコラ、と思いました。読んでいないのにすんません。
 からの、ラストシーンに、胸打たれました。太宰の仕事場を拭き清めて、すべて片付けて、そして何かに頭を下げる美知子。それは妻の姿というよりはむしろ、この世のすべてのものにふと感謝する女の姿、に私には思えたというか、ああ、これは恋の話、さまざまな恋の話だったのだな、と私はなんかすとんと腹落ちしたのです。イヤいろんな解釈がありえるのでしょうが。
 あざやかでした。すがすがしかったです。どんなにサイテーな、どうしようもない男と女でも、恋の花は咲いてしまうしそれは美しいものなのだ…とでも言えるような。少なくとも私はそんなことを感じて、いたく感動し、心からの拍手を送ったのでした。

 女優さんがみんなお若くてそれぞれに美しくかつタイプが違いかつみんな上手くて、とてもよかったです。てか静子さんてじゅまちゃんだったのね! 驚きでした。
 そんな中でおそらくかなり年上であろう大空さんの、でもその浮き世離れっぷりとでもまあまあ年月噛みしめてますからみたいな存在感、年季の入りっぷりやキャリアのある感じもとてもよかったと思いました。大空さんの出演作への審美眼は信頼しているけれど、これは劇の方からしてもこれはいい、正しい起用だったんじゃないかなと思いました。
 先日男優さんとキスシーンを披露したばかりなのに今度は女優さんとやらかすのかな!とか萌えたのはナイショです。てかホント新たな扉をバンバン開いてくれる人だよね…

 いろいろ忙しくて初日しか観られませんでしたが、きっちり仕上がっていたし、わかって観ても楽しかったろうからもう一回くらいは観たかったかな。公演期間が短くて、関西にも行かないのは残念です。
 本当におもしろい作品でした。浸りました!






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宝塚歌劇月組『雨に唄えば』

2018年06月22日 | 観劇記/タイトルあ行
 TBS赤坂ACTシアター、2018年6月16日15時(初日)、20日18時半。

 映画がまだ音も声も持たなかった頃。1927年、ハリウッドでは無声映画が黄金時代を迎え、スターたちが栄光目指してひしめき合っていた。中でも映画ファンのあこがれは、モニュメンタル映画の看板スター、ドン・ロックウッド(珠城りょう)とリナ・ラモント(輝月ゆうま)。スクリーンで夢のようなラブロマンスを繰り広げるふたりは、実際にも恋人同士だと噂されていた。しかしそれはふたりの人気を煽るために宣伝部がでっち上げたゴシップだった。にもかかわらず当のリナまで自分はドンのフィアンセだと思い込んでいて、ドンはほとほとうんざりしていた。ドンを元気づけるのは親友でピアニスト兼作曲家のコズモ・ブラウン(美弥るりか)。かつてふたりはボードビルの舞台で歌い踊っていて、有名になった今も友情は変わらないのだった。そんなある夜、プレミア上映会のあと打ち上げパーティーに向かう途中で、ドンはたまたま居合わせた女性と恋人を装ってファンをやり過ごすが…
 演出/中村一徳、翻訳・訳詞/高平哲郎、音楽監督/西村耕次。1952年製作のミュージカル映画を元に1983年ロンドン初演で舞台化。宝塚歌劇では2003年に星組、2008年に宙組で上演。全2幕。

 映画はテレビで見たことがある…と思うのですが主題歌くらいしか記憶になく、宝塚版もどうも映像でも見た記憶がなく、近年の外部版も来日版も生で観たことがないままの観劇でした。
 初日は、退屈しました。とにかく大味に感じたのです。古い作品だから仕方ないのかもしれませんが、ナンバーがどれも長すぎて感じられ、場面としての密度が足りないと思いましたし、芝居というか台詞が足りてなくてキャラクターたちが全然立ち上がっていないように思えました。ドンは単なるチャラ映画スターで嫌な男に見えかねないし、キャシーもファンのくせに素直じゃなくてこれまた嫌な女に見えかねず、コズモはただのお人好しでなんなのこの男?って印象…リナがキュートかつ憎たらしいこととだけはわかりました。
 二度目に観たときには、さすがに生徒が芝居を埋めてキャラクターを生き生きと立ち上げていて、楽しく観られました。しかし基本的に脚本・演出がしてあげていい仕事はもっとあると感じましたよ? そこは、もっとどうにかしてほしかったです。

 いちいちつっこんでいくと、まず冒頭の、プレミア上映に訪れるスターとそれを待つファン、その熱狂の様子をラジオでレポートする芸能記者、ファンを押さえる警官…というのはまったく同じ場面が『ヴァレンチノ』にもありましたね。こちらが本家なのかな、それとも他に何かもっと有名な元ネタがあるのかな…つーかマユミさんの盛大な無駄遣いじゃね?
 ドンとコズモは子供の頃からの大親友でボードビルから銀幕のスターへ…ってのはわかるけど、なんでスターになったのはドンだけでコズモは裏方みたいなことをやっているんでしょうかね? おそらく原作に特に設定がないからそのままスルーなんだろうけれど、なんか欲しくないですか? ま、たまみやのタップが小粋で素敵だったからいいっちゃいいけど…よく鳴っていました。
 しかしドンとキャシー(美園さくら)との出会いのあたりから、ライトでアメリカンなハッピー・ミュージカル…にしたいのはいいとして、でももうちょっと説明してくれるか台詞でキャラクターの人となりを描いてくれないと、役者も芝居のしようがないし上滑りした話になりかねなくないかい?と私はちょっと不安になったんですよね。総じてここまで、ナンバーがいちいちちょっと長めで話が進まず、退屈していたのです。現代に再演するならもっとタイトに作ろうよ中村B、あと演じるのは日本人で観るのも日本人なんだから完全にライトでアメリカンなんて無理だよ、もうちょっとこまやかに手を入れようよ中村B!
 ドンは人気絶頂の大スターで、本人もちょっと調子に乗っていて、周りは自分のファンばかり、自分はどんなことをしても許される、特に女子に対してはね…くらい思い上がっている、でも根は悪い人間じゃないしまして極悪非道なプレイボーイでもない、本当は真面目な好青年なんです…というのを、演じる珠城さんのニンに任せてしまうのではなくて、ちゃんと台詞とかエピソードで見せなきゃダメですよ。でないと、いきなりキャシーを抱きすくめるとか、ぶっちゃけ暴行ですよ犯罪ですよそんなの。ファンの目を逃れるため、なんて都合なんざ知ったこっちゃないし、そんなんで正当化されていいことではないですよいくらアメリカン・ラブコメでも今、ナウ、こんなにもMeToo運動が盛り上がらない日本でも今、再演するならさ。こんな男、キャシーは引っぱたいて警察に通報して裁判起こして刑務所に突っ込んでこの話終了、ってなったっておかしかないところなんですよ。そんな馬鹿な行為をタカラジェンヌに、トップスターにやらせるとか、やめていただきたい。
 キャシーは、実はファンすぎるくらいにドンのファンで、でも普通の女の子たちよりちょっとだけ気が強かったりあまのじゃくだったりそれこさ自尊心があったりするするから、ファンなんかじゃない振り、彼の人気や業績を認めていない振りをするのでしょう。そしてそれは、似たような役似たような作品ばかり量産していることにちょっと不満や不安を感じているドンにとってとても図星で、だから彼は動揺し困惑し、かつ彼女に惹かれていくんだけれど、そういうことをもっと丁寧に描いてほしいのです。今のままだと伝わりづらくてもったいないし、そんなんじゃ作品としてダメですよ。カテコでるうさんは、サイレントからトーキーへの移り代わりの中での映画人の葛藤や鬱屈みたいなものも描かれている作品で…みたいなことを言っていましたが、そんなの全然なかったじゃないですか。全然読み取れませんでしたよ。生徒は必死で描き出そう醸し出そうとしていたけれど、もっと台詞やエピソードがないと絶対的に無理ですよ。別にどシリアスにしなくてもウェットにしすぎなくても、悩む人間を描くことはできるんだよ中村B? なんでもっと丁寧に人間を、ドラマを、ストーリーを描かないの? こういう手抜きはやめていただきたいです。
 ドンは、今ウケているからといってこんなんで人気になっていいのかな、この人気はいつまで続くのかな、いずれ飽きられちゃうんじゃないのかな、でも他に自分に何ができるのかな…とか、考えたことがないはずがないんですよ。そこをキャシーに、映画スターなんてカメラの前でポーズを取っているだけの「影」にすぎず、やっていることは演技でも芝居でもない、舞台役者こそ本物の俳優だ…みたいなことを言われてグサッとなるんじゃないじゃないですか。で、キャシーは自分は舞台女優だしブロードウェイの舞台が自分を待っている、みたいなことを嘯く。ドンの映画なんか一本かそこらしか観ていない、あんたなんか知らない、と強がる。それでドンはさらにグサグサくる。
 でも本当はキャシーは単なる女優の卵にすぎず、バイトのショーガールみたいなこともやっているし、実は芸能誌を何誌も読み込むくらいの映画ファンで、しかも歌えて踊れて、それでドンも惹かれていって…ってのが可愛いんじゃんおもしろいんじゃん。そういう部分をもっときちんと脚本して、演出として描いてほしかったです。
 サイレントとトーキーについても、私だって知識程度しかないし若い観客にはなおさら、「映画に音がないってどういうこと???」と意味不明でしょう。もう少し丁寧に描写してもよかったと思います。そして、映画スターたちは顔には自信があっても声や発音、訛りにコンプレックスを持っている人間が多く、だからトーキーを歓迎しなかったのだ、ということも説明しないと、彼らが何を何故嫌がっているのか今の観客にはもうそろそろピンとこないと思うんですよね。こういうケアが雑で、潤色・演出の仕事をしていないんじゃないの中村B!と私は思ってしまったんですよ。
 あと、私が普段見ているのがミュージカルだからか、サイレントからトーキーへ、ってなると必ず「ミュージカル映画を作ろう!」ってなるんですけれど、別に映画に音が入れられるからってすぐさま歌や踊りを取り入れる必要はなくない? 台詞だけで、つまりスターの肉声が聞けるってだけで十分じゃない? なんですぐミュージカルになるんだろう? ミュージカル作品の都合??
 ともあれ、ドンはボードビル出身だから歌えるし踊れる、でもリナは声が悪くて滑舌が変なばかりか、実は芝居ができない踊れない歌えないの三拍子揃いで、トーキーどころかミュージカルなんてとても…という流れなんですが、ではなんでリナは大女優なんかやってられるんですかね? どうやら実家がお金持ちなのか、撮影所の所長まで顎で使うところがありますし、金にものを言わせてのワガママお嬢様、ってことなのかもしれないけれど、他に誰かいないの? なんでゼルダ(叶羽時)じゃダメなの? 本当に本物の絶世の美女ってことなの? でも今、そうは演出されていませんよね? このあたりもあまりきちんと説明されていないんですよね。
 でも観客はみんなまゆぽんが好きだからさ、リナが可愛く見えちゃうわけですよ。ちょっとくらい声がヘンでも音痴でも可愛いからいいじゃん、がんばってるじゃん、ってなっちゃいかねないんですよ。でもそれじゃダメでしょ? 話としてはリナが悪役ポジションになんなきゃダメなんだから、何がどう迷惑で困ったちゃんなのかもっとちゃんと描く必要があります。そこが甘い。
 それに、リナの吹き替えをキャシーにさせる一方で、歴史物部分は劇中劇にして外枠をドンとキャシーでミュージカルに仕立てたんじゃなかったの? その部分を実際にドンと、たとえば緑のドレスの女(麗泉里)とかのダンス・ナンバーにして見せていたんじゃないの? それともそれはコズモの企画の中でだけだったってことなの? その部分もリナが金にものを言わせて編集でカットさせたんだったことなの? 結局このプレミア上映会にかかった映画にはキャシーの名は出ていないということ? そのあたりがなんかよくわかりませんでした…
 キャシーも、夢はもちろん女優になること、スターになることなので、ドンに協力できるとかデビューのきっかけになるなら嬉しいから、裏方の吹き替えを一度は引き受けるけれど、それで満足なわけじゃないし、ただ利用され続けるだけなんて嫌だ…という部分があまり説明されていなかったと思います。もっと気が強い、言いたいことははっきり言うキャラクターにしないと、今はただのいい子に見えて、吹き替えが嫌だと言い出すのが唐突に見える気がするし、それを無理矢理やらせるドンがひどい男のように見えかねない気がしました。事実、ここでふたりの恋に亀裂が入りかけるワケですからね。
 でもそこには実はドンとコズモの魂胆があって、リナのこともあまりの横暴をちょっととっちめるくらいで、徹底的に恥をかかせて女優生命を絶とうなんてことじゃなく、とにかく真実の公表とキャシーの実力のお披露目をしたかっただけで…というあのラストの「ちゃん、ちゃん」に持っていってみんなが笑って大団円、となるにはいささか流れが雑で、本当にもったいなく感じました。生徒がものすごーくものすごーくがんばって、力業でそう見せてはいましたけれどね。
 2幕はことにミュージカル・チックでよかったし、楽しいダンスナンバーも多いし(しかしやはり長いかもしれない…)、ドンとキャシーのラブラブパートとかホントきゅんきゅんするんだけどなあ。
 あとれんこん監督がいい味出してた! ヤスくんの休演は残念でしたねえ…
 毎回、なんでもそうですが生徒はがんばっているだけに、またいい原作を引っ張ってこれているだけに、仕上げが雑でもったいないんだよ!と思いました。もちろんこれから千秋楽に向けて生徒が埋めてくる部分はあるとは思うんだけれど、最初に脚本でしっかり埋めてやるべき部分がもっとたくさんあったろう、ということは重ねて言っておきたいです。今後も再演していく財産演目として考えているなら、なおさらブラッシュアップとアップデートが必要だと、肝に銘じていただきたいです。

 そんな中で珠城さんは、また新たな魅力を発揮していたのではないかしらん。チャラい、という部分も上手く出していたと思うし、実は生真面目な好青年ってのはほぼ地だし、キャシーに対する包容力や誠実さや愛情深さもたまりませんでした。
 しかし、私はこの人のやや不安定な、というか出きらない音があるんだよねーという歌唱を愛してはいますが、ザッツ・正統派ミュージカルだっただけに、もう一段階の進歩は感じたかったかなーと思いました。ま、次の『エリザベート』でみっちり絞られてください。
 さくさくは、もっともっともーっとはっちゃけられるといいのにな、と思いました。新公ヒロインもバウヒロインもきっちり務めてきているのに、別箱ヒロインにはやはりプレッシャーを感じちゃっているのかなー、もっとできるはずなのになーと思いながら観ていました。以前に比べたら痩せたし垢抜けたし可愛くなりましたよね、進化していると思うのです! 私は以前からわりと好みだったんだけれど、ちょっとおばちゃんぽく見えたりトークが本当に雑だったりでヒヤヒヤしたこともあったのです。でも本当に娘役力がついてきたと思うし、先日初めて参加したお茶飲み会が本当に楽しくて、ちゃぴの後任に決まっても私は全力で応援するよ!と思っているところなのです。がんばれ!!
 みやちゃんにはやや役不足にも思えたコズモでしたが、こういう「主人公の親友」って以外に何もないようなお役をきっちり演じてチャーミングに見せるところはさすがの力量でした。
 そしてリナまゆぽんはもちろんMVPだし、フィナーレで男役になって黒燕尾で踊るところもよかったし娘役を従えて踊るところも素晴らしかったです。
 ぐっさんは手堅く、ぎりぎりとぱるは華があって、せれんくんとてらくんがイケメンで、残念ながら休演が多いのですがみんながんばっていました。さらに小芝居が深まっていくんだろうなー。
 フィナーレもとても素敵でした。傘でキスを隠すの、ベタだけどお洒落ですよね!

 あ、あとひとつだけ苦言を呈するとすれば(しつこくてすみません)、1幕ラストの土砂降り場面にタップの音を録音で流していたと思うのですが、そんな姑息なことはいらないよ!と強く強く言いたいです。上手いタップダンスが観たいならそういう公演に行きますよ、宝塚歌劇ファンは宝塚歌劇の舞台にそんなものは求めていません。珠城さんドンが歌っていて踊っていてタップをちゃんと踏んでいるのは観ていればわかります。でもあの床あの音であんな音が鳴るわけないじゃん、そこに音が流れるだけでみんな嘘になっちゃうじゃん。余計なお世話なんですよ。リズムとして置きたいのならもっと音楽に振ればいいじゃん、ホント興ざめしました。他のタップシーンではちゃんと靴と舞台の音を拾って流していたように聞こえただけに、残念です。






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