駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

エル・コシマノ『サスペンス作家が人をうまく殺すには』(創元推理文庫)

2023年02月28日 | 乱読記/書名さ行
 売れない作家、フィンレイの朝は爆発状態だ。大騒ぎする子供たち、請求書の山。誰でもいいから人を殺したい気分だったが、本当に殺人の依頼が舞い込むとは。レストランで執筆中の作品の打ち合わせをしていたら、隣席の女性に殺し屋と間違われてしまったのだ。依頼を断ろうとしたのに、なんと本物の死体に遭遇して…一気読み系巻き込まれサスペンス。

 あまりいい邦題とは思いませんが、状況はわかりやすいですね。おもしろかったです。
 私は子供が苦手なので、シングルマザーの苦労話とかをされても「…はあ…」と引いちゃう感じなのですが、シッターのヴェロニカとのバディものになってから俄然おもしろくなりました。あと、ニックよりジュリアン派だったのでそれも嬉しかったです。
 しかし貧乏も夫の浮気もヒロインのせいではないとはいえ、産んだなら子育てはちゃんとしてほしい…とはヒヤヒヤしたのでした。デリアがおしゃまながらしっかり育っているようだからまあいいし、ヴェロが有能だからフォローされたとはいえ、虐待と言われるレベルと紙一重なのでは…とつい厳しく感じてしまうのです。もちろん妻との家庭を放棄した夫が圧倒的に悪いのですが。だからラストについては…イヤまあいいか。
 しかしこういう巻き込まれ系のお話って、主人公はいうてもギリギリ手は汚さない、法律違反するにしてもかなりカワイイものだけ…というのが定番ですが、このヒロインはけっこうきわどいことをやっている気がしましたね。さすがアメリカ、ダイタンだなー、みたいな感想もあるし、みんな悪役のマフィアに被せちゃっていいんかいな、この世に正義はないのか!?みたいな気持ちにもなりました。が、一難去って…みたいなオチとヒキになっていて続編、続々編まであるとのことなので、どこかで多少の収拾がつけられるのかもしれません。報いを受ける、とまでは言わないけれど…でもそこまでダークヒロインに成長してもおもしろいかもしれませんけどね!? 翻訳されたら読みたいなあ、忘れないうちに早めに出していただきたいです。
 ヴェロはもちろんジョージアなど、周りのキャラも掘り下げ甲斐がありそうないい感じだと思うので、良きシリーズになるなら素敵だなと思いました。オススメ!



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新国立劇場バレエ団『コッペリア』

2023年02月27日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場オペラパレス、2023年2月25日13時。

 がらんとした白い町。娘たちは衛兵たちに夢中になっている。舞台上手手前のバルコニーに、見慣れぬ若い娘が扇で顔を隠して座っている。スワニルダ(この日は柴山紗帆)は恋するフランツ(福岡雄大)に語りかけるが、フランツはバルコニーの娘から目を離さない。そこにコッペリウス(中野駿野)が登場し、スワニルダに目を留める…
 振付/ローラン・プティ、音楽/レオ・ドリーブ、芸術アドヴァイザー・ステージング/ルイジ・ボニーノ、美術・衣裳/エツィオ・フリジェーリオ。指揮/マルク・ルロワ=カラタユード、管弦楽/東京交響楽団。芸術監督/吉田都。1870年パリ・オペラ座初演、プティ版初演は1975年、新国立劇場初演2007年。全二幕。

 タイトルもだいたいのあらすじも知っていて、でも初めて観る演目でした。有名な曲が多く、「この演目の音楽だったのか!」と思ったり。モダンなセット、くすんでシックな色味のお衣装、キャイキャイしていてキュートでコケティッシュな振付、おフランス!って感じでとても楽しかったです。休憩込み2時間で終わるコンパクトさもいい。そしてとてもいろいろ考えさせられました。
 コッペリウスはこの版では燕尾服姿のりゅうとした紳士だけれど、それでも若者たちからは年寄り扱いされてからかいの対象になっている感じなのでしょう。実際にはそう年寄りではないのだろうけれど、若者たちは若くないというだけで嘲笑の対象にしていいと捉えるのです。これが若者たちだけのことなら若さゆえの愚かさ、でまだいいのだけれど、町ぐるみで彼を村八分にしているならそれはマイノリティ差別を表しているのでしょう。今回はそういう描写は特にないけれど、結婚もせず人づきあいもせず家にこもって何やらに勤しんでいる変人だからいじめていい、みたいなのは要するに同性愛差別みたいなものと直結しているイメージなんだと思います。
 コッペリウスは年甲斐もなく(という言い方もまた年齢差別なんだけれど)スワニルダに恋をしていて、その似姿として人形コッペリアを作っている。だからコッペリアの顔は本当はスワニルダにそっくりなんだけど、扇で隠されているから、フランツは覗きたくてたまらないわけです。そこには恋人の顔があるだけなのに。そしてそんなフランツの態度にスワニルダはおかんむりになる…
 二幕、コッペリウスがコッペリアと踊るダンスのなんと美しく悲しいことか! ここはくくりつけられてグニャグニャしなるぬいぐるみみたいなお人形になっているのであたりまえなのですが、コッペリアの足はコッペリウスの足にぴたりとくっついて一糸乱れぬステップを踏みます。ペアダンスの理想です。しかしそんなことは人形にしか無理なのでした。やがてスワニルダがコッペリアの振りをしてコッペリウスと踊り、酔いつぶされたフランツをスキを見て救おうとします。そのドタバタのおもしろさ。
 コッペリアが人形だったと知って、やっとスワニルダと結婚式を挙げるフランツ。ふたりの喜びの踊り、祝う娘たちや騎兵たち。そこへ、スワニルダにドレスを奪われて裸の哀れな姿になったコッペリアを抱えて、コッペリウスがよろよろと現れる。私にはスワニルダは、コッペリウスに激励と祝福のキスをしたように見えました。人形はコッペリウスの夢、創作、物語、それはいい。でも私に似せないで、私はお人形じゃないの。生きた人間なの、勝手に偶像にしないで、崇めて愛したりしないで。私は対等な存在としてフランツと愛し合っているの、あなたはあなたの愛を探して…と。スワニルダは自分そっくりの人形を作られて当初こそ怒ったり気味悪がったりしていたかもしれませんが、おちつけば、そして自分が結婚して幸せになればこういうまっとうなことが言えるんだとも思います。大人になったのでコッペリウスを笑わない、でも言うべきことは言う。
 でもそれで、コッペリアはバラバラになってコッペリウスの足下に散らばります。暗転。再度明かりがついて、呆然と悲嘆に暮れるコッペリウスを再度見せて、暗転、閉幕…
 悲しい、愛しい。泣けました。スワニルダの想いもコッペリウスの想いもわかります。その意味ではフランツは徹頭徹尾しょーもない若者のままで心配ですし、男とはそうしたものと容認したくはないけれど、おそらく若くない男が作った作品として若い男はこう見えるということでもあるのでしょょう。それは男が心配してくれ。私はスワニルダの自立や成長を寿ぎます。そしてコッペリウスに同情し自分を見、しかし「生きねば。」と思います。
 紫式部だって現実の人間をモデルに光源氏や藤壺を書いたのだけれど、作品がそれを超越して素晴らしく仕上がったから許されたわけです。その域までいけばそれは彼女の物語で、千年を超えて読み継がれ愛され心を寄せられる強き物になる。コッペリウスの人形は、コッペリアは、その域には達していなかったということですね。あまりにもスワニルダに似ていて、しかし現実の彼女ではなく、ヘンに理想化され、ただ愛玩されていた。それはスワニルダに忌避されて当然で、彼女には怒り人形を壊す権利があると私は思います。こういう安易な「創作」は忌避されるべきなのです。
 でもこの『コッペリア』という物語は、バレエとしては作られてまだ150年しか経っていないかもしれませんがもとになった伝承はもっとずっと古いものだろうし、この美しく悲しい普遍的な物語になったことでやはり千年の時を超えることでしょう。千年後にも人類が存続していれば。あるいは滅亡後にどこかの知的生命体が感知し愛好してくれるやもしれませんが。それとも通じないかな…

 柴山さんは代役デビューということでしたが、キビキビと気持ちよく、楽しげで、問題なかったです。嫋々とした踊りなら多少ぐらついても雰囲気で流せるかもしれないけれど、こういう踊りはスパンと角度が決まらないと美しく見えないと思うので、テクニカルなことがしっかりしているのはとてもよかったと思いました。福岡さんものんきな町の王子っぷりをのびのびやっている感じでよかったです。しかしフランツは板付きだからまだしもスワニルダ登場にも拍手が湧かず、しかしコッペリウス登場には湧くんだなーおもしろかったなー。ラインナップもラストの登場でした。カップルがまだお辞儀しているところに出早のように現れて、どうぞどうぞと待ってからゆったりセンターに出てみせたのが最高にお洒落でした。
 楽しかったなー、また観たい演目です!







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『アンナ・カレーニナ』

2023年02月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターコクーン、2023年2月24日13時(初日)。

 1870年代後期のロシア帝国。美しく魅惑的な社交界の華アンナ・カレーニナ(宮沢りえ)は、著名な政府高官の夫カレーニン(小日向文世)とひとり息子セリョージャ(石田莉子)とともにサンクトペテルブルクに暮らしていた。ある日、モスクワをひとりで訪れたアンナは、駅で若き将校ヴロンスキー伯爵(渡邊圭祐)と出会う。アンナはヴロンスキーからの強烈なアプローチを拒絶し続けるが、自分の心を偽ることができず、ついに…
 原作/レフ・トルストイ、上演台本・演出/フィリップ・ブリーン、翻訳/木内宏昌、美術/マックス・ジョーンズ、照明/勝柴次朗、音楽/パディ・カーン。シアターコクーンが2016年秋からスタートさせた「DISCOVER WORLD THEATER」第13弾で、本来は20年夏に第8弾として上演される予定だったもののリベンジ公演。全二幕。

 わりと好きな作品のひとつで、宝塚版だとこちら、他にもこちらこちらなどを観ています。キーラ・ナイトレイ主演の映画も最近テレビでやっていたので見ましたが、トム・ストッパード脚本でそれこそ舞台演劇仕立てになっていて、とてもおもしろかったです。ジュード・ロウもよかった!
 というわけで大空さんご出演の報には舞い上がりました。その後コロナで中止になってしまい、再び上演が発表されたときにもまた舞い上がりました。しかし今見ると、続投キャストは宮沢アンナと大空ドリーだけなんですね。カレーニンは段田安則、他に今『エゴイスト』でときめく宮沢氷魚と白州迅って、えっどっちがリョーヴィン(浅香航大)でどっちがヴロンスキー…? 川島海荷はキティ(土居志央梨)ですよね、吹越満がスティーヴァ(梶原善)? ヤダこのバージョンも観たすぎました…!
 でも、もちろん宮沢りえありきのリスケで、他にスケジュールが合わせられたのがたまたま大空さんだけだったのかもしれないけれど…とか思って観たのですが(ホント失礼ですんません)、ドリーがとても大きないいお役になっていて、この作品はこの大空ドリーあってのものだったのかもしれないわ!とか思いました。てかアンナじゃないのはもちろん、ミッツィとかにならない大空さんをホント愛し信頼しています…!! 一、二幕とも1時間40分という長さ、濃さの作品でしたがまったく退屈せず、夢中で観ました。てか一、二幕とも仕事始めるのは大空さんだもんね? すごいよね信頼されてるよなー…
 というわけでまずドリーとスティーヴァの諍いの場面、継いでスティーヴァがリョーヴィンと会ってキティに求婚するようけしかける場面、からのやっと駅にアンナが現れてヴロンスキーと出会う…と流れる構成なので、まあ私の見方がちょっとアレだったのかもしれませんけれどアンナはあまりヒロイン、主人公、タイトルロールに見えない気がしました。この群像劇の中の一キャラクターに見えた、というか。ミュージカルではないので心情を歌い上げるような場面もないし、彼女の内心や本当の姿が見えづらかった気がしたのです。
 宝塚版だとヴロンスキーが主人公で、タイトルロールでヒロインであるアンナと恋に落ちるのはほぼ自明なわけですが、実際の、というか原作小説の、そして他の舞台でのヴロンスキーはむしろ鼻持ちならない青二才の色事師、に近いイメージのキャラクターですよね。この舞台でも、駅でのアンナとの出会いはまだしも、その後の舞踏会でのキティを利用したアンナへの近づき方や気の持たせっぷりなど、ホント最低男としてきっちり描かれているわけで、その後も押せ押せで列車までついてこられたりなんたりとあったにせよ、何故アンナが恋に落ちるのか、もっと言うとこの男と寝る決心がつけられたのかがわりと謎だよな、とは思いました。
 プログラムには「これまで無数の『アンナ・カレーニナ』の映画や舞台が、アンナの自殺に決定的な理由を提示しようとしてきた。トルストイはそれをしていない」と書かれていますが、どちらかというと自殺の理由はどの版でも十分わかるように描かれているのではないかしらん。でもこの時代のこの国のこの階層の女性で、処女で嫁ぎ夫しか男を知らず夫の息子を産み、社交界の華と呼ばれしかし聡明で貞淑で浮気ひとつしない、それはしていても尻尾を出さないという意味ではなく本当にしたことがない、そういう女性であるアンナが道を踏み外す理由に紙幅を割かないのは、いかにも男性視点な気はしました。若い二枚目になら堕ちるだろ、みたいな視線すら感じる。なんと安易な…男ってホント馬鹿ですね。
 アンナの愛情や性欲はもっと強く豊かで、カレーニンとの結婚生活だけでは満たされなかったのだ、というならそこにもっと注視し、男性としてまず反省してもらいたい。その上で話を進めていただきたい。それはドリーも同じで、九年の結婚生活で七人産んで五人育てて、夫はもう妻はただの母親になってしまって女じゃない、だから興味は失せたもっと若いよその女のところに行く…とか言うんでしょうが妻の方は別にそうではないわけで、未だにちゃんと夫に抱かれたいと考えているわけです。なんならこれまでだってちゃんとしてもらったことはなかった、とすら考えている。だからただ真っ当に要求しているだけなのに、男は逃げるんです。男は妻のひとりも満足させられていないのに愛人を囲おうとする愚行について、もっと反省すべきでしょう。そういう視点が全然ないぞ。
 だから、アンナがドリーやキティと対比されるのではなく、またヴロンスキーとカレーニンが対比されるのでもなく、むしろアンナとリョーヴィンが対比されるのがこの作品の構造となっているのだけれど、それが「都会に生きる女は愛欲に破滅し、田舎で暮らす男は労働に平穏と幸福を得る」みたいな雑なまとめになるのなら、私は全力で抗う生き方をしますけどね、としか言えないわけです。まあ実際には、ラスト暗転間際、星を眺める夫を横から見上げるキティのなんとも言えない表情に解答があったのでしょうけれどね。もちろんそこには愛情もあった、けれど何言っちゃってんのこの人(「それより洗面台」)みたいな視線も確かにあったと私には思えたのです。これがこう批評的に演出されているなら、まだ救いはあるのかもしれません。
 それは、ドリーやキティの描かれ方にも表れていたのかもしれませんね。ドリーが単なる地味で不美人な主婦とか、あるいはキティが単なる浅はかな浮かれた令嬢、みたいに描かれることもままあるのですが、今回はそんなじゃありませんでした。個人的にはキティはもうちょっと可愛くてもいいんじゃないの、と思うくらいには私にも若い娘への幻想はあるのですが(笑)、ヴロンスキーにフラれて恥かいて落ち込んで寝込んで暴れて、リョーヴィンと結婚するとなっても彼の過去に嫉妬して叫んで暴れて、というキティはまっすぐで健全で健康的です。人間、我慢はよくない。もちろん円滑な社会生活のためにはある程度は必要なんだけど、でも限度はあって、我慢しすぎるとアンナのように暴発するのだ、ということなのでしょう。リョーヴィンも決して心の広い完璧な男なんかでは全然ないし、キティをほとんど盲目的に崇めるように愛していることにはむしろ大丈夫かこいつ、みたいに心配になる面もあるのだけれど、信仰ってそういうものでそういう強さが彼にはあることも確かで、だからキティが暴れてもリョーヴインが逃げ出すことはおそらくない、だからここはうまくいく…と思えてお話は終わる、「神空にしろしめし、すべて世はこともなし」というのがこの作品なのかもしれません。もちろんその陰でタイトルロールたる女がひとり死んでいるのだけれど。ヴロンスキーは左遷気味とはいえ、そしてもしかしたらこの先前線で戦死するかもしれないとはいえ、貴族として軍人として生きていはいるというのに…ああ、無情。これはそういうお話なのでしょう。
 宮沢りえが嫋々としていて、浅香航大が朴訥で、渡邊圭祐がしゅっとしていて、梶原善がホントしょーもなくてホントよかったです。今回のカレーニンはどちらかというといい人風味でしたかね。あとはあまり描かれることのないリョーヴィンの兄ニコライ(菅原永二)のガールフレンド?同志?内縁の妻?のマーシャ(深見由真)がとてもよかったです。あとシチェルバツカヤ伯爵夫人の梅沢昌代、卑怯なまでによかったわー存在感あったわー。あとはペトカ(片岡正二郎)が泣かせてくれましたが、しかしこれはいわゆるマジカル二グロ枠キャラなのではあるまいか…うぅーむ。
 そして大空さんドリーが本当に素敵でした。お腹の大きい大空さんを見るってのもなかなかないしね! 「周りの男性は子育てしかしていない教養のない女性と思っている」ようなキャラクターをあんなにクレバーな大空さんがきっちりいい感じに演じてくれていて、ホントにまにましちゃいました。それでいて舞踏会の場面のお稽古でリードがなっていなかったのか代わりにやって見せて宮沢りえに惚れられかける一幕もあったらしいからさすがです。いやでもアンナとのシスターフッドぶりや、後半みんながアンナを冷遇し出してもドリーだけは変わらず愛情を注ぎ案じ心配し気を配っているところ、ホントいいなと思うんですよね。ドリーはアンナの忠告に従ってスティーヴァを赦したことを悔いているかもしれないけれど、怒っているのは自分の決断でありこんなことがあってなお変わろうとしないスティーヴァに対してであって、アンナを逆恨みするようなことはしていないのです。そこが素晴らしい。まあアンナの方はそこまでドリーの友情を必要としていなかったのだろうけれど、それはアンナの問題だし、友情にも片想いはあるので仕方ないことです。アンナがドリーの助けをもっと支えとしていれば、死ななくてすんだのかも…というのはそれこそ後の祭りなのでしょう。
 舞台の上には椅子や小道具がゴタゴタ置かれていて、役者が移動させつつ空いた空間がどこかの場となって芝居が進む演劇らしい演劇で、ミュージシャンもそこにいて演奏するのも素敵で、かと思えば汽車の汽笛をコーラスのように役者たちが歌うのが恐ろしく、不穏で素晴らしかったです。そしてセリョージャだけでなく、スティーヴァとドリーの子供ターニャ(この日は佐々木奏音)とグリーシャ(渡辺心優)もずっと舞台のどこかしらにいて、それは別の時間や空間ではあるんだけれど大人たちのメロドラマが子供たちに絶対に影響を及ぼしているよね、ってのが感じられて、しんどく恐ろしく悲しくなりました。上手い。天井から下がる覆いのような、箱の蓋のような部分も効果的でした。ただニコライが死ぬくだりでだけここにロシア語の字幕が出ていた気がしましたが、当然読めませんし、なんの意味があったかは不明だったかな…
 決してわかりにくい舞台だとは私は思わなかったけれど、幕間に後ろの席のふたり連れが、今どきのわかりやすい舞台ではなく、ソフトカバーではなくハードカバーの本を読んでいるような感覚に…みたいなことを語り合っていて、まあロシア文学ですしね、と思いました。でも別にものすごく格調高いとか重厚すぎるということはなく、ユーモラスな場面も多くて客席からもけっこう笑いが湧いていましたし、人間ドラマとしてとてもよかったと思いました。アンナとヴロンスキーの恋愛も決してロマンティック一辺倒ではありませんでしたしね。列車の音がダメな人や寝間着の血がダメな人はいるかもしれません。でも私はとてもおもしろく観ました。
 初日でしたが挨拶みたいのものは特になく、ラインナップだけであっさり終演。でもハケ際の宮沢りえが隣の小日向文世の背に手を当てていたのが微笑ましくて、よかったです。
 そうそう私はコクーンの一階サイド席に初めて座りましたが、観づらいことはなかったけどやはりいかがなものかと思いました。席は斜めに振られているけどまっすぐ座ると正面は舞台の端になり、結局舞台に向くには椅子に対して斜めに座って観ることになるし、なので隣の人が多少前にかかるし自分も逆サイドの人の邪魔になっていやしないかとヒヤヒヤするわけです。こんな席を作ることは劇場の構造上おかしいと思う。コクーンがなくなってここにまた新たな劇場が建てられるのか知りませんが、予定があるならぜひ設計段階からよく吟味していただきたいです。





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パット・バーカー『女たちの沈黙』(早川書房)

2023年02月25日 | 乱読記/書名あ行
 トロイア戦争最後の年。トロイアの近隣都市リュルネソスがギリシア連合軍によって滅ぼされた。王妃ブリセイスは囚われ、奴隷となった。主は彼女の家族と同胞を殺した男、英雄アキレウス。ブリセイスは同じく「戦利品」として囚われた女たちと新たな日常を築いていくが、アキレウスと不仲である総大将のアガメムノンがブリセイスを無理やり我がものとしようとして…ブッカー賞作家の傑作歴史小説。

「西洋文学の正典がホメロスに基づいているとしたら、それは女たちの沈黙に基づいている。奴隷となったトロイアの女たちの視点から『イリアス』の出来事を描き直すバーカーの見事な介入は、♯Me Too運動や、抑圧された声を拾い上げるための広範な運動と調和した。依然として戦争のなくならない世界において、その試みは現代人にぞっとするような共感を与える」…というのが、帯でも紹介されている英ガーディアン紙の評だそうです。確かに再びキナ臭くなっている世界において、そして女性を始め弱き者や数の少ない者の声が未だ届きにくい世界において、ブリセイスの一人称で描かれた『イリアス』が読まれることはとても意義があるでしょう。ただ私はそれ以前にただのトロイア戦争オタクなので、この作品ではあのエピソードは、あのキャラクターはどう描かれているのかしら…という興味だけで萌え萌えで読んでしまいました。ものすごくおもしろかったです。
 が、それはそれとしてブリセイス視点で『イリアス』を描き直す、というアイディアは確かに秀逸でした。これでアキレウスとアガメムノンの諍いからヘクトルの葬儀まで、トロイア戦争末期の重要なエピソードがほぼ網羅できるので、とてもおもしろいのです。途中どうしてもブリセイス視点では追い切れず、三人称で、むしろアキレウスに寄った視点の章が挟まれますが、これは致し方ないことでしょう。ブリセイスはアキレウスには全然恋をしないのですが、それでアキレウスを全然見ない、彼のことを考えない、彼の描写をしないとなると、やはり物語としては成立させづらいのです。やはりアキレウスはこの戦争のスーパースターですからね。
 ただ、ブリセイスがアキレウスに恋したり、懐いたり、馴染んだり、あるいはいわゆるストックホルム症候群のようになったりしないのは納得できました。普通に考えれば当然だろうとも思います。昨日までは都市国家の王妃でも、いやだからこそ今はただの奴隷で、それでも過酷な労働を強いられるような類の奴隷からははるかにましな待遇で、しかし夜伽はさせられ宴会の給仕をさせられて見世物にはされる、そういう屈辱は引き受けなければならない。しかもそれを屈辱に感じていることは表せない、薄笑いを浮かべていないとならない。でないといつ主人の気分を損ねて殺されるかもしれないから。殺されないように、怒らせないように、目立たないよう、息を潜めて、最低限のことだけしてあとは小さく縮こまっている。そこに愛だの恋だの生まれる余裕なんぞないのです。彼女はいたってシビアな生死の境にいるのですから。
 パトロクロスは、他の男たちよりは紳士的で親切で、彼女の主人であるアキレウスへの影響力もあるから、ブリセイスはちょっとだけ心を開く。なんなら感謝を、友愛を感じていたと言ってもいい。でも、それだけ。もっとあたたかいものが生まれる余地はない、そんな過酷な環境での物語。アキレウスが父ペレウスと母親である海の女神テティスとの間であまり幸せでない少年時代を送ったことなどを知っても、同情はできない。そんな心の余裕はない、ただ怖いだけ、ただ傷つけられたくないだけ、生き延びたいだけ…
 なんともしんどいです。けれど本当にそうだったろうと思う。そしてこういう描写はまったくされることなく『イリアス』は進むのであり、のちに語り直された物語たちもほぼすべて男の手になるもので男の見方で書かれていて、だから女たちは簡単に主人に心を開き恋をし尽くし愛するようになっている。そんな都合のいいことあるかい、とこの作品は言ってやっているわけです。そしてそれでちゃんと物語になっている、そこがすごいです。
『トロイアの女たち』とでも訳されそうな続編があるそうで、それはおそらく『オデュッセイア』が語り直されるのでしょう。戦争が終わってギリシア兵たちは故郷に帰る、そこに伴われる女たちから見た物語もまたあるのでした。
 まだ少女のころのブリセイスが、姉に伴われてトロイア王宮に行き、ヘレネと出会って好感を持ったことが語られるくだりが印象的でした。ヘレネは周りの女たちからは敬遠されていたようだけれど、それをあまり意に介せずただ泰然と正直でいる様子に、ブリセイスは感銘を受け、なんならちょっと恋をしたのでしょう。別にヘンにユリっぽくなくてもいいんだけど、そういう女たちの交情が続編ではもっと描かれるといいな、と思いました。戦争後の方がまだ、女たちにもその余裕があるのではないかしらん…
 今回もアキレウスとパトロクロスの関係は別にBLめいて描かれてはいません。でも、たとえばパトロクロスの死後のアキレウスの様子からでも、その特別なことは全然窺える。それで十分なのでした。せつなくて、しんどくて、とてもよかったです。女神の息子でも、伝説の英雄でも、全然欠けていて、栄光に包まれてはいてもおそらくは不幸のうちに死んだアキレウスを、私は愛してやまないのでした。







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『ケンジトシ』

2023年02月23日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2023年2月22日18時半。

 やっと雪解けの終わった寒村の外れ、土塊に佇んで視線を落としたまま少しも動かない、お釜帽と外套の男(中村倫也)。そこに通りかかった軍服と長靴の男(山崎一)が「このあたりに宮澤賢治という男の住まいがあると聞いたが」と尋ねると、外套の男は「どっかの畑さ、いるベ」と答えて去る。そこへ綿入れに雪袴姿の若い女(黒木華)が駈けてくるが…
 作/北村想、演出/栗山民也。遙かな宇宙の辺縁を彷徨う賢治の魂に目を凝らし、耳を傾け交信を試みる舞台、全1幕。

 大空さんが出ているというので『銀河鉄道の父』とかは観たのですが、というかこれはたまたまその原作小説も読んでいましたが、基本的には私は宮澤賢治にあまり興味がなく、作品もちゃんと読んだことがない気がします。それが敗因だったのかもしれません。中村倫也に黒木華でシアタートラム、というのでぜひ観たいとチケットを苦労して手配しましたが、私にはよくわからないトシの幻灯の世界でした…それとも私はもしかしたら北村想がダメなんでしょうか、『奇蹟』もワケわからんかったしな…うぅーむいい観客じゃなくてホントすみません。わからないというよりはおもしろいと思えなくて退屈した、というのが正しいかな…コロスや映像(映像/上田大樹)の使い方なんかは素敵だと思ったのですが。うぅーん……



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