駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『G.O.A.T』

2024年01月31日 | 観劇記/タイトルか行
 梅田芸術劇場メインホール、2024年1月20日15時半、27日15時半。

 監修・演出/石田昌也、構成・演出・振付/三井聡、作曲・編曲/手島恭子、太田健、高橋恵、麻吉文、振付/御織ゆみ乃、原田薫、Seishiro。タイトルはGreatest Of All Timeの略で、月組トップスター月城かなとの魅力を最大限に詰め込んだグランド・コンサート。全1幕。

 プレ・サヨナラ・コンサートということでは『ビシャイ』と同じなので、なんとなくその心構えで観たら全然違っていて、二度目にわかって観たらまあまあ楽しめたのですが、初回はなんか私はとまどっているうちに終わってしまった印象でした。まあ『ビシャイ』は休憩ありの2幕ものなのに対して、こちらは100分の1幕ものでしたしね。
 なので構成がいろいろ違ってくるのも当然なのですが…
 でも、プロローグはともかくとして、次の宝塚メドレーがなんか意味不明すぎて…れいこちゃんの主演作をたどるのではなく、これまでの月組の代表曲をたどるってこと?とも思ったのですが、たとえば歴代トップスターの代表曲を遡っていくわけでもなく、並びも古い順でもないし、てか月組公演でないものもまざるし、かと思えば後半にまたくらげちゃんが『グラホ』を歌うので何故このコーナーにまとめない?と混乱しましたし…あと『ドリチェ』はもちろんプレお披露目ショーなんだけどやっぱりその前に珠城さんのサヨナラ公演なんであってさあ、と情緒が乱れ…初演当時トップ娘役を置いていなかった『アパショ』を、くらげセンターで娘役だけでバリッとやるのはいいなと思ったんですけどね。でも振りが違うのはなんだかなあ…お衣装が違うので、振りはママでもよかったのでは?
 みんながタカスペかな?とか言っていた月ノ塚音楽学校の場面も、私はもともとこういうコントみたいなものが苦手だというのもあるのですが、月城先生が外国人でカタコト日本語をしゃべる設定になっていたり、ヤンキー設定なのか?なおだちんの風間くんがヘンにいじられるくだりがあったりと、なんか今のご時勢、この状況でこれをやるという選択をするこの劇団が本当に信じられない…とちょっと絶句しちゃったんですよね。制服を脱がす、というのも微妙なところだと思うし…ついダーイシの影を思いましたが、どうもこの場面はちゃんと(?)三井先生の着想であるらしく、外部の人にもこういうのをやっておけばいいんでしょ、てかやるもんなんでしょと思われてるのか、と逆に軽く絶望しましたね私は…
 風間くんが漢字が読めなくて人の名前を音読みしちゃう、というのも、そもそもタカラジェンヌの芸名は一般的には変わっていて読みづらいものが多く、変な読ませ方をさせるのも多いので、そこを取り上げて笑いのネタにするのはどーなのよっつーか、ちょっと愛とかリスペクトとか知識とか配慮がない行為なのでは…と私は感じましたし、外部の人がそれをやっちゃうのは仕方ないにしても中の人間は止めなかったんかい、と思うと、プロデューサーとかなんとかがホント機能していないんだなこの組織、とまたまた絶望しますよね…
「日本人ならみんな」云々も、今その表現はマズいって…ってなりますし、私はノリが悪い人間なので、「客席参加」も椅子の上で背伸びしただけで済ませましたすみません。いやアイディアとしては悪くなかったと思います、下手に躍らせるより全然いい。でも日本人だからできるわけじゃないからさあぁ…
 制服のスカートの下がバックシームの黒網タイツに黒ハイヒール、ってのは背徳的でそそられるよなと思いつつも、そもそも制服好きすぎるだろう日本人、なんでそんなに総ペドなんだ、それが最近は問題視されてるだろうに…とかも考えちゃったんですよね…宝塚歌劇団は学校組織のていなので、余計に、ね。でもこんなベタな学ランやセーラーはもちろん着ていなかったわけでさあ、あーなんかもう何もかもが、こう…(><)
 アコースティック場面も、いいんだけど私はちょっと長く感じてしまったんですよね。1幕ものなのでこういうクールダウン・ターンが要る、ってのもわかるんですけど、上手いけどカラオケ聞きたいわけじゃなくて芝居歌が聞きたいんだな自分は…というのも再認識できました。ただ123の雰囲気がいいのはよく伝わって、ここのおださんいじりはいじめではなく愛あるかまいだと本当にわかりましたし、それぞれひとりっ子で人見知りな3人が年月かけて少しずつ少しずつ歩み寄ってやっとこんな軽口が叩き合えるようになれたんだろうな、とほっこりしました。でもなー…「ABC」とか平井堅のお洒落なバージョンだそうですが、下の音が出てなかったし、単調では…?とか思ってしまったのですよ、すんません…
 よかったな、と思ったのは「白の衝撃」とか娘役の扇のダンス、ジャズのボレロ場面など。なので『ビシャイ』があくまでサヨナラショー拡大版だったのに比べて、こちらはわりと普通の新作ショーに近かったんですよね。そうとわかって観れば目新しく、楽しかったのでした。れいこちゃんの「愛はるかに」もとてもよかったです。でも「Cheek to Cheek」はスタンダードナンバーでも近年の宝塚ではれいまどがやったナンバーなんだから、ここでやるのはダメなんだって。くらげが片方の長手袋脱いで、れいこちゃんがタイを外して襟元ゆるめたのはよかったんだけどさ…
 あとは、れいこちゃんが自分のためだけのリサイタルではなく、次の月組につなげていくために…とこうしたコンセプトにしたんだから、ぱるより下をモブに使うんじゃなくてもっと生徒を散らせて少しずつピックアップして、ファンに組子を覚えさせる仕様にしてほしかったです。娘役はサリーの周りや登校Discoがあったけど、これにあたる男役ピックアップがほぼなかったですよね、わかとか埋もれさせておいていいの?とか不安なくらいだったんですけど…
 すみません、結局のところ不平不満愚痴オンパレードになりました。組ファンには評判がいいようなので、それでいいのです。私はショーとかコンサートとかの見方がホントに下手なので…
 Tシャツ姿のアンコールがないのがよかった、という意見も見て、総家路確かにコンサートの様式美になっているところがあるけど、あれってなんなんだろうね?とかちょっと考えました。
 れいこちゃんのビジュアル・ブックみたいなプログラムはとても良きでした。さあ、あとは退団公演で有終の美を飾れるかどうかだよ、頼むよハリー…!










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『オデッサ』

2024年01月30日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京芸術劇場プレイハウス、2024年1月26日19時。

 1999年、アメリカ、テキサス州西部の街、オデッサ。夜11時過ぎ、道路沿いの小さなダイナーで、ひとりの青年(柿沢勇人)が誰かを待っている。そこへ現れたのは、オデッサ警察のカチンスキー警部(宮澤エマ)。3日前に近くで起きた殺人事件の重要参考人として日本人の旅行客(迫田孝也)が事情聴取を受けているが、彼は英語がまったく話せなかった。捜査に当たるカチンスキーは日系人だが日本語が話せず、警察関係者にも日本語を話せる人間がいなかったため、地元ホテルのジムでトレーナーをしている日本人の青年が急遽、通訳として派遣されたのだ。旅行者は青年と同郷で、青年の通訳を介した取り調べが始まるが…
 作・演出/三谷幸喜、音楽/荻野清子、英語翻訳/Kennedy Taylor、英語監修・指導/宮澤エマ、鹿児島弁監修・指導/迫田孝也。日本語と英語(と鹿児島弁)が飛び交い、見せ方に創意工夫を凝らした日本語字幕をつけた上演。全1幕。

 三谷作品には当たり外れがあると考えている私ですが、3人芝居ならおもしろくないはずがない、と思っていました。が、チケットが取れず、なんとかおけぴでお譲りいただいて東京公演終盤に滑り込んできました。
 英語と日本語と鹿児島弁が…みたいなことは聞いていたのですが、どういう意味かよくわからないままに席につきました。ちなみに補助のように出された最後列で、前が被ってかなり観づらかったのですが、後ろがいないのをいいことに体勢をけっこう傾けて観てことなきを得ました。また、字幕も最後列からでもちゃんと読める大きさで出てありがたかったです。まあ字幕の演出については、おもしろいけど外してるかな、と思うものもありましたけどね…
 もっとどっかんどっかん笑う舞台を想像していたのですが、金曜夜公演ということもあるのか、客席はおとなしめだったと思います。ただ私は、コメディを観に来たのでハナから笑う気満々でおもしろくないうちから笑う、というような客が大嫌いなので、これくらいでちょうどいい空気に感じました。てかスノッブぶるつもりはないんだけれど、誰もウケていない箇所で数度ウケて笑ってしまい、妙にツボに刺さってしまいました…え? 今のみんなおもしろくないの??キョロキョロ、みたいな(笑)
 自身が海外のイベントなどでスピーチを通訳されることがあり、その体験から着想…というようなことのようですが、劇作家として、翻訳劇の在り方にいつも思うところがあったのだろうな、とも思います。だからこの作品は、欧米では駄目でも、たとえば韓国とかではそのまま翻訳上演できるのではないかしらん。韓国人は日本人よりもっと断然英語がわかるそうですが、でもたとえばソウルの言葉と釜山の方言はけっこう違うとも聞くし、どんぴしゃでスライドできるでしょう。アジア人が欧米の地で英語を話すこと、その社会で働くことへの屈託なんかについても、近いものがあるでしょうしね。逆に英語ネイティブで翻訳上演というものに慣れていないだろう欧米人にはウケませんよね、きっと。スペイン語圏とかフランス語圏とかでも違う気がしますが、どうなんでしょう…?
 日本では日本の役者が日本語で台詞を言い、しかし外国人の役に扮しているしこの言葉は本当は英語ないし外国語なんだな、と改めて考えはしないけれどしかしそういう前提なのだ、という共通認識で進む舞台がたくさんあります。これはそれを逆手に取った作品で、青年と警部が英語で話す場面では、実際の舞台のふたりは翻訳調の日本語で話し、そこに英語がわからない旅行者が加わると、ふたりはリアルに即して英語で話し、英語を解さない日本の観客向けには壁に日本語字幕が出る、という舞台のギミックが駆使されます。そして旅行者と青年は同郷なので日本語といっても標準語ではなく、鹿児島弁で話す…
 宮澤エマと迫田孝也はバイリンガルだそうなので、オンリー標準日本語ネイティブのカッキーがそらタイヘンだよな、という舞台なのでした。でもホント、そういう意味でもいろいろとおもしろく、たとえば韓国で上演しても同じこのざらりとした感触は出るのだろうか、ちょうどこういう3人の座組でないとおもしろさが出ないのではなかろうか、この作品の持ち味が通じるのは他にどのあたりの国や地域なのだろうか、などもちょっと考えました。
 私は宮澤エマの出自を知りません。名前は芸名のようでもあるし、顔もバタ臭いけれど(差別表現ですが、あえて)こういう人も多くいるし、特に何も考えていませんでした。外国ルーツで英語も未だに堪能、ということなのでしょうか? これはこの作品には強いですよね。というかこの配役を想定しての企画だったのかもしれませんが。3人とも初三谷作品ではないので、親交があり、個性や特技、能力がわかっているからこその座組だったのでしょう。
 ラブストーリーというには…ちょっと年齢差があるんじゃないの?とか事件解決で盛り上がってハイになってるだけなのでは?とかギャグっぽく描いてたじゃんホントにマジなの?と思わなくもありませんでしたが…少なくとも青年の方はこれでいろいろ考えて変わっていくのかなとも思えましたし、そういう未来や変化も思わせるような清々しさが美点の作品だったのかな、とも思いました。もちろん旅行者の正体に関するくだりは怖かったし、さすがの迫田さんだったわけですが…
 プログラムにシェイクスピアの『ハムレット』の「言葉、言葉、言葉」という台詞が引かれていますが、確かにそれがテーマの物語だったな、とも思いました。語彙でその人の知性を測るところは、私にもあります。言語は手段でしかないのだけれど、それでも…
 笑って笑ってしかし嘘寒く悲しい、けれど希望がないわけではない…そんな良きペーソスがある舞台だと感じました。楽しかったです。

 オデッサは私にとっては『ガンダム』で知った地名で特に違和感はなかったですが、まあラストの『シカゴ』チックな演出をしたかったというなら止めません(笑)。
 このあと一か月ちょっとのツアー、どうぞご安全に、がんばってくださいませ! コレはさすがに代役はいないのかな、どこかで三谷さんがやったりするのかね…とかちょっと考えちゃいました、すみません!







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宝塚歌劇月組『Golden Dead Schiele』

2024年01月29日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚バウホール、2024年1月25日11時半。

 20世紀初頭のオーストリア。ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(夢奈瑠音)が主催した展覧会で、ひとりの画家が注目を集める。彼の名はエゴン・シーレ(彩海せら)。亡き父と同じ鉄道局員になってほしいという家族の望みを受け入れず、幼いころからの夢である画家を志し、絵を描き続けている青年だった。「銀のクリムト」と評されるようになったエゴンは、このチャンスをものにするため新しい芸術を目指す仲間たちとともに展覧会を開こうと意気込んでいた。ところが後見人である叔父のレオポルド(佳城葵)に美術アカデミーをやめたことを知られ、開催資金のあてにしていた支援をすべて打ち切られてしまう。資金集めに奔走する中、最終手段として訪れたクリムトのアトリエで、エゴンは美しいモデルのヴァリ(白河りり)と出会うが…
 作・演出/熊倉飛鳥、作曲・編曲/太田健、多田里紗。あみちゃんの初バウ主演作、全2幕。

 寒波到来で米原あたりの雪がひどく、新幹線の遅延にヒヤヒヤしながらの日帰り遠征となりました。でも無事に開演に間に合ってよかったです。もう一回観たかったのですが、土曜のお取り次ぎがお断りで、1回のみの観劇となりました。
 エゴン・シーレについては名前と、いくつかの代表作と、画風のなんとなくのイメージしか知りませんでした。夭逝したこと、クリムトとの関係も知らなかった気が…ただ、画風が画風だしなんせ画家だし(偏見です、すみません)、ややエキセントリックなところがあった人なのかな、そうした史実があるのかな、そのドラマに惹かれて熊倉先生は舞台化を考えたのかな、でも宝塚歌劇ふうにマイルドにまとめるのだろうな…などと考えていました。
ベアベア』でもそうでしたが、作劇は手堅く、今回もとてもスムーズでした。カーテン前芝居がやや目立った気もしますが、バウでセットチェンジのためには仕方ない部分もあるでしょう。絵の具を塗りたくったカンバスを思わせる壁が印象的な、セットもとても素敵でした(装置/木戸真梨乃)。
 ただ、全体としては、綺麗にまとめすぎていた気がしました。というかエゴンのキャラクターが弱かったと思います。1幕が長すぎ、2幕が短すぎ、フィナーレがたっぷりありすぎたバランスの悪さも気になりました。これを画家シリーズ第2弾としているそうなので、今後も企画プランがあるのかもしれませんが、画家だからドラマチックなのではなく、作家が史実のどこにドラマを感じ舞台として抽出するかが肝なのであり、またまだ若いんだから史実準拠でない完全オリジナル作品にもトライしていっていただきたいので、このシリーズ化宣言には私はやや不安、不満ではあります。でも、なんせ若い世代の劇作家さんとして期待しているので、がんばっていっていただきたい、と切望しています。

 プログラムでは浪費家で自尊心が強い、とされているエゴンですが、具体的な描写はなく、一度観ただけだと「情熱的ではあるけれど…」というような、ちょっと中途半端なキャラに感じました。学校になじめずいじめられていたような場面があったので、内向的で繊細なキャラなのかなと思ったら、その後成長したということなのかもしれませんがアントン(瑠皇りあ)やマックス(七城雅)と芸術活動に盛り上がったりするので、それだと単に快活な青年、という感じだし…なので性格の特徴付けがやや弱く、主人公としてやや魅力、求心力に欠けて見えました。
 あみちゃん自身はタッパがない以外はなんの問題もない、なんでもできるスターさんなので、もっとエキセントリックな、不安定キャラに振ってしまっても、上手く演じたろうしかえって観客の共感は得られたのではないかなー、と私なんかは思いましたけれどね…
 死の幻影(彩音星凪。こういう役回りに特定されていってしまうことは心配だけれど、しかし絶品!)にとりつかれているのも、要するに父親(大楠てら)に認められたい、というファザコン感情が根底にあって、それは当の父親が死んでも、いや死んでしまったからこそ顕著に現れ、だから画家としての名声も欲しいし、身分が低く出自すら怪しいようなヴァリとは結婚しなかったのだ…とした方が、単にやや無責任にフラフラしているだけの優柔不断な男に見えるより、よかったと思うのです。ラストをひとりで死ぬような描写にするんだから、そういう「死に魅入られた」感をもう少し強く出すのはありだったと思うんですけどねー…代表作のひとつ「死の乙女」の乙女って、要するに自分のことでしょ?ってのが、あるじゃないですか。自画像を多く描いたり、女性をモデルにした絵でもそれを描く自分を描き入れるような画家で、多分にナルシーで、自分と父親と死…というようなものに憑かれた男だったのだ、という解釈は、アリだと思うのですけどね。
 ともあれあみちゃんは、なのでこの先の扱いが難しいスターさんなんだと思うので(そらですらタッパがなくてトップにならずにやめるんだからさ…)、これからはさらに役や作品の応援が必要なんだと思います。頼むよ劇団…!
 というわけで史実としては長く共に暮らしモデルも務めたミューズがいる一方で、結婚したのは別の女性とだった、とは調べて知っていたので、まのんとダブルヒロインでいくのかなーと思っていましたが、作品のヒロインははっきりヴァリのりりでした。ただしプログラムではスチールこそ2番目ですが1ページはもらっておらず、登場人物紹介では2番目にも置かれていないので、劇団としてはこれをバウヒロイン扱いする気はないのかもしれません。えーかげんにせーよ劇団…
 それはともかく、りりちゃんはすっごくよかったです。『死神』が絶品で、それからするとヒロイン枠じゃないところが一番いい、上手い、耀く娘役さんなのかなとも思われがちな娘役さんかと思うのですが、すごくいい塩梅だったとと思うのです。エゴンに弄ばれて軽んじられたかわいそうなヒロイン、になってしまっていないところがとてもよかったのです。最初から、世のそうした婦人たちとは違う視点、世界を持っている、明るくひたむきな女性として造形していて、好感が持てました。でもエゴンを愛しているし、不安定な立場には不安だし、でもただ強がってつっぱらかっているだけではなくて…という、いい脚本だし、りりちゃんの演技が本当によかったです。月娘は現代的な持ち味のスターが多いのと、なんせみんな演技ができるので、ヒロインとしての在り方も本当に毎回みんな達者で素敵で古臭くなく、安心です。
 うーちゃんとるねっこが老け役に回ってガッチリ芝居を支え、しかしフィナーレではあみちゃんを挟んで美麗ツインタワーとして健在で、素晴らしかったです。ここに、素直に演技していろいろ勉強中の耀くるおりあ、七城くん、月乃だい亜くんなんかがいて、月組ヤングも頼もしいぜ…!となりました。
 逆に娘役陣は…みかことこありは役を入れ替えてもおもしろかったのではないでしょうか。というかみかこは『応天』新公ヒロインは健闘していたけど、一曲歌わせるほどの歌手ではなくあくまでダンサーなので、この場面の歌は誰か他に歌わせてもよかったのでは…こありちゃんも子役でない役が観られるのはよかったんだけれど、アデーレ(菜々野あり)はなんかちょっとしどころがない役に見えたので…
 こちらはヤングとしてはゲルティ(澪花えりさ)のえりさちゃんが推されているということなのかもしれませんが、うーん可もなく不可もなかった…? タチアナ(彩姫みみ)も同様。私はそれならエゴンの子役をやった静音ほたるちゃんを推したいのですが…うぅーむ。
 エゴンママの桃歌雪が手堅いのはありがたかったですね。上級生はみんなコンサートにいっちゃってるからなあ…
 というわけで絶品だったのはエディト(花妃舞音)のまのんだったと思うのです! イヤ欲目もあると思うのですが! ちなみに1幕はバイトで、乗客とモデルはわかったんだけど淑女と傍聴人は見つけられないまま終わってしまい無念…!(><)
 立場としては隣家に住むブルジョワの娘で、エゴンのファンで、やがて妻になり、しかしどうやらそれほど幸せな家庭生活ではなかったようで、妊娠中にスペイン風邪で没す…という、なんとも哀れなものなのですが、これまた必要以上にかわいそうキャラになっていないところがよかったです。でもヒロインのヴァリに対しては確かにライバルキャラでもあるので、そのウザさギリギリのお嬢様具合もとてもよかったと思うのです。パーティーでのくだり、姉や母親に対する態度、エゴンに突き飛ばされて床にへたり込むあたりとか…わかってやってるのかわからないけど上手いよー、そして何より可愛いよー、声もいいよー、次の別箱はおだまのんでいい作品をお願いいたします!
 フィナーレも、デュエダンはあみりりなんだけどりりが出てくるまでの群舞ではセンターで、あみちゃんとも組むし、あみちゃんの背に乗ってぐるんと回ってスカートに弧を描かせるところ、素晴らしすぎました! はーデュエダンを踊る姿が見たいよー!!
 みこたんがやめてしまうので、私の激重ヤング娘役ラブはほぼすべてここにかかってくるのでした…(イヤ愛空みなみと乙華菜乃も推してるのですが、役付きがまだそこまでではないので…)

 ただラストは、暗転ではなく幕を下ろす形にした方が観客が拍手が入れやすかったし、これで終わりなんだ感がよく出たはずだし、よりドラマチックになったと思います。
 というかその直前ですが、話が冒頭に戻っているので、そこは被ってもう一回やって終わるべきなのでは? つまりそもそも全体はうーちゃんアルトゥール(英かおと)がエゴンの伝記を書いている、書くために取材して回って回想している…みたいなていなんだけれど、それで冒頭の死に目のシーンに戻って、最初は慌ただしかったのでわかりづらかった、エディトの死とそれを追うように死んだエゴンの死を再度きちんと説明し、そのあとエゴンと死の幻影が踊って、最後はエゴンひとりで佇んで、幕…とかがよかったのではないかしらん?
 まあ、わかって観るとまた印象が変わったのかもしれませんが…
 なのでホント一度しか観られないのが残念でした。一度しか観ていない中での印象だけで、うだうだ語っていて申し訳ない…ただ隔靴掻痒感がもったいなかったので、次作に期待しつつ、そこはつっこんでおきたい、となったのでした。

 ところでエディトのあの紫のドレスは雉撃ちのものを縁飾りを変えたものかしらん…今まで何度も何度も何度も見てきたお衣装だけど、次に見るときはどんなかな…(^^;)













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『ヘルマン』

2024年01月25日 | 観劇記/タイトルは行
 吉祥寺シアター、2024年1月22日19時半。

 構成・演出/川村毅。全1幕。

 プログラム(というかチラシ?)にあらすじがないのもあってなんとも説明しがたい舞台なのですが、怖れていたほどワケわからないということはありませんでした。ただ、おもしろいかと言われると、どうだろう…なんか男の人ってこういうのが好きだよね、という感じが私はしてしまいました。
 でも大空さんのお役が素敵だったので、満足です。
 舞台は下手の椅子に老人役の麿赤兒が座り、その傍らに青年役の横井翔二郎が佇んでいるところに、上手から黒衣の女(大空ゆうひ)役の大空さんが現れるところから始まります。老人は晩年のヘルマン・ヘッセで、青年はその若いころの姿で、女はヘルマンの母親であるような、あるいは何か別のファムファタールであるような…な感じなのでしょうか。
 私はヘッセを読んだことがほとんどないと思うのですが、よくあることに自伝的な、あるいは自分の少年期や青春期をモデル、モチーフにしたような作品を多く書いた人のようです。でも当然作品の主人公たちは自分自身とはちょっとずつ違う。その齟齬に葛藤するようなことがメインのドラマ、なのかな…という舞台でした。
 少年123とか教師とか女1234とかその他たくさんの、作中人物ないしヘルマンの記憶の中の人物が現れ、キャストたちが何役にも扮し、踊り、舞台を記憶のようにイメージのように揺蕩います。
 ヘルマンはずっと、子供のころに友達の蝶の標本を握って壊してしまったこと、それを黙っていたことに呵責を感じていたようです。
 最終的には、老人は何かを受賞してスピーチをするのですが、その最中に心臓発作でも起こしたのか、老人が舞台から消えていくのと入れ替わるようにして、蝶というか蛾の女王みたいな格好になった大空さんがバーンと現れて、幕(イヤ暗転だったけど)、となる作品でした。『蜘蛛女のキス』みたいな、はたまたデウス・エクス・マキナみたいな大空さんが圧巻で、だからこその起用か!となりました。
 途中にも、男役というか、青年ヘルマンの友達?みたいなポジションで語る場面もあるので、その低音台詞の鮮やかさも素敵でした。
 まあでも総じて、少年のころのそうした事件だのそのトラウマだのが晩年にまで心を捕らえて云々…みたいなドラマの在り方が、なんかホント男性にありがちな感じ…と思ったのでした。実人生を生きていないというか、生きずに済んでいいご身分ですネ-、みたいな。そもそも数が少ないので比較にならないのでしょうが、女性作家だって自分のことや自分をモデルにした物語を書くことはあるでしょうが、だからってその差異にこんなふうにねちねち悩むとかこだわるとかってしないんじゃないかしらん。そんな贅沢は女性の人生、生き方には許されていない、とも言えるけど…だからこういう男性特有に思える葛藤、感傷に「ほー、さよけ」としか思えなかったので、ワケわからんということはなかったけれど格別おもしろいとも私は思えなかったのでした。それは演出家のプログラムのコメントについても同様です。それは要するに貴男のマスターベーションなのでは…とかも思ったので。
 でも、こういう作品をおもしろがって出ちゃうのが大空さんっぽいなとも思ったし(どういう経緯でオファーがあったのかは謎ですが)、こんなことでもなければ麿さんとの共演なんてないだろうし、我々も名前は知っていても彼の作品なんて観ることはなかったろうので、やはり刺激になりましたし、楽しい経験だったのでした。

 吉祥寺シアター、行ったら「来たことあるな」と思い出しましたが、『ソウル市民』を観ていたんですね。もらったチラシも小劇場系のものが多く、これまた新鮮でした。







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『イザボー』

2024年01月22日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京建物ブリリアホール、2024年1月16日18時半。

 百年戦争の時代、バイエルン公の娘として生まれた少女は、やがて隣国フランスの王妃イザボー・ド・バヴィエール(望海風斗)となる。夫であるシャルル6世(上原理生)はイザボーをこよなく愛したが、ある出来事を境に狂気に陥ってしまう。破綻した王政につけいり、権力を掌握しようとするのはシャルル6世の叔父ブルゴーニュ公フィリップ(石井一孝)とその息子ジャン(中河内雅貴)、彼らと対立するシャルル6世の弟オルレアン公ルイ(上川一哉)だった。混沌の時代の中で、イザボーは愛と衝動のままに生き抜こうとするが…
 作・演出/末満健一、音楽/和田俊輔、作詞/末満健一。Musical of Japan Origin project、すなわち「MOJOプロジェクト」の第一弾として上演される「悲劇」。全2幕。

 弩兵みたいな扮装をした大道具スタッフさんが人力でガンガン回転させるセット(美術/松井るみ)はすごい。ちょっと危険なくらい高速な気もするけれど、スペクタクル感を演出できていることは確かだと思うので、いいはいい、とは思いました。
 また、アンサンブルもメインキャストも基本的に黒を着ている中で、イザボーだけが赤を着て、手を変え品を変えドレスをチェンジしているのも(衣裳/前田文子)素敵でした。
 音楽は複雑で、こういうミュージカルには印象的でわかりやすいワイルドホーン系の歌い上げソング大曲がひとつふたつ欲しい気がしたのでそこはもの足りなかったですが、まあバラエティもあり、単調すぎることはなかったので健闘していたかと思います。そしてキャストの歌唱力がいずれもものすごく高く、へっぽこ音響のブリリアに勝って歌詞も見事に聞かせていました。細かい歴史をゴタゴタ歌おうとなんの問題もない、というのは素晴らしい。
 照明もややうるさかったけれど(照明/関口裕二)、演出として効果は上げていたかと思いました。
 戴冠したシャルル7世(甲斐翔真)にその妻の母親ヨランダ(那須凛。これが初ミュージカルとはすごい! 今までなんでストプレオンリーだったの!?)が歴史を遡って語る構成になっているので、馴染みの薄い百年戦争の時代の物語だろうと特に問題はなく、お話は理解できました。というか王位を狙って弟だの叔父だの従兄弟だのが出張ってくるのなんて、歴史ものの韓ドラや中華ドラマやラノベあたりで観客は慣れているのではないでしょうか? なのでそんな気遣いは要りません、大丈夫。男系男子の、直系の、嫡子の、長子相続のと言ったって、確かなことは産んだ女性が誰かということしかないし、孕んだ当人ですら種がどの男かわからないこともあるんだから血筋がどうとかはちゃんちゃらおかしい、までデフォルトです。
 なので話がわからないということはない。では何が問題だったかと言えば…
 おそらく好きで観てきた宝塚歌劇のスターとやっと仕事ができるとなって、温めていた題材をぶつけて、日本初のオリジナルミュージカルとぶち上げて、キャストもスタッフもこれだけカード揃えて、それで脚本がつまらなくておもしろくなかったってことですよ。本当に残念です…
 まあ韓国くらいには売れるかもしれません。それかこのまんまの座組でソウルで日本語上演する契約だってできるかも。でもそれだけなのでは…だっておもしろくないんだもん。これでは世界に羽ばたくことは無理でしょう…
 キャラがないんですよ、だからドラマがないの。百歩譲って、男たちのキャラが薄いのはまだいいですよ? いや、フィリップは辛気くさいとかルイは色男だとかジャンは武闘派だとか、一応の設定はあるんだけれどそれは設定でしかなく、説明台詞にあるだけで、それを具体的に表現するエピソードはないので、これでは役者も演じようがないでしょう。いずれもドラマがいくらでも作れそうな濃いメンツなのに、もったいない…
 しかし彼らはともかく、タイトルロールの、主役のキャラがないのは問題です。大問題です、だいもんだけに(笑)。いや笑いごとではなく…
 バイエルン公女の物語でもあるし、これは末満版『エリザベート』だったのでしょうか? でも致命的なことに、プロローグはともかくとして「パパみたいに」から始まらないのが痛い。「私だけに」もない。このヒロインは、パパみたいに、とかジプシーのように、とか鳥のように、といった希望をまったく口にしないのです。主義も主張も語らない、だから何を考えているのかわからない、だから観客は共感も感情移入もできない。そんな主人公、駄目に決まってます。
 周りは、あるいは歴史的な評価は、「史上最悪の王妃」なんだそうです。それは何度も何度も歌われる。だからそれはわかりました。ではそれは事実なのか? はたまた別の、彼女なりの真実があったのか? それを見せてくれるものだと思うじゃないですか、でもそんなことには全然ならないのです。ただ、ああなってこうなって…と歴史的な経緯が語られるだけ。そんなのおもしろくないに決まっています。観客は歴史を学びに来たわけではないのですから。
 本編は、『エリザベート』でいう「嵐も怖くない」で始まるように見えました。ならば、狂気に陥った夫への愛を貫き、夫や息子や家族の立場や権利を守ろうとしただけの、ごく普通の女だったのである…と描くのか? あるいは、政略結婚に反発し、嫡子を産むだけの存在と見做されることに抗い、いつ暗殺されたり幽閉されたりするかわからない政争を生き抜くために、誰に何を言われようと悪女と呼ばれて嫌われようとできることはなんだってやる、死にたくない殺されたくない幸せになりたいと懸命に足掻く女…と描くのか? せめてその方向性くらい見せてほしかったです。
 でもそうしたものは何もない。なら、行き当たりばったりに生きているだけなのに、それが周りには不遜な態度に見えて、悪女だダメ王妃だと言われているだけなのだ、そんな悲しい女なのだ…と描いてくれてもいい。とにかく主人公の姿を見せてほしい、その心の声を聞かせてほしいのに、そうしたものは全然ない、だから何もわからないのでした。
「王妃イザボー」になる前の「少女イザベル」みたいなのが出てきて(大森未来衣)イザボーにわあわあ語りかけ、要するにスカーレット2みたいにしているんですけど、これも全然機能していませんでした。ならいなくてよかったのでは…イザベルは少女のころの望みを語り、イザボーが反発するようなくだりはあるのですが、じゃあイザボーはどうするのか、どうしていくのか、は描かれないのです。それじゃ意味ないじゃんねえ…
 それと、大森さんはジャンヌ・ダルクと二役なんですか? 私は二階席からノーオペラでしか観ていなかったので、識別できなかったのですが…そこに意味を持たせたかったのかもしれませんが、そもそもジャンヌは全カットでもよかったくらいではないでしょうか。二幕、長かったし…神がかった、純粋な聖少女と、放蕩の限りを尽くす、しかし人間的な生き様を見せる史上最悪の王妃、という対比を見せたかったのだとしても、何度も言いますがイザボーの生き様が全然見えないので、そんな対比も成立していないのです。
 ヨランダやヴァレンティーナ(伯鞘麗名)との共闘やシスターフッド、百合めいた空気もなくもなかったのに、ヒロインにキャラがないんだから萌えられず、これも残念でした。
 ああ、歌えて踊れて芝居もできるだいもんに、せっかくのオリジナル作品を与えて、これなんだ…もったいなさすぎます、残念すぎます。オリジナル作品のタイトルロールが来る、ということはものすごいことですが、なので出来は問わない、とは言えませんよね…
 もっとピカレスク・ロマンに徹すればよかったのでは? 最後の最後にどう評価されようとかまわない、みたいなことを歌いますが、それをハナから主張させるだけでよかったと思うんですけれど…夫も息子も義弟も叔父も従兄弟も、国家も国民も私に何もしてくれなかった、助けてくれなかった支えてくれなかった、なら自力で生き抜く、殺されたりしない、幸せになってやる、それで悪女と言われようと歴史に悪名を残そうと関係ない、私は私のためだけに生きる…!ってんで、十分だったのにねえ…いや『エリザベート』にしろと言ってるんじゃないですよ? ヒロインをもっと主体的な人物として描いたらよかったんじゃないの?というひとつの提案です。素人の提案なんぞ受け付けん、と言いたいところでしょうが、でも作者の主張が見えないんだもん、客は注文つけますよ…
 歌がすごいのでコンサートみたいなものとして捉えればおもしろい、みたいな意見も見ましたが…でもコンサートではないので駄目でしょう。海外ミュージカルでよくこういう、脚本がスカスカの舞台ってありますが、そんなところを真似しても仕方ないでしょ? 私は末満さんは『ヴェラキッカ』と『禺伝』しか知らないけれど、もっとできる人だと期待していただけに、本当に残念です…てかマジしょんぼりです……
 みんなホント上手いのになあ、空回りしているんだよなあ、絶対やりづらいんじゃないのかなあ…

 あとプログラムが高すぎます。いくら紙もインクも値上がりとしているといっても、この装丁で取っていい値段ではないでしょう。ハードカバーに箔押ししているわけでもなんでもないのに、客を舐めすぎです。グッズもいろいろ出してるんだから、そっちを高く値付けして、なんでも買うファンから金を取りなさいよ、と思います…
 頼むよナベプロ…(ToT)








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