駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

老後の資金が…あるのかな?

2021年12月30日 | 日記
 私は新卒で入った会社にずっと勤めています。来年、勤続30年だそうです。10年ごとにもらえる2週間のリフレッシュ休暇は、一度目はスペイン旅行に行き、二度目は大空さんの退団公演に通うのに使いました(笑)。三度目は去年の春に取ってニューヨーク旅行を…と計画していたのですが、この事態で中止しました。いつ取れるのかな、いつ海外に出かけられるようになるのかな…
 それはともかく、そんなわけで主に50代の社員に向けて開催されている社のライフプラン・セミナーなるものにもぼちぼち参加したい、とずっと思ってはいたのですが、去年も今年もリモート開催にもかかわらず会議やら遠征やらで参加できず、今年はやっと資料だけもらって、生保や労基にくわしい我が親友に解説してもらいました。ちなみにこのライフプラン・セミナーとは要するに、定年退職後の年金とか再就職について説明をしてくれるものです。そして我が親友は私とは別の会社にお勤めですが、それこそ出会った高校生のころから早期退職する人生プランを語っていましたし、来年春の退職をついに決め、着々と支度しているところのようです。さすがです。あ、なので?もちろん?お互い独身です。そういえば今の若い人はもう「寿退社」という言葉の意味がつかめないと聞きましたが、本当なのでしょうか。いいことでもあるようだけれど、どちらかというと結婚してもふたりとも働かないと食べていけない時代になってきているから、というせいですよね…それはちょっと、残念です。
 それはともかく、私は仕事自体は嫌いではないので定年まできっちり勤めるつもりでいましたし、今年80になった父親も来年喜寿を迎える母親も今も元気でピンピンしていて「家にただいても暇だから」という理由で週3のパートやシルバー・ボランティアみたいなのに元気に出かけている姿を見ているので、自分も呆けても困るし定年後も何かしらの仕事はしようかねえ…くらいにうっすら考えていました。が、今回の親友からのレクチャーで、いろいろと視界が開けました。これはそれを自分のアタマで整理しがてら書きつけたいだけの日記です。

 まず、弊社の定年は満61歳の誕生日の前日、なんだそうです。だから私はあと9年、というか8年半ですね。今は国民年金の受給開始年の引き上げに合わせて満65歳の定年に引き上げる企業が多いようですが、というか法律でそうするよう仕向けられている…のかな? なのでちゃんとした会社や大企業はそうなっていくのでしょう。が、弊社は知名度のわりには実は上場もしていないし社長は世襲というごく小さなワンマン会社なので、どうやら定年を引き上げる気はないようです。組合(強いんだコレが! ありがたいことですねえ)もどうやら求めていかない方向性のようですしね。私も働かなくていいなら働きたくなんかないので、これは歓迎です。
 で、定年を引き上げないなら、公的年金を受け取り出すまでの無収入期間を作らせないために再就職の斡旋をする義務が企業には課せられている…のかな? それで、弊社には似たような仕事をする関連会社がいくつかあるのですが、定年になったおじさまたちがそこへ片付いていくのはそういうことなのだな、と理解しました。けれどみんながみんなそうしているようでもないようだし、再就職もすごく狭き門なのかなあ、ならまた就活しなきゃいけないのかなあ、それはかったるいなあ…とかもうっすら感じていました。でもこれも、希望者がいれば必ずどこかに片付けなければならない義務が会社にはあるんだそうですね。つまり弊社に定年後に再就職している人があまりいないようなのは、そもそも希望者が少ないからだろう、と親友は解説してくれたのでした。つまり貯金で遊んで暮らしているか、会社の斡旋には頼らず全然違うところに再就職しているのだろう、ということです。関連会社で似たような仕事をするのにお給料は半減とはけしからん、とかかつて部下だった後輩に指図されるのがたまらん、とかの理由は、確かにありそうです。でも親友が言うには、企業年金なんかのサポートがしっかりしているから働かなくてもすむ、ということなのではないの?とのこと。それで、改めて資料の表とかを見て、よくよく考えてみたのでした。
 確かに、国民年金や厚生年金の受給は65歳から、もっと言えば私が実際にその歳になるころにはさらに開始年齢が引き上げられているかもしれないわけですが、弊社には企業年金というものがあって、これは定年退職したら75歳まで15年間きっちり出て、それ以降も7割になるものの終身出る、のだそうです。ちゃんと知らなかったよ! ありがたや! そりゃ今給料から天引かれているものが戻ってくるだけなのかもしれませんが、終身というのは心強い。というか公的年金も終身なんですね、知らなかった…なんとなくどこかで期限があって、それ以上は長生きしても何もない、とかなのかと思ってどんより心配していました。そこを自力でどうにかさせるために2000万円貯めろとか言われていたのかと思ってた…そうではなくて、一応、最低限、終身、国民の面倒を見てくれる気はあるんですねこの国。イヤそりゃこの年金システムはいつか破綻するものなのかもしれませんが、ある限りは利用したいですよねだってその分の保険料も税金も私きちんと納めてきましたもんね? そういえば母親も、もう納めた分はもらい終えた計算で、それ以上をもらっていることになる…と言っていた気がしましたが、長生きできているからこその御利益?ですし、そういう制度なんだからそれでいいんだと思うんです。当初の計算どおり子供が増えていなくて下の世代の負担が大きいとかなんとかは、政府が対処すべき問題でしょう。今の政策のままだと子供なんか増えるわきゃないとは思いますけれどね。
 まあそんなわけで、定年退職しても公的年金受給開始までの4年間がまったく無収入ではなく企業年金がそれなりに入ってきて、マンションのローンはそれこそ社内融資の返済を今お給料からしているのですが定年まで働くことできっちり完済できる計算になっているし(銀行の方のローンは購入10年後に繰り上げ返済して終えています)、となるとあとはマンションの管理費・修繕積立金、電気ガス水道NHK新聞ネット回線代などの生活費、税金や保険料は払っていかなくちゃいけないわけですが、必要な支出はそれだけと言えばそれだけなワケです。今手取りが少ないのは利率のいい会社の財形貯蓄をしていてそれも天引かれているからで、要するに私には貯金という名の小金があるのです。お金は墓場までは持って行けないのだし、定年後はこれを使っていけばいいだけなのでは? 一番若いのは今なんだから、まだまだ観劇も行きたいし外食もしたいし海外旅行だって身体がしんどくなる前にまだまだあちこち行きたいし、働いている暇なんかないんじゃね?と思い至りました。
 そもそもは、自分にはちょっとワーカホリック気味なところがあるから会社に行かなくなったらやることがなくなって呆けそう…みたいなことを心配していたのですが、部署の異動もあってここ10年くらいで私の中で働き方改革はだいぶなされました。仕事中心で夜昼ない、みたいな生活はもうしていません。だから年に150回も観劇できたりしているんだし、仕事を辞めても趣味は続くんだから、呆けてる暇なんてありませんよね。
 そしてもっと時間ができるなら、健康のためにジムに週2くらいで通ってちゃんと筋トレとかしたいし、ずっと再開したいと思っているソシアルダンスのお教室通いもちゃんとやりたい。ウォーキングもしたい、これも健康のためでもあるけれど単にわりと好きなんです。外食も好きだけど自炊もしないわけではないので、家にいることが多くなるならもっとちゃんと料理もしたい。本や漫画ももっともっと読みたい、読めていないものがたくさんありすぎます。なので図書館や漫喫にも通いたい。もし社会とのつながりとか運動のために労働を、というのなら、雇ってもらえるかどうかはともかくとして町の本屋さんで働きたいくらいです。今住んでいる町の書店がどんどんつぶれていて心当たりがないのがアレですが、チャリで行ける距離まで範囲を広げればまだあるでしょう。関連会社で今までと似たような業務に就くより、そういう仕事の方がよっぽどしたい。
 私は今でも飛行機12時間とかを苦にしない身体の頑丈さを誇っていますが(あと時差呆けをしたことがない。頑丈というより単に鈍感なんだと思います)、それでもだんだんしんどくなるんでしょうから、元気なうちにまだまだあちこち行きたいです。それこそコロナでリモート観光だのなんだのちょっと流行りましたが、やはり現地に行ってナンボじゃないですか。それはこの間の全ツ沖縄遠征で久々に旅行らしい旅行をして、いっそう感じました。再就職でもパートでも、働いてしまったら長いお休みはなかなか取りづらそうです。となるとますます働いている暇なんかないんじゃね?と考えるようになりました。
 身体が利くうちに貯金を切り崩してでもたくさん遊び歩いて、そのうちに公的年金ももらえるようになって、やがてさすがにちょっと衰えてきておとなしくなれて(笑)、支出も控えめになり、貯金がなくなっても年金だけでつましく暮らす形に落ちついていけるようになる…のではないでしょうか。イヤ理想的すぎる、甘いと言われればそれまでなのかもしれませんが、でも方向性として、指針として、アリですよね?
 そのために、40歳になったときに突然決意して終の棲家購入に走ったわけですし、一応コツコツ貯金もしてきたわけです。もちろん大病などせず、ある程度健康でいられること、が条件なのかもしれませんが、その健康のために適度な運動をするためにも、老後は働いている場合じゃない気がするのです。
 もちろん、この先親が長患いなどしたらまたお金がかかるのかもしれませんし、無事に見送るまでは油断できないのかもしれません。その後は、弟もまた結婚せず実家暮らしで働いているのですが、彼もまた定年退職して年金暮らしになり、最終的には姉弟で老老介護になるのかもしれません。実家も今の私のマンションも売って、ふたりでまたどこかに移る…というようなことも考えなければならないのかもしれない。でも高級特養ホームに入って悠々自適…みたいな贅沢プランでなければ、まあまあ健康でなるべく自力ですまそうと思えば、かかるお金ってたかがしれているというか、それこそそれを最低限フォローできるだけの金額が支給されるべきなのが年金というものなんだと思うのです。足りないなら貯金から補填するんだけれど、残す子孫がいるわけでもないし、綺麗に使い切って終わるつもりなら今の貯金額で十分なのでは…?とも考えるのです。
 実際、天引きで貯金しているからこそ口座に入る給与が少なくてクレカの引き落としでちょいちょいマイナスになることがある…というのが、今の私の残念な経済状況です。実際私は何にどれくらいお金を使っているのだ?と去年くらいから大物に関してはお小遣い帳をつけ始めたんですよね。あと、今年の分はちょうど通帳2冊でまとまったので、いろいろ計算してみました。そうしたら…まあザルに生きているとは思っていましたが、まあそらマイナスになるよなという結論でしたね。
 ちなみに今年の本代は約10万円、化粧品代は18万円でした。本は少ない方だと思います、全然読めていないし…通勤電車内で文庫本、長風呂の供にハードカバーを読んでいますが、1000円の本を100冊ってことですもんね。今の本ってもっと高いし、だからもっと読めていないんだなあ…しょぼん。化粧品については、コロナ以降ファンデーションや口紅という化粧はしなくなったので、化粧水に美容液、ナイトクリームだけですが、私は20代からSK-Ⅱ利用者なので、まあ高いよね…でもシワもシミも少ない方だと思っているので、効果があるのだと信じています。ちなみにいわゆる遠征費、つまりチケット代は別にして新幹線とか飛行機とかホテル代ですが、これは…合算してみたら本当に…高かった…驚きですよ……(笑)そして今年は観劇回数が158回(数え始めた2010年以降なんと最多となりました…何故??)でしたので、チケット代は仮に1回1万円としても…うふふ(笑)。あとは私の贅沢は鞄道楽と外食ですが、これは今年はそんなになかったはず…ただし両親にiPhoneを買ってあげるというデカい出費がありました。あとはエステの回数券とかね…ああザルだわ……
 でも、今の自分はだいたいこれくらいの出費で生きているんだ、そしてこれくらいの貯金もできているんだ、と把握できて、よかったです。給与に関しては、いつも明細の手取額だけ見て少ないなあとしょぼんとすることだけしかしてきませんでしたが、カタい財形貯蓄の天引きを設定した過去の自分を褒めたいです。あと、残業三昧の若い頃に稼いで使わなくてただ預けてあるだけの定期預金とかね…てか昔の郵貯の利率とかからするとホント笑うよね今……
 ま、今のペースで退職後の4年を遊び歩いたら企業年金があっても貯金がすぐ半減しそう、とか公的年金が出るようになってもさてどうだろう…という計算は、ざっと雑にできて一応心の支えにできたところで、この先もあまり悲観も楽観もしすぎることなく、まずは元気に楽しく健康に生きていきたいな、と思うなどした年末なのでした。
 いつも読みに来てくださるみなさま、検索でたどりついてくださったみなさま、今年も一年お世話になりました。来年も引き続きまったりよろしくお願いいたします。良き新年をお迎えくださいませ!





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『ジョルジュ』

2021年12月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 座・高円寺、2021年12月25日14時。

 ピアノの名曲の生演奏と俳優によるリーディングの「ピアノと物語」シリーズの一作。
 作/斎藤憐、演出/佐藤信。ジョルジュ/オーロール・デュパンを竹下景子、ミッシェルを植本純米、ショパン(ピアノ)が関本昌平。全2幕。

 いやー贅沢な時間でした、今年の良き観劇納めになりました。これで3500円とか破格すぎないでしょうか…シリーズのもう1本はケイ・スウィフトとヤッシャ・ハイフェッツでピアノは佐藤允彦の『アメリカン・ラプソディ』、つまりガーシュインの物語だったようです。都合がつかず残念! 年末恒例ということなら来年もまた行きたい!!
 さて、タイトルのジョルジュとはご存じジョルジュ・サンド、つまりオーロールのペンネームです。私は、彼女が人妻で男性名義で小説を書いて男装して年下のショパンと愛人関係にあった…ということを薄ぼんやり知っている程度の知識で観ました。彼女にはお子さんもいたんですねえ。
 ミッシェルというのは彼女の顧問弁護士みたいな存在のようで、彼女の離婚調停を担当したり彼女の小説の契約やら版権管理やらもしているようです。そしてボーイフレンドでもあり、けれどあるとき彼がオーロールとショパンの出会いをお膳立てして、やがてふたりが恋に落ち、フラれたミッシェルは地団駄踏みつつも彼ら双方の面倒を見続ける…というような様子が、オーロールとミッシェルの往復書簡をふたりの俳優が朗読する形で表現され、そしていいところでショパンに扮したピアニストが名曲を奏でて進行する…という趣向の舞台でした。
 作曲時期とか意図とか解釈とかが史実にのっとっているのかは謎。ミッシェルとは実在の人物なのか、こうした手紙が現存しているのかも謎。すべて劇作家の創作なのかなあ? でも、とても綺麗に嵌まって、素晴らしいストーリー展開と演奏でした。
 ただ、ショパンが夭折するところで終わる物語ですし、またピアノがあまりにも雄弁なので、このタイトルは正しいのかなあ?とはちょっと思いました。むしろオーロールが彼を呼ぶときの「ショピネ」というのをタイトルにしてもよかったのでは、と思いました。ただ、ショパンと別れ彼が亡くなってもオーロールの人生が続いていったことは確かで、彼があまり興味を抱かなかったのであろう彼女の政治的な生き様なんかも存分に描かれていた物語だったので、その意味ではやはり主人公はオーロールかなあ、とは思ったのですが…ショパンは彼女のことをジョルジュと呼んでいたのでしょうか? 謎…
 でも結局は、オーロールの小説は今でも広く読まれている…ということはなく、逆にショパンの音楽は残り今でも愛好されているので、芸術的な価値という点からすると、そういう差がついちゃったのかなあ、という気もしますね…でもオーロールの生き様は当時かなり異色で、生きづらかったろうし、でも彼女はそうとしか生きられなかったのだろうし、それは今の視点からするともっとドラマチックにそれこそ主役に描ける題材でもあるような気もするので、ここを深掘りした別の作品が生まれてもいい気もしますね。
 台本を手に、でも立ったり座ったりと芝居っ気たっぷりの朗読もチャーミングで素晴らしく、ワインや紅茶の小道具使いも粋でした。そして小学校二年生で「革命」に出会って衝撃を受けたというピアニストが、役としてショパンになりきりつつ弾く名曲の数々が、またリリカルでロマンチックでときに熱く激しく、素晴らしかったです。その上でやはり「ピアノの詩人」と言われたショパンの楽曲の良さ、素晴らしさが光る…素晴らしい舞台でした。



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『海王星』

2021年12月27日 | 観劇記/タイトルか行
 PARCO劇場、2021年12月23日18時。

 暗闇の仲、海は荒れ狂っている。半分沈没した戦艦の船底にある北海岸ホテル。嵐により船出を先延ばしにした人々が出港を待つ宿。退屈を持て余した客人たちは広間でかりそめのパーティーに興じている。その片隅で、灰上猛夫(山田裕貴)だけが頭を抱えて黙りこくっている。船会社の機関士として働いている父親(ユースケ・サンタマリア)の乗る船が昨夜の大嵐で難破した一報が届いたのだ。涙ぐむ猛夫のそばに葉山魔子(松雪泰子)が歩み寄り、優しい微笑みを投げかける。彼女は父親の婚約者だったのだが、息子となるはずの猛夫と初めて顔を合わせていた…
 作/寺山修司、演出/眞鍋卓嗣、音楽・音楽監督/志摩遼平(ドレスコーズ)。寺山修司が若き日に書いた未上演の戯曲の初演、全2幕。

 寺山修司の戯曲と言えば『毛皮のマリー』が有名かと思いますが、私は観たことがないのでこれが初・寺山舞台となりました。競馬にハマっていたころ、エッセイなんかは読んだことがあったんですけどね。
 でもこの戯曲は寺山作品としてはアングラ臭が少ないというか、わかりやすいものなんだそうです。それはちょうど『泥人魚』が唐作品にしてはわかりやすいと言われているのと同じようなものなのかもしれません。なんせアングラと言われるとお腹の出た裸のおっさんが奇声上げて血まみれで転げ回るような舞台を想像する私なので(どんなや)、少なくともストーリーがあってよかったです。これまたラブ・ストーリーでしたしね。
 音楽劇、というくくりでしたが、確かによくある普通のスタイルのミュージカルではない、かな…でもドレスコーズの楽曲のせいもあって、パンク・ミュージカルとは呼んでもいいかもな、とは思いました。いずれの歌も寺山作詞が素敵でした。てか役者がみんな歌が上手い! でも「紙の月」が「神の月」にしか聞こえない音だったのはいかがのものか…
 メインのストーリー展開に直接は絡まないような、いかにもアングラな、不思議なイメージのキャラクターたちが出てきて歌い踊り観客をなんとなく惑乱させる…というのも『泥人魚』と同じ気がしましたが、それらが醸し出す幻想性や幽玄性がこの作品を豊かにしていると思うので、楽しく観られました。
 しかし話は…というかオチが…これって途中から、そばかす(清水くるみ)が占うふたりの未来の話、ってことになっていませんでした? だからカタストロフを迎えたあと、なんらかの巻き戻しがあるのかなと思ったのですが…というか神?に扮した志摩遼平の合図でみんなは巻き戻されるような描写があったけど、メイン3人(とそこにいない父親)は止まったままでおしまい、という演出だったように思えましたが、そういうこと…? でもそれだとお話としてはオチていなくはないですか…? それともそれこそアングラにオチなんか求めるなって話なの…?
 話の進み具合の中で、オチをつけるためにヒロインが、というか女のキャラクターが殺される、というのはよくあることなので、これはそうはならなさそうでよかったな、とかは思ったのですが、でも男が死んで女が泣いて取り残されるだけで終わるならそれはほとんど同じことなので、不幸や罰を女だけに背負わせるなよ、と理不尽な気持ちになるのはやはり変わらないのでした。
 魔子は猛夫を選んでいるんだから、罰せられるべきはそれを受け入れなかった父親であり、彼は自分の命と息子を失っているのだからそれで罰を受けていることになるのかもしれませんけれど、猛夫や魔子がその巻き添えを食っている形になるのでやはり納得いきません。だからなんかちょっと、演出としてこれで終わり、そういう舞台、だとちゃんとわかりつつも「え? オチてなくない??」となった観劇だったのでした…
 まあこういう心変わりとか、死んだはずの以前の恋人が生きて戻って…みたいな三角関係の話はごまんとあって、そもそも綺麗に解決される問題ではないのかもしれませんけれど、でもだからこそどうオチをつけるか、何を描くかが物語の、創作の意義なワケじゃないですか。だからこの作品に関してはその点が私にはよくわからなかったということです。そしてそれは別に「それがアングラだ」ということではないと思うので…ううぅーむ。

 ともあれ山田裕貴はホントいい役者で歌も歌えて今回も感心しました。テレビで見て受ける印象よりずっと長身で頭が小さくスタイルのいい青年ですよね。そして松雪泰子はいったいいくつなんじゃいという可憐さと色気がたまりませんでした。こちらも歌える。そしてユースケ・サンタマリアが私は大好きなんですけれど、天然で愛すべきキャラなのかもしれないけれどちょっと困ったオヤジ像をそれはそれは素みたいなナチュラルさで演じていて、これまた感心しました。
 セット(美術/乗峯雅寛)もよかったなあ。中尾ミエの贅沢な使い方もよかったです。



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フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星[新訳版]』(ハヤカワ文庫全3巻)

2021年12月24日 | 乱読記/書名た行
 アトレイデス公爵は皇帝の命を受け、惑星アラキスに移封されることになる。過酷な砂漠の惑星アラキスは、抗老化作用を持つ香料メランジの宇宙唯一の産地である。宿敵ハルコンネン家に代わりそこを支配することは、表面的には公爵家に富と名誉を約束する。皇帝やハルコンネン男爵の罠だと知りつつ、公爵は息子ポールの未来のためにアラキスに乗り込むが…ヒューゴー、ネビュラ両受賞の壮大な未来叙事詩。

 映画化されたこととは無関係に、先に新訳版が発売されていた…のかな? その後、映画ビジュアルの広帯(というかほぼカバーと同じサイズだけれど)が巻かれて再度店頭に並んだようですね。それを秋くらいに買って、やっと読む順番が回ってきました。映画は未見。でももちろん小説自体は遠き若き日に読んだことがあります。それこそ中二くらいのころに(旧訳の刊行は72年とのこと)…巻末に膨大な用語解説があったことは今でもよく覚えていて、下巻の巻末にやっと出てきたときには「これコレ!」と大喜びしてしまいました。懐かしいなあ…
 ローカスのオールタイム・ベスト不動の1位、というのは正直よくわからないけれど、今読んでもとてもおもしろい、SFらしいSFだなあ、というのは本当に感じました。初読当時の私も、こんなふうに現代社会批判を込めて新世界が設定できるんだ、人間の新たな次元を考察していけて、その上でベタなエンタメが作れるものなんだ…ということにとてもときめいた記憶があります。
 ただ、今読むと、特にフェミニズム的視点について、というかそのなさについて、やはり限界を感じますね。どんなに進んでいるように思えても所詮は男性作家ですね(わざと言っています、あしからず)。すぐ言えるのは、なんでこんな今から何世紀も先の何光年も先の世界で一夫多妻みたいな婚姻制度で長男相続なんだ、ってことですよね。主人公の母親は公爵の愛妾、だが公爵には正妻がいないので主人公は嫡男であり正統な跡継ぎとされている、公爵夫妻は愛し合っていたが、彼女に公爵と結婚する資格がなかったのと、公爵が政略結婚を餌に皇帝や貴族たちに対して権謀術数を駆使する必要があったので彼女と結婚しなかっただけであって…みたいな、なんだそのメロドラマ設定、と「ケッ」ってなりましたよね。そして主人公もそれを繰り返す。アラキスの現地人フレメンの女と恋に落ち息子を持ち、でも息子を戦闘で失い、けれど女とは愛し合い続け、一方で皇帝の長女と政略結婚して皇位継承権を得たところでこの第一部が終わるのです。全編、このプリンセスが書いた主人公の伝記からの一説をエピグラフにする構成にしているというのに…! ホント大声で「ケーーーーッ」と言いたかったです。
 血をつなごうとすることは動物としての本能だから仕方ないんだ…と男性作家は言うのかもしれませんが(しかし言われなければそもそも気づきもしないんだろうな…)、そんなに動物としてしか生きられず本能が捨てられず理性が持てないというのなら宇宙進出なんかやめておけ、としか言えませんよね。その判断ができないのが人類の不幸ですよ…なのにメランジによる高速演算とか未来予想ができるようになる新人類、みたいな夢を描いている…はっきり言って不毛です。未来にも新世界にも婚姻制度はあってもいいでしょうが、家父長制から脱却しないのなら無意味だし、財産はともかく業務や役職や地位を子供に、しかも長男だけに引き継がせるシステムは百害あって一利なしと何故何万年もかけて学習しないのか…民主的な選挙という発明を何故生かさないの? そもそもあんたの妻の息子はあんたの子供とは限らないんだよ…? いちいちつっこむのにもう疲れました。
 あとは、こういうヒーローの孤独というか、「選ばれてあることの恍惚と不安のふたつ我にあり」みたいなことを描きたがるのも男性作家特有なのかもしれないな、と今回感じました。男は一応選ばれる可能性があるから、でも大多数は選ばれないからこそ、「選ばれたらどうしよう」みたいに悩む話が書けるんですよね。女は自分が選ばれる可能性がミリもないことを知っている。だからこそこういう男を描くときに「選ばれたら応える一択だろ」となるし、でもそれが苦しいことも、望んだわけではない場合がありえるのもわかっていて、そこにドラマを描こうとする気がします。たとえば『BANANA FISH』ってそういう物語だと私は思う。アッシュと英二の物語なんじゃなくて、あくまでアッシュが主人公の話なのではないかと私は考えているので。女性がヒーローを描くとき、その孤高は織り込み済みで、だからこそ周りとの関係性の物語を描こうとするんじゃないかなと思うのです。でも男はそうじゃないんだよね、もっと自分とヒーローを同一視してただ酔って描くんだよね…スフィル・ハワトもガーニー・ハレックもダンカン・アイダホもスティルガーも、ポールの親友にも右腕にも腹心の部下にもなれない、ならないんだもん。寒いよなー…
 もちろん女が女だけを産み教育するベネ・ゲセリットという組織というか団体というか…も描かれているんだけれど、そこにはこの男性作家の女性嫌悪というか女性恐怖を感じます。女を賢い女とそうでない女に勝手に分けていて、賢い女は恐怖しそうでない女は嫌悪している。チェイニーですら教母となるような存在として描かれていて、そうでない女はキャラクターとしてほぼ出てこない始末ですからね…女を人として認めていないのです。
 別に全部アリアに任せればいいだけのことだと思うんですよね、それで宇宙は救われるはずなんですよ。でもそうならないんでしょ? それもこれも男たちが愚かな政争と戦闘に明け暮れているからですよ…そこにはもちろん主人公ポールも含まれます。
 いくら優れたSFでも、そこからは脱却できていなかったのだなあ…ということがよくわかる、おもしろい再読となりました。
 ところで続きは新訳になっていないのかなあ? 旧版は重版され続けているのかな、もう普通の書店では買えないのかな。なかなかおもしろかった記憶もあるしなんせ物語としてはまだ序盤なので、もう少し読みたいけどな…惑星改造の話は科学的にもなかなかワクワクしますよね。ちょっと探してみたいと思います。











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こまつ座『雪やこんこん』

2021年12月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 紀伊國屋サザンシアター、2021年12月18日13時。

 時は昭和20年代の終わり、12月中旬。場所は北関東のさる湯治場にある芝居小屋、もっとくわしくはその楽屋。「元役者から元を外す、それだけの芝居」。
 作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎、美術/石井強司。1989年市原悦子主演で初演、以後主演を変えて何度か再演。20年に予定していたもののコロナ禍で稽古途中で中止となったものを、一部キャストを変えて上演。全2幕。

 12年に高畑淳子主演で観たときの感想はこちら。とにかく楽しかったことは覚えていて、今回はまとぶんが出るというので即チケットを取りました。でも、開演前にプログラムを読んでいたら、この中村梅子 (熊谷真実)ののちの姿が『化粧』の洋子なのだ、とあり、私は先日観た『化粧二題』にはなんとなく暗く嘘寒い印象を抱いていたのでアレレ…となったりしました。でも幕を開けてみたらやっぱり楽しくってよく笑い、一幕も二幕も清々しく拍手したのでした。
 二幕四場、二日間のワン・シチュエーション芝居。一座六人と、芝居小屋の女将と女中と楽屋番の都合九人の物語。今『マー姉ちゃん』の再放送を楽しく観ているので、これを一昨年に熊谷真実が芸能生活四十周年祝い、還暦祝いで演じるはずだったと聞くと、脳内の時計がバグりました。でもいい感じに身体と喉が枯れたおばちゃんを演じていて、さすがの女座長っぷりでした。そしてまとぶんの和子 (真飛聖)が本当にいいお役で、というか大きなお役で、そしてまたこのまとぶんが本当によくて似合いで上手くて、感心感動でした。
 お芝居、舞台、演劇というものが少しでも好きな人、気になる人はゼヒ、騙されたと思って観てほしい、そして綺麗に騙されてほしい(笑)。そんな作品です。大衆演劇を観たことがなくても、なんならこまつ座なんて敷居が高いと思っていても、そういうことは全然大丈夫なので観てほしい。客席の平均年齢を下げてほしい(笑)。そして笑って泣いて、ああまたこんなお芝居が観たい、こういう役者たちを応援したい、芸を愛していきたいと思ってほしい。本当によくできている、愛されるべき作品だと思いました。
 そしていつか、20年かもう少ししたら、今度はまとぶんの梅子が観たいです。こまつ座はコムちゃんや大空さんも出ているので、彼女たちでも素敵かも。というかでは今すぐにでもまず和子をやろう。そしていつか梅子をやろう。そういうロマンのある作品だと思います。
 ところでタイトルが「こんこん」なのはもちろんわざとで、童謡の本当のタイトル、歌詞は「こんこ」ですよね? でもこれもだんだん怪しくなっていっちゃうのかなあ…そこは心配、かつ残念。
 次は24年ぶりの再演となるらしい『貧乏物語』で、これも女たちの物語であるらしいので、観てみたいと思っています!
 
 



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